屋久杉

       

ヤクシカ(屋久鹿)

       

坊主岩

 

「おのれが、人の命を絶ち、そのししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首りて、犬に飼ひてん」

――「吾妻人、生贄をとどむる事」、『宇治拾遺物語』

「生きることはまことに苦しくつらい・・・
 
 世を呪い
 人を呪い
 それでも生きたい・・・」

―― 病者の長、『もののけ姫』

宮崎駿さんが脚本を担当し、
スタジオジブリが製作した、
長編アニメーション映画

『もののけ姫』

という作品があることはご存知だと思います。

この『もののけ姫』の物語のなかに、

「シシ神」

という名前の「神」が登場します。

この「神」、
すこし変わった名前だと思いませんか?

「神」であるにしては、
すこし威厳に欠ける名前のように感じられます。

これなら、猪族の長である巨猪、
「乙事主(おっことぬし)」の方が、
よほど威厳のある名前のように感じます。

この「シシ神」は、
『もののけ姫』の物語のなかで
もっとも重要な神です。

それにもかかわらず、
なぜ「シシ神」という名前が付いているのでしょうか?

今回は、このことについて、考えてみたいと思います。

「シシ」という言葉は、なにを意味している言葉なのか?

「シシ神」という名前について考えるにあたって、
まず最初に、「シシ神」という名前のなかの

「シシ」

という言葉の意味について、考えてみたいと思います。

『もののけ姫』の物語のなかには、

「シシ」

という言葉の意味を示唆するヒントが、いくつかあります。

たとえば、物語の序盤で、
謎の僧侶ジコ坊が、
アシタカと一緒に粥をすすっているときに言った、
次のセリフ。

「ほう、
 雅な椀だな

 そなたを見ていると
 古い書に伝わる古の民を思い出す

 東の果てにアカシシにまたがり石の矢じりを使う
 勇壮なる蝦夷の一族ありとな」

(ジコ坊、『もののけ姫』、開始後17分ごろ)

このジコ坊のセリフのなかの「アカシシ」というのは、
あの愛くるしい鹿のような動物、ヤックルのことです。

Alpine ibex(アルプス・アイベックス) [4]

ここでも、

「シシ」

という言葉がでてきます。

また、タタラ場の長であるエボシ御前も
ヤックルのことを「シシ」と呼んでいます。

そなたの国は?

見慣れぬシシに乗っていたな

(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後37分ごろ)

この「シシ」という言葉は、
いったいどういう意味の言葉なのでしょうか?

『広辞苑』によれば、

「しし」

という言葉には、以下のような意味があります。

しし【肉・宍獣】
にく。特に、食用の獣肉。

『広辞苑 第五版』、岩波書店)

しし【獣・猪・鹿】
(肉の意より転じて)
①けもの・野獣。特に、食肉のために捕獲する「いのしし(猪)」「かのしし(鹿)」をいう。

『広辞苑 第五版』、岩波書店)

このように、「鹿」(しか)という動物は、

「かのしし」

と呼ばれることもあります。

このことから、
ヤックルのような動物が、

「アカシシ」

と呼ばれている理由がわかります。

つまり、
ヤックルのような動物は、

赤っぽい色をした「鹿」(しし)

という意味で、

「アカシシ」

と呼ばれているのでしょう。

また、このほかの場面でも、
たとえば、猪族の長である乙事主(おっことぬし)が
次のようなセリフを言っています。

「わしの一族を見ろ

 みんな小さくバカになりつつある

 このままではわしらはただの肉として
 人間に狩られるようになるだろう」

(乙事主、『もののけ姫』、開始後1時間11分ごろ)

このセリフも、

「しし」

という言葉の意味を考えるにあたって、
参考になります。

この場面では、
乙事主(おっことぬし)は、誇り高いイノシシ族が
人間に食肉として扱われるようになることを危惧しています。

ですが、実は、さきほどご説明したように、

「しし【獣・猪・鹿】」

という言葉には、

「食肉のために捕獲する『いのしし(猪)』」

という意味があります。

つまり、

「イノシシ」

という言葉自体に、

「食用の肉」

という意味があり、
これは、誇り高いイノシシ族への侮辱でもあるわけです。

『もののけ姫』の物語のなかでは、
イノシシ族が人間との戦いに敗北するところまでしか
描かれていませんが、

おそらく、その後、
イノシシ族は、人間にとっては、もはや「敬い畏れる神」ではなく、
名実ともに「食べるための肉」として扱われていくのでしょう。

これは、つまり、
残念ながら、乙事主(おっことぬし)が危惧していたことが
現実のものになってしまった、ということです。

Potamochoerus [5]

そして、また、
もののけ達が人間との戦いに敗れてしまったということは、
イノシシ族だけの問題ではなく、
シシ神の森に棲むすべての生命が、

人間にとっての「食肉」

すなわち、

「人間の糧(かて)となるべき存在」

として、劣位に貶められることになってしまった、
ということなのです。

余談ですが、
この文章の冒頭の『宇治拾遺物語』からの引用にあった、

「肉(しし)むら」

という言葉には、次のような意味があります。

しし-むら【肉叢・臠】
肉のかたまり。また、その肉体。

『広辞苑 第五版』、岩波書店)

この言葉も、
ここまで見てきた「肉(しし)」という言葉と同系統の言葉です。

ちなみに、
「シシ」は「シシ」でも、「ライオン」を意味する

「獅子」 (しし)

という言葉は、たまたま、発音が同じだけで
上記の「肉(しし)」という言葉とは、
語源的には無関係な言葉のようです。

さて、ここまでで、

「シシ」

という言葉には、

「食肉としての獣」

というような意味があることがわかりました。

「シシ神」とは、どのような役割をし、どのような意味を持つ存在なのか?

次に、
『もののけ姫』の舞台となっている世界において、
「シシ神」がどのような存在であるのか、
ということを考えてみたいと思います。

結論から言ってしまうと、
「シシ神」は、

「自然界そのものの象徴」

です。

このことは、
「シシ神」が生と死を司る存在であることからも明らかです。

また、
「シシ神」の夜の姿である

「デイダラボッチ」

について、宮崎駿さんは次のように考えていたそうです。

宮崎さんのイメージでは
デイダラボッチは
「夜」そのもの。

「夜が歩いているように」
が発想の原点であった。

メイキング・ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』、「第2章 生命が吹き込まれた!」より

このように、
「シシ神」は、

「自然界そのものの象徴」

なのです。

乙事主(おっことぬし)や、モロの君は、
一見するとまるで「シシ神」と同列であるかのように
同じ「神」という名で呼ばれています。

ですが、
乙事主(おっことぬし)や、モロの君がいかに
数百年を生きる生命力と、深い知恵と、強大な力を
そなえた存在であるとはいえ、
「自然界そのものの象徴」である「シシ神」と比べれば、
彼らは所詮、「少々知恵をつけた大きな獣」に過ぎません。

つまり、
「自然界そのものの象徴」である「シシ神」は、
「少々知恵をつけた大きな獣」たちとは
まったく別次元の存在なのです。

また、「シシ神」は、
もののけ達と人間の争いの最大の争点であるにもかかわらず、
常にどちらの側に付くでもなく、
傍観者のように、「我関せず」といった態度で
勝手気ままに行動しているように見えます。

そして、ときに、まるで気まぐれのように、
人間であるアシタカの命を救ってみたり、
かとおもえば、
「シシ神」と「シシ神の森」を守る側である
乙事主(おっことぬし)や、モロの命を奪い去ってしまったりと、
不可解ともとれる行動をとっています。

このような行動をとる「シシ神」という存在は、
もののけ達や人間達の立場からしてみれば、
一見すると、
無慈悲で不条理な存在に見えるかもしれません。

しかし、たとえば、
空に輝く太陽は、
生き物たちがどんなに祈り、願おうと、
そんなものには見向きもせずに、
ただ、昇り、沈んでいくだけです。

これと同じように、
「自然の象徴」である「シシ神」もまた、
生き物たちの意志などとは無関係に、
ただ、あらゆるものを循環させていく、
という存在なのです。

ですから、
「シシ神」には、
感情や、個としての意志はまったくありません。

これは、
太陽や、風や、川に
感情や意志がないのと同じです。

「シシ神」という存在は、「自然界そのものの象徴」なので、
本質的に、太陽や、風や、川と同じような存在なのです。

そのため、
「シシ神」は、もののけ達にも、人間達にも
味方するようなことはないのです。

「シシ神」が、
一見、不条理で無慈悲な存在に見えるのは
このためなのです。

「シシ神」は、言ってみれば、

「応(こた)えない神」

なのです。

『もののけ姫』の映画を見た人は、
物語の終盤で、乙事主(おっことぬし)が言った
次のような悲痛な叫びが印象に残っているかもしれません。

シシ神よ出でよ!

汝が森の神なら
我が一族をよみがえらせ
人間を滅ぼせ!

(乙事主、『もののけ姫』、開始後1時間41分ごろ)

Yakushima River - 09 [6]

この場面は、
人間との戦いで瀕死の重傷を負い、
ボロボロになった乙事主(おっことぬし)が、
最後の力を振り絞って「シシ神」を呼んでいる場面です。

この乙事主(おっことぬし)のセリフにあるように、
「シシ神」が森の神なのであれば、
森と、その森の神である「シシ神」を、人間の魔の手から守ろうとしている
もののけ達に味方をするのが当然のように思えます。

それにもかかわらず、
「シシ神」は乙事主(おっことぬし)の味方をすることはなく、
それどころか、
「シシ神」と森を守るために命をかけて戦った
乙事主(おっことぬし)の命を吸い取ってしまいます。

このように、
いくらもののけ達が「シシ神」を崇めていたとしても、
もののけ達と「シシ神」は、
決して協力関係にあるわけではありません。

「シシ神」は、
相手が誰であるかに関係なく、
与えもすれば、奪いもするのです。

『もののけ姫』の物語のなかの、「3つの世界」

このようなことを考えていくと、
どうやら、『もののけ姫』の世界には、
大きく分けて、次の3つの世界があるように思えます。

その3つの世界とは、
「人間たちの世界」
「もののけ達の世界」
そして、
その2つの世界を内包する「自然界」です。

もちろん、
これらそれぞれの世界の中にも、
さらに細かい世界があり、
それらの間での対立や抗争があります。

たとえば、
「人間たちの世界」のなかには、
タタラ場の衆と、地侍たちの戦や、
お互いを利用しあっているタタラ場のエボシ御前と、師匠連との関係
などがあります。

また、
「もののけ達の世界」のなかにも
山犬族と、猩々(しょうじょう)たちとの確執や
イノシシ族と、山犬族との意見の相違、
などがあります。

このように、
ミクロな視点で見れば、
それぞれの世界の内にも、対立関係や抗争があるものの、

全体としてみれば、
『もののけ姫』の舞台となっている世界は、
さきほどお話したような、
次の3つの世界によって成り立っている、ということです。

  • 「人間たちの世界」
  • 「もののけ達の世界」
  • その2つの世界を内包する「自然界」

そして、なによりも重要なのは、
「人間たちの世界」と
「もののけ達の世界」の
2つの世界が、

「自然界」に内包されている

ということです。

そして、
「人間たちの世界」と
「もののけ達の世界」の、
2つの世界をすっぽり抱えこんでいる「自然界」の象徴が、
「シシ神」なのです。

ここまでの話で、
「シシ神」という存在が、

「自然界そのものの象徴」

であることが、お分かりいただけたと思います。

ですが、
ここでまた、疑問が生まれてきます。

どうして、「自然界そのものの象徴」である神の名称に、

「食肉としての獣」

という意味の

「シシ」

という言葉がついているのでしょうか?

なぜ、自然界の象徴である「シシ神」が、「シシ」と呼ばれているのか?

さきほど、
「シシ」という言葉についてお話したときに、

「シシ」

という言葉の意味は、
「獣」や、「獣の肉」という意味だとお話しました。

しかし、
「シシ神」は、
「シシ」という名がついてはいるものの、
「自然界そのものの象徴」であり、
獣ではありません。

「シシ神」は、
姿かたちこそ、獣の姿ですが、
その本質は「自然界そのもの」です。

そのような存在であるにもかかわらず、
「シシ神」は、獣の姿をしていて、
名前にも、獣を意味する「シシ」という言葉がついています。

この理由は、おそらく、
「シシ神」という存在が、

「人間に食い物にされる自然」

を象徴しているからだと思います。

さきほど、

「シシ」

という言葉は、

人間にとっての「食肉」

すなわち、

「人間の糧(かて)となるべき存在」

であるとお話しました。

つまり、
食肉として人間に狩られる運命にある獣たちと同様に、
「シシ神」という存在によって象徴されている

「自然界」

もまた、

「人間の糧(かて)となるべき存在」

であるということです。

『もののけ姫』の物語のなかでは、
タタラ場の人間たちが、木を切り、山を削り、
森を切り拓くという行為を繰り返しています。

そして、
そうしたタタラ場の人間の行為の象徴として、
タタラ場の首領であるエボシ御前が

「シシ神殺し」

を行います。

この

「シシ神殺し」

とは、

「森殺し」

つまり、

人間の糧(かて)とするために「自然界」を殺す

ということです。

余談ですが、
宮崎駿監督は、『もののけ姫』の物語をつくるにあたって、
古代オリエントの文学作品である

『ギルガメシュ叙事詩』

から着想を得たそうです。

Gilgamesh and cub [7]
ギルガメッシュの像

『ギルガメシュ叙事詩』の物語では、
主人公である英雄ギルガメシュと、その親友の獣人エンキドゥが、
レバノン杉の森へ行き、その森の守り神である「フンババ」と戦って、
その首を切り落とす、という場面があります。

その後、
「神殺し」を終えたギルガメシュとエンキドゥは、
レバノン杉をうち倒し、それらの木材を故郷に持ち帰ります。

(参考:(矢島文夫 訳) 『ギルガメシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1998、p72-76)

ちなみに、
森の神「フンババ」が守護していたとされるレバノン杉の森は、
かつて中近東全域に広がっていましたが、
人間による伐採により森は消失し、
現在では、ごく一部の地域にレバノン杉が散在するだけという、
絶滅の危機に瀕している状態です。

(参考:Wikipedia、「レバノンスギ」

レバノン杉(Lebanon cedar) [8]
レバノン杉

さて、
この『ギルガメシュ叙事詩』の物語中の「神殺し」の場面は、
『もののけ姫』の物語のなかにも取り入れられ、
「シシ神」がその首を奪われるという場面に活かされています。

このように、
「シシ神」は、

人間の糧(かて)とされるために殺されていく「自然界」

を比喩的に表現したキャラクターなのです。

また、
「シシ神」が、
「自然界そのものの象徴」であるにもかかわらず、獣の姿をしていて、
「シシ」という、「獣」や「獣の肉」を表す名前がついている理由は、

「人間に食い物にされる獣」

と同じように、

「人間に食い物にされる自然」

である、ということを連想したからなのでしょう。

おのれが、神の命を絶ち、そのししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん

さて、
こうして、人間の糧(かて)とするべく、
「シシ神」、つまり、「自然界」を殺した人間たちですが、
そのまま人間たちの大勝利とはいかず、
人間たちは「神殺し」の報いを受けることになります。

その結果、
師匠連の唐傘連たちや、狩人のジバシリたちなどは
次々に命を奪われてしまいます。

また、いままで散々、山を切り拓いてきたタタラ場も、
「自然界」を殺した報いとして、壊滅的な打撃を受け、
廃墟になってしまいます。

このような数々の「報い」のなかでも、
人間たちの代表として、
最も分かりやすいかたちで報いを受けたのは
「神殺し」の張本人である
エボシ御前でした。

彼女は、「神殺し」の報いとして、
頭だけになった山犬のモロに、
右腕を食いちぎられてしまいます。

余談ですが、
物語の序盤で、彼女は次のように言っていました。

「首だけになっても食らいつくのが山犬だ」

(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後48分ごろ)

また、別の場面では、
対する山犬モロが、次のように語っていました。

「私はここで朽ちていく体と森の悲鳴に耳を傾けながら
 あの女を待っている
 あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」

(モロ、『もののけ姫』、開始後1時間20分ごろ)

White Wolf [9]

そして、
エボシ御前が自ら語っていたとおり、
首だけになったモロに腕を食いちぎられてしまったエボシ御前は
次のような言葉を吐いています。

「モロめ
 首だけで動きおった」

(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後1時間54分ごろ)

ついでながら、
『もののけ姫』製作中での宮崎駿監督の構想では、
終盤でエボシ御前が死ぬ、というシナリオもあったそうです。

ですが、
ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんによれば、
最終的には、宮崎駿監督が

「やっぱり殺せないよ、エボシは」

と言ったことで、エボシ御前は死なずにすんだそうです。

(参考:メイキング・ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』より)

さて、
この文章の冒頭で引用させていただいた、
『宇治拾遺物語』のなかの「吾妻人、生贄をとどむる事」からの引用のなかに、

「おのれが、人の命を絶ち、そのししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首りて、犬に飼ひてん」

という言葉がありました。

この言葉の意味は、

「こやつめ、人の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにそっ首を斬り落として犬に食わせてやろうぞ」

という意味です。

(参考:「六 吾妻人、生贄をとどむる事」、『宇治拾遺物語』(新編 日本古典文学全集50)、小学館、1996、p.317)

この言葉は、
「自然界」を殺した報いを受けたエボシ御前の状況と
とてもよく似ていると思います。

そこで、
この「吾妻人、生贄をとどむる事」という話のなかのセリフを借りて
エボシ御前の状況を表現すると、

「おのれが、神の命を絶ち、そのししむらを食ひなどするものは、かくぞある。
おのれら、承れ。そのしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん」

といった感じになると思います。

この言葉の意味としては、

「こやつめ、神の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにその腕をちぎって犬に食わせてやろうぞ」

といった感じです。

ここで言っている、
「神の命を絶つ」というのは、
「シシ神」、すなわち、「自然界」を殺すということです。

また、「その肉を食べる」というのは、
木を切り、山を削って自然を殺し、それを人間の糧(かて)にする、
ということです。

そして、
「おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ」というのは、
もしも、自然界の声無き怒りの呻きが
人間に聞こえるのであれば、その声を聞け、
ということです。

最後に、
「腕をちぎって犬に食わせてやろう」というのは、
まさに、人間たちの代表として、
最も分かりやすいかたちで報いを受け、
山犬のモロに腕を食いちぎられた
エボシ御前のことを表しています。

人もまた、悲しく儚い存在

このように、結果として、
「シシ神殺し」、つまり、「自然界」を殺したことの報いを受けて
人間たちの世界は、壊滅的な被害を受けてしまいます。

これだけをみれば、
自然を破壊した人間が諸悪の根源であるかのように
感じてしまうかもしれません。

ですが、だからといって、

「自然を侵す人間は悪だ」

という単純で直情的な考え方は、
『もののけ姫』という物語の全編を通じて訴えられていることとは、
まったく違うと思います。

たとえば、
物語の流れ上、悪役となっていたエボシ御前は、
本当に悪人なのでしょうか?

また、
森と、そこに棲む命を奪う人間たちを、
絶対的な悪だと言い切れるでしょうか?

人は、貪欲で、度し難い存在ではあるけれども、
それでも、削り取られていく森や、殺されていくもののけ達と同じように、
人もまた、悲しく儚い存在であるということが、
この物語に登場する、ジコ坊や、タタラ場の女たち、
そして病者の長などの言葉となって、
表現されているような気がします。

「戦、行き倒れ、病に飢え
 人界は恨みを飲んで死んだ亡者でひしめいとる

 タタリというなら
 この世はタタリそのもの

 ん、うまぁい」

「里へ下りたのは間違いでした
 二人も殺めてしまった・・・」

「いや、
 おかげで拙僧は助かった

 椀を出しなさい
 まず食わねば

 人はいずれ死ぬ

 遅いか早いかだけだ」

(ジコ坊とアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後16分ごろ)

「厳しい仕事だな」

「そうさ、
 四日五晩踏み抜くんだ」

「ここの暮らしは
 つらいか?」

「そりゃさぁ・・・

 でも、
 下界にくらべりゃずっといいよ

 ねぇ?」

「うん

 お腹いっぱい食べられるし
 男がいばらないしさ」

「そうか・・・」

(タタラ場の女たちとアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後44分ごろ)

「お若い方・・・

 私も呪われた身ゆえ
 あなたの怒りや悲しみはよーく判る

 判るが
 どーかその人を殺さないでおくれ

 その人はわしらを人として扱って下さった
 たった一人の人だ

 わしらの病を恐れず
 わしの腐った肉を洗い
 布を巻いてくれた・・・

 生きることはまことに苦しくつらい・・・

 世を呪い
 人を呪い
 それでも生きたい・・・

 どうか
 愚かなワシに免じて・・・」

(病者の長、『もののけ姫』、開始後40分ごろ) [10]

この物語に登場するものたちは皆、
無慈悲で不条理な自然に抱かれながら、
誰もが、ただ懸命に生きようとしただけではないでしょうか?

 
 


脚注
  1. (屋久杉(Photo by Yosemite on Wikimedia Commons))[Back ↩]
  2. (ヤクシカ(屋久鹿)(Photo by Kabacchi on Flickr))[Back ↩]
  3. (坊主岩(Photo by Yosemite on Wikimedia Commons))[Back ↩]
  4. (Alpine ibex(アルプス・アイベックス)、Photo by Joxerra Aihartza on Wikimedia Commons)[Back ↩]
  5. (Potamochoerus、Photo by Tambako the Jaguar on Flickr)[Back ↩]
  6. (屋久島、Photo by Kabacchi on Flickr)[Back ↩]
  7. (ライオンを捕獲したギルガメシュの像(シドニー大学のキャンパーダウンキャンパスにあるギルガメッシュ像)、Photo by zayzayem on Flickr)[Back ↩]
  8. (レバノン杉(Photo by Benutzer:Mpeylo on Wikimedia Commons))[Back ↩]
  9. (White Wolf、Photo by Joe Fontana (Porcelain Monkey Studios) on Flickr)[Back ↩]
  10. (出典:アニメージュ編集部、『もののけ姫―完全版 (2) (アニメージュコミックススペシャル―フィルム・コミック)』、徳間書店、2000年、125~126ページ)[Back ↩]