「マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多く迚(とて)も手に及ばないことで、その師弟の間はおのずから公(おおやけ)なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正(まさ)しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を治療してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。」
「これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆(ほとん)ど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて『なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから』と初めて気が付きました。これでも大抵趣(おもむき)がわかりましょう。これは私一人が格段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。」
――― 福沢諭吉、『福翁自伝』
幕末の大阪に、
名医の呼び声高い緒方洪庵が主催し、
当時、日本一の医学塾であるといわれていた
「適塾」という医学塾がありました。
ちなみに、「適塾」という名前(正式名は「適々斎塾」)は、
緒方洪庵が「適々斎」と名乗っていたことに由来します。
適塾で教えられていた医学は、
当時主流であった漢方医学ではなく
蘭方医学(オランダ語を通じて日本に輸入された西洋医学)と
呼ばれる医学でした。
そして、当時の日本では、
蘭方医(蘭方医学を学んだ医者)の需要が非常に高く
適塾で学んだ優秀な蘭方医はどこへいっても非常に厚遇される存在でした。
そのため、
この適塾は青雲の志を抱いた優秀な人たちが全国から集まってくる場所でした。
適塾で学んだ人のなかには、
日本の近代兵制の創始者である大村益次郎(村田蔵六)や
あの福沢諭吉もいました。
(大村益次郎(村田蔵六)についてはこちらをご参照ください。
「『村田蔵六(大村益次郎)』とは 」)
適塾で学んだ大村益次郎や福沢諭吉は
はじめは医者であったにもかかわらず、
後にはそれぞれ、軍事の分野で才能を発揮したり、
教育の分野で才能を発揮したり、
医学とは無関係の分野でその才能を発揮しました。
これは現代のわれわれの感覚からすると、
とても不思議なことです。
たとえるなら、今日、診察してもらったお医者さんが
次にあったときには、軍隊の司令官になっていたり、
大学の総長になっていたりするようなものです。
そんなことは、現代の日本ではまず考えられません。
しかし、
実は、幕末当時の蘭方医というのは
医者であるということにとどまらず、
西洋から入ってくるさまざまな近代的な知識を身に付けた
総合的な知識人だったのです。
彼ら蘭方医が総合的な知識人になり得たのは、
西洋の知識を伝えるものである西洋の書物を読むことができたのが
当時、彼ら蘭方医だけだったからです。
当時の日本には、西洋の近代的な知識や技術を求める人々がたくさんいました。
それは、
打倒徳川幕府を掲げる討幕派の藩だけでなく、
それらと対立していた幕府や佐幕派の藩などもおなじでした。
ですが、
西洋知識の窓口が蘭方医だけだったために、
蘭方医に医学以外のさまざまな分野の知識や技術に関する
翻訳や解説をさせるようになっていきました。
そして、もともと優秀である彼ら蘭方医は、
翻訳や解説をしているうちに自然とそれらの分野の専門家になっていったのです。
こうして、
蘭方医としての語学の素養と、
時代の要請と、
彼らの優秀さ、
そしてなによりも彼ら自身の旺盛な好奇心、
これらのものが渾然一体となって、
彼ら蘭方医をして、日本史上最大といっても過言ではないほどの
巨大な総合的知識人たちを生み出したのです。
幕末の適塾と現代のマンガ文化の不思議な縁
さて、
現在の大阪の学問の府といえば、有名な大阪大学がありますが、
その大阪大学は、実はこの適塾を源流としています。
その関係もあり、大阪市中央区北浜に現存する適塾の建物は、
大阪大学が管理しています。
また、この適塾の建物は現在、
国の重要文化財に指定されています。
(大阪大学のホームページ内の適塾に関するページ)
さらに、ちなみに、
この大阪大学は、漫画家の手塚治虫が医学を学んだ場所でもあります。
適塾の流れを汲む大阪大学で学んだ医学の知識が
手塚治虫の代表作である『ブラック・ジャック』や『火の鳥』、『ブッダ』、『陽だまりの樹』
などを描くときに活かされたのです。
そして、手塚治虫のこれら数々の作品が
今日の日本のマンガ文化に与えた影響の巨大さは
計り知れません。
ちなみに、
さきほど挙げた作品のなかの『陽だまりの樹』という作品には
「手塚良庵」
という名前の蘭方医が、主人公の一人として登場します。
この人物は実在の人物で、
名前からも分かるとおり
実は、手塚治虫自身の曾祖父にあたる人なのです。
そして、この手塚良庵はなんと、
西洋の医学を学ぶために大阪に留学し
緒方洪庵の適塾に入門していたのです。
つまり、
手塚治虫は、適塾の流れを汲む大阪大学で医学を学び、
その曾祖父である手塚良庵は、その大阪大学の起源となった適塾で医学を学んでいた、
ということなのです。
ちょっとした「縁」というものを感じますね。
ちなみに、
手塚良庵は福沢諭吉と同時期に適塾で学んだ者同士だったそうです。
ですが、良庵は、大村益次郎(村田蔵六)と違って
福沢諭吉を毛嫌いするということはなかったようです(苦笑)。
さて、このような明治維新の立役者を輩出した適塾と、
日本マンガの父である手塚治虫との関連を踏まえると、
ある意味、幕末の医学塾であった適塾は、
現代の日本のマンガ文化にまで影響を与えている
ということがいえるかもしれません。
意外なところに意外な接点があるものですね。
もしかしたら、幕末の日本に大変革をもたらした若者たちが持っていた”なにか”が
大村益次郎や福沢諭吉、手塚良庵や、手塚治虫を通じて、巡りめぐって
現代の日本のマンガに受け継がれているのかもしれません。
- (適塾(photo by Reggaeman at Wikimedia Commons))[Back ↩]
- (緒方洪庵)[Back ↩]
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