香取本『大江山絵詞』における比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図_005_w500_60p
香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図

 

物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。

―― 濱中修「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」 (*1)

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酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」とは、どこなのか?

ここでは、現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、「平野山」という地名と、「近江国かが山」という地名が、いったいどこの土地を指しているのか、ということについてかんがえてみたいとおもいます。また、それらの土地についてかんがえるにあたっては、香取本『大江山絵詞』の酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされている比叡山延暦寺とそれらの土地とのかかわり、という観点から話をすすめていきたいとおもいます。

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目次
  1. 酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」とは、どこなのか?
  2. 香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」が登場する場面の詞書の一節
  3. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響
    1. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされる比叡山延暦寺の記家について
  4. 香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの「平野山ひらのやま」とは、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんち石山いしやま石山寺いしやまでら)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんとして描かれている
    1. 相応和尚そうおうかしょうに仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰
  5. 近江国おうみのくにかが山」が、己高山こだかみやまである可能性と、白山信仰について
    1. 理由1.白山信仰が盛んな場所である
    2. 理由2.最澄の領地である
    3. 理由3.交通の要衝である
    4. 理由4.近江国の鬼門である
    5. 近江国おうみのくにかが山」が、伊吹山いぶきやまである可能性と、白山信仰について
    6. 近江国おうみのくにかが山」が、比良山地ひらさんち権現山ごんげんやまである可能性と、白山信仰について

香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山ひらのやま」と「近江国おうみのくにかが山」が登場する場面の詞書の一節

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香取本(かとりぼん)大江山絵詞(おおえやまえことば)』の絵巻のイメージ画像
(「上巻」「下巻」「詞書巻(ことばがきかん)」の三巻(絵巻の原本の現状)) (*2)

現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばという絵巻物があります。その香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばに描かれている説話のなかに、酒天童子(酒呑童子)が自らの来歴を語る場面があります。そこでは、かつて、酒天童子(酒呑童子)が、住み処すみかであった「平野山ひらのやま」を最澄に奪われ、そのあと、最澄からあたえられた移住先の「近江国かが山」(近江国かゝ山(近江国かか山))の土地からも追い出されてしまった、という話がかたられます。下記の文章は、その経緯についての、酒天童子(酒呑童子)による昔語りの一節です。

下記の文章は、香取本『大江山絵詞(おおえやまえことば)(*3)の上巻のなかの第5段の詞書(ことばがき)の文章の一部を釈文(しゃくぶん)にした文章です。赤文字や太文字や黄色の背景色などの文字装飾は、筆者によるものです。 (*4) (*5) (*6)

頼光(よりみつ)保昌(やすまさ)、同じ(ことば)に、「同じくは、亭主(ていしゅ)御出(おい)であらんこそ面白(おもしろ)(はべ)るべけれ。我等(われら)(ばか)りは(めずら)しからぬ同行(どうぎょう)(ども)にてある」と言はれければ、(しばら)くありて亭主(ていしゅ)童子(どうじ)()(きた)り。(たけ)一丈(いちじょう)(ばか)りなるが、眼居(まなこい)言柄(ことがら)(まこと)(かしこ)く、智恵(ちえ)(ぶか)げにて、色々(いろいろ)小袖(こそで)に、白き(はかま)(こう)水干(すいかん)をぞ着たりける。美しき女房(にょうぼう)(たち)四、五人に、(あるい)円座(えんざ)(あるい)脇息(きょうそく)持たせて、(あた)りも(かがや)(ばか)りに由々(ゆゆ)しくぞ見えし。童子(どうじ)頼光(よりみつ)に問ひ(もう)されけるは、「(おん)修行者(すぎょうざ)何方(いずかた)より(いか)なる(ところ)へとて御出(おい)(そうら)ひけるぞ」と問ひければ、答へられけるは、「諸国一見(いっけん)(ため)(まか)()でたるが、(すず)ろに山に()み迷ひて、(これ)まで(きた)る」(よし)をぞ答へられける。童子(どうじ)(また)我身(わがみ)有様(ありさま)を心に()けて語りけり。「(われ)(これ)、酒を深く愛する者なり。()れば、眷属等(けんぞくら)には酒天童子(しゅてんどうじ)異名(いみょう)に呼び付けられ(はべ)るなり。(いにしえ)はよな、平野山(ひらのやま)重代(じゅうだい)私領(しりょう)として(まか)り過ぎしを伝教大師(でんぎょうだいし)といひし不思議(ふしぎ)(ぼう)()の山を(てん)じ取りて、(みね)には根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建て、(ふもと)には七社(しちしゃ)霊神(れいじん)(あが)(たてまつ)らんとせられしを、年来(ねんらい)住所(すみどころ)なれば(かつ)名残(なごり)()しく覚え、(かつ)(すみか)もなかりし(こと)口惜(くちお)しさに、楠木(くすのき)(へん)じて度々(たびたび)障碍(しょうげ)をなし、(さまた)(はべ)りしかば、大師房(だいしぼう)()の木を切り、地を(たいら)げて、「()けなば」と(はべ)りし(ほど)に、()()(うち)(また)、先のよりも(だい)なる楠木(くすのき)(へん)じて(はべ)りしを、伝教房(でんぎょうぼう)不思議(ふしぎ)かなと(おも)ひて、結界(けっかい)(ふう)(たま)ひし(うえ)、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)(ほとけ)(たち)()が立つ(そま)冥加(みょうが)あらせ(たま)へ」と(もう)されしかば、心は(たけ)(おも)へども(ちから)及ばず(あら)はれ()でて、(しか)らば、居所(いどころ)を与へ(たま)へ」(うれ)(もう)せしに()て、近江国(おうみのくに)かが山、大師房(だいしぼう)(りょう)なりしを得たりしかば、(しか)らばとて()の山に住み()えてありし(ほど)に、桓武(かんむ)天皇、(また)勅使(ちょくし)を立て宣旨(せんじ)を読まれしかば、王土(おうど)にありながら、勅命(ちょくめい)さすがに(そむ)(がた)かりし(うえ)天使(てんし)(きた)りて追ひ(いだ)せしかば(ちから)無くして(また)()の山を迷ひ()でて、立ち宿(やど)るべき(すみか)もなかりし(こと)口惜(くちお)しさに、風に(たく)し雲に乗りて、(しばら)くは浮かれ(はべ)りし(ほど)に、時々(ときどき)()怨念(おんねん)(もよお)す時は、悪心(あくしん)()()て、大風(おおかぜ)()旱魃(かんばつ)()りて、国土(こくど)(あだ)()して心を(なぐさ)(はべ)りき。

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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの説話に、比叡山延暦寺の影響があらわれていることは、これまでに、牧野和夫さんや、菊地勇次郎さん、天野文雄さん、などの、たくさんの研究者の方々が指摘されています。それらの指摘の一部を紹介します。

 

牧野和夫さんは、つぎのように述べておられます。

酒天童子譚は、童子の経歴の独白部分に叡山開闢話がとり込まれる(菊池勇次郎氏・天野文雄氏の指摘)ばかりではなく、酒天童子譚の叙述展開そのものが叡山開闢譚(即ち、天台山開闢譚であり、金毘羅・提婆の活躍する霊鷲山釈迦説法譚)をなぞるものでもあったのである。

(牧野和夫 (1988) 「「幽王始めて是を開く」ということ : 天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」, 『実践国文学』, pp. 61-62.)

 

菊地勇次郎さんは、香取本『大江山絵詞』のなかで、酒天童子が最澄について言及する場面には「最澄への讃詞」があり、また、最澄に対する「桓武天皇の外護が強調され」、「最澄の法力が讃えられ」ている、と述べておられます(菊地, 1980, pp. 362-363)。

また、つぎのようにも述べておられます。

「大江山絵詞」の物語は、御堂入道大相国の子息の失喪から始まるが、その子息は、良源、または円仁の弟子で、法華経読誦の功徳によって、“大江山”の牢中でも、法華経の陀羅尼品に説く十二羅刹女、師の良源が修した七仏薬師法の本尊薬師如来に属し、行者を守る十二神将、それに日吉の使者猿と本地の不動の姿であらわれた早尾権現の加護をうけ、頼光たちも、若僧に変身した日吉に助けられたとし、天台の神仏に守られた最澄・頼光と眷属の鬼や変化を駆使する酒呑童子との対決として語られ、前者の勝に終る。

(菊地勇次郎 (1980) 「最澄と酒呑童子の物語」, 『伝教大師研究』, p. 363.)

これらのことから、菊地勇次郎さんは、「この物語の作者の背景に、天台教団があるのを予想するのも可能であろう」(菊地, 1980, p. 363)とされています。

 

謡曲「大江山」は、諸本のなかでも、『大江山絵詞』と同系統に属し、話の内容もよく似ています。その謡曲「大江山」のなかの酒天童子の昔語りの場面について、天野文雄さんは、つぎのように述べておられます。

この話は、酒天童子の物語ではあくまでも童子の追放譚だが、裏返しにみるなら叡山開闘説話であること論を俟たない。後代の伝本には殆んど継承されなかったものの、唯一「伊吹竜子」系の物語に、この話が趣向を変えながら息づいていることを知るならば、酒天童子と叡山・最澄との関連は思いのほか根深いものがあると思わずにはいられない。“しゅてん童子”なる鬼神的存在を解明するのに、この童子追放譚すなわち叡山開闘説話を足がかりにすることは十分な理由があるのだ。

(天野文雄 (1979) 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, p. 20.)

 

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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされる比叡山延暦寺の記家について

 

『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。

―― 末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』 (*7)

 

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒呑童子説話の創作に影響をあたえた比叡山延暦寺の記家について

記家きけと呼ばれた、比叡山延暦寺の学僧の人たちについて。

 単純な交信よりもっと積極的に、三神中に日吉山王が入っていることが山門側の興味をそそった、と見ることもできる。説話の飛躍にあたり、記家がなんらかの関与をしたことが考えられるからである。
 記家とは比叡山の記録・故実を学問修道の対象とする一家のことで、 鎌倉末期を黄金時代とする。彼らは当時の風潮として、たんなる記録者にとどまらず、記録・故実にみな秘伝を認め、口伝を説いて相承伝承したその内容は、天台宗の顕密の教学、他学派・他宗との異同、叡山の境域・堂塔・仏神像の由来・意義、先哲・碩徳の行状、霊験・奇瑞・懲罰・災異の伝説にまで及ぶ。②に見える『和光同塵利益灌頂』は、こうした記家秘伝の最高・究極のものといわれる。
 彼らは、仏・菩薩が、日吉山王七社など垂迹の神々として比叡山に現れ、国土と衆生を守護し教化してきた歴史的事実と、現実の境内・堂舎・仏神像・教学・儀礼などの状況とを論述し意味づけることを、とくに重視した。いいかえるとそれは、比叡山で発展した神道説(日吉山王神道)の探求であり、その方法が記録の探求だった記家とはかかる「縁起」的・神話的な歴史解釈を、創造・増幅・普及し、ひいては神国思想の興隆を準備した人々のことである。

(*8)
高橋昌明
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
233~234ページ

 

下記の文章のなかの、『要略記』というのは、『山家要略記』の略称です。
また、『渓嵐集』というのは、『渓嵐拾葉集』の略称です。

 『山家要略記』は、教理的な要素をも含むが、その中心はむしろ叡山に関する伝承や記録を集大成したものと考えられる。従って、すべてが神道関係というわけではないが、神道がきわめて重要な位置を占めている。この点を考えるためには、本書や次の『渓嵐拾葉集』成立の基盤となる叡山の記家と呼ばれるグループに着目しなければならない。記家というのは叡山の記録を扱うことを主要な職務とするが、その性格については、『渓嵐集』の序を見るのが適当である。それによると、「山家記録有四分。所謂一顕、二密、三戒、四記」とあり、記録が四分されることが記されている。この四分は詳しくは、顕部・密部・戒部・記録部と呼ばれ、他の文献にも見られるところから、中世の叡山では広く認められていたことが知られる。なお、ここで注目されるのは、この四分の全体を「記録」と呼び、その中にまた「記録部」を立てていることである。すなわち、「記録」には広義の記録狭義の記録の両義があり、前者は狭義の記録の他に、顕・密・戒をも含むものである。顕・密・戒と言えば、実質的に叡山の仏教の総体であり、したがって、広義の記録は叡山の仏教全体に関わるものであったことが知られる。後にも触れるように、『渓嵐集』広義の記録全体にわたるのに対し、『要略記』狭義の記録に関する著述と見ることができる。『渓嵐集』はまた、広義の記録を顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部門にも分けている。雑記というのは、古今の美談などを集めたものである。狭義の記録の内容について、『渓嵐集』では、浄刹結界章・仏像安置章・厳神霊応章・鎮護国家章・法住方規章・禅侶修行章の六章を立てるが、このうち第三の厳神霊応章が神道に関するものである
 なお、四分の記録にはそれぞれ灌頂がある。灌頂は、言うまでもなく密教の儀礼に由来するものであるが、ここではそれが四分のそれぞれに規定されている。顕部は生智妙悟の秘決、密部は都法灌頂、戒部は鎮護授戒、記録部は和光同塵利益国土灌頂である。ここで注目されるのは、記録部の灌頂が和光同塵利益国土灌頂とされていることである「和光同塵」本地垂迹を意味するもので、したがって、狭義の記録神道を中心とするものであることは、ここからも明らかである。因みに、『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいであるその狭義の記録の中で神道が最も中心的な位置を占めるのであるから、中世天台理論において神道の持つ重要性は明らかであろう

(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) (*7) (*8)

『山家要略記』が狭義の記録を代表する文献だとすれば、それに対して、『渓嵐拾葉集』は広義の記録を総合する中世天台の百科全書とも言うべきものである。『渓嵐集』は義源の弟子に当る光宗(一二七六~一三五〇)の編集になるもので、(後略)

(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) (*9) (*8)

 

比叡山の記録故実学問修道の対象として、しかも直に、大乗菩薩の願行を満足し仏道を成ずべしとなし、また記録に即して特異の観心法門を創作し、その一々に於て、直に一心三観一念三千の妙観を成ずべしとなして、究竟する所いはゆる記録成仏を理想としたと見らるゝ記家は、古今殆どその比類なき特色をもつ仏教であつて、それは正に記録宗と名け、記家仏教と称して好い日本独特の仏教の創造であつたといはねばならぬ。然らば、斯の如き記家をして、発展独立せしめた根本のものは何であり、その基調をなすものは何であつたか。それは勿論言ふまでもなく、日本天台独特の本覚絶待思想であつて、いはゆる記家は、正にこの本覚思想を基調とする中古天台のこれを創作する所であつたかくして我等は、いはゆる声明道を独立せしめ、戒家を別立せしめ、また我が記家を独立せしめた、日本中古の偉大なる発展創作に対しては、今更ながら寧ろ驚嘆するの念に堪へぬ

(硲慈弘「中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 『日本仏教の開展とその基調 下』) (*10) (*11) (*8)

 

鋭意製作中です m(_ _)mトンテン♬(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪
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香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの「平野山ひらのやま」とは、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんち石山いしやま石山寺いしやまでら)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんとして描かれている

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比良明神ひらみょうじん(岩に座して釣り糸を垂れる老翁)と、良弁ろうべん僧正
『石山寺縁起』(絵巻)(一部分) (*12)

 

物語の中でそのようなことを主張しても詮ない所業ではないかというのは近代人の発想である。例えば、先にも触れた『太平記』巻十八における叡山開闢説話は、足利将軍側近達の山門領没収の評定の場所において玄慧法印の反論として提示されているのである。中世の宗教者にとって、このような物語的〈神話〉は単なるお話であり得なかったのである。

―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 (*13)

 

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかでは、「最澄が平野山ひらのやまの地を酒天童子(酒呑童子)から奪いとって、その地に根本中堂を建てた」とされています。ここで言う「平野山ひらのやま」という地名は、おそらく、「ひらのやま」(「比良の山ひらのやま」)、つまり、現在で言うところの比良山ひらさん」(比良山地ひらさんちのことを指しているのだろうとおもます。ですが、最澄が根本中堂を建てたのは、比叡山です。

比良山地ひらさんちと、比良山地ひらさんちの南に流れる和邇川わにがわをはさんで、さらにその南にある比叡山地ひえいさんちは、近い位置にあります。ですが、比良山地ひらさんち比叡山地ひえいさんちは、明確に区別することができる、まったく別の山地です。

  • 比良山地ひらさんち:主峰の武奈ヶ岳や、蓬莱山、打見山、白滝山、権現山、堂満岳などを含む山地。
  • 比叡山地ひえいさんち:主峰の大比叡おおひえや、四明岳しめいがたけ (*14)小比叡おびえ(別称:波母山はもやま (*15)横高山よこたかやま・釈迦岳)、水井山みずいやま (*16)、三石岳などを含む山地。

ここで、「なぜ、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばでは、最澄が根本中堂を建てた山のことを指す地名として、『比叡山』という地名ではなく、『平野山ひらのやま』という地名をつかっているのか?」という疑問が湧いてきます。結論から言うと、おそらく、この平野山ひらのやまという言葉は、比良山地ひらさんちをはじめとして、その南にある比叡山地ひえいさんちや、さらにその南にある石山いしやま石山寺いしやまでら)のあたりまでを含む一帯の山々の地域」のことだろうとおもいます。その理由は、「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々の地域」が、比良明神ひらみょうじんの信仰がある地域だからです。

このことについて、池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。

比良連山は最高峰の武奈ヶ岳でも標高一二一四メートル、数字でみると高い山ではないが琵琶湖に面した東側は湖畔まで一気に薙ぎ落ちており、麓から見上げる山容には威圧感さえ漂う。堅田のあたりから比良の麓に洽って北上すると、もともと乏しかった湖畔の平地がますます狭くなり、ついには山脚がそのまま湖面に接するところに白鬚神社がある。旧高島郡(現高島市)鵜川の地で、湖中に立つ赤い大鳥居で知られる。これが現在もっともよく知られた比良の神であろう。(中略)
この神は、奈良の東大寺建立のときには良弁僧正の前に老翁となって現われ、現在の石山寺の地を譲って如意輪観音を祀らせたといい(石山寺縁起)、最澄が比叡山に根本中堂を建てたときには老人の姿で現われて、釈尊が成道して衆生を教化したときにはすでに老齢で参詣できなかったと語ったといい(古事談)、琵琶湖が七度葦原に変じたのを見てきたほどの超老齢の翁で、仏教結界の地として釈尊に比叡山の地を譲ったとも伝える(『曾我物語』、謡曲『自髭』など)。つまり、この神は比良山だけでなく比叡山やさらに南の石山付近まで含む一帯の山々の地主神として理解され、その化現は驚くべき長寿の老翁としてイメージされていたのである

(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) (*17) (*18)

日吉山王光華_コマ番号_085_四六 翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏_翁面_cropped_001
「翁古面」(翁面おきなめん)(日吉大社所蔵) (*19)

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白鬚神社(祭神:比良明神ひらみょうじん(*20)
(滋賀県高島市鵜川)

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湖中大鳥居(白鬚神社(祭神:比良明神ひらみょうじん)) (*20)
(滋賀県高島市鵜川)

このように、「比良山地をはじめとして、その南にある比叡山や、さらにその南にある石山のあたりまでも含む一帯の山々の地域」は、比良明神ひらみょうじん地主神じぬしがみとして信仰していた地域なのです。

つまり、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける酒天童子(酒呑童子)は、比良明神ひらみょうじんと同一の存在として描かれているのだろうとおもいます。そのため、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける酒天童子(酒呑童子)は、「比叡山の地主神じぬしがみ」というよりは、より広域の、「比良山地・比叡山・石山」の一帯の地主神じぬしがみとして描かれているのだとおいます。

そのため、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばでは、「地主神じぬしがみである比良明神ひらみょうじんの領地」という意味で、「平野山ひらのやま」という言葉をつかったのだろうとおもいます。そして、比叡山は、その「平野山ひらのやま」と呼ばれる地域のなかの一部だったのだろうとおもいます。

最澄が比良明神ひらみょうじんから比叡山の地を譲り受けたという説話があることにもあらわれているように、おそらく、天台宗の教団は、比良明神ひらみょうじんに対する信仰を、自分たちの天台宗の教団に対する信仰に置き換えていったのではないかとおもいます。

そのため、天台宗の教団は、比良明神ひらみょうじんの信仰がある地域、つまり、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を、自分たちの教団の領地であると主張したかったのではないかとおもいます。

香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばで、最澄が、比叡山ではなく、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域の地主神じぬしがみである酒天童子(酒呑童子)を追い出して、根本中堂を建てた、とされている理由は、つまり、天台宗の教団が、比叡山地だけでなく、「平野山ひらのやま」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を支配することの正統性(支配権・領有権)が、自分たちの天台宗の教団にある、ということを主張するためなのではないかとおもいます。

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*20)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*20)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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地主権現 釣垂岩つりたれいわ (*20)
(修禅峰道, 比叡山延暦寺)

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相応和尚そうおうかしょうに仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰

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建立大師こんりゅうだいし相応和尚そうおうかしょう御像
相応和尚そうおうかしょう略伝 : 北嶺行門始祖』 (*21)

比良山地の地主神じぬしがみについては、ほかにも、天台宗の僧侶が、比良山地の地主神じぬしがみから比良山地の土地を譲り受けたとする説話があります。

相応和尚そうおうかしょうは、天台宗の僧侶であり、無動寺の開基であり、天台修験・比叡山回峰行の祖とされる人物です。相応にまつわる説話のなかには、「相応が、比良山地の地主神じぬしがみである思古渕明神しこぶちみょうじんから、葛川の地(比良山地の西側の地域)を譲り受けた」とする説話があります。この説話の背後にあるのは、天台宗の教団が、相応和尚そうおうかしょうに仮託して、比良山地の地主神じぬしがみである思古渕明神しこぶちみょうじんを信仰する人々の領地と信仰を奪い取った、ということなのかもしれません。

村山修一さんは、つぎのように述べておられます。下記の文章では、地主神じぬしがみが、比良明神ひらみょうじんではなく、思古渕明神しこぶちみょうじんとなっていますが、どちらも、比良山地の地主神じぬしがみであることはおなじです。ですので、「天台宗の教団が、比良山地の地主神じぬしがみの領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ということは、「天台宗の教団が、比叡山の地主神じぬしがみ(酒天童子(酒呑童子))の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ことと、おなじです。

 相応は二十九歳にして生身の不動明王を拝せんがため、けわしい比良山西斜面の山道を北進し、遂に一清滝を発見し、ここを修行場と定めた。
(中略)
相応の到達した清滝はいまの安曇川畔坊村で、この川に合流する明王川の上手、比良山系から流れ下るところに生じた一つの滝と考えられ、主峯武奈嶽の直下に近く、極めて急斜面の地形をなしている。
 相応は滝の前の石の上で、七日間明王を念じていた。そこへ一老翁があらわれ、対座して動かず、八日日に何人かと問うと、向うはお前は何のためここに来たのかと応酬し、相応は生身不動明王を拝む目的で修行していると答えると老人は感歎し、ここには十九の清滝と七つの清流があり、周囲、東は比良峯、南は花折峠、西は駈籠谷・鎌鞍峯、北は右渕瀬を境とする別領をなし、誰も入ったことがない。あなたは不動明王の後身であるから別領を進ぜよう。この滝は十九のうちの第三の清滝で、兜卒内院に通じ葛川滝という。今後修行者を守り、弥勒下生の暁まで仏法を守り続けることを誓おう、われは思古渕大明神であると言い終って姿を消した。
相応はこれは明王か魔王の変化かと疑いつつ、合掌析念を止めないでいると、遂に滝の内に明王の姿を見た。たちまち滝に飛び込んで抱き上げ、石上に置いて拝んでみるとただの樹木であった。よってこの樹木を以て不動明王を彫刻し比叡山無動寺に持ち帰り本尊としてまつった
(中略)
ここで葛川の支配地を相応に譲ると託宣した思古渕明神について説明しよう。志古渕.信興渕等とも書き、葛川はじめ安曇川流域全体に今日もまつられている民俗神であり、その信仰は恐らく平安朝以前に溯るであろう
(中略)
けだし思古渕明神は水神であるとともに地神でもあり、太古以来住民達の生活を支える精神的基盤であったにちがいない。ゆえに神が相応に土地を譲る託宣をした話は、相応が葛川の行場開拓について土地の住民との折衝を暗示し、裏に多少住民の抵抗が秘められていたことも想像される。それは高野山開発の際の空海に対する丹生明神(これをまつる丹生氏)の抵抗ほどのことはなかったにせよ、相応以後の天台の支配は、思古渕信仰に象徴される村民の山林所有権を、不動明王信仰で示される天台の領主側が奪い取るねらいをもったものとしても解釈されよう。明王院には創立の頃鎮守社が営まれ、いまそれは地主神社として安土桃山期の本殿や中世の神像が遺っているが、そこでは延暦寺の鎮守である日吉社の神が勧請され、配祀の神として賀茂・平野・松尾・三輪・鹿島・江文の諸神とともに思古渕明神もまつられ、日吉大明神の眷属神的地位に下げられてしまった

(村山修一『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』218~219ページ) (*18)

 

また、佐藤弘夫さんは、『霊場の思想』のなかで、つぎのように述べておられます。

下記で述べられている、中世の寺院がおこなった「寺領荘園の拡大」のやりかたは、天台宗の教団が、相応和尚そうおうかしょうという「聖人」の説話をつくりだし、その「聖人」に仮託して、比良山地ひらさんち地主神じぬしがみ思古渕明神しこぶちみょうじん)の領地と信仰を、自分たちの領地と信仰にすり替えていったやりかたと、おなじなのだろうとおもいます。

中世成立期の寺院が重視したのが、寺の所有する土地(寺領荘園)の拡大である。寺院はみずからへの土地の寄進が、極楽往生へとつながる善行であることを積極的に宣伝した。廟所にいる聖人たちは彼岸への案内人であるとともに、集積された寺領に対する侵犯を監視する役割を負った。彼らは「賞罰」=アメとムチを使い分けることによって、この世の悪人を悟りの世界に導く存在とされていたがゆえに、仏敵への治罰は本来の役割となんら矛盾するものではなかったのである。
 官寺としての古代寺院からの脱却をめざした諸寺院は、積極的に地方にも教線を拡大した。それは地方では廃れていた古い寺院の再興という形態をとった。その役割を担ったのが「ひじり」とよばれる一群の行者たちだった。
 彼らは各地を巡って目ぼしい寺院を再興するとともに、中央から持ち込んだ最新の土木技術を用いて周辺の土地を開発し、囲い込んでその寺の経済的な基盤とした開発され買得された土地には、所有のシンボルとして要所要所に堂舎が立てられ、神々が勧請かんじょうされた。そのうえで、寺と寺領全体の監視者として奥の院に聖人を祀った

(佐藤弘夫「聖の活動」, 『霊場の思想』) (*22) (*18)

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近江国おうみのくにかが山」が、己高山こだかみやまである可能性と、白山信仰について

香取本『大江山絵詞』における比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図_005_w500_60p
香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばにおける比叡山追放後の酒天童子の移住の流れの推定図

 

あなうめに人もうらみしこたかみのみねより奥にいほりむすばむ

―― 『松葉古今集』

 

現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばには、「近江国おうみのくにかが山」という謎の山が登場します。この山は、最澄の所有地であったとされ、比叡山を追い出された酒天童子が、移住先の土地を与えてくれるように最澄に求めたことで、酒天童子に与えられた土地です。

ぼくは、この「近江国おうみのくにかが山」というのは、己高山こだかみやまのことではないかと思います。おそらく、「近江国おうみのくににある白山信仰の盛んな山」(己高山こだかみやま)を、「加賀国の白山(はくさん)」(かが山)に見立てて、「近江国おうみのくにかが山」と呼んだのではないかと思います。

「かが」(加賀国(現在の石川県南部))にある山のなかで、代表的な山といえば白山です。ですので、「かが山」というのは、白山のことを指しているのだろうと思います。白山信仰は、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばの成立に深く関わったとされている天台宗や天台修験と深い関係があります。その関係で、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばのなかに、天台宗ゆかりの白山に見立てられていた山(白山信仰の盛んな山)が登場するのでしょう。

 『己高山縁起』によれば、己高山こだかみやまは、加賀の白山を開山したとされる泰澄が寺院を開いた場所とされていて、白山信仰が盛んな地域だったようです。また、日本天台宗の開祖である最澄は、己高山こだかみやまで修行していたときに、「白山の白翁」と名乗る神と出会い、己高山こだかみやまの所有権を譲り受けて、この地域一帯の寺社を再興したとされています。このように、己高山こだかみやまは、天台宗とも関わりがある場所です。

また、己高山こだかみやま近江国おうみのくにの鬼門であるとされています。つまり、京の都の鬼門である比叡山から追い出された酒天童子が、その次にあてがわれた移住先が、近江国おうみのくにの鬼門である己高山こだかみやまであった、ということです。酒天童子の移住の流れを、「鬼門から鬼門への移動」という流れであると解釈すれば、酒天童子の移住先の「近江国おうみのくにかが山」は、近江国おうみのくにの鬼門である己高山こだかみやまである、ということになるだろうと思います。

 

高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばのなかに登場する「近江国おうみのくにかが山」という言葉を、「近江加賀山」と表記されています。これはつまり、高橋昌明さんは、「近江国おうみのくにかが山」という言葉のなかの「かが山」という言葉は「加賀山」のことを意味していると考えておられる、ということなのだろうとおもいます。

(参考)
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
高橋昌明
2005年
100ページ

 

 湖北地域は仏教美術の宝庫で、特に木之本町から高月町にかけては「観音の里」と呼ばれている。それらの仏像を育んだ背景の一つが、己高山こだかみやま山林修行である。
 
文献史料から見る己高山
 
 己高山は滋賀県木之本町にある山で、標高九二三メートル。その歴史を語るうえで欠かせないのが、『己高山縁起』與福寺官務牒疏こうふくじかんむちょうそである。
 木之本町・鶏足寺けいそくじの所蔵する『己高山縁起』(滋賀県指定文化財、図版26)は、甲乙二巻からなり、「當山草創事」から「学頭坊事」まで一二条にわたって己高山の歴史を記している。応永十四年(一四〇七)に「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全によって編纂された
 「當山草創事」によれば、古老の言い伝えでは、己高山は近江国の鬼門で、古仙練行の秘窟であった。行基が勝地としてこの峰を選び、伽藍を草創して仏像を彫刻し、泰澄が聖跡としてこの山を崇め、峰に入って行門を建立したという。
 また、「當山再興事」には、最澄再興の話を載せる。最澄が己高山南麓の高尾の草堂で修行中に、仏閣の礎石跡で十一面観音の頭部を発見した。すると白山白翁が現れて、二〇〇年前に仏閣を建てたが焼失してしまい、復興してくれる人が来るのを待っていたという。最澄は、霊木を御衣木加持みそぎかじして、その仏頭に続く胴体部を自ら彫刻した。そして白山白翁の指示を受け、己高山の鎮守として十所権現じゅっしょごんげんを勧請したという。これが現在、鶏足寺に伝わる木造十所権現像である(滋賀県指定文化財、図版27)。
 一方の『興福寺官務牒疏』(図版25)は、嘉吉元年(一四四一)の成立である。これは、中世における奈良興福寺の末寺を記録したもので、興福寺の勢力を誇示する目的で編纂されたため、一般に内容の信憑性には疑問が持たれている。しかし、個々の寺院の当時の規模や資財記録には参考にすべき点があり、中世の湖北の寺院の様相を知るうえで貴重な史料となっている。
 ここでは「己高山五箇寺」と記載され、己高山が法華寺、石道寺しゃくどうじ、観音寺、高尾寺、安楽寺の五か寺と、別院で構成されていたことが知られる。なかでも山頂にあった観音寺が己高山随一で、別院を六か寺もっていたという。これらの寺院の開基には、行基や泰澄の関与が記されている。また、現在石道寺に安置されている十一面観音立像(滋賀県指定文化財、図版28)は、寺伝では高尾寺のものであったとされる。

(秀平文忠「文献史料から見る己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) (*23) (*8)

28 十一面観音立像 滋賀県木之本町 石道寺蔵
(中略)
 右頁の十一面観音立像は寺伝では、己高山五箇寺のうちのひとつ、高尾寺の本尊であったという。
 石道寺では、11世紀頃成立と考えられる本尊十一面観音立像(重要文化財)が著名だが、本像は本尊と同じくケヤキ材製の一木造で、内刳を施さない。像高107.3。滋賀県指定文化財。
 端正な面持ちと、整理された衣文線、小像ながら重量感を残しつつ、明確な括れをもったプロポーションなどの特徴は、正暦4年(993)頃の作とされる滋賀県湖南市の天台寺院・善水寺の諸像と近しい。本尊にさかのばる10世紀末頃の作と考えられ、この頃石道寺を含めた己高山周辺にも天台系仏師の関与が想定される

(秀平文忠「山林修行と観音の山:己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) (*24) (*8)

 

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理由1.白山信仰が盛んな場所である

加賀山

白山信仰

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理由2.最澄の領地である

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理由3.交通の要衝である

交通の要衝
桓武天皇が退去命令を出す必要があるほど、重要な場所であったということではないかとおもいます。

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理由4.近江国の鬼門である

近江国の鬼門

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近江国おうみのくにかが山」が、伊吹山いぶきやまである可能性と、白山信仰について

 

伊香郡己高山鶏足寺は、伊吹修験道の末寺
48ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)

己高山縁起によれば、「入峰事」として、
(中略)
とあり、伊吹修験道の末寺である伊香郡の己高山修験が、伊吹山大乗峰と共に北陸の白山へ入峰しており、本寺である伊吹修験道においても、当然、白山入峰を行なっていたであろうことが類推できる。

(*8)
53~56ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)

 

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近江国おうみのくにかが山」が、比良山地ひらさんち権現山ごんげんやまである可能性と、白山信仰について

水分みくまり神社 滋賀郡志賀町栗原
 
 祭神は玉依姫命。近世には龍王明神社八大龍王と呼ばれていた。(中略)『栗原村万覚帳』では、八大龍王明神十一面観音白山権現峯権現)は十一面観音となっている。(中略)峯権現は本殿左方の小祠に祀られ、現在は峯大神社と称している。これは比良山系南部の権現山(九九六メートル)の頂上に祀られる小祠(峯権現)の里宮であり、山頂の小祠を村人は「権現さん」と称している。
(中略)
 権現山から琵琶湖側に開けた荘園を和邇わに庄という。
(中略)
 権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰きせん川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
 また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。

(小栗栖健治「水分神社」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) (*25) (*8)

 

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脚注
  1. 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学, 59ページ. [↩ Back]
  2. この「香取本(かとりぼん)大江山絵詞(おおえやまえことば)』の絵巻のイメージ画像(「上巻」「下巻」「詞書巻(ことばがきかん)」の三巻(絵巻の原本の現状))」の画像は、『続日本絵巻大成 19 (土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞)』の147ページに掲載されている「大江山絵詞 現装」の写真の挿絵をもとに筆者(倉田幸暢)が制作したものです。)[↩ Back]
  3. 注釈:香取本『大江山絵詞(おおえやまえことば)』(現在は、逸翁美術館に所蔵されています。)[↩ Back]
  4. 参考文献:(1993年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本の絵巻 26』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [↩ Back]
  5. 参考文献: (1984年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本絵巻大成 19』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [↩ Back]
  6. 参考文献: (1975年) 「大江山酒天童子(逸翁美術館蔵古絵巻)」, 横山重(編者), 松本隆信(編者), 『室町時代物語大成 第3』, 角川書店. [↩ Back]
  7. 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 7~8ページ. [↩ Back][↩ Back]
  8. 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  9. 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 9ページ. [↩ Back]
  10. 出典:硲慈弘 (1972年) 「(5) 結語」, 「二、中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 「六、慧檀両流に於ける実際信仰」, 『日本仏教の開展とその基調 下 (中古日本天台の研究)』, 5版, 三省堂, 265ページ. [↩ Back]
  11. 注記:引用者が、引用文中の旧字体の文字を新字体の文字に変更しました。 [↩ Back]
  12. 画像の出典:[良弁と比良明神], 石山寺縁起. [1], 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  13. 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 59ページ. [↩ Back]
  14. 参考:四明岳しめいがたけは、「しめいだけ」と呼ばれることもあります。 [↩ Back]
  15. 参考:「波母山」という言葉に、「はもやま」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献としては、山口幸次さんの『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち(近江の祭礼行事 ; 1)』があります。この本の112ページのところに、つぎのような記述があります。「「山上山下巡拝絵巻」には、八王子山とは別の山に「小比叡おびえい山・波母山はもやま」とあり、「二宮権現」も描かれています。これは、横川よかわ方面にある垂釣たるつり岩(通称鯛釣たいつり岩)付近の山中のことで、今も回峯行者かいほうぎょうじゃに尋ねると、「お山(比叡山)の伝えはここだ」とおっしゃいます。」 [↩ Back]
  16. 参考:「水井山」という言葉に、「みずいやま」という読み仮名をつけている文献としては、『滋賀県の山(分県登山ガイド 24)』があります。この本の86ページに、横高山よこたかやまと、水井山みずいやまの、読み仮名が書かれています。 [↩ Back]
  17. 出典:池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 259ページ. [↩ Back]
  18. 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  19. 画像の出典:「翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:85 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  20. この写真は、現地にて筆者が撮影した写真です。 [↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back][↩ Back]
  21. 画像の出典:「建立大師相応和尚御像」, 『相応和尚略伝 : 北嶺行門始祖』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:4 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  22. 出典:佐藤弘夫 (2003年) 「聖の活動」, 「変貌する霊場:エピローグ」, 『霊場の思想』, 歴史文化ライブラリー; 164, 吉川弘文館, 184~185ページ. [↩ Back]
  23. 出典:秀平文忠 (2005年) 「文献史料から見る己高山」, 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 52ページ. [↩ Back]
  24. 出典:秀平文忠 (2005年) 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), , 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 58~59ページ. [↩ Back]
  25. 出典:小栗栖健治 (1986年) 「水分神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集) 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』, 白水社, 341~342ページ. [↩ Back]