香取本『大江山絵詞』における比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図_008_w3500_80p
香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図

 

物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。

―― 濱中修「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」 (*1)

寺社縁起は、むしろ文書資料以上に過去の社会と精神生活について多くの知見をはらんだ文献であろう。それは読み方に従い、一層豊かな世界を物語りうるものである。比良山に関して、特に南都と叡山の縁起はそのなかで此山の神々が重要な役割を演じている。

―― 阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」 (*2)

酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」とは、どこなのか?

ここでは、現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、「平野山」という地名と、「近江国かが山」という地名が、いったいどこの土地を指しているのか、ということについてかんがえてみたいとおもいます。また、それらの土地についてかんがえるにあたっては、香取本『大江山絵詞』の酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされている比叡山延暦寺とそれらの土地とのかかわり、という観点から話をすすめていきたいとおもいます。

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目次
  1. 酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」とは、どこなのか?
  2. 香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」が登場する場面の詞書の一節
  3. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響
    1. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされる比叡山延暦寺の記家について
  4. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの「平野山ひらのやま」とは、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんち石山いしやま石山寺いしやまでら)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんとして描かれている
    1. 参考: 『近江輿地志略おうみよちしりゃく』に記されている、白鬚神社しらひげじんじゃや、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん)についての記述
    2. 参考: 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻』に記されている、白鬚神社しらひげじんじゃや、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん)についての記述
  5. 相応和尚そうおうかしょうに仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰
  6. 平安時代の近江国の湖西地域における、北部の山門派(比叡山延暦寺)と、中部の寺門派(園城寺(三井寺))、南部の石山寺、の競立
  7. 葛川地区の森林資源、林産物、炭竃: 木材、薪炭
  8. 近江国おうみのくにかが山」が、己高山こだかみやまである可能性と、白山信仰について
    1. 条件1: 白山信仰が盛んな場所である
    2. 条件2: 最澄の領地である
    3. 条件3: 交通の要衝である
    4. 条件4: 近江国の鬼門とされる場所である
    5. 近江国おうみのくにかが山」が、伊吹山いぶきやまである可能性と、白山信仰について
    6. 近江国おうみのくにかが山」が、比良山地ひらさんち権現山ごんげんやまである可能性と、白山信仰について

香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」が登場する場面の詞書の一節

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香取本(かとりぼん)大江山絵詞(おおえやまえことば)』の絵巻のイメージ画像
(「上巻」「下巻」「詞書巻(ことばがきかん)」の三巻(絵巻の原本の現状)) (*3)

現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばという絵巻物があります。その香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばに描かれている説話のなかに、酒天童子(酒呑童子)が自らの来歴を語る場面があります。そこでは、かつて、酒天童子(酒呑童子)が、住み処すみかであった「平野山ひらのやま」を最澄に奪われ、そのあと、最澄からあたえられた移住先の「近江国かが山」(近江国かゝ山(近江国かか山))の土地からも追い出されてしまった、という話がかたられます。下記の文章は、その経緯についての、酒天童子(酒呑童子)による昔語りの一節です。

下記の文章は、香取本『大江山絵詞(おおえやまえことば)(*4)の上巻のなかの第5段の詞書(ことばがき)の文章の一部を釈文(しゃくぶん)にした文章です。赤文字や太文字や黄色の背景色などの文字装飾は、筆者によるものです。 (*5) (*6) (*7)

頼光(よりみつ)保昌(やすまさ)、同じ(ことば)に、「同じくは、亭主(ていしゅ)御出(おい)であらんこそ面白(おもしろ)(はべ)るべけれ。我等(われら)(ばか)りは(めずら)しからぬ同行(どうぎょう)(ども)にてある」と言はれければ、(しばら)くありて亭主(ていしゅ)童子(どうじ)()(きた)り。(たけ)一丈(いちじょう)(ばか)りなるが、眼居(まなこい)言柄(ことがら)(まこと)(かしこ)く、智恵(ちえ)(ぶか)げにて、色々(いろいろ)小袖(こそで)に、白き(はかま)(こう)水干(すいかん)をぞ着たりける。美しき女房(にょうぼう)(たち)四、五人に、(あるい)円座(えんざ)(あるい)脇息(きょうそく)持たせて、(あた)りも(かがや)(ばか)りに由々(ゆゆ)しくぞ見えし。童子(どうじ)頼光(よりみつ)に問ひ(もう)されけるは、「(おん)修行者(すぎょうざ)何方(いずかた)より(いか)なる(ところ)へとて御出(おい)(そうら)ひけるぞ」と問ひければ、答へられけるは、「諸国一見(いっけん)(ため)(まか)()でたるが、(すず)ろに山に()み迷ひて、(これ)まで(きた)る」(よし)をぞ答へられける。童子(どうじ)(また)我身(わがみ)有様(ありさま)を心に()けて語りけり。「(われ)(これ)、酒を深く愛する者なり。()れば、眷属等(けんぞくら)には酒天童子(しゅてんどうじ)異名(いみょう)に呼び付けられ(はべ)るなり。(いにしえ)はよな、平野山(ひらのやま)重代(じゅうだい)私領(しりょう)として(まか)り過ぎしを伝教大師(でんぎょうだいし)といひし不思議(ふしぎ)(ぼう)()の山を(てん)じ取りて、(みね)には根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建て、(ふもと)には七社(しちしゃ)霊神(れいじん)(あが)(たてまつ)らんとせられしを、年来(ねんらい)住所(すみどころ)なれば(かつ)名残(なごり)()しく覚え、(かつ)(すみか)もなかりし(こと)口惜(くちお)しさに、楠木(くすのき)(へん)じて度々(たびたび)障碍(しょうげ)をなし、(さまた)(はべ)りしかば、大師房(だいしぼう)()の木を切り、地を(たいら)げて、「()けなば」と(はべ)りし(ほど)に、()()(うち)(また)、先のよりも(だい)なる楠木(くすのき)(へん)じて(はべ)りしを、伝教房(でんぎょうぼう)不思議(ふしぎ)かなと(おも)ひて、結界(けっかい)(ふう)(たま)ひし(うえ)、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)(ほとけ)(たち)()が立つ(そま)冥加(みょうが)あらせ(たま)へ」と(もう)されしかば、心は(たけ)(おも)へども(ちから)及ばず(あら)はれ()でて、(しか)らば、居所(いどころ)を与へ(たま)へ」(うれ)(もう)せしに()て、近江国(おうみのくに)かが山、大師房(だいしぼう)(りょう)なりしを得たりしかば、(しか)らばとて()の山に住み()えてありし(ほど)に、桓武(かんむ)天皇、(また)勅使(ちょくし)を立て宣旨(せんじ)を読まれしかば、王土(おうど)にありながら、勅命(ちょくめい)さすがに(そむ)(がた)かりし(うえ)天使(てんし)(きた)りて追ひ(いだ)せしかば(ちから)無くして(また)()の山を迷ひ()でて、立ち宿(やど)るべき(すみか)もなかりし(こと)口惜(くちお)しさに、風に(たく)し雲に乗りて、(しばら)くは浮かれ(はべ)りし(ほど)に、時々(ときどき)()怨念(おんねん)(もよお)す時は、悪心(あくしん)()()て、大風(おおかぜ)()旱魃(かんばつ)()りて、国土(こくど)(あだ)()して心を(なぐさ)(はべ)りき。

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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話に、比叡山延暦寺の影響があらわれていることは、これまでに、牧野和夫さんや、菊地勇次郎さん、天野文雄さん、などの、たくさんの研究者の方々が指摘されています。それらの指摘の一部を紹介します。

 

牧野和夫さんは、つぎのように述べておられます。

酒天童子譚は、童子の経歴の独白部分に叡山開闢話がとり込まれる(菊池勇次郎氏・天野文雄氏の指摘)ばかりではなく、酒天童子譚の叙述展開そのものが叡山開闢譚(即ち、天台山開闢譚であり、金毘羅・提婆の活躍する霊鷲山釈迦説法譚)をなぞるものでもあったのである。

(牧野和夫 (1988) 「「幽王始めて是を開く」ということ : 天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」, 『実践国文学』, pp. 61-62.)

 

菊地勇次郎さんは、香取本『大江山絵詞』のなかで、酒天童子が最澄について言及する場面には「最澄への讃詞」があり、また、最澄に対する「桓武天皇の外護が強調され」、「最澄の法力が讃えられ」ている、と述べておられます(菊地, 1980, pp. 362-363)。

また、つぎのようにも述べておられます。

「大江山絵詞」の物語は、御堂入道大相国の子息の失喪から始まるが、その子息は、良源、または円仁の弟子で、法華経読誦の功徳によって、“大江山”の牢中でも、法華経の陀羅尼品に説く十二羅刹女、師の良源が修した七仏薬師法の本尊薬師如来に属し、行者を守る十二神将、それに日吉の使者猿と本地の不動の姿であらわれた早尾権現の加護をうけ、頼光たちも、若僧に変身した日吉に助けられたとし、天台の神仏に守られた最澄・頼光と眷属の鬼や変化を駆使する酒呑童子との対決として語られ、前者の勝に終る。

(菊地勇次郎 (1980) 「最澄と酒呑童子の物語」, 『伝教大師研究』, p. 363.)

これらのことから、菊地勇次郎さんは、「この物語の作者の背景に、天台教団があるのを予想するのも可能であろう」(菊地, 1980, p. 363)とされています。

 

謡曲「大江山」は、諸本のなかでも、『大江山絵詞』と同系統に属し、話の内容もよく似ています。その謡曲「大江山」のなかの酒天童子の昔語りの場面について、天野文雄さんは、つぎのように述べておられます。

この話は、酒天童子の物語ではあくまでも童子の追放譚だが、裏返しにみるなら叡山開闘説話であること論を俟たない。後代の伝本には殆んど継承されなかったものの、唯一「伊吹竜子」系の物語に、この話が趣向を変えながら息づいていることを知るならば、酒天童子と叡山・最澄との関連は思いのほか根深いものがあると思わずにはいられない。“しゅてん童子”なる鬼神的存在を解明するのに、この童子追放譚すなわち叡山開闘説話を足がかりにすることは十分な理由があるのだ。

(天野文雄 (1979) 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, p. 20.)

 

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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされる比叡山延暦寺の記家について

 

『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。

―― 末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』 (*8)

 

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の創作に影響をあたえた比叡山延暦寺の記家について

記家きけと呼ばれた、比叡山延暦寺の学僧の人たちについて。

 単純な交信よりもっと積極的に、三神中に日吉山王が入っていることが山門側の興味をそそった、と見ることもできる。説話の飛躍にあたり、記家がなんらかの関与をしたことが考えられるからである。
 記家とは比叡山の記録・故実を学問修道の対象とする一家のことで、 鎌倉末期を黄金時代とする。彼らは当時の風潮として、たんなる記録者にとどまらず、記録・故実にみな秘伝を認め、口伝を説いて相承伝承したその内容は、天台宗の顕密の教学、他学派・他宗との異同、叡山の境域・堂塔・仏神像の由来・意義、先哲・碩徳の行状、霊験・奇瑞・懲罰・災異の伝説にまで及ぶ。②に見える『和光同塵利益灌頂』は、こうした記家秘伝の最高・究極のものといわれる。
 彼らは、仏・菩薩が、日吉山王七社など垂迹の神々として比叡山に現れ、国土と衆生を守護し教化してきた歴史的事実と、現実の境内・堂舎・仏神像・教学・儀礼などの状況とを論述し意味づけることを、とくに重視した。いいかえるとそれは、比叡山で発展した神道説(日吉山王神道)の探求であり、その方法が記録の探求だった記家とはかかる「縁起」的・神話的な歴史解釈を、創造・増幅・普及し、ひいては神国思想の興隆を準備した人々のことである。

(*9)
高橋昌明
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
233~234ページ

 

下記の文章のなかの、『要略記』というのは、『山家要略記』の略称です。
また、『渓嵐集』というのは、『渓嵐拾葉集』の略称です。

 『山家要略記』は、教理的な要素をも含むが、その中心はむしろ叡山に関する伝承や記録を集大成したものと考えられる。従って、すべてが神道関係というわけではないが、神道がきわめて重要な位置を占めている。この点を考えるためには、本書や次の『渓嵐拾葉集』成立の基盤となる叡山の記家と呼ばれるグループに着目しなければならない。記家というのは叡山の記録を扱うことを主要な職務とするが、その性格については、『渓嵐集』の序を見るのが適当である。それによると、「山家記録有四分。所謂一顕、二密、三戒、四記」とあり、記録が四分されることが記されている。この四分は詳しくは、顕部・密部・戒部・記録部と呼ばれ、他の文献にも見られるところから、中世の叡山では広く認められていたことが知られる。なお、ここで注目されるのは、この四分の全体を「記録」と呼び、その中にまた「記録部」を立てていることである。すなわち、「記録」には広義の記録狭義の記録の両義があり、前者は狭義の記録の他に、顕・密・戒をも含むものである。顕・密・戒と言えば、実質的に叡山の仏教の総体であり、したがって、広義の記録は叡山の仏教全体に関わるものであったことが知られる。後にも触れるように、『渓嵐集』広義の記録全体にわたるのに対し、『要略記』狭義の記録に関する著述と見ることができる。『渓嵐集』はまた、広義の記録を顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部門にも分けている。雑記というのは、古今の美談などを集めたものである。狭義の記録の内容について、『渓嵐集』では、浄刹結界章・仏像安置章・厳神霊応章・鎮護国家章・法住方規章・禅侶修行章の六章を立てるが、このうち第三の厳神霊応章が神道に関するものである
 なお、四分の記録にはそれぞれ灌頂がある。灌頂は、言うまでもなく密教の儀礼に由来するものであるが、ここではそれが四分のそれぞれに規定されている。顕部は生智妙悟の秘決、密部は都法灌頂、戒部は鎮護授戒、記録部は和光同塵利益国土灌頂である。ここで注目されるのは、記録部の灌頂が和光同塵利益国土灌頂とされていることである「和光同塵」本地垂迹を意味するもので、したがって、狭義の記録神道を中心とするものであることは、ここからも明らかである。因みに、『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいであるその狭義の記録の中で神道が最も中心的な位置を占めるのであるから、中世天台理論において神道の持つ重要性は明らかであろう

(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) (*8) (*9)

『山家要略記』が狭義の記録を代表する文献だとすれば、それに対して、『渓嵐拾葉集』は広義の記録を総合する中世天台の百科全書とも言うべきものである。『渓嵐集』は義源の弟子に当る光宗(一二七六~一三五〇)の編集になるもので、(後略)

(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) (*10) (*9)

 

比叡山の記録故実学問修道の対象として、しかも直に、大乗菩薩の願行を満足し仏道を成ずべしとなし、また記録に即して特異の観心法門を創作し、その一々に於て、直に一心三観一念三千の妙観を成ずべしとなして、究竟する所いはゆる記録成仏を理想としたと見らるゝ記家は、古今殆どその比類なき特色をもつ仏教であつて、それは正に記録宗と名け、記家仏教と称して好い日本独特の仏教の創造であつたといはねばならぬ。然らば、斯の如き記家をして、発展独立せしめた根本のものは何であり、その基調をなすものは何であつたか。それは勿論言ふまでもなく、日本天台独特の本覚絶待思想であつて、いはゆる記家は、正にこの本覚思想を基調とする中古天台のこれを創作する所であつたかくして我等は、いはゆる声明道を独立せしめ、戒家を別立せしめ、また我が記家を独立せしめた、日本中古の偉大なる発展創作に対しては、今更ながら寧ろ驚嘆するの念に堪へぬ

(硲慈弘「中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 『日本仏教の開展とその基調 下』) (*11) (*12) (*9)

 

鋭意製作中です m(_ _)mトンテン♬(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪
このあたりは、現在、鋭意製作中です。

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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの「平野山ひらのやま」とは、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんち石山いしやま石山寺いしやまでら)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんとして描かれている

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比良明神ひらみょうじん(岩に座して釣り糸を垂れる老翁)と、良弁ろうべん僧正
『石山寺縁起』(絵巻)(一部分) (*13)

 

志賀の浦や遠ざかり行く浪まより氷りて出づる有明の月

―― 藤原家隆『新古今和歌集』 (*14) (*15)

都にも人やまつらん石山の峰に残れる秋のよのつき

―― 藤原長能『新古今和歌集』 (*16)

その特質は、それらの物語の構造の中で、国土や聖地の建立に際しての仲介者という役割に要約される。その背後には、それらの土地の根源的な支配者としての姿をうかがうことができる。この神が、新たな物語の主人公(神話における新たな神や王、縁起における仏菩薩)にその領域を譲与する経緯が、それらの物語では定型化して表現されるのである。縁起ではすなわちその存在を「地主神」という。それぞれの聖地における潜在的な根源がこの神であることを暗示している、といえよう。以上のように白鬚明神の縁起は、その表現するところは多様な展開を示しているが、その基本的な構造は変っていない。比良山と琵琶湖を中心とした世界のなかで、比良明神と連なりながら、中世における根源的な神のひとつとして、常に登場する神なのである。

―― 阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」 (*17)

物語の中でそのようなことを主張しても詮ない所業ではないかというのは近代人の発想である。例えば、先にも触れた『太平記』巻十八における叡山開闢説話は、足利将軍側近達の山門領没収の評定の場所において玄慧法印の反論として提示されているのである。中世の宗教者にとって、このような物語的〈神話〉は単なるお話であり得なかったのである。

―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 (*18)

 

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかでは、「最澄が平野山ひらのやまの地を酒天童子(酒呑童子)から奪いとって、その地に根本中堂を建てた」とされています。ここで言う「平野山ひらのやま」という地名は、おそらく、「ひらのやま」(「比良の山ひらのやま」)、つまり、現在で言うところの比良山ひらさん」(比良山地ひらさんちのことを指しているのだろうとおもます。ですが、最澄が根本中堂を建てたのは、比叡山です。

比良山地ひらさんちと、比良山地ひらさんちの南に流れる和邇川わにがわをはさんで、さらにその南にある比叡山地ひえいさんちは、近い位置にあります。ですが、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんちは、明確に区別することができる、まったく別の山地です。

  • 比良山地ひらさんち:主峰の武奈ヶ岳や、蓬莱山、打見山、白滝山、権現山、堂満岳などを含む山地。
  • 比叡山地ひえいさんち:主峰の大比叡おおひえや、四明岳しめいがたけ (*19)小比叡おびえ(別称:波母山はもやま (*20)横高山よこたかやま・釈迦岳)、水井山みずいやま (*21)、三石岳などを含む山地。

ここで、「なぜ、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばでは、最澄が根本中堂を建てた山のことを指す地名として、『比叡山』という地名ではなく、『平野山ひらのやま』という地名をつかっているのか?」という疑問が湧いてきます。結論から言うと、おそらく、この平野山ひらのやまという言葉は、比良山地ひらさんちをはじめとして、その南にある比叡山地ひえいさんちや、さらにその南にある石山いしやま石山寺いしやまでら)のあたりまでを含む一帯の山々の地域」のことだろうとおもいます。その理由は、「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々の地域」が、比良明神ひらみょうじんの信仰がある地域だからです。

このことについて、池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。

比良連山は最高峰の武奈ヶ岳でも標高一二一四メートル、数字でみると高い山ではないが琵琶湖に面した東側は湖畔まで一気に薙ぎ落ちており、麓から見上げる山容には威圧感さえ漂う。堅田のあたりから比良の麓に洽って北上すると、もともと乏しかった湖畔の平地がますます狭くなり、ついには山脚がそのまま湖面に接するところに白鬚神社がある。旧高島郡(現高島市)鵜川の地で、湖中に立つ赤い大鳥居で知られる。これが現在もっともよく知られた比良の神であろう。(中略)
この神は、奈良の東大寺建立のときには良弁僧正の前に老翁となって現われ、現在の石山寺の地を譲って如意輪観音を祀らせたといい(石山寺縁起)、最澄が比叡山に根本中堂を建てたときには老人の姿で現われて、釈尊が成道して衆生を教化したときにはすでに老齢で参詣できなかったと語ったといい(古事談)、琵琶湖が七度葦原に変じたのを見てきたほどの超老齢の翁で、仏教結界の地として釈尊に比叡山の地を譲ったとも伝える(『曾我物語』、謡曲『自髭』など)。つまり、この神は比良山だけでなく比叡山やさらに南の石山付近まで含む一帯の山々の地主神として理解され、その化現は驚くべき長寿の老翁としてイメージされていたのである

(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) (*22) (*23)

日吉山王光華_コマ番号_085_四六 翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏_翁面_cropped_001
「翁古面」(翁面おきなめん)(日吉大社所蔵) (*24)

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白鬚神社(祭神:比良明神ひらみょうじん(*25)
(滋賀県高島市鵜川)

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湖中大鳥居(白鬚神社(祭神:比良明神ひらみょうじん)) (*25)
(滋賀県高島市鵜川)

このように、「比良山地をはじめとして、その南にある比叡山や、さらにその南にある石山のあたりまでも含む一帯の山々の地域」は、比良明神ひらみょうじん地主神じぬしがみとして信仰していた地域なのです。

つまり、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける酒天童子(酒呑童子)は、比良明神ひらみょうじんと同一の存在として描かれているのだろうとおもいます。そのため、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける酒天童子(酒呑童子)は、「比叡山の地主神じぬしがみ」というよりは、より広域の、「比良山地・比叡山・石山」の一帯の地主神じぬしがみとして描かれているのだとおいます。

そのため、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばでは、「地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんの領地」という意味で、「平野山ひらのやま」という言葉をつかったのだろうとおもいます。そして、比叡山は、その「平野山ひらのやま」と呼ばれる地域のなかの一部だったのだろうとおもいます。

最澄が比良明神ひらみょうじんから比叡山の地を譲り受けたという説話があることにもあらわれているように、おそらく、天台宗の教団は、比良明神ひらみょうじんに対する信仰を、自分たちの天台宗の教団に対する信仰に置き換えていったのではないかとおもいます。

そのため、天台宗の教団は、比良明神ひらみょうじんの信仰がある地域、つまり、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を、自分たちの教団の領地であると主張したかったのではないかとおもいます。

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばで、最澄が、比叡山ではなく、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域の地主神じぬしがみである酒天童子(酒呑童子)を追い出して、根本中堂を建てた、とされている理由は、つまり、天台宗の教団が、比叡山地だけでなく、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を支配することの正統性(支配権・領有権)が、自分たちの天台宗の教団にある、ということを主張するためなのではないかとおもいます。

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*25)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*25)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*25)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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参考: 『近江輿地志略おうみよちしりゃく』に記されている、白鬚神社しらひげじんじゃや、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん)についての記述

以下は、参考情報です。

この下の引用文は、『近江輿地志略おうみよちしりゃく』に記されている、「白髭しらひげ大明神社」(白鬚神社しらひげじんじゃ)や、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん白髭明神しらひげみょうじん))についての記述です。

〔白髭大明神社〕 鵜川村打下村の間にあり。打下村は高島郡也。此社ある地は郡界也。小松より四十六町あり。祭る所の神猿田彦命也縁起曰、白髭大明神は皇孫天津彦火々瓊々杵尊降臨の時天の八衢にて天鈿女尊に逢ひ、吾はこれ猿田彦大神と名のり、伊勢狭長田の五十鈴の川上に到り垂仁天皇二十五年倭姫命に逢うて曰く、が世に出づる事、既に二百八万余歳とのたまふ。又斎内親王に謂ていふ、我寿福を人に授く故に太田神と名づくと、然して後国々を巡り此湖に来りて釣を垂る。湖の三たび変じて桑原となりしを見たりと。老翁の形を現じては白髭明神といふ山門の横川にも釣垂石あり元より社辺にも釣垂の大岩あり。承和八年叡山の法勢和邇の村をすぐる時、婦人我は比良神也と名のり。観音経を聴聞せんと願ひ給ふによつて、釈迦の出世を見給ふやと問ひしに、其時にや諸天多く西に飛びしと語り給ふ。浅井備前守長政の女、今の社を造営せり。此明神日吉の早尾、熱田の源太夫、三州男川の神同一体にして本地不動明王なり。又庚申を守ると申すも此神を祈る事なり。此神の苗斎、伊勢神宮に仕へて玉串某とてあり。〔後略〕

寒川辰清さむかわ たつきよ白髭しらひげ大明神社」, 『近江輿地志略おうみよちしりゃく』) (*26) (*27) (*28) (*9)

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参考: 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻』に記されている、白鬚神社しらひげじんじゃや、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん)についての記述

以下は、参考情報です。

この下の引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』に記されている、白鬚神社しらひげじんじゃや、比良明神ひらみょうじん白鬚明神しらひげみょうじん)についての記述です。

白鬚しらひげ神社 高島郡高島町鵜川

 比良山系の北端が琵琶湖にその断層崖を沈めるようにした白砂の汀の景勝地に鎮座し、全国的な分布をみせる白鬚(髭)社の本社とされている。『三代実録』の貞観七年几六五)正月十八日の条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」とあるが、当社の祭神猿田彦命はこの「比良神」にあたるという。
 社名の「白鬚」は一般にシラヒゲと呼ばれるが、それに異をとなえる説がある。言語学的な考証を抜きにして結論だけをいえば、「白鬚はくしゅ」は「百済ひゃくさい」であり、その百済もまた仮借字で、本義はクナルすなわち「大国」を意味するというのである。いうまでもなく、この説は白鬚神社を渡来神とみる。
 現在、白鬚神社が最も濃密に分布するのは旧武蔵国北部である。
〔中略〕
武蔵についで白鬚社の多い近江や筑前はいうまでもなく、白鬚神を客人明神とした安芸も、文献上では武蔵国同様に、渡来人の拓植した地方であったことは確かであり(中島利一郎「白鬚考」『日本地名学研究』所収)、とくに近江の白鬚神の場合には、その歴史的背景として日本海側からの大陸文化の進入ルートが考えられるかにみえる(景山春樹『近江文化財散歩』)。
 一方、白鬚神の前身が比良神(比良山の神)であったことを示唆する伝承が古くからある。それは十世紀末から十一世紀初めにかけて、『三宝絵』『東大寺要録』『今昔物語集』などを経てしだいに形成された東大寺縁起とでもいうべきものにもとづく伝承と思われる。保延六年(一一四〇)の『七大寺巡礼私記』古老伝からの引用と思われる十四世紀の虎関師練こかんしれんの『元亨げんこう釈書』寺像志に、次のような説話が載っている。
 聖武天皇は東大寺大仏の鍍金川の黄金を集めたが、所要の量に不足した。そのおり大和の金峰山きんぶせんが全山黄金であると伝え聞いた天皇は、ただちに僧良弁ろうべんに命じ、金剛蔵王ざおうに採掘について祈らせた。すると、「この山の黄金を勝手にしてはならないが、別の方法を知らせよう。近江湖南の勢多県せたのあがた(現大津市瀬田付近)にある山は、如意輪観世音の霊地である。そこへ行って念ずれば、かならず黄金が得られよう」との夢のお告げがあった。そこで良弁が急いで勢多県へおもむくと、一人の老翁が大岩の上に坐っていて、大川(瀬田川)に釣糸を垂れていた。不審に思って尋ねると、老翁は「自分はこの背に続く山々の地主の比良明神である。そしてここは観世音の霊地である」と言い、またたくうちにかき消えた。良弁はさっそくその大岩の上にいおりを建て、そこに観世音の像を安置した。今の石山寺の起こりである。そして絶え間なく読経を続けると、やがて陸奥みちのくからはじめて黄金が出たとの知らせがあったという。
 この話は『元亨釈書』と同じころの『石山寺縁起絵巻』の一場面にもあってよく知られていた。しかしここで注意したいのは、この老翁が比良明神と名乗っていることである。さきの『三代実録』の比良神の記事が想起されるが、人々に比良神を白鬚神に結びつけさせたのは、あるいはその示現のイメージでなかったかと思われる(阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」『比良山系における山岳宗教調査報告書』所収)。
 比良明神が白鬚明神と称されるようになった年代は、少なくとも鎌倉時代にさかのぼるといってよい。すなわち当社は、弘安三年(一二八〇)の原図にもとづいて応永二年(一三九五)前後に描かれた「比良荘堺相論絵図」に「白ヒゲ大明神」とあるのを初見として、『山家略記』の「日吉山王霊応記第三」や『太平記』巻十八「比叡山開闢の事」、『曾我物語』の「比叡山始まりの事」などに、比叡山、比良山、志賀浦の地主神として載っている。
 琵琶湖を中心とした近江の各地には、老翁(老いたる神)が姿を表わす物語が点在する。たとえば甲賀郡水口在大岡寺の甲賀三郎譚で知られた『神道集』の「諏訪縁起」、蒲生郡奥島の大島奥津島神社の縁起「大島鎮座記」などがそれである。さらに大和国の長谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』中巻には、長谷観音の御依木となるべき仏木を運ぶ場面がみられるが、それを守護する「三尾みお明神」が老翁の姿で描かれている。同じ場面は白鬚神社にほど近い高島町大字音羽の長谷寺の「白蓮山長谷寺縁起」にもみられる。
〔中略〕
 こうして東大寺縁起、石山寺縁起、比叡山縁起、長谷寺縁起などを並べてみると、比良明神、三尾明神、白鬚明神と名を異にしてはいるものの、その主体は一つであることが知られる。また当社の祭神が猿田彦命とされたのは、この地方に流布した『三尾大明神本土記』(水尾神社の項参照)の次の記述と関係があろう。すなわち、「昔、猿田彦命は長田おさだに住まわれたので、長田士君おさだおのきみとも呼ばれていた。瓊々杵ににぎ尊が日本の国を巡狩されたとき、比良山の北によろい崎・吹卸ふきおろし崎・かな崎の三つの尾崎があって通行の妨げとなっていた。猿田彦命はそれを押し崩した手柄によって三尾大明神の名を賜わったので、住まいする所を三尾郷みおのさとと呼ぶようになった」とあり、また「猿田彦命はその後伊勢国の狭長田さおさだの里に八万年も永らえたが、垂仁天皇の御代、この本土の三尾郷へ帰って来て、洞穴の内に入ってついに神になったといわれている」とある。これは当社が水尾神社と深い関係をもつことを示すもので、さきの白蓮山長谷寺の縁起などとも密接な結びつきがあるように思われる。

 現在、当社の社前の湖中に朱塗の大鳥居が建っている。以前はさきの「比良荘堺相論絵図」にみるように陸上にあったが、かつて琵琶湖が増漲し、それ以来水中にあるという。『江源武鑑』も永禄六年(一五六三)九月十九日の条に「白鬚大明神、前湖壱丁汀石ノ鳥居ヲ顕ス、同廿四日失スト」などと記している。
 本殿は棟札によると慶長八年(一六〇三)豊臣秀頼の造立に成り、方三間・入母屋造・檜皮葺で、桃山時代の建築様式をよく伝えるものとして昭和十三年に国宝(現重文)の指定を受けた。背後の山頂に巨岩の磐座があり、その周囲に古墳群がある。社殿の右の山林には横穴式石室が一つあって整備保存されている。
〔中略〕
 ちなみに、中世の当地は山門(延暦寺)と六角氏の勢力の影響を強く受けたところであり、次の伝承などもそうした歴史的背景の推移を物語るものである。
 鵜川地先に流れる小川は俗にウコウガワ(おそらく鵜飼川の意)と呼ばれ、かつては土地の漁師が供祭人として白鬚神社に鵜遣いをもって川魚の献進を行なったが、中古山門から殺生禁断の制が出て廃絶したという。

(橋本鉄男「白鬚神社」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』) (*29) (*9)

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相応和尚そうおうかしょうに仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰

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建立大師こんりゅうだいし相応和尚そうおうかしょう御像
相応和尚そうおうかしょう略伝 : 北嶺行門始祖』 (*30)

比良山地の地主神じぬしがみについては、ほかにも、天台宗の僧侶が、比良山地の地主神じぬしがみから比良山地の土地を譲り受けたとする説話があります。

相応和尚そうおうかしょうは、天台宗の僧侶であり、無動寺の開基であり、天台修験・比叡山回峰行の祖とされる人物です。相応にまつわる説話のなかには、「相応が、比良山地の地主神じぬしがみである思古渕明神しこぶちみょうじんから、葛川の地(比良山地の西側の地域)を譲り受けた」とする説話があります。この説話の背後にあるのは、天台宗の教団が、相応和尚そうおうかしょうに仮託して、比良山地の地主神じぬしがみである思古渕明神しこぶちみょうじんを信仰する人々の領地と信仰を奪い取った、ということなのかもしれません。

村山修一さんは、つぎのように述べておられます。下記の文章では、地主神じぬしがみが、比良明神ひらみょうじんではなく、思古渕明神しこぶちみょうじんとなっていますが、どちらも、比良山地の地主神じぬしがみであることはおなじです。ですので、「天台宗の教団が、比良山地の地主神じぬしがみの領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ということは、「天台宗の教団が、比叡山の地主神じぬしがみ(酒天童子(酒呑童子))の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ことと、おなじです。

 相応は二十九歳にして生身の不動明王を拝せんがため、けわしい比良山西斜面の山道を北進し、遂に一清滝を発見し、ここを修行場と定めた。
(中略)
相応の到達した清滝はいまの安曇川畔坊村で、この川に合流する明王川の上手、比良山系から流れ下るところに生じた一つの滝と考えられ、主峯武奈嶽の直下に近く、極めて急斜面の地形をなしている。
 相応は滝の前の石の上で、七日間明王を念じていた。そこへ一老翁があらわれ、対座して動かず、八日日に何人かと問うと、向うはお前は何のためここに来たのかと応酬し、相応は生身不動明王を拝む目的で修行していると答えると老人は感歎し、ここには十九の清滝と七つの清流があり、周囲、東は比良峯、南は花折峠、西は駈籠谷・鎌鞍峯、北は右渕瀬を境とする別領をなし、誰も入ったことがない。あなたは不動明王の後身であるから別領を進ぜよう。この滝は十九のうちの第三の清滝で、兜卒内院に通じ葛川滝という。今後修行者を守り、弥勒下生の暁まで仏法を守り続けることを誓おう、われは思古渕大明神であると言い終って姿を消した。
相応はこれは明王か魔王の変化かと疑いつつ、合掌析念を止めないでいると、遂に滝の内に明王の姿を見た。たちまち滝に飛び込んで抱き上げ、石上に置いて拝んでみるとただの樹木であった。よってこの樹木を以て不動明王を彫刻し比叡山無動寺に持ち帰り本尊としてまつった
(中略)
ここで葛川の支配地を相応に譲ると託宣した思古渕明神について説明しよう。志古渕.信興渕等とも書き、葛川はじめ安曇川流域全体に今日もまつられている民俗神であり、その信仰は恐らく平安朝以前に溯るであろう
(中略)
けだし思古渕明神は水神であるとともに地神でもあり、太古以来住民達の生活を支える精神的基盤であったにちがいない。ゆえに神が相応に土地を譲る託宣をした話は、相応が葛川の行場開拓について土地の住民との折衝を暗示し、裏に多少住民の抵抗が秘められていたことも想像される。それは高野山開発の際の空海に対する丹生明神(これをまつる丹生氏)の抵抗ほどのことはなかったにせよ、相応以後の天台の支配は、思古渕信仰に象徴される村民の山林所有権を、不動明王信仰で示される天台の領主側が奪い取るねらいをもったものとしても解釈されよう。明王院には創立の頃鎮守社が営まれ、いまそれは地主神社として安土桃山期の本殿や中世の神像が遺っているが、そこでは延暦寺の鎮守である日吉社の神が勧請され、配祀の神として賀茂・平野・松尾・三輪・鹿島・江文の諸神とともに思古渕明神もまつられ、日吉大明神の眷属神的地位に下げられてしまった

(村山修一『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』218~219ページ) (*23)

 

また、佐藤弘夫さんは、『霊場の思想』のなかで、つぎのように述べておられます。

下記で述べられている、中世の寺院がおこなった「寺領荘園の拡大」のやりかたは、天台宗の教団が、相応和尚そうおうかしょうという「聖人」の説話をつくりだし、その「聖人」に仮託して、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰を、自分たちの領地と信仰にすり替えていったやりかたと、おなじなのだろうとおもいます。

中世成立期の寺院が重視したのが、寺の所有する土地(寺領荘園)の拡大である。寺院はみずからへの土地の寄進が、極楽往生へとつながる善行であることを積極的に宣伝した。廟所にいる聖人たちは彼岸への案内人であるとともに、集積された寺領に対する侵犯を監視する役割を負った。彼らは「賞罰」=アメとムチを使い分けることによって、この世の悪人を悟りの世界に導く存在とされていたがゆえに、仏敵への治罰は本来の役割となんら矛盾するものではなかったのである。
 官寺としての古代寺院からの脱却をめざした諸寺院は、積極的に地方にも教線を拡大した。それは地方では廃れていた古い寺院の再興という形態をとった。その役割を担ったのが「ひじり」とよばれる一群の行者たちだった。
 彼らは各地を巡って目ぼしい寺院を再興するとともに、中央から持ち込んだ最新の土木技術を用いて周辺の土地を開発し、囲い込んでその寺の経済的な基盤とした開発され買得された土地には、所有のシンボルとして要所要所に堂舎が立てられ、神々が勧請かんじょうされた。そのうえで、寺と寺領全体の監視者として奥の院に聖人を祀った

(佐藤弘夫「聖の活動」, 『霊場の思想』) (*31) (*23)

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平安時代の近江国の湖西地域における、北部の山門派(比叡山延暦寺)と、中部の寺門派(園城寺(三井寺))、南部の石山寺、の競立

近江国の湖西地域における、北部の山門派(比叡山延暦寺)と、中部の寺門派(園城寺(三井寺))、南部の石山寺、の競立

平安時代には大津市域のなかでも、北部の山門さんもん(延暦寺)に対して、中部の寺門じもん(園城寺おんじょうじ)、そして南部の石山寺いしやまでらといった競立がみられるようになるが、北部地域では坂本・下坂本が、延暦寺日吉社を中心に都市的発展を示した。そこに山門を本所ほんじょとして土倉どそうが立ち並び、主として北陸道の物資を揚陸する港湾として、著しい経済的発展を示していた。とくに院政の開かれるころから、日吉社は皇室・貴族の崇敬を得た結果、京都との往来も多かったので、いきおい坂本交通・運輸・問丸といまるとも関連して知られるようになった。坂本といえば馬借ばしゃくといい、馬借とは商人という連想が生まれたくらいである。信仰の上でも後白河院ごしらかわいんのときに、京都には新日吉社(今比叡)が上皇じょうこう御所法住寺ほうじゅうじ殿の東北に営まれて、日吉信仰を代行するに至ったくらいである。南北朝戦乱期には、後醍醐ごだいご天皇が京都の難を避けて坂本に行幸ぎょうこうしている。

(林屋辰三郎「北部地域の歴史的位置」, 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) (*32) (*9)

 

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『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』

下記の情報は、『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』の本の巻末のところの、奥付の前に記載されている、(編集者さんたちと、)執筆分担者さんたちと、その執筆担当箇所の一覧表です。

IMG_20200128_115049★ 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』1984年,林屋辰三郎,飛鳥井雅道,森谷尅久(編集),大津市
[編集者と執筆分担者の一覧表]
『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』

編集
林屋辰三郎
飛鳥井雅道
森谷尅久

執筆分坦

総説
北部地域の歴史的位置(林屋辰三郎)
北部地城の地理的性格(足利健亮)

葛川
葛川の歴史(森谷尅久)
文献(井上満郎・下坂守・樋爪修・千本秀樹)
民俗(木村至宏・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)

伊香立
伊香立の歴史(森谷尅久)
文献(吉村亨・杉江進・辻ミチ子)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈維)

真野
真野の歴史(飛鳥井雅道)
文献(吉村亨・衫江進・千本秀樹)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)

堅田
堅田の歴史(森谷尅久)
文献(川嶋将生・鎌田道隆・佐々木克)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂樹・木村至宏・西川丈雄)

仰木
仰木の歴史(飛鳥井雅道)
文献(芝野康之・立川洋・辻ミチ子)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)

雄琴
雄琴の歴史(飛鳥井雅道)
文献(芝野康之・杉江進 千本秀樹)
民俗(小栗栖建治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 木村至宏・西川丈雄)

坂本
坂本の歴史(森谷尅久)
文献(井上満郎・下坂守・高島幸次・羽賀祥二・辻ミチ子)
民俗(木村至宏・小栗栖健治, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂樹・木村至宏・西川丈雄)

下阪本
下阪本の歴史(飛鳥井雅道)
文献(井上満郎・下坂守・高島幸次・羽賀祥二)
民俗(木村至宏・小島成元, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂機・木村至宏・西川丈雄)

([編集者と執筆分担者の一覧表], 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) (*33)

 

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葛川地区の森林資源、林産物、炭竃: 木材、薪炭

葛川地区の森林資源、林産物、炭竃: 木材、薪炭

 山間の葛川地区もまた、相応和尚以来の明王院が、京都の人々に深い帰依きえをうけ、『梁塵秘抄りょうじんひしょう』にも「葛川へ参る道」が模索されたが、室町時代には途中・花折峠を越えて足利義満あしかがよしみつ・同義尚よしひさ日野富子ひのとみこらの参籠さんろうがあった。この地区と伊香立地区との境相(争)論はとくに著名だが、その他周辺の庄々とも争いが絶えなかった。その背景としては、葛川地区木材とともに炭竃が多く営まれ、薪炭しんたんの生産されたことが魅力として考えられる

(林屋辰三郎「北部地域の歴史的位置」, 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) (*34) (*9)

 

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近江国おうみのくにかが山」が、己高山こだかみやまである可能性と、白山信仰について

香取本『大江山絵詞』における比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図_005_w500_60p
香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図

 

あなうめに人もうらみしこたかみのみねより奥にいほりむすばむ

―― 『松葉古今集』

 

現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばには、「近江国おうみのくにかが山」という謎の山が登場します。この山は、最澄の所有地であったとされ、比叡山を追い出された酒天童子が、移住先の土地を与えてくれるように最澄に求めたことで、酒天童子に与えられた土地です。

ぼくは、この「近江国おうみのくにかが山」というのは、己高山こだかみやまのことではないかと思います。おそらく、「近江国おうみのくににある白山信仰の盛んな山」(己高山こだかみやま)を、「加賀国の白山(はくさん)」(かが山)に見立てて、「近江国おうみのくにかが山」と呼んだのではないかと思います。

「かが」(加賀国(現在の石川県南部))にある山のなかで、代表的な山といえば白山です。ですので、「かが山」というのは、白山のことを指しているのだろうと思います。白山信仰は、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの成立に深く関わったとされている天台宗や天台修験と深い関係があります。その関係で、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばのなかに、天台宗ゆかりの白山に見立てられていた山(白山信仰の盛んな山)が登場するのでしょう。

 『己高山縁起』によれば、己高山こだかみやまは、加賀の白山を開山したとされる泰澄が寺院を開いた場所とされていて、白山信仰が盛んな地域だったようです。また、日本天台宗の開祖である最澄は、己高山こだかみやまで修行していたときに、「白山の白翁」と名乗る神と出会い、己高山こだかみやまの所有権を譲り受けて、この地域一帯の寺社を再興したとされています。このように、己高山こだかみやまは、天台宗とも関わりがある場所です。

また、己高山こだかみやま近江国おうみのくにの鬼門であるとされています。つまり、京の都の鬼門である比叡山から追い出された酒天童子が、その次にあてがわれた移住先が、近江国おうみのくにの鬼門である己高山こだかみやまであった、ということです。酒天童子の移住の流れを、「鬼門から鬼門への移動」という流れであると解釈すれば、酒天童子の移住先の「近江国おうみのくにかが山」は、近江国おうみのくにの鬼門である己高山こだかみやまである、ということになるだろうと思います。

 

高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばのなかに登場する「近江国おうみのくにかが山」という言葉を、「近江加賀山」と表記されています。これはつまり、高橋昌明さんは、「近江国おうみのくにかが山」という言葉のなかの「かが山」という言葉は「加賀山」のことを意味していると考えておられる、ということなのだろうとおもいます。

(参考)
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
高橋昌明
2005年
100ページ

 

 湖北地域は仏教美術の宝庫で、特に木之本町から高月町にかけては「観音の里」と呼ばれている。それらの仏像を育んだ背景の一つが、己高山こだかみやま山林修行である。
 
文献史料から見る己高山
 
 己高山は滋賀県木之本町にある山で、標高九二三メートル。その歴史を語るうえで欠かせないのが、『己高山縁起』與福寺官務牒疏こうふくじかんむちょうそである。
 木之本町・鶏足寺けいそくじの所蔵する『己高山縁起』(滋賀県指定文化財、図版26)は、甲乙二巻からなり、「當山草創事」から「学頭坊事」まで一二条にわたって己高山の歴史を記している。応永十四年(一四〇七)に「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全によって編纂された
 「當山草創事」によれば、古老の言い伝えでは、己高山は近江国の鬼門で、古仙練行の秘窟であった。行基が勝地としてこの峰を選び、伽藍を草創して仏像を彫刻し、泰澄が聖跡としてこの山を崇め、峰に入って行門を建立したという。
 また、「當山再興事」には、最澄再興の話を載せる。最澄が己高山南麓の高尾の草堂で修行中に、仏閣の礎石跡で十一面観音の頭部を発見した。すると白山白翁が現れて、二〇〇年前に仏閣を建てたが焼失してしまい、復興してくれる人が来るのを待っていたという。最澄は、霊木を御衣木加持みそぎかじして、その仏頭に続く胴体部を自ら彫刻した。そして白山白翁の指示を受け、己高山の鎮守として十所権現じゅっしょごんげんを勧請したという。これが現在、鶏足寺に伝わる木造十所権現像である(滋賀県指定文化財、図版27)。
 一方の『興福寺官務牒疏』(図版25)は、嘉吉元年(一四四一)の成立である。これは、中世における奈良興福寺の末寺を記録したもので、興福寺の勢力を誇示する目的で編纂されたため、一般に内容の信憑性には疑問が持たれている。しかし、個々の寺院の当時の規模や資財記録には参考にすべき点があり、中世の湖北の寺院の様相を知るうえで貴重な史料となっている。
 ここでは「己高山五箇寺」と記載され、己高山が法華寺、石道寺しゃくどうじ、観音寺、高尾寺、安楽寺の五か寺と、別院で構成されていたことが知られる。なかでも山頂にあった観音寺が己高山随一で、別院を六か寺もっていたという。これらの寺院の開基には、行基や泰澄の関与が記されている。また、現在石道寺に安置されている十一面観音立像(滋賀県指定文化財、図版28)は、寺伝では高尾寺のものであったとされる。

(秀平文忠「文献史料から見る己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) (*35) (*9)

28 十一面観音立像 滋賀県木之本町 石道寺蔵
(中略)
 右頁の十一面観音立像は寺伝では、己高山五箇寺のうちのひとつ、高尾寺の本尊であったという。
 石道寺では、11世紀頃成立と考えられる本尊十一面観音立像(重要文化財)が著名だが、本像は本尊と同じくケヤキ材製の一木造で、内刳を施さない。像高107.3。滋賀県指定文化財。
 端正な面持ちと、整理された衣文線、小像ながら重量感を残しつつ、明確な括れをもったプロポーションなどの特徴は、正暦4年(993)頃の作とされる滋賀県湖南市の天台寺院・善水寺の諸像と近しい。本尊にさかのばる10世紀末頃の作と考えられ、この頃石道寺を含めた己高山周辺にも天台系仏師の関与が想定される

(秀平文忠「山林修行と観音の山:己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) (*36) (*9)

 

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条件1: 白山信仰が盛んな場所である

 

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条件2: 最澄の領地である

 

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条件3: 交通の要衝である

 

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条件4: 近江国の鬼門とされる場所である

 

【聖之記】曰く、相輪橖を拝見するに、此塔婆、常の塔にはかはりたり。是は天竺の霊鷲山、漢土の天台、我朝には此山、三国倶に一基づゝならではなき塔婆なり。是三国ともに法花一乗の説法の砌ならではなき塔婆也云々と。

―― 寒川辰清「滋賀郡第二十(延暦寺)」, 『近江輿地志略』 (*37) (*27) (*28)

 

『己高山縁起』は、古老の言い伝えでは、己高山(こだかみやま)は近江国の鬼門であるとされている、としています(秀平, 2005, p. 52)。「鬼門であること」(北東の方角に位置すること)は、「近江国(おうみのくに)かが山(やま)」の候補地としての必須条件ではありません。ですが、「近江国(おうみのくに)かが山(やま)」を、己高山(近江国の鬼門)だと仮定すると、酒天童子の移住の流れが、「鬼門から鬼門への移動」という流れになります。つまり、京都の鬼門である比叡山から追い出された酒天童子が、その次にあてがわれた移住先が、近江国の鬼門である己高山であった、ということです。
牧野和夫さんは、「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」という論文のなかで、中世の天台教団によってつくられた叡山開闢譚のひとつとして、「白猿が、インドの霊鷲山の艮(うしとら)の角(かど)をともなって、中国の天台山へ飛来し、そこからさらに、天台山の艮(うしとら)の角(かど)をともなって、日本の比叡山に飛来した」というような主旨の説話があることを紹介されています(牧野, 1990, p. 82-84)。この「艮(うしとら)の角(かど)」という記述は、鬼門(北東の方角)の概念との関連をかんじさせます。また、この、霊鷲山から天台山へ、天台山から比叡山へ、という飛来の流れ(仏法(天台宗)の領地拡大の流れ)を、地図上で確認すると、それらの移動の方向は、おおまかに言って、どちらも北東の方角への移動だといえるのではないかとおもいます。さらに、ここで、天台教団の領地が、比叡山から己高山へと拡大したことによって、酒天童子が比叡山から追いやられて、己高山へ移住することになったと仮定してみます。すると、比叡山から己高山への移動も、北東の方角への移動になります。このようにかんがえると、酒天童子が、比叡山を追い出されて移住した先の土地が、比叡山の北東の方角にある己高山であることに、必然性がでてくるのではないかとおもいます。天台教団は、このように、霊鷲山から天台山(鬼門(北東の方角))へ、天台山から比叡山(鬼門(北東の方角))へ、という仏法(天台宗)の領地拡大の流れを踏襲することで、比叡山から己高山(鬼門(北東の方角))へ、という天台教団の領地拡大の流れには必然性がある、ということを主張しようとしたのかもしれません。
このようにかんがえると、酒天童子の移住先の「近江国(おうみのくに)かが山(やま)」は、近江国の鬼門である己高山(こだかみやま)である可能性がある、ということが言えるのではないかとおもいます。

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近江国おうみのくにかが山」が、伊吹山いぶきやまである可能性と、白山信仰について

 

伊香郡己高山鶏足寺は、伊吹修験道の末寺
48ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)

己高山縁起によれば、「入峰事」として、
(中略)
とあり、伊吹修験道の末寺である伊香郡の己高山修験が、伊吹山大乗峰と共に北陸の白山へ入峰しており、本寺である伊吹修験道においても、当然、白山入峰を行なっていたであろうことが類推できる。

(*9)
53~56ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)

 

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近江国おうみのくにかが山」が、比良山地ひらさんち権現山ごんげんやまである可能性と、白山信仰について

水分みくまり神社 滋賀郡志賀町栗原
 
 祭神は玉依姫命。近世には龍王明神社八大龍王と呼ばれていた。(中略)『栗原村万覚帳』では、八大龍王明神十一面観音白山権現峯権現)は十一面観音となっている。(中略)峯権現は本殿左方の小祠に祀られ、現在は峯大神社と称している。これは比良山系南部の権現山(九九六メートル)の頂上に祀られる小祠(峯権現)の里宮であり、山頂の小祠を村人は「権現さん」と称している。
(中略)
 権現山から琵琶湖側に開けた荘園を和邇わに庄という。
(中略)
 権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰きせん川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
 また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。

(小栗栖健治「水分神社」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) (*38) (*9)

 

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脚注
  1. 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学, 59ページ. [↩ Back]
  2. 出典:阿部泰郎 (1980年) 「一節 比良明神: 東大寺縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 37ページ. [↩ Back]
  3. この「香取本(かとりぼん)大江山絵詞(おおえやまえことば)』の絵巻のイメージ画像(「上巻」「下巻」「詞書巻(ことばがきかん)」の三巻(絵巻の原本の現状))」の画像は、『続日本絵巻大成 19 (土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞)』の147ページに掲載されている「大江山絵詞 現装」の写真の挿絵をもとに筆者(倉田幸暢)が制作したものです。)[↩ Back]
  4. 注釈:香取本『大江山絵詞(おおえやまえことば)』(現在は、逸翁美術館に所蔵されています。)[↩ Back]
  5. 参考文献:(1993年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本の絵巻 26』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [↩ Back]
  6. 参考文献: (1984年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本絵巻大成 19』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [↩ Back]
  7. 参考文献: (1975年) 「大江山酒天童子(逸翁美術館蔵古絵巻)」, 横山重(編者), 松本隆信(編者), 『室町時代物語大成 第3』, 角川書店. [↩ Back]
  8. 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 7~8ページ. [↩ Back][↩ Back]
  9. 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  10. 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 9ページ. [↩ Back]
  11. 出典:硲慈弘 (1972年) 「(5) 結語」, 「二、中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 「六、慧檀両流に於ける実際信仰」, 『日本仏教の開展とその基調 下 (中古日本天台の研究)』, 5版, 三省堂, 265ページ. [↩ Back]
  12. 注記:引用者が、引用文中の旧字体の文字を新字体の文字に変更しました。 [↩ Back]
  13. 画像の出典:[良弁と比良明神], 石山寺縁起. [1], 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  14. 出典:藤原家隆『新古今和歌集』. [↩ Back]
  15. 参考: 「しがのうら【滋賀浦・志賀浦】 滋賀県大津市の琵琶湖南西岸の地。⦅歌枕⦆ 「 -や遠ざかり行く浪まより氷りて出づる有明の月/新古今 冬」」, 「大辞林 第三版の解説」, 「滋賀浦・志賀浦(しがのうら)とは - コトバンク」より, 2019年12月30日閲覧. [↩ Back]
  16. 出典:藤原長能『新古今和歌集』. [↩ Back]
  17. 出典:阿部泰郎 (1980年) 「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 49ページ. [↩ Back]
  18. 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 59ページ. [↩ Back]
  19. 参考:四明岳しめいがたけは、「しめいだけ」と呼ばれることもあります。 [↩ Back]
  20. 参考:「波母山」という言葉に、「はもやま」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献としては、山口幸次さんの『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち(近江の祭礼行事 ; 1)』があります。この本の112ページのところに、つぎのような記述があります。「「山上山下巡拝絵巻」には、八王子山とは別の山に「小比叡おびえい山・波母山はもやま」とあり、「二宮権現」も描かれています。これは、横川よかわ方面にある垂釣たるつり岩(通称鯛釣たいつり岩)付近の山中のことで、今も回峯行者かいほうぎょうじゃに尋ねると、「お山(比叡山)の伝えはここだ」とおっしゃいます。」 [↩ Back]
  21. 参考:「水井山」という言葉に、「みずいやま」という読み仮名をつけている文献としては、『滋賀県の山(分県登山ガイド 24)』があります。この本の86ページに、横高山よこたかやまと、水井山みずいやまの、読み仮名が書かれています。 [↩ Back]
  22. 出典:池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 259ページ. [↩ Back]
  23. 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  24. 画像の出典:「翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:85 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  25. この写真は、現地にて筆者が撮影した写真です。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  26. 出典: 寒川辰清さむかわ たつきよ(著者), 小島捨市(校註), (1915年) 白髭しらひげ大明神社」, 「滋賀郡第二十五」, 「巻之三十」, 近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 358~359ページ. [↩ Back]
  27. 注記: 引用者が、一部の漢字を、旧字体から新字体に変えました。 [↩ Back][↩ Back]
  28. 注記: 「寒川辰清」という名前は、「さむかわ たつきよ」という読み方以外にも、「かんがわ たつきよ」や、「さんがわ とききよ」、と読まれる場合もあるようです。 [↩ Back][↩ Back]
  29. 出典: 橋本鉄男(著者), 谷川健一(編集), (1986年) 「白鬚神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 348~352ページ. [↩ Back]
  30. 画像の出典:「建立大師相応和尚御像」, 『相応和尚略伝 : 北嶺行門始祖』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:4 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  31. 出典:佐藤弘夫 (2003年) 「聖の活動」, 「変貌する霊場:エピローグ」, 『霊場の思想』, 歴史文化ライブラリー; 164, 吉川弘文館, 184~185ページ. [↩ Back]
  32. 出典: 林屋辰三郎 (1984年) 「中・近世の文化的発展」, 「一 北部地域の歴史的位置」, 「総説」, 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, 5~6ページ. [↩ Back]
  33. 出典: 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), [編集者と執筆分担者の一覧表], (1984年), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, [巻末の編集者と執筆分担者の一覧表]. [↩ Back]
  34. 出典: 林屋辰三郎 (1984年) 「中・近世の文化的発展」, 「一 北部地域の歴史的位置」, 「総説」, 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, 7ページ. [↩ Back]
  35. 出典:秀平文忠 (2005年) 「文献史料から見る己高山」, 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 52ページ. [↩ Back]
  36. 出典:秀平文忠 (2005年) 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), , 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 58~59ページ. [↩ Back]
  37. 出典: 寒川辰清さむかわ たつきよ(著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「相輪橖」, 「滋賀郡第二十(滋賀郡延暦寺)」, 「巻之廿五」, 近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 298ページ. [↩ Back]
  38. 出典:小栗栖健治 (1986年) 「水分神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集) 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』, 白水社, 341~342ページ. [↩ Back]