物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。
―― 濱中修「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」 [2]
山麓に中世成立した木戸・比良・小松などの諸庄園ではその共同体の精神的紐帯として鎮守社が祀られ、木戸庄の場合には樹下神社であるが、十禅師権現と南接して峯神社の小祠が祀られている。峯神社の祭神は比良明神で、かつて比良山中に祭配された社の里宮と伝えられる。この神社こそが地主神で、のち天台仏教の伸展によって庄園領主すなわち延暦寺の守護神日吉社の末社十禅師権現が勧請されたのである。
―― 「比良山地」, 「総論」, 『日本歴史地名大系 第25巻 (滋賀県の地名)』 [3]
寺社縁起は、むしろ文書資料以上に過去の社会と精神生活について多くの知見をはらんだ文献であろう。それは読み方に従い、一層豊かな世界を物語りうるものである。比良山に関して、特に南都と叡山の縁起はそのなかで此山の神々が重要な役割を演じている。
―― 阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [4]
権力によって人びとを掌握し、税金(租・庸・調・雑徭)を徴収して諸制度を運用するわけだが、その権力が正統なものであり、今と未来とを保証するものだという安心感を人びとに与え、人びとを帰順させるだけの説得力をもつことが国家を持続させるための必須条件であった。それを担保するのが歴史であり神話である。
〔中略〕
国家というのは、権力としての法(律令)と幻想としての歴史とを車の両輪としてもつことによって、安定した持続が可能となる。この二つはおたがいに支えあうことによって十全に機能する。権力を補完するためにはそれに寄りかかろうとする幻想が必要であり、その幻想は、始まりを保証する神話とそこから今へと続く揺るぎない歴史によって共同化される。それゆえに、いつの時代もそうだが、そこに叙述される歴史は事実の集積というふうに考えるべきではない。あくまでも、王権あるいは国家の側から選ばれた事実であり物語である。そしてそこで語られる歴史=物語が、権力としての法を支える幻想となる。
―― 三浦佑之『神話と歴史叙述』 [5]
近江の湖は海ならず
天台薬師の池ぞかし
何ぞの海
常楽我浄の風吹けば
七宝蓮華の波ぞ立つ
―― 「神分三十六首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [6]
酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山」と「近江国かが山」とは、どこなのか?
鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子説話をつたえる絵巻物である、香取本『大江山絵詞』という絵巻物があります。
(※参考: 香取本『大江山絵詞』の絵巻物についてのくわしいお話は、こちらの記事で紹介しています。)
その香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、酒天童子(酒呑童子)の物語のなかに、「平野山」という地名と、「近江国かが山」という地名の、2つの謎の地名が登場します。
ここでは、香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、「平野山」という地名と、「近江国かが山」という地名が、いったいどこの土地を指しているのか、ということについてかんがえてみたいとおもいます。
また、それらの土地についてかんがえるにあたっては、香取本『大江山絵詞』の酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされている比叡山延暦寺とそれらの土地とのかかわり、という観点から話をすすめていきたいとおもいます。
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- 酒天童子(酒呑童子)が奪われ、追い出された、「平野山」と「近江国かが山」とは、どこなのか?
- 香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山」と「近江国かが山」が登場する場面の詞書の一節
- 香取本『大江山絵詞』の説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響
- 「平野山」が「比良山」のことである根拠
- 参考: 比良山地の定義について
- 参考: 湖西地域の定義について
- 香取本『大江山絵詞』の「平野山」とは、比良山地・比叡山地・長等山・石山(石山寺)(伽藍山)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神である比良明神として描かれている
- 比良明神の伝承地である湖西地域の3つの神社・仏閣と、3つの釣垂岩
- シコブチ明神と、相応和尚と、天台修験(天台宗の修験道)と、無動寺谷と、息障明王院(葛川明王院)、などについて
- 三尾明神(水尾明神)について
- 『長谷寺縁起絵巻』に登場する、三尾明神と、祟りをなす霊木(御衣木)の楠と、香取本『大江山絵詞』に登場する、平野山(比良山地)の地主神(比良明神)としての酒天童子と、酒天童子が変化した姿である祟りをなす楠の巨木との、類似性について
- 『園城寺伝記』に記された、園城寺(三井寺)の地主神としての、三尾明神の伝承について
- 『寺門伝記補録』に記された、園城寺(三井寺)の長等山の地主神としての、三尾明神の伝承について
- 『三井寺仮名縁起』に記された、園城寺(三井寺)の南院の鎮守神としての三尾明神(「赤白黒の三神」(赤尾神、白尾神、黒尾神))の伝承
- 参考: 三尾神社(滋賀県大津市園城寺町)について
- 参考: 三尾氏の一族が越前国から近江国へと移住したことと、水尾神社の関係について
- 兵主明神などの、甲賀三郎の物語『諏訪縁起』に登場する、老翁の姿をした神
- 「近江国かが山」が、己高山である可能性と、白山信仰について
香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかに、「平野山」と「近江国かが山」が登場する場面の詞書の一節
中世の在地領主制に関するこれまでの研究においては、鎌倉期の『沙汰未練書』に、「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」「開発領主トハ、根本私領ナリ」とあるように、開発行為こそが在地領主による土地所有の最大の根拠だとされてきた。
―― 佐野静代『中近世の村落と水辺の環境史 : 景観・生業・資源管理』 [10]
現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本『大江山絵詞』という絵巻物があります。
その香取本『大江山絵詞』に描かれている説話のなかに、酒天童子(酒呑童子)が自らの来歴を語る場面があります。
そこでは、かつて、酒天童子(酒呑童子)が、住み処であった「平野山」を伝教大師 最澄に奪われ、そのあと、最澄からあたえられた「近江国かが山」(近江国かゝ山(近江国かか山))の土地に移住したものの、桓武天皇によってその土地からも追い出されてしまった、という話が語られます。
下記の文章は、その経緯についての、酒天童子(酒呑童子)による昔語りの一節です。
下記の文章は、香取本『大江山絵詞』 [11]の上巻のなかの第5段の詞書の文章の一部を釈文にした文章です。赤文字や太文字や黄色の背景色などの文字装飾は、筆者によるものです。 [12] [13] [14]
香取本『大江山絵詞』の説話にあらわれている、比叡山延暦寺の影響
牧野氏や著者が見通されたように, 叡山を媒介としてこそ, 酒呑童子は“物語”としての生命を吹きこまれた筈である。それは, たんに叡山が童子–児物語の本場だからではない。縁起に根ざした寺社組織をはじめとする叡山の宗教文化の仕組みそのものが, 童子についての物語をつくりだす構造をもっているからである。
―― 阿部泰郎「書評「酒呑童子の誕生--もうひとつの日本文化」高橋昌明」 [15]
何より「慈童」の物語が酒呑童子物語を照らしだす点は, 叡山の宗教文化のシステムが, このようなあらたな“物語”を創造する消息を如実に示すところにある。「慈童」に象られるような“童子”像こそ, 酒呑童子と同じく「イデオロギッシュなもの」によって「エロス」と「暴力」の混り合ったなかに人工的に合成されて創りあげられた“物語”上の化身ではないだろうか。ふたつの“童子”像の交じわる座標こそ, “物語”の生成的構造をつかさどるフィールドであろう。それは, 叡山―天台という特定の地点や宗派を超えて, 一箇の文化領域としての“場”を示唆している。
―― 阿部泰郎「書評「酒呑童子の誕生--もうひとつの日本文化」高橋昌明」 [16]
香取本『大江山絵詞』の絵巻物に描かれている酒天童子(酒呑童子)の説話に、比叡山延暦寺の影響があらわれていることは、これまでに、牧野和夫さんや、菊地勇次郎さん、天野文雄さん、濱中修さん、岩崎武夫さんなどの、たくさんの研究者の方々が指摘されています。それらの指摘の一部を紹介します。
牧野和夫さんは、つぎのように述べておられます。
酒天童子譚は、童子の経歴の独白部分に叡山開闢話がとり込まれる(菊池勇次郎氏・天野文雄氏の指摘)ばかりではなく、酒天童子譚の叙述展開そのものが叡山開闢譚(即ち、天台山開闢譚であり、金毘羅・提婆の活躍する霊鷲山釈迦説法譚)をなぞるものでもあったのである。
(牧野和夫「「幽王始めて是を開く」ということ : 天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」) [17]
菊地勇次郎さんは、香取本『大江山絵詞』のなかで、酒天童子(酒呑童子)が最澄について言及する場面には「最澄への讃詞」があり、また、最澄に対する「桓武天皇の外護が強調され」、「最澄の法力が讃えられ」ている、と述べておられます [18]。
また、つぎのようにも述べておられます。
「大江山絵詞」の物語は、御堂入道大相国の子息の失喪から始まるが、その子息は、良源、または円仁の弟子で、法華経読誦の功徳によって、“大江山”の牢中でも、法華経の陀羅尼品に説く十二羅刹女、師の良源が修した七仏薬師法の本尊薬師如来に属し、行者を守る十二神将、それに日吉の使者猿と本地の不動の姿であらわれた早尾権現の加護をうけ、頼光たちも、若僧に変身した日吉に助けられたとし、天台の神仏に守られた最澄・頼光と眷属の鬼や変化を駆使する酒呑童子との対決として語られ、前者の勝に終る
(菊地勇次郎「最澄と酒呑童子の物語」, 『伝教大師研究』) [19]
これらのことから、菊地勇次郎さんは、「この物語の作者の背景に、天台教団があるのを予想するのも可能であろう」 [19]と述べておられます。
能(能楽)の謡曲「大江山」は、諸本のなかでも、香取本『大江山絵詞』と同系統に属し、話の内容もよく似ています。その謡曲「大江山」のなかの酒天童子(酒呑童子)の昔語りの場面について、天野文雄さんは、つぎのように述べておられます。
この話は、酒天童子の物語ではあくまでも童子の追放譚だが、裏返しにみるなら叡山開闘説話であること論を俟たない。後代の伝本には殆んど継承されなかったものの、唯一「伊吹竜子」系の物語に、この話が趣向を変えながら息づいていることを知るならば、酒天童子と叡山・最澄との関連は思いのほか根深いものがあると思わずにはいられない。“しゅてん童子”なる鬼神的存在を解明するのに、この童子追放譚すなわち叡山開闘説話を足がかりにすることは十分な理由があるのだ。
〔中略〕
叡山開闢説話は新来の仏教が地主神に代わって比叡山の新しい主になった事件を鮮やかに照らし出していると言えよう。
(天野文雄「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』) [20]
岩崎武夫さんは、つぎのように述べておられます。
叡山を伝教に追われ、弘法大師に法力によって閉じ籠められながら、大江山に居つくようになったという酒呑童子籠居のいわれは、いわゆる叡山の古い地主神が、今来の神によって追放される過程をあらわしており、童子はその地主神のなれの果てということになる。
(岩崎武夫「権現堂と土車」, 『さんせう太夫考 続 : 説経浄瑠璃の世界』) [21]
濱中修さんは、「酒呑童子の大江山止住以前の幼年期を物語」っている『伊吹童子』という文献をとりあげて、つぎのように述べておられます。なお、『伊吹童子』の物語のなかでは、「酒呑童子」という呼称は、「伊吹童子のあだ名」だとされています。
中世における比叡山の開闢説話の中に後の香取本系に繋がるような話柄も見出すことも出来るのである。〔中略〕最澄は地主神より叡山を譲り受けたということであり、その表象として霊木が語られているのである。
(濱中修「「伊吹童子」考 : 叡山開創譚の視点より」) [22]
物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。〔中略〕香取本系の酒呑童子にしても、また『伊吹童子』にしても、叡山の周辺で編まれたことは容易に推測され、王権の讃美は即ちその王権を支える仏法、殊に天台仏教の讃美に収斂されることは言うまでもなかろう。
(濱中修「「伊吹童子」考 : 叡山開創譚の視点より」) [23]
このように、たくさんの研究者の方々が指摘されているように、香取本『大江山絵詞』の説話には、比叡山延暦寺の影響があらわれています。
この比叡山延暦寺の影響は、「平野山」と「近江国かが山」についてかんがえるうえでも重要です。
なぜなら、「平野山」と「近江国かが山」は、どちらも、比叡山延暦寺が、自宗の土地領有権を主張するという目的のために、香取本『大江山絵詞』の説話のなかに挿入した要素であるとかんがえられるからです。
以降では、そのことについてお話していきます。
香取本『大江山絵詞』の酒呑童子説話の成り立ちにふかくかかわったとされる比叡山延暦寺の記家について
『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。
―― 末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』 [24]
古事記においてはもちろん、日本書紀においてさえ、はじめに置かれた神がみの世界は、たんに悠久の時を叙述するために必要だったのではない。歴史そのものを成り立たせる根拠として、神がみの世界は描かれねばならなかったのである。神話とは、〈今〉を根拠づけるところの、その起源を明らかにするものであった。すべてはそこから始まった。大地も、自然も人も、そして神がみでさえも、起源を語る神話をもつことによって誕生し、それがすべての歴史を保証した。
このことは、始まりが最初にあったのではないということを語ってもいる。始まりの時とは、〈今〉を起点として遡上することによって見いだされるのである。そして、その見いだされた起源が絶対の規範となることで、今より前(歴史)と今からのち(未来)は揺るぎない連続として接続される。それが歴史を成り立たせるのである。
―― 三浦佑之『神話と歴史叙述』 [5]
香取本『大江山絵詞』の酒呑童子説話の創作に影響をあたえた比叡山延暦寺の記家について
記家と呼ばれた、比叡山延暦寺の学僧の人たちについて。
単純な交信よりもっと積極的に、三神中に日吉山王が入っていることが山門側の興味をそそった、と見ることもできる。説話の飛躍にあたり、記家がなんらかの関与をしたことが考えられるからである。
記家とは、比叡山の記録・故実を学問修道の対象とする一家のことで、 鎌倉末期を黄金時代とする。彼らは当時の風潮として、たんなる記録者にとどまらず、記録・故実にみな秘伝を認め、口伝を説いて相承伝承した。その内容は、天台宗の顕密の教学、他学派・他宗との異同、叡山の境域・堂塔・仏神像の由来・意義、先哲・碩徳の行状、霊験・奇瑞・懲罰・災異の伝説にまで及ぶ。②に見える『和光同塵利益灌頂』は、こうした記家秘伝の最高・究極のものといわれる。
彼らは、仏・菩薩が、日吉山王七社など垂迹の神々として比叡山に現れ、国土と衆生を守護し教化してきた歴史的事実と、現実の境内・堂舎・仏神像・教学・儀礼などの状況とを論述し意味づけることを、とくに重視した。いいかえるとそれは、比叡山で発展した神道説(日吉山王神道)の探求であり、その方法が記録の探求だった。記家とはかかる「縁起」的・神話的な歴史解釈を、創造・増幅・普及し、ひいては神国思想の興隆を準備した人々のことである。
(高橋昌明「四、叡山で跳躍する」, 「第六章 酒呑童子説話の成立」, 『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』) [25] [26]
下記の文章のなかの、『要略記』というのは、『山家要略記』の略称です。
また、『渓嵐集』というのは、『渓嵐拾葉集』の略称です。
『山家要略記』は、教理的な要素をも含むが、その中心はむしろ叡山に関する伝承や記録を集大成したものと考えられる。従って、すべてが神道関係というわけではないが、神道がきわめて重要な位置を占めている。この点を考えるためには、本書や次の『渓嵐拾葉集』成立の基盤となる叡山の記家と呼ばれるグループに着目しなければならない。記家というのは、叡山の記録を扱うことを主要な職務とするが、その性格については、『渓嵐集』の序を見るのが適当である。それによると、「山家記録有四分。所謂一顕、二密、三戒、四記」とあり、記録が四分されることが記されている。この四分は詳しくは、顕部・密部・戒部・記録部と呼ばれ、他の文献にも見られるところから、中世の叡山では広く認められていたことが知られる。なお、ここで注目されるのは、この四分の全体を「記録」と呼び、その中にまた「記録部」を立てていることである。すなわち、「記録」には広義の記録と狭義の記録の両義があり、前者は狭義の記録の他に、顕・密・戒をも含むものである。顕・密・戒と言えば、実質的に叡山の仏教の総体であり、したがって、広義の記録は叡山の仏教全体に関わるものであったことが知られる。後にも触れるように、『渓嵐集』が広義の記録全体にわたるのに対し、『要略記』は狭義の記録に関する著述と見ることができる。『渓嵐集』はまた、広義の記録を顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部門にも分けている。雑記というのは、古今の美談などを集めたものである。狭義の記録の内容について、『渓嵐集』では、浄刹結界章・仏像安置章・厳神霊応章・鎮護国家章・法住方規章・禅侶修行章の六章を立てるが、このうち第三の厳神霊応章が神道に関するものである。
なお、四分の記録にはそれぞれ灌頂がある。灌頂は、言うまでもなく密教の儀礼に由来するものであるが、ここではそれが四分のそれぞれに規定されている。顕部は生智妙悟の秘決、密部は都法灌頂、戒部は鎮護授戒、記録部は和光同塵利益国土灌頂である。ここで注目されるのは、記録部の灌頂が和光同塵利益国土灌頂とされていることである。「和光同塵」は本地垂迹を意味するもので、したがって、狭義の記録が神道を中心とするものであることは、ここからも明らかである。因みに、『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。その狭義の記録の中で神道が最も中心的な位置を占めるのであるから、中世天台理論において神道の持つ重要性は明らかであろう。
(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) [24] [26]
『山家要略記』が狭義の記録を代表する文献だとすれば、それに対して、『渓嵐拾葉集』は広義の記録を総合する中世天台の百科全書とも言うべきものである。『渓嵐集』は義源の弟子に当る光宗(一二七六~一三五〇)の編集になるもので、(後略)
(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) [27] [26]
比叡山の記録故実を学問修道の対象として、しかも直に、大乗菩薩の願行を満足し仏道を成ずべしとなし、また記録に即して特異の観心法門を創作し、その一々に於て、直に一心三観一念三千の妙観を成ずべしとなして、究竟する所いはゆる記録成仏を理想としたと見らるゝ記家は、古今殆どその比類なき特色をもつ仏教であつて、それは正に記録宗と名け、記家仏教と称して好い日本独特の仏教の創造であつたといはねばならぬ。然らば、斯の如き記家をして、発展独立せしめた根本のものは何であり、その基調をなすものは何であつたか。それは勿論言ふまでもなく、日本天台独特の本覚絶待思想であつて、いはゆる記家は、正にこの本覚思想を基調とする中古天台のこれを創作する所であつた。かくして我等は、いはゆる声明道を独立せしめ、戒家を別立せしめ、また我が記家を独立せしめた、日本中古の偉大なる発展創作に対しては、今更ながら寧ろ驚嘆するの念に堪へぬ。
(硲慈弘「中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 『日本仏教の開展とその基調 下』) [28] [29] [26]
「平野山」が「比良山」のことである根拠
「平野山」=「比良山」
香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかでは、「最澄が平野山の土地を酒天童子から奪いとって、その地に根本中堂を建てた」とされています。この「平野山」という地名は、おそらく、「ひらのやま」(「比良の山」)、つまり、現在で言うところの「比良山」(比良山地)のことを指しているのだろうとおもます。
「平野山という言葉は、比良山のことを意味している」という主張の根拠として、『山門聖之記』(『諸国一見聖物語』)(曼殊院蔵本)という古文書に記されている記述を紹介したいとおもいます。その記述というのは、おおよそ下記のようなものです。
(※この「曼殊院蔵本」というのは、室町時代(南北朝時代)の至徳4年(西暦1387年)に、天台宗の僧侶である亮海という人が書いた『山門聖之記』を、のちの時代の人たちが書き写した写本です。 [30] )
(※『山門聖之記』は、通称として、『諸国一見聖物語』や、『聖之記』、『聖記』などと呼ばれることもあります。)
(※下記の文章は、読者が読みやすいかたちにするために、筆者が引用元の文章に対して適宜に変更を加えています。)
(※下記の文章のなかの「慈覚大師」というのは、「慈覚大師 円仁」のことです。)
仰木 衣川 真野 堅田 山里浦里近見 峨々たる山つづき 人跡絶て鳥なかぬ道すがら 更に高野の奥院に異ならず 其よりして北方には平野高峯を伏拝み 慈覚大師古三七日妙行し修給ける〔後略〕
(亮海『山門聖之記』(通称、『諸国一見聖物語』、『聖之記』、『聖記』)(曼殊院蔵本)) [31]
上記の記述のなかには、下記のように、「比叡山の北にある地区の名前」が列挙されています。
- 現在の滋賀県大津市のなかの地区であり、比叡山の北東にある地区である、「仰木」「衣川」「真野」「堅田」、などの地名が記されている。
- 「高野の奥院」という地名が記されている。(「高野の奥院」というのは、おそらく、大原の地区(現在の京都府京都市左京区の、大原来迎院町や大原勝林院町のあたり)のことではないかとおもいます。大原の地区というのは、比叡山の北西にある地区であり、滋賀県と京都府の県境を水源とする高野川の上流の地区でもあり、三千院や寂光院などがある地区のことです。)
そして、これらの「比叡山の北にある地区」よりも、さらに北の方角に、「平野高峯」がある、というようなことが記されています。
比良山(比良山地)は、まさに、上記の「比叡山の北にある地区」よりも、さらに北の方角にあります。
このことから、「平野高峯」というのは、今で言う「比良山」(「比良山地」)のことなのだろうとおもいます。
また、「平野山という言葉が、比良山のことを意味している」という主張の根拠として、牧野和夫さんが、中世の聖徳太子伝と天狗説話との関係について述べておられる、下記の記述を紹介したいとおもいます。
『是害房絵巻』に配された平山(比良山)の大天狗は、その来歴を「昔、守屋大臣ノ破法ノ時、其罪ニヒカレテ此道ニ入テ」と語り、且つ又、『比良山古人霊託』においても、「我是聖徳太子之御時者」と語るのである。〔中略〕比良山(平山、平野山とも)の天狗「天魔・鬼・紺青鬼とも〉は、「聖徳太子伝」に緊密な関わりをもっていたのである。
〔中略〕
天台を中心にして聖徳太子と同種姓にして一如ともいうべき平山(比良山)の青鬼・天狗が“楠”に現じて行動・予言し、一方では楠木正成、変じて化物となる。
(牧野和夫「中世聖徳太子伝と説話 : “律”と太子秘事・口伝・「天狗説話」」) [32]
上記の記述にあるように、「平野山」あるいは「平山」という言葉は、「比良山」のことを指す言葉であるようです。
また、もうひとつの根拠として、『比良山古人霊託』のなかにでてくる「比良山」(ひらのやま)という言葉に対して、木下資一さんがつけておられる下記の注釈を紹介したいとおもいます。
滋賀県の琵琶湖の西岸に連なる大山地。京都の東北方に聳える。平山、比羅山とも。修験の道場として知られ、比叡・愛宕等とならぶ七高山の一(二中歴)。
(慶政[著者], 木下資一(校注)『比良山古人霊託』, 『新日本古典文学大系 40』) [33]
上記の注釈にあるように、「比良山」(ひらのやま)という言葉は、「平山」と表記されることもあったようです。このことも、「平野山」あるいは「平山」という言葉が、「比良山」(ひらのやま)のことを指す言葉であるとかんがえる根拠のひとつです。
(ちなみに、上記の引用文のなかに記されている『二中歴』というのは、鎌倉時代に編纂された百科事典の題名です。『二中歴』のなかの「第四」のなかの「法場歴」のなかの「七高山」の項目のところに、「比良」(比良山)についての記述があります [34]。)
「平の浦」=「比良の浦」
平の浦
比良の浦
比良浦
『日本書紀』斉明天皇五年三月三日(六五九年三月三十一日)条
「天皇、平の浦に幸す」
参考: 比良山地の定義について
参考: 湖西地域の定義について
香取本『大江山絵詞』の「平野山」とは、比良山地・比叡山地・長等山・石山(石山寺)(伽藍山)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神である比良明神として描かれている
志賀の浦や遠ざかり行く浪まより氷りて出づる有明の月
都にも人やまつらん石山の峰に残れる秋のよのつき
―― 藤原長能『新古今和歌集』 [38]
その特質は、それらの物語の構造の中で、国土や聖地の建立に際しての仲介者という役割に要約される。その背後には、それらの土地の根源的な支配者としての姿をうかがうことができる。この神が、新たな物語の主人公(神話における新たな神や王、縁起における仏菩薩)にその領域を譲与する経緯が、それらの物語では定型化して表現されるのである。縁起ではすなわちその存在を「地主神」という。それぞれの聖地における潜在的な根源がこの神であることを暗示している、といえよう。以上のように白鬚明神の縁起は、その表現するところは多様な展開を示しているが、その基本的な構造は変っていない。比良山と琵琶湖を中心とした世界のなかで、比良明神と連なりながら、中世における根源的な神のひとつとして、常に登場する神なのである。
―― 阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [39]
物語の中でそのようなことを主張しても詮ない所業ではないかというのは近代人の発想である。例えば、先にも触れた『太平記』巻十八における叡山開闢説話は、足利将軍側近達の山門領没収の評定の場所において玄慧法印の反論として提示されているのである。中世の宗教者にとって、このような物語的〈神話〉は単なるお話であり得なかったのである。
―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 [40]
「平野山」が比良山地・比叡山地・長等山・石山(伽藍山)の一帯の地域である根拠
「鬼」の裏面には「翁」が存在する。人々の社会をいったん解体してしまう荒ぶる力を解放する「鬼」と、その社会に新たな復活の祝福を与えてくれる「翁」は等しい。
―― 安藤礼二「霊魂論と祝祭論」, 『古代研究 2 : 民俗学篇 2』 [41]
翁に対したてまつて、鬼面を当座に安置したてまつること、これは聖徳太子御作の面なり。秦河勝に猿楽の業を仰せ付けられし時、河勝に給いけるなり。これすなわち、翁一体の御面なり。諸天・善神、仏・菩薩と初めたてまつり、人間に至るまで、柔和・憤怒の二の形あり。これ、善悪の二相一如の形なるべし。さるほどに、降伏の姿、怒る時には、夜叉・鬼神の形と現われ、柔和・忍辱・慈悲の姿を現わす時、面貌端厳にして、本有如来の妙体なり。然れば一体異名なり。
折口信夫は、「鬼」がいまだ生きている祝祭、ちょうど南の島々と北の半島の中間地帯、愛知、長野、静岡の県境で行われている仮面祭祀である「花祭り」「雪祭り」「西浦田楽」に、芸能の発生に直結する「翁」を見出す。
―― 安藤礼二『折口信夫』 [44]
香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかでは、「最澄が平野山の地を酒天童子(酒呑童子)から奪いとって、その地に根本中堂を建てた」とされています。
(ここで言う「平野山」という地名は、おそらく、「ひらのやま」(「比良の山」)、つまり、現在で言うところの「比良山」(比良山地)のことを指しているのだろうとおもます。)
ですが、実際には、最澄が根本中堂を建てたのは、比叡山です。
比良山地と、比良山地の南に流れる和邇川をはさんで、さらにその南にある比叡山地は、近い位置にあります。
ですが、比良山地と比叡山地は、下記のように、明確に区別することができる、まったく別の山地です。
- 比良山地: 主峰の武奈ヶ岳や、蓬莱山、打見山、白滝山、権現山、堂満岳、比良岳、烏谷山、釈迦岳、釣瓶岳などを含む山地。 [45] [46] [47] [48]
- 比叡山地:主峰の大比叡(大比叡ヶ岳 [49])や、四明岳 [50](四明ヶ岳 [49])、小比叡(別称:波母山 [51]・横高山・釈迦岳(釈迦ヶ岳 [52]))、水井山 [53]、三石岳 [54]などを含む山地。 [55] [56]
ここで、「なぜ、香取本『大江山絵詞』では、最澄が根本中堂を建てた山のことを指す地名として、「比叡山」という地名ではなく、「平野山」という地名をつかっているのか?」という疑問が湧いてきます。
結論から言うと、おそらく、この「平野山」という言葉は、「北から、比良山地、比叡山地、長等山、石山(伽藍山)までの、琵琶湖の西岸地域(湖西地域)」のことだろうとおもいます。
その理由は、「比良山地から、比叡山地、長等山、石山(伽藍山)までの、湖西地域一帯」が、比良明神を地主神として信仰していた場所としての、ひとつのまとまりをもった地域だとかんがえられるからです。
このことについて、池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。
比良連山は最高峰の武奈ヶ岳でも標高一二一四メートル、数字でみると高い山ではないが琵琶湖に面した東側は湖畔まで一気に薙ぎ落ちており、麓から見上げる山容には威圧感さえ漂う。堅田のあたりから比良の麓に洽って北上すると、もともと乏しかった湖畔の平地がますます狭くなり、ついには山脚がそのまま湖面に接するところに白鬚神社がある。旧高島郡(現高島市)鵜川の地で、湖中に立つ赤い大鳥居で知られる。これが現在もっともよく知られた比良の神であろう。〔中略〕
この神は、奈良の東大寺建立のときには良弁僧正の前に老翁となって現われ、現在の石山寺の地を譲って如意輪観音を祀らせたといい(石山寺縁起)、最澄が比叡山に根本中堂を建てたときには老人の姿で現われて、釈尊が成道して衆生を教化したときにはすでに老齢で参詣できなかったと語ったといい(古事談)、琵琶湖が七度葦原に変じたのを見てきたほどの超老齢の翁で、仏教結界の地として釈尊に比叡山の地を譲ったとも伝える(『曾我物語』、謡曲『自髭』など)。つまり、この神は比良山だけでなく比叡山やさらに南の石山付近まで含む一帯の山々の地主神として理解され、その化現は驚くべき長寿の老翁としてイメージされていたのである。
(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [57] [26]
このように、「比良山地から、比叡山、長等山、伽藍山(石山)までの、湖西地域一帯」は、比良明神を地主神として信仰していた場所としての、ひとつのまとまりをもった地域なのだろうとおもいます。
水神・根源神・地主神としての白鬚明神 / 比良明神
「白鬚神社の釣垂岩」
(湖中鳥居の方角(南西)を向いたときに、ガードレールの下の湖岸に見える岩が、釣垂岩です。)
水神・根源神・地主神としての白鬚明神 / 比良明神について、阿部泰郎さんは、つぎのように述べておられます。
特に、塩土翁は、海上にて船に乗り釣竿を持つという姿をとり、それは白鬚明神の姿とよく共通する。この点に着目して、この姿はいづれも水神としての要素をあらわし、なかでも釣竿は水界を支配する表象であると解釈して、「釣をする老翁は、水界支配に関わり、水路さらには土地の教導者」としての神であるという(堅田修氏「寺院縁起の研究」大谷大学研究年報三一 昭和五三)。白鬚明神の神話的原像として塩上翁に注目することは、中世的解釈のなかでこの両者が重ねあわされていることと併せて、興味深い見解であろう。記紀神話における塩土老翁が中世にそのまま白鬚明神となったのではなく、両者がもつ共通の特質や背景があって、これがそれぞれの神話や縁起の世界に形象されたのである。その特質は、それらの物語の構造の中で、国土や聖地の建立に際しての仲介者という役割に要約される。その背後には、それらの土地の根源的な支配者としての姿をうかがうことができる。この神が、新たな物語の主人公(神話における新たな神や王、縁起における仏菩薩)にその領域を譲与する経緯が、それらの物語では定型化して表現されるのである。縁起ではすなわちその存在を「地主神」という。それぞれの聖地における潜在的な根源がこの神であることを暗示している、といえよう。以上のように白鬚明神の縁起は、その表現するところは多様な展開を示しているが、その基本的な構造は変っていない。比良山と琵琶湖を中心とした世界のなかで、比良明神と連なりながら、中世における根源的な神のひとつとして、常に登場する神なのである。
(阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」, 『比良山系における山岳宗教調査報告書』) [39]
この下の文章は、この上の写真に写っている「謡曲「白鬚」と白鬚神社」についての解説板に書かれている文章です。
謡曲「白鬚」と白鬚神社
謡曲「白鬚」は、白鬚明神の縁起を語って祝言を述べる曲である。
勅使が近江国の白鬚の社に参詣すると、明神の神霊が漁翁の姿で現れ、白鬚明神の縁起を詳しく語り、比叡山が仏法修行の清浄地として、外道魔物を入れない地となった縁起を語る。やがて明神は真の姿を現して楽を奏し、天女も竜神も現れて御代を祝うというのがその粗筋である。
白鬚神社はまた比良明神ともいう。近江最古の大社で、現在の本殿は慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼、淀君が建立し、後に改築された拝殿と一体になって特殊な桃山建築の美を見せている。背後に比良の連峰をひかえ、鳰鳥がのどかに浮かび、湖面に立つ朱の大鳥居の影が水にゆれる清楚な美しさは、安芸の厳島を彷彿させる。謡曲史跡保存会
(「謡曲「白鬚」と白鬚神社」についての解説板, 白鬚神社, 滋賀県高島市鵜川) [60] [26]
このように、「比良山地をはじめとして、その南にある比叡山や、さらにその南にある石山のあたりまでも含む一帯の山々の地域」は、比良明神を地主神として信仰していた地域なのです。
つまり、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、比良明神と同一の存在として描かれているのだろうとおもいます。そのため、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、「比叡山の地主神」というよりは、より広域の、「比良山地・比叡山・石山」の一帯の地主神として描かれているのだとおいます。
そのため、香取本『大江山絵詞』では、「地主神である比良明神の領地」という意味で、「平野山」という言葉をつかったのだろうとおもいます。そして、比叡山は、その「平野山」と呼ばれる地域のなかの一部だったのだろうとおもいます。
最澄が比良明神から比叡山の地を譲り受けたという説話があることにもあらわれているように、おそらく、天台宗の教団は、比良明神に対する信仰を、自分たちの天台宗の教団に対する信仰に置き換えていったのではないかとおもいます。
そのため、天台宗の教団は、比良明神の信仰がある地域、つまり、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を、自分たちの教団の領地であると主張したかったのではないかとおもいます。
香取本『大江山絵詞』で、最澄が、比叡山ではなく、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域の地主神である酒天童子(酒呑童子)を追い出して、根本中堂を建てた、とされている理由は、つまり、天台宗の教団が、比叡山地だけでなく、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を支配することの正統性(支配権・領有権)が、自分たちの天台宗の教団にある、ということを主張するためなのではないかとおもいます。
平安時代の近江国の湖西地域における、北部の山門派(比叡山延暦寺)と、中部の寺門派(園城寺(三井寺))、南部の石山寺、の競立
近江国の湖西地域における、北部の山門派(比叡山延暦寺)と、中部の寺門派(園城寺(三井寺))、南部の石山寺、の競立
平安時代には大津市域のなかでも、北部の山門(延暦寺)に対して、中部の寺門(園城寺)、そして南部の石山寺といった競立がみられるようになるが、北部地域では坂本・下坂本が、延暦寺と日吉社を中心に都市的発展を示した。そこに山門を本所として土倉が立ち並び、主として北陸道の物資を揚陸する港湾として、著しい経済的発展を示していた。とくに院政の開かれるころから、日吉社は皇室・貴族の崇敬を得た結果、京都との往来も多かったので、いきおい坂本は交通・運輸・問丸とも関連して知られるようになった。坂本といえば馬借といい、馬借とは商人という連想が生まれたくらいである。信仰の上でも後白河院のときに、京都には新日吉社(今比叡)が上皇御所法住寺殿の東北に営まれて、日吉信仰を代行するに至ったくらいである。南北朝戦乱期には、後醍醐天皇が京都の難を避けて坂本に行幸している。
(林屋辰三郎「北部地域の歴史的位置」, 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) [62] [26]
下記の情報は、『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』の本の巻末のところの、奥付の前に記載されている、(編集者さんたちと、)執筆分担者さんたちと、その執筆担当箇所の一覧表です。
編集
林屋辰三郎
飛鳥井雅道
森谷尅久執筆分坦
総説
北部地域の歴史的位置(林屋辰三郎)
北部地城の地理的性格(足利健亮)葛川
葛川の歴史(森谷尅久)
文献(井上満郎・下坂守・樋爪修・千本秀樹)
民俗(木村至宏・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)伊香立
伊香立の歴史(森谷尅久)
文献(吉村亨・杉江進・辻ミチ子)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈維)真野
真野の歴史(飛鳥井雅道)
文献(吉村亨・衫江進・千本秀樹)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)堅田
堅田の歴史(森谷尅久)
文献(川嶋将生・鎌田道隆・佐々木克)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂樹・木村至宏・西川丈雄)仰木
仰木の歴史(飛鳥井雅道)
文献(芝野康之・立川洋・辻ミチ子)
民俗(小栗栖健治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 宇野茂樹・木村至宏・西川丈雄)雄琴
雄琴の歴史(飛鳥井雅道)
文献(芝野康之・杉江進 千本秀樹)
民俗(小栗栖建治・小島成元, 立川洋)
考古・美術(松浦俊和, 木村至宏・西川丈雄)坂本
坂本の歴史(森谷尅久)
文献(井上満郎・下坂守・高島幸次・羽賀祥二・辻ミチ子)
民俗(木村至宏・小栗栖健治, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂樹・木村至宏・西川丈雄)下阪本
下阪本の歴史(飛鳥井雅道)
文献(井上満郎・下坂守・高島幸次・羽賀祥二)
民俗(木村至宏・小島成元, 立川洋)
考古・美術(吉水真彦, 字野茂機・木村至宏・西川丈雄)
([編集者と執筆分担者の一覧表], 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) [63]
比良明神の伝承地である湖西地域の3つの神社・仏閣と、3つの釣垂岩
ここでは、比良明神(白鬚明神)の伝承がつたわっている、下記の3つの神社・仏閣にある、比良明神が、そこにすわって釣りをしていた岩だとされている、3つの釣垂岩(つりたれいわ / ちょうすいいわ)を紹介します。
下記の3つの神社・仏閣には、それぞれに、比良明神が座していたという釣垂岩が、いまも残っています(「いまも残っている」ということになっています)。
- 白鬚神社の釣垂岩(比良山地のふもとの釣垂岩)
- 比叡山延暦寺の小比叡峰の中腹の修禅峰道の釣垂岩
- 石山寺の釣垂岩(比良明神影向石)
このあとのところで紹介してくのは、これらの3つの神社・仏閣にある釣垂岩です。
釣垂岩 その1: 白鬚神社の釣垂岩(比良山地のふもとの釣垂岩)
「白鬚神社の釣垂岩」
(湖中鳥居の方角(南西)を向いたときに、ガードレールの下の湖岸に見える岩が、釣垂岩です。)
この下の文章は、この上の写真に写っている「謡曲「白鬚」と白鬚神社」についての解説板に書かれている文章です。
謡曲「白鬚」と白鬚神社
謡曲「白鬚」は、白鬚明神の縁起を語って祝言を述べる曲である。
勅使が近江国の白鬚の社に参詣すると、明神の神霊が漁翁の姿で現れ、白鬚明神の縁起を詳しく語り、比叡山が仏法修行の清浄地として、外道魔物を入れない地となった縁起を語る。やがて明神は真の姿を現して楽を奏し、天女も竜神も現れて御代を祝うというのがその粗筋である。
白鬚神社はまた比良明神ともいう。近江最古の大社で、現在の本殿は慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼、淀君が建立し、後に改築された拝殿と一体になって特殊な桃山建築の美を見せている。背後に比良の連峰をひかえ、鳰鳥がのどかに浮かび、湖面に立つ朱の大鳥居の影が水にゆれる清楚な美しさは、安芸の厳島を彷彿させる。謡曲史跡保存会
(「謡曲「白鬚」と白鬚神社」についての解説板, 白鬚神社, 滋賀県高島市鵜川) [60] [26]
比良山地のふもとである、滋賀県高島市鵜川の琵琶湖の湖岸沿いにある白鬚神社の釣垂岩については、『比良山系における山岳宗教調査報告書』という本のなかに掲載されている、『白鬚大明神縁起絵巻』の詞書のなかに、下記のような文章があります。
下記の文章のなかの、「もとより社の前にも巨石ありて」というところの「社」というのは、白鬚神社のことだろうとおもいます。
又、いつの時にか現形し給ひけん。比叡山横川にも、明神釣垂岩とてあり。亦、もとより社の前にも巨石ありて、其釣垂し時、坐し給ふ跡とて、今にのこれり。
(「白鬚大明神縁起絵巻」上巻 詞書 第七段, 『比良山系における山岳宗教調査報告書』) [65]
このように、『白鬚大明神縁起絵巻』では、「(白鬚神社の)お社の前に、巨石(釣垂岩)がある」とされています。
この「白鬚神社の釣垂岩」の、現在の所在地は、白鬚神社の前にある道路(滋賀県道558号高島大津線)を、東北東の方角へ100メートルほど行ったあたりのところの、ガードレールの下の琵琶湖の湖岸です。
(「白鬚神社の釣垂岩」の現在の位置については、2020年1月25日に、筆者が、白鬚神社の社務所に電話で問い合わせて確認しました。)
その「白鬚神社の釣垂岩」の場所は、緯度経度で表現すると、「緯度経度: 35.274881,136.012529」のあたりの湖岸です。
ちなみに、現在は、「白鬚神社の釣垂岩」のすぐそばまで行くことはできなくなってしまっています。県道558号線の道路のガードレールの下にある、「白鬚神社の釣垂岩」がある湖岸の砂浜まで行くためには、「白鬚神社の釣垂岩」がある場所(緯度経度: 35.274881,136.012529)から南西の方角に20メートルほど行ったあたりのところにある、鉄製の階段をとおる必要があります。ですが、残念ながら、現在は、この鉄製の階段は、錆びて朽ち果ててしまっているため、封鎖されてしまっていて、通行することができなくなってしまっています。
ただ、現在でも、すこしはなれた場所からであれば、「白鬚神社の釣垂岩」を見ることはできます。
「白鬚神社の釣垂岩」がある場所(緯度経度: 35.274881,136.012529)から、北東へ100メートルほど行ったあたりの、県道558号線の道路の、南側の歩道から、湖中大鳥居がある方角(南西)を見ると、道路の下の湖岸の岸辺のところに、「白鬚神社の釣垂岩」があるのが見えます。
ちなみに、ぼくが、「白鬚神社の釣垂岩」の所在地について、白鬚神社の社務所に電話で問い合わせをしたときに、回答してくださった方のお話によると、以前は、琵琶湖の水位がもっと低かったので、「白鬚神社の釣垂岩」は、いまよりももっと、地表に突き出した状態だったそうです。ですが、だんだんと砂に埋れていって、現在の状態になったそうです。
Googleストリートビューをつかって、「緯度経度: 35.274881,136.012529」の地点から北東へ100メートルほど行ったあたりの、県道558号線の道路の、南側の歩道から、白鬚神社のまえにある湖中の鳥居の方角(南西)を向くと、ガードレールの下の琵琶湖の湖岸のところに、「白鬚神社の釣垂岩」があるのが見えます。
「白鬚神社の釣垂岩」
(湖中鳥居の方角(南西)を向いたときに、ガードレールの下の湖岸に見える岩が、釣垂岩です。)
(参考)
白鬚神社HP
http://shirahigejinja.com/
参考: 白鬚神社の前の道路を横断するのは、とても危険です
ちなみに、白鬚神社の前の道路(県道558号線)を歩いて横断することは、とても危険です。白鬚神社のちかくの道路には、信号や横断歩道はなく、交通量が多いので、無理に道路を歩いて渡ろうとすると、交通事故を起こしてしまう危険があります。ですので、もし、白鬚神社の前の道路を横断しようとする場合は、最大限の注意をしてください。
白鬚神社の入り口の鳥居と、湖中鳥居のあいだの道路は、左右の道路の見通しがわるいです。ですので、もし、白鬚神社の前の道路を横断するとしても、白鬚神社の入り口の鳥居と、湖中鳥居のあいだのところの道路は、横断しないほうがいいとおもいます。
もし、白鬚神社の前の道路を横断しようとするのであれば、できるだけ、左右の道路の見通しがいいところ(できるだけ道路がまっすぐで、ちかくにカーブがないところ)を横断するほうが、交通量を起こしてしまう危険は減るのではないかとおもいます。具体的には、白鬚神社の入り口の鳥居から、北東の方角に数十メートル行ったところのあたりの道路は、左右の見通しがいいので、交通量を起こしてしまう危険が減るのではないかとおもいます。
白鬚神社の前の道路は、約15分ほどの間隔で、交通量が減ることがあります(これは、おそらく、遠くにある信号が赤になっているときに、後続車がそこで止まっている状態になるからだろうとおもいます)。
ですので、もし、白鬚神社の前の道路を横断するときは、あせってすぐに渡ろうとはせずに、まず、約15分間ほど待っていただいてから、交通量が減ったときをみはからって、最大限の注意をしながら横断していただければとおもいます。
(なお、この「約15分間」という数字は、ぼくが白鬚神社を訪れたときの時間帯でのことです。ですので、べつのとき、べつの時間帯の場合は、約15分間ほど待っていただいても、交通量が減らない場合があるかもしれませんので、ご注意いただければとおもいます。)
もし、白鬚神社の前の道路が、ずっと交通量が多いままで、交通量が減らない場合は、残念ですが、交通事故を起こしてしまう危険があるので、道路を横断しないでください。
釣垂岩 その2: 比叡山延暦寺の小比叡峰の中腹の修禅峰道の釣垂岩
比叡山延暦寺の、西塔地区と横川地区をむすんでいる峰道(修禅峰道)と呼ばれる山道の途中(小比叡峰の中腹あたり)に、釣垂岩と呼ばれるおおきな岩があります。(この上の写真と、この下の写真が、その「比叡山延暦寺の小比叡峰の中腹の修禅峰道の釣垂岩」の写真です。)
この下の文章は、この上の写真に写っている、「地主権現釣垂岩」についての解説板に書かれている文章です。
地主権現釣垂岩(つりたれいわ / たいつりいわ)
大山咋神亦の名は山末之大主神
上つ代 この岩より近江の海に
釣糸垂れておはしましき
ここに 大己貴神参至りまして
歌以ちて問ひたまひていはく
何事かおはしますらむ瑞垣の
久しくなりぬ見たてまつらで
(「地主権現釣垂岩」についての解説板の文章, 小比叡峰の中腹, 修禅峰道, 比叡山延暦寺)
(参考)
天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
https://www.hieizan.or.jp/
参考: 比叡山延暦寺の釣垂岩の別称「垂釣岩」「鯛釣岩」
釣垂岩は、垂釣岩や、鯛釣岩などと呼ばれることもあるようです。
この下の、 『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち』という本からの引用文のなかに、釣垂岩の別称である、垂釣岩や、鯛釣岩といった名称が記されています。
山王祭メモ
忘れられたもう一つの聖地
巻頭でも述べた『古事記』に記される「大山咋神」の鎮座する山について現在では、坂本の町から仰ぎ見ることのできる八王子山(別名牛尾山)だとする説が通説となっています。
ところが、日吉大社に関する記録をみていくと、その背後の県境近くにもう一つの神体山が古代から信仰の対象となっていたことが記録されています。
「山上山下巡拝絵巻」には、八王子山とは別の山に「小比叡山・波母山」とあり、「二宮権現」も描かれています。これは、横川方面にある垂釣岩(通称鯛釣岩)付近の山中のことで、今も回峯行者に尋ねると、「お山(比叡山)の伝えはここだ」とおっしやいます。
横高山(標高七六七メートル)の中腹で、延暦寺では西塔に属し、奥比叡ドライブウェイのゲートから約二キロ、日吉大社境内を流れる大宮川の水源にもあたります。回峯行者も必ず拝む磐座である垂釣岩があり、その上の棚地にある神社跡に石碑が建立されているのですが、残念なことに、現在は両者の間をドライブウェイが貫通してしまっており、この聖地を分断しています。
(山口幸次「山王祭メモ: 忘れられたもう一つの聖地」, 『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち』) [66]
釣垂岩 その3: 石山寺の釣垂岩(比良明神影向石)
琵琶湖の南のはしに位置する、滋賀県大津市石山寺にある石山寺には、比良明神影向石(ひらみょうじんようごうせき)という石があります。(この上の写真が、その「石山寺の比良明神影向石」です。)
この「石山寺の比良明神影向石」は、この下にある解説板にも書かれているとおり、「比良明神がその岩に座して、釣り糸を垂れていた」とされている岩です。つまり、さきほど紹介した、「白鬚神社の釣垂岩」や、「比叡山延暦寺の小比叡峰の中腹の修禅峰道の釣垂岩」とおなじ、釣垂岩と呼んでもさしつかえないとおもいます。
(参考)
大本山 石山寺 公式ホームページ
https://www.ishiyamadera.or.jp/
ここまで紹介してきたように、大昔の伝説のなかに登場する、「比良明神がその岩に座して、釣り糸を垂れていた」とされている「釣垂岩」は、白鬚神社や、比叡山延暦寺、石山寺の、それぞれの神社仏閣に、いまも現存しています(「現存している」ということになっています)。
大昔の伝説のなかに登場する「釣垂岩」が、いまも残っていて、それを実際に目にすることができる、というのは、なんだかロマンがあっていいなとおもいます。
あなたも、もし機会があれば、これら3つの「釣垂岩」をめぐってみるのも、おもしろいかもしれません。
参考: 『寺門伝記補録』に記されている、石山(石山寺)の比良明神(白鬚明神)
比良神は、また白鬚明神と名く、釈書〹八いわく聖武天皇天平年中東大寺の良弁、近州勢多に至る、時に神化して釣魚の翁と作り弁にいわく「我は是れ山主、比良の明神なり、この地は観音の霊区なり」と、語りおわりて見えず、弁によりて石山寺をその地に創す略抄
(「五所明神祠中院」, 「寺門伝記補録第五」, 『三井寺法灯記』) [68] [26]
参考: 「造立盧舎那仏詔」: 「奈良の大仏」(東大寺の盧舎那仏像)を造立するために、聖武天皇によって出された命令書
天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く
―― 大伴家持『万葉集』第18巻[歌番号4097] [70]
奈良の東大寺に、「奈良の大仏」として有名な、盧舎那仏像という巨大な仏像があります。この東大寺の盧舎那仏像は、西暦743年に、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)にあった紫香楽宮において、聖武天皇が出した命令書である、「造立盧舎那仏詔」という命令書にもとづいてつくられた仏像です。
この上の絵画の画像のなかに描かれている、おそらく、聖武天皇だろうとおもわれる人物が描かれている部分を拡大したものが、この下の画像です。
「大仏開眼」寺崎広業(絵画)〔一部分〕 [71] [72]
(東大寺の盧舎那仏像の大仏開眼供養の儀式のようすを描いた絵画。)
(この画像のまんなかあたりに描かれている人物が、おそらく、聖武天皇だろうとおもいます。)
ちなみに、聖武天皇は、西暦745年に、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の場所を、「新京」(首都)としてさだめました。そして、大仏(盧舎那仏像)も、紫香楽宮があるこの場所につくろうとしていました。ですが、この場所で、火災や地震がつづいたことから、4カ月後に、首都は平城京(奈良市)にもどされてしまいました。それにともなって、大仏(盧舎那仏像)も、奈良の平城京にある東大寺でつくられることになりました。
ついでながら、滋賀県大津市の南部にある石山寺の創建についての伝説が記されている、『石山寺縁起』という絵巻物のなかにも、東大寺の盧舎那仏像の造立にまつわる、つぎのような主旨の伝説が記されています。
「東大寺の盧舎那仏像を造立するために必要な黄金が不足していたことから、聖武天皇は、良弁僧正に命令して、黄金が産出するように祈願させました。そして、良弁僧正が、石山の地(現在の石山寺がある場所)で黄金の産出を祈願していたところ、陸奥国で黄金が産出した、という報告が入りました。この陸奥国で産出した黄金をつかうことで、無事に東大寺の盧舎那仏像を造立することができました。」
この下の絵画の画像は、『石山寺縁起』の絵巻物のなかに描かれている、良弁僧正と、比良明神との、出会いの場面を描いたものです。良弁僧正は、黄金をさがしもとめて石山の場所まで来たときに、比良明神と出会ったとされています。
この下の地図のなかの、下のはしっこのほうのところに、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)にあった紫香楽宮の場所や、滋賀県大津市の南部にある石山寺(また、その前身である石山院)(伽藍山)の場所を図示していますので、ご参照ください。
この下の引用文は、『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版)という本に掲載されている、「造立盧舎那仏詔」の文章についての、解説の文章です。
「造立盧舎那仏詔」というのは、「奈良の大仏」として有名な、東大寺の盧舎那仏像をつくるために、西暦743年に、聖武天皇が出した命令書の文章です。
造立盧舎那仏詔
聖武天皇(七〇一―五六)が天平十五年(七四三)十月十五日、紫香楽宮にあってだした、大仏建立発願の詔である。聖武治世には国家鎮護を念じた仏教の保護育成が盛んに行なわれ、天平九年三月詔に「毎レ国令下造二釈迦仏像一軀、挾侍菩薩二軀一、兼写中大般若経一部上」、同十二年六月条に「令下天下諸国毎レ国写二法華経十部一幷建中七重塔上焉」とあり、同十三年三月には国分寺創建の詔がだされている。この詔はこれらを背景にしたものであるが、同時に華厳経の教義にのっとっていることも注目される。「夫有二天下之冨一者朕也。有二天下之勢一者朕也」の一句は、古来より有名であった。底本には、新訂増補国史大系本「続日本紀」を用いた。
〈家永三郎注〉
この下の文章が、聖武天皇によって出された、「造立盧舎那仏詔」の命令書の文章です。
(ちなみに、この下の文章のもととなった、原文(漢文)は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、『国史大系 第2巻 続日本紀』(1897-1901年, 経済雑誌社)の、248~249ページ(コマ番号: 130)に掲載されている、(天平15年(西暦743年)の)「冬十月辛巳」の条のところで、見ることができます。)
造立盧舎那仏詔
詔して曰く、朕薄徳をもて恭くも大位を承け、志は兼済に存りて、勤めて人物を撫でつ。率土の浜、すでに仁恕に霑ふといへども、普天の下いまだ法恩に浴みず。誠に三宝の威霊に頼りて乾坤相泰けく、万代の福業を修ひて動植咸栄えむと欲す。ここに天平十五年歳次癸未十月十五日をもて、菩薩の大きなる願を発して、盧舎那仏の金銅像一軀を造り奉りつ。国の銅を尽して象を鎔り、大きなる山を削りてもて堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむとす。
それ天下の富を有つものは朕なり。天下の勢を有つものも朕なり。この富と勢とをもて、この尊き像を造りたてまつりつ。事は成り易く、心は至りがたし。ただ恐らくは徒に人を労かすことありて、能く聖を感かすことなく、或は誹謗を生みて、反りて罪辜に堕ちむことを。この故に知識に預る者は、懇に至誠を発さば、各介福を招かむ。宜しく日ごとに盧舎那仏を三たび拝みたてまつるべく、自ら当に念を存ちて、各盧舎那仏を造りたてまつるべし。もし更に、人情に一枝の草・一把の土を持ちて、像を助け造らむと願ふものあれば、恣にこれを聴せ。国郡等の司、この事によりて百姓を侵し擾まし、強に収歛めしむることなかれ。遐邇に布き告げて、朕が意を知らしめよとのたまへり。
下記は、上記の「造立盧舎那仏詔」の文章のなかにでてくる言葉についての補足説明です。 [78]
※率土の浜・普天の下: 詩経、小雅、北山に「溥天之下、莫レ非二王土一、率土之浜、莫レ非二王臣一」。書紀に聖徳太子の肇作として引用される憲法十七条にすでに「率土兆民、以レ王為レ主」との用例がある。
※乾坤: 天地。
※盧舎那仏の金銅像: 華厳経の教主で、毗盧遮那仏(毘盧遮那仏)ともいう。宇宙の象徴。金銅像は金の鍍金をした銅製の仏像。
※知識: 造寺造仏その他の功徳を協力して行うための信者の組織。
※「百姓を侵し擾まし、強に収歛めしむることなかれ」: 続紀、天平宝字元年七月庚戌条の橘奈良麻呂の言に「造二東大寺一人民辛苦」とあり、結果としては、百姓を侵しなやますことを免れなかった。
※遐邇: 遠近。
参考: 釣垂岩 その4(?): 近江八幡市の『大嶋神社・奥津嶋神社文書』に記されている、釣垂岩のような岩の上で釣り糸を垂れる白鬚明神(比良明神)の末裔の翁
大嶋神社・奥津嶋神社
(滋賀県近江八幡市北津田町)
滋賀県近江八幡市北津田町に鎮座する大嶋神社・奥津嶋神社に古来から伝えられている貴重な中世史料の古文書をまとめた、『大嶋神社・奥津嶋神社文書』という本があります。
この『大嶋神社・奥津嶋神社文書』に所収されている「大嶋神鎮座記寫」(「大嶋神鎮座記写」)という文書のなかに、釣垂岩のような岩の上で釣り糸を垂れる白鬚明神(比良明神)の末裔の翁が登場します。
下記の文章と、その翻訳文が、その白鬚明神の末裔の翁が登場する場面の文章です。
「このくに津田の庄にとしふるくすみ、しらひけの御神の御すへなりとて、いのちもなかきおきなありて、つわきのつちいしといへるいはのうへにてつりたれてあそふ事をすきたりしか」
(筆者による翻訳文: 「この国(近江国)津田の庄に年古く住み、白鬚の御神の御裔なりとて、命も長き翁ありて、「つわきのつち石」と云へる岩の上にて釣り垂れて遊ぶ事を好きたりしか」)
大嶋神鎮座記
淡海国(近江国)津田の庄(現在の、滋賀県近江八幡市北津田町のあたり)に斎き祀る御神は、大国主の御神、多治比米(多治比売/多治姫)の御神、奥津島姫(奥津嶋姫)の御神、事代主の御神たちなり。この国(近江国)津田の庄(現在の、滋賀県近江八幡市北津田町のあたり)に年古く住み、白鬚の御神(白鬚明神)の御裔なりとて、命も長き翁ありて、「さわたのつち石」(または、「つわきのつち石」)と云える岩の上にて釣り垂れて遊ぶ事を好きたりしか。ある夜遥か北の方、奥嶋(奥島)の杉の林に、光輝けるを見たり。媼怪しと思い、葦原を掻き分けて光を尋ね探るに、気高き幾人もの神、杉の木末(木の末)(梢)に居まして、我は宗像の主なり。このこの湖(または、「みつかけ」(「水掛け」?))の景色良くて、折々遊びたりしに、今は帰るまじと宣いし故、媼大いに喜び、彼方此方と良き処を求め、斎たりしに、後に奥嶋(奥島)の宮の神とは成れり。□□□のち中大炊の帝の后、病き(労き)患いしに、帝も痛く患い給いぬ。ある夜の夢に、一人の媼御枕元に蹲る。我は奥嶋(奥島)の主なりとて消にけり。帝怪しみて、詔御使いをたて、后の病き(労き)祈り在ししに頓に癒たりければ、帝深く叡感在し、この島へ臨幸し給い、御幣を捧げ在し(以下欠損)
(参考文献: 『大嶋神鎮座記』(『大嶋神社・奥津嶋神社文書』所収)) [79] [80]
この上の文章は、下記の文章のなかにある文章です。
(「□」の記号は、欠損部分をあらわしています。)
大嶋神□
あわうみのくに津田の庄にいつきまつ□
御神ハ大国主の御神、多□比米の御神、奥□島姫の御神、事代主の御神たちなり、このく□津田の庄にとしふるくすみ、しらひけの御□の御すへなりとて、いのちもなかさおきなありて、つわきのつちいしといへるいはのうへにてつりたれてあそふ事をすきたりしか、ある夜はるか□たのか□をくしまの杉のはやしにひかりかゝ□けるを見たり、おうなあやしと思ひ、あし原を□きわけてひかりをたつねさくるに、けたかきい□たりもの神、杉の木末にいまして、われハむなかたの主なり、このこのミつうみのけしきよく□をり〳〵遊ひたりしに、いまはか□るましとのたまいしゆへ、おうなをほいによろこひ、かなたこなたとよきところをもとめ、いつきたりしに、のち□□しまの宮の神とはなれり、□□□のちなかをほひ□みかとのきさき、いたつき□□□しに、みかともいたくわつらいたまいぬ、ある夜のゆめに、ひとりのをうな御まくらのもとにうつくまる、□れハを□しまの主なりとてきへにけり、みかとあやし□□みことのり御つかいをたて、きさきのいたつき□のりまし〳〵しに、とみにいへたりけれハ、み□□ふかくゑいかんまし〳〵、この□□へみゆる□たまい、みてくらをさゝけまし〳〵
(出典: 「大嶋神鎮座記寫」(「大嶋神鎮座記写」), 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』) [81]
この上の文章は、下記の文章のなかにある文章です。
(下記の文章は、『大嶋神社・奥津嶋神社文書』の本に記載されている、欠損部分や、この本の編集者が補った言葉や漢字、などの情報を踏まえて、参考にさせていただいたうえで、筆者が、適宜、読みやすいように書き換えたものです。「●」の記号は、欠損部分をあらわしています。)
大嶋神●
あわうみのくに津田の庄にいつきまつる
御神ハ大國主の御神、多治比米の御神、奥津島姫の御神、事代主の御神たちなり、このくに津田の庄にとしふるくすみ、しらひけの御神の御すへなりとて、いのちもなかきおきなありて、つわきのつちいしといへるいはのうへにてつりたれてあそふ事をすきたりしか、ある夜はるかきたのかたをくしまの杉のはやしにひかりかゝやけるを見たり、おうなあやしと思ひ、あし原をかきわけてひかりをたつねさくるに、けたかきいくたりもの神、杉の木末にいまして、われハむなかたの主なり、このこのミつうみのけしきよく●をり〳〵遊ひたりしに、いまはかへるましとのたまいしゆへ、おうなをほいによろこひ、かなたこなたとよきところをもとめ、いつきたりしに、のち●●しまの宮の神とはなれり、●●●のちなかをほひ●みかとのきさき、いたつき●●●しに、みかともいたくわつらいたまいぬ、ある夜のゆめに、ひとりのをうな御まくらのもとにうつくまる、われハを●しまの主なりとてきへにけり、みかとあやし●●みことのり御つかいをたて、きさきのいたつき祈りまし〳〵しに、とみにいへたりけれハ、みかとふかくゑいかんまし〳〵、この●●へみゆる●たまい、みてくらをさゝけまし〳〵
(参考文献: 「大嶋神鎮座記寫」(「大嶋神鎮座記写」), 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』) [79] [82]
この下の引用文は、この『大嶋神社・奥津嶋神社文書』の本に収載されている古文書についての説明です。
本文書は、滋賀県近江八幡市北津田町に鎮座する大嶋神社・奥津嶋神社に古来伝えられたもので、本館が保管する国の重要文化財である菅浦文書、県の重要文化財である今堀日吉神社文書とならぶ県下の貴重な中世史料の一つである。その内容は、ほとんどが中世の社会経済史料であり、特に「庄隠規文」をはじめとする惣の定書や湖上漁業、宮座関係文書、それに嘉吉元年の徳政札など学界で注目される豊富な内容をもつものである。
(「序」, 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』) [83] [82]
また、下記の引用文も、『大嶋神社・奥津嶋神社文書』(『大嶋奥津嶋神社文書』)に掲載されている、『大嶋神鎮座記』の文章です。
下記の引用文は、『比良山系における山岳宗教調査報告書』という本に掲載されている、阿部泰郎さんの論文「比良山系をめぐる宗教史的考察」のなかの、「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」という節に掲載されている、『大嶋神鎮座記』(大嶋奥津嶋神社文書)の文章です。
(「□」の記号は、欠損部分をあらわしています。)
大嶋神□□□
あわうみのくに津田の庄にいつきまつる御神は、大国主の御神、事代主の御神たちなり、このくに津田の庄にとしふるくすみ、しらひけの御神の御すへなりとて、いのちもなかきおきなありて、さわたのつちいしといへるいはのうへにて、つりたりてあそふ事をすきたりしか、ある夜はるかきたのかた、をくしまの杉のはやしに、ひかりかゝやけるを見たり。おうなあやしと思ひ、あし原をかきわけてひかりをたすねさくるに、けたかきいくたりもの神、杉の木末にいまして、われはむなかたの主なり、このこのみつかけのけしきよくて、おりおり遊ひたりしに、いまはかえるましとのたまいしゆへ、おうなをほひによろこひ、かなたこなたとよきところをもとめ、いつきたりしに、のちに奥しまの宮の神とはなれり。□□□のちなかおほひのみかとのきさき、いたつき□□□しに、みかともいたくわつらいたまいぬ。ある夜のゆめに、ひとりのおうな御まくらもとにうつくまる。われはをくしまの主なりとてきへにけり。みかとあやしみて、みことのり御つかいをたて、きさきのいたつき□□のりましまししにとみにいへたりけれは、みかとふかくゑいかんましまし、このしまへ□□□たまひ、みてくらをさゝけましまし□□□
(出典: 阿部泰郎「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」, 「比良山系をめぐる宗教史的考察」, 『比良山系における山岳宗教調査報告書』) [84]
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=278
「大嶋奥津嶋神社 (オオシマオクツシマ)
鎮座地 滋賀県近江八幡市北津田町529」
比叡山延暦寺の領地であった、近江国蒲生郡の奥島(近江八幡市の、円山町・島町・白王町・北津田町・中之庄町のあたりの地域)
かつて「奥島」と呼ばれていた地域の地図
(現在の滋賀県近江八幡市のなかの、円山町・島町・白王町・北津田町・中之庄町のあたりの地域)
この下の引用文は、『百科事典マイペディア』に記されている、近江国蒲生郡にある「奥島」という場所(現在の滋賀県近江八幡市のなかの、円山町・島町・白王町・北津田町・中之庄町のあたりの地域)についての解説文です。
この下の引用文では、奥島の土地は、比叡山延暦寺(山門)の領地であったとされています。
近江国蒲生(がもう)郡(現滋賀県近江八幡市)の地名で,古くは琵琶湖に浮かぶ島であった。延暦(えんりゃく)寺領の奥島荘(島荘とも)が成立しており,鎌倉期には下司(げし)と百姓の間や,隣接する津田中荘と【えり】や網の設定をめぐって対立,また南北朝期には預所が御所山の木を伐採させて船で坂本まで運ばせたことなどは非法であるとして抗争が起きている。室町期には荘民のなかに郁子(むべ)供御(くご)人と称される者がおり,禁裏(きんり)や幕府に進献していたが,それは天智天皇以来という伝承がある。また荘内には山門(さんもん)勢力下の湖上関が置かれていた。こうした荘民の姿を伝えるのは荘内に鎮座する大島奥津島神社で,宮座(みやざ)の運営を核に荘民間の紐帯を強めた。すでに1262年の荘隠規文(かくしきぶみ)には共同体の秩序を乱す者は妻女・子息でも荘園の外へ追放され,その住宅を焼かれることなどが記されており,宮座は惣(そう)結合と村政の執行機関という性格をもっていたといえよう。また近くの長命寺は西国三十三所観音霊場第31番札所であり,長命寺参詣曼陀羅でも知られる。
(「百科事典マイペディアの解説」, 「奥島(おくしま)とは - コトバンク」) [85]
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=278
「大嶋奥津嶋神社 (オオシマオクツシマ)
鎮座地 滋賀県近江八幡市北津田町529」
(参考)
大嶋神社奥津嶋神社 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%A5%A5%E6%B4%A5%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
○奥島荘 丸山・奥島・白部・王浜・北津田・中庄等の村といふなり。
(島村大字奥島。)
○奥島村 北庄の西北にあり。地続あらず、葭沼有りて間隔たる。北庄より渡来橋を過ぎて此地に至る。奥津島と詠めるはこゝの事也此奥津島山を仙行山とも仙居山とも云ふ。古今仙聖此山に住むといへり。笠鉾といふ峯に常に住すといひ、諸民此峯へはゆかず、之を片吹山とも傾山ともいふ。【続千載集】に「風渡る鳰の湖空晴れて月影清しおきつ島山」。臣按ずるに奥津島山とよめるはこゝの事にはあらず澳の島の事也ときけり。然れ共暫く土俗の説に従ひしるす。
(寒川辰清「奥島荘」「奥島村」, 『近江輿地志略』) [86] [87] [88] [26]
(参考)
島村 (滋賀県) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9D%91_(%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C)
「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、奥島村・円山村・白王村・北津田村・中之庄村・長命寺村・沖島村の区域をもって発足。」
(参考)
蒲生郡 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1
「王ノ浜村・白部村が合併して白王村となる。」
「島村 ← 奥島村、円山村、白王村、北津田村、中之庄村、長命寺村、沖島村(現・近江八幡市)」
(参考)
滋賀報知新聞
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0028997
「惟喬(これたか)親王 県内ゆかりの神社」
「近江八幡市白王(しらおう)町には、名称の同じ若宮神社が二社ある。明治十二年に合併するまでの、王浜(おのはま)村と白部(しらべ)村のそれぞれの鎮守である。」
(参考)
奥島荘(おくしまのしょう)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B3%B6%E8%8D%98-1282602
白鬚神社(白鬚明神 / 比良明神)は、近江国蒲生郡の沖島(滋賀県近江八幡市沖島町)にも存在した
奥津島神社
(沖島(旧称:おきのしま)(滋賀県近江八幡市沖島町))
沖島(旧称:おきのしま)(滋賀県近江八幡市沖島町)
この下の引用文は、『近江輿地志略』という本に記されている、近江国蒲生郡にある「沖島」(奥津島 / 澳津島)という場所(現在の沖島(滋賀県近江八幡市沖島町))についての解説文です。
この下の、『近江輿地志略』からの引用文の記述によれば、奥津島には、白鬚社(白鬚神社)があったようです。このように、奥津島には、白鬚明神に対する信仰があったようです。もしかすると、奥津島で信仰されていた白鬚明神も、比良明神と同一視されていたのかもしれません。(ちなみに、沖島(旧称:おきのしま)の西側からは、琵琶湖をはさんだ対岸にある、比良山地の山並みが一望できるそうです [90])。もしそうだとすれば、奥津島でも、比良明神(白鬚明神)に対する信仰があったということになるのではないかとおもいます。
○沖島 岡山の西北に在り。湖中の一島也、東西三町余南北一四五町あり。漁人多く此に住み、其島の石を取って之を売る、己が居を亡ぼす者也といふべし。古歌に所謂澳津島山是也。往古は此地に大社ありしと見えて、【延喜式】に蒲生郡澳津島神社をのせたり。
〔中略〕
〔八尾大明神社〕 奥津島にあり。土俗云奥津島神社是也といふ、詳ならず。
(村社奥津島神社 祭神多紀理毘売命須佐之男命 式内蒲生郡十一座の一名神大これなりといふ。)
〔白鬚社〕 同所にあり。
(寒川辰清「沖島」, 『近江輿地志略』) [91] [87] [88] [26]
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=281
「奥津嶋神社 (オキツシマ)
鎮座地 滋賀県近江八幡市沖島町188」
(参考)
奥津島神社 のアクセス・営業時間・定休情報|びわ湖周辺観光|琵琶湖汽船
https://www.biwakokisen.co.jp/tourist_info/7578/
(参考)
島の西側 のアクセス・営業時間・定休情報|びわ湖周辺観光|琵琶湖汽船
https://www.biwakokisen.co.jp/tourist_info/7583/
「島の西側
島の西側にある旧桟橋からは湖西にある比良山系の山並みを一望することができます。」
(参考)
奥津嶋神社 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%B4%A5%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
(参考)
沖島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E5%B3%B6
余談: 「つわきのつちいし」と呼ばれていた、釣垂岩のような岩は、どこにあったのか?
「このくに津田の庄にとしふるくすみ、しらひけの御神の御すへなりとて、いのちもなかきおきなありて、つわきのつちいしといへるいはのうへにてつりたれてあそふ事をすきたりしか」
(筆者による翻訳文: 「この国(近江国)津田の庄に年古く住み、白鬚の御神の御裔なりとて、命も長き翁ありて、津脇の土石と云へる岩の上にて釣り垂れて遊ぶ事を好きたりしか」)
さきほども紹介した、『大嶋神社・奥津嶋神社文書』に収載されている「大嶋神鎮座記寫」(「大嶋神鎮座記写」)という古文書のなかの、この上の文章のなかには、「つわきのつちいし」と呼ばれていた、釣垂岩のような岩のことが記されています。
この「つわきのつちいし」と呼ばれていた岩が、どこにあったのかということは、わかりません。ですが、もしかすると、大嶋神社・奥津嶋神社の周辺の湖岸にある、下掲の写真に写っている岩のどれかが、「つわきのつちいし」と呼ばれていた岩なのかもしれません。
参考: 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻』に記されている、白鬚神社や、比良明神(白鬚明神)についての記述
以下は、参考情報です。
この下の引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』に記されている、白鬚神社や、比良明神(白鬚明神)についての記述です。
白鬚神社 高島郡高島町鵜川
比良山系の北端が琵琶湖にその断層崖を沈めるようにした白砂の汀の景勝地に鎮座し、全国的な分布をみせる白鬚(髭)社の本社とされている。『三代実録』の貞観七年(八六五)正月十八日の条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」とあるが、当社の祭神猿田彦命はこの「比良神」にあたるという。
社名の「白鬚」は一般にシラヒゲと呼ばれるが、それに異をとなえる説がある。言語学的な考証を抜きにして結論だけをいえば、「白鬚」は「百済」であり、その百済もまた仮借字で、本義はクナルすなわち「大国」を意味するというのである。いうまでもなく、この説は白鬚神社を渡来神とみる。
現在、白鬚神社が最も濃密に分布するのは旧武蔵国北部である。
〔中略〕
武蔵についで白鬚社の多い近江や筑前はいうまでもなく、白鬚神を客人明神とした安芸も、文献上では武蔵国同様に、渡来人の拓植した地方であったことは確かであり(中島利一郎「白鬚考」『日本地名学研究』所収)、とくに近江の白鬚神の場合には、その歴史的背景として日本海側からの大陸文化の進入ルートが考えられるかにみえる(景山春樹『近江文化財散歩』)。
一方、白鬚神の前身が比良神(比良山の神)であったことを示唆する伝承が古くからある。それは十世紀末から十一世紀初めにかけて、『三宝絵』『東大寺要録』『今昔物語集』などを経てしだいに形成された東大寺縁起とでもいうべきものにもとづく伝承と思われる。保延六年(一一四〇)の『七大寺巡礼私記』古老伝からの引用と思われる十四世紀の虎関師練の『元亨釈書』寺像志に、次のような説話が載っている。
聖武天皇は東大寺大仏の鍍金川の黄金を集めたが、所要の量に不足した。そのおり大和の金峰山が全山黄金であると伝え聞いた天皇は、ただちに僧良弁に命じ、金剛蔵王に採掘について祈らせた。すると、「この山の黄金を勝手にしてはならないが、別の方法を知らせよう。近江湖南の勢多県(現大津市瀬田付近)にある山は、如意輪観世音の霊地である。そこへ行って念ずれば、かならず黄金が得られよう」との夢のお告げがあった。そこで良弁が急いで勢多県へおもむくと、一人の老翁が大岩の上に坐っていて、大川(瀬田川)に釣糸を垂れていた。不審に思って尋ねると、老翁は「自分はこの背に続く山々の地主の比良明神である。そしてここは観世音の霊地である」と言い、またたくうちにかき消えた。良弁はさっそくその大岩の上に廬を建て、そこに観世音の像を安置した。今の石山寺の起こりである。そして絶え間なく読経を続けると、やがて陸奥からはじめて黄金が出たとの知らせがあったという。
この話は『元亨釈書』と同じころの『石山寺縁起絵巻』の一場面にもあってよく知られていた。しかしここで注意したいのは、この老翁が比良明神と名乗っていることである。さきの『三代実録』の比良神の記事が想起されるが、人々に比良神を白鬚神に結びつけさせたのは、あるいはその示現のイメージでなかったかと思われる(阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」『比良山系における山岳宗教調査報告書』所収)。
比良明神が白鬚明神と称されるようになった年代は、少なくとも鎌倉時代にさかのぼるといってよい。すなわち当社は、弘安三年(一二八〇)の原図にもとづいて応永二年(一三九五)前後に描かれた「比良荘堺相論絵図」に「白ヒゲ大明神」とあるのを初見として、『山家略記』の「日吉山王霊応記第三」や『太平記』巻十八「比叡山開闢の事」、『曾我物語』の「比叡山始まりの事」などに、比叡山、比良山、志賀浦の地主神として載っている。
琵琶湖を中心とした近江の各地には、老翁(老いたる神)が姿を表わす物語が点在する。たとえば甲賀郡水口在大岡寺の甲賀三郎譚で知られた『神道集』の「諏訪縁起」、蒲生郡奥島の大島奥津島神社の縁起「大島鎮座記」などがそれである。さらに大和国の長谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』中巻には、長谷観音の御依木となるべき仏木を運ぶ場面がみられるが、それを守護する「三尾明神」が老翁の姿で描かれている。同じ場面は白鬚神社にほど近い高島町大字音羽の長谷寺の「白蓮山長谷寺縁起」にもみられる。
〔中略〕
こうして東大寺縁起、石山寺縁起、比叡山縁起、長谷寺縁起などを並べてみると、比良明神、三尾明神、白鬚明神と名を異にしてはいるものの、その主体は一つであることが知られる。また当社の祭神が猿田彦命とされたのは、この地方に流布した『三尾大明神本土記』(水尾神社の項参照)の次の記述と関係があろう。すなわち、「昔、猿田彦命は長田に住まわれたので、長田士君とも呼ばれていた。瓊々杵尊が日本の国を巡狩されたとき、比良山の北に鎧崎・吹卸崎・鐘崎の三つの尾崎があって通行の妨げとなっていた。猿田彦命はそれを押し崩した手柄によって三尾大明神の名を賜わったので、住まいする所を三尾郷と呼ぶようになった」とあり、また「猿田彦命はその後伊勢国の狭長田の里に八万年も永らえたが、垂仁天皇の御代、この本土の三尾郷へ帰って来て、洞穴の内に入ってついに神になったといわれている」とある。これは当社が水尾神社と深い関係をもつことを示すもので、さきの白蓮山長谷寺の縁起などとも密接な結びつきがあるように思われる。現在、当社の社前の湖中に朱塗の大鳥居が建っている。以前はさきの「比良荘堺相論絵図」にみるように陸上にあったが、かつて琵琶湖が増漲し、それ以来水中にあるという。『江源武鑑』も永禄六年(一五六三)九月十九日の条に「白鬚大明神、前湖壱丁汀石ノ鳥居ヲ顕ス、同廿四日失スト」などと記している。
本殿は棟札によると慶長八年(一六〇三)豊臣秀頼の造立に成り、方三間・入母屋造・檜皮葺で、桃山時代の建築様式をよく伝えるものとして昭和十三年に国宝(現重文)の指定を受けた。背後の山頂に巨岩の磐座があり、その周囲に古墳群がある。社殿の右の山林には横穴式石室が一つあって整備保存されている。
〔中略〕
ちなみに、中世の当地は山門(延暦寺)と六角氏の勢力の影響を強く受けたところであり、次の伝承などもそうした歴史的背景の推移を物語るものである。
鵜川地先に流れる小川は俗にウコウガワ(おそらく鵜飼川の意)と呼ばれ、かつては土地の漁師が供祭人として白鬚神社に鵜遣いをもって川魚の献進を行なったが、中古山門から殺生禁断の制が出て廃絶したという。
(橋本鉄男「白鬚神社」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』) [92] [26]
参考: 『近江輿地志略』に記されている、白鬚神社や、比良明神(白鬚明神)についての記述
以下は、参考情報です。
この下の引用文は、『近江輿地志略』に記されている、「白髭大明神社」(白鬚神社)や、比良明神(白鬚明神(白髭明神))についての記述です。
〔白髭大明神社〕 鵜川村打下村の間にあり。打下村は高島郡也。此社ある地は郡界也。小松より四十六町あり。祭る所の神猿田彦命也。縁起曰、白髭大明神は皇孫天津彦火々瓊々杵尊降臨の時天の八衢にて天鈿女尊に逢ひ、吾はこれ猿田彦大神と名のり、伊勢狭長田の五十鈴の川上に到り垂仁天皇二十五年倭姫命に逢うて曰く、翁が世に出づる事、既に二百八万余歳とのたまふ。又斎内親王に謂ていふ、我寿福を人に授く故に太田神と名づくと、然して後国々を巡り此湖に来りて釣を垂る。湖の三たび変じて桑原となりしを見たりと。老翁の形を現じては白髭明神といふ。山門の横川にも釣垂石あり。元より社辺にも釣垂の大岩あり。承和八年叡山の法勢和邇の村をすぐる時、婦人我は比良神也と名のり。観音経を聴聞せんと願ひ給ふによつて、釈迦の出世を見給ふやと問ひしに、其時にや諸天多く西に飛びしと語り給ふ。浅井備前守長政の女、今の社を造営せり。此明神は日吉の早尾、熱田の源太夫、三州男川の神同一体にして本地不動明王なり。又庚申を守ると申すも此神を祈る事なり。此神の苗斎、伊勢神宮に仕へて玉串某とてあり。〔後略〕
(寒川辰清「白髭大明神社」, 『近江輿地志略』) [93] [87] [88] [26]
参考: 中世の比良山地の宗教は比叡山延暦寺の支配下にあった
以下は、参考情報です。
中世の比良山の宗教は、神社においても寺院においても圧倒的な比叡山延暦寺の影響下にある。比叡山の比良山への進出は平安中期からはじまり、平安末期にはほぼその支配は確立したといえる。しかし南北朝以降になると神社は武士の在地支配の手段となり、また村落民や村落間の結合の場に変質し、後者はそのまま近世へ引き継がれていった。寺院もまた南北朝期以降山岳仏教よりむしろ一向宗や禅宗のような民衆仏教が強くなり、天台系山岳仏教の勢力は衰えていった。
このように中世後期に衰退した天台系の勢力が決定的に潰滅したのは元亀天正の信長の兵火である。これによって比良山系の寺社は全滅したが、このうち神社は村落民の生活と密着している故まもなく復活し、なおかつ中世的側面を残していた。また本文ではふれなかったが日吉社側の祝部行丸などの復興活動があり、以後神社支配や神事祭礼においては日吉社の影響が大きい。これに対して天台系山岳寺院は復興されることなく歴史の彼方へ消えてしまったのである。
(吉井敏幸「第三章 比良山系における諸寺院の中世から近世への展開」, 「比良山系における中世寺社の近世的展開」(『比良山系における山岳宗教調査報告書』所収)) [94] [82]
シコブチ明神と、相応和尚と、天台修験(天台宗の修験道)と、無動寺谷と、息障明王院(葛川明王院)、などについて
聖の好むもの
比良の山をこそ尋ぬなれ
弟子遣りて
松茸平茸滑薄
さては池に宿る蓮の這根
芹根蓴菜牛蒡河骨うち蕨土筆
―― 「雑八十六首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [95]
シコブチ明神と、相応和尚と、天台修験(天台宗の修験道・修験者)と、無動寺谷と、息障明王院(葛川明王院)、などについて
相応和尚に仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地の地主神(思古渕明神)の領地と信仰
不動明王恐ろしや
怒れる姿に剣を持ち
索を下げ
後に火焔燃え上るとかやな
前には悪魔寄せじとて
降魔の相
―― 「仏歌十二首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [97]
比良山地の地主神については、ほかにも、天台宗の僧侶が、比良山地の地主神から比良山地の土地を譲り受けたとする説話があります。
相応和尚は、天台宗の僧侶であり、無動寺の開基であり、天台修験・比叡山回峰行の祖とされる人物です。相応にまつわる説話のなかには、「相応が、比良山地の地主神である思古渕明神から、葛川の地(比良山地の西側の地域)を譲り受けた」とする説話があります。この説話の背後にあるのは、天台宗の教団が、相応和尚に仮託して、比良山地の地主神である思古渕明神を信仰する人々の領地と信仰を奪い取った、ということなのかもしれません。
村山修一さんは、つぎのように述べておられます。下記の文章では、地主神が、比良明神ではなく、思古渕明神となっていますが、どちらも、比良山地の地主神であることはおなじです。ですので、「天台宗の教団が、比良山地の地主神の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ということは、「天台宗の教団が、比叡山の地主神(酒天童子(酒呑童子))の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ことと、おなじです。
相応は二十九歳にして生身の不動明王を拝せんがため、けわしい比良山西斜面の山道を北進し、遂に一清滝を発見し、ここを修行場と定めた。
〔中略〕
相応の到達した清滝はいまの安曇川畔坊村で、この川に合流する明王川の上手、比良山系から流れ下るところに生じた一つの滝と考えられ、主峯武奈嶽の直下に近く、極めて急斜面の地形をなしている。
相応は滝の前の石の上で、七日間明王を念じていた。そこへ一老翁があらわれ、対座して動かず、八日日に何人かと問うと、向うはお前は何のためここに来たのかと応酬し、相応は生身不動明王を拝む目的で修行していると答えると老人は感歎し、ここには十九の清滝と七つの清流があり、周囲、東は比良峯、南は花折峠、西は駈籠谷・鎌鞍峯、北は右渕瀬を境とする別領をなし、誰も入ったことがない。あなたは不動明王の後身であるから別領を進ぜよう。この滝は十九のうちの第三の清滝で、兜卒内院に通じ葛川滝という。今後修行者を守り、弥勒下生の暁まで仏法を守り続けることを誓おう、われは思古渕大明神であると言い終って姿を消した。
相応はこれは明王か魔王の変化かと疑いつつ、合掌析念を止めないでいると、遂に滝の内に明王の姿を見た。たちまち滝に飛び込んで抱き上げ、石上に置いて拝んでみるとただの樹木であった。よってこの樹木を以て不動明王を彫刻し比叡山無動寺に持ち帰り本尊としてまつった。
〔中略〕
ここで葛川の支配地を相応に譲ると託宣した思古渕明神について説明しよう。志古渕.信興渕等とも書き、葛川はじめ安曇川流域全体に今日もまつられている民俗神であり、その信仰は恐らく平安朝以前に溯るであろう。
〔中略〕
けだし思古渕明神は水神であるとともに地神でもあり、太古以来住民達の生活を支える精神的基盤であったにちがいない。ゆえに神が相応に土地を譲る託宣をした話は、相応が葛川の行場開拓について土地の住民との折衝を暗示し、裏に多少住民の抵抗が秘められていたことも想像される。それは高野山開発の際の空海に対する丹生明神(これをまつる丹生氏)の抵抗ほどのことはなかったにせよ、相応以後の天台の支配は、思古渕信仰に象徴される村民の山林所有権を、不動明王信仰で示される天台の領主側が奪い取るねらいをもったものとしても解釈されよう。明王院には創立の頃鎮守社が営まれ、いまそれは地主神社として安土桃山期の本殿や中世の神像が遺っているが、そこでは延暦寺の鎮守である日吉社の神が勧請され、配祀の神として賀茂・平野・松尾・三輪・鹿島・江文の諸神とともに思古渕明神もまつられ、日吉大明神の眷属神的地位に下げられてしまった。
(村山修一『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』218~219ページ) [26]
また、佐藤弘夫さんは、『霊場の思想』のなかで、つぎのように述べておられます。
下記で述べられている、中世の寺院がおこなった「寺領荘園の拡大」のやりかたは、天台宗の教団が、相応和尚という「聖人」の説話をつくりだし、その「聖人」に仮託して、比良山地の地主神(思古渕明神)の領地と信仰を、自分たちの領地と信仰にすり替えていったやりかたと、おなじなのだろうとおもいます。
中世成立期の寺院が重視したのが、寺の所有する土地(寺領荘園)の拡大である。寺院はみずからへの土地の寄進が、極楽往生へとつながる善行であることを積極的に宣伝した。廟所にいる聖人たちは彼岸への案内人であるとともに、集積された寺領に対する侵犯を監視する役割を負った。彼らは「賞罰」=アメとムチを使い分けることによって、この世の悪人を悟りの世界に導く存在とされていたがゆえに、仏敵への治罰は本来の役割となんら矛盾するものではなかったのである。
官寺としての古代寺院からの脱却をめざした諸寺院は、積極的に地方にも教線を拡大した。それは地方では廃れていた古い寺院の再興という形態をとった。その役割を担ったのが「聖」とよばれる一群の行者たちだった。
彼らは各地を巡って目ぼしい寺院を再興するとともに、中央から持ち込んだ最新の土木技術を用いて周辺の土地を開発し、囲い込んでその寺の経済的な基盤とした。開発され買得された土地には、所有のシンボルとして要所要所に堂舎が立てられ、神々が勧請された。そのうえで、寺と寺領全体の監視者として奥の院に聖人を祀った。
(佐藤弘夫「聖の活動」, 『霊場の思想』) [98] [26]
余談ですが、瀬田勝哉さんは、『木の語る中世』という本のなかの、「巨樹を伐る話と近江」という題名の文章のなかで、桑実寺の縁起が描かれている『桑実寺縁起絵巻』(『桑実寺縁起絵』)(『桑実寺縁起』)について、つぎのように述べておられます。
巨樹を伐る話と近江 『桑実寺縁起』から。海原から巨木が立ち上がり、八方に広がった枝は湖と山々を覆う。木の頂き近くには一羽の金鳥が飛び、枝には玉兎が遊ぶ。これは桑の木。この巨木に実った三つの菓の一つが金鳥(日光菩薩)、一つが玉兎(月光菩薩)、そしてもう一つが地に落ちて山となった。木の下がこの山、桑実山(別名繖山)だろう。そこに薬師如来を本尊とする桑実寺が建てられた。
『桑実寺縁起絵』は天文元年(1532)近江に亡命中の将軍足利義晴が、新たに制作して仮寓桑実寺に奉納したもの。絵は土佐光茂に描かせた。ではなぜ縁起絵の冒頭にこのような巨樹を描いたのか。亀井若菜氏の説では、義晴がこの木で将軍の権威を表わそうとしたのだという。将軍は中国で「大樹」という。当時の日本でも頻繁に使われた。亡命中の義晴は、あるべき将軍像をこの山と湖を覆う巨大な桑の木に託したというのだ。卓見だと思う。
ところでこの絵は桑の巨木に並べて観音正寺という寺を大きく描いた。桑実寺を描かなかったのは奇妙なこと。ここにも深い意図が感じられる。観音正寺は西国三十三所霊場の一つで、絵でも巡礼姿でにぎわっている。実は二つの寺のある繖山には義晴を庇護する近江守護六角氏の観音寺城があった。観音正寺は六角氏にとっては城名の由来ともなったほどのシンボルの寺。これを大樹と並べたことからも、絵の背後に六角氏の影が色濃く映る。琵琶湖周辺には巨樹の説話が多い。新たに作られたこの縁起絵はそうした在地の伝承を意識しながら、しかも当時の政治的関係に配慮しつつ構想されたものだろう。
(瀬田勝哉「巨樹を伐る話と近江」, 『木の語る中世』) [99] [26]
葛川と伊香立の相論
葛川と伊香立の相論
(二)葛川谷と伊香立
葛川明王院に伝わる文保元年(一三一七)の「葛川与伊香立庄相論絵図(簡略絵図)」(12)と、翌年の「葛川与伊香立庄相論絵図(彩色絵図)」(8)の二点は、中世を代表する境相論絵図として知られている。明王院は延暦寺の相応が修行の地を求めて葛川に開いた天台修験の道場にはじまる。しかし、葛川は隣接する伊香立庄との間で何度も境相論をくりかえしており、その過程で作成されたのがこの二点の絵図である。伊香立庄に対して自分達の優位さを示す意味が込められており、(8)の「彩色絵図」では、明王院・地主神社を大きくとって、実際の距離感とは異なった印象を与えることにより、「明王御領」としての葛川の権益を主張している。葛川を描いた絵図は江戸時代にも何点か制作されているが、「葛川明王院近世参詣絵図写」(7)は、山城と近江から明王院へ参詣するルートを描いている。地主神社の位置が現在地に移ってはいるが、明王院と地主神社を大きく描く構図は、(8)の「彩色絵図」の影響が強いことを感じさせる。
これらと異なる構図をとるものに、「葛川谷絵図」(6)がある。寛文二年(一六六二)の大地震で崩れた山肌が描かれているところから、それ以後の景観を描いた絵図であるが、それまでの絵図が明王院・地主神社を大きく描いていたのに対し、この絵図では下に小さく追いやられ、明王院背後の山々が中心となっている。山中には現在は忘れ去られた道筋や堂舎が見られ、葛川に参籠した行者の参る三の滝をはじめとする滝の描写も見られる。明王院の本堂には石積の舞台が設置されているが、これが(7)の「参詣絵図写」では懸造の舞台として描かれている。この舞台が何に使われたのか明王院の関係者に伺ってもはっきりしないとの事であるが、石垣の一部は現在も残されている。
ところで、以上みてきた葛川の絵図では、明王院と地主神社にいたる若狭街道は、安曇川の東岸を通っている。しかし、つい最近まで利用されていた旧道は安曇川の両岸をぬうように通り、さらに現在進められている国道整備事業では、橋とトンネルによって安曇川をまたぐ直線道路となっている。絵図と比較すると、道筋一つとってもこの間の変貌には目をみはるものがある。
(杉江進「(二)葛川谷と伊香立」, 「古絵図が語る大津の歴史」, 大津市歴史博物館(編集), 『古絵図が語る大津の歴史』) [100] [26]
葛川地区の森林資源、林産物、炭竃: 木材、薪炭
いずれか葛川へ参る道
仙洞七曲崩坂
大石曽束杉の原
そうちゅうのお前をゆくを
玉州の水
―― 「雑八十六首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [101]
葛川地区の森林資源、林産物、炭竃: 木材、薪炭
山間の葛川地区もまた、相応和尚以来の明王院が、京都の人々に深い帰依をうけ、『梁塵秘抄』にも「葛川へ参る道」が模索されたが、室町時代には途中・花折峠を越えて足利義満・同義尚・日野富子らの参籠があった。この地区と伊香立地区との境相(争)論はとくに著名だが、その他周辺の庄々とも争いが絶えなかった。その背景としては、葛川地区の木材とともに炭竃が多く営まれ、薪炭の生産されたことが魅力として考えられる。
(林屋辰三郎「北部地域の歴史的位置」, 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』) [102] [26]
三尾明神(水尾明神)について
近江潟みをの三崎の浦風にくもらぬ沖の月をみるかな
―― 『貞治百首』 [103]
三尾明神(水尾明神)について
『長谷寺縁起絵巻』に登場する、三尾明神と、祟りをなす霊木(御衣木)の楠と、香取本『大江山絵詞』に登場する、平野山(比良山地)の地主神(比良明神)としての酒天童子と、酒天童子が変化した姿である祟りをなす楠の巨木との、類似性について
『長谷寺縁起絵巻』(徳川美術館所蔵)第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の翁)や、長谷寺守護童子(持蓋童子)、
異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神(この絵では見切れていて見えません))
まことに、この巨大な「仏木」は神であった。上記の古い伝承によれば、たんに「辛酉歳」とする太古に流れ出たる大木が「里」に流れついて災厄をなす。『年表』等に「霹靂木」というのは、神の降臨した木であることを示す語としてよいだろう。それが人間の世界に出現した時に疫病などの災いをのみもたらすのは奇異なことのようであるが、そうした荒ぶるしわざこそ、新たに出現した威力ある神の特徴ともいうべきものであった。
―― 阿部泰郎「三尾明神: 長谷寺縁起」, 「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [104]
『渓嵐拾葉集』第百七「根本中堂不思議事」によれば、最澄自刻の伝承を持つ比叡山の根本中堂の薬師如来像の御衣木も、「晝ハ紫雲を覆、夜ハ光明ヲ放」つ霊木と語られる。
これらの縁起における御衣木の、一夜成長の巨木という伝説や、放光する木という伝承は、当初の民間伝承から見れば、必ずしも素晴らしく尊い物としての記述とはいえない。『長谷寺縁起』系統の御衣木と同様に、これらの形容は、霊木といっても負の性格を持つもの、怪奇現象や祟りにより恐れられる疫木を意味したのではないか。
―― 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」 [105]
古はよな、平野山を重代の私領として罷り過ぎしを、伝教大師といひし不思議の房が此の山を点じ取りて、峰には根本中堂を建て、麓には七社の霊神を崇め奉らんとせられしを、年来の住所なれば、且は名残も惜しく覚え、且は栖もなかりし事の口惜しさに、楠木に変じて度々障碍をなし、妨げ侍りしかば、大師房、此の木を切り、地を平げて、「明けなば」と侍りし程に、其の夜の中に又、先のよりも大なる楠木に変じて侍りし
―― 自らの領地への侵入者(伝教大師最澄)を防ぐために楠木の巨木に変化した酒天童子
(香取本『大江山絵詞』より) [106]
天使来りて追ひ出せしかば、力無くして又、此の山を迷ひ出でて、立ち宿るべき栖もなかりし事の口惜しさに、風に託し雲に乗りて、暫くは浮かれ侍りし程に、時々其の怨念の催す時は、悪心出で来て、大風と成り旱魃と成りて、国土に仇を成して心を慰み侍りき。
―― 近江国から追い出されて「流出」した酒天童子が行く先々で引き起こした「祟り」
(香取本『大江山絵詞』より) [106]
雪かゝる槇も檜原も高島のみをの杣山幾代へぬらん
―― 『新続古今和歌集』 [107]
香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠)と、『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りをなす霊木(御衣木)の楠には、たくさんの共通点があります。
そうした、たくさんの共通点があることから、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
ここでは、そのことについてお話したいとおもいます。
この下の引用文は、宮次男さんの「研究資料 長谷寺縁起 上」という論文のなかに記されている『長谷寺縁起絵巻』についての文章です。
次に長谷寺縁起絵巻三巻の内容についてのべるが、各巻の段は通し番号で示すことにする。また詞書の詳細は別掲の公刊を参照されたい。
巻上
〔中略〕
7 徳道は無上菩提の心おさえがたく、師の道明に仏像を造るために御衣木を求めようと思うと語った。道明は善き哉、近くの神河の岸に霊木があり、もっとも吉である。それについて昨夜一つの夢をみた。数人の異形の者が彼の木を中にして坐ってならび、その中の一人の童子が天蓋を木の上にかかげていて、また木の下には白衣の翁がいる。自分が翁に誰人かとたずねると、翁は、「我は三尾大明神である。この木を護るために本国から片時もはなれず、諸々の眷属をつれて来たのである。又天蓋をもつ童子は当山守護の童子で、この霊木は彼の請いによってこの山に来たものである。」と答えた。そして夜をあかすと汝が請問したと語った。
絵は、道明の住坊をたずねて語る徳道。
8 徳道は長谷の郷の古老に木の由来をたずねると、古老は、此の木がここに来て以来、里の人々は、たたりをなすという木なので不安に思い、力をあわせて遠くの地に送ろうと思っていると語った。これ以後が霊木説話に導入される。
絵は、山中で古老に木の由来をたずねる徳道。
「徳道上表文」、『諸寺略記』は古老の伝えとして導入する形式をとる。
9 古老の言。近江国三尾前山の白蓮花谷に大きな臥木があり、長さ十余丈の楠で、此木は常に光を放ち、異香がのぼり、又諸天人が飛来して白蓮花をこの木に散らすと、この木から白蓮華が生じて、多年がすぎた。それゆえに、ここを白蓮華谷というのである。
絵は、臥木の上から天人が散花し、木から白蓮華が生じているところ。
白蓮華谷についてのべるのは菅家本『諸寺縁起集』のみである。
10 又云、継体天皇十一年、雷電風雨がおこり洪水となって此木が彼の谷から流出した。
絵は、風神・雷神が大風、洪水をおこし、異行の者や持蓋童子、白衣の翁が霊木を護る光景。
11 又云、志賀郡大津の里にこの木は七十年とどまった。里の人が霊木であることを知らず、木を切りとると、里の家々は火災を生じ疫病が流行して不吉なことがおこった。そのわけを占うと、この木のたたりであるというので、以後は木を切る者はいなくなった。
絵は、岸辺にある木をなたで切る里人とそれをみまもる翁、童子、異形の者たち。それにつづいて家々の火災、病気の者たちを描く。
この木の流出とそのたたりの説話は、『三宝絵』では、洪水のあったのは「昔辛酉歳」で、『縁起文』の継体天皇即位十一年丁酉歳および「徳道上表文」の「塲丁酉年」というのと干支があわない。なお『建久御巡礼記』、『諸寺略記』は「丁酉」の年をとり、大津の里で木のたたりがあったとのべる。『三宝絵』は高島郡のみをか崎という所で災害があったとする。『七大寺年表』、『今昔物語』は高島郡というだけであるが、いずれにしても干支と場所が齟齬していることは明らかである。
12 又云、大和国高市郡八木の里に住む小井門子という女性が、父母と夫のかめに仏像を造ろうとして、用明天皇元年に八木の辻に霊木を曵き置いたが、そのたたりによって彼女は死亡した。その後三十余年霊木はそこに在ったが郡郷の家々に不吉なことがたえなかった。そこで葛下郡の人、出雲臣大水沙弥法蛄という僧が十一面観音像を作ろうとして、推古天皇七年に葛下郡当麻郷にこの木を曳き置いたが、願をはたさず法勢も死亡した。その後この里に五十余年長かれたが、あちこちで不吉なことがつづいた。
絵は、近江より大和へ霊木が曵かれて行く所と、門子が死去するところの二場面である。
(宮次男「研究資料 長谷寺縁起 上」, 『美術研究』) [108]
この下の箇条書きのなかのそれぞれの項目は、この上の、「研究資料 長谷寺縁起 上」という論文のなかに記されている『長谷寺縁起絵巻』についての引用文のなかに登場する、霊木(御衣木)についての説話にまつわる、登場人物や、地名や、霊木の性質や、文献名などを、列挙したものです。
- 登場人物・人名
- 白衣の翁(三尾明神(三尾大明神))
- 持蓋童子(天蓋を持つ童子)
- 異形の者
- 徳道(仏教僧)
- 道明(仏教僧)(徳道の師)
- 長谷の郷の古老(「長谷の郷」: 現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 継体天皇
- 風神・雷神
- 小井門子(女性)
- 葛下郡の人、出雲臣大水沙弥法蛄という僧(仏教僧)
- 法勢(仏教僧)
- 地名
- 大和国の長谷寺(泊瀬寺)(現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 近江国の三尾前山の白蓮華谷(現在の滋賀県高島市音羽のあたり)
- 近江国の高島郡のみをか崎(三尾崎)(現在の滋賀県高島市音羽のあたり)
- 大和国の神河(現在の初瀬川(大和川の上流)(現在の奈良県桜井市大字初瀬))
- 大和国の長谷の郷(現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 近江国の滋賀郡(志賀郡)の大津の里(現在の滋賀県大津市)
- 大和国の高市郡の八木の里(現在の奈良県橿原市八木町)
- 大和国の葛下郡の当麻郷(現在の奈良県葛城市當麻)
- 霊木(御衣木)の性質
- 祟りをなす
- 樹木の高さ: 長さ十余丈(十数丈(約三十数メートル))
- 樹木の種類: 楠
- 常に光を放つ
- 異香を発する
- 天人が飛来する
- 白蓮華(白蓮花)が生えている
- 多年を経ている
- 強風をともなう雷雨が引き起こした洪水によって、谷から流出した
- 流れ着いた先々の土地で、火災や、疫病の流行や、災害など、何度も不吉なことを引き起こす
- 文献名
- 「徳道上表文」
- 『諸寺略記』
- 菅家本『諸寺縁起集』
- 『三宝絵』
- 『縁起文』(菅原道真勘出『長谷寺縁起文』)
- 『建久御巡礼記』
- 『諸寺略記』
- 『七大寺年表』
- 『今昔物語』
鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子説話をつたえる、香取本『大江山絵詞』という絵巻物があります。
この下の文章は、その香取本『大江山絵詞』の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書に記されている文章です。その文章で描かれている場面は、香取本『大江山絵詞』の絵巻で描かれている説話のなかの、酒天童子(酒呑童子)が自らの来歴を語る場面です。
この場面で語られている酒天童子(酒呑童子)の性質は、『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている霊木(御衣木)の性質と似ているところがあります。具体的には、香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)も、『長谷寺縁起絵巻』の霊木(御衣木)も、どちらも、この下に箇条書きにしたような共通点があります。
こうした、たくさんの共通点があることから、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
- 樹木の種類: 楠(香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)は、楠に変身しました。)
- 樹木の高さ: 楠の樹高は、十丈(約30メートル)を超える。(なお、諸本のなかで、香取本『大江山絵詞』と同系統に属し、物語の内容もよく似ている、能楽の謡曲『大江山』では、酒天童子(酒呑童子)は、「三十余丈の楠」に変身したとされています。(三十余丈: 約90メートル))
- 酒天童子(酒呑童子)が、もともといた場所(住処)は、近江国(現在の滋賀県)の湖西地域(琵琶湖の西側の湖岸の地域)だった。
- 酒天童子(酒呑童子)は、(最澄と桓武天皇によって「平野山」と「近江国かが山」を追い出されたあとに、)もともといた場所から「流出」して、各地を転々と移動した。
- 行く先々で、祟りをなすかのように、強風・暴風などの災害のかたちで各地に被害をもたらした。
また、べつの文献に記されている伝承ではありますが、最澄は、最初に比叡山に入山したときに、そこにあった霊木を伐り倒して、それを、一乗止観院(のちの、根本中堂)の本尊である薬師如来像を造仏するための御衣木としてつかった、という伝承があります。
(ちなみに、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ給へ」という、最澄が詠んだとされている和歌は、最澄が、最初に比叡山に入山したときに、根本中堂(一乗止観院)の本尊にする薬師如来像を造仏するための御衣木としてつかうために、比叡山にあった霊木を伐り倒したときに詠んだ和歌だとされています。)
この伝承は、香取本『大江山絵詞』のなかの、酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかで語られている、「最澄が、比叡山に入山したときに、酒天童子が変化した楠を伐り倒した」という話と、なんらかの関連性をかんじさせる伝承だとおもいます。
童子、又我身の有様を心に懸けて語りけり。「我は是、酒を深く愛する者なり。然れば、眷属等には酒天童子と異名に呼び付けられ侍るなり。古はよな、平野山を重代の私領として罷り過ぎしを、伝教大師といひし不思議の房が此の山を点じ取りて、峰には根本中堂を建て、麓には七社の霊神を崇め奉らんとせられしを、年来の住所なれば、且は名残も惜しく覚え、且は栖もなかりし事の口惜しさに、楠木に変じて度々障碍をなし、妨げ侍りしかば、大師房、此の木を切り、地を平げて、「明けなば」と侍りし程に、其の夜の中に又、先のよりも大なる楠木に変じて侍りしを、伝教房、不思議かなと思ひて、結界封じ給ひし上、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ給へ」と申されしかば、心は猛く思へども力及ばず、現はれ出でて、「然らば、居所を与へ給へ」と愁ひ申せしに依て、近江国かが山、大師房が領なりしを得たりしかば、然らばとて彼の山に住み替えてありし程に、桓武天皇、又勅使を立て宣旨を読まれしかば、王土にありながら、勅命さすがに背き難かりし上、天使来りて追ひ出せしかば、力無くして又、此の山を迷ひ出でて、立ち宿るべき栖もなかりし事の口惜しさに、風に託し雲に乗りて、暫くは浮かれ侍りし程に、時々其の怨念の催す時は、悪心出で来て、大風と成り旱魃と成りて、国土に仇を成して心を慰み侍りき。
(香取本『大江山絵詞』の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書) [106] [82]
『園城寺伝記』に記された、園城寺(三井寺)の地主神としての、三尾明神の伝承について
「三尾明神の御事」, 「園城寺伝記一(一之二)」, 『園城寺伝記』
一、三尾明神の御事
東、黒尾 御本地は文殊、
西、白山権現 御本地は十一面、加賀国においては、伊弉諾、伊弉冊の二神顕われ給うなり、
中、天照大神 普賢、
秘伝に云く、天照大神に三の尾これ有り、赤、黒、白、この三を合わせて三尾明神と申すなり、
(「一、三尾明神の御事」, 「園城寺伝記一」, 『園城寺伝記』(『三井寺法灯記』所収)) [109]
一 三尾明神御事
東 黒尾 御本地文殊。
西 白山権現 御本地十一面。於二加賀国一者伊弉諾。伊弉冊二神顕給也。
中 天照大神 普賢。
秘伝云。天照大神三之尾有レ之。赤。黒。白。此三ヲ合テ三尾明神ト申也。
(「一 三尾明神御事」, 「園城寺伝記一之二」, 『園城寺伝記』(『大日本仏教全書 127』所収)) [110]
「三尾明神の事」, 「園城寺伝記四(三之四)」, 『園城寺伝記』
一、三尾明神の事
伊弉諾伊弉冊の変作、吾が磯城島の本主、二万燈明の随一、普賢色身の菩薩、等覚無垢の大士なり、譲りを面垂に受け、代を日神に授る、故に嶺には聖衆天降り、雅音を操り、琴尾の名を留め、浦には海神遊戯し、五波を寄せ、之に止る、黒尾と号すとは、称徳天皇の御宇、神護慶雲三己酉年春、千竹の浪花、一葉の舟船、岸に着く、この浦白尾は、又大宝の夏、業報の雪を銷し、罪障の雲を拂い、今の所に影向す、凡そ赤黒白三尾、普賢文殊観音の応験なり、
(「一、三尾明神の事」, 「園城寺伝記四」, 『園城寺伝記』(『三井寺法灯記』所収)) [111]
一、三尾明神事
伊弉諾伊弉冊之変作。吾磯城島之本主。二万灯明之随一。普賢色身之菩薩。等覚無垢之大士也。受二譲ユヅリ 於面垂ヲモタルニ 一。授二代於日神に一故嶺ミ子 には聖衆天降アマクタリ 。操アヤトリ 二雅カ 音に一留トゝメ 二琴尾コトノヲ 之名一浦ウラ には海神遊戯ケ し寄二五波一残波止トゝマル レ之コゝニ 。号二黒尾一者。称徳天皇御宇神護慶雲三己酉年春。千行之浪花。一葉之舟船著ツク レ岸。此浦白尾者。又大宝之夏銷シャウシ 二業報之雪一。払ハラヒ 二罪障之雲一。影-二向今所一。凡ヲヨソ 赤黒白三尾。普賢文殊観音応験也。
(「一、三尾明神
「寄島社の事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 一(一之二)」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』
太初において、ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)は顕現せり。その生まるるや万物の独一の主なりき。彼は地を安立せり、天をもまた。――いかなる神にわれらは供物もて奉仕すべき。
―― 「ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)の歌」, 『リグ・ヴェーダ』 [114] [115]
創造神は「黄金の胎児」として太初の原水の中に孕
―― 辻直四郎〔「ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)の歌」についての解説文〕 [116] [115]
割れた卵 白銀
憧
その旋律をもって少年を誘
―― 「第1楽章 首都侵攻 : OVER LORD」, 『ラーゼフォン』 [117] [118] [119] [120]
「その卵は 時を回す歯車……」
「生まれ来るもの
恐れ 悲しみ 忘却への旅立ち」
「恐がらないで……
それはあなたのものよ」
「音 満ちる世界」
「この世ならぬ旋律
音楽だけが創造可能な 新たなる世界の形」
「世界を調律する者
私は奏者」
「あなたはオリン
私は イシュトリ」
―― イシュトリ(美嶋玲香)と久遠の会話, 「第9楽章 時の祠 : SANCTUARY」, 『ラーゼフォン』 [121] [122]
「私、抱きたいの—— 私の、卵——」
―― 久遠の言葉, 「第12楽章 黒い卵 : Resonance」, 『ラーゼフォン』 [123] [124]
この神は、天地鶏卵の当初、水穂を州に露
一、寄島社の事
この神は、天地鶏印の当初、水穂を州に露あらわ し、玄黄蜻蛉の往昔、葦葉を象に風ふく、ここに一切の衆生悉く仏性有り、この蒼波沖に帰り、如来常住にして変易有ることなし、この白浪、この浦に止まるの時、三尾の小蛇、島に乗じて寄り、この名を呼ぶものなり、
(「一、寄島社の事」, 「園城寺伝記
一 寄島社事
此神者。天地鶏卵之当初。水穗露二於州一。玄黄蜻蛉之往昔。葦葉風二於象一。爰一切衆生悉有二仏性一。之ノ蒼波帰レ沖。如来常住無レ有二変易一。之ノ白浪。止二此浦一之時。三尾小蛇。乗レ島寄ヨリ。呼二此名一者也。
(「一 寄島社事」, 「園城寺伝記
「黒尾明神事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 一(一之二)」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』
一、黒尾明神の事
称徳天皇の御宇、神護景雲二年己酉三月廿五日、万里の波涛を凌こ え、一葉の舟船に乗じてこの浦に著岸し、今に下松底に留る云云、
(「一、黒尾明神の事」, 「園城寺伝記
一 黒尾明神事
称徳天皇御宇。神護慶雲二年己酉三月廿五日。凌二万里之波涛一乗二一葉之舟船一著-二岸此浦に一留二于レ今下松底一云云。
(「一 黒尾明神事」, 「園城寺伝記
『寺門伝記補録じもんでんきほろく 』に記された、園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の長等山ながらやま の地主神じぬしがみ としての、三尾明神みおみょうじん の伝承について
鹿の音
―― 慈円
この下の引用文は、『三井寺法灯記
(※ 「寺門
(※ この下の引用文のなかにでてくる「大師
三尾明神祠南院
三尾明神は太古、伊弉諾尊あとを長等山に垂れ、国家を擁護し群生を利楽す、ついに長等南境の地主となる、この神つねに三の腰帯を着く、色、赤・白・黒なり、その形
形チ 、三つの尾を曵くに似たり、因て三尾明神と名なづ く、一時アルトキ 三の腰帯化して三神と作な る、一にはいわく赤尾神、二にはいわく白尾神、三にはいわく黒尾神なり、すでにして三神わかれて三処に現ず、なかんづく赤尾を以て本神となす、しかるにその本神は太古の鎮座、ひとその始めを知ることなし山上祠、白尾神は 文武天皇大宝年中いまの地に現ず筒井祠、黒尾神は 称徳天皇神護景雲三年三月十四日、志賀の浦に五色の波を見はる、時に一翁あり、黒き腰帯を着け波水を踏んで東より来る、また一翁あり、赤さ腰帯を曵きて西の山よりして下る、両翁、途中に往き合い懽語(ねんごろに語り) 時を移して、のち形隠隠ク る、土俗、一祠をその処に造り祭る、黒尾神これなり、地を鹿関カセギ 、という、貞観元年春、開祖、大師、新羅・山王の二神と始て当寺に入る、時に乗輿の人あり、儀衛はなはだ儼なり、衆多あまた の眷属を将もっ て来て新羅神を饗す、神の鎮座を賀す、すなわち大師に謂いい ていわく「我、この処にありて師を俟ま つこと久し、今より已後師の教法を擁護しまさに慈尊出世の暁に至らしめんとす」、言いおわりて去る、大師、新羅神に問う「乗輿の人、誰た れ爲な るや」、神のいわく「長等の地主三尾明神なり」、大師、この言こト を聞てのちにその祠を復興し神像を摸刻して以てその中に安ず、それよりこのかた天台鎮護の神として霊威増すます崇たか し、
また、本殿西の砌砌リ 、白山権現の祠を建つ、これ即ち三尾の神、北道にありては白山明神と現わる、彼此ひし 一体の分身なり、よって即ちここに斎き祭る、当社の敷地シキチ をもと琴コトノ 緒谷と名く、谷、清流あり、昔時天人つねにこの処に降り、或は河水に浴し或は絲竹(琴・笛の類) を奏し舞戯、歌詠して神を慰す、この故に琴緒谷コトノヲタニ と名く。のちの人すなわち神号に従い緒を改めて尾和訓近となしすなわち琴尾谷と名くなり、
また、社頭の東南近き処処ロ 、一盤石あり、相伝にいわく時ありて三神会合す、必ずこの石上に坐す、故に是れを三尾影嚮(響) 石と名く、
また、当神の本地を立るに就て総別の二意あり、別はいわく、赤尾の神は普賢、白尾の神は十一面、黒尾の神は文殊なり、総はいわく、赤・白・黒の三神共に普賢大士なり、本神是れ普賢なる故のみ、当社日供十一膳、その中、白山、松尾に供するものあり、祭礼は毎年三月二の卯の日、谷の講演は月並並ミ 十四日勤行す、当神使令ツカワシメ は免(兎カ) を用う、社司は秦ノ河勝の胤に臣国ヲミクニ という者あり、始て当社の神職に任ず、それより以来秦氏連綿して相い継ぐ、補にいわく、太神記を案ずるにいわく、赤尾は天照太神、普賢菩薩、黒尾は新羅明神、文殊大士、白尾は白山権現、十一面、合して三尾明神と号す云云、鎮座説に評していわく、或はいわく三尾はこの所の地主なりと或はいわく天照太神なりと、いまだ何いづ れが是なるかを知らず、或はいわく黒尾は新羅明神なりと、いま年月を以てこれを推すに相違するものあり、またいわく、余まさにこの書を修おさめ んとす広く諸記を索もと む、三尾の社司秦国村秦ノ国村 、一紙の記を出す、文略にして義もまた明ならず、余その故を問う、村がいわく「当寺かつて回禄(火事) に係かか る、古記もまた火や く、ただ耆老の口授を記す、その可否は吾れ知らず」と、いま、その記を案ずるにいわく、三尾明神は伊弉諾・伊弉册の反(変カ) 化にして譲りを面足に受け代を日神に授く、已上、座説、いま座説の意を案ずるに、本地普賢の説においては異義なし、尊ミコト の身を定むるについてはすなわち衆説を廃してついに国村記国村ガ記 に隨い当神を以て伊弉諾尊伊弉諾ノ尊 となるか、愚いわく、座説を以て正義となさん、ゆえんはなんとならば、越の白山縁起にいわく、神、神融禅師に告げていわく「我は是れ、天神第七、伊弉諾尊伊弉諾ノ尊 なり」、いま妙理菩薩と号す、しかるに三尾白山は一体分身の神なり、彼の神、伊弉諾尊伊弉諾ノ尊 ならばこの神もまたしかりなり、異義におよばざるものか、
また、近江国高嶋郡にいます神号三尾明神延喜式の中、三又、は水につくる 名神、官社なり具に前、に見る その処を名て三尾が崎という、当年の三尾と同神か異神か、いまだこれを詳かにせず、或る人、余に語りていわく「養老年中、道明・徳道二僧あり、始めて長谷寺観音像を造る、その像材、近江国高嶋郡三尾崎より流れ出て漂して大津の浜に至る、時に材木の上、三つの小蛇あり、忽然として匐ハヒ 出で陸に上り西の山を望んで去る、これ即ち三尾明神なり、つぶさに長谷寺縁起の中に出ず」、と、余、これを吾が旧記に検かんが うるに相似たるものあり、新羅太神記三尾縁起の下しタ にいわく、古徳の説にいわく、一時湖水に五色の波あり、その中、白色の大波、大津の浜に止まる、土俗ヒト その止まる處をいいて以て大波止ヲホハシ と名く、また、寄嶋という、その波の上、三つの尾の小蛇あり、是れすなわち寄嶋の明神なり、この説のごときは長谷寺の縁起と旨趣多く以て似同す、もしこれに依らば高嶋の三尾、養老年中この地に移るか、長谷寺の縁起を読まん、人これを詳かにせよ、釈書〹八いわく、長谷寺は比丘道明、沙弥徳道すなわち、道仙人なり 法力を勠あわ せて建る、その像材は、近州高嶋郡三尾の山より流れ出ず霹靂へきれき の木なり、
秦河勝 秦ハダノ 姓は新撰姓氏録〹一いわく、大秦公ウヅマサノキミノ 宿弥は秦の始皇帝の三世、孝武ののちなり、男、功満王、仲哀八年来朝す、男、融通ユツウ 王は一は弓月王という、応神天王(皇) 十四年に来朝す、百二十七県を率いて帰化ヲモムケリ 、金銀・玉帛等の物を献づる、仁徳天皇の御世、百二十七県の秦氏を以て諸郡に分わか ち置きすなわち蚕を養い絹を織り貢ぜしむ、天皇、詔にいわく「秦王、献ずる所の絲綿絹は朕これを服用するに柔軟ヤワラカ にして肌膚ハダヘ を温煖アタタカ にして姓を波多ハダ と賜う、秦公酒ハダノキミサケ 、雄略天皇の御世、絲綿帛、委積して岳のごとし、天皇喜び宇都万佐ウツマサ と賜う文、或る記にいわく、河勝は化生の人、欽明天皇、秦姓を賜て臣となす、才智卓絶す、十五歳に至て大臣の位を授く、推古天皇の御宇、摂州難波の浦に往き小舟に乗りて去る、舟、播州の岸に着く、土俗ヒト あつまり観み る、その形、非常の人なり、よって神祠を立て之これ をまつり大荒ヲホアレノ 明神という、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
参考: 三尾明神影向石みおみょうじんようごうせき (園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の境内にある、三尾明神みおみょうじん が姿をあらわした岩)
園城寺
(※ 「影向
「三尾明神影向石
三尾影向石
https://goo.gl/maps/P6RB3tUw3PHuJCHNA
三尾影向石
https://goo.gl/maps/oGkTc9jE7CscX8Df9
三尾影向石
https://goo.gl/maps/pVMDNCXvrPLxeHwk9
三尾影向石
三尾影向石
三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師御入寺に際し三尾三神(白尾・赤尾・黒尾)此の処に会合し大師をお迎えし大師の護法を約されたこの奥の谷を琴尾谷と称しこの清流にて天人浴河されたと伝えられる琴尾谷に三尾明神の磐座あり。
(三尾影向石
ちなみに、上記の、三尾影向石
ですが、園城寺
ちなみに、さきほど、上のところで、『三井寺法灯記
その「寺門伝記補録
さきほど、上のところで紹介した、下記の、「寺門伝記補録
(※ 下記の引用文のなかの、「当社の敷地
当社の敷地
シキチ をもと琴コトノ 緒谷と名く、谷、清流あり、昔時天人つねにこの処に降り、或は河水に浴し或は絲竹(琴・笛の類) を奏し舞戯、歌詠して神を慰す、この故に琴緒谷コトノヲタニ と名く。のちの人すなわち神号に従い緒を改めて尾和訓近となしすなわち琴尾谷と名くなり、
また、社頭の東南近き処処ロ 、一盤石あり、相伝にいわく時ありて三神会合す、必ずこの石上に坐す、故に是れを三尾影嚮(響) 石と名く、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
この下のURLのウィクショナリー
(参考)
嚮 - ウィクショナリー日本語版
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9A%AE
(参考)
向 - ウィクショナリー日本語版
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91
三尾明神影向石
「三井寺参拝ガイド 境内案内図」の地図 [132]
(園城寺
(この上の写真の中央のあたりに、「影向石
村雲橋
(園城寺
(この写真に写っている道を進んでいって、その先にある十字路を右側(西側)に曲がってしばらくすすむと、その先にある分かれ道の左側(南側)のあたりに、「影向石
村雲橋
(園城寺
(この写真の撮影地点である十字路から左側(西側)へ向かってしばらくすすむと、その先にある分かれ道の左側(南側)のあたりに、「影向石
参考: 赤尾神、白尾神、黒尾神の、それぞれの神々が現れた時代について
三尾明神
この下で引用している、『寺門伝記補録
そのように、赤尾神が中心的な神(本神)とされている理由は、おそらく、「赤尾神が、もっとも古くから長等山
赤尾神、白尾神、黒尾神の、それぞれの神々が現れた時代については、この下で引用している、『寺門伝記補録
- 赤尾神: もっとも古くから長等山
ながらやま の土地にいる神。この神がいつごろ現れたのかを知る人はいない。 - 白尾神: 文武天皇
もんむてんのう の時代(大宝たいほう の時代: 701年~704年)に現れた神。 - 黒尾神: 称徳天皇
しょうとくてんのう の時代(神護景雲じんごけいうん の時代: 767年~770年)に現れた神。
三尾明神祠南院
三尾明神は太古、伊弉諾尊あとを長等山に垂れ、国家を擁護し群生を利楽す、ついに長等南境の地主となる、この神つねに三の腰帯を着く、色、赤・白・黒なり、その形
形チ 、三つの尾を曵くに似たり、因て三尾明神と名なづ く、一時アルトキ 三の腰帯化して三神と作な る、一にはいわく赤尾神、二にはいわく白尾神、三にはいわく黒尾神なり、すでにして三神わかれて三処に現ず、なかんづく赤尾を以て本神となす、しかるにその本神は太古の鎮座、ひとその始めを知ることなし山上祠、白尾神は 文武天皇大宝年中いまの地に現ず筒井祠、黒尾神は 称徳天皇神護景雲三年三月十四日、志賀の浦に五色の波を見はる、時に一翁あり、黒き腰帯を着け波水を踏んで東より来る、また一翁あり、赤さ腰帯を曵きて西の山よりして下る、両翁、途中に往き合い懽語(ねんごろに語り) 時を移して、のち形隠隠ク る、土俗、一祠をその処に造り祭る、黒尾神これなり、地を鹿関カセギ 、という、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
参考: 三尾明神の本地ほんじ (本地仏ほんじぶつ )について
三尾明神
下記の引用文にあるように、「ひとつの神としての三尾明神
- ひとつの神としての三尾明神
みおみょうじん の本地ほんじ (本地仏ほんじぶつ ): 普賢菩薩。 - 赤尾神、白尾神、黒尾神のそれぞれの本地
ほんじ (本地仏ほんじぶつ ): 赤尾神は普賢菩薩ふげんぼさつ 、白尾神は十一面観音じゅういちめんかんのん 、黒尾神は文殊菩薩もんじゅぼさつ 。
また、当神の本地を立るに就て総別の二意あり、別はいわく、赤尾の神は普賢、白尾の神は十一面、黒尾の神は文殊なり、総はいわく、赤・白・黒の三神共に普賢大士なり、本神是れ普賢なる故のみ、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
補にいわく、太神記を案ずるにいわく、赤尾は天照太神、普賢菩薩、黒尾は新羅明神、文殊大士、白尾は白山権現、十一面、合して三尾明神と号す云云、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
いま座説の意を案ずるに、本地普賢の説においては異義なし、
(「三尾明神祠南院」, 「寺門伝記補録
参考: 三尾明神みおみょうじん を祀る普賢堂ふげんどう (三尾明神みおみょうじん の本地堂ほんじどう )について
現在、三尾明神影向石
三尾明神影向石
つまり、三尾明神影向石
ちなみに、この下のURLの、園城寺
(参考)
三井寺>三井寺について>伝説>三尾明神と影向石
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/legend09.htm
『三井寺仮名縁起』に記された、園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の南院の鎮守神ちんじゅがみ としての三尾明神みおみょうじん (「赤白黒しゃくびゃくこく の三神」(赤尾神、白尾神、黒尾神))の伝承
『三井寺仮名縁起』
(『国文東方仏教叢書
『国文東方仏教叢書
『三井寺仮名縁起』
(『国文東方仏教叢書
『園城寺縁起』
『三井寺仮名縁起』
(『国文東方仏教叢書
この2つの文献の、それぞれの奥書
『国文東方仏教叢書
(『三井寺仮名縁起』が所収されている本)
『国文東方仏教叢書
(『三井寺仮名縁起』が所収されている本)
これらの『三井寺仮名縁起』と『園城寺縁起』は、どちらも、滋賀県大津市にある、園城寺
この2つの文献のうちの、『三井寺仮名縁起』のなかの、「三院鎮守の事」という小見出しがついているところに、下記の引用文のような記述があります。この記述のなかに、三尾明神(三尾大明神)という名前の神が登場します。
一、三院鎮守の事
当寺に南中北の三院あり。各鎮守ましまして仏法を守護し万民をまもりたまふ。南院には、三尾大明神を地主
ぢしゅ とあがめ、中院には護法善神跡をたれ、北院には、新羅大明神影向したまふ。其勧請の社頭、影向の諸神、其数稲麻にも比しつべし。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
ちなみに、上記の引用文のなかには、南院の鎮守神
- 南院の鎮守神
ちんじゅがみ である、三尾明神みおみょうじん (「赤白黒しゃくびゃくこく の三神」(赤尾神、白尾神、黒尾神)) - 中院の鎮守神
ちんじゅがみ である、鬼子母神きしもじん (哥梨帝母かりていも (訶梨帝母かりていも )) - 北院の鎮守神
ちんじゅがみ である、新羅大明神しらぎだいみょうじん (新羅明神しらぎみょうじん )
(ちなみに、「北院」「中院」「南院」というのは、かつての園城寺
さらに、上記の引用文のつづきである、下記の引用文のなかにも、園城寺
べつのところでもおつたえしているように、ぼくが研究している酒呑童子(酒天童子)の伝説のなかには、「琵琶湖周辺の各地に点在する、老翁
そして、下記の引用文に登場する三尾明神
しかも、三尾明神
その霊木は、そのあと、大和国
南院の鎮守、三尾明神は、当所根本の地主にておはします。昔湖水の内よりも赤白黒
しゃくびゃくこく の三神、大津の浦に来れり。此三神着用の裾の色によりて、赤尾白尾黒尾とは名付也。是を一社に祝たるによりて三尾大明神とは申とかや。白尾は北国白山権現と顕れ、黒尾は南方にうつりて、熊野の権現と顕れ給ふなり。和州長谷の観音のみそぎ引たるも、此明神にておはします。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
かつて園城寺
三尾社(祭神
(「園城寺境内古図」(園城寺蔵)(制作年代: 鎌倉時代末期)〔一部分〕〔模写〕 [139])
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
また、上記の引用文のつづきである、下記の引用文には、中院の地区の鎮守神
中院の鎮守護法善神は、仏法を守護し給ふのみにあらず。小児を守ちかひまします。是によりて、懐妊の婦人此神に祈れば、其産安全にして、誕生の子も安穏に、寿命長久に子孫繁昌すると也。其因縁をたづぬるに、此天女千人の子をもてり。しかれども鬼子母神なりしかば、人間の子千人をとりて毎日の所食とす。或時、如来方便して、彼天女千人の子の中の愛太子と申を仏鉢の下にかくす。天女驚かなしみて尋ぬる事かぎりなし。其時、仏つげたまふやう、千人の中一人をうしなふかなしみ如レ此。況や毎日、衆生の子千人を取て食する事、親のかなしみいくそばくぞや。若夫、いまよりして此事をやむべくば、仏力をもつて彼子をかへしあたうべし。との給へば、鬼子母神の申さく、彼愛子帰来ならば、小児を食する事をやむのみにあらず、人の胎内にやどる初より、成長命終の期に到まで、如レ影随願の加護をなさんと答たりし時、仏鉢の下より、愛太子を出して鬼子母神にかへし給ふ。然而、此天女鬼子母神にてましませば、肉食なくてはかなはじとて、如来のはかり事として、人界の衆生の残飯と云物を肉食にたひ給ふ。是によりて残飯をば指にてとりて、肉をはれて供すると也。小児婦人をまもる事、此因縁に顕たり。さて影向の往因は、大師五歳の御時、讃岐国金倉寺、御誕生の所に現し示曰、汝幼稚なりといへども仏法伝持の器量たり。三井の法流の主と成、弥勒の教法をつたふべし。其時、我哥梨帝母護法の願を現し、汝にうつされて慈尊の下生
げしゃう に及迄、寺内の仏法をまもり、婦人小児の願をまもり衆生を利益すべし、とふかく契約しまします。其後寺に現じ給ひしに、大師申たまふやう、此寺清浄の霊地として女体の住べき所にあらず。早寺外に跡をたれ給へとなり。護法善神こたへ給ふやう、我仏在世の昔より、仏法守護のちかひありて、都率の内院に住す。常に弥勒の仏法を守れり。此寺また弥勒降臨の道場なれば、この因縁によりてこゝに来れり。女人の姿あしかるし。しかれども、願は我に戒をさづけ、比丘尼となし給へと宣侍れば、大師みづから御かみをそりこぼし、尼のかたちと成し給ふ。是よりして尼護法とは申なり。このときかみすゝぎたまひし池、いまになん有けり。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(護法善神堂の前にある護法社石橋)
(滋賀県大津市園城寺町
また、上記の引用文のつづきである、下記の引用文には、北院の地区の鎮守神
北院の鎮守新羅大明神者、天照大神の御弟、素盞鳥尊にておはします。兄弟あらそひたまふ事ありて、八百万神の神たちにはらはれて、新羅国にましませしに、智証大師、廻船帰朝の日、所伝仏法をまつらんとて、般若宿王の二菩薩をともとして、或は船中に現じ、或は洛中岩上にあらはれ、又は三井寺に来りたまへり。されば、神慮に背不信のともがらには、鬼神をつかはして種々の病をあたへて其人をほろぼし、崇敬信心のやからには、福禄をあたへ寿命を延し給ふとかや。加之此神者後生善処を祈れば、ことに悦給ひて堅固の道心をおこさしめ、臨終正念にして決定往生させたまふ。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
ちなみに、この下の引用文は、この上で紹介した、南院、中院、北院、のそれぞれについての記述がある、『国文東方仏教叢書
一、三院鎮守の事
当寺に南中北の三院あり。各鎮守ましまして仏法を守護し万民をまもりたまふ。南院には、三尾大明神を地主
ぢしゅ とあがめ、中院には護法善神跡をたれ、北院には、新羅大明神影向したまふ。其勧請の社頭、影向の諸神、其数稲麻にも比しつべし。南院の鎮守、三尾明神は、当所根本の地主にておはします。昔湖水の内よりも赤白黒しゃくびゃくこく の三神、大津の浦に来れり。此三神着用の裾の色によりて、赤尾白尾黒尾とは名付也。是を一社に祝たるによりて三尾大明神とは申とかや。白尾は北国白山権現と顕れ、黒尾は南方にうつりて、熊野の権現と顕れ給ふなり。和州長谷の観音のみそぎ引たるも、此明神にておはします。中院の鎮守護法善神は、仏法を守護し給ふのみにあらず。小児を守ちかひまします。是によりて、懐妊の婦人此神に祈れば、其産安全にして、誕生の子も安穏に、寿命長久に子孫繁昌すると也。其因縁をたづぬるに、此天女千人の子をもてり。しかれども鬼子母神なりしかば、人間の子千人をとりて毎日の所食とす。或時、如来方便して、彼天女千人の子の中の愛太子と申を仏鉢の下にかくす。天女驚かなしみて尋ぬる事かぎりなし。其時、仏つげたまふやう、千人の中一人をうしなふかなしみ如レ此。況や毎日、衆生の子千人を取て食する事、親のかなしみいくそばくぞや。若夫、いまよりして此事をやむべくば、仏力をもつて彼子をかへしあたうべし。との給へば、鬼子母神の申さく、彼愛子帰来ならば、小児を食する事をやむのみにあらず、人の胎内にやどる初より、成長命終の期に到まで、如レ影随願の加護をなさんと答たりし時、仏鉢の下より、愛太子を出して鬼子母神にかへし給ふ。然而、此天女鬼子母神にてましませば、肉食なくてはかなはじとて、如来のはかり事として、人界の衆生の残飯と云物を肉食にたひ給ふ。是によりて残飯をば指にてとりて、肉をはれて供すると也。小児婦人をまもる事、此因縁に顕たり。さて影向の往因は、大師五歳の御時、讃岐国金倉寺、御誕生の所に現し示曰、汝幼稚なりといへども仏法伝持の器量たり。三井の法流の主と成、弥勒の教法をつたふべし。其時、我哥梨帝母護法の願を現し、汝にうつされて慈尊の下生げしゃう に及迄、寺内の仏法をまもり、婦人小児の願をまもり衆生を利益すべし、とふかく契約しまします。其後寺に現じ給ひしに、大師申たまふやう、此寺清浄の霊地として女体の住べき所にあらず。早寺外に跡をたれ給へとなり。護法善神こたへ給ふやう、我仏在世の昔より、仏法守護のちかひありて、都率の内院に住す。常に弥勒の仏法を守れり。此寺また弥勒降臨の道場なれば、この因縁によりてこゝに来れり。女人の姿あしかるし。しかれども、願は我に戒をさづけ、比丘尼となし給へと宣侍れば、大師みづから御かみをそりこぼし、尼のかたちと成し給ふ。是よりして尼護法とは申なり。このときかみすゝぎたまひし池、いまになん有けり。北院の鎮守新羅大明神者、天照大神の御弟、素盞鳥尊にておはします。兄弟あらそひたまふ事ありて、八百万神の神たちにはらはれて、新羅国にましませしに、智証大師、廻船帰朝の日、所伝仏法をまつらんとて、般若宿王の二菩薩をともとして、或は船中に現じ、或は洛中岩上にあらはれ、又は三井寺に来りたまへり。されば、神慮に背不信のともがらには、鬼神をつかはして種々の病をあたへて其人をほろぼし、崇敬信心のやからには、福禄をあたへ寿命を延し給ふとかや。加之此神者後生善処を祈れば、ことに悦給ひて堅固の道心をおこさしめ、臨終正念にして決定往生させたまふ。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
ちなみに、下記の引用文は、『国文東方仏教叢書
園城寺縁起解題
三井寺仮名縁起解題本書二部は近江園城寺の創立の由来を記述したるものなり。
本寺は始め御井寺と称せしが、後三井寺と呼び、智証大師入るに至り天台宗の一方の大道場となり、延暦寺の山門に対して寺門として知られ、本邦四箇大寺の一に数へらる。
現に滋賀県大津市別所に、天台宗寺門派本山として知られ、寺塔は多く特別保護建造物として指定せらる。
二書本寺の由来を説明して要を得たり。
(「園城寺縁起解題 三井寺仮名縁起解題」(『国文東方仏教叢書
ちなみに、この上で紹介した『三井寺仮名縁起』の奥書
寛文第二暦八月日
園城沙門 僧正長圓書レ之 八十三歳
(『三井寺仮名縁起』の奥書(『国文東方仏教叢書
参考: 「本朝四箇大寺」と呼ばれていた、かつての園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の広大な境内の領域について
余談ですが、ぼくが2018年に園城寺
その方がおっしゃっていた、「かつての園城寺
(ちなみに、かつての「北院」の地区の領域は、現在の早尾神社
(ちなみに、「北院」「中院」「南院」というのは、かつての園城寺
(ちなみに、かつての園城寺
現在では、北院の地区にある新羅社(祭神
そうした、広大な領域にわたる境内からもわかるように、かつての園城寺
ちなみに、そうした、「本朝四箇大寺」(「本邦四箇大寺」「日本四箇大寺」)と呼ばれていたころの園城寺
それらの古絵図(古地図)のいくつかは、『古絵図が語る大津の歴史』(出版: 大津市歴史博物館)という本に掲載されています。
この本に掲載されている、園城寺
- 24~26ページ: 「21 園城寺境内古図 園城寺蔵」の古絵図(古地図)(制作年代: 鎌倉時代末期)
- 30ページ: 「23 園城寺境内古図 京都国立博物館蔵」の古絵図(古地図)(制作年代: 桃山時代)
ちなみに、上記の2つの「園城寺境内古図」という古絵図(古地図)のなかに書かれている、それぞれの社殿
- 北院の地区にある新羅明神
しらぎみょうじん の鎮守社ちんじゅしゃ の名称: 新羅社 - 中院の地区にある鬼子母神
きしもじん の鎮守社ちんじゅしゃ の名称: 護法社 - 南院の地区にある三尾明神
みおみょうじん の鎮守社ちんじゅしゃ の名称: 三尾社
参考: 園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の南院の鎮守神ちんじゅがみ である、三尾明神みおみょうじん の鎮守社ちんじゅしゃ の現在の状況
かつて園城寺
三尾社(祭神
(「園城寺境内古図」(園城寺蔵)(制作年代: 鎌倉時代末期)〔一部分〕〔模写〕 [139])
この下の引用文は、さきほども紹介した、『国文東方仏教叢書
南院の鎮守、三尾明神は、当所根本の地主にておはします。昔湖水の内よりも赤白黒
しゃくびゃくこく の三神、大津の浦に来れり。此三神着用の裾の色によりて、赤尾白尾黒尾とは名付也。是を一社に祝たるによりて三尾大明神とは申とかや。白尾は北国白山権現と顕れ、黒尾は南方にうつりて、熊野の権現と顕れ給ふなり。和州長谷の観音のみそぎ引たるも、此明神にておはします。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
南院の鎮守神
その後、三尾社(三尾神社)は、現在の三尾神社がある場所へと移されたようです。現在の三尾神社がある場所は、かつて「三尾御旅所
この下の写真は、園城寺
この三尾神社
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
南院の鎮守神
三尾神社
(滋賀県大津市園城寺町
参考: 園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の中院の鎮守神ちんじゅがみ である、鬼子母神きしもじん (哥梨帝母かりていも (訶梨帝母かりていも ))の鎮守社ちんじゅしゃ の現在の状況
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(護法善神堂の前にある護法社石橋)
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
中院の鎮守神
その後、護法社(護法神社)は、現在の護法善神堂がある場所へと移されたようです。現在の護法善神堂がある場所は、かつて唐院の建物があった場所のあたりにあたるようです [146] [144]。
この下の引用文は、さきほども紹介した、『国文東方仏教叢書
中院の鎮守護法善神は、仏法を守護し給ふのみにあらず。小児を守ちかひまします。是によりて、懐妊の婦人此神に祈れば、其産安全にして、誕生の子も安穏に、寿命長久に子孫繁昌すると也。其因縁をたづぬるに、此天女千人の子をもてり。しかれども鬼子母神なりしかば、人間の子千人をとりて毎日の所食とす。或時、如来方便して、彼天女千人の子の中の愛太子と申を仏鉢の下にかくす。天女驚かなしみて尋ぬる事かぎりなし。其時、仏つげたまふやう、千人の中一人をうしなふかなしみ如レ此。況や毎日、衆生の子千人を取て食する事、親のかなしみいくそばくぞや。若夫、いまよりして此事をやむべくば、仏力をもつて彼子をかへしあたうべし。との給へば、鬼子母神の申さく、彼愛子帰来ならば、小児を食する事をやむのみにあらず、人の胎内にやどる初より、成長命終の期に到まで、如レ影随願の加護をなさんと答たりし時、仏鉢の下より、愛太子を出して鬼子母神にかへし給ふ。然而、此天女鬼子母神にてましませば、肉食なくてはかなはじとて、如来のはかり事として、人界の衆生の残飯と云物を肉食にたひ給ふ。是によりて残飯をば指にてとりて、肉をはれて供すると也。小児婦人をまもる事、此因縁に顕たり。さて影向の往因は、大師五歳の御時、讃岐国金倉寺、御誕生の所に現し示曰、汝幼稚なりといへども仏法伝持の器量たり。三井の法流の主と成、弥勒の教法をつたふべし。其時、我哥梨帝母護法の願を現し、汝にうつされて慈尊の下生
げしゃう に及迄、寺内の仏法をまもり、婦人小児の願をまもり衆生を利益すべし、とふかく契約しまします。其後寺に現じ給ひしに、大師申たまふやう、此寺清浄の霊地として女体の住べき所にあらず。早寺外に跡をたれ給へとなり。護法善神こたへ給ふやう、我仏在世の昔より、仏法守護のちかひありて、都率の内院に住す。常に弥勒の仏法を守れり。此寺また弥勒降臨の道場なれば、この因縁によりてこゝに来れり。女人の姿あしかるし。しかれども、願は我に戒をさづけ、比丘尼となし給へと宣侍れば、大師みづから御かみをそりこぼし、尼のかたちと成し給ふ。是よりして尼護法とは申なり。このときかみすゝぎたまひし池、いまになん有けり。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
この下の写真は、園城寺
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(護法善神堂の前にある護法社石橋)
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(護法善神堂の前にある護法社石橋)
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
中院の鎮守神
護法善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
参考: 園城寺おんじょうじ (三井寺みいでら )の北院の鎮守神ちんじゅがみ である、新羅明神しらぎみょうじん の鎮守社ちんじゅしゃ の現在の状況
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
この下の引用文は、さきほども紹介した、『国文東方仏教叢書
北院の鎮守新羅大明神者、天照大神の御弟、素盞鳥尊にておはします。兄弟あらそひたまふ事ありて、八百万神の神たちにはらはれて、新羅国にましませしに、智証大師、廻船帰朝の日、所伝仏法をまつらんとて、般若宿王の二菩薩をともとして、或は船中に現じ、或は洛中岩上にあらはれ、又は三井寺に来りたまへり。されば、神慮に背不信のともがらには、鬼神をつかはして種々の病をあたへて其人をほろぼし、崇敬信心のやからには、福禄をあたへ寿命を延し給ふとかや。加之此神者後生善処を祈れば、ことに悦給ひて堅固の道心をおこさしめ、臨終正念にして決定往生させたまふ。
(「三院鎮守の事」, 『三井寺仮名縁起』(『国文東方仏教叢書
北院の鎮守神
この下の写真は、園城寺
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
園城寺
北院の鎮守神
新羅善神堂(祭神
(滋賀県大津市園城寺町
参考: 三尾神社みおじんじゃ (滋賀県大津市園城寺町おんじょうじちょう )について
この下の写真は、園城寺
この三尾神社
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=58
「三尾神社 (ミオ) ~(みおんさん)
鎮座地 滋賀県大津市園城寺町251
御祭神
伊弉諾尊
〔配祀神〕白尾神 黒尾神」
(参考)
三尾神社 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/23019
「琵琶湖疏水が長等山に入るあたりに鎮座する。応永33年(1426年)に足利将軍が社殿を再興したものと伝え、明治9年(1876年)に現地へ移された。珍しい兎の神紋が特徴の神社である。」
参考: 三尾氏みおうじ の一族が越前国えちぜんのくに から近江国おうみのくに へと移住したことと、水尾神社みおじんじゃ の関係について
継体天皇の后妃となった氏族(息長,三尾,茨田,尾張の各氏など),および継体天皇と擬制的血縁関係を持つ氏族は,近江国諸郡と越前国を中心に美濃(岐阜県),尾張(愛知県),河内国(大阪府)に広がる地域の諸首長であり,琵琶湖,淀川の水上交通により結び付いたこれらの首長たちが天皇を支えていたとみられる。
―― 平野卓治「継体天皇」, 『朝日日本歴史人物事典』 [150]
日本書紀 巻第十七
男大迹天皇
男大迹天皇 更
―― 「巻第十七 男大迹天皇
水尾神社
(滋賀県高島市拝戸
水尾神社
(滋賀県高島市拝戸
ここでは、三尾氏
水尾神社
ちなみに、継体天皇
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1420
この下の引用文は、山尾幸久さんの『古代の近江 : 史的探究』という本のなかの、「Ⅱ 古代近江の諸相」のなかの、「六、神社」のなかの、「水尾神社」の項目のところから引用した文章です。
継体の父親のウシ王は、伊香郡物部の本拠地の外の高島郡三尾に、湖上運漕と鉱石製鉄との経営拠点(「別業」)をもっていた。継体はそこの邸宅で生まれ育った。
ミヲは水緒・水脈の意で九頭龍川のことで、越前三尾氏は四、五世紀の福井平野の首長結合の頂点に立つ盟主であった(松岡古墳群・丸岡古墳群)。その越前三尾氏の中心の一部が湖西に移動してきたのはフリヒメの結婚の時、五世紀第4四半期と思われる。その頃から越前三尾氏の祖神は近江の三尾で奉斎されることとなった。高島郡の地名ミヲと水尾神社との起源である。
滋賀県の鴨稲荷山古墳は福井県の二本松山古墳の次世代の首長級、近江三尾氏の鼻祖、フリヒメの兄ツノムシを葬った可能性があるだろう。
(山尾幸久「水尾神社」, 『古代の近江 : 史的探究』) [152]
この下の引用文は、山尾幸久さんの『古代の近江 : 史的探究』という本のなかの、「第三章 継体天皇と古代の近江」のなかの、「二、三国真人と三尾君」のところから引用した文章です。「三尾君」は、「みおのきみ」と読みます [153] [154]。
岸俊男氏(『三国町史』の「三国湊と東大寺荘園」)が先鞭をつけられ、米澤康氏(「三尾君氏に関する一考察」)が総括的に再検討された通り、「水尾」「三尾」の地名は、継体が誕生した近江の高嶋だけではなく、継体の母親の出身地越前の坂井にもある。これを自然地形による偶然の一致と見る説は課題を捉え損なっている。
もともとは越前の地名だった。越前三尾氏の一部が近江の湖西に移住したので、高嶋にも「三尾」の地名が生じた。越前の「三尾里」「坂井郡水尾郷」「三尾駅」などは、越前三尾氏が遺した自らの痕跡である。
「ミヲ」を河川の流末(高島の鴨川の流末)とする説明は間違いである。ミヲはミヲツクシ=水緒つ串(船頭に航路を知らせる杭。澪標。大阪市の市章は水面に出ている澪標を表している)のミヲ、「水緒」「水脈」のことである。船が航行に使う、大きな川の深い流れである。九頭竜川が即ちミヲに他ならない。
二本松山古墳(五世紀第4四半期)に続く盟主的首長級が近江の高島に進出したので、近江にも「三尾」の地名ができた。越前の三尾一族が近江の湖西に進出してきたのはフリヒメの興入れの時、五世紀の第4四半期と思われる。継体は迎えられたとき既に五十七の老人で、亡くなったのは八十二、当時としては珍しい高齢だったという『書紀』の記載が流布している。『古事記』が五二七年に亡くなった時「御年、肆拾参歳」(四十三歳)と書いているのは、殆ど知られていない。しかし常識的にも、『古事記』の信頼度からも(継体の父母の名を書いていないことも含め)、また五〇三年の隅田八幡鏡銘からも、継体は、五〇三年当時未成年で誕生は五世紀の末近く、フリヒメが越前三尾氏の人々と共に近江に興入れしてきたのは五世紀第4四半期のどこかであったと考えられる。
近江には、高島郡に「三尾郷」(高島市南部)、壬申の乱の記述に出てくる「三尾城」(長法寺山の朝鮮式山城)があった。「水尾神社」や「三尾駅」は高島市高島町音羽・拝戸辺りにあった。「三尾の勝野」(『万葉集』七 ― 一一七一)はそのまま今日に遺っている。
ミヲの地名や族称の発祥地は越前だが、始祖として祀る祖神(おやがみ)が出現した六~七世紀には、三尾一族の中心集団は近江にいた。三尾氏の祖神磐衝別を祀る水尾神社が越前になく近江に鎮座しているのはそのためである。
『古事記』は垂仁天皇の子の「磐衝別王」を「羽咋君・三尾君が祖ぞ」としている。『書紀』も垂仁の皇子「磐衝別命」を三尾氏の祖とし、景行の妃は「三尾氏の磐城別」の妹だとしている。このほか『先代旧事本紀』(『旧事紀」)の「国造本紀」にも三尾君氏が現れている。加我国造(道君氏)は「三尾君の祖の石撞別命」が任用されたのだとし、羽咋国造(羽咋君氏)には「三尾君の祖の石撞別命の児石城別王」が任用されたとする。また『上宮記』逸文によると、フリヒメの生母(継体の母方の祖母)は「余奴臣の祖」、つまり江沼国造家江沼臣氏に他ならない。
北陸南部は八二三年に越前国から加賀国が分立したので(『日本紀略』弘仁十四年三月一日条、六月四日条)、それ以前について書く。フリヒメは出自は越前三尾君で、本拠は越前の坂井郡である。だから、坂井から北へ、江沼・加賀・羽咋と、四郡の地は互いに隣接していた。そしてそれぞれの地は白方(串方)・柴山潟・河北潟・邑知潟という天然の良港(湯湖)を擁していた。これらの族集団の同祖同族の共通系譜の観念を支えていたのは、沿岸海上交通による、恒常的婚姻関係など首長層の濃密な人的物的ネットワークなのであった。
(山尾幸久「二、三国真人と三尾君」, 「第三章 継体天皇と古代の近江」, 『古代の近江 : 史的探究』) [155]
兵主明神ひょうずみょうじん などの、甲賀三郎の物語『諏訪縁起』に登場する、老翁の姿をした神
兵主明神ひょうずみょうじん : 近江国甲賀郡の甲賀三郎の物語『諏訪縁起』に登場する、老僧の姿をした神
兵主明神
『諏訪縁起』
『神道集』
老いたる神が古き物語をなすと云うことは、縁起に多くの例があるが、とりわけ叡山の縁起に関するものとしては、たとえば『神道集』所収の「諏訪縁起」のなかに興味ある記事が見出される。甲賀三郎が他界遍歴の果てに蛇躰となって故郷へ戻り、御堂の彿壇の下に隠れていると、当座の講も果て僧十人余が夕暮に経を誦しなどしている処に、
〔中略〕
(赤木文庫本による)とある。そして甲賀三郎の物語を語り、蛇身より脱する方法を示し、人間の身となった三郎に種々の物具を与えて、この一座の僧たちは「王城鎮守ノ諸神」であり、「口立ノ僧」は近江国兵主明神であると明して消え失せるのであった。ここでは白鬚明神が登場することはないが、神が老僧の姿をとって昔物語をするという趣向は、たんに文芸的な構想であるだけでなく、縁起の世界で繰り返し用いられてきた老翁の昔語りに根ざしたものであろう。湖水が七度桑原となるのを見た翁とは、『山王霊応記』の白鬚翁と重なって、叡山の縁起における不可欠の仲介者的存在、聖地の神秘を開示する者として定型化した神格であった。
(阿部泰郎「比良山系をめぐる宗教史的考察」, 『比良山系における山岳宗教調査報告書』) [156]
好美翁こうびおう : 近江国甲賀郡の甲賀三郎の物語『諏訪縁起』に登場する、地底国・維縵国ゆいまんこく の国王であり、3万歳を超える老翁
好美翁
『諏訪縁起』
『神道集』
「近江国おうみのくに かが山やま 」が、己高山こだかみやま である可能性と、白山信仰はくさんしんこう について
つまるとこころ、湖北の寺院群の開基伝説としては、まず湖西の北部と結合する泰澄伝説の一地域を明らかに形成していることがあげられ、ついで伝教大師の開基、中興を伝える寺院または小堂が多く、そのつぎに行基あるいは弘法大師などの巡化を伝える例をみることができるのである。大まかにいうならば、北方の白山、泰澄系の仏教がまず入り、その上にのちに伝教大師の天台仏教が重なりあう図式を見るといえよう。
―― 田中日佐夫『近江古寺風土記』 [157]
あなうめに 人もうらみし こたかみの
みねより奥に いほりむすばむ
―― 『松葉古今集』 [158]
現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本
この山は、最澄
おそらく、「近江国
「かが」(加賀国
これとおなじような例としては、たとえば、「近江国
このように、「●●にある富士山
それとおなじように、「近江国
高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、香取本
これはつまり、高橋昌明さんは、「近江国
ぼくは、この「近江国
己高山
-
条件1: 白山信仰
はくさんしんこう が盛んな場所である。 -
条件2: 最澄
さいちょう や天台宗てんだいしゅう にゆかりのある場所である。 -
条件3: 経済的・軍事的に重要な場所(交通の要衝
ようしょう )である。 -
条件4: 近江国
おうみのくに の鬼門きもん とされる場所である。
条件1: 白山信仰はくさんしんこう が盛んな場所である
己高山
応永十四年(1407年)に、「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全」という人物によって編纂された『己高山縁起』
このように、『己高山縁起』
また、『興福寺官務牒疏』
大東俊一さんは、「泰澄の名があるように、己高山の信仰世界を考える上で、白山信仰からの影響を無視することはできないであろう」 [161]と述べておられます。
このように、己高山
湖北地域は仏教美術の宝庫で、特に木之本町から高月町にかけては「観音の里」と呼ばれている。それらの仏像を育んだ背景の一つが、己高山
こだかみやま の山林修行である。
文献史料から見る己高山
己高山は滋賀県木之本町にある山で、標高九二三メートル。その歴史を語るうえで欠かせないのが、『己高山縁起』と『與福寺官務牒疏こうふくじかんむちょうそ 』である。
木之本町・鶏足寺けいそくじ の所蔵する『己高山縁起』(滋賀県指定文化財、図版26)は、甲乙二巻からなり、「當山草創事」から「学頭坊事」まで一二条にわたって己高山の歴史を記している。応永十四年(一四〇七)に「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全」によって編纂された。
「當山草創事」によれば、古老の言い伝えでは、己高山は近江国の鬼門で、古仙練行の秘窟であった。行基が勝地としてこの峰を選び、伽藍を草創して仏像を彫刻し、泰澄が聖跡としてこの山を崇め、峰に入って行門を建立したという。
また、「當山再興事」には、最澄再興の話を載せる。最澄が己高山南麓の高尾の草堂で修行中に、仏閣の礎石跡で十一面観音の頭部を発見した。すると白山白翁が現れて、二〇〇年前に仏閣を建てたが焼失してしまい、復興してくれる人が来るのを待っていたという。最澄は、霊木を御衣木加持みそぎかじ して、その仏頭に続く胴体部を自ら彫刻した。そして白山白翁の指示を受け、己高山の鎮守として十所権現じゅっしょごんげん を勧請したという。これが現在、鶏足寺に伝わる木造十所権現像である(滋賀県指定文化財、図版27)。
一方の『興福寺官務牒疏』(図版25)は、嘉吉元年(一四四一)の成立である。これは、中世における奈良興福寺の末寺を記録したもので、興福寺の勢力を誇示する目的で編纂されたため、一般に内容の信憑性には疑問が持たれている。しかし、個々の寺院の当時の規模や資財記録には参考にすべき点があり、中世の湖北の寺院の様相を知るうえで貴重な史料となっている。
ここでは「己高山五箇寺」と記載され、己高山が法華寺、石道寺しゃくどうじ 、観音寺、高尾寺、安楽寺の五か寺と、別院で構成されていたことが知られる。なかでも山頂にあった観音寺が己高山随一で、別院を六か寺もっていたという。これらの寺院の開基には、行基や泰澄の関与が記されている。また、現在石道寺に安置されている十一面観音立像(滋賀県指定文化財、図版28)は、寺伝では高尾寺のものであったとされる。
(秀平文忠「文献史料から見る己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) [162] [26]
28 十一面観音立像 滋賀県木之本町 石道寺蔵
〔中略〕
右頁の十一面観音立像は寺伝では、己高山五箇寺のうちのひとつ、高尾寺の本尊であったという。
石道寺では、11世紀頃成立と考えられる本尊十一面観音立像(重要文化財)が著名だが、本像は本尊と同じくケヤキ材製の一木造で、内刳を施さない。像高107.3。滋賀県指定文化財。
端正な面持ちと、整理された衣文線、小像ながら重量感を残しつつ、明確な括れをもったプロポーションなどの特徴は、正暦4年(993)頃の作とされる滋賀県湖南市の天台寺院・善水寺の諸像と近しい。本尊にさかのばる10世紀末頃の作と考えられ、この頃石道寺を含めた己高山周辺にも天台系仏師の関与が想定される。
(秀平文忠「山林修行と観音の山:己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) [163] [26]
山家要略抄に云く
一、北国の白山の事
園城寺覚宗の私領なり、山門度々彼の白山を所望すと雖も、代々の御門敢て勅許無し云云、
(「一、北国の白山の事」, 「園城寺伝記
一一・一二世紀の頃、特に一二世紀中頃以後になると、九州から東北に至る広い地域において山岳宗教施設が高い密度で営まれ、多くの経塚や墓地が造られるようになる。そしてそこに生成した数多くの山岳宗教は、地域で系列化され、また院を頂点とする全国的なネットワークを形成するようになった。北陸の大勢力である白山社も、一一世紀末以降に比叡山の末社となっていく。
中世には、太平洋側では熊野社、日本海側では日吉ひえ ・白山社という、山を拠点とする神社が港々に祭られることが多い。中世東日本最大の港湾都市である青森県十三湊とさみなと でも、近世初期の絵図には港の北辺に伊勢堂と羽黒堂が描かれているし、瀬戸内の港町である広島県草戸千軒町くさどせんげんちょう 遺跡の北にも常福寺・明王院が所在した。中世の商人が宗教者を兼ねることが多かったことも周知の事柄であろう。
また中世都市や町においても、京都の賀茂社、鎌倉の鶴岡八幡宮、奥州平泉の日吉・白山社のように、その顔ともいうべき位置に神社を配し、その対極の位置には寺院のあることが多い。
中世手工業の重要な分野である窯業でも、尾張瀬戸窯と熊野社、能登珠洲すず 窯と白山社、三河渥美窯と伊勢神宮、播磨魚住窯と住吉社というように、広域流通窯は有力神社とのつながりをもつと推定できるのが多い。
窯業という一つの手工業も決して簡単にできるものではなく、山における燃料木の大量伐採、粘上の採掘、窯焚き、海運による流通、市場での販売と、多くの諸権利関係の連鎖を経なければならない。それは一生産集団あるいは一領主の力だけではなしえないことであろう。
それにもかかわらず能登珠洲窯などにおいて、生産者は有力農業生産地帯をバックとせず、窯業・海運適地、すなわち山と海が接する場において独自な生産と広域への供給を行なった。その背景には若山荘をめぐる複雑な社会的関係を想定できるが、至近に存在する白山のような山岳宗教勢力とのつながりを無視できないであろう。中世において商売繁盛には守社とのつながりが現実の問題として大切であった。
おそらく中世の公家社会は、顕密寺院を軸として寺社勢力を組織化することによって、各種の生産と流通を掌握することを意図したであろう。そして山岳宗教は、公家と関係を結びつつ寺社が一体化し、山を拠点として東西日本に広くネットワークを形成することによって、山・里・海に及ぶ多くの分野で独自の活躍をする条件を得たのであろう。
(宇野隆夫「中世の山岳宗教」, 「日本通史 月報6」) [165] [26]
条件2: 最澄さいちょう や天台宗てんだいしゅう にゆかりのある場所である
香取本
実際に、己高山
『己高山縁起』
最澄が己高山南麓の高尾の草堂で修行中に、仏閣の礎石跡で十一面観音の頭部を発見した。すると白山白翁が現れて、二〇〇年前に仏閣を建てたが焼失してしまい、復興してくれる人が来るのを待っていたという。最澄は、霊木を御衣木加持
みそぎかじ して、その仏頭に続く胴体部を自ら彫刻した。そして白山白翁の指示を受け、己高山の鎮守として十所権現じゅっしょごんげん を勧請したという。
(秀平文忠「文献史料から見る己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) [166]
このように、最澄
大東俊一さんは、こうした『己高山縁起』
この縁起は、編者の春全が自ら「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全」と記していることや、開基の行基や泰澄よりも、再興した最澄の逸話に多くの紙幅を割いていることからもわかるように、天台宗の色合いが濃く表われており、平安中期以降、己高山の諸寺院は天台宗系となっていく。
(大東俊一『奥琵琶湖「観音の里」の歴史 : 近江・湖北の精神風土』) [167]
このように、己高山
なお、白山信仰
江戸時代中期の文献である、『山門堂社由緒記』
無動寺谷
(この写真の右側に、小さく写っているのが、相応和尚
(無動寺谷
このように、天台修験
このように、己高山
白山信仰
その関係で、香取本
条件3: 経済的・軍事的に重要な場所(交通の要衝ようしょう )である
香取本
これは、おそらく、「近江国
もし、天台教団
己高山
また、北国街道
このように、己高山
条件4: 近江国おうみのくに の鬼門きもん とされる場所である
かの月氏
―― 「座主
【聖之記】曰く、相輪橖を拝見するに、此塔婆、常の塔にはかはりたり。是は天竺の霊鷲山、漢土の天台、我朝には此山、三国倶に一基づゝならではなき塔婆なり。是三国ともに法花一乗の説法の砌ならではなき塔婆也云々と。
―― 寒川辰清「滋賀郡第二十(延暦寺)」, 『近江輿地志略
古来、大乗仏教徒の間には、仏教東漸または大法東漸という言葉が、常に使用されていた。あるいは東流、東渡、東帰など。東漸とは「東にむかってすすむ」という意味で、釈尊の大法はだんだん東へ東へと、弘まっていくのだという一種の確信をもっていたのである。つまりそれは、仏教がこうした歴史を実際に経てきているからであって、まずインドから中国へ、中国から朝鮮へ、朝鮮から日本へと伝来してきているのである。そこで、このつぎは〔…〕
―― 常光浩然『日本仏教渡米史』 [178]
『己高山縁起』
つまり、京都の鬼門
このように、酒天童子
牧野和夫さんは、「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」という論文のなかで、中世の天台教団
また、この、霊鷲山
さらに、ここで、天台教団
このようにかんがえると、酒天童子
天台教団
このようにかんがえると、酒天童子
「近江国おうみのくに かが山やま 」が、伊吹山いぶきやま である可能性と、白山信仰はくさんしんこう について
伊香郡己高山鶏足寺は、伊吹修験道の末寺
48ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)
己高山縁起によれば、「入峰事」として、
〔中略〕
とあり、伊吹修験道の末寺である伊香郡の己高山修験が、伊吹山大乗峰と共に北陸の白山へ入峰しており、本寺である伊吹修験道においても、当然、白山入峰を行なっていたであろうことが類推できる。
[26]
53~56ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)
「近江国おうみのくに かが山やま 」が、山本山やまもとやま である可能性と、白山信仰はくさんしんこう について
山本山
山本山(やまもとやま)の山頂から見える、竹生島(ちくぶしま)や、菅浦半島(すがうら半島)とその先端の葛篭尾崎(つづらおざき)、尾上漁港(おのえ漁港)
(滋賀県長浜市湖北町&高月町) pic.twitter.com/lLpvTNMDKK— Yukinobu Kurata : 倉田幸暢 (@YukinobuKurata) September 24, 2022
山本山
・朝日山
・白山
・田中山
・見当山
下記で紹介している解説板に、それらの名称についての説明が書かれています。
この上の写真に写っている「山本山
山本山(標高324.9m)
この山の別名は朝日山、田中山、白山と言い、また、その優美な形が琵琶湖のどこから見ても、すぐにわかることから見当山ともいいます。この山が地上と湖上を見渡す重要な位置にあることから、平安時代から戦国時代にかけて山城が築かれ、土塁と堀切の跡に古城の姿をとどめることができます。
(山本山
この上の写真に写っている「山本山
下記の文章のなかの〔〕(亀甲括弧
朝日山の由緒
山本山・見当山・白山
日本民族の発祥地 天孫瓊々杵之尊〔※1〕の山陵。古事記 日本書記などによると大海に晒されるところで 四方を山に囲まれた清らかな湖水(天之真名井)をたたえ 土地肥沃にして五穀豊穣の地である。淡海の国の朝日の里 畏くも天孫瓊々杵の尊が天照大神の御神勅を奉じて 多く〔※2〕の神々を随えて 塩土老翁之神〔※3〕(北方約八粁〔※3〕湖岸山尾根つづきに塩津神社あり)のお出迎をうけて 高天原から豊葦原の中津国開拓の御使命をおびて、この朝日山を目標として御降臨〔※4〕あらせられた。それより幾多の御辛苦をなめられ、その使命を果されたが 悲しくも尊はこの地で御終焉あらせられたので 山頂に斎き祭り 永久に民安かれと鎮まり給うたのである。その山陵も朝日山に厳然と安置されてある次第である。朝日山神社 朝日山
もと白山神社(伊弉諾尊・伊弉冊尊・菊理媛命)と 元八幡神社(応神天皇社〔※5〕)を合祀 朝日山神社と改称し今日に至っている 尚左手にある四社は往古よりの野神で 南から 稲荷神社(元市場村) 神明神社(元川原村) 宇賀魂神社(元種路村) 春日神社で 明治十一年に遷座されたものである円乗院 常楽寺 朝日山中腹
薬師如来を御本尊とし 観世音菩薩 不動明王 毘沙門天 弘法大師をおまつりしてある。かって山本氏(後記)が古刹常楽寺に帰依し祈願所としたのであって 七堂伽藍があったと伝えられる開化天皇の皇子 彦坐王族の蛍墓伝 常楽寺前石段上
彦坐王〔※6〕の子孫は 旧浅井郡(昔の浅井郡は現在の伊香郡西浅井村を含んだ地形であったが天災で陥没したと云う)を統治せられし王族であって この地に居住せられたと拝察されるのである近江源氏山本判官の山本山古城址
堀河天皇〔※7〕の寛治元年に 東国平定の功により新羅三郎義光は 近江常陸を賜わったによって 嫡子義業は両国の領主としてこの地に居住 山本城を築き この地に居住山本性を名乗った
その後幾多の浮沈あるも十五代も連続したと伝えられる山本山保勝会
〔※1:「瓊々杵之尊」は、「ににぎのみこと」と読みます。〕
〔※2:原文のなかで使用されている「夛」の字は、「多」の字とおなじ意味で使用されています。そのため、ここでは、読者が読みやすい文章にするために、「夛」の字を、「多」の字に変えました。〕
〔※3:原文では「塩土地翁」と書かれています。ですが、ここでは、一般的な表記である「塩土老翁」に変えました。〕
〔※4:「粁」の字は、「キロメートル」と読みます。この字の意味は、「キロメートル」です。〕
〔※5:この解説板に書かれている原文のなかの「臨」の字は、「臨」という漢字と、「臨」の簡体字である「临」という漢字を組み合わせたような漢字になっています。ですが、その字の活字は存在しないようでした。そこで、ここでは、その文字の代わりに「臨」の字を使用しています。〕
〔※6:原文では「應神社天皇」(応神社天皇)となっていますが、おそらく誤記ではないかとおもします。ただしくは、「應神天皇社」(応神天皇社)ではないかとおもいます。そのため、ここでは、「応神天皇社」に変えました。〕
〔※7:原文では「彦座王」となっていますが、ここでは「彦坐王」に変えました。「彦座王」(彦坐王/日子坐王)は、「ひこいますのおう」と読みます。〕
〔※8:原文では「堀川天皇」となっていますが、ここでは「堀河天皇」に変えました。〕
(山本山
朝日山神社あさひやまじんじゃ
この上の写真に写っている「朝日山神社
朝日山神社略考
当社は明治五年八月山麓鎮座の白山宮 八幡宮を合祀し 朝日山神社と改称せるものにして 白山宮は伊弉諾 伊弉冉 菊理姫の三神を 八幡宮は応神天皇を奉斎す 白山宮は僧の最證〔引用者注:「最澄」の誤記か?〕 仏道鎮護神として加賀白山比売神社より勧請せるに始まり 八幡宮は山本源氏の祖 山本判官義定公が岩清水八幡宮より勧請し 朝日山中腹に奉斎せらるるに始まる これより先 開化天皇の末孫 浅井郡の地を賜ひ 子孫 此地に住給ひ 綏請〔引用者注:「綏靖」の誤記か?〕 安寧 懿德の三帝の霊を祈られたると口碑に伝ふるは 此 白山宮の前の地なる事を考察するに足る
往古より御神徳は高く 八幡宮の大神は武門武将の崇敬 殊に厚く 白山宮の大神は延命息災の神として地方に此の祈請するもの数多ありて無言詣の称 今に伝ふ
現境内は古く古代天孫降臨を伝ふる朝日山聖地の守護神にふさわしく往古より神木の大樹 社殿を覆 大社たりしこと 今に其の遺風厳然たり
社格は旧村社にして境内地二千坪を有し 明治四十一年 村社指定を受け 大字山本に二百六十戸を氏子として 綏靖 安寧 懿德 応神の四天皇と伊弉諾大神 伊弉冉大神を奉斎し 毎年九月十五日を例祭日として祭典を行いつつあり昭和四十七年元旦
宮司 朝日弥栄 謹書
(朝日山神社
山本山
朝日山神社
(参考)
神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1156
朝日山 常楽寺
朝日山神社
常楽寺は、真言宗泉涌寺派のお寺です。
山号は、朝日山です。
宇賀神社うがじんじゃ
宇賀神社
山本山
「近江国おうみのくに かが山やま 」が、比良山地ひらさんち の権現山ごんげんやま である可能性と、白山信仰はくさんしんこう について
水分
みくまり 神社 滋賀郡志賀町栗原
祭神は玉依姫命。近世には龍王明神社・八大龍王と呼ばれていた。〔中略〕『栗原村万覚帳』では、八大龍王明神は十一面観音、白山権現(峯権現)は十一面観音となっている。〔中略〕峯権現は本殿左方の小祠に祀られ、現在は峯大神社と称している。これは比良山系南部の権現山(九九六メートル)の頂上に祀られる小祠(峯権現)の里宮であり、山頂の小祠を村人は「権現さん」と称している。
〔中略〕
権現山から琵琶湖側に開けた荘園を和邇わに 庄という。
〔中略〕
権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰きせん 川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。
(小栗栖健治「水分神社」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) [181] [26]
- 地図の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」を、加工・編集して使用しています。地理院タイルは、「国土地理院コンテンツ利用規約」にもとづいて使用しています。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」は、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」のズームレベル9~13で表示される画像(地理院タイル)です。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」のデータソース: Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)。くわしくは、国土地理院のウェブサイトのなかの、「地理院タイル一覧」のページ(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)のなかの、「2.基本測量成果以外で出典の記載のみで利用可能なもの」のなかの、「ベースマップ」のなかの、「写真」(衛星写真の画像)のところをご参照ください。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学, 59ページ. [Back ↩]
- 出典: 〔「総論」の執筆者の一覧 : 木村至宏, 大橋信弥, 井上満郎, 橋本鉄男, 網野善彦, 宇野茂樹, 嘉田由紀子, 伏見碩二, 太井子宏和, 大槻恵美, 前畑政善, 浜端悦治, 足利健亮, 八杉淳, 杉江進 〕 (1991年) 「比良山地」, 「総論」, 〔編集委員の一覧 : 木村至宏(代表), 網野善彦, 井上満郎, 吉村亨〕, 柴田實(監修), 『日本歴史地名大系 第25巻 (滋賀県の地名)』, 平凡社, 53ページ2段目. [Back ↩]
- 出典:阿部泰郎 (1980年) 「一節 比良明神: 東大寺縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 37ページ. [Back ↩]
- 出典:三浦佑之 (2020年) 「まえがき」, 『改訂版 神話と歴史叙述』(講談社学術文庫)(Kindle版), 講談社. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇
ごしらかわほうおう [編集] 「歌番号: 253」, 「神分じんぶん 三十六首」(神分じんぶん 三十六首), 「四句神哥しくのかみうた 百七十首」(四句神歌しくのかみうた 百七十首), 「梁塵祕抄りょうじんひしょう 卷第二」(梁塵秘抄りょうじんひしょう 巻第二), 佐佐木信綱ささき のぶつな [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄りょうじんひしょう (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 51ページ. [Back ↩] - 参考文献: 「志賀
が の浦うら の冴さ ゆるけしきのことなるは比良ひら の高嶺たかね に雪や降ふ るらん」; 慈円じえん (慈鎮和尚じちんかしょう )(原著者), 石川一(著者), 山本一(著者), (2008年) [歌番号35], 「雪」, 「百首和歌 十題(初度百首)」, 久保田淳(監修), 『拾玉集 上 (和歌文学大系 ; 58)』, 明治書院, 8ページ. [Back ↩] - この絵図のイメージ画像は、香取本
かとりぼん 『大江山絵詞おおえやまえことば 』の絵図(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」)をもとにして、筆者(倉田幸暢)が制作したものです。[Back ↩] - この「香取本
かとりぼん 『大江山絵詞おおえやまえことば 』の絵巻のイメージ画像(「上巻」「下巻」「詞書巻ことばがきかん 」の三巻(絵巻の原本の現状))」の画像は、『続日本絵巻大成 19 (土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞)』の147ページに掲載されている「大江山絵詞 現装」の写真の挿絵をもとに筆者(倉田幸暢)が制作したものです。)[Back ↩] - 出典: 佐野静代 (2008年) 「はじめに」, 「Ⅰ 河川の中世的開発と村落景観」, 「第二章 中世居館の用水支配機能と村落景観 : 開発領主と中世村落」, 『中近世の村落と水辺の環境史 : 景観・生業・資源管理』, 吉川弘文館, 87ページ. [Back ↩]
- 注釈:香取本『大江山絵詞
おおえやまえことば 』(現在は、逸翁美術館に所蔵されています。)[Back ↩] - 参考文献:(1993年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本の絵巻 26』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [Back ↩]
- 参考文献: (1984年) 「大江山絵詞」, 小松茂美(編者), 『続日本絵巻大成 19』(土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞), 中央公論社. [Back ↩]
- 参考文献: (1975年) 「大江山酒天童子(逸翁美術館蔵古絵巻)」, 横山重(編者), 松本隆信(編者), 『室町時代物語大成 第3』, 角川書店. [Back ↩]
- 出典: 阿部泰郎 (1994年) 「書評「酒呑童子の誕生--もうひとつの日本文化」高橋昌明」, 歴史学研究会(編集), 『歴史学研究』, 通号 654, 青木書店, 42ページ1列目~42ページ2列目. [Back ↩]
- 出典: 阿部泰郎 (1994年) 「書評「酒呑童子の誕生--もうひとつの日本文化」高橋昌明」, 歴史学研究会(編集), 『歴史学研究』, 通号 654, 青木書店, 42ページ2列目. [Back ↩]
- 出典: 牧野和夫 (1988年) 「「幽王始めて是を開く」ということ : 天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」, 『実践国文学』, 通号 34, 61~62ページ. [Back ↩]
- 出典: 菊地勇次郎 (1980年) 「最澄と酒呑童子の物語」, 天台学会(編集), 『伝教大師研究』, 早稲田大学出版部, 362~363ページ. [Back ↩]
- 出典: 菊地勇次郎 (1980年) 「最澄と酒呑童子の物語」, 天台学会(編集), 『伝教大師研究』, 早稲田大学出版部, 363ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 菊地勇次郎 (1979年) 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, 月曜会, 20~21ページ. [Back ↩]
- 出典: 岩崎武夫 (1978年) 「権現堂と土車」, 『さんせう太夫考 続 : 説経浄瑠璃の世界』, 平凡社選書 56, 平凡社, 114ページ. [Back ↩]
- 出典: 濱中修 (1990年) 「「伊吹童子」考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学文学部, 55ページ. [Back ↩]
- 出典: 濱中修 (1990年) 「「伊吹童子」考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学文学部, 59ページ. [Back ↩]
- 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 7~8ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 高橋昌明 (2005年) 「四、叡山で跳躍する」, 「第六章 酒呑童子説話の成立」, 『酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 233~234ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 9ページ. [Back ↩]
- 出典:硲慈弘 (1972年) 「(5) 結語」, 「二、中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 「六、慧檀両流に於ける実際信仰」, 『日本仏教の開展とその基調 下 (中古日本天台の研究)』, 5版, 三省堂, 265ページ. [Back ↩]
- 注記:引用者が、引用文中の旧字体の文字を新字体の文字に変更しました。 [Back ↩]
- 参考文献: 中倉千代子「曼殊院本」〔『山門聖之記
さんもん ひじりのき 』(通称、『諸国一見聖物語しょこく いっけん ひじり ものがたり 』、『聖之記ひじりのき 』、『聖記ひじりのき 』)(曼殊院まんしゅいん 蔵本)〕, 「解説」, 佐竹昭広 (京都大学文学部国語学国文学研究室 代表) [編集], 中倉千代子 [解説], (1981年), 『諸国一見聖物語 : 曼殊院蔵粉河寺蔵 (京都大学国語国文資料叢書 29)』, 臨川書店, 195~196ページ. [Back ↩] - 参考文献: 亮海
りょうかい [著者] 『山門聖之記さんもん ひじりのき 』(通称、『諸国一見聖物語しょこく いっけん ひじり ものがたり 』、『聖之記ひじりのき 』、『聖記ひじりのき 』)(曼殊院まんしゅいん 蔵本), 佐竹昭広 (京都大学文学部国語学国文学研究室 代表) [編集], 中倉千代子 [解説], (1981年), 『諸国一見聖物語 : 曼殊院蔵粉河寺蔵 (京都大学国語国文資料叢書 29)』, 臨川書店, 46ページ. [Back ↩] - 出典: 牧野和夫 (1993) 「中世聖徳太子伝と説話 : “律”と太子秘事・口伝・「天狗説話」」, 本田義憲 [ほか]編, 『説話の講座 第3巻』, 勉誠社; 247ページ, 249ページ. [Back ↩]
- 出典: 慶政[著者], 木下資一(校注) 『比良山古人霊託』, 佐竹昭広 [ほか]編, (1993年), 『新日本古典文学大系 40 (宝物集, 閑居友, 比良山古人霊託)』, 岩波書店, 457ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 〔「比良」(比良山)についての記述があるページ(コマ番号: 47(左側のページ)~48(右側のページ)(87ページ~88ページ))〕, 「七高山」, 「法場歴」, 「第四」, 「第十九 二中歷」(『二中歴
にちゅうれき 』)), 近藤瓶城 [編集], (1907年), 『史籍集覧 第23冊 改定』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 近藤出版部. [Back ↩] - 画像の出典:[良弁と比良明神], 石山寺縁起. [1], 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:藤原家隆『新古今和歌集』. [Back ↩]
- 参考: 「しがのうら【滋賀浦・志賀浦】 滋賀県大津市の琵琶湖南西岸の地。⦅歌枕⦆ 「 -や遠ざかり行く浪まより氷りて出づる有明の月/新古今 冬」」, 「大辞林 第三版の解説」, 「滋賀浦・志賀浦(しがのうら)とは - コトバンク」より, 2019年12月30日閲覧. [Back ↩]
- 出典:藤原長能『新古今和歌集』. [Back ↩]
- 出典:阿部泰郎 (1980年) 「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 48~49ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 59ページ. [Back ↩]
- 出典: 安藤礼二 (2017年) 「新版解説 霊魂論と祝祭論」, 折口信夫 [著者], 『古代研究 2 改版 : 民俗学篇 2 (角川ソフィア文庫])』Kindle版, KADOKAWA. [Back ↩]
- 参考文献: 金春禅竹
こんぱるぜんちく 『明宿集めいしゅくしゅう 』, 表章おもてあきら [校注], 加藤周一 [校注], (1974年), 『日本思想大系 24 : 世阿弥・禅竹』, 岩波書店, 406ページ2段目~407ページ1段目. [Back ↩] - 注記: 参考文献に記載されている文章(原文)に対して、引用者が、カタカナ
片仮名 をひらがな平仮名 に変更したり、ふりがな振り仮名 を追加したり、原文では「聖徳大子」となっている文字を「聖徳太子」に変更したりするなどの、変更を加えました。 [Back ↩] - 出典: 安藤礼二 (2014年) 「翁の発生」, 「第六章 天皇」, 『折口信夫』Kindle版, 講談社. [Back ↩]
- 参考文献: (1991年) 『日本歴史地名大系 第25巻 (滋賀県の地名)』, 平凡社, 52~53ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編集) (1979年) 『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』, 角川書店, 602ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 吉田東伍 (1969年) 『大日本地名辞書 第2巻 (上方) 増補版』, 富山房, 657ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 滋賀県(編集), 宇野健一(註訂) (1979年) 『近江国滋賀郡誌』, 弘文堂書店, 833ページ. [Back ↩]
- 参考: 景山春樹 (1978年) 「一、三塔・九院・十六谷」, 「Ⅰ 序にかえて」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 8ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考:四明岳
しめいがたけ は、「しめいだけ」と呼ばれることもあります。 [Back ↩] - 参考:「波母山」という言葉に、「はもやま」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献としては、山口幸次さんの『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち(近江の祭礼行事 ; 1)』があります。この本の112ページのところに、つぎのような記述があります。「「山上山下巡拝絵巻」には、八王子山とは別の山に「小比叡
おびえい 山・波母山はもやま 」とあり、「二宮権現」も描かれています。これは、横川よかわ 方面にある垂釣たるつり 岩(通称鯛釣たいつり 岩)付近の山中のことで、今も回峯行者かいほうぎょうじゃ に尋ねると、「お山(比叡山)の伝えはここだ」とおっしゃいます。」 [Back ↩] - 参考: 「比叡山の山のなかで、釈迦ヶ山、水井山、三石岳の山名の読みと所在府県を知りたい。 | レファレンス協同データベース」. [Back ↩]
- 参考:「水井山」という言葉に、「みずいやま」という読み仮名をつけている文献としては、『滋賀県の山(分県登山ガイド 24)』があります。この本の86ページに、横高山
よこたかやま と、水井山みずいやま の、読み仮名が書かれています。 [Back ↩] - 注記: 「三石岳」は、「みついしだけ」と読むようです。(参考: 「三石岳とは - コトバンク」.) [Back ↩]
- 参考文献: (1991年) 『日本歴史地名大系 第25巻 (滋賀県の地名)』, 平凡社, 25ページ. [Back ↩]
- 参考文献: コトバンク, 「比叡山(ひえいざん)とは」, 2019年6月11日閲覧. [Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 259ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:85 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- この写真は、2018年12月に、現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- ※ 白鬚神社
しらひげじんじゃ (滋賀県高島市たかしまし 鵜川うかわ )にある「謡曲「白鬚」と白鬚明神」についての解説板の文章は、2018年12月に、現地にて筆者が確認したものです。 [Back ↩][Back ↩] - この写真は、2019年6月に、現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典: 林屋辰三郎 (1984年) 「中・近世の文化的発展」, 「一 北部地域の歴史的位置」, 「総説」, 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, 5~6ページ. [Back ↩]
- 出典: 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), [編集者と執筆分担者の一覧表], (1984年), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, [巻末の編集者と執筆分担者の一覧表]. [Back ↩]
- この写真は、2018年12月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- 出典: 「白鬚大明神縁起絵巻
しらひげだいみょうじんえんぎえまき 」上巻 詞書ことばがき 第七段, 元興寺文化財研究所(編), (1980年),『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 149ページ1段目. [Back ↩] - 出典: 山口幸次(写真・文) (2010年) 「山王祭メモ: 忘れられたもう一つの聖地」, 『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち(近江の祭礼行事 ; 1)』, サンライズ出版, 112ページ. [Back ↩]
- この写真は、2019年12月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典: (1985年) 「五所明神祠中院」, 「寺門伝記補録
じもんでんきほろく 第五」, 三井寺法燈記編纂委員会(著者), 三浦道明(監修), 『三井寺法灯記みいでらほうとうき 』(『三井寺法燈記』), 日本地域社会研究所, 255ページ. [Back ↩] - 画像の出典: "The Great Buddha" by JoshBerglund19 on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 参考文献: 大伴家持
おおとものやかもち (大伴宿禰家持おおとものすくねやかもち )(原著者), 稲岡耕二いなおかこうじ (著者) (2015年) [歌番号4097], 「萬葉集巻第十八」, 久保田淳(監修), 『萬葉集 4 (和歌文学大系 ; 4)』, 明治書院, 301~302ページ. [Back ↩] - 画像の出典: 「大仏開眼
だいぶつかいげん 」寺崎広業(絵画)(「大佛開眼」寺崎廣業(絵画)), 『国民日本歴史』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 68 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩] - 参考: 「寺崎広業 - Wikipedia」. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 11ページ. [Back ↩]
- 注記: この引用文の原文のなかの、漢文の文章には、訓点
くんてん (返り点かえりてん )がつけられています。この引用文では、原文のなかの漢文につけられている訓点(返り点)を表現するために、HTMLの<sub>タグをつかっています。そのようにした理由は、現段階ではまだ、ウェブページのなか(HTMLのなか)で、返り点などの漢文の訓点を表現するための正式な方法がないようだったからです。 [Back ↩] - 画像の出典: 〔天平
てんぴょう 十五年(西暦743年)の「冬十月辛巳かのとみ 」の条〕, 「続日本紀しょくにほんぎ 巻第十五」, 『国史大系こくしたいけい 第2巻: 続日本紀しょくにほんぎ 』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 130 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩] - 参考文献: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 11~13ページ. [Back ↩]
- 注記: 参考文献である、『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版)の本のなかの、「造立盧舎那仏詔」のところから引用した文章にたいして、引用者が振り仮名(読み仮名)を追加しました。 [Back ↩]
- 参考文献: 山岸徳平(校注), 竹内理三(校注), 家永三郎(校注), 大曽根章介(校注), (1979年), 「造立盧舎那仏詔」, 『日本思想大系 8 古代政治社会思想』(旧版), 岩波書店, 12~13ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「二二三 大嶋神鎮座記寫」(「二二三 大嶋神鎮座記写」), 滋賀大学経済学部附属史料館(編纂) (1986年) 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』, 滋賀大学経済学部附属史料館, 127~128ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 阿部泰郎 (1980年) 「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 45ページ1段目~2段目. [Back ↩]
- 出典: 「二二三 大嶋神鎮座記寫」(「二二三 大嶋神鎮座記写」), 滋賀大学経済学部附属史料館(編纂) (1986年) 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』, 滋賀大学経済学部附属史料館, 127~128ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考: 滋賀大学経済学部附属史料館(編纂) (1986年) 「序」, 『大嶋神社・奥津嶋神社文書』, 滋賀大学経済学部附属史料館. [Back ↩]
- 出典: 阿部泰郎 (1980年) 「二節 白鬚明神: 比叡山縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 45ページ1段目~2段目. [Back ↩]
- 出典: 「百科事典マイペディアの解説」, 「奥島(おくしま)とは - コトバンク」, 2020年4月28日閲覧. [Back ↩]
- 出典: 寒川辰清
さむかわ たつきよ (著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「沖おきの 島」, 「蒲生郡第二」, 「巻之五十五」, 『近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 672~673ページ. [Back ↩] - 注記: 引用者が、一部の漢字を、旧字体から新字体に変えました。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 注記: 「寒川辰清」という名前は、「さむかわ たつきよ」という読み方以外にも、「かんがわ たつきよ」や、「さんがわ とききよ」、と読まれる場合もあるようです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 寒川辰清
さむかわ たつきよ (著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「沖おきの 島」, 「蒲生郡第四」, 「巻之五十七」, 『近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 689ページ. [Back ↩][Back ↩] - 参考: 「島の西側 のアクセス・営業時間・定休情報|びわ湖周辺観光|琵琶湖汽船」. [Back ↩]
- 出典: 寒川辰清
さむかわ たつきよ (著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「沖おきの 島」, 「蒲生郡第四」, 「巻之五十七」, 『近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 688~689ページ. [Back ↩] - 出典: 橋本鉄男(著者), 谷川健一(編集), (1986年) 「白鬚神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 348~352ページ. [Back ↩]
- 出典: 寒川辰清
さむかわ たつきよ (著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「白髭しらひげ 大明神社」, 「滋賀郡第二十五」, 「巻之三十」, 『近江輿地志略おうみよちしりゃく : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 358~359ページ. [Back ↩] - 出典: 吉井敏幸 (1980年) 「おわりに」, 「第三章 比良山系における諸寺院の中世から近世への展開」, 「二、比良山系における中世寺社の近世的展開」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 111ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇
ごしらかわほうおう [編集] 「歌番号: 425」, 「雜八十六首」(雑八十六首), 「四句神哥しくのかみうた 百七十首」(四句神歌しくのかみうた 百七十首), 「梁塵祕抄りょうじんひしょう 卷第二」(梁塵秘抄りょうじんひしょう 巻第二), 佐佐木信綱ささき のぶつな [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄りょうじんひしょう (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 75ページ. [Back ↩] - 画像の出典:「建立大師相応和尚御像」, 『相応和尚略伝 : 北嶺行門始祖』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:4 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇
ごしらかわほうおう [編集] 「歌番号: 284」, 「佛哥十二首」(仏歌十二首), 「四句神哥しくのかみうた 百七十首」(四句神歌しくのかみうた 百七十首), 「梁塵祕抄りょうじんひしょう 卷第二」(梁塵秘抄りょうじんひしょう 巻第二), 佐佐木信綱ささき のぶつな [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄りょうじんひしょう (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 55ページ. [Back ↩] - 出典:佐藤弘夫 (2003年) 「聖の活動」, 「変貌する霊場:エピローグ」, 『霊場の思想』, 歴史文化ライブラリー; 164, 吉川弘文館, 184~185ページ. [Back ↩]
- 出典: 瀬田勝哉 (2000年) 「巨樹を伐る話と近江」, 「巨樹を伐る : 『今昔物語集』」, 「Ⅰ 伐られる巨樹と山林――開発の時代」, 『木の語る中世 (朝日選書 ; 664)』, 朝日新聞社, ページ. [Back ↩]
- 出典: 杉江進 (2000年) 「(二)葛川谷と伊香立」, 「古絵図が語る大津の歴史」, 大津市歴史博物館(編集), 『古絵図が語る大津の歴史: 開館10周年記念・文化財保護法50年記念』, 大津市歴史博物館, 52ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇
ごしらかわほうおう [編集] 「歌番号: 419」, 「雜八十六首」(雑八十六首), 「四句神哥しくのかみうた 百七十首」(四句神歌しくのかみうた 百七十首), 「梁塵祕抄りょうじんひしょう 卷第二」(梁塵秘抄りょうじんひしょう 巻第二), 佐佐木信綱ささき のぶつな [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄りょうじんひしょう (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 74ページ. [Back ↩] - 出典: 林屋辰三郎 (1984年) 「中・近世の文化的発展」, 「一 北部地域の歴史的位置」, 「総説」, 林屋辰三郎(編集), 飛鳥井雅道(編集), 森谷尅久(編集), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, 7ページ. [Back ↩]
- 参考: 「近江輿地志略
おうみよちしりゃく : 校定頭註 - 国立国会図書館デジタルコレクション」, コマ番号: 597. [Back ↩] - 出典:阿部泰郎 (1980年) 「三節 三尾明神: 長谷寺縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 51ページ1段目. [Back ↩]
- 出典: 山本陽子 (2007年) 「四 御衣木の放光伝説」, 「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」, 『明星大学研究紀要. 日本文化学部・言語文化学科』, 第15号, 明星大学青梅校, 77ページ1段目. [Back ↩]
- 出典: 香取本
かとりぼん 『大江山絵詞』おおえやまえことば の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書ことばがき . [Back ↩][Back ↩][Back ↩] - 参考: 「近江輿地志略
おうみよちしりゃく : 校定頭註 - 国立国会図書館デジタルコレクション」, コマ番号: 595. [Back ↩] - 出典: 宮次男 (1971年) 「研究資料 長谷寺縁起 上」, 『美術研究』275号, 34~36ページ. [Back ↩]
- 出典: (1985年) 「一、三尾明神
みおみょうじん の御事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 一」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』, 三井寺法燈記編纂委員会(著者), 三浦道明(監修), 『三井寺法灯記みいでらほうとうき 』(『三井寺法燈記』), 日本地域社会研究所, 32~33ページ. [Back ↩] - 出典: (1915年10月25日) 「一 三尾明神
みおみょうじん 御事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 一之二」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』, 仏書刊行会(編集), 『大日本仏教全書 127』, 仏書刊行会, 10ページ2段目~11ページ1段目(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号:9). [Back ↩] - 出典: (1985年) 「一、三尾明神
みおみょうじん の事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 四」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』, 三井寺法燈記編纂委員会(著者), 三浦道明(監修), 『三井寺法灯記みいでらほうとうき 』(『三井寺法燈記』), 日本地域社会研究所, 65ページ. [Back ↩] - 出典: (1915年10月25日) 「一、三尾明神
みおみょうじん 事」, 「園城寺伝記おんじょうじでんき 三之四」, 『園城寺伝記おんじょうじでんき 』, 仏書刊行会(編集), 『大日本仏教全書 127』, 仏書刊行会, 37ページ2段目(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号:22). [Back ↩] - 画像の出典: 'Image from page 81 of "Chemical embryology" (1931)' by Internet Archive Book Images on Flickr (License: No known copyright restrictions). [Back ↩]
- 出典: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「一」, 「ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)の歌(一〇・一二一)」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 317ページ. [Back ↩]
- 注記: 「ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)の歌(一〇・一二一)」の、「一〇・一二一」という文字の意味は、「『リグ・ヴェーダ』第10巻(第10マンダラ)のなかに記載されている、第121番目の聖歌(賛美歌)」という意味です。 [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「ヒラニア・ガルバ(黄金の胎児)の歌(一〇・一二一)」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 316ページ. [Back ↩]
- 「割れた卵 白銀
しろがね の夢 知れども知り得ぬ見知らぬ友 憧あこが れとまどろみに染まる午後の色 響く大いなる翼 その旋律をもって少年を誘いざな う 降臨せしは汝の名を知る者 ラーゼフォン 第2楽章 「神人目覚める」 世は音に満ちて」(「第1楽章 首都侵攻 : OVER LORD」の次回予告) [Back ↩] - 参考: 「次回予告 ラーゼフォン」[Back ↩]
- 出典: 〔「第1楽章 首都侵攻 : OVER LORD」の次回予告〕, 出渕裕(脚本/絵コンテ), 京田知己(演出) (2002年) 「第12楽章 黒い卵 : Resonance」, 23:11~23:41, 出渕裕(原作/監督), 『ラーゼフォン』 (RahXephon), ボンズ(BONES)(アニメーション制作). [Back ↩]
- 参考文献: (2004年) 「第1楽章 首都侵攻 : OVER LORD」, 「TV Series episode guide ― テレ