伊吹弥三郎: 姉川を生き、妹川に没した、伊吹山の水竜鬼
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう: 姉川あねがわき、妹川いもうとがわぼっした、伊吹山いぶきやま水竜鬼すいりゅうき[1] [2]

播隆上人の風穴と御来迎(ブロッケン・グローリー)
播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな御来迎ごらいごう(ブロッケン・グローリー)》 [1] [3]

伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の入り口
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)の入り口
伊吹山いぶきやま

伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の内部
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)の内部
伊吹山いぶきやま

井明神社(高月町尾山)
井明神社いのみょうじんしゃ
滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま

 

伊吹弥三郎 山中やしろ 聞けば大君が 宿じやげな
 
伊吹おそろし 後は山で 前に大河を ひきうけて

―― 伊吹山いぶきやまの民謡 [4] [5] [6]

ことわり理りや 日の本ひのもとならば てり照りもしよ
さりとて今また 雨がしたあめがした天が下
山里やまざとの くさば草葉すむる栖むる 虫さへもさえも 日に悲しむぞ あはれ哀れあわれさよ
りゅうの手に げにも湖水こすいを 巻上まきあげて うるはせ給へ潤わせ給えうるわせたまえ 神々あまつかみ天つ神
雨の神 清水しみず小川おがわの つづくほど うるはせ給へ潤わせ給えうるわせたまえ やつの神夜刀神八つの神
ちはや降る千早振るちはやぶる 神のみゆき御雪神幸の 水つきて尽きて
氏子うじこなげき嘆き はかりなし計り無し
おひ茂る生い茂るおいしげる 五穀草木ごこくそうもく しほれ萎れしおれても 神のみゆき御行神幸を まつ待つばかり
いや弥やみづる羸る まさきのかづら柾木の葛 長き世の
ながひでり日照り旱魃に 泣くばかり

―― 「高番たかばん雨乞唄あまごいうた」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [7] [8]

琵琶湖に注ぐ河川は、すべてお盆の中央にある琵琶湖へと注いでいる。このため、近江には信濃川や利根川のような大規模な河川はなく、山から流れ出た川が平野部に出て、すぐに琵琶湖に注ぐ小規模な河川ばかりである。このわずかの間に、河川の水は田用水や生活用水など、さまざまな形で繰り返し高度に利用されてきた。
 しかし、灌漑技術が発達する一方で、規模が小さく流量が安定しないため、流域各地で激しい水争いが頻繁に発生し、雨乞行事なども盛んに行われてきた。また、過度の伐採利用や戦乱などで山が荒れ、洪水被害にもたびたび悩まされてきた。
 このように、近江は山や川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった

―― 水田有夏志『近江の滝』 [9]

 

動画: 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の洞窟への道のり(ルート)と洞窟探検 in 伊吹山【鬼伊吹】


地図 : 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と「井明神社いのみょうじんしゃ」関連地図

千の顔をもつ弥三郎
《千の顔をもつ弥三郎》 [1]

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はじめに

伊吹山遠望(東海道新幹線の車窓より撮影)
伊吹山いぶきやま遠望
(東海道新幹線の車窓より撮影)

 滋賀県と岐阜県の境界にそびえる伊吹山いぶきやまの周辺には、「鬼伊吹おにいぶき」と呼ばれた伊吹弥三郎いぶきやさぶろうという人物にまつわる伝承が、たくさん残されています。伊吹弥三郎いぶきやさぶろうは、酒呑童子しゅてんどうじと同じ性質をもった人物として描かれることがあったり、酒呑童子しゅてんどうじ伊吹童子いぶきどうじ)の父親であるとされることがあったりと、酒呑童子しゅてんどうじにも縁のある人物です。本稿では、その伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」と「死んだ場所」として、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」(伊吹山いぶきやまの山頂付近の洞窟)と、「井明神社いのみょうじんしゃ」(高時川たかときがわのほとりのお社おやしろ)を紹介します。

目次
  1. はじめに
    1. 凡例はんれい
  2. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうってだれ?
    1. 伊吹山いぶきやまってどこ?
    2. 柏原弥三郎かしわばらやさぶろうってだれ?
  3. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」: 伊吹山いぶきやま伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)、姉川あねがわ
    1. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな
      1. 播隆上人ばんりゅうしょうにんってだれ?
      2. 参考: 参考地図上の各地点
    2. 伊吹山いぶきやま姉川あねがわ水神すいじんとしての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
      1. 参考: 姉川あねがわってどんな川?
    3. 戸谷とったにの、「伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや)」と、「弥三郎岩屋やさぶろういわや
    4. 参考: 伊夫岐神社いぶきじんじゃにいたるまでの、伊吹山いぶきやまの水信仰の伝播経路
  4. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「死んだ場所」: 妹川いもうとがわ高時川たかときがわ)(井明神社いのみょうじんしゃ
    1. 井明神社いのみょうじんしゃ : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの霊廟
    2. 飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」『三国伝記』
    3. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうと、千田せんだの庄屋うねめさんの娘
    4. 井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんは誰なのか?
      1. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう」説
      2. 井口弾正いのくちだんじょうの娘」説
        1. 参考: 井口弾正いのくちだんじょうの娘である阿古あこは、浅井久政あざいひさまさつまであり、浅井長政あざいながまさを産んだ母
        2. 参考: 「浅井」の読み方は、「あざい」なのか?「あさい」なのか?
      3. 「せせらぎ長者の娘(または、せせらぎ長者)」説
      4. 「渡江淵の大蛇」説
    5. 参考: 高時川たかときがわってどんな川?
    6. 参考: 雨森あめのもり乙子井おとごゆにまつわる伝承
    7. 参考: 高時川たかときがわ天井川てんじょうがわになった原因はなにか?
    8. 参考: 「波多八代宿禰はたやしろのすくねによる、己高山こだかみやまの大蛇退治」の伝説と、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ
      1. 参考: 己高山こだかみやま、三頭山のオトチの岩窟(大蛇の岩窟)
  5. 千の顔をもつ弥三郎
    1. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの分類を試みた先人の方々
    2. 鬼としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう鬼伊吹おにいぶき
    3. 水神すいじん(龍神)としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
      1. 深有上人じんゆうしょうにんが、『三国伝記』の伊吹弥三郎いぶきやさぶろう伝説をつくったのか?
    4. 伊吹大明神いぶきだいみょうじんたるヤマタノオロチと伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
      1. 剣の巻つるぎのまき
    5. 風神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
    6. 善人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
    7. 巨人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
      1. 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩と、玉姫物語(石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社
    8. 天狗としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
    9. 怨霊、祟り神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
    10. 盗賊としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
  6. おわりに
    1. 引用文献・参考文献
    2. 画像の出典
    3. 地図の出典
    4. 動画で使用している素材
  7. 鬼アートの記念NFTはこちら
  8. 脚注

凡例はんれい

 本稿で引用している文献の引用文は、読者が読みやすくなるように、引用者が適宜、文章に手を加えています。具体的には、下記のような変更を加えています。

・旧仮名遣いを、現代仮名遣いに変えました。
・旧字体の漢字を、新字体の漢字に変えました。
・漢文を書き下し文にしました。
・ふりがなを追加しました。
・句読点を変更・追加しました。
・一部、引用文中の登場人物による発言の部分に、「」(鉤括弧)を付けました。
・一部、引用文中の書籍の名称の部分に、『』(二重鉤括弧)を付けました。
・読みやすくなるように適宜、改行を加えました。
・一部、言葉を変更・追加しました。
・一部、間違いだとおもわれる文字を別の文字に変更しました。
・引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。

 

このブログ記事は、まだ書きかけの状態ですが、「すずろ作法」というかんがえかたにもとづいて、ある程度できたところで公開して、そのあとで、随時、内容を追加・修正する方法をとっています。更新通知をうけとるには、メールマガジンに登録していただいたり、ソーシャルメディアでフォローしていただければとおもいます。

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうってだれ?

伊吹弥三郎の岩屋 ver. b8f0b7adeebf
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや[10] [1]

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうというのは、伊吹山いぶきやまの周辺にさまざまなかたちでつたわっている物語に登場する人物です。伊吹弥三郎の物語は、伊吹山いぶきやまの山麓の地域をはじめとして、湖北一帯や、奥美濃にもつたわっています。伊吹弥三郎については、下記のようなさまざまな物語の要素が、あるときは個別に語られたり、あるときはごちゃまぜにして語られたりすることで、さまざまに異なる多様な人物像をもった伊吹弥三郎の物語がかたちづくられています。

・歴史上の人物である柏原弥三郎かしわばらやさぶろう
・神話上の伊吹山いぶきやまの神
・伝説上の巨人
・信仰上の水神すいじん(竜神)
・説話上の酒呑童子しゅてんどうじ
 などなど・・・

 ちなみに、伊吹弥三郎をあらわす言葉のひとつである「鬼伊吹おにいぶき」という言葉は、江戸時代前期の1665年(寛文5年)に刊行された、仮名草子『日本二十四孝』の第十四「山口秋道事」の項目に記されている言葉です(『浅井了意全集 仮名草子編 2』, pp.337-339)。その文章を、下記に引用します(佐竹, 1992, pp.16-18)。

さて又、近江の国伊吹山に弥三郎と云ふ者あり。その身は鉄のごとくにて、力は千人が力にも超えつべし。国中の者ども是を怖ぢて鬼伊吹〔おにいぶき〕とぞ申しける。然るにこの伊吹、東国北国より大内へ奉る御調物を中にて奪ひ取りしかば、御門はかの伊吹を退治せんとし給ふに、この伊吹、切るをも突くをも痛まず。まして射る矢もその身に立たず。その上、山野を走る事、飛ぶ鳥の如し。さていかにとしてかこの伊吹を平げんと公卿僉議ましまして、近国の兵を召され、この伊吹討ち取て奉るものならば、勲功勧賞けじゃうあるべしと宣旨を下し給びけり。こゝに同国に三上みかみと聞えし兵法達せし大剛の者あり。この人優なりし娘を一人持てり。しかれば彼伊吹たび〳〵来りて娘を所望せしかば、三上はこの伊吹を討たんため、娘を伊吹に取らせけり。その後、娘を呼び寄せ、伊吹が身のありさまを尋ぬるに、娘語りていはく、人のはだへとおぼしき所は右左脇の下より外になしと云ふ。三上はこれを聞き、はかり事をめぐらし、よろづの大石を集め、庭を作らせ、中にもすぐれたる石二つ三つ、庭のまん中に直しかねたる体に引きすてて置きつつ、伊吹をしゃうじ入れつつ、山海の珍物をとゝのへ、伊吹をもてなし、酒をすゝめける。酒も半ばの事なるに、伊吹庭のけしきをきつと見て、面白と作れる庭かな、さてこれなる石をば何とてかくては置き給ふらんと云ひしかば、三上申すやう、あなたへ直したくは候へども、あまりに石が重き故、さてかくて候ふと答ふ。伊吹聞きて、あらことごとしや、あれほどの石をば飛礫つぶてにも打つべくは候へ。さらば直して参らせむと云ふままに、座敷を立つて鎧を脱ぎすて、広庭に飛んで下りたりけり。頃は水無月半ば、暑さは暑し、酒には酔ひぬ、日頃の用心もうち忘れ、左右の肩をひん脱いで、小山のやうなる大石を宙にずんと差し上げたり。三上この由見るよりも、あはやここぞと心得て、伊吹が左の小脇を右へ通れとかつぱと突く。伊吹きつと見て、すはやたばかられたる口惜しさよと云ふまゝに、持ちたる石を投げ捨て、三上を取らんと飛んでかゝる。叶はじとや思ひけん、うしろさまに八尺築地を躍り越え、行方しらず逃げ失せたり。伊吹大きに怒つて、我が女房をば八つ裂きにして投げ捨て、雷の激する如くに屋形のうちを鳴りまはり、女わらんべともいはず、当る物を最後に踏み殺し、ねぢ殺し、多くの人を亡ぼして、その身は門に立ちすくみ、居なりじににぞ死したりける。三上、伊吹が首をとり、大内へ捧げたりしかば、御門御感に思し召して、官も禄も望みのまゝに成し下し給へば、三上は栄花をきはめけり。

(『日本二十四孝』第十四「山口秋道事」) [11]

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伊吹山いぶきやまってどこ?

伊吹山遠望(東海道新幹線の車窓より撮影)
伊吹山いぶきやま遠望
(東海道新幹線の車窓より撮影)


伊吹山いぶきやまの周辺地図
滋賀県米原市しがけん まいばらしと、岐阜県揖斐郡揖斐川町ぎふけん いびぐん いびがわちょう

下記の文章は、満田良順さんが書かれた「伊吹山の修験道」という文章(『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』所収)のなかの、伊吹山いぶきやまについての記述の部分です。

伊吹山は、一三七七メートルの標高を有し、新幹線の関ヶ原近辺の車窓より、そのどっしりとした山容を目の当りにすることができる〔中略〕
〔中略〕
 伊吹山の初見は、言うまでもなく、『古事記』に見られる倭建命〔やまとたけるのみこと〕による伊吹山の山神鎮定伝説である。この伝説は、『日本書紀』に記されており、倭建命(日本武尊)〔やまとたけるのみこと〕が草薙剣〔くさなぎのつるぎ〕を美夜受比売〔みやずひめ〕のもとに預け、「伊服岐山」〔いぶきやま〕の山神を鎮定せんがために現地に赴いた時、「荒神アラブルカミ」の「正身」(化身)である大きな「白猪」(大蛇)が現われ、氷雨を降らせてみことを打ち惑わし、それが因で命は崩ぜられた話として周知のところである。山神の正身・化身が白猪・大蛇といった記紀の違いがあるものの、記紀編集当時、伊吹山が山神のうしはくところとして観念され、その神も「荒神アラブルカミ」として意識されていたのである。
 また、奈良時代に僧延慶により記された『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」においても、荒ぶる神が伊吹山を領くという当時の一般常識的山岳観が窺え、さらに『帝王編年記』養老七年(七二三)条に所収され、風土記の逸文と考えられている「夷服岳」と「浅井岳」との背比べ伝説にも、擬人化された伊吹山の神をみとめることができる。そして記記や『延喜式』や『三代実録』などにおいて、伊吹山は、「伊服岐」「胆吹」「伊夫伎」「伊富伎(岐〕」「伊吹」などと表記される「イフキ」という発音にも山岳観が窺え、『古事記』に「吹き棄つる気吹イフキの狭霧の成りませる」と表現されるように、山気や霊気を吐き息づくという「息吹き」の意に解すことができ、古代においては、伊吹山には何物かが息づいていると観念されていたであろうことが想像される。

(満田良順「伊吹山の修験道」, 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』) [12]

 

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柏原弥三郎かしわばらやさぶろうってだれ?

 

おりくだる 山の裾野すその柏原かしわばら
もとつ葉まじり しげる頃かな

―― 冷泉為相れいぜいためすけ [13]

さむみ 下葉したば色づくかしは原かしわばら
露のみもろく 風渡るなり

―― 飛鳥井雅世あすかいまさよ [14]

 

則ち天皇〔景行天皇けいこうてんのう〕、斧鉞をのまさかりりて、日本武尊〔やまとたけるのみこと〕にさづけてのたまはく、「われく、ひむがしひなは、識性たましひあらこはし。凌犯しのぎをかすことむねとす。ふれひとごのかみく、むらおびとし。おのおの封界さかひむさぼりて、ならび相盗略あひかすむ。またやましきかみり。のらかだましきおにり。ちまたさいぎみちふさぐ。さはひとくるしびしむ。ひむがしひなうちに、蝦夷えみしこれはなはこはし。男女をのこめのこまじりて、父子かぞこわきだめ無し。ふゆあな宿なつむ。みて、昆弟このかみおとと相疑あひうたがふ。山にのぼることとりごとく、くさはしることぐるけものごとし。めぐみけてはわする。あたてはかならむくゆ。ここて、頭髻たきふさかくし、たちころもなかく。あるいは党類ともがらあつめて、辺堺ほとりをかす。或いは農桑なりはひのときうかがひて人民おほみたからかすむ。てばくさかくる。へばやまる。かれ往古いにしへより以来このかたいま王化みおもぶけしたがはず。〔中略〕すなはことたくみてあらぶる神を調ととのへ、たけきことふるひてかだましきおにはらへ」とのたまふ。

―― 景行天皇けいこうてんのう 四十年七月の条文, 『日本書紀にほんしょき』巻第七 [15] [16]

 

 伊吹弥三郎の物語をかたちづくる要素のひとつである、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうというのは、鎌倉時代初期の歴史上の人物です。柏原弥三郎かしわばらやさぶろうは、上皇の命令に背くなどの悪事をはたらいた罪により、後鳥羽上皇が宣旨をくだして、武士たちによって討伐されてしまいました。このとき、最終的に柏原弥三郎かしわばらやさぶろうを討伐したのは、近江国おうみのくに守護職しゅごしきであった佐々木定綱ささきさだつなの四男である、佐々木信綱ささきのぶつなでした。

 「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」については、江戸時代の書物である『北条九代記ほうじょうくだいき』巻第2のなかの「柏原弥三郎逐電 付けたり 田文の評定」という項目のところに記されています(増淵, 1979, pp.164-165 ; 池辺, 1915, pp.70-71) [17]。下記の引用文は、増淵勝一さんが現代語訳してくださった、『北条九代記ほうじょうくだいき』に記されている「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」についての文章です。ちなみに、丸山顕徳さんは、「伊吹弥三郎伝説の形成」のなかで、『北条九代記ほうじょうくだいき』について、「この書物は江戸時代の編纂物で読み本的性格が強いことから、これでもって歴史を語ることはできない」とおっしゃっています(丸山, 1983, p.292)。ただ、『北条九代記ほうじょうくだいき』の記述のあらすじは、後述する、史実上の「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」の内容と、大同小異です。ですので、『北条九代記ほうじょうくだいき』の記述は、史実上の「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」の概要を、理解しやすいかたちにしたものだととらえていただくといいかとおもいます。

近江国の住人柏原かしわばらの弥三郎は故右大将頼朝卿の御時に、平家を追って西海に赴き、ぬきんでた働きがあったので、平氏滅亡の後にその手柄の賞として近江国柏原の荘園を拝領した。また、京都警固の役人の中に加えられ、上皇の御所に参勤して奉仕していたが、勝手気ままにふるまって、禁令を破って神社の木を伐り倒し、仏寺の資財を奪い、公卿・殿上人に無礼・不作法を働いて、しばしば帝の御命令にそむくなど、重ね重ねの罪科があった。そのうえ、「弥三郎は(御所の警固をさぼり)自分の領地に引っ込んで、もっぱら鹿狩しかがり・川狩(川で魚をとること)を行い、百姓を弾圧していじめている」ということを、上皇がたいそうお憎みになって、蔵人頭左大弁藤原公定きんさだの朝臣に命じられ、「弥三郎追討」の宣旨を下された。これを佐々木左衛門尉定綱さだつなが飛脚をとばして鎌倉に伝え申した。
 同年(一二〇〇)十一月四日、将軍家から恐縮の由御返信があり、渋谷しぶやの次郎高重たかしげ土肥先二郎惟光といのせんじろうこれみつが使者となって、配下の部下を引き連れて上京した。こうした中にあって、幕府の判断をも待たずに、京都駐在の官軍四百余騎は近江国に押し寄せ、柏原の荘に至って弥三郎のやかたに面と向かったが、このとき三尾谷みおのやの十郎が夜のやみにまぎれて先ばしり、館の後方の山間やまあいからときの声をはりあげたものだから、弥三郎は恐れおののいて、妻子および部下と共に館を引き払って逃亡してしまった。その行方を探したが全然わからない。鎌倉からやってきた高重・惟光の両使節は仕方なく引き返して、そのまま鎌倉に帰参した。官軍もまた押し寄せたかいがない。三尾谷の行為は全く兵法にかなわぬ失態で、柏原を取り逃がしてしまったのである。鎌倉方の御機嫌および上皇のそれもきっと「よろしくないだろう」と思わない人々はなかった。けれども別段処分をお命じになる御様子もなかったので、なんとなく静まってしまった。

(増淵勝一 [翻訳], 「柏原弥三郎逐電 付けたり 田文の評定」, 『北条九代記ほうじょうくだいき』巻第二) [18]

 歴史書に記された史実上の「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」については、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡あずまかがみ』(あづまかがみ)と、藤原定家ふじわらのさだいえ(ふじわらのていか)の日記である『明月記めいげつき』に、その記述があります。
 『吾妻鏡あずまかがみ』に記されている「柏原弥三郎かしわばらやさぶろうの討伐の経緯」は、おおよそつぎのようなものです(高橋秀樹, 2020, p.230, p.232, p.252 ; 丸山, 1983, p.291)。(下記の文章を書くにあたっては、2023年9月2日に、伊吹山文化資料館の企画展「鬼が棲む伊吹山」を筆者が訪れたときに展示されていた、『吾妻鏡あずまかがみ』についての展示史料も参考にさせていただきました。)

正治2年(1200年)11月1日の条文

(要旨:源仲章みなもと の なかあきら佐々木定綱ささきさだつなが京都から送った飛脚が、鎌倉に到着して、後鳥羽上皇ごとば じょうこうから柏原弥三郎かしわばらやさぶろうを討伐する宣旨がくだったことを報告しました。)

1日 癸巳 晴る。相摸権守(源仲章)ならびに佐々木左衛門尉定綱等が飛脚、京都より参着す。去月22日、頭弁(藤原)公定朝臣を奉行として、近江国の住人柏原弥三郎を追討すべきの由、宜下せらる。これ近年事において帝命を背くの故なりと云々。

(正治2年(1200年)11月1日の条文, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五) [19] [20]

正治2年(1200年)11月4日の条文

(要旨:渋谷高重しぶや の たかしげ土肥惟光とい の これみつが、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうを追討するために、京に行きました。)

4日 丙辰 くもる。小雨、常に降る。今日、渋谷次郎高重、土肥先次郎惟光、使節のため上洛す。これ、柏原弥三郎追討のためなり。各先相模国所領、自彼所可進発、云々。

(正治2年(1200年)11月4日の条文, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五) [21] [20]

正治2年(1200年)12月27日の条文

(要旨:渋谷高重しぶや の たかしげ土肥惟光とい の これみつが鎌倉に帰着して、「三尾谷十郎みおのや の じゅうろうが、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうに奇襲をしかけたものの、失敗して、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうに逃げられてしまいました」と報告しました。)

27日 己酉 晴る。先日上洛する渋谷次郎高重・土肥先二郎惟光等、帰着す。申して云はく、高重等、上洛以前に、官軍、かの柏原弥三郎が住所、近江国柏原庄に発向するの刻、三尾谷十郎々々、件の居所の後面を襲ふの間、賊徒、逐電しをはんぬ。今両使、その行方を伺ふといへども、拠所よんどころなきによって帰参すと云々。

(正治2年(1200年)12月27日の条文, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五) [22] [20]

1201年(建仁元年)5月17日の条文

(要旨:佐々木定綱ささきさだつなが送った飛脚が鎌倉に到着して、「佐々木信綱ささきのぶつなが、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうを討伐しました」と報告しました。)

17日 丙寅 佐々木左衛門尉定綱が飛脚、参着す。申して云はく、柏原弥三郎、去年三尾谷十郎がために襲はるるの刻、逃亡するの後、行方を知らざるのところ、(佐々木)広網が弟四郎信綱、件の在所を伺ひ得て、今月9日これを誅戮すと云々。

(1201年(建仁元年)5月17日の条文, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十六) [23] [20]

 また、藤原定家ふじわらのさだいえ(ふじわらのていか)の日記である『明月記めいげつき』の正治2年(1200年)11月26日の条文には、つぎのように、柏原弥三郎かしわばらやさぶろうを追討する宣旨がくだったことが記されています(冷泉家時雨亭文庫, 2012, pp.278-279 ; 国書刊行会, 1985, p.192)。

又参此御所、頭弁参奉宣旨、栢原許三郎〔柏原弥三郎〕といふ物、年来所聞也、依物可追討之由宣旨云〻

(正治2年(1200年)11月26日の条文, 藤原定家ふじわらのさだいえ明月記めいげつき』) [24] [25] [20]

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」: 伊吹山いぶきやま伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)、姉川あねがわ

 

なが日照ひでりで物うさに 氏子供うじこどもが集りて 氏神様うじがみさま雨乞あまごい
しづの女や 夜毎日の水引きをや あわれみたまえ 五社の神
見え渡るよ 田畑たはたに雨を 松尾寺のよ 杉のやしろもうでつつ
弥高きや 山谷々の水細りよ 雨降らしめよ 久也菩薩
大高野のや 道の智又は多けれどよ 雨の願いは一筋ひとすじ
千草ちぐさふみわけ 森高弥へ 雨の祈りは たきもうで
名も高きや 薬草道を踏み分けてよ 弥勒菩薩みろくぼさつ雨乞あまご
登り降って池の尾へや 鈴岡すずおかつきにけり
めぐたずねて美濃山へや 十谷の岩屋いわや雨乞あまご
すえはるばるはながれど 雨乞踊あまごいおどりをひとおどり

―― 「上野うえの雨乞歌あまごいうた」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [26]

 

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな

伊吹弥三郎の岩屋 ver. a472bf0db146
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや[27] [1]

 ここからは、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」として、伊吹山いぶきやまの山頂に近いところにある、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」(播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)と呼ばれる洞窟を紹介します。この洞窟は、滋賀県側では、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやなどと呼ばれていて、岐阜県側では、播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあななどと呼ばれています。

播隆上人ばんりゅうしょうにんについては、後述します。)

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)は、文献によっては、別の名称で呼ばれていることもあります。たとえば、弥三郎やさぶろう岩屋いわや伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの洞穴、播隆ばんりゅうさんの風穴かざあな風穴かざあな、岩穴、などの表記で書き記されている場合もあります。

 下の写真は、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにんの風穴)の、入り口あたりの外観と、洞窟の内部の様子です。

伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の入り口
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)の入り口
伊吹山いぶきやま

伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の内部
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)の内部
伊吹山いぶきやま

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやは、尾根の北側の斜面をすこし下ったところにあります。その尾根の上には、下の写真に写っている、「福松稲荷皇神」という文字が刻まれた石柱があります。この石柱は、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやに至るルート上の目印です。この石柱まで来れば、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやは、すぐそこです。「福松稲荷皇神」の石柱から、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやまでの距離は、地図上の直線距離で20~30メートルくらいです。それらの場所のおおよその緯度経度は、下記のとおりです。

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)のおおよその緯度経度 : 35.420861,136.414639

・「福松稲荷皇神」の石柱のおおよその緯度経度 : 35.420781,136.414885

「福松稲荷皇神」の石柱
「福松稲荷皇神」の石柱

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)を訪れるときは、下の「地図1」と「地図2」を参考にしてみてください。

地図1 : 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)周辺広域地図
地図1 : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)周辺広域地図

地図2 : 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)へのルート
地図2 : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)へのルート

「地図2」については、ぼく自身が実際に通ったことがあるのは「ルート2」だけです。「ルート1」については、本や、ほかの方から教えていただいた情報から、みちびき出したものです。なお、国土地理院の地理院地図を見ると、「寺横道てらよこみち」だとおもわれる道すじが、「東尾根」と呼ばれる尾根道につながるすこし手前で、無くなってしまっています。ですので、もしかすると、「東尾根」の尾根道と寺横道との分岐点は、はっきりそれとわかるような場所ではないかもしれません。

 下の動画で、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)へのルート」や、「福松稲荷皇神」の石柱や、洞窟の内部の様子、などを見ることができるので、参考にしてみてください。

動画: 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の洞窟への道のり(ルート)と洞窟探検 in 伊吹山【鬼伊吹】


地図 : 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と「井明神社いのみょうじんしゃ」関連地図

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)や、そのほかの、伊吹山いぶきやまにある複数の洞窟については、高橋順之さんが「伊吹山の洞窟探訪」のなかで、つぎのように紹介されています(高橋, 2008, p.1)。下記の文中の「〔標高〕1200m付近」というのは、「地図2」のなかの「通称 : コヤノコバ、オゴヤ」という分岐点のあたりだとおもいます。

 戸谷の岩屋は別に「天の岩戸」とも呼ばれており、天照大神の信仰に結びついています。入口には〆縄が張られ、いまでも信仰の対象になっています。ほかにも、「弥三郎の岩屋」「酒呑童子岩屋」(『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』より)など、伊吹山を拠点に隠れ住んだという大盗賊や鬼にまつわるもの、本願寺教如が籠った岩屋や槍ヶ岳開山でしられる播隆上人の風穴などがあり、いずれも、行場・信仰の場であったと思われます。
 5月に、米原市上平寺地区の方と弥三郎の岩屋にいきました。この洞窟は美濃側では播隆上人の風穴といわれており、伝説・史実織りなす史跡です。伊吹山ドライブウェイ12km駐車場からの尾根道をのぼり、〔標高〕1200m付近で北へ折れて、真東へ伸びる尾根へとりつき、その北斜面にあります。石灰石の巨岩が空間を作り出していて、奥行き約15m、高さは約5mあります。「皇紀二千…」と読める落書きのほか、信仰に関する遺構・遺物は見られませんでした。
 かつて地元の人は、山頂にギボシ(オオバギボウシの若芽。お浸しや天婦羅がおいしい)を採りにいった帰りにこの洞窟で一服したそうです。

(高橋順之「伊吹山の洞窟探訪」, 『米原市文化財ニュース 佐加太』第27号) [28]

 『伊吹町史 文化・民俗編』では、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)が、つぎのように紹介されています(『伊吹町史 文化・民俗編』, p.167, pp.168-169)。

伊吹弥三郎の洞穴 通称風穴と呼ばれる洞穴で東尾根の寺横道分岐点、オゴヤから横崖の道をたどると約三〇〇メートルで洞穴の尾根に達します。南側は垂直に近い岩壁で入口は狭く漸く人の出入りが可能な程度ですが、洞穴の中はかなり広く、奥行一六~七メートル、幅は最も広いところで四メートルに達します。入口から奥までは急な傾斜をみせ、崩れた岩が遮っているので構造の詳細を確かめることは困難です。

(「伊吹弥三郎の洞穴」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [29]

『伊吹町史 自然編』のなかの、伊吹山いぶきやまの地質についての下記の記述の横に、「石灰岩洞窟(伊吹弥三郎の洞穴)」という説明文とともに、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)の洞窟の写真が掲載されています。

 伊吹山は大半が石灰岩で占められ、場所によって形成された地質年代を異にし、含まれるフズリナ化石の種類も異なり貴重な学術資料です。またこれらの石灰岩層の作り出すドリーネ・石灰洞などのカルスト地形や大断層が伊吹の景観となっており、今後の開発や採石には十分な検討が必要です。
 以上伊吹山の自然について地形地質動植物の面から保全の重要性を考えましたが、それぞれの重要性を検討の上観光資源としての活用が望まれ、自然博物館の設置も切望されるところです。

(「第6章 伊吹山の自然保護」, 『伊吹町史 自然編』) [30]

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播隆上人ばんりゅうしょうにんってだれ?

播隆上人の風穴と御来迎(ブロッケン・グローリー)
播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな御来迎ごらいごう(ブロッケン・グローリー)》 [1]

 

私はいっさいの望みの究極はてに近づいていた。
〔中略〕
私の視力は清らかに澄みわたり、ただそれだけが真実な、崇高な光輝こうきの光線の奥へ、さらに深く、はいっていった。
その先で私が見た姿は言葉では及ばぬ言葉を越えたすがた、記憶では及ばぬ記憶を越えたすがただった。
〔中略〕
ああ至高の光よ、人間の観念の極限を越えて高く昇る光よ。私が仰ぎ見た御姿みすがたの一端なりともまた私の記憶に授けてくださらぬものか。
〔中略〕
その光の深みには宇宙に散らばったもろもろのものが愛によって一かんの書にまとめられているのが見えた。
実体も偶有ぐうゆうもその様態ようたいもたがいになんともいえぬさまでまじりあっているから、私の言葉などそのかすかにほのめく光でしかない。
〔中略〕
至高の光の深く明るい実体の中に三色で同じ幅の三つのが現われた。
にじの二つの輪のように、第一の環は第二の環に映って見え、第三の環はその二つからひとしく発する火のように見えた。
〔中略〕
突然私の脳裡のうりには稲妻のようにひらめきが走り、私が知りたいと望んでいたものが光を放って近づいてきた。
 
私の空想の力もこの高みには達しかねた。
だが愛ははや私の願いや私のこころを、ひとしく回る車のように、動かしていた。
太陽やもろもろの星を動かす愛であった。

―― ダンテ・アリギエーリ『神曲 天国篇』第三十三歌 [31]

 

 弥三郎は播隆のそばに坐り直して、播隆の顔を覗きこんだ。
 播隆の眼に感情が動いていた。喜びの表情とまではいかなかったが、彼が、いま、なにかを見て、それに話しかけようとしていることだけは確かであった。〔中略〕
 弥三郎はもうなにも云わなかった。人を呼びに立とうともしなかった。このまま静かに、播隆を死なせてやりたいと思った。〔中略〕
 弥三郎はもはや微動だにしない播隆に向って、合掌して、南無阿弥陀仏を唱えた。生れてはじめて、彼が口にした名号であった。
 播隆の顔に安らぎの色が浮び、光明が、涅槃の霧の中にただよっていた。

―― 新田次郎『槍ヶ岳開山』 [32]

 

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやは、岐阜県側では、「播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな」などと呼ばれています。

播隆上人ばんりゅうしょうにんというのは、江戸時代後期の山岳修行僧(念仏行者)であり、北アルプスの槍ヶ岳に初めて登頂したとされていることで有名な人物です。播隆上人ばんりゅうしょうにんは、そのほかにも、さまざまな山に登って修行しましたが、伊吹山いぶきやまで修行したこともありました。(おもに、伊吹山いぶきやまの東側の岐阜県揖斐郡揖斐川町ぎふけん いびぐん いびがわちょう側で活動していたようです)。そのとき、伊吹山いぶきやまの山中で、播隆上人ばんりゅうしょうにんが修行した洞窟が、「播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな」(伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)です。

 大久保甚一さんの『念仏行者播隆上人』という本には、播隆上人ばんりゅうしょうにんが、江戸時代後期の1820年(文政3年)ごろに「播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな」(伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)に参籠することになった経緯が、つぎのように記されています(大久保, 1981, p.35, p.62)。(下記の引用文のなかの「通称岩穴という岩屋」というのは、「播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな」(伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)のことです)。

 南宮山奥院で一夏九十日の結願中、或る夜の夢に「大悲観世音菩薩」のお告げがあった。それは、「伊吹山の嶺で、千日の別時念仏を行うように。」との事であった。
 いわゆるままに、伊吹山へ登り、大谷峰「伊吹山八合目のところにある通称岩穴という岩屋」で参籠した。ここは、晴れた日に一心に念仏を唱えると、たびたび御来迎の奇瑞が現われるので仏恩の有難さに感激したことと思われる。春日村笹又の住民たちは伊吹山で鉦鋸をたたく音がするのでおかしいと云って登ってみたところ播隆が念仏を唱えていたので、毎日ソバ粉と水を運んで供養したという。

(大久保甚一『念仏行者播隆上人』) [33]

また、上記の「通称岩穴という岩屋」(播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)で起こった「御来迎の奇瑞」というのは、つぎのような現象だったそうです(大久保, 1981, pp.38-40)。

御来迎については、「私が八合目岩穴というところの岩根に坐って一心に名号を唱えておりますと、前が少しずつ明るみ出したような気がいたしました。すると不思議や、眼の前の雲の中に七色の光輪が現われ、その中央に如来がお姿を現わしたのです。七色の光輪はあまりにも美しく、眼もくらむばかりに光り輝いておりました。如来は私を見つめておられました。なにか私に語りかけられているかのようにもお見受けいたしました。」
 そこまで話すと、参詣の人々はきっと南無阿弥陀仏を唱えたと伝えられる。

(大久保甚一『念仏行者播隆上人』) [34]

 1893年(明治26年)に刊行された、播隆上人ばんりゅうしょうにんの一代記『開山暁幡隆大和上行状略記』によると、「伊吹山いぶきやまの「播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな」で過酷な修行をする播隆のために、〔近江国、越前国、美濃国、尾張国の〕四か国の信者が集まり、山頂付近に草庵を建てて一緒に参籠修行をした」そうです(高橋, 2022, p.199)。

 

余談ですが、播隆上人ばんりゅうしょうにんの人生を描いた小説として、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山』という小説があります。この小説のなかに、播隆上人ばんりゅうしょうにん槍ヶ岳やりがたけの頂上に初登頂したときに、「阿弥陀如来あみだにょらい御来迎ごらいごう」の現象に遭遇する場面があります。この下の文章は、その場面の一部です。

(ちなみに、その場面で、播隆上人ばんりゅうしょうにんが遭遇したとされている「阿弥陀如来あみだにょらい御来迎ごらいごう」の現象は、気象光学的に言うと、「ブロッケン現象」や「グローリー」などの名で呼ばれる現象だとおもわれます。)

播隆上人ばんりゅうしょうにんは、伊吹山いぶきやまの洞窟(播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや)で参籠修行をしていた時期にも、下記のような、「阿弥陀如来あみだにょらい御来迎ごらいごう」の現象に遭遇したそうです。ですので、もしかすると、播隆上人ばんりゅうしょうにん伊吹山いぶきやまで見た光景も、下記で描かれているような光景だったのかもしれません。

「ここまで来たのだ、どっちみち、これ以上天気が悪くなるということはあるまい」
 播隆は中田又重郎にそういうと、錫杖を取って、槍ヶ岳の穂に向って歩き出した。槍ヶ岳の根元で霧が渦を巻いていた。
 渦はゆっくり廻りながら、岩峰の肌をこすり上げるようにしながら、頂へ近づいていった。播隆はその霧の渦の行方を追った。渦の眼の中の岩肌のなめらかさを追うように、次第次第に上方へ眼をやっていった。槍の穂の頂上は僅かな平らを持っているように見えた。文政十一年(一八二八年)七月二十八日、太陽は傾きつつあった。
「上人様、やはりやめたほうがいいではねえずらか、この槍の穂へは未だに誰も登った者はねえ、生きものは、たとえ鳥でさえも、このとがった岩の頭に止まったのを見た者はござらぬ、これから上は天のものだ。われわれが登るべきではねえ」
 中田又重郎が云った。
「天のもの」
 播隆は又重郎のことば尻をつかまえたが敢て追求することはなく、
「もう一度身をととのえよう。ひとつの油断があってもならぬ」
 播隆はそういって、自らの草鞋の紐を結び直し、山ばかま、脚絆きゃはん、股引をも改めた。最後に播隆が、頭巾をかぶり直したとき、又重郎は、あきらめた顔でいった。
「では上人様、登れるところまで登るずらか」
 又重郎は仏像の入った背負袋ねこだとその上にくくりつけた綱の束の重みをたしかめるようにゆすぶってから岩峰の基部へ向って踏み出した。二人が踏みころがす岩の音がしばらく霧の中で聞えていた。
 
〔中略〕
 
 両手をいっぱいにひろげて抱きつくような大きな岩を乗り越えたところが頂上だった。
 信濃国安曇あずみ郡小倉村中田又重郎がまず槍ヶ岳の頂上を踏み、つづいて、山城国一念寺の僧、播隆が頂上を踏んだ。文政十一年(一八二八年)七月二十八日申の刻(午後四時)であった。
 ふたりは手を取り合ったまま、しばらくは口が利けなかった。播隆の大きな眼に露が光っていた。又重郎は怒ったような顔で、しきりに鼻をすすり上げていた。
 槍ヶ岳の頂上は下で想像したとおり、大小無数の岩が累積している五坪ばかりのゆるやかな高まりになっていた。平面ではないが、とがってもいなかった。安曇地方でよく使うひらに近かった。石を取り片づければさらに平らにすることは可能のように思われた。
 登攀行動を停止すると、風が身にしみてつめたく感じられた。汗で水をあびたように濡れていた身体が急速に冷やされていった。
 中田又重郎が背負っていた荷物の中から半纏はんてんを出して播隆に着せ、その上に茶色の僧衣を着せた。槍ヶ岳山頂に仏を安置する儀式のための僧衣であった。
 
〔中略〕
 
「もうすぐ日が暮れるで」
 又重郎はそういいながら、ひらにした槍の穂の頂上に、その平よりやや高い、ほこらのための台座場を作りはじめた。二尺ほどの高さの台座場ができると、又重郎は、その上に仏像の入った厨子ずしを置き、そのまわりを比較的小さな石で固め、さらにその周囲に大きな石を積んだ。
 もはやいかなることがあろうとも、仏像は、そこから動かないことを確かめてから、又重郎は厨子の扉を開こうとした。
「風が止んだようだ」
 と播隆がなにげなくつぶやいた。又重郎は厨子の扉に手をかけたまま、西の雲海に沈もうとする太陽に眼をやった。播隆は落日を背にして厨子の方へ眼をやった。又重郎の視線と播隆の視線が空中で交差し、反対側にそれていった。
 播隆の口元が動いた。発しかけた声を飲みこんだようだった。顔中が驚愕して言葉を失った顔でもあった。又重郎はあたりが急に明るくなったような気がした。静かな空間のどこかに、なにかの異変が起ったように感じた。
 又重郎は播隆の視線を追ってふりかえった。そしてそこに驚くべきものを見たのであった。
 五色にいろどられたにじが霧の壁の中にあった。五色の環の中心をなす赤色光は血のように鮮明だった。たぐいなきその光の配色の虹の環の中に又重郎は影を見た。立影りつえいも、坐影にも見えた。背光を負った仏の姿にも見えた。現実の世のものとは思えぬ、あざやかなその光と影に、又重郎は頭の下がる思いをした。
 一瞬彼は、その異常なるものこそ、阿弥陀如来の来迎らいごうというものではないかと思った。背筋にそって、つめたいものが流れた。ありがたいとは感じなかった。おそろしい神秘的な物に感じた。その美しい物が突然、大きなわざわいを投げかけて来るのではないかというふうに感じた。見てはならないものを見たと思った。この世で、誰も見られない、仏とも神とも、或はそれ以上に人間とかけ離れたものが、そこに現われたのだと思った。又重郎はそこに坐りこんだ。ごく自然に彼は合掌した。彼はふるえながら、その美しい虹環こうかんの内部にいる、明らかに人間の形をした者が、なにをするかをじっと見詰めていた。
 播隆は虹環の中に如来を見た。現実にこの眼で、誰にも見ることのできないものを見たと思った。
 
〔中略〕
 
虹環が薄らいだ。消えかかって、ぱっと一度明るくなり、そして消えた。そこには白い霧の壁だけがあった。
 播隆は気の狂ったように名号をとなえた。だが、虹環は二度と現われなかった。

(新田次郎『槍ヶ岳開山』) [35]

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参考: 参考地図上の各地点

 

思ひ出で登る 傘松かさまつの 傘掛かさかこえて 石塚へ
古へいにしえの うけいの枝に すがりつき 道引き給へみちびきたまえ 地蔵菩薩じぞうぼさつ
はるか登れば 弥高山やたかやま 不浄をすすぎし 池の水
清く流れて たゆぬらん
これ八千代やちよを 頂戴ちょうだいし 縁の行者えんのぎょうじゃを 安置して
いながらおがむ 代子供
古へいにしえの 赤穂を結び 赤の谷 かすみたなびくきりしろ
西をはるかに ながむれば 湖水こすいの中の 竹生島ちくぶしま
三島みしますぐれし 名勝めいしょうかな
役の行者えんのぎょうじゃの 手掛岩 向ふむこうながめし 平等岩
弥勒菩薩みろくぼさつを しおがむ
阿弥陀岳あみだがたけを 伏しをがみふしおがみ 池の尾ほとり
過ぎけば 心すずしき 鈴岡すずおか
はるばる此迄これまで たずね来て 岩屋いわやほとりを 伏しをがみふしおがみ
いざや帰りて 我郷わがさとで 御礼踊をつかまつろ

―― 「弥高やたか雨乞唄あまごいうた : 返礼唄」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [36]

 

地図1 : 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)周辺広域地図
地図1 : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)周辺広域地図


地図 : 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と「井明神社いのみょうじんしゃ」関連地図

(下記の緯度経度の数値は、おおよその緯度経度です。)

  • 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな) : 35.420861,136.414639
  • 「福松稲荷皇神」の石柱 : 35.420781,136.414885
  • 伊吹山いぶきやま山頂
  • 弥三郎の泉水
  • 百間廊下ひゃっけんろうか
  • 八ツ頭やつがしら白竜はくりゅうさん)
  • 鈴岡神社すずおかじんじゃ黒竜こくりゅうさん)
  • 三ツ頭みつがしら
  • 雨降岩
  • 戸谷とったに
  • 天岩屋あまのいわや(洞窟)
  • 弥三郎岩屋やさぶろういわや戸谷とったに)(不詳)
  • 伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや)(奥戸谷おくとったに)(不詳)
  • 御座峰(兀山はげやま)(標高1070m)
  • 伊夫岐神社いぶきじんじゃ祭神さいじん: ヤマタノオロチ、スサノオ、伊富岐大神いぶきおおかみ多々美比古命たたみひこのみこと
  • 姉川あねがわ
  • 姉川頭首工あねがわとうしゅこう
  • 出雲井いずもゆ
  • 井之口円形分水いのくちえんけいぶんすい滋賀県米原市小田しがけん まいばらし やないだ滋賀県米原市井之口しがけん まいばらし いのくち))
  • ヤマトタケル遭難の地
  • 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう蹴鞠場けまりば
  • 伊吹神社いぶきじんじゃ祭神さいじん : スサノオ)
  • 三之宮神社さんのみやじんじゃ
  • ケカチの水
  • 播隆上人修行屋敷跡ばんりゅうしょうにん しゅぎょうやしきあと」の石碑(播隆屋敷跡ばんりゅうやしきあと
  • 阿弥陀如来像(かつて播隆屋敷にあった石仏)(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすが かわいのなかの笹又ささまた
  • さざれ石公園
  • 上平寺越駐車場じょうへいじごえ ちゅうしゃじょう
  • 長尾護国寺
  • 七尾山ななおやま
  • 伊吹山ドライブウェイ
  • 臼谷の湧水
  • 小碓の清水
  • 播隆名号碑ばんりゅうみょうごうひ滋賀県米原市志賀谷しがけん まいばらし しがや
  • 弥三郎の足跡(極楽橋)(滋賀県米原市大鹿しがけん まいばらし おおしか
  • 居醒の清水いさめのしみず滋賀県米原市醒井しがけん まいばらし さめがい
  • 伊吹山文化資料館
  • 泉神社いずみじんじゃ滋賀県米原市大清水しがけん まいばらし おおしみず
  • 弥三郎の足跡(滋賀県米原市大清水しがけん まいばらし おおしみず
  • 白清水しらしょうず米原市柏原まいばらし かしわばら
  • 日本武尊腰掛岩やまとたけるのみこと こしかけいわ岐阜県不破郡関ケ原町玉ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう たま

 

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伊吹山いぶきやま姉川あねがわ水神すいじんとしての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

伊吹弥三郎 ver. 55ad29836e99
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう[37] [1]

 

御礼の踊り おどろよ 〳〵
有難ありがたや 神力不思議あらはして 甘露かんろの雨を たまわりて
かみやしろも龍王も よりたまへ 音楽しをん おん遊び

―― 「藤川ふじかわ寺林てらばやし雨乞唄あまごいうた : 御礼踊り唄」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [38]

 

伊福山いぶきやま
のりいずみの 湧出わきいず
水汲玉みずくむたま 神かとぞ思ふおもう

―― 円空えんくう [39]

 

今年ことし水無月みなづき 大日照おおひでり 瀬々の川々 水絶えて
植ゑうえ早苗さなえも 枯れがれに
いでやこの民の うれひを
わがが神に つげたてまつり 雨乞あまごい
うきごとの 数さまざまに 別れども
夏のひでりに しくぞなき
三日三夜と かけまはる しはしも早く 利生りしょうの雨
とくどくうるはせ たびたまへ
ことはりや 日の本ひのもとなれば
りもせめ さりとてはまた あめがした
さあれば 三十一みそひと文字の うちにあり
ふればふりぬる 雨もある
ねがいの雨を たまはらば 五穀成就ごこくじょうじゅの その上で
御礼神慮に まかすべし
霊験れいげんあらたなりけり わが神の
くうるはせ たひたまへ
山里やまざとは 人も木草きぐさも 道しだも
紅葉もみじしにけり 秋ひでり
長々し 日照ひでりものうき 里々の
民のなげきを しろしめせ
すえははるばる ながけれど 雨乞あまごおどり これまで

―― 「春照すいじょう雨乞唄あまごいうた」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [40]

 

伊夫岐神社(右奥 : 伊吹山)
伊夫岐神社いぶきじんじゃ(右奥 : 伊吹山いぶきやま

姉川と姉川頭首工(右奥 : 伊吹山)
姉川あねがわ姉川頭首工あねがわとうしゅこう(右奥 : 伊吹山いぶきやま


伊夫岐神社いぶきじんじゃの周辺地図

 冒頭でもおつたえしたように、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの物語には、さまざまな種類があります。そのなかのひとつとして、「水神すいじんとしての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう」の物語をご紹介します(『山東町史 本編』, pp.219-220)。

 昔、伊吹山に力持ちの伊吹弥三郎という大男が住んでいた。弥三郎は鉄でも噛み砕いて食べるほどの男で、身体に温みがない。或時琵琶湖の水をがぶ飲みしたので、竹生島が陸続きになり、飲んだ水を伊吹山に吹きかけたら、大水となって出雲川となったという。ところで弥三郎の暴れ方が酷いので退治することになり、伊吹十三郎と云う人のオソデという娘が弥三郎の嫁だったので、娘にいいつけて密かに弥三郎を探らせたところ、体中鉄のように冷たいが脇の下だけ温みの有る事が判り、密かに時機を待った。やがて大風で出雲川が氾濫したので土手に杭を打って大水を防ぐことになり、十三郎は大きな杭を作り弥三郎に打たせ、掛矢を振り上げた時、脇の下へ矢を放ち、弥三郎は死んだ。オソデも後を追って川に飛び込んだ。弥三郎とオソデは村のお宮に祭られているという。(『いろりばた』)

(「佐々木信綱と柏原弥三郎」, 『山東町史 本編』) [41]

上記の引用文中で、引用元になっている『いろりばた : 伊吹町昔ばなし (ふるさと近江伝承文化叢書)』という本に記されている「伊吹弥三郎の物語」は、下記のとおりです。

伊吹の弥三郎

 昔、伊吹山にそれはそれは力もちの、伊吹弥三郎という大男がすんでいました。なにしろ弥三郎は鉄でもかみくだいて食べるほどの男で、からだにはぬくとみというものがありませんでした。あるとき琵琶湖の水をがぶがぶ飲んだので、とうとう竹生島が陸つづきになってしまったということです。飲んだ水を伊吹山に吹きかけたらそれが大水となって流れ出しました。それがイズモ川のおこりということです。
 ところで弥三郎のあばれ方があまりにもひどいので、とうとう弥三郎を退治することになりました。伊吹十三郎という人のオソデという娘が弥三郎のお嫁になっていましたので、十三郎は娘にいいつけてひそかに弥三郎をさぐらせたところ、からだじゅう鉄のようにつめたい弥三郎もわきの下だけにはぬくみがあるということがわかりました。そこでひそかに時のくるのを待っていました。
 やがて大風がおこってイズモ川がはんらんしました。土手に杭をうって大水をふせぐことになりました。十三郎は何倍もある大きな杭を作って、弥三郎を呼んでこの枕をうたせました。弥三郎が勢よくかけやをふりあげたとたんに、そのわきの下めがけて矢を放ちました。こうしてさしもの弥三郎もとうとう死んでしまいました。オソデもあとを追って川にとびこんでしまったということです。
 弥三郎とオソデはいまも村のお宮さんに祭られているというおはなしです。

(「伊吹の弥三郎」, 『いろりばた : 伊吹町昔ばなし (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [42]

 上記の話の伊吹弥三郎は、琵琶湖の水をあやつり、川を生み出すなど、水神すいじん的な性質をもっていると言えるかとおもいます。(もしかすると、上記の文中の「出雲川」というのは、「出雲井いずもゆがある川」というような意味であり、姉川あねがわのことを指しているのかもしれません。)

 また、上記の話に登場する、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの妻である「おそで」さんについては、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろうと、おそでさんは、ともに、伊夫岐いぶき神社に祀られた」とする伝承もあるそうです。たとえば、次のような伝承がそれです(『伊吹町史 文化・民俗編』, p.36, p.37)。(伊夫岐神社いぶきじんじゃは、伊吹山いぶきやま山麓(滋賀県米原市伊吹しがけん まいばらし いぶき)の、姉川あねがわのほとりにあります)。

伊夫岐神社は伊吹大菩薩と呼ばれ多多美比古、八岐の大蛇を祭っていますが、ここにも殺された弥三郎と妻おそでさんを祀ったという伝説も残っています。
 
〔中略〕
 
弥三郎の殺害を知ったおそでさんは、川に身を投げて命を絶ったといい、二人の霊を伊夫岐神社に祀ったという古老の話〔後略〕

(「弥三郎実在論」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [43]

 高橋順之さんは、下記のように、『伊吹山風土記』のなかで、姉川あねがわを竜にたとえて、その竜が水を吐き出す「口の部分」に、伊夫岐神社いぶきじんじゃが位置していることを指摘しています。また、伊吹山いぶきやま水神すいじんにたとえ、その水神すいじんを祀る里宮が、伊夫岐神社いぶきじんじゃであるとしています。(高橋, 2022, p.139)

(ちなみに、伊夫岐神社いぶきじんじゃは、もともとは、伊吹山いぶきやまの山頂にあったとされています。)

奥伊吹から峡谷を南流してきた姉川は、ここ〔伊夫岐神社いぶきじんじゃ〕で平野部に出て、西に向きを変えて琵琶湖へ向かう。逆にすこし上流に行ってみると、伊吹山の水を集めて懸崖を駆け下る、県下有数の急流大富おおとみ川が合流している。さらにさかのぼると、大昔、姉川をき止めて満々と水をたたえたという蝉合せみあい峡谷(米原市小泉)の景勝地。これらの水を集めて平野部に放出される姉川は、まるで龍が水を吐き出すようにみえる。伊夫岐神社はまさにこの場所にあり、本殿越しに水神のいます伊吹山頂を望む里宮が鎮座する〔後略〕

(高橋順之「伊吹山がみつめる姉川水利」, 『伊吹山風土記』) [44]

 また、満田良順さんは、「伊吹山の修験道」のなかで、次のように述べておられます(満田, 1978, pp.37-38)。下記の文章は、室町時代初期に、伊吹山いぶきやまの観音寺(観音護国寺)の本堂の再建のための資金集め(勧進かんじん)が行われたときに、それに応じた村々について分析している文章です。

勧進に応じた村々は、伊吹山地より流出する姉川の恩恵を受ける村々に多い事実が注目される。このことは、当時の伊吹山に対する山岳信仰の様子を示しており、伊吹山の山神が水分神〔みくまりのかみ〕として水田耕作に利用される姉川の水を司っているという観念が、姉川の扇状地や流域の農民に存在したためであったと思われる。
 水分神〔みくまりのかみ〕としての伊吹神の性格は、長尾護国寺の中世の縁起に、八大龍王が伊吹山頂に住すると記されることや、近世の時代に、伊吹山麓の村々の雨乞い行事で「伊吹雨乞懸ヶ」と称して山頂で雨乞いが行われていることからも知られる〔後略〕

(満田良順「伊吹山の修験道」, 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』) [45]

このように、伊吹山いぶきやまの神は、水神すいじんとして認識されていたようです。

 伊夫岐神社いぶきじんじゃが、水神すいじん伊吹山いぶきやまの神)を祀っていて、そこに伊吹弥三郎が祀られているという伝承があるということは、伊吹弥三郎も水神すいじん的な性質をもっている、ということの、傍証のひとつになるかもしれません。

 

 私は、この要因は、伊吹弥三郎の祟り神としての性格、つまり蛇神(水神)としての性格と結びついたからだと考える。この論考の始めに、民話の例として、弥三郎とスサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治、伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇、伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊弥三郎を伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。
 伊吹弥三郎が伊吹山の神と結びつき、水神として、守護神となると、彼のイメージは伊吹山の巨大なイメージ重ね合わさって巨人化への道をたどることになるではあるまいか。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [46]

 

 ほかにも、伊吹弥三郎の水神すいじん的性質があらわれている伝承として、つぎのような伝承がつたわっています(『伊吹町の民話』, p.86)。

 伊吹弥三郎は子供の時分に聞いた話では、まあとにかく、大きなでっかい力持ちの人やったと。で、この琵琶湖は、この男が土を持ってって、そしてその伊吹山を作りよったんやと。そして水を飲む時はこの姉川の両の山にまたがって、姉川の水をぐうっと飲みほしたと。それほどの力持ちの大きな男やったと。

(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [47]

 伊吹弥三郎ちゅうのは、相当まあ想像にも及ばんような大きな人であったらしいんですよ。その人が伊吹山から七尾山へこうまたいで、ほいでおしっこしたら姉川ができたちゅうようなこと、ちょっと聞いとるんですがね。

(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [47]

 

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参考: 姉川あねがわってどんな川?

下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、姉川あねがわについての記述です。

 さて姉川は、ここから西に大きく流れを変えることになり、下流域の重要な用水として利用されていくことになる。このため、伊吹に大原庄(伊吹町・山東町さんとうちょう)の出雲井いずもい〔いずもゆ〕、その下流の相撲庭すまいにわの大井、郷里庄ごうりのしょう(長浜市北東部)の横井などの井堰いぜきが中世から設けられていた。姉川は、通常から流水量は豊かでなく、日照りが続くと砂礫されきのみの川となってしまい、上・下流、右岸・左岸の村々の間で水争いが行われ、井堰の存亡にかかわることも多かった。
 このため、上・下流の井堰の間や取水した川の分流などの取り決めがつくられ、用水が確保された。
 例えば長浜市の東を区切る横山(臥龍山がりゅうざん)の北端・たつはな地先の横井(郷里井)は、明徳元年(一三九〇)に東上坂ひがしこうざかの大野木土佐守が対岸の三田村左右門との戦いに勝って横井を築いたといわれ、大渇水時には、上流の出雲井で姉川の水が取られると横井へ流れてこないため、西上坂にしこうざかの土豪で京極氏の被官であった上坂こうざか氏が文明(一四六九~一四八七)のころに京極氏の許しを得て(一説には大原氏との婚姻により)年に三度、出雲井を落として下流に流すことができるようになった。
 これを三度水といい、一昼夜に限って落とされ、七日間隔で最高三度までであった。横井から取水した水は、さらに割合をもって各川に分水されていった。また、渇水時には、分水にも樽番たるばんといって、樽に小さな穴をあけて、時間を計って流す方法も明暦二年(一六五六)から始められるなど、水利についての細やかな配慮がうかがわれる。
 この横井の近くの今荘橋いまじょうばしから野村橋・今村橋付近にかけての一帯は、元亀元年(一五七〇)六月二十八日、姉川をはさんで織田・徳川連合軍(約二万八〇〇〇人)と浅井・朝倉連合軍(約一万八〇〇〇人)とが激突したいわゆる「姉川の合戦場」となったところである。戦いは、徳川対朝倉、織田村浅井の形で始まり、当初浅井・朝倉の攻勢で始まった戦いも、最後は織田・徳川軍が勝利を収め、浅井・朝倉軍は浅井氏の居城小谷城へ敗走した。この戦死者は両軍あわせて、数千人に及び姉川の水は赤く染まり、「野も田畠も死骸ばかりに候」といわれるありさまとなったという。いまも、血原ちはらという地名が残り、「姉川戦死者之碑」など古戦場を示す石碑が建てられている。
 姉川が全国的に名を知られるのは、この合戦によるところが大きい。ちなみに亮政・久政・長政と三代続いた戦国大名浅井氏は、天正元年(一五七三)八月二十八日の小谷落城とともに滅亡する。

(近江地方史研究会, 木村至宏, 「血に染まった古戦場」, 「3 姉川」, 『近江の川』) [48]

 

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戸谷とったにの、「伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや)」と、「弥三郎岩屋やさぶろういわや

 ちなみに、伊吹山いぶきやま山頂の北東に、戸谷とったにという地域があります。そこには、「伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや)」と、「弥三郎岩屋やさぶろういわや」という、2つの洞窟があるとされています(『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』, p.160, p.387 [49])。

戸谷とったには、現在の「岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすが かわい」の地区のなかの場所です(参考 : 「春日村山岳・谷概要図」, 『春日村史 下巻 付録』 [50])。

地元の方々にお話をうかがったり、いろいろな文献を調べてみたのですが、いまのところ、どちらの洞窟も、詳細は不明です。

なお、戸谷とったににあるとされている「弥三郎岩屋やさぶろういわや」は、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな)」(緯度経度: 35.420861,136.414639)とは、まったく別の場所にある、まったく別の洞窟です。

なお、伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや)があるとされている場所は、戸谷とったにの地域のなかの、「奥戸谷おくとったに」と呼ばれている地域であるようです [50]。また、その場所の近くには、「空滝(カラ滝)」と呼ばれている場所があるようです [51] [50]

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参考: 伊夫岐神社いぶきじんじゃにいたるまでの、伊吹山いぶきやまの水信仰の伝播経路


伊吹山の水信仰の伝播経路

下記の引用文は、木村至宏きむら よしひろさんが編集&執筆を担当された、『近江の山』という本からの引用です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

 いま太平寺の推定地(大阪セメント伊吹鉱山近く)から南西方向に下りたところの伊吹町伊吹という集落に、かつては伊吹山頂に鎮座していたと伝えられる伊夫岐神社がある。『延喜式』神名帳にもその名をのこすほどの由緒ある神社で、昔から雨ごいの神様として多くの人々の信仰を集めているという。創建の年代はわからないが、当社の位置や残された伝承などからあるいは伊吹山寺とも何らかの関連があったかもしれない。

松浦俊和まつうら としかず伊吹山いぶきやま」, 『近江の山』) [52] [53]

 

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「死んだ場所」: 妹川いもうとがわ高時川たかときがわ)(井明神社いのみょうじんしゃ

井明神社いのみょうじんしゃ : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの霊廟

井明神社(高月町尾山)
井明神社いのみょうじんしゃ
滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま

 

 暫し窓越に高時幹線の小谷山に目をやると、戦国時代浅井家三代の領主が偲ばれ、手前の高時川からは400年余に亘って井口弾生から伝承された厳粛な水利慣行のプレッシャが伝わってくる。また、賤ヶ岳から余呉湖に眼を転じると、風光明媚な景観に手を付けるのかと「羽衣の天女」の悲しげな顔が浮かぶ。絡んだ凧糸か、切れた琴糸か、何処から手をつけたら良いのか途方にくれて一日渡岸寺に参詣した。本堂に差し込む木洩日の中に十一面観音の静かな立像を拝観できた。頭上の各面差しは喜怒哀楽と、正面のお顔は柔和な衆生済度の微笑みをうかべている。戦火をくぐり土中に埋蔵され、人間の栄枯盛衰、業の深さを千余年見守ってきた慈愛の眼差しに心が洗われた。

―― 磯田秀雄「江州音頭と十一面観音」, 『湖北農業水利事業誌』 [54]

 

「近江」をとりまく戦国史は、信長、秀吉によって占領され、徳川史観や明治藩閥政府に塗り替えられた背景がある。もう一度、「近江」の視点に立って見直す必要がある。そうしなければ、正当な評価がされずに永遠に酷評に甘んじねばならぬ「近江ゆかりの人々」の魂が浮かばれぬ。
 先に出版した『戦国近江伝 江争うみあらそい』では、浅井久政ひさまさを主人公に据えた。久政は、後の時代に酷評されてきた人物である。しかし、近年の研究によって再評価されつつある人物でもある。父亮政すけまさの晩年から厳しい情勢にあった浅井家を支え、北近江をまとめた一廉の人物であった。丁寧に近江の地域史を見直し、後世の偏見や勝者の「歴史」にとらわれずに描くこと。そのような手法で戦国史の実相に迫ろうと考えた。

―― 山東圭八さんとうけいや戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』 [55]

 

 ここからは、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「死んだ場所」として、「井明神社いのみょうじんしゃ」と呼ばれるお社おやしろを紹介します。このお社おやしろは、高時川たかときがわのほとりにあります。

高時川たかときがわは、「妹川いもうとがわ」とも呼ばれます。これは、高時川たかときがわが、姉川あねがわの支流であり、この2つの川が「姉妹しまい」の関係にある川であることから付けられた名称であるようです。

 

 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろうは、高時川たかときがわで殺されて、井明神社いのみょうじんしゃに祀られた」とする伝承については、下記のような伝承があります(『伊吹町史 文化・民俗編』, p.36)。下記の引用文のなかの「井之口大明神」というのは、井明神社いのみょうじんしゃに祀られている井明神いのみょうじんのことです。また、下記の引用文のなかの「伊香郡高時川畔の井之口」というのは、現在の「井明神橋いみょうじんはし」の付近のことです。そこには、かつて、「井明神井堰」や「井明神六井堰」などと呼ばれた、複数の井堰がありました。

 一説によると弥三郎は伊香郡高時川畔の井之口で殺されたといわれます。しかしなぜか井之口大明神として祠にまつられて今日に至っています。井之囗は高時川上流の文字通り堰のある所です。本町伊吹の出雲井にあたります。

(「弥三郎実在論」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [56]

 

下の写真に写っているのが、井明神社いのみょうじんしゃです。

井明神社(高月町尾山)
井明神社いのみょうじんしゃ
滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま

井明神橋の警鐘の像と、高時川と、高時川頭首工
井明神橋いみょうじんはしの警鐘の像と、高時川たかときがわと、高時川頭首工たかときがわとうしゅこう(左奥)

井ノ神社(高月町井口、日吉神社境内)
井ノ神社いのじんじゃ
日吉神社ひよしじんじゃ境内)
滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち

地図3 : 高時川流域の水信仰・水利関連地図
地図3 : 高時川流域の水信仰・水利関連地図

地図4 : 井明神社周辺の水信仰・水利関連地図
地図4 : 井明神社いのみょうじんしゃ周辺の水信仰・水利関連地図


井明神社いのみょうじんしゃの周辺地図
滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま


地図 : 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と「井明神社いのみょうじんしゃ」関連地図

(下記の緯度経度の数値は、おおよその緯度経度です。)

  • 井明神社いのみょうじんしゃ: 35.4988652,136.2487057
    祭神さいじん : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう井口弾正いのくちだんじょうの娘?せせらぎ長者の娘?(または、せせらぎ長者?)渡江淵の大蛇?)
  • 「井口弾正娘 為人身御供 投身之跡」の石柱: 35.499245,136.249046
    井口弾正いのくちだんじょうの娘が、人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となって、身投げをした場所の跡地)
  • 高時川水利発祥之地たかときがわすいりはっしょうのち」の石碑
  • 白山神社はくさんじんじゃ滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま
  • 餅井堰跡もちのゆぜきあと」の石碑
    餅の井もちのゆ)の跡地
  • 馬上井堰之碑まけゆぜきのひ
  • 井明神橋いみょうじんはし
  • 高時川頭首工たかときがわとうしゅこう
  • 与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ
    祭神さいじん : スサノオ、波多八代宿禰はたのやしろのすくね
  • 高時川大橋たかときがわおおはし
  • 己高閣ここうかく十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう
  • 石道寺しゃくどうじ十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう
  • オトチの岩窟(大蛇の岩窟)
  • 水分神社みずわけ神社滋賀県長浜市木之本町川合しがけん ながはまし きのもとちょう かわい
  • 己高山こだかみやま
  • 神前神社かみさき神社
    祭神さいじん: スサノオ、許勢小柄宿禰こせのおからのすくね
  • 井ノ神社いのじんじゃ
    祭神さいじん : 御井神)
  • 日吉神社ひよしじんじゃ滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち
  • 己高山円満寺ここうざん えんまんじ
  • 井口弾正邸趾いのくちだんじょうていあと」の石碑
  • 理覚院くりかくいん
  • 白山神社はくさんじんじゃ滋賀県長浜市高月町保延寺しがけん ながはまし たかつきちょう ほうえんじ
  • 白山神社はくさんじんじゃ滋賀県長浜市高月町持寺しがけん ながはまし たかつきちょう もちでら
  • 雨森観音寺あめのもりかんのんじ己高山観音寺ここうざん かんのんじ蔵座寺ぞうざんじ
  • 天川命神社あまかわのみこと神社
  • 富永橋とみながばし
  • 雨之森橋
  • 井宮神社いみや神社祭神さいじん: 高龗神たかおかみのかみ
  • 石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩、「玉姫物語」の石碑)
  • 渡岸寺観音堂どうがんじかんのんどう(所属寺: 向源寺こうげんじ)(十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう(国宝))
    (※「渡岸寺どうがんじ」というのは、かつて中世の時代にこの地にあったお寺の名前です。そして、現在は、渡岸寺どうがんじというお寺は存在しません。また、そのお寺があった場所の地名は、そのお寺の名前にちなんで、「渡岸寺どうがんじ」という地名になりました。その地名は、現在も残っています(滋賀県長浜市高月町渡岸寺しがけん ながはまし たかつきちょう どうがんじ)。現在の渡岸寺観音堂どうがんじかんのんどうの位置づけは、そのすぐ近くにある向源寺こうげんじという浄土真宗大谷派のお寺に所属する「飛地仏堂」という位置づけになっています。)
  • 高月観音の里歴史民俗資料館
  • 世々開長者流水遺功碑せせらぎ長者流水遺功碑
  • 馬橋うまはし
  • 世々開橋せせらぎはし
  • 小谷城跡おだにじょうせき(浅井氏三代の居城)

 

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飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」『三国伝記』

伊吹山遠望(東海道新幹線の車窓より撮影)
伊吹山いぶきやま遠望
(東海道新幹線の車窓より撮影)

寒梅幽月
寒梅幽月かんばいゆうげつ膽吹いぶき[1]

 

桃李樹樹に微妙の花をささ
渓水時々に梵音の声を唱う
雪下の寒梅は解脱の香を焼き
巌上の幽月は不夜灯をかかげたり
 
桃李樹樹捧微妙花Táolǐ shùshù pěng wéimiàohuā
渓水時時唱梵音声Xīshuǐ shíshí chàng fànyīnshēng
雪下寒梅焼解脱香Xuěxià hánméi shāo jiětuōxiāng
巌上幽月挑不夜灯Yánshàng yōuyuè tiāo búyèdēng

―― 「飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」, 『三国伝記』巻第6) [59] [60] [61] [62]

琴詩酒伴皆抛我Qínshījiǔ bàn jiē pāowǒ
雪月花時最憶君Xuěyuèhuā shí zuì yìjūn
 
琴詩酒きんししゅともみなわれなげす
雪月花せつげっかときもっときみおも

―― 白居易はくきょい殷協律いんきょうりつす」 [63] [64]

 

伊吹山の「人倫すべて通ぜざる龍池」
伊吹山いぶきやまの「人倫じんりんすべてつうぜざる龍池」》 [1]

 

 ふつう竜宮といえば海中を連想するが、中世説話では必ずしもそうではない。たとえば、『平治物語』には、邪気(病気などを起こす悪い気)払いに良いというので、摂津箕面みのお滝の滝壺に飛びこんだ平家の侍難波経房が、やがて「水もなきところへ」出る、そこには「うつくしくかざりたる御所」があり竜宮だった(下巻 悪源太雷となる事)、と山中滝壺の奥に竜宮を設定する。
 祇園の神殿の下には竜宮に通じる穴がある(『釈日本紀』巻七 述義三 神代上)、興福寺の下に竜宮城がある(延慶本『平家物語』巻六―二二)といった観念も、広く流布していたようだ。山中の洞窟の奥や地下に竜宮があるというのは、石田英一郎が指摘したように、地下の洞穴は「いわゆる“地脈”として思想的には水界と通じている」からである。

―― 高橋昌明『酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』 [65]

このいわゆる牛ククリに似た俗信は、マライ半島にも見出だされ、また『今昔物語集』の天竺の部にも、牛が石穴中の仙境に入った物語を伝えているが、中国人古来の世界観にあっては、この種の地下の洞穴も、いわゆる“地脈”として思想的には水界と通じているのであって、われわれの住む大地は、大は“浮洲”、小は“浮山”の名にあらわれるように、大洋に浮かぶ氷塊にも似て、しばしば淪陥して湖となり、あるいは大海に通ずる“海眼”を処々に有するものとされている。日本にも同様、海からくる地下水の観念が普及しており、したがって岩屋に水の神の信仰の移っていることは、柳田先生や折口先生などもつとに指摘せられた。壱岐には水界からきた美しい女房が、ある時屋敷内のかわにとびこんで海に帰ってしまったという伝説がある。二月堂の“水とり”は、若狭の池の水を呼び出すのだという式の信仰は、日本全国にのこっている。谷の奥などの岩穴に水の流れだすものがあれば、人はその底が竜宮にかようと言いつたえ、土地の表にあらわれた流れよりも、かえってこのような地下泉の露顕を神秘なもののごとくに想像して、これを水の神の神座とつながると考える傾向があったらしい。馬の足がただけの溜り水があれば、無数の河童が住んでいるという分布の広い諺も、こうした古い地下水の信仰を前提として、はじめてよく理解しうるのではあるまいか。

―― 石田英一郎「地下水」,「第一章 馬と水神」, 「新版 河童駒引考」 [66]

 

 『三国伝記』巻第6のなかの第6の「飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」という項目に、おおよそ下記のような意味の話が記されています(高橋昌明, 2020, pp.197-198) [67]。(下記の文章は、『三国伝記』に記されている文章を要約したものです)。

 さき頃、伊吹山に弥三郎という変化のものがいた。昼は険しい山中の洞窟に住み、夜は関東・九州の遠方まで出かけ、人家の財宝を盗み、国土の凶害をなした。天下の憂いとなったので、近江の守護佐々木備中守頼綱に、国内の狼藉を退治せよとの勅命が下る。そこで険難の峰に分け入ったが、いるかと思えば他郷に逃れ、たまに山にある時は人の通わぬ竜池に隠れ、容易に退治できない。頼綱は思案のあげく、摩利支天の秘法、隠形の術を習って姿を隠し、ついに弥三郎が高時川の河中にあるとき近づいて殺した。
 そののち、弥三郎の怨霊は毒蛇となって高時川の井の口を深い淵になし、水がゆかないようにして田を荒廃させ、人びとを苦しめた。悪霊を神と崇め井の明神として祭ったところ、毒心改まって井の口の守護神になった。
 人びとの暮らしに幸いをもたらすようになっても、年に一度夏の頃、弥三郎は伊吹山頂の禅定に通った。その時は一天にわかにかき曇り、霹靂が轟き霰が降るので、見た人びとは、弥三郎殿が伊吹の禅定に通うぞ、と恐れ怖じた。

(高橋昌明「一、竜宮としての鬼が城」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『定本 酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』) [68]

 上記の、『三国伝記』巻第6のなかの第6の「飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」という項目の文章の、原文は、下記のようなかんじの文章です(池上, 1976, pp.300-303 ; 佐竹, 1992, pp.8-9 ; 杦浦, 1984, pp.31-32 ; 仏書刊行会, 1912, pp.142-144)。

やまと伝う。近江・美濃両国の境に伊福貴いぶき太山たいざんあり。大乗の峰と号す。古仙の霊崛として弥勒説法のみぎり也。峰は是れ実相大乗の峰、此れを霊山一会と名づく。所は是れ弥勒説法の所、豈に龍花三会を待たんやと。ここに因りて桃李樹樹に微妙の花をささげ、渓水時々に梵音の声を唱う。雪下の寒梅は解脱の香を焼き、巌上の幽月は不夜灯をかかげたり。

〔中略:飛行上人ひぎょうしょうにん三朱沙門さんしゅしゃもん三修上人さんしゅうしょうにん三修沙門さんしゅうしゃもん)についての記述の部分を省略。〕

近曽さいつころ伊福〔貴〕山いぶきやまに弥三郎と変化へんげの者のみけり。昼は崔嵬畳嶂さいかいちょうしょう洞壑どうがくに住して、夜は関東・鎮西ちんぜいの遠境に往還し、人家の財宝を盗奪い、国土の凶害を成す事、なのめならず。天下の大なるうれえなるゆえに、当国守護、佐々木の備中の守ささきのびっちゅうのかみ源の頼綱みなもとのよりつな佐々木頼綱ささきよりつな〕のきょう勅命ちょくめいを下されて、「分国ぶんこく狼籍ろうぜき、討ち治めしむべし」云々うんぬん頼綱よりつな宣旨せんじに任、嶮難けんなんの峰に分け入りての物をうかがう。れにありかとすれば、忽焉こつえんとして他郷に移り、たまたまの山〔伊吹山いぶきやま〕に有る時も、もと栖家すみかを捨て去りて、人倫じんりんすべつうぜざる龍池のほとりに隠れけり。さる程に治罰じばつすで延引えんにんして両年をすごしたり。ここ頼綱よりつな思いけるは、盗跖とうせきが巨悪、柳下恵りゅうかけいが大賢なりしも罰せず。丹朱たんしゅぎょうの息子〕が不肖ふしょうをば、とう堯帝大聖ぎょうていたいせいおさむはかたし。彼等あれらは父子兄弟の間なりしすらくのごとし。何況いわんや雲泥、交を隔たる、野心違勅いちょくの悪党を打捕うちとらん事、たやすからんしかりといえども、のがしたらば、一身の不覚、万世よろづよ口遊くちずさみたるべし〔永遠に笑いものにされてしまうだろう〕と思い入りて、摩利支天まりしてんの秘法を伝え、隠形おんぎょうの術を修しての盗賊を伺うに、高時河たかときがわ高時川たかときがわ〕の河中にして近付会い、たちまち誅戮ちゅうりくし、四海しかい白浪しらなみを静め、一家の名誉をほどこせり。その後、が怨霊、毒蛇と変じて高時川たかときがわ井の口いのぐち碧潭へきたん〔深い淵〕と成して用水を大河に落したり。れにりて多くの田代たしろ枯潑こはつして青苗黄枯れ、飲水たちまちに尽き、民間みんかんことごとく窮渇せり。人、九年たくわえ無ければ、飢饉死亡の者、その数を知らず。これに依りて、その所にやしろを建てて悪霊を神と崇め、井の明神いのみょうじんと号す。礼典れいてんもうけて、如在にょざいを致す〔まるで弥三郎やさぶろうが生きているかのうように奉仕し、弥三郎やさぶろうまつる儀式をおこなった〕。ゆえに生ての怨も、死しての歎と毒心を改めて、井の口いのぐちの守護神と成りたまう。所以このゆえに風雨、天の時に随い、水津すいしん、地利をうるおせり。しかるに、九夏三伏きゅうかさんぷくころ〔一年でもっとも暑い時期に〕、お一年に一度、伊吹いぶき禅定ぜんじょうに上りて〔伊吹山いぶきやまの頂上に登って〕、昔のみち彷徨ほうこうす。その時に、晴天、にわかに曇りて、霹靂へきれきの、空に動いて、凍霰とうさん、地に降る。見る者、「あはや、れい弥三郎殿やさぶろうどの禅定ぜんじょうかよたまうは」とて、惶怖こうふせずとう事なし〔それを見た人は、「ああ、弥三郎やさぶろうさんが伊吹山いぶきやまの山頂に登っておられるんだな」と言って、恐れた〕。

(『三国伝記』巻第6 第6「飛行上人ひぎょうしょうにんこと けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどのこと」) [59] [60] [61] [62]

上記の『三国伝記』の物語では、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうは、佐々木頼綱ささきよりつなによって、高時川たかときがわで殺され、その霊は「井の明神いのみょうじん」として、その場所に建てられたお社おやしろに祀られたとされています。その「井の明神いのみょうじん」のお社おやしろ井明神社いのみょうじんしゃ)は、いまでも存在します。

 井明神社いのみょうじんしゃの具体的な場所については、『滋賀県伊香郡高月町 村落景観情報』という本に、地図付きで記載されています(高月町史編纂委員会, 1998, p.16, p.18)。この本には、滋賀県長浜市高月町に属する各地区の名所旧跡などの情報が記載されています。井明神社いのみょうじんしゃがある地区は、尾山地区おやま地区滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま)です。井明神社いのみょうじんしゃは、高時川に架かる井明神橋いみょうじんはしのすぐそばにあります(井明神橋いみょうじんはしから、直線距離で、西へ百数十メートルほどのところにあります)(高月町史編纂委員会, 1998, p.18)。

井明神社いのみょうじんしゃがある場所の、おおよその緯度経度は、35.4988652,136.2487057 です)。

この本の「井明神社」の項目の説明文には、「文永8年(1271)大旱魃の時、建立。正保4年(1647)石材で再建。井堰水利の守護神として崇められている」と書かれています(高月町史編纂委員会, 1998, p.16)。

 井明神社いのみょうじんしゃお社おやしろには、解説板や扁額などはありません。ですが、井明神社いのみょうじんしゃの石のお社おやしろの、正面の石の板に「井大明神社」という文字が刻まれています。そのため、そのお社おやしろ井明神社いのみょうじんしゃお社おやしろだということがわかります。

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうと、千田せんだの庄屋うねめさんの娘

以下、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より。

下記の文中の「千田」というのは、現在の滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだのことです。

下記の文中の「上水井こうずいゆ」というのは、高時川たかときがわにあった井堰のことです。くわしくは、下の図をご参照ください。

「むかしの高時川の用水路(略図)」、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』、80ページより
「むかしの高時川の用水路(略図)」
(図の引用元: 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より [69]

以下、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より。

”にまつわるむかしばなし

(その一)伊吹弥三郎

 むかしむかし、伊吹山にな、伊吹弥三郎ちゅう怪人かいじんがいよってな、悪いこともするんやけどよいこともしよったんやと。まるで赤鬼のような大男で、体じゅう毛むくじゃら、すごいカ持ちだったんやで。
 そのじぶん、千田にうねめちゅう庄屋さんがいやはってな、村中のたんぼの水が足らんさかい上水井こうずいゆをもっとしっかり立てなあかんとおもて、長いことくろうしてやはったんやと。上水井ちゅうのは、尾山の東の川原ん中にあったやで。
 井ちゅうのはな、今はコンクリートや鉄で造ったるけんど、昔は、木やらしばやら、俵やらむしろを使うて、水を止めたったもんや。ほんで、大水が出ると、一ペんに流されてもて、たんぼがつくれなんだんや。
 井を立てるんやったら、じょうぶなくいを川原にうちこまんとあかんやろ。ほやけど、川原の底は石やら岩ばっかりやがな。岩にあたったらもうしまいや。人間のカでは、岩に杭はうてんもんなあ。ほんで、庄屋さんも、ほっこりよわってもてやはったんやと。
 ほいたら、村の人らがな、
「伊吹弥三郎にたのんでみたらあかんやろか」
て、ゆいだしたんやと。ほんで庄屋さんが、伊吹山へつかいを出して、
「村中のもんをたすけるために、どうか川原に杭をうって下さい」
と、たのまはったら、弥三郎は、なんてゆいよったと思う? やさぶろうはな、
「庄屋の娘をわしの嫁にくれたら、いつでもうってやろう」
て、ゆいよったんやと。
「ほんなこと、でけん」
ちゅうて、つかいの人がかえってきて、庄屋さんにゆうたら、庄屋さんも、
「杭はうってほしいけんど、ほんでも、娘がかわいそうやさかいなあ」
ちゅうて、よわってまわはったんやと。
 なんせい、ほの娘さんは、村でもひょうばんのべっぴんさんで、おまけに気立てのやさしい娘さんやっ
たさかい、だぁれも、怪人みたいなやつの嫁さんにはやりとうなかったんやてや。
「いかにも、むりな話やさかい、ことわるよりしょうがない」
ちゅうて、みんながそうだんしているのを、娘さんが聞いてな、また、なんてゆわはったとおもう?
 娘さんはな、
「わたしが嫁にいったら、村中が助かるんやさかい、村への御恩返しに伊吹山へまいります」
てゆわはったんやて。かわいそうになあ。
 ほんで庄屋さんも、
「おまえが、そうゆうてくれるんやったら……」
ちゅうて、心を鬼にして決心しやはって、弥三郎に、
「娘を嫁にあげますさかい、川原に杭を百本うってもらいたい」
と返事しやはって、いよいよ、うってもらうことになったんやと。
 弥三郎は、ほらもう大よろこびで、伊吹山から雲をおこしてとんできよってな、どんどん杭をうちよったんやと。なんせ怪力やさかい、川原の岩でも何でもつきやぶってもてな、みてるまに五六十本もうってまいよったんやがな。
 はじめのうちは、みんなもどだい感心してよろこんでながめてたんやけどな、だんだんしんぱいになってきたんやなあ。
「こりゃえらいこっちゃ。うてやせんやろとおもてたら、ほんまにうってまいよるがな。ほんなら、娘さんをどうしてもやらんならんことになってまうがな」
ちゅうて、みんなで相談して、いよいよ百本めをうちこみよる時に、後からよってたかって、竹やりで突いてしまおうて、きめたんやと。なんせ、村の人らは、庄屋さんの娘さんが、かわいそうでかわいそうでならなんだんやな。わるいこっちゃけどしょうがないちゅうて、竹やりをぎょうさんつくってな、じっとかくれてたんやと。
 弥三郎が、汗をタラタラ流して、百本めをうちこんだ時にな、
「そら、やれ」
「わきの下をつけ」
ちゅうて、
「ダーッ」
とついたら、弥三郎も、ゆだんしとったもんやさかい、うまいこと突けたんやと。
 さあ、弥三郎がそらもうおこりよったのなんのて、血だらけになってとびあがってな、千田めがけて娘さんをとりに走りよったんや。血が流れて、そこらのみぞが真赤まっかになってもたさかい、今でも“ちぬるみぞ”ちゅう名まえがのこったるそうや。
 けんどな、庄屋さんの家は、みんなしてよってたかって弓やらやりをそろえて守ってたもんやさかいどうしてもはいれなんだんやな。ほんで弥三郎は、伊吹山へとんで帰って、山のてっぺんから大きな岩をつかんで、千田の方めがけてポンポン投げよったんやと。さいわいひとつもあたらなんださかいよかったんやそうな。
 ほんで今でも、このあたりの田んぼに、あっちにもこっちにもいかい石があるやろ。あれは、弥三郎が投げつけよった石やで。いかい石やろが。
 なんやて、弥三郎はどうなりよったてか? そら、ぎょうさん血が出てもたさかい、怪カが出んようになってもて、死によったんやろ。上水井こうずいゆのとこは、いま、合同井ごうどうゆになったるわな。
 こんでしまい。

(「“”にまつわるむかしばなし : (その一)伊吹弥三郎」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [70]

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井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんは誰なのか?

 さきほどの『三国伝記』の話では、井明神社いのみょうじんしゃに祀られているのは、伊吹弥三郎ということになっていました。ですが、『近江輿地志略おうみよちしりゃく』の「井明神社」の項目の「頭註」のところには、「祭神不詳」と書かれています(『近江輿地志略』, 1915, p.1050)。つまり、実際には、井明神社いのみょうじんしゃにどのような神が祀られているのかわからない、ということのようです。

 その影響なのか、井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんとされている存在は、文献によって異なります。いまのところ知り得たかぎりでは、いろいろな文献のなかで、井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんとしてあげられている存在には、次の4つがあるようです。

伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
井口弾正いのくちだんじょうの娘
・せせらぎ長者の娘、または、せせらぎ長者
・渡江淵の大蛇

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろう」説

伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが、井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんである」という説については、ここまでお伝えしてきたとおりです。

 

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井口弾正いのくちだんじょうの娘」説

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろうのつぎに、井明神社いのみょうじんしゃの祭神の候補としてあげられるのは、井口弾正いのくちだんじょうの娘です。井口弾正いのくちだんじょうというのは、かつて、高時川の水利権を支配していた有力者です。いまでも、井口いのくち地区滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち)には、井口弾正いのくちだんじょうの邸宅跡に石碑が建っています。

 なお、井口地区いのくち地区日吉神社ひよし神社の境内には、井ノ神社いのじんじゃという神社があります。この井口地区いのくち地区井ノ神社いのじんじゃも、系統としては、尾山地区おやま地区井明神社いのみょうじんしゃと同系統の神社だとおもわれます。井口地区いのくち地区井ノ神社いのじんじゃ祭神さいじんは、「御井神」だとされているそうです(『伊香郡神社史』, p.12)。

 『近江輿地志略おうみよちしりゃく』では、下記の引用文のように、「井明神社の祭神は、人柱となった井口弾正の娘だと言われている」というような意味の記述があります(『近江輿地志略』, 1915, p.1050)。

尾山をやま村〔おやまむら〕 持寺村〔もちでらむら〕の東に在〔あ〕り。

井明神社ゐのみやうじん社〔いのみょうじんしゃ〕 尾山村に在〔あ〕り、大井〔おおゆ〕といふ井水の上に在〔あ〕り。相伝井口弾正娘、井水引兼ぬる故、人柱に入りしを祭れる神なりといふ。

寒川辰清さむかわたつきよ近江輿地志略おうみよちしりゃく』) [71]

井明神社いのみょうじんしゃと高時川のあいだにある草地には、「井口弾正娘 為人身御供 投身之跡」という言葉が刻まれた石柱が建っています。この言葉のおおよその意味は、「井口弾正いのくちだんじょうの娘が、人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となって、身投げをした場所の跡地」というような意味だとおもいます。その石柱がある場所のおおよその緯度経度は、35.499245,136.249046 です。

 

 佐野静代さんは、「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」のなかで、つぎのような説を紹介されています(佐野, 1997, p.135)。

かつて大井の開削の時、高時川の取水口である尾山に大穴があいて水を吸い込んでしまい、大井の用水路に高時川の水を引くことができなかった。時の領主井口弾正の娘が人身御供となってこの大穴に入水すると、たちまち大穴はふさがり、高時川の水は大井用水路へ流れ込むようになった。この娘の霊を祭り水利の神としてあがめたのが井ノ神社の始まりであるという(『高月町のむかし話』)。

(佐野静代「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」) [72]

上記の引用文のなかで出典としてあげられているのは、『高月町のむかし話』という本です。その『高月町のむかし話』に記されている、「井口弾正いのくちだんじょうの娘が、人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となって、身投げをした」という伝説は、つぎのようなものです。

〔“”にまつわるむかしばなし〕

(その三)ひとばしら

 井口の日吉神社の東に、小さなお宮さんがあります。このお宮さんは、はじめ、高時川地先にまつられていたのですが、後になって、今の場所に移されたそうです。
 このお宮さんは「の明神」といって、私たち農村にとって、一ばんたいせつな水利すいりの神さまです。
 井の明神には、大へん珍しいものがまつられてあるそうです。それは、昔の女の人たちが使った、くしこうがいだということです。なぜこんなものがおまつりしてあるのでしょうか? それには、こんなむかしばなしが語りつがれています。

 ◇ ◇ ◇

「おうーっ、また、水がすいこまれるぞい」
「また、穴があいたんじゃ」
「こんどの穴は、前よりも大きいぞい」
 つかれきった村人たちは、もっこやかけやをなげ捨てて、水の行方を見守っていました。水取口に、ポッカリあいた大穴は、埋めても理めても、水を通すたびに、村人の苦心をあざけるかのように、水をすいこんでしまって、せっかく造った用水川には一てきの水も流れません。十二ヶ村の総力をあげて立てた大井おおゆの井ぜきも、水が引けなければ、たんぼは枯れて、ひとつぶのお米もとれないのです。
「こりゃきっと、龍神りゅうじんさまが、おこっていなさるんじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ。おそろしいことじゃ」
「だれか、悪いことをしたもんがいるからじゃ」
 村人たちは、おそろしげにささやき合いながら、カラカラにかわいたたんぼ道を、力なくトボトボと帰っていきました。
 井口をはじめとして、富永の庄の水利を支配する井口弾正も、この大穴をふさぐことについては、日夜頭をいためていました。
 ある朝、村の大庄屋孫兵衛が、弾正のやかたへ参上して、
「実は、昨夜たいへんな夢をみました。私の夢ゆめまくらに、岩滝大神いわたきおおかみがお立ちになりまして、『妙齢みょうれいの婦人を、人身御供ひとみごくうにすれば、水は流れるであろう』といって、そのまま消えてしまわれました。まことにふしぎな夢でございました」
と申しあげているところへ、もう一人の大庄屋八兵衛が、同じ夢のお告げを報告に来ましたので、弾正もそのお告げの重大さに驚いて、三人でいろいろと詮議せんぎをしましたが、人身御供というのは、その大きな穴へ身を投げて、竜神さまに命をささげることであるだけに、だれそれと名指なざしをするわけにはいくまい、ということになって、三人とも、めったにいいだすこともできず、ただ思案にくれていました。
 弾正には、何人かの美しい娘さんがありました。そのうちの一人が、このはなしをとなりの部屋で聞い
ていました。心のやさしい娘さんは、
「わたし一人がひとばしらにたてば、龍神さまが水を通してくださるのなら、よろこんでまいりましよう」
と、父にも、母にも、だれにも言わないで、その夜、こっそりと家をぬけだして、川原の水取口の大きな穴のところまでやってまいりますと、話に聞いたとおりの巨大な穴が、深く深く地獄にまでつづいているかと思われる、大きな口を見せていました。
“南無、意波大岐いわたきの竜神さま、この穴をふさいで水を通させたまえ”
と、高らかに祈りながら、穴に身を投げようとした時、
「ゴゴーッ」
と山鳴りがして、山上から大岩石がころがり落ちたかと思うと、たちまち、大穴の口をふさいでしまいました。水は、みるみる満水となり、取入口から用水川へ、とうとうと流れ始めました。
「水がきたぞーっ」
「たんぼが、助かったぞーっ」
 喜びいさんだ村人たちは、つかれも忘れてかけつけました。なんと、巨大な石がすっぽりと、穴をふさいでいるではありませんか。
「龍神さまじゃ」
「龍神さまが、石をころがして下さったのじゃ」
「ありがたいことじゃ」
 青々と勢をもり返したたんぼをながめて、村人たちは、手の舞い、足のふむところを知らずに喜んでいたのですが、やがて、その岩の上に、何か白いものが置いてあることに気がつきました。おそるおそる手にとってみますと、白い紙につつまれたくしこうがいであったのです。
「あっ、この櫛はたしか、弾正さまの娘さまが持っていなさった櫛じゃ」
「それに、この笄にも、見おぼえがある。まちがいなく、弾正さまのお姫さまの笄じゃ」
どうして、それがここに・・・・・・と、いぶかっている村人たちのところへ、息せき切って、かけつけた大庄屋二人は、
「あっ」
と、息をのんでしまいました。
「実は、娘さまがお一人、今朝になって、どこにもいなさらんのじゃ」
「弾正さまも、えろうご心配なのじゃ」
 櫛と笄を手にとった孫兵衛は、ハッと気がついて、八兵衛の顔を見ました。八兵衛もまた、孫兵衛の顔を見ました。二人の視線は、ヒタと出合ったまま、しばらくはものもいえずに、立ちつくしていました。
 やがて二人は、地面にひざまずいて、岩に向かい、櫛と笄をおしいただきながら、村人たちに告げました。
「皆の衆、どうか坐ってくだされ。そして、手を合わせて、いっしょにおがんでくだされや。弾正さまの娘さまが、龍神さまのお告げを受けて、人柱にたってくだされたのじゃ」
「娘さまは、もう今ごろは、龍神さまの御殿から、わしらの喜んでいる姿を、じっと見てござらっしゃるぞ」
 村人は、はじめて知った尊い人柱の霊験と、娘さまの慈悲の心にうたれて、だれひとり、立っている者はいませんでした。岩をめぐって、じっと坐りこんだまま、ありがた涙にくれて、いつまでも合掌していました。

(「“”にまつわるむかしばなし : (その三)ひとばしら」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [73]


井口弾正娘いのくちだんじょう の むすめ 為人身御供ひとみごくう 投身とうしん之跡」の石柱の周辺地図
滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま

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参考: 井口弾正いのくちだんじょうの娘である阿古あこは、浅井久政あざいひさまさつまであり、浅井長政あざいながまさを産んだ母
『嶋物語』
「久政公御内儀ハ井ノ口弾正少弼息女也信長公十指ヒ数日切リ生害ノ由」
浅井久政あざいひさまさこう御内儀ごないぎは、井口弾正少弼いのくちだんじょうしょうひつ息女そくじょなり。
織田信長おだのぶながこう十指びとおのゆび数日すじつり、生害しょうがいよし。)
『嶋物語』(『嶋記録』)より [74] [75] [76] [77]

「第一項 井口氏の惨殺」, 「第六節 浅井氏の族滅」, 「第三十三章 浅井氏の滅亡」, 『東浅井郡志 巻2』545ページ
「第一項 井口氏の惨殺」, 「第六節 浅井氏の族滅」, 「第三十三章 浅井氏の滅亡」, 『東浅井郡志 巻2』 [78]

 

涙でかすむ目でも、拝む手の皺は見えた。十分に生きられたあかしだと思った。その白く長い指を見て、ふと思いついた。
「それならばよい方法がございます。信長らしい仕打ちだと誰もが思い、誰かは泣いてくれるでしょう」
 そう言うと阿古は天を見上げた。土蔵の天井は暗く、空は見えなかった。それでも、阿古は祈るように願った。
「ああ、どうか、許してください。私は地獄に落ちるともかまいません。どうかこのような仕打ちをすることをお許しください」
 白く美しい十本ある指と指を重ねて、阿古は祈り続けた。
 
 『信長公記』には次のように記録されている。
  浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを探し出し、関ヶ原というところで磔に掛けた。
 『嶋記録』には次のように記録されている。
  久政公の内儀ないぎは、井口弾正少弼のむすめなり。信長公、十指数日切り生害しょうがいよし
 阿古は、その美しい十本の指と引き替えに、信長の検分を遅らせるための十日ほどの日数を生み出した。

―― 山東圭八さんとうけいや「四 十指」, 「四章 落ちる」, 『戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』 [79]

 

これは史実の話ですが、井口弾正いのくちだんじょうの娘である阿古あこは、戦国時代せんごくじだい北近江きたおうみ大名だいみょうであった、浅井久政あざいひさまさつま(正室)であり、浅井長政あざいながまさの生母です。阿古あこは、小野殿おのどのや、小野の方おののかた阿古御料あこのごりょう阿子御料あこのごりょう)、井口殿いのくちどのとも呼ばれていました [80] [81] [82] [83] [84]。(「御料ごりょう」というのは、「御料人ごりょうにん」の略語です。「御料人ごりょうにん」というのは、身分の高い人の息子や娘を呼ぶときに使われる言葉です)。阿古あこの名称は、井口阿古いのくちあこと表記される場合もあるようです。

さきほど、『高月町のむかし話』の「“”にまつわるむかしばなし」の「(その三)ひとばしら」の項目の文章を引用して、「井口弾正いのくちだんじょうの娘が、人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となって、身投げをした」という伝説を紹介しました。その伝説のなかで描かれている、「人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となって、身投げをした」という井口弾正いのくちだんじょうの娘は、阿古あことは別の人物であるようです。

さきほど引用した、『高月町のむかし話』の「“”にまつわるむかしばなし」の「(その三)ひとばしら」の項目からの引用文のなかに、「弾正には、何人かの美しい娘さんがありました」という記述があります。ですので、もしかすると、それらの「何人かの美しい娘さん」のなかに、「人身御供ひとみごくう人柱ひとばしら)となった娘」と、阿古あこの、2人が含まれていたのかもしれません。

 

下記の文章は、太田浩司さんの『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡』という本からの引用です。

〔一 戦国大名浅井氏の歴史〕

〔女性からみた浅井氏の系譜〕

久政の妻・阿古御料

久政〔浅井久政あざいひさまさ〕の妻、伊香郡井口いのくち(長浜市高月町井口)の土豪井口経元〔井口弾正いのくちだんじょう〕の女〔むすめ〕で、小野殿とか阿古御料あこのごりょうとか言われた人物である。この井口氏は、富永庄総政所まんどころを主宰する庄官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を統括していた「井預り」でもあった。
 この伊香郡用水の村々と、高時川左岸を灌漑する浅井郡用水各村の対立は、すでに応永年間(一三九四~一四二八)から見え、江戸時代には浅井郡用水(もち)の優先権を認めた「餅の井落とし」の慣行を生んだ。この高時川左岸を灌漑する浅井郡用水は、浅井氏の出身地である丁野〔ようの〕をはじめとする小谷城〔おだにじょう〕の麓の村々を灌漑する。浅井氏が、その用水権の代表者として考えられるのは当然である。
 亮政〔浅井亮政あざいすけまさ〕の時代に行なわれたであろう、浅井氏と井口氏の婚姻は、絶えず緊張関係にあった、伊香郡用水の代表者である井口氏と手を結ぶことで、浅井氏がその最大の経済基盤であった小谷城下の生産を安定させることに目的があった。井口氏から阿古御料を迎えたのは、自らの経済基盤の生産を安定させるために行なった、浅井氏の国内向けの対策であったと結論出来よう。なお、この阿古御料は『嶋記録』によれば、信長によって十指を数日の間に切られ殺害されたという。長政生母であったことが、信長の恨みをかった悲劇であった。

(太田浩司「久政の妻・阿古御料」, 「女性からみた浅井氏の系譜」, 「一 戦国大名浅井氏の歴史」, 『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡』) [85]

 

下記の文章は、山東圭八さんとうけいやさんの小説、『戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』からの引用です。

 そこで、信長の使者は、半兵衛に告げた。
「信長様の御命令である。浅井長政の嫡男と母を処刑しろ。嫡男は磔に、母も近江の人々が慕う気持ちを挫くような殺し方をしろ。これを竹中半兵衛が行え。今、信長様は長島一向一揆の征伐に行っておられる。処刑が済めば、検分するため関ヶ原に寄るので伝えよ。これがお屋形様の命である」
 半兵衛は愕然がくぜんとなった。まさかそれほどの仕打ちを、信長が本当に考えているとは思わなかった。半兵衛の心の中であの声がこだました。
 半兵衛は、阿古に会って話をしなければならないと思った。
 
〔中略〕
 
 阿古の問いに半兵衛は言いにくそうにして、重い口を開いた。
「阿古様は、北近江の人々の心を繋ぐ大事な人です。信長様はそのことを恐れている。あなたを私の手で殺さねばならん」
 しばらくの沈黙の後、阿古は呟いた。
「そうですか」
 阿古はもう悟っていたようである。しかし、半兵衛はもう一つ重要なことを伝えなければならなかった。
「阿古様。信長様は、秀吉殿以上に目が利く。処刑された子を見れば不審に思うだろう」
 達観しているように見えた阿古の顔色が変わった。
「確かに同じ年頃の少年であるが、身体は細く柔軟な体つき。恰幅かっぷくの良い大柄な長政様からは想像できない。喜久丸殿を知る者もいる。私ですら不審に思った。あの少年は、別人ではないのか」
 半兵衛の話を聞くうちに阿古の顔から血の気が失せ、真っ白になった。
「半兵衛殿。どうか助けてください。喜右衛門殿が死ぬ前に言っていました。もしも浅井家が滅び、頼る者がなければ、半兵衛を頼るとよい。本当は半兵衛という男は、儂らと同じで、ここに生きる人たちを命懸けで守ってくれる奴やと喜右衛門殿が言っていました。ですから、どうか半兵衛殿、助けてください。私たちの最後の望みなのです。だから、あなたに命を預けたのです」
 阿古は、真っ白な手を合わせて半兵衛を拝んだ。半兵衛の脳裏にあの声がこだまする。喜右衛門が昔言っていた言葉が思い出される。
主人あるじ何と言おうと儂自身が正しいと思うことはやってきた。それが本当に世の人のためになると思ったら…半兵衛、為すべきことを…」
 半兵衛の脳裏に喜右衛門が現れていた。半兵衛は自分だけに言い聞かせるように、僅かに唇を動かし呟いた。
「為す」
 そして半兵衛は阿古に告げた。
「処刑した後、そう、十日。十日もあれば、誰の亡骸なきがらかは分からなくなるだろう。その日数をいかに稼ぐか。信長様の検分を十日遅らせることができるなら」
 半兵衛はそう言った。阿古は、半兵衛の思いを知ると、また拝んだ。拝み見る男の顔が、溢れる涙で見えなくなった。両のてのひらを合わせて何度も何度も拝み、そして思案した。涙でかすむ目でも、拝む手の皺は見えた。十分に生きられたあかしだと思った。その白く長い指を見て、ふと思いついた。
「それならばよい方法がございます。信長らしい仕打ちだと誰もが思い、誰かは泣いてくれるでしょう」
 そう言うと阿古は天を見上げた。土蔵の天井は暗く、空は見えなかった。それでも、阿古は祈るように願った。
「ああ、どうか、許してください。私は地獄に落ちるともかまいません。どうかこのような仕打ちをすることをお許しください」
 白く美しい十本ある指と指を重ねて、阿古は祈り続けた。
 
 
 『信長公記』には次のように記録されている。
  浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを探し出し、関ヶ原というところで磔に掛けた。
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  久政公の内儀ないぎは、井口弾正少弼のむすめなり。信長公、十指数日切り生害しょうがいよし
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山東圭八さんとうけいや「四 十指」, 「四章 落ちる」, 『戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』) [86]

 

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参考: 「浅井」の読み方は、「あざい」なのか?「あさい」なのか?

「浅井」の読み方は、「あざい」なのか?「あさい」なのか?

 

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「せせらぎ長者の娘(または、せせらぎ長者)」説

 

いざさら あやりましょ
みや御門みかどに 皆立ち並び 続く早魃ひでり
ものうさに 氏神様うじがみさまへ あめ乞ふこう
あや御紋ごもんに 何織付おりつけよ 五穀成就ごこくじょうじゅ
ときを得て 喜悦きえつ景色けしき 織附おりつけよ
あや御紋ごもんに 何けよ 天の河原あまのかわら
水まさや かさめす月を り付けよ

―― 「大清水おおしみず雨乞歌あまごいうた : 綾の歌」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [87]

あや御紋ごもんに 何織付おりつけよ 竜田たつたの川の 流れに紅葉もみじ
なみうさぎを り付けよ
りがたや なが旱天ひでりの 昔を捨てて みのりの秋を 待つばかり
五穀成就ごこくじょうじゅの 世の中は ひとへにひとえに神のおんめぐ
あや御紋ごもんに 何織付おりつけよ はぎ桔梗ききょうや 女郎花おみなえし
稲葉いねは蜻蛉とんぼ り付けよ
秋の田の 稲田いなだ稲穂いなほ 見ればゆらゆら 五穀草木ごこくそうもく にぎはしくにぎわしく
神国なれば 有難ありがたや 甘露かんろの雨を たまわりて
あや御紋ごもんに 何織付おりつけよ 竹に小雀こすずめ やなぎ千鳥ちどり
つる若松わかまつ り付けよ
すえは はるばる長けれど お礼のおどりは是迄これま

―― 「藤川ふじかわ寺林てらばやし雨乞唄あまごいうた : 綾織」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [88]

あや御紋ごもんに なにりましょ かど 鶴亀つるかめ
小竹にすずめ あや金襴きんらんと りましょうよう
花はあおいに それきくの花 うめうぐいす
獅子ししには牡丹ぼたん 唐金襴からきんらんと り付きょよ
あやはさまさま多けれど 五色ごしきの糸でり分けて
千代万歳ちよばんぜい と おさ

―― 「村木むらぎ雨乞唄あまごいうた : 綾織歌」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [89]

 


世々開長者流水遺功碑せせらぎ長者流水遺功碑」の周辺地図
滋賀県長浜市中野町しがけん ながはまし なかのちょう

 つぎに、井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんの候補としてあげられるのは、せせらぎ長者の娘(または、せせらぎ長者)です。『湖北農業水利事業誌』には、せせらぎ長者についての、下記のような物語が記されています(『湖北農業水利事業誌』, p.28)。

下記の物語に登場する、「餅の井もちのゆ」の周辺の位置関係については、下の図と、下の地図を参考にしてください。


井明神橋いみょうじんはしの周辺地図
(かつて、「餅の井もちのゆ」があった場所の周辺地図)

下記が、せせらぎ長者の物語です(『湖北農業水利事業誌』, p.28)。

 当時、東浅井郡旧小谷村一帯の掛りである丁野井(後の餅ノ井掛り)は井明神六井堰の最下流にあって最も用水不足に悩んでいた。浅井氏が小谷城にその居を構えるようになって丁野井掛りの農民は井堰を井明神の最上流に押し上げようとして領主浅井久政(長政の父)に懇願した。これに対し、同じ領民中でも最も居城に近い農民の要請であり、支配者が足下を固める常道として久政の容れるところとなって、井口弾正家に圧力をかけてきた。井口家としては浅井一族の無理を聞き入れれば自家の勢力衰退につながり、さりとて無下に断れば浅井の顰蹙ひんしゅくを買うことになる。困却の果、到底できない難題をふっかけて、あきらめさせようとした。
 「綾千駄、餅千駄、綿千駄(綾とは布・千駄とは牛千頭に積んだ荷物分)を片目の馬子に片目の牛をもって索いてこい」と最上流井堰を認める条件を提示し、暗に断ったつもりでいた。ところが、あにはからんや中野の土豪で資産家である長者が資産をなげ出して、この無理難題の品を贈ってきたので、やむを得ずこれを認めざるを得なかったと伝えられている。
 かくしてようやく最上流に井堰を新設したが堰上げ不充分で水路に水が乗らず困却していたところ、前記中野の長者の女〔むすめ〕「松ノ前」による尊い人柱によって取水が叶った。以来中野の長者を「セセラギノ長者」と人呼んで尊敬するとともに餅千駄から餅ノ井と名ずけれらたという。
 餅ノ井にまつわる物語が史実か否かは明らかでないが、当時の支配権力と農民の水に対する執念の程を充分察知することができる。

(「餅ノ井の由来」, 『湖北農業水利事業誌』) [90]

上記の文章中の「中野」というのは、中野村なかのむらのことです(現在の滋賀県長浜市中野町しがけん ながはまし なかのちょう)。

 『近江輿地志略おうみよちしりゃく』の中野村の「餅井もちのゆ」の項目には、上記で紹介したのとおなじような内容の、せせらぎ長者の話が記されています。また、そのすぐつぎの「井明神社」の項目のところには、「井明神社では、長者祭りという、せせらぎ長者の祭りが行われる」というような意味の記述があります(『近江輿地志略』, 1915, p.1019)。このことから、井明神社いのみょうじんしゃには、せせらぎ長者や、人柱ひとばしらとなったせせらぎ長者の娘に対する信仰があったとされていた可能性もあるのではないかとおもいます。おなじく人柱ひとばしらとなったとされている井口弾正いのくちだんじょうの娘が祭神さいじんとして名前があがっているので、おなじ人柱ひとばしらとなった、せせらぎ長者の娘も、祭神さいじんとして名前があがってもおかしくないのではないか、とおもいます。

 

下記の文章は、『高月町のむかし話』という本に記されている、「せせらぎ長者」についての伝承です。

〔“”にまつわるむかしばなし〕

(その二)せせらぎ長者

 今から、五百年も前のことです。
 富永の庄の井口に城をかまえて、高時川の水利を支配していた、井口弾正だんじょうは村役人を集めて、古橋の小高い山の上から、はるか南の方の小谷城のあたりをじっと見守っておりました。村々のたんぼはカラカラにかわいて、今にも枯れてしまいそうな稲が、ひと雨降るのを待ちかねて、しおれかえっています。今年もまた、米のとれないひでりがやってくるのかと思うと、つくづくおてんとうさまが、うらめしくなってきました。
 そのうえにこんどは、じぶんの仕えている浅井のとのさまから、とんでもない難題を申しこまれて、ホトホト困りはてていたのでした。
 その難題というのは、となりの浅井郡にあった小谷城のまわりの村々のたんぼへ、水をひくために高時川の一ばん上流の古橋のあたりに、井をたてさせてやってもらいたい、ということだったのです。
「いくらとのさまでも、あんまりひどすぎる」
「わしらのたんぼは、どうしてくれるんだ」
とたいへんなさわぎになってしまったのです。
 富永の庄の用水だけでも、毎年足りなくて、じゅうぶんお米がとれないのに、この上そんな井をたてて水をとられてしまってはそれこそ大へんだと、村人たちが、承知するはずがないのはよくわかっていたのです。
 弾正は、村人たちをなだめるために、とてもできそうにない無理な注文を出して、とのさまにあきらめてもらうことを考えて、
「片目の馬千頭に、絹千あや・餅千つんで持ってきたら、たてさせましょう」
と返事を出しました。そんなとんでもないことかできるはずがないと思ったからです。村々の百姓たちも役人も、それを聞いて安心していました。
 ところが、なんとおどろいたことには、浅井郡の方から、
「承知いたしました。さっそく持参いたしますから、おまち下さいますように。なおまた、用水路はこれから通ります道に沿うて掘りわりさせてもらいましょう」
という、とても信じられないあいさつが、堂々とかえされてきたのです。
 さあ、大へん、ひくにひけなくなった弾正は、それでも、まさかと思いながら、役人どもをしたがえて山の上から見渡していたというわけです。
 やがて陽がたかくのぼるころ、南の丁野ようののあたりから、もうもうと土けむりをあげなから、人と馬の大行列ぎょうれつが、かみへ上へとのぼってくるのです。やくそくのとおり、片目の馬千頭が、それぞれ、絹と綾と餅とを一駄ずつ積んでいます。先頭の馬が古橋の川原へついているのに、あとの馬は、まだ丁野を出発していない程の、長い長い行列でした。
“いったい、誰がどうして、こんな大金のかかることを、やってのけたのでしようか?”
 それは、浅井郡の中野村に住んでいた、
『せせらぎ長者』
という、大金持ちの長者さんが、ありったけのお金をぜんぶ投げだして、村のために買いととのえたからだそうです。
 弾正は、
「この勝負、おれのけだ」
と、うめくようにいいました。
 村人たちも、役人たちも、
「これは、せせらぎ長者が、村のために、必死になってととのえた尊いおくりものだ。井を立てられても、しかたがない」
と、口々に話し合いました。
 それいらい、この井のことを“もちの井”とよんで、五百年の間、その権利がまもられて、昭和のはじめまでつづきました。
 もちろん、ひでりの年には、井おとしといって、もちの井を切りおとして、下流の井へ水を流すというならわしも、ずっとつづいていたのです。

(「“”にまつわるむかしばなし : (その二)せせらぎ長者」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [91]

 

下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、「せせらぎ長者」についての伝承や、洪水のときに田川たがわあらわれたという白馬についての伝承です。

 中野には、治水に尽くした世々開せせらぎ長者の伝説が伝えられている。このあたり一帯は、水利が悪く、高時川からの分水を懇願したところ「一日一夜に綾千駄、錦千駄、餅千駄を牛に積んで持って来い」という難題を、世々開長者は何とか実現して分水の許可を得、さらに、分水路工事にあたっては、娘を人柱として難工事を完成したという話である。直接田川とは関係ないが、水利への人々の願いがよくあらわれている。
 また、中野の田川にかかる橋には、馬のレリーフがあって馬川橋と呼んでいる。これは、古くから田川が洪水のときには、白馬が現れて往来する人を悩ましたという伝説があることから田川を馬川、橋を馬川橋というようになったことからで、このことは『近江輿地志略』にでている。田川の洪水の激しさ、白い波頭の様子を馬にたとえたものと考えられなくもない。ともかくこの橋の北岸には先述した世々開長者の記念碑も建ち、水にまつわる伝説がこのところに相立つ形となっている。

(近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], 「洪水時に白馬出現」, 「20 田川たがわ」, 『近江の川』) [92]

 

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「渡江淵の大蛇」説

 井明神社いのみょうじんしゃ祭神さいじんの候補の最後は、渡江淵の大蛇です。渡江淵の大蛇というのは、近江国蒲生郡おうみのくに がもうぐん渡会橋わたらいばしのちかくの渡江淵にいたとされている大蛇です。

(※「近江国蒲生郡おうみのくに がもうぐん渡会橋わたらいばし」は、現在は、渡合橋わたらいばしという表記になっています。渡合橋わたらいばしの所在地は、現在の地名で言うと、滋賀県近江八幡市内の円山町と島町のあいだです。渡合橋わたらいばしは、その2つの町のあいだを流れる長命寺川ちょうめいじがわに架かっている橋です。)

 佐野静代さんは、「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」のなかで、井口地区いのくち地区日吉神社ひよし神社の社伝として、つぎのような話を紹介されています(佐野, 1997, p.135)。

文永七年(1270)蒲生郡渡江淵に大蛇が現れ、夜毎人を害したので、近江守護佐々木頼綱とその一族の東条経方がこれを射殺した。翌年近江国が大干ばつにあったが、頼綱は件の大蛇の霊をまつれば潤雨ありとの夢告を受け、国中の井頭に神霊をまつらせた。当社はその一つで、東条経方をして祭らしめたもので、経方の子孫は代々高時川預かりとなってこの地に居住し、井口姓を名乗ることになったという(社伝による)。

(佐野静代「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」) [72]

 『湖国夜話 : 伝説と秘史』によると、渡江淵というのは、渡会橋わたらいばし(現在の渡合橋わたらいばし)のあたりのことだそうです。この本によると、渡会橋わたらいばし(渡江淵)には、下記のような、大蛇退治の伝説が2つあるそうです。ひとつは、平安時代前半の、敦実親王あつざねしんのう狛長者こまちょうじゃによる大蛇退治の伝説です。もうひとつは、鎌倉時代中期の、佐々木頼綱ささきよりつな東条経方とうじょうつねまさによる大蛇退治です。(樋上, 1935, pp.71-72)

下記の引用文のなかの「佐々木神社」というのは、「沙沙貴神社ささきじんじゃ」(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺しがけん おうみはちまんし あづちちょう じょうらくじ)のことだろうとおもいます。

下記の引用文のなかの「百々神社どどじんじゃ」というのは、現在の「百々神社ももじんじゃ」(滋賀県近江八幡市北津田町しがけん おうみはちまんし きたつだちょう)のことだろうとおもいます。

 宇多天皇の御代、蒲生郡がもうぐん島村しまむらにある渡会わたらいの橋の下に大蛇が出て、往来の人を害うたので困る人が多かったのを敦実親王あつざねしんのう狛長者こまちょうじゃが佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ〕に願をかけて退治せられたといふことで、この大蛇の霊を祀ったものが橋のそばの百々神社どどじんじゃ〔現在の百々神社ももじんじゃ〕であると伝へ、この神社の名を書いて貼っておくと蛇よけになると信じられてゐる。
 これもやはり渡会わたらいのことであらうと思はれるが、それには蒲生郡渡江淵と書かれてゐる。
 それは亀山天皇の御代で、文永七年にやはりこゝに大蛇が現はれたので、国主の佐々木頼綱は東条経方とうじょうつねまさに命じて佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ〕に祈願をかけさせたところ「その大蛇は昔日本武尊〔やまとたけるのみこと〕が伊吹山で退治した大蛇の神霊が恨みを留めたものである。之を殺さんとすれば大蛇は石に変じ蜍形くもがたとなり東南に向ふであらう」と告げられたので経方を案内として淵に行き、家伝の征矢そやで石を射てこれを退治した。
 ところがその翌年の夏は江州〔ごうしゅう〕一帯〔近江国おうみのくに一帯〕の井水せいすゐが涸れて白田しろたとなって困ってゐると、佐々木大明神は「それは先年殺した大蛇の神霊が田の井口ゐぐちに住んで水を吸ふからである。神霊を慰めたらよからう」と告げられたので、国中井口に神を祭り井口大明神ゐぐちだいみょうじんといふやうになった。伊香郡いかぐん北富永村きたとみながむらの井ノ神社はすなはちこれである――。といふ伝説が残されてゐて共通したやうな点もあって、面白いと思ふ。

(樋上亮一「渡会の大蛇」, 『湖国夜話 : 伝説と秘史』) [93]

 上記の伝承の中で、佐々木頼綱ささきよりつなは、「渡江淵の大蛇」を、「国中の井頭に神霊をまつらせた」とされています。ですので、おそらく、尾山地区おやま地区にあった井明神社いのみょうじんしゃにも、「渡江淵の大蛇」が祀られたのではないかとおもいます。

 

下記の引用文は、滋賀県神社誌編纂委員会が編集した、『滋賀県神社誌』という本に記されている、滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくちにある日吉神社ひよしじんじゃについての記述です。下記の記述のなかに、「渡江淵の大蛇」についての記述があります。

日吉ひよし神社

鎮座地 伊香郡高月町井口一二二
主祭神 大山咋命
境内社 井の神社 天満宮 稲荷社
神紋 左三ツ巴
例祭 四月十四日
本殿 入母屋造向拝付 間口三間三尺
   奥行二間五尺
拝殿 入母屋造 間口二間五尺 奥行二間二尺
その他主たる建物 宝物庫 手水舎 社務所
境内地 七四八坪 飛地境内 一五〇坪
氏子 一〇三戸

由緒
当社の創祀に関して伝えるところによれば文永七年七月近江国蒲生郡渡江淵に大蛇現れ夜毎人蓄を害する事甚だしく、国主佐佐木頼綱これを聞き、その害を除かんとしたが、大蛇変幻出没常にその姿を変じて計り難く、東条経方と共にその大蛇を家伝の征矢〔そや〕にて射殺し、其の霊を国中の井がしらに祀らせた伝承あり、これを当社井口大明神と号せしむ等々、この所説もとより、無稽の謬説ならむも当社創立の由来を暗示するものと云うべく、上下十二組用水の井口を守護せんがため茲〔ここ〕に冨永庄の本所たる延暦寺の守護神である坂本の日吉神社御分霊を奉祀したことは、当社創立の大きな理由であったと考えられる。観音寺別院円満寺の鎮守新日吉神社の名で呼ばれた。銅鐘一口(重工)寛喜三年鋳之ノ銘あり社宝として蔵している。大正十二年郷社に列した。

(滋賀県神社誌編纂委員会 [編集] 「日吉ひよし神社」〔伊香郡高月町井口一二二〕, 『滋賀県神社誌』) [94]

 

下記の引用文は、『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』に記されている、「渡合橋わたらいばし」(渡会橋わたらいばし)についての記述です。

 わたらいばし 渡合橋〈近江八幡市〉
近江八幡市北部の八幡山と奥津島山の間の水路に架かる橋。長さ10m・幅8m。現橋は昭和38年3月竣工。北之庄町から奥津島への唯一の動脈路である。当橋には昔,橋下に往来の人々を悩ます大蛇がいたが,佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ〕に祈願した狛長者〔こまちょうじゃ〕敦実親王〔あつざねしんのう〕が弓矢で大蛇の眼を射て滅ぼし,その霊を橋のたもとに祀ったという伝説があり,現在も道祖神の社がある。

(『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』(1979年)) [95]


渡合橋わたらいばし渡会橋わたらいばし)(渡江淵)」の周辺地図
滋賀県近江八幡市しがけん おうみはちまんしのなかの、円山町まるやまちょう島町しまちょうのあいだを流れる長命寺川ちょうめいじがわに架かっている橋)


地図 : 「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と「井明神社いのみょうじんしゃ」関連地図

  • 渡江淵
  • 渡合橋わたらいばし渡会橋わたらいばし
  • 百々神社ももじんじゃ百々神社どどじんじゃ
  • 長命寺川ちょうめいじがわ
  • 沙沙貴神社ささきじんじゃ

 

(参考)
百々神社どどじんじゃ百々神社ももじんじゃ)と、安土城あづちじょう百々橋どどばしとの関係

 安土の町ができたのは五年前のことである。観音寺城から見下ろす麓、琵琶湖に面した場所に信長は本拠となる城を建設した。安土城と名付けた。
 堀に架かる百々橋どどばしを渡り、南に進むと青い色の瓦屋根が見える。オルガンチノ神父が信長から賜った土地に建てた神学校がセミナリオである。建物は三階建ての大きな屋敷であった。一階は広い座敷で、すでに幾人かが集っていた。ここにはオルガンと呼ばれる西洋の楽器が置かれ、美しい音色を奏で、少年が透き通るような声で歌っている。

山東圭八さんとうけいや戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』) [96]

 

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参考: 高時川たかときがわってどんな川?

 

近江おうみなる 高月川たかつきがわの底清し
のどけき御代みよの 影ぞ移れり
 
秋といえば 光りを添えて高月たかつき
川瀬のなみも 清く澄むなり

―― 大江匡房おおえのまさふさ [97]

 

下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、高時川たかときがわについての記述です。

福井県境から始まる近畿の水がめ
 
 高時川の源流は伊香郡余呉町中河内なかかわちの奥、とち峠付近にあり、全長四一・四キロメートル流域面積二〇八・七平方キロメートルである。その名に、余呉町では丹生にゅう川、高月町では馬上まけ川・高月川、湖北町では馬渡もうたり川の別名がある。その流れは、余呉川、塩津川などとともに、濃越のうえつ高原・丹波たんば山地の間に生まれた南北方向に近い断層に沿った流路をとる。
 峠には余呉高原スキー場が建設されている。道路をはさんで「淀川の水源」と書かれた石碑があった。淀川とは遠慮したもの、「高時川の水源」、それとも「近畿の水源」と書いてもおかしくない、と思う。
 
〔中略〕
 
 さらに続く鷲見わしみ田戸たど小原おはらの各村も、工事が進む丹生川ダムの底に沈む予定で、町ではその離村対策を進めている。
 過疎は、日本の高度成長期にはじまり、発展が続く限りとまらないだろうが、山林や水源地は、「緑の基地」としてのこうした山村の人々の力で支えられてきたことを忘れてはならないと思う。
 
〔中略〕
 
 さらに下流には、上丹生・下丹生の村々があり、両村の丹生神社では有名な「茶わん祭り」が三年に一度行われる。
 
多数の式内社しきないしゃ、観音の里
 
 この辺りの水量は夏でも豊富で、木之本町大見おおみに至る。そこには真言宗の医王寺いおうじがあり、平安期の木造十一面観音立像があり、国の重要文化財となっている。また、大おおみ神社の神像三体も同様である。
 山向うの余呉町坂口さかぐちには孝謙天皇が藤原仲麻呂の怨霊を鎮めるために勅願された菅山寺かんざんじがあるが、その中興の祖専暁せんぎょうは大見の出身で、建治元年(一二七五)宋版大蔵経七千巻を持ち帰っている。しかしこれは徳川家康に請われて東京の芝増上寺に移されている。
 大見から谷あいをさらに下ると、支流の杉野すぎの川と合流する。そこは名の通り川合かわいと呼ぶ。
 杉野川には国道三〇三号が沿い、八草はっそう峠を経て岐阜県坂内さかうち村に通じる。県境には廃鉱となった土倉つちくら鉱山と村のあとがある。
 土倉鉱山は、明治四十年(一九〇七)岐阜県の人による銅鉱脈の発見から昭和四十年鉱脈の枯渇と貿易の自由化による閉山まで、六〇年間にわたり黄銅鉱および黄鉄鉱を産出した。多い時には従業員三五〇名余、家族を含めると九〇〇名余が、雪や台風、さらには粉塵と戦いながら、月産二千トンから五千トンを産出した。
 土倉からしもには金居原かねいはら杉野すぎの・杉本の集落があり、そして川合となる。
 川合には延喜式内社である佐波加刀さわかと神社がある。延喜式内社とは、平安時代の延喜年代(九〇一~九二三)に書かれた法律書に載せられた神社のことで、伊香郡内の延喜式内社の数四十六は、全国の郡の内で六番目という。その多さは、いかにこの地方が早く開け、栄えたかを示している。
 
〔中略〕
 
 神社と並んで、この付近の素晴らしい仏像神像の多さはどうだろう。ひっそりと、国指定重要文化財の仏様がたたずんでおられる。川合の下の古橋ふるはしの東には行基開創と伝える己高こだかみ山があり、多数の堂宇がそびえていた。現在は、その五ヵ寺の一つの石道いしみち石道寺しゃくどうじ、中心寺院だった観音寺別院の鶏足寺けいそくじ宝物類が古橋町内の己高閣に保存され、昔の栄華を残している。この付近では、支流の谷川が合流する。
 高月町内にも、渡岸寺どうがんじの国宝十一面観音立像を初めとして、その数は枚挙にいとまなく、「観音の里」と呼ばれて資料館〔高月観音の里歴史民俗資料館〕がある。
 
〔中略〕
 
 また、村作り日本一の雨森は、小川には鯉が泳いで水車が回り、家々の軒先には花が咲く。夏も尽きぬ水の恵み豊かなればこそできる芸当といわざるをえない。
 さらに、庵の内外を初め、町内にはケヤキの大木が多い。豊富な地下水がなせるわざであろう。往古、槻(ケヤキの古名)があることから高槻と名付けられたこの地域を、大江匡房おおえのまさふさ(平安後期の歌人)が、
  近江なる高月川の底清しのどけき御代の影ぞ移れり
  秋といえば光りを添えて高月の川瀬の浪も清く澄むなり
とうたったことから月の名所となり、高月と改名したという。月が清水に映えるところなのだ。
 
水争いも今は昔
 
 さて、清水も涸れると血なまぐさくなる。
 井明神橋いみょうじんばしの上と下には、もち・松田井・高水井、上、下六組の大井・下井の六つの井堰があった。その最も上にあったのが餅の井といい、欲しいだけ水を利用できたという。これに対して他の井の組の村々は、餅の井の堰を切りに押しかけ、生死をかけた闘いが近代に至るまで伊香と東浅井の村々で繰り返されたという。
 なかでも中世、この付近の水利の権利を握ったのは、土豪の井口弾正といい、次いで、浅井氏が指図し、その後は太閤秀吉が引き継いだ。高月町高月には太閤堤と呼ばれる堤まであるという。ともあれ、湖北の穀倉地帯を、余呉川・姉川と共にまかなってきたのである。
 現在は、昭和四十年に着手した湖北水利事業により井明神橋の手前で取水する高時川幹川かんせん水路が完成、浅井町内保うちぼまで配水している。
 橋の下流の水は、取水されたあと川底には少なくなる反面、配水された井口いのくち持寺もちでら馬上まけなど付近の町内にはあふれるほど水が流れている。馬上では、ずらりと橋が並び、その脇に竹に生け花が咲いている。下手で、山田川が合流するが、水のない天井川である。
 
〔中略〕
 
 国道八号がまたぐ馬渡もうたり橋をすぎると、砂利と河川敷の畑が目立ち、水は枯渇している。コンクリートの簗場やなばと捨ておかれたドンベがかろうじて漁師さんの存在をうかがわせてくれる。さらに、錦にしこおり橋をすぎ、田川カルバートを越えて、びわ町難なんばの東、同町落合で姉川と合流する。
 高時川は、姉川と落ち合うので妹川とも呼ぶ。今回、高時川を上流から下流まで眺めてみて、その流域の雄大さには、改めて湖北のふところの深さを感じ、歴史の重みを悟った次第である。神社・仏閣に祭礼、人物・産業に水量。どれをとっても一流である。
 そしてそれは、中国で酈道元れきどうげんという人が書いた川の地誌『水経注すいけいちゅう』という本に出てくる「游神ゆうしん勝処すぐるところ」という言葉を思い出させる。「心をなごませる地、リラックスできる景勝地」とも訳すべきか。そんな味わいのある川であると思う。

(近江地方史研究会, 木村至宏, 「28 高時川」, 『近江の川』) [98]

 

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参考: 雨森あめのもり乙子井おとごゆにまつわる伝承

かつての餅の井堰付近の様子(「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」より)
「かつての餅の井堰付近の様子」の図
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎[58]
(上の図のなかの「乙下井」という表記は、書き間違いです。ただしくは、「乙子井おとごゆ」です。)

「むかしの高時川の用水路(略図)」、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』、80ページより
「むかしの高時川の用水路(略図)」
(図の引用元: 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より [69]

〔“”にまつわるむかしばなし〕

(その四)乙子井おとごゆまもり神、久兵衛さん

乙子おとご」ということばを知っていますか?
 きょうだいのうちで、いちばん上を“そうりょう”、いちばん末っ子を“おとご”といいますね。二ばんめは次男坊、三ばんめは三男坊などといいますよ。
 高時川には、たんぼの水やのみ水を、村々へひくために、いくつものがありました。大きな井だけでも、上流からじゅんばんに、餅の井・松田井・上水井こうずいゆおお井・しも井などがあって、一ばん下に、乙子井おとごゆがありました。これは、雨森の川東のたんぼをうるおすための井でした。はじめは、河原井といいましたが、いちばん末っ子の井なので、いつのまにか、乙子井とよぶようになったそうです。雨が降って、水の多い時はいいのですが、ひでりになると、みんな上流の方で水をとられて、
“かわいそうなは、おとごでござる”
と、ひやかされたり、くやしがったりする井でした。
 この井の水量が少ないために、川東のたんぼのうちで、洪水のため、土砂でめられた荒れ地を、もとのたんぼにもどすことができなくて、たいへん困っていたのです。江戸幕府ばくふになってから百姓は、たとえ一坪や二坪でも、じぶんの田が持てるようになったので、みんな、必死になって、たんぼをひろげました。しかし、一けんの家族だけのカでは、なかなかできない大しごとだったのです。
 そのじぶんの雨森の庄屋さんは、大橋久兵衛さんという人で、とてもえらい人でしたから、村中の人が尊敬し、心からしたっていました。久兵衛さんは、じぶんの家のことはかまわずに、村のために働き、すこしでも多くの水をひき、一坪でも多く荒れ田をよい田にもどすために、日夜、けんめいに努力されました。村人もまた、よく働きました。
 承応二年は前年につづいて雨の少ないひでり年でした。昔から、どこの百姓でも、ひでりになると、じぶんの田へ水をひくことについては、それこそ必死になりました。村ぜんたいが、殺気だってきて、ついには、水のとりあいのため、血の雨がふることさえあったほどです。水あらそいの相手の村へは“嫁にもやるな、むこもとるな”というおきてが守られるくらいでした。
 とうとう乙子井の雨森と、一つ上流の下井組の村々との間に、小ぜり合いが始まりました。久兵衛さんは、心配して、夜のめもねないで、その解決にあたり、百方手をつくされましたが、争いはひどくなるばかりで、ついに村人どおしの大げんかになってしまったのです。なぐり合い、つかみ合いのあげく、雨森のものが、けがをしたものですから、さあ、おさまりません。ついに雨森は大ぜいしておしかけ、竹やりや刀などをふりまわしたりしたので、下井組に死人の出るほどの大事件になってしまいました。
 江戸時代には、百姓がおおぜい集まって、武器をふりまわしたりしたら、文句なしに庄屋は、親子もろともはりつけの刑にするという法律が、きびしく定められていました。
 久兵衛さんは、しまったと思って、すぐさま、代官所へとんでいって、事情を訴えられたのですが、その時の役人が、奉行所へ申し伝えるのがおそかったために、ついに久兵衛さんは、めしとられてしまったのです。
 承応二年七月二十二日、久兵衛さんは、川原に組まれた竹矢来の中で、首を打たれ、首は川原にさらされました。一子熊丸も、こどものことだからと、西瓜すいかをたべさせておいて、うしろから首をうたれたと伝えられています。
 この事件についての村人のおどろきと悲しみは、ひじょうなものでした。村中が、もうおしまいだと思うくらいのできごとでした。
 この久兵衛さん親子の死は、それからの雨森の、否、あたり一帯の、水に関する争論に際して、大きな大きな教訓となり、また、雨森がはらった高価な犠牲ぎせいは、為政者いせいしゃにみとめられて、それ以後の水の問題に大きく貢献こうけんすることになったことは、残された記録を見ても明らかなことです。
 今でも、村では久兵衛さんの石碑の前で毎年法要をいとなみ、その御恩に感謝し、御加護を祈念しています。

(「“”にまつわるむかしばなし : (その四)乙子井おとごゆまもり神、久兵衛さん」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [99]

〔“”にまつわるむかしばなし〕

(その五)身がわり弥蔵さん

 大橋久兵衛さん親子を失った雨森は、深い悲しみにしずんでいました。たんぼの水のことについて、雨森ほどくろうする村は、どこにもなかったほどでした。それは、雨森村には、高時川をはさんで、東にも、西にも、たんぼがあって、それぞれ、水のとりかたがちがうために、よその村との折れあいがたいへんむずかしかったからなのです。
 杖とも柱ともたのんでいた久兵衛さんをとられて、これからいったい、どうやってたんぼをまもっていけばいいか、まったく途方にくれていました。
 ところがある日、どこからか弥蔵さんという人があらわれて、雨森の村の水とりのむずかしさを聞いて、
「それは気のどくなことだ。何とかなるまで、お力になりましょう」
といって、村に住みついてくださいました。
 弥蔵さんは、たいへんかしこい人でした。そのうえ、土地を測量したり、水を引いたりする工事が上手な人でした。しかも、自分の身を投げだして、村のためにはたらいてくださる、情け深い人でしたから、村人たちは、まるで、久兵衛さんのうまれかわりではなかろうかと喜んて、力を合わせて、せっせとはたらきました。
 やがて、弥蔵さんの指導によって、下井しもゆのすぐ下のところに、横井という新しい水路が開かれて、水利は一だんとらくになり、今まで、洪水などで川原のように荒れていた土地が、りっぱな水田にうまれかわりました。村人たちは、手をとり合って喜びあいました。弥蔵さんは、村人の喜ぶ姿を見て、自分のことのように喜んで下さったということです。
 横井は、今はなくなりましたが、その水路は今でものこっていて、むかしをしのぶことができます。
 ところが、ある日のこと、とつぜん、弥蔵さんは村人をあつめて、
「わたしの仕事は終りました。これから江戸へかえります。みなさん、どうかいつまでも仲よく力をあわせて、村をまもってはたらいてください」
といわれるではありませんか。おどろいた村人たちは、親にわかれる子どものように、泣きながら、いつまでもいてくださいとおねがいしました。すると、弥蔵さんは、
「わたしも、お別れはさびしい。しかし、わかれても心ではいつもこの村のことは忘れません。たとえ死んでも、魂はいつまでもこの村にとどまっていると信じて下さい」
といい残して、去っていかれました。それきり、その後のたよりはありませんでした。
 村人たちは、そののち、よるとさわると、弥蔵さんの話をしては、なつかしがっていましたが、しばらくたったある年の秋、毎年のように、千手観音さまをまつる蔵座寺ぞうざんじ(己高山観音寺)へ、農繁の十月十七日にそろって参詣さんけいして、お経をあげた後、お燈明とうみようや十二燈をぜんぶちゃんと消して下向げこうしようとしますと、たしかに消したはずのお燈明や十二燈が、いちどにパッと、一せいにともって、まるで、極楽のよそおいかと思われるほど、明るくかがやきわたりました。
 あまりにもふしぎな極楽のかがやきにうたれていた村人のあいだから、異口同音に、
「おお、これはきっと、弥蔵さんがかえって来なさったのじゃ」
「いや、弥蔵さんがなくなられたのじゃ」
「そうじゃ、弥蔵さんの魂が今、からだをはなれて、この蔵座寺へ帰ってきなさったにちがいない」
「観音さまが、村のみんなに知らせて下さったのじゃ」
という声がひろがって、蔵座寺の森は、弥蔵さんのありし日をしのび、ごめいふくをいのる念仏のひびきにつつまれました。
 今でも、十月十七日をご命日として、区長さんが祭主さいしゅとなり、毎年の供養くようをつづけています。

(「“”にまつわるむかしばなし : (その五)身がわり弥蔵さん」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [100]

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参考: 高時川たかときがわ天井川てんじょうがわになった原因はなにか?

 

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参考: 「波多八代宿禰はたやしろのすくねによる、己高山こだかみやまの大蛇退治」の伝説と、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ

かつて、己高山こだかみやまの山中の「蛇ヶ谷」というところにある洞窟に、大蛇が棲んでいて、付近の住民から恐れられていた、という伝承があります。武内宿禰たけのうちのすくねが、そのことを知り、自分の息子である波多八代宿禰はたやしろのすくねに対して、その大蛇を討伐するように命令しました。波多八代宿禰はたやしろのすくねは、かつて、スサノオ(須佐之男命すさのおのみこと)が八俣の大蛇やまたのおろち(「八ッ頭の大蛇」)を退治した故事にならって、剣にスサノオの力を宿らせることで、己高山の大蛇を討伐することができました。その後、波多八代宿禰はたやしろのすくねの死後に、彼をその土地の鎮護の神として祀ったことが、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ)の起源となりました。

(ちなみに、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ)の「よしろ」という神社名は、波多八代宿禰はたやしろのすくねの「八代(やしろ)」という言葉が転訛てんかしたものであるようです。)

現在、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ)は、己高山こだかみやまのふもとの古橋ふるはし滋賀県長浜市木之本町古橋しがけん ながはまし きのもとちょう ふるはし)にあります。(与志漏神社與志漏神社よしろじんじゃの地図上の位置

下記の引用文は、1921年(大正10年)に、滋賀県教育課が編集した『神社由緒記』という本に記されている、与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ)についての記述です。その記述のなかに、「波多八代宿禰はたやしろのすくねによる、己高山こだかみやまの大蛇退治」の伝説についての記述があります。

(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

滋賀縣伊香郡高時村大字古橋字よしろ鎮座
式内 鄕社 與志漏神社

一 祭神
神速須佐之男命
波多八代宿禰之命(明細帳脱漏)
比賣神(同上)

一 由緒
勧請年月不詳四月初丑を以て年祭するは此神謂歟人皇四十五代聖武天皇御宇行基法師勅を蒙りて神影像を彫刻すと傅へたり
明治九年十月二十一日村社に列せらる

考證參考 (鄕社與志漏神社)

當神社御祭神
須佐之男命を此地に齋き奉るに至りしは遠く景行天皇の御宇に始まる
即ち景行天皇の即位二十五年武内宿禰、北陸及東方諸國巡視の命を受け此の地に來り更に北越の國に入らんとし給へり(上古は今の北陸街道未だ開けず近江より北陸に入るには此地より高時川を遡りたるものなり)然るに此地土地肥沃にして水利の便宜しきを得しに人煙極めて稀なりしかば宿禰之れを怪しむ、偶々白髪の老翁宿禰の傍に現はる、即ち宿禰問ふて曰く住むに易かるべき地なるに人跡極めて少なきは何故ぞと、老翁答へて曰く、此の地の東方己高山の山中大蛇の棲むあり、人畜を害すること屢々なり、人深く之を恐れ住み慣れし耕圃を捨て〻皆他に逃ると、宿禰之を聞きて憐み後日必ず大蛇を討つべきを誓はせ給ひて越の國に入り給ひ二年にして復命し給ふ、爰に宿禰即ち約に遵ひ其子波多八代宿禰に己高山の大蛇を討つべきを命じ給ふ、即ち八代宿禰父が命を奉じ此の地に來り給ひ大蛇を討たんとし給へるに勢ひ強猖にして半歳を閲するも之れを討つこと能はず、八代宿禰こ〻に思ひ給はく神代の昔、肥の川上に須佐之男命の八ッ頭の大蛇を平らげ給ひし故事あり、如かず、この大神の力を藉らむにはと其の御佩かせる御劔に大神の神靈を齋き奉りて漸く之を平らげ給ふ今も己高山中蛇ヶ谷と云ふ字ありて大蛇の棲みたりと云ふ大なる岩窟あり、人今に懼る)於此大蛇の難を避け居たりし此地の土民皆歸り來りて農耕の業に安んず。斯くて八代宿禰の此地を去らむとし給ふや衆皆之れを惜み乞ふに永くこの地に駐り給はむことを乞ふこと頻なりしかば八代宿禰亦之れを納れ宮殿を造営し之れに住み給ひ猶須佐之男命の靈を齋き奉らる、その子孫又此地に繁榮して允恭天皇即位四 乙卯 年淡海臣の姓を賜り(古事記云 武内宿禰之子九 男七女二 波多八代宿禰者、波多臣、林臣、淡海臣、星川臣、長谷部君之祖也、とあり)國造縣主などに任けられたるもの多し、八代宿禰薨去し給ふや鄕人其の威德を追慕するの餘り其の靈を先きに宿禰の齋き奉りし須佐之男命に合せ祀りて此の鄕の鎮護の神と崇め奉り、波多八代之大神、後略して八代之大神と稱へ奉る之れ當社の起源なり

其後
聖武天皇の神亀 甲子 行基の此の地に鶏足寺を開くや此の大神を鎮護の神と齋き奉り、世代大權現と稱す(後に與志漏大權現)この時代より「ヨシロ」の稱起る蓋し「ヨシロ」は八代の轉訛せるものなり「古事記傳二十二卷に云ふ同國伊香郡に與志漏神社ありよしろはやしろに近し祭神波多八代宿禰ならん

更に降りて大同四 已丑 年釋最澄鶏足寺及び當社の荒廢せるを惜み之を再築す、之より當社は鶏足寺と其の興廢を共にし來り 鎌倉の末葉時代より地方の豪族武家の崇敬するところとなり殊に淺井家三代の祈願所となり奉納の寳物數點竝に長政の木像を安置す

一 社格加列 明治十八年六月二十九日鄕社に列せらる

一 神饌幣帛料供進指定 明治四十二年十月十三日

一 境內坪數 千百十坪

一 氏子戶數 百四十一戶

(滋賀県教育課 [編集] 『神社由緒記』) [101] [53]

ちなみに、上記の引用文のなかに、「古事記傳二十二卷に云ふ同國伊香郡に與志漏神社ありよしろはやしろに近し祭神波多八代宿禰ならん」という記述があります。その記述については、本居宣長もとおりのりながの著書である『古事記伝こじきでん』22巻(境原宮巻さかひばらのみやのまき)のなかの「波美臣はみのおみ」の項目のところに、下記のような記述があります(校註: 向山武男)。(下記の引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)と、〔〕(亀甲括弧)で囲われている部分の文章は、引用元の本の原文のなかに書かれているものです。ですので、下記の引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)は、引用者が加えた注記の文章ではありません。)

六 波美ハミノ

これも地ノ名と聞ゆれど、サダカならず。神名式に、近江ノ國伊香ノ郡波彌ハミノ神社、〔同郡に、與志漏ヨシロノ神社もあり。八代ヤシロにちかし。〕丹後ノ國丹波ノ郡波彌ハミノ神社。あり。是レらの地にもやあらむ。

本居宣長もとおりのりなが古事記伝こじきでん』二十二之巻(境原宮巻さかひばらのみやのまき)) [102]


与志漏神社よしろじんじゃ與志漏神社よしろじんじゃ)の周辺地図
滋賀県長浜市木之本町古橋しがけん ながはまし きのもとちょう ふるはし

 

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参考: 己高山こだかみやま、三頭山のオトチの岩窟(大蛇の岩窟)

下記の引用文は、『近江伊香郡志 上巻』という本に記されている、「オトチの岩窟」についての記述です。

安土桃山時代あずちももやまじだいの武将である石田三成いしだみつなりは、関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいに敗戦したあと、彼の母の故郷である古橋ふるはし滋賀県長浜市木之本町古橋しがけん ながはまし きのもとちょう ふるはし)まで逃げのびて、古橋ふるはしの里の近くの山のなかにある「オトチの岩窟」に隠れ住んでいた、という伝承があります。)

当時彼〔石田三成いしだみつなり〕が隠れたるは三頭山の巌窟なりと云い、又古橋村の与次郎太夫に頼りしとも云う。その熟れが真なるを知らず。俚伝は三頭山の中腹なる巌窟間口十二尺、奥行二十尺に余れるものがそれに該当すれども、それを確認するに足るべき史料のなきは、われ人ともに遺憾とする所なり。

(富田八右衛門 [編集] 「第六節 石田三成の民政」, 『近江伊香郡志 上巻』) [103]

下記の引用文は、『長浜市史 第2巻 : 秀吉の登場』という本のなかの、太田浩司さんと宮本知恵子さんが執筆を担当された「第四章 天下統一とその後」のなかの、「第二節 湖北の武将たち」のなかの「石田三成」のなかの「関ヶ原の合戦」という項目の記述です。その記述のなかに、「関ヶ原の戦いの経緯と、その戦いに敗戦した石田三成いしだみつなりの動向と、その最期」についての記述があります。その記述のなかに、「石田三成いしだみつなりが隠れひそんでいた洞穴(オトチの岩窟)」についての記述があります。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

関ヶ原の合戦

〔中略〕

 秀吉の死後、五大老であった徳川家康の行動に対して不安をいだいていた三成は、家康以外の五大老四人に秀頼への忠誠を誓う誓紙せいしを出させるなどの方策をとっていたが、家康との政情の均衡は崩れ、慶長四年(一五九九)三成は佐和山へ引退する事態となった。三成は同五年七月佐和山城へ越前敦賀つるがの城主大谷吉継よしつぐを迎えて家康攻略の計画に協力を求めた。そして家康が上杉景勝かげかつを攻めるため会津あいづ(福島県)へ向かったのを機に兵を挙げ、伏見ふしみ城(京都市)・田辺城(宮津市)の攻撃を始める。さらに八月には佐和山城に父正継・兄正澄まさずみをおいて美濃みの国(岐阜県)大垣おおがき城を攻め落とした。一方、家康も岐阜城を陥落かんらくさせ、九月十五日の関ヶ原の合戦へと戦いは進んでいった。この戦いは家康を中心とする福島正則・松平忠吉・井伊直政ら東軍と三成を中心とする島津義弘・宇喜多秀家・小西行長ゆきなが・大谷吉継の西軍の間で松尾まつお山・南宮なんぐう山などの山に三方を囲まれた関ヶ原において行われた。慶長五年(一六〇〇)九月十五日早朝に戦いの火ぶたがきっておとされ、最初は西軍が善戦していたが、松尾山に陣していた西軍の小早川秀秋の裏切りなどもあって東軍の勝利に終わり、三成の父正継や兄正澄の守る佐和山城も陥落した。
 三成は戦場から逃げのびて伊吹いぶき山中に隠れた。家康配下であった田中吉政よしまさの手によって捕らえられるまでの経緯については『常山紀談』・『慶長見聞書』・『関ヶ原軍記大成』などに記されている。三成は浅井郡草野谷を経て伊香郡古橋ふるはし村(木之本町)山中の洞穴〔オトチの岩窟〕に身をひそませていたところを田中吉政に捕らえられたといい、古橋には三成が隠れたと伝える洞穴〔オトチの岩窟〕が残っている。吉政はくち村(高月町)にしばらく三成の身柄をとどめた後、大津の家康の陣へとともなった。西軍首謀者としては三成以外に小西行長・安国寺恵瓊あんこくじえけいが捕えられ、長束正家は水口みなくち城(水口町)を出て日野中之郷(日野町)で自殺した。
 三成・行長・恵瓊の三人は慶長五年十月一日に京都の六条河原で処刑され、その首は三条の橋のたもとでさらされた。三成四一歳のことである。この三成の遺骸については京都大徳寺の三玄院境内に葬られた。
 三成は、京都の大徳寺の円鑑国師のもとに参禅し、天正十四年(一五八六)には、浅野長政らと同寺に三玄院を建立し、慶長四年(一五九九)母のために佐和山に瑞岳寺を、父のために妙心寺に寿聖寺を建立し、高野山に一切経と経蔵を寄進したりしている。茶の湯や『源平盛衰記』などの書籍での勉学もするなど、教養人としての資質も有していた。

(太田浩司 & 宮本知恵子「関ヶ原の合戦」, 「石田三成」, 「第二節 湖北の武将たち」, 「第四章 天下統一とその後」, 『長浜市史 第2巻 : 秀吉の登場』) [104] [53]

オトチの岩窟(大蛇の岩窟)のおおよその緯度経度は、 35.53144,136.266381 です。


オトチの岩窟(大蛇の岩窟)の周辺地図
滋賀県長浜市木之本町古橋しがけん ながはまし きのもとちょう ふるはし

 

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千の顔をもつ弥三郎

千の顔をもつ弥三郎
《千の顔をもつ弥三郎》 [1] [105]

 

この島へは、常に真実を告げ誤ることなき海の翁が終始やって来る。プロテウスというアイギュプトスの神で、ポセイダオンに仕え、海のいかなる深淵も彼の知らざるはない。〔中略〕陽が中天に懸かる頃になると、常に真実を語る海の翁は、西風の息吹きとともに、黒ずんだ小波さざなみに身をひそめて海中から浮かび上がり、水から出ると、うつろな岩屋で昼寝する。〔中略〕翁はきっと、さまざまに身を変えて逃れようとするであろう――地上に棲むあらゆる種類の生き物から、水にも燃えさかる火にも変身するであろう。

―― ホメロス『オデュッセイア』第四歌 [106]

 神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない。今後も、そのような体系が確立されることはないだろう。神話というのは、プロテウス神(海に住む真実を語る老人)に似ている。この神は、「あらゆる姿をとろうとする。地を這い回るものにもなり、水にもなり、燃えさかる火にもなる。ありとあらゆる姿になる」
〔中略〕
神話についてはさまざまな判断が下される。というのも、神話とは何かという観点ではなく、どう機能するか、過去にどのように役立ってきたか、現在どのように役立つかという観点から考えた場合、神話は、生命そのものがそうであるように、個人、集団、時代、精神、要求に合わせて、その姿を現すからである。

―― ジョーゼフ・キャンベル「姿を変えるもの」, 「エピローグ 神話と社会」,『千の顔をもつ英雄 下』 [107]

 

この物語を伊吹童子の側から見るとどのような様相を呈するであろうか。先に見てきたように、『伊吹童子』ではその出生譚に英雄誕生譚のモチーフが用いられているし、しかも物語叙述の視点は伊吹童子の側に在るのである。物語作者の意図はともあれ、物語叙述の結果においては、読者は伊吹童子に「退治されるべき怪物」以上の存在感を覚えざるを得ないのである。伊吹童子の運命に、調伏され従属させられた地主神の悲哀を感じさせるという意味では、本作は両義的である。文学の長所のひとつが、多義的な世界の相を示すことにあるなら、結果的には本作の叙述姿勢は文学的にも首肯さるべきものと言えよう。

―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 [108]

 

 中世の文学の底流に、現在のわれわれが、およそ思いも及ばぬ次元の中世的教養が基盤として在ったことを雄弁に証言するのは、あらゆるジャンルで試みられた秘伝、注釈の類であると言えば、言い過ぎになるであろうか。
〔中略〕
中世において、それらにみられる諸説こそが知識であり、学問であったとすれば、そのような世界を母胎として醱酵し、醸成されたその時代の文芸一般について、現在の学的レベルの物指しをあてて計量することの不当さを思わねばならぬであろう。つまり中世にはその時代の教養の質があり、それを支える中世の思想――あざやかに澄み切った理論としてのそれではなく、それゆえにまたひろくよどみわたったものの考え方があった。それは、もはや今のわれわれにとっては捨て去った塵芥にも等しいものであろう。しかし、その塵芥を堆肥として咲き出た花の美しさは賞でるのである。何故その花が咲いたのか、その美しさのゆえんは、それを咲かしめた土壌の質を問題にせざるを得ないであろう。

―― 伊藤正義「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」 [109]

 

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの分類を試みた先人の方々

 

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鬼としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう鬼伊吹おにいぶき

下記の引用文は、『鬼の地名辞典 : 鬼のルーツを地名から探る』という本に記されている、「伊吹山いぶきやまの鬼」についての伝承です。下記の文中では、明確に「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう」であるとされているわけではありませんが、「伊吹山いぶきやまの鬼」という共通点がある伝承ですので、ここで紹介させていただきたいとおもいます。

伊吹イブキ山(坂田郡伊吹町)
 
・源頼光ら四天王が伊吹山に住む鬼神,伊吹童子ら眷属を退治した「伊吹山絵詞」が残る.
 
・その昔,伊吹山の麓に鬼が現われ,旅人を殺したり,金品をかすめ取るという噂があった.それを聞いた役小角が,世の人々の危難を救おうとやって来た.役小角が霊力をもってみると,見すぼらしい一軒の茅屋がある.その中には貴婦人が住んで居られた.その人は大海人親王の妃で,戦乱を避け,樵人谷蔵のもとに身を寄せているのであった.世に恐れられている鬼こそ,この谷蔵の変身であることを見破った小角は,訳をきくと生活が豊かでなく,その上妃の日々の食事に事欠くので悪事をしたと告白したのであった.小角は懇に谷蔵を戒め,許してやったが5人を殺したので5鬼という名をつけ,弟子にした.それで住んでいた谷,伊香郡高時村(現在は高月町)石部,を五鬼ヶ谷と呼ぶようになったということである.

(荒木伊佐男 (他) 『鬼の地名辞典 : 鬼のルーツを地名から探る』) [110]

 

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水神すいじん(龍神)としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

民間の説話の中では、雷神制圧伝説が、伊吹町の高番や上野に伝わっている。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [111]

 

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深有上人じんゆうしょうにんが、『三国伝記』の伊吹弥三郎いぶきやさぶろう伝説をつくったのか?

  

神々の征服者は同時に崇拝者でもあった。

―― 武藤武美 [112]

キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。……以前の自然崇拝になれた民衆は、キリスト教への改宗ののちにも、ある特定の場所に対しては時代おくれの畏敬の念を保っていたのだが、このような共感を、ひとは新しい信仰のために利用しようと試みたり、悪い敵の推進力であるとして誹謗しようと試みたりした。異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。

―― ハインリッヒ・ハイネ『精霊物語』 [113]

「仏法が圧力でほかの神々を排除しようとするからです
 この国には古くから多くの守護神がおりました
 その神々は 仏教の圧力におびえているのです……
 つまり彼らにとって仏教は侵略者です」

―― 犬上の言葉, 『火の鳥 太陽編』 [114]

高僧の行脚ということは、すなわち年々秋冬のある日を定めて、神が祭りをけに里に下られたことをいうのであります。仏教の地方伝道には、こうして在来の信仰を乗っ取ろうとした計画が、始終あったらしい

―― 柳田国男「太子講の根源」, 『女性と民間伝承』 [115]

他方、「権力の介入」もまた、赤裸々に明らかとなってきた。すなわち、筑紫を原点とする九州王朝の歴史を大はばに「盗用」していたこと、それが立証されてきたのである。それは神話段階だけではない。九州王朝の発展史や朝鮮半島側との交渉史、その各段階にわたって他王朝の歴史を切り取ってあたかも自己の歴史であるかのごとくに、見せかけていた。――それが明白となったのである。
 またこれらの点において一見“純粋”に見えた『古事記』も、神話段階においては“大きな盗用”を犯していたことが明らかとなってきた。しかもこの場合、『日本書紀』とは異なり、挿入した原史書(「出雲古事記」)の題名すらカットされていたのである。
 このように『記・紀』は、一に未証説話の「史実との対応」という性格、二に権力の介入による「改変」という性格、この二性格を、ともにあわせもっていることが判明してきたのである。

―― 古田武彦『盗まれた神話 : 記・紀の秘密』 [116]

 

真言宗醍醐派しんごんしゅう だいごは
深有上人じんゆうしょうにん深宥上人じんゆうしょうにん

もう一つの柳田国男の発言に注目してみたい。それは悪霊になって祟る人間は必ずしも悪行をなしたとは限らないということである。伊吹弥三郎は実際は悪行をなさなかったのではあるまいか。つまり、荘園領主に対する悪党としての狼藉は、そのまま民衆への収奪であったとは断定することはできないと思われるからである。だから『三国伝記』の伝説の中で、民間の人々が生活に「窮渇」したと表現したのは、荘園領主の側が感じたことを、民間の人々になぞらえて表現したのかもしれない。菅原道真を祭った神社が各地に天満宮として祭られている。それは彼への怨霊鎮魂ということであろうが、これも支配者側の恐怖を民間の中に降していった例である。同様のことが、伊吹弥三郎の場合についていえるのではないか。
 これを民間信仰へ結びつける役割を果したのが、宗教家としての深有ではないか。つまり領主の側のイデオロギーを民衆の中におろしていき、民衆の中における悪党像をつくり出し、民衆の支持を得る。更に、その怨霊を民衆の生活の中に役立てるという、屈曲した発想をもって弥三郎を形成させていけたのは、神仏の世界にかかわる者であったからなのではあるまいか。私はそれを深有に見立てたいと思うのである。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [117]

 

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伊吹大明神いぶきだいみょうじんたるヤマタノオロチと伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 

天津御神あまつみかみの御座所 雨のいずみが りと聞き
それを便たよりに いざまい
筒井筒つついづつ 井筒いづつの水も てて
氏子うじこいのちも 草のつゆ
八雲立やくもたつ 出雲八重垣やくもやえがき 今此所いまここ
うつしてまつる 神社かみやしろ
ことわりや 日本ひのもとなれば 照りもしよう
さりとて云は また雨が下あめがした
さざなみや 千尋ちひろの海も かずあれば
神のめぐみも よも尽きぬ

―― 「大清水おおしみず雨乞歌あまごいうた : 振歌」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [118]

 

天照あまてらす 光のもとに 有難ありがたや 天が下あめがしたとて 雨が降る
八百万やよろづ 集り給へ 四方よもの神 ここ高またかまの 内なれや
有難ありがたや 神々様の 御恵おめぐみの 雨をもろたて 御礼踊り
神風かみかぜや 音も静かに そようらん 御代みよのそよきも 松の琴
の山の 金銀ぼけや 草花くさばなの 世にもめづらしめずらし いろ
面白おもしろや 花咲く野辺のべに 鳴くをも 鈴虫すずむし松虫まつむし くつはむしくつわむし
れて 照らす月日つきひの あきらけき 君をぞあおぐ 弥高山やたかやま

―― 「弥高やたか雨乞唄あまごいうた : 帰り唄」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [119]

 

天照あまてらす 神の恵みも たゆみなく 日の本ひのもとならば 天が下あめがした
住める世の 神のいさみも 白湯しらゆうの 高まが原たかまがはらも ほかならん
国富くにとみる よろずの神も やすらかに 自世じせつを守る 五穀ごこくあり
の頃は 日でり続きし 草も木も 宇洩うろめぐみの 雨をまつ
いや高き 御山み池 水際は 雨をさづけて やくまたず
夕立ゆうだちや 雲のころもを 重ねつつ 空にすずしき 風の音
天と地や わがほに育つ 五穀ごこくにて 天のめぐみの 雨をまつ

―― 「弥高やたか雨乞唄あまごいうた」(伊吹町いぶきちょう雨乞踊歌あまごいおどりうた) [120]

 

それが荒唐無稽であるがゆえに、あるいは、現在の学問のレベルに無縁であるがゆえに、まともにとり上げられることのなかったその意味での中世の思想と文化の一端に、この中世の日本紀の物語がある。そして、日本書紀原典から大きくはずれた中世日本紀が、ひとつには、中世の思想と文芸の各分野にひろく泌みわたって、いわば通説化して行き、常識化している実情を知っておかなければならないこと、そして、いまひとつには、このような諸説は、たしかに中世という時代の一性格をあらわすものではあろうけれども、暗く秘められた時代のひだから突如湧き出したものではなく、多くは、その原型乃至萌芽がすでに前時代にあるのだということ、またそれゆえに、それからの展開乃至歪曲の過程での諸相と、それをふまえて創り出されて行ったその時代の文芸一般のすがたの中にこそ、中世の本質を探る鍵もあろうか〔後略〕

―― 伊藤正義「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」 [121]

 

下記の引用文は、丸山顕徳さんの論文「伊吹弥三郎伝説の形成」に記されている記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

この論考の始めに、民話の例として、弥三郎スサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊弥三郎伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [46] [53]

 

下記の引用文は、『志賀町史 第1巻』という本のなかの、丸山竜平さんと小熊秀明さんが執筆を担当された章のなかの、「比良山麓の製鉄遺跡」という項目のなかの、「製鉄集団の系譜」という項目の記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

 このことから、〔兵庫県の〕千種川〔ちくさがわ〕上流域での初期製鉄操業時には和邇氏〔わにうじ〕同族の関与があり、鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造された鉧もまた大和・河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。出雲の製鉄でもその工人は千種〔ちくさ〕から移りすんだものとの伝承がある。また、出雲の伝承で著名なヤマタノオロチ八俣の大蛇やまたのおろち〕の尾から出たムラクモノツルギ天叢雲剣あまのむらくものつるぎ〕は、後、クサナギノツルギ〔草薙剣くさなぎのつるぎ〕となってヤマトタケル倭建命やまとたけるのみこと(『古事記』)、日本武尊やまとたけるのみこと(『日本書紀』)〕が所持するが、伊吹山のアラブる神伊吹神いぶきのかみ伊吹明神いぶきみょうじん伊吹大明神いぶきだいみょうじん〕を撃つときに、ミヤズヒメ〔美夜受比売みやずひめ(『古事記』)、宮簀媛みやずひめ(『日本書紀』)〕に預けたこの剣こそ、本来伊吹の神体であったといい伝えられている。伝承の世界ではあるが、このような背景には、近江の製鉄集団が千種〔ちくさ〕・出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在していたのであろうか。しかし、その真偽のほどは現在の段階では明確ではない。

( 丸山竜平 & 小熊秀明「製鉄集団の系譜」, 「比良山麓の製鉄遺跡」, 「第三節 鉄と須恵器の生産」, 「第二章 原始・古代の生活と文化」, 『志賀町史 第1巻』) [122] [53]

 

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剣の巻つるぎのまき

剣の巻つるぎのまき剣巻つるぎのまき

・ヤマタノオロチ(八岐の大蛇やまたのおろち八俣の大蛇やまたのおろち
・スサノオ(素盞嗚尊すさのおのみこと
天叢雲剣あまのむらくものつるぎ
・天照大神
伊吹山いぶきやま

 

源平盛衰記げんぺいじょうすいき』(げんぺいせいすいき)日巻第44
「神鏡神璽しんじ都入り、並びに三種の宝剣の事」

(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

〔前略〕大蛇が腹ばいになってやって来た。尾頭ともに八つあった。背中にはさまざまな木が生え、苔むしていた。眼は日月じつげつのごとくで、年々呑んだ人は、幾千万かわからない。大蛇の八つの尾、八つの頭は、八つの岡、八つの谷に広がっていた。大蛇がこの酒を見ると、八つの酒槽の中に八人の美人がいる。これを本当の人間と思い、頭を八つの槽に浸して人を呑もうと思って、その酒を飲み干した。大蛇は頭を垂れて酔い伏した。尊はいておられる十握剣とつかのつるぎを抜いて大蛇をずたずたにお斬りになった。そこで十握剣羽々斬はばきりと名づける。蛇の尾は斬れず、十握剣のやいばが少し欠けた。不思議に思って尾を斬り開いてみると、一つの剣がある。光ること磨いた鏡のようである。素盞嗚尊はこれを取り上げて、
「さだめてこれは神剣であろう。私の物にしてよいものではない」
 と、すぐに天照大神に差し上げた。大神は大いにお悦びになられて、
私が天の岩戸に閉じ籠った時、近江の国伊吹いぶきが嶽〔伊吹山いぶきやま〕に落とした剣である
 と仰せられた。
 その大蛇というのは、伊吹大明神の法体である。この剣が大蛇の尾にあった時は、常に黒雲がたなびいてあたりを覆ったので、天叢雲剣あまのむらくものつるぎと名づけたのであった。天照大神が孫に当たられ天津彦尊あまつひこのみこと(神話では天照大神の曽孫)を葦原の瑞穂みずほの国(日本)のあるじにしようと天降りさせ申した時、八咫鏡やたのかがみ叢雲剣むらくものつるぎ神璽しんじの三種の神器を授け申したが、その中の一つである。代々の帝のお宝であるので宝剣という。素盞嗚尊と申すは、今の出雲の国の杵築きつきの大社(出雲大社)である。

(「神鏡神璽しんじ都入り、並びに三種の宝剣の事」, 『源平盛衰記げんぺいじょうすいき』日巻第44) [123] [53]

 

延慶本『平家物語』巻十一(第六本)
「霊剣等事」

(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)

〔前略〕此山の奥に八岐羽々と云大蛇あり、年々に人を飲親を被飲者は子悲み子を被飲者は親悲、故に村南村北に哭する音不絶、我に八人の女ありき、年々に被飲て只此女一人残れり、今又被飲なんと云て始の如く又哭、尊哀と思食て此女を我に奉らは其難を休へしと宣けれは、老翁老嫗泣々悦て手を合て尊を奉礼て彼女を尊に奉りぬ、尊乍立彼の女湯津爪櫛ゆつのつまくしに取なして御髪にさし給て、奇稲姫の形を作給て、鐘の装束をきせて、大蛇の栖ける岡の上に八坂と云所に立て、八船に醍■〔「酉」偏に「頁」の漢字〕を湛へて其影を酒船に移て、八の口に当て侍給に、即大蛇来れり、尾頭共に八有、眼は日月の光の如して天を耀し背には霊草異木生滋て山岳を見に似り、八の頭八の尾八の岳八の谷に這渡り、酒の香をかき酒の船に移れる影をみて、女を飲と飲程に残り少くすいほして、醉臥たり、共時尊帯給へる取柄剣を抜給て、大蛇を寸々に切給、一の尾に至て不切、剣の刃少し折たり、相構て即其尾を割て見給へは尾の中に一の剣あり、是神剣也、尊是を取て我何か私に安せむとて天照大神に、献給、天照大神是を得給て、此剣は我高天原に有し時今の近江国伊吹山の上にて落たりし剣也、是天宮あめの宮御宝なりとて、豊葦原の中津国の主とて天孫を降奉給し時、此剣を御鏡に副て献り給けり、爾より以来、代々の帝の御守として大内に崇奉れたり、此剣大蛇の尾中に有ける時黒雲常に覆へり、故に天叢雲剣と名く、彼大蛇と申は今の伊吹大明神是也、湯津爪櫛と云事昔如何なる人にてか有けん、夜鬼に追れて遁去へき方無りけるに、懐より爪櫛と云物を取出して、鬼神に投懸たりけれは鬼神怖て失にけり、かゝる由緒有ける事なれはにや、素盞鳥尊〔素盞嗚尊〕も少女を湯津爪櫛に取なし給けるなるへし、尊其後同国素鵞里に宮造し給ける時其所には色の雲常に聳けれは尊御覧してかくそ詠し続ける、
   八雲立出雲八重垣つまこめて八重垣造る菀八重垣を
 此そ大和歌の卅一字の始なる、国を出雲と号するも其故とそ承る、彼尊と申は出雲国杵築大社是也、〔後略〕

(「霊剣等事」, 延慶本『平家物語』巻十一(第六本)) [124] [53]

 

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風神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 

おぼつかな 伊吹おろしの風先に
朝妻船は あひやしぬらん

―― 西行さいぎょう [125]

 

江源武鑑こうげんぶかん』巻第18のなかの、元和7年(1621年)11月21日の条文に、「弥三郎風やさぶろうかぜ」と呼ばれた強風についての記述があります。

十一月

廿一日大風近国ノ山木ナカハ吹倒フキタヲス弥三郎風ト云

〔元和7年(1621年)〕11月
 
21日 大風 近国の山木 なかば吹倒ふきたおす 弥三郎風やさぶろうかぜいう

(『江源武鑑こうげんぶかん』巻第18の元和7年(1621年)11月21日の条文) [126]

近江国一帯に吹く大風を、「弥三郎風」といったという伝承なども、怨霊が風となって吹くという信仰が背景にあったと解釈するほうがよいのではないか。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [127]

 

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善人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 

人間の作品においても、自然の作品においても、本来特に注目に値するのは、その意図である。

―― ゲーテ「格言と反省」 [128]

 

私たちが知っている紀元前五世紀のギリシアの姿が不完全なのは、多くの事実が偶然によって失われたというのが主たる理由ではなく、むしろ、全体として、それが、アテナイ市の住民の中の本当に小さなグループによって形作られた姿であるという理由によるものであります。紀元前五世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって〔中略〕どう見えていたかということになりますと、私たちは殆んど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。

―― エドワード・ハレット・カー「歴史的事実が生まれる過程」, 『歴史とは何か』 [129]

 

もう一つの柳田国男の発言に注目してみたい。それは悪霊になって祟る人間は必ずしも悪行をなしたとは限らないということである。伊吹弥三郎は実際は悪行をなさなかったのではあるまいか。つまり、荘園領主に対する悪党としての狼藉は、そのまま民衆への収奪であったとは断定することはできないと思われるからである。だから『三国伝記』の伝説の中で、民間の人々が生活に「窮渇」したと表現したのは、荘園領主の側が感じたことを、民間の人々になぞらえて表現したのかもしれない。菅原道真を祭った神社が各地に天満宮として祭られている。それは彼への怨霊鎮魂ということであろうが、これも支配者側の恐怖を民間の中に降していった例である。同様のことが、伊吹弥三郎の場合についていえるのではないか。
 これを民間信仰へ結びつける役割を果したのが、宗教家としての深有ではないか。つまり領主の側のイデオロギーを民衆の中におろしていき、民衆の中における悪党像をつくり出し、民衆の支持を得る。更に、その怨霊を民衆の生活の中に役立てるという、屈曲した発想をもって弥三郎を形成させていけたのは、神仏の世界にかかわる者であったからなのではあるまいか。私はそれを深有に見立てたいと思うのである。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [117]

つまり『三国伝記』は、弥三郎がいかに体制推持側に対しての悪であるか、反秩序の権化的存在であるかを強調している。
〔中略〕
書承伝承は『三国伝記』以来の反秩序がいかに悪であるかを軸にして、お伽草子『伊吹童子』における反社会行為として成長する肉食を加えることで、仮名草子の伊吹弥三郎として完成する。そこには、体制を支える者の意識は強力に働いているが、常人(住民) の意識や弥三郎に対する評価は、期待できないように思われる。
〔中略〕
支配者におけるコントロール(支配そのもの) は自然に近い大力や無縛の精神の存在を怖れる。なぜなら恣意での行動は、支配のよって立つ秩序(いかなる形態においても支配者を最上部とする秩序) の否定・破壊に直結するからである。従って、体制に服さないものとして、一般の人々から孤立させて根絶する必要があるのは、いつの時代、どんな社会でも潜在的に含まれている支配者側の論理である。

(杦浦勝「伊吹弥三郎伝説について:伝承成立の分析」) [130]

さらに注目したいこととして、数少ない弥三郎伝承のなかに、伊吹弥三郎が寺の庭掃除をしたというのがあった。ここでは弥三郎は真面目な信仰者であった。伊吹山麓全域の調査が完了しない段階では確定はできないが、伊吹弥三郎が、もとから盗賊であったという確証は、これによっても疑いがもたれるのである。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [131]

 

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巨人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 

おそらく猿の物真似が滑稽な感をもって迎えられるようになったには、猿の信仰を奉ずる者たちの落魄があったのであろう。たとえばサルタヒコがひらぶ貝にはさまれて水におぼれて死んだという『古事記』の神話にしてからが、すでに滑稽感をまぬがれないものであった。
昔話の猿聟によって、猿が水の神であったらしいといったが、その結末もまた、サルタヒコ同様水におぼれて死んでいる。そのことはすでにのべた(「祖父」)。かように下級の神が零落したのは、神自身を演じるものの零落ときりはなしがたい。ヤマサチヒコに誓いをたてて降伏したウミサチヒコが、水におぼれる敗北の状を演じて、自らの誓いを確認したように、征服者に笑いを提供するのが、一種の社会的効用となったのだ。厳粛たるべき神の出現が、滑稽感をさそうものに変化したのは、猿が滑稽であったからではなく、猿を演じて笑われるべき必要があったからにほかならない。
〔中略〕
私の意図していたのは、〔中略〕宗教的な起源をもちながら、零落した神々がその苦痛にみちた生活史によって人間性を徐々に拡大してきた変貌過程のほうをこそ提示したかったのである。

―― 戸井田道三『狂言 : 落魄した神々の変貌』 [132]

 

 そこで最初にとり上げた、なぜ巨人伝説が発生したかについて考えてみたい。先にも少し触れたように、巨人伝説は垂井町まではダイダラボッチの伝承であったのが、伊吹町で伊吹弥三郎に変わったのである。要するにこの地域で、伊弥三郎を巨人と見る何かが働いた。その要因を考えればよいのである。
 私は、この要因は、伊吹弥三郎の祟り神としての性格、つまり蛇神(水神)としての性格と結びついたからだと考える。この論考の始めに、民話の例として、弥三郎とスサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治、伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇、伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊弥三郎を伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。
 伊吹弥三郎が伊吹山の神と結びつき、水神として、守護神となると、彼のイメージは伊吹山の巨大なイメージと重ね合わさって巨人化への道をたどることになるではあるまいか。そのとき、ダイダラボッチの巨人伝説は伊吹弥三郎にかわることになる。伊吹弥三郎巨人伝説が文献に登場せず民衆の間に伝わったのは、伊吹山を神として抑ぎ、その福利を受けた山麓の人々の伝承であったからであると思うのである。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [46]

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩と、玉姫物語(石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社

伊吹弥三郎の岩屋 ver. 7be07560d575
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや[133] [1]

岩ヶ町の大岩

 阪田郡清滝〔旧・坂田郡清滝、現在の滋賀県米原市清滝しがけん まいばらし きよたき〕の豪族に生れた、柏原弥三郎は、母親が炊事の時、誤って指を切り落し、さいの中に混じっていたのを食べ、以後性格が強暴になったと伝えられています。
 地頭じとうであったが横暴な振舞ふるまいが多いので、追われて伊吹山へ隠れ、山賊になりました。山を下り金銀財宝を盗み、婦女を連れ去ったといわれて人々から恐れられていました。
 ある時、弥三郎は山を越えて、玉作たまつくりを業となす石作いしつくりしょう(木ノ本町千田)に行き、草屋根の下で無心に勾玉まがたまみがいている一人の美しい娘を見つけました。娘を自分の嫁にしょうと「娘御むすめごを私に下され」と頼みましたところ、「うじおさに相談して」とのことで、返事を待つことにしましたが、二日たっても三日たっても返事がこないので、ごうを煮やした弥三郎はもう我慢が出来ず、怒り、狂い、大暴れに暴れ、伊吹山から岩石をもぎとっては、石作の庄めがけて投げつけました。(千田の石作神社の境内に弥三郎の手の跡のついた大きい岩が保存されています)
 千田にはその岩がとんできたところを岩田という名で語り継がれています。
 伊吹山から投げられた岩が、それて唐川の田圃の中に落されました。唐川では岩ヶ町という名で現存しています。(一本杉の東方百メートルほどの田圃の中)
 その岩石にさわると腹が痛くなるとか、怪我をするとか、死ぬとかいわれて、里人からおそれられています。
 伊吹山の弥三郎執念しゅうねんのかたまりでありましょう。

(高月町教育委員会『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [134]

滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだにある、石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内には、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩」とされている岩があります。

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩と、
この岩の由緒について書かれている「玉姫物語」の石碑
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩の由緒について書かれている「玉姫物語」の石碑
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩の由緒について書かれている「玉姫物語」の石碑
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩の由緒について書かれている「玉姫物語」の石碑
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

この上の「玉姫物語」の石碑の左側に刻まれている文字は、下記のとおりです。

 この左側の大きな岩が、伊吹山から伊吹の三郎によって、投げつけられたものと言伝えられております。

 

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが投げた岩
石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の境内)
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の鳥居
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の「由緒」の石碑
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

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石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の「由緒」の石碑
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ


石作神社いしつくり神社玉作神社たまつくり神社の周辺地図
滋賀県長浜市木之本町千田しがけん ながはまし きのもとちょう せんだ

 

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天狗としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

佐々木氏の家臣が久しく捜索に困難せしに依りて、天狗的の怪物とまでの翼を附けられ、山中の岩石多き處を其の住居阯の岩窟と言ひ、百間廊下と言ひ、終には窪地を其の足跡とさへ言ふに至りては、怪談も亦、極まりて滑稽に陥れるなり。

(「第七編 第八章 柏原弥三郎の討伐」, 『近江国坂田郡志 2巻 改訂』) [135]

 

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怨霊、祟り神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 伊吹弥三郎も死後、怨霊となって祟ったことが示されている。
〔中略〕
 伊吹弥三郎が祟り神として、これらと結合するのは土地柄としても極めて容易であったと思われる。

(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [136]

 

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盗賊としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう

 

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おわりに

 ここまで、伊吹弥三郎いぶきやさぶろうが「生きた場所」と「死んだ場所」として、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と、「井明神社いのみょうじんしゃ」を紹介してきました。もし、興味があれば、あなたもぜひ、これらの鬼スポットに足をはこんでみていただければとおもいます。

 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやや、戸谷の天岩屋などについては、伊吹山文化資料館の髙橋順之さんにくわしく教えていただきました。髙橋さんに教えていただかなければ、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわやにたどり着くことすらできませんでした。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。

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引用文献・参考文献

・浅井了意 [著], 浅井了意全集刊行会 [編], (2011) 『浅井了意全集 仮名草子編 2』, 岩田書院.
・池辺義象 [編] (1915) 『国文叢書 : 校註 第15冊』, 博文館.
・揖斐郡教育会 [編] (1992) 『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』, 揖斐郡教育会.
・伊吹町史編さん委員会 [編] (1992) 『伊吹町史 自然編』, 伊吹町.
・伊吹町史編さん委員会 [編] (1994) 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町.
・伊吹山麓口承文芸学術調査団 [編] (1983) 『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 ; 1)』, 和泉書院.
・大久保甚一 (1981) 『念仏行者播隆上人』, 岐阜県揖斐郡播隆上人讃徳会.
・玄棟 [撰], 池上洵一 [校注], (1976) 『三国伝記 上 (中世の文学)』, 三弥井書店.
・佐竹昭広 (1992) 『酒呑童子異聞 (同時代ライブラリー ; 102)』, 岩波書店.
・佐野静代 (1997) 「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」, 『紀要』第10号, 滋賀県文化財保護協会.
・寒川辰清 [著], 小島捨市 [校註], (1915) 『校定頭註 近江輿地志略 全』, 西濃印刷株式会社出版部.
・山東町史編さん委員会 [編] (1991) 『山東町史 本編』, 山東町.
・滋賀県神社庁伊香郡支部 [編] (1981) 『伊香郡神社史』, 滋賀県神社庁伊香郡支部.
・「事業誌」編集委員会 [編], 株式会社日本水工コンサルタント 名古屋事務所 [編], (1987) 『湖北農業水利事業誌』, 近畿農政局湖北農業水利事業所.
・杦浦勝 (1984) 「伊吹弥三郎伝説について:伝承成立の分析」, 日本口承文芸学会 [編], 『口承文芸研究』第7号.
・高月町史編纂委員会 [編] (1998) 『滋賀県伊香郡高月町 村落景観情報 : 町内各区・村落景観情報 全』, 高月町教育委員会.
・髙橋順之(高橋順之) (2008) 「伊吹山の洞窟探訪」, 『米原市文化財ニュース 佐加太』第27号, 滋賀県米原市教育委員会.
・髙橋順之(高橋順之) (2022) 『伊吹山風土記 (淡海文庫)』, サンライズ出版.
・髙橋秀樹(高橋秀樹) [編] (2020) 『新訂 吾妻鏡 4 : 頼朝将軍記4 頼家将軍記 : 建久三年(1192)~建仁三年(1203)』, 和泉書院.
・髙橋昌明(高橋昌明) (2020) 『定本 酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化 (岩波現代文庫)』, 岩波書店.
・樋上亮一 (1935) 『湖国夜話 : 伝説と秘史』, 立命館出版部.
・藤原定家 [著] (1985) 『明月記 第1』, 国書刊行会.
・仏書刊行会 [編] (1912) 『大日本仏教全書 148』, 仏書刊行会.
・増淵勝一 [訳] (1979) 『北条九代記 上 (教育社新書 原本現代訳 1)』, 教育社.
・丸山顕徳 (1983) 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編], 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院.
・満田良順 (1978) 「伊吹山の修験道」, 五来重 [編], 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』, 名著出版.
・冷泉家時雨亭文庫 [編] (2012) 『冷泉家時雨亭叢書 別巻 2 : 冷泉家時雨亭叢書』, 朝日新聞社.
・「春日村山岳・谷概要図」, 春日村史編集委員会 [編], (1983), 『春日村史 下巻 付録』, 春日村.

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画像の出典

 本稿に掲載している写真は、基本的に、筆者(倉田幸暢)が撮影した写真です。ほかの方が撮影された写真の場合は、注記にそのことを記しています。

 本稿に掲載している下記の一連の画像は、筆者(倉田幸暢)が Midjourney や DALL·E 3 や Photoshop (Adobe Firefly) をつかって作成した画像です。

・《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう: 姉川あねがわき、妹川いもうとがわぼっした、伊吹山いぶきやま水竜鬼すいりゅうき

・《播隆上人ばんりゅうしょうにん風穴かざあな御来迎ごらいごう(ブロッケン・グローリー)》

・《千の顔をもつ弥三郎》

・《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. b8f0b7adeebf》

・《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. a472bf0db146》

・《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう ver. 55ad29836e99》

・《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. 7be07560d575》

・《寒梅幽月かんばいゆうげつ膽吹いぶき

・《伊吹山いぶきやまの「人倫じんりんすべてつうぜざる龍池」》

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地図の出典

 地図1、地図2、地図3、地図4は、国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像(ズームレベル18)を、加工・編集して使用しています。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html .

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動画で使用している素材

動画: 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の洞窟への道のり(ルート)と洞窟探検 in 伊吹山【鬼伊吹】

上の動画で使用させていただいている素材は、下記のとおりです。

▼3D地図の映像制作ツール:
Google Earth Studio
https://www.google.com/intl/ja/earth/studio/

▼動画で使用させていただいたBGM:

  • Title: Boys Adventure
    Artist: Nash Studio Inc.
    NSF-370-04 Boys Adventure の作品詳細 | Nash Music Library
    https://www.nash.jp/nml/search/detail/track/NSF-370-04
  • Title: 森の魔法陣
    Artist: 山本由貴子
    神秘的・民族的な女性コーラス曲 (No.1037292) 著作権フリーの歌詞付き・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
    https://audiostock.jp/audio/1037292
  • Title: New Expectations
    Artist: Scoring Heroes
    スポーツ大会の開幕・オーケストラ (No.935184) 著作権フリー音源・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
    https://audiostock.jp/audio/935184
  • Title: ボーカルチョップが癖になるブチアゲBGM
    Artist: Tsuyoshi Henna
    ボーカルチョップが癖になるブチアゲBGM (No.954226) 著作権フリー音源・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
    https://audiostock.jp/audio/954226

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鬼アートの記念NFTはこちら

ぼくはいま、酒呑童子という鬼の伝説を研究しています。具体的には、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばという絵巻物をおもに研究しています。

(その絵巻物は、鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子しゅてんどうじ説話をつたえる絵巻物です。)

この記事で紹介している、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや」と、「井明神社いのみょうじんしゃ」についての話も、鬼伝説の研究の一環として調査した研究成果のひとつです。

そうした研究活動の一環として、鬼アートのNFTをつくってみました。この鬼アートNFTを入手していただくことで、鬼の研究活動を支援していただくことができます。もし興味があれば、ご覧ください。

鬼アートの記念NFTは、こちら

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脚注


脚注
  1. 注記: この画像は、筆者(倉田幸暢)が作成したものです。(「画像の出典」の項目をご参照ください)。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  2. English title: "Ibuki Yasaburō: the Water God Dragon Oni of Mt. Ibuki-yama, Who Lived as the Ane-gawa River and Died in the Imōto-gawa River". [Back ↩]
  3. English title: "The Cave of Saint Banryū Shōnin and the Glory of Amitābha as Brockengespenst on Mt. Ibuki-yama". [Back ↩]
  4. 参考文献: 中川泉三 [編集] (1913年) 「太平寺趾」, 「古跡名勝」, 『伊吹山名勝記』, 文盛堂, 37~38ページ. [Back ↩]
  5. 参考文献: 中川泉三 [編集] (1919年) 「太平寺趾」, 「古跡名勝」, 『伊吹山案内』, 文盛堂書店, 60ページ. [Back ↩]
  6. 参考文献: 坂田郡教育会 [著者] (1975年) 「伊吹弥三郎」, 「狂歌」, 「第三章 和歌」, 『近江国坂田郡志 3巻下 改訂』, 日本資料刊行会, 646ページ. [Back ↩]
  7. 参考文献: 「高番雨乞唄」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 737~738ページ. [Back ↩]
  8. 注記: 原文に対して、引用者(倉田幸暢)が、適宜、振り仮名を追加しました。 [Back ↩]
  9. 出典: 水田有夏志 (2010年) 「近江の滝の特徴」, 「近江の滝序説」, 『近江の滝 (別冊淡海文庫 ; 18)』, サンライズ出版, 30~31ページ. [Back ↩]
  10. 注記: 《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. b8f0b7adeebf》 [Back ↩]
  11. 参考文献: 佐竹昭広 (1992年) 〔文末脚注 3 : 仮名草子『日本二十四孝』第十四「山口秋道事」の項目に挿入されている伊吹弥三郎いぶきやさぶろうの伝説の文章〕, 「弥三郎風 : 伊吹童子と酒呑童子(一)」, 『酒呑童子異聞 (同時代ライブラリー ; 102)』, 岩波書店, 16~18ページ. [Back ↩]
  12. 出典: 満田良順 (1978年) 「伊吹山の修験道」, 五来重 [編集], 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』, 33~35ページ. [Back ↩]
  13. 参考文献: 〔冷泉為相れいぜいためすけの和歌〕, 坂田郡教育会 [著者] (1975年) 「第三章 和歌」, 「第十二編 詞藻志」, 『近江国坂田郡志 3巻下 改訂』, 日本資料刊行会, 623ページ. [Back ↩]
  14. 参考文献: 〔飛鳥井雅世あすかいまさよの和歌〕, 坂田郡教育会 [著者] (1975年) 「第三章 和歌」, 「第十二編 詞藻志」, 『近江国坂田郡志 3巻下 改訂』, 日本資料刊行会, 623ページ. [Back ↩]
  15. 出典: 坂本太郎 [他] [校注] (1994年) 〔景行天皇四十年七月の条文〕, 「大足彦忍代別天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみこと 景行天皇けいかうてんわう」, 「日本書紀 巻第七」, 『日本書紀 2 (岩波文庫)』, 岩波書店, 90-92ページ. [Back ↩]
  16. 参考文献: 井上光貞 [監訳], 川副武胤 [翻訳], 佐伯有清 [翻訳] (2003年) 「大足彦忍代別天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみこと 景行けいこう天皇」, 「日本書紀巻第七」, 『日本書紀 1 (中公クラシックス)』, 中央公論新社, 248-249ページ. [Back ↩]
  17. 注記: 「付けたりつけたり」(附けたりつけたり)という言葉は、「本題に付随する別の事項を加える」という意味の言葉です。たとえば、「A 付けたり B」というのは、「A(本題)のあとに、B(補足や、参考、付録)を付け加えています」というような意味です。 [Back ↩]
  18. 出典: 〔作者不詳〕, 増淵勝一 [翻訳], (1979年), 「(22) 柏原弥三郎逐電 付けたり 田文の評定」, 北条九代記ほうじょうくだいき』巻第二, 『北条九代記 上 (教育社新書 原本現代訳 1)』, 教育社, 164~165ページ. [Back ↩]
  19. 参考文献: 髙橋秀樹(高橋秀樹) [編集] (2020年) 〔正治2年(1200年)11月1日の条文〕, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五, 『新訂 吾妻鏡 4 : 頼朝将軍記4 頼家将軍記 : 建久三年(1192)~建仁三年(1203)』, 和泉書院, 230ページ. [Back ↩]
  20. 参考文献: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 291ページ. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  21. 参考文献: 髙橋秀樹(高橋秀樹) [編集] (2020年) 〔正治2年(1200年)11月4日の条文〕, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五, 『新訂 吾妻鏡 4 : 頼朝将軍記4 頼家将軍記 : 建久三年(1192)~建仁三年(1203)』, 和泉書院, 230ページ. [Back ↩]
  22. 参考文献: 髙橋秀樹(高橋秀樹) [編集] (2020年) 〔正治2年(1200年)12月27日の条文〕, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十五, 『新訂 吾妻鏡 4 : 頼朝将軍記4 頼家将軍記 : 建久三年(1192)~建仁三年(1203)』, 和泉書院, 232ページ. [Back ↩]
  23. 参考文献: 髙橋秀樹(高橋秀樹) [編集] (2020年) 〔1201年(建仁元年)5月17日の条文〕, 『吾妻鏡あずまかがみ』第十六, 『新訂 吾妻鏡 4 : 頼朝将軍記4 頼家将軍記 : 建久三年(1192)~建仁三年(1203)』, 和泉書院, 252ページ. [Back ↩]
  24. 参考文献: 藤原定家 [著者], 〔正治2年(1200年)11月26日の条文〕, 『明月記めいげつき』, 冷泉家時雨亭文庫 [編集], (2012年), 『冷泉家時雨亭叢書 別巻 2 : 冷泉家時雨亭叢書』, 朝日新聞社, 279ページ1段目. [Back ↩]
  25. 参考文献: 藤原定家 [著者], 〔正治2年(1200年)11月26日の条文〕, 『明月記めいげつき』, (1985年), 『明月記 第1』, 国書刊行会, 192ページ2段目. [Back ↩]
  26. 参考文献: 「上野雨乞歌」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 730ページ. [Back ↩]
  27. 注記: 《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. a472bf0db146》 [Back ↩]
  28. 出典: 髙橋順之(高橋順之) 「伊吹山の洞窟探訪」 (2008年2月) 『米原市文化財ニュース 佐加太』第27号 特集 伊吹山, 滋賀県米原市教育委員会. [Back ↩]
  29. 出典: 「伊吹弥三郎の洞穴」, 「1 伊吹山頂遺跡」, 「第2節 伊吹山の遺跡」, 「第2章 遺跡をたずねて」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 167ページ. [Back ↩]
  30. 出典: 伊吹町史編さん委員会 [編集] (1992年) 「(3) 自然景観・地質関係の保全」, 「5 伊吹山自然保護の提言」, 「第6章 伊吹山の自然保護」, 『伊吹町史 自然編』, 伊吹町, 209ページ. [Back ↩]
  31. 出典: ダンテ・アリギエーリ [著者], 平川祐弘 [翻訳], 「第三十三歌」, 『神曲 天国篇』第三十三歌, (2009年), 『神曲 天国篇 (河出文庫 ; タ2-3)』, 河出書房新社. [Back ↩]
  32. 出典: 新田次郎 (1977年) 「4」, 「終章」, 『槍ヶ岳開山 (文春文庫)』, 文芸春秋. [Back ↩]
  33. 出典: 大久保甚一 (1981年) 『念仏行者播隆上人』, 岐阜県揖斐郡播隆上人讃徳会, 35ページ, 62ページ. [Back ↩]
  34. 出典: 大久保甚一 (1981年) 『念仏行者播隆上人』, 岐阜県揖斐郡播隆上人讃徳会, 38-40ページ. [Back ↩]
  35. 出典: 新田次郎 (1977年) 「序章」, 『槍ヶ岳開山 (文春文庫)』, 文芸春秋. [Back ↩]
  36. 参考文献: 「返礼唄」, 「弥高雨乞唄」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 732-733ページ. [Back ↩]
  37. 注記: 《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう ver. 55ad29836e99》 [Back ↩]
  38. 参考文献: 「御礼踊り唄」, 「藤川・寺林雨乞歌」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 743ページ. [Back ↩]
  39. 参考文献: 髙橋順之(高橋順之) (2022年) 「伊吹山と作仏僧円空」, 「江戸時代の伊吹修験」, 「第5章 伊吹山の山寺」, 『伊吹山風土記 (淡海文庫)』, サンライズ出版, 103ページ. [Back ↩]
  40. 参考文献: 「春照雨乞唄」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 733ページ2段目~734ページ1段目. [Back ↩]
  41. 出典: 山東町史編さん委員会 [編集] (1991年) 「佐々木信綱と柏原弥三郎」, 「第二節 柏原荘と佐々木氏」, 「第一章 平安末・鎌倉時代の佐々木氏」, 「第二編 中世」, 『山東町史 本編』, 山東町, 219-220ページ. [Back ↩]
  42. 出典: 伊吹町教育委員会 [編集] (1980年) 「伊吹の弥三郎」, 『いろりばた : 伊吹町昔ばなし (ふるさと近江伝承文化叢書)』, 伊吹町教育委員会, 60~61ページ. [Back ↩]
  43. 出典: 伊吹町史編さん委員会 [編集] (1994年) 「弥三郎実在論」, 「四 伊吹弥三郎」, 「第2節 古代伝承」, 「第1章 伊吹の伝承」, 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 36ページ, 37ページ. [Back ↩]
  44. 出典: 髙橋順之(高橋順之) (2022年) 「出雲井由来と三度水」, 「伊吹山がみつめる姉川水利」, 「第7章 伊吹山をめぐる水」, 『伊吹山風土記 (淡海文庫)』, サンライズ出版, 139ページ. [Back ↩]
  45. 出典: 満田良順 「伊吹山の修験道」, 「四 伊吹山の山岳信仰」, 「伊吹山の修験道」, 五来重 [編集], (1978年), 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』, 名著出版, 37-38ページ. [Back ↩]
  46. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 302-303ページ. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  47. 出典: 伊吹山麓口承文芸学術調査団 [編集] (1983年) 『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 ; 1)』, 和泉書院, 86ページ. [Back ↩][Back ↩]
  48. 出典: 近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], (1993年), 「血に染まった古戦場」, 「3 姉川」, 『近江の川』, 東方出版, 42-44ページ. [Back ↩]
  49. 出典: 揖斐郡教育会 [編集] (1992年) 「第3章 揖斐郡の地名地図」 & 「第4章 揖斐郡の地名一覧表」, 『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』, 揖斐郡教育会, 160ページ, 387ページ. [Back ↩]
  50. 出典: 「春日村山岳・谷概要図」, 春日村史編集委員会 [編集], (1983年), 『春日村史 下巻 付録』, 春日村. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  51. 出典: 揖斐郡教育会 [編集] (1992年) 「第3章 揖斐郡の地名地図」 & 「第4章 揖斐郡の地名一覧表」, 『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』, 揖斐郡教育会, 160ページ, 386ページ. [Back ↩]
  52. 出典: 松浦俊和まつうら としかず (1988年) 「28 伊吹山いぶきやま」, 木村至宏きむら よしひろ [編集&著者], 石丸正運いしまる しょううん [著者], 安土優あづち まさる [著者], 松浦俊和まつうら としかず [著者], 高梨純次たかなし じゅんじ [著者], 長井泰彦ながい やすひこ [写真撮影], 草野弘 [写真撮影協力], 『近江の山』, 京都書院, 219-220ページ. [Back ↩]
  53. 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  54. 出典: 磯田秀雄「江州音頭と十一面観音」, 「事業誌」編集委員会 [編集], 株式会社日本水工コンサルタント 名古屋事務所 [編集], (1987年), 『湖北農業水利事業誌』, 近畿農政局湖北農業水利事業所, 370ページ. [Back ↩]
  55. 出典: 山東圭八さんとうけいや (2022年) 「執筆・発刊にあたって(あとがき)」, 戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』, サンライズ出版, 374ページ. [Back ↩]
  56. 出典: 伊吹町史編さん委員会 [編集] (1994年) 「弥三郎実在論」, 「四 伊吹弥三郎」, 「第2節 古代伝承」, 「第1章 伊吹の伝承」, 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 36ページ. [Back ↩]
  57. 注記: この「かつての餅の井堰付近の様子」の図のなかの「乙下井」という表記は、書き間違いです。ただしくは、「乙子井おとごゆ」です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  58. 参考: ちなみに、この「かつての餅の井堰付近の様子」の図のもととなった図表は、『湖北農業水利事業誌』という本の27ページに掲載されている、「図1.7 井明神井堰の配置図」と「表1.3 井明神井堰と関係部落」です。(書誌情報: 『湖北農業水利事業誌』、近畿農政局湖北農業水利事業所、1987年、27ページ)。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
  59. 参考文献: 玄棟 [撰], 池上洵一 [校注], (1976年) 『三国伝記 上 (中世の文学)』, 三弥井書店, 300-303ページ. [Back ↩][Back ↩]
  60. 参考文献: 佐竹昭広 (1992年) 『酒呑童子異聞 (同時代ライブラリー ; 102)』, 岩波書店, 8-9ページ. [Back ↩][Back ↩]
  61. 参考文献: 杦浦勝 (1984年) 「伊吹弥三郎伝説について:伝承成立の分析」, 日本口承文芸学会 [編], 『口承文芸研究』第7号, 31-32ページ. [Back ↩][Back ↩]
  62. 参考文献: 仏書刊行会 [編集] (1912年) 『大日本仏教全書 148』, 仏書刊行会, 142-144ページ. [Back ↩][Back ↩]
  63. 参考文献: 藤原公任 [撰述], 三木雅博 [翻訳&注釈], 「歌番号733 〔白居易はくきょいの詩〕」, 「交友かういう」, (2014年), 『和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』巻下, 『和漢朗詠集 : 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』, KADOKAWA. [Back ↩]
  64. 参考文献: 下定雅弘 [著者], 角川学芸出版 [編集], (2014年), 「14 雪月花せつげっかの時、君を思う」, 「第一部 白楽天の詩 少年時代から退官まで」, 『白楽天 : ビギナーズ・クラシックス中国の古典 (角川ソフィア文庫)』, KADOKAWA. [Back ↩]
  65. 出典: 髙橋昌明(高橋昌明) (2020) 「一、竜宮としての鬼が城」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『定本 酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化 (岩波現代文庫)』, 岩波書店, 132ページ. [Back ↩]
  66. 出典: 石田英一郎 (1977年) 「地下水」, 「第一章 馬と水神」, 「新版 河童駒引考」, 『石田英一郎全集 第5巻』, 筑摩書房, 32~33ページ. [Back ↩]
  67. 注記: 「けたり」(けたり)という言葉は、「本題に付随する別の事項を加える」という意味の言葉です。たとえば、「A 付けたり B」というのは、「A(本題)のあとに、B(補足や、参考、付録)を付け加えています」というような意味です。 [Back ↩]
  68. 出典: 髙橋昌明(高橋昌明) (2020年) 「一、竜宮としての鬼が城」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『定本 酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化 (岩波現代文庫)』, 岩波書店, 197-198ページ. [Back ↩]
  69. 図の引用元: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「むかしの高時川の用水路(略図)」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 80ページ. [Back ↩][Back ↩]
  70. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「(その一)伊吹弥三郎」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 61-65ページ. [Back ↩]
  71. 出典: 寒川辰清 [編集], 小島捨市 [校註], 宇野健一 [改訂・校註(新註)], (1976年), 「尾山村」, 「伊香郡第一」, 「巻之八十八」, 『新註 近江輿地志略 全』, 弘文堂書店, 1050ページ. [Back ↩]
  72. 出典: 佐野静代 (1997年3月) 「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」, 『紀要』第10号, 滋賀県文化財保護協会, 135ページ. [Back ↩][Back ↩]
  73. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「(その三)ひとばしら」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 68-73ページ. [Back ↩]
  74. 出典: 『嶋物語』(閲覧ページ), 『嶋物語』(簿冊情報ページ), 国立公文書館 デジタルアーカイブ, 37/92(37番目の画像)の右側のページの右から1行目. [Back ↩]
  75. 参考文献: 滋賀県教育委員会 [編集] (1990年) 〔115ページ〕, 「3. 嶋記録」, 「第2章 城郭関係史料目録(その7)」, 『滋賀県中世城郭分布調査 7 (伊香郡・東浅井郡の城)』, 滋賀県教育委員会, 115ページ. [Back ↩]
  76. 注記: 『嶋記録』(『島記録』)は、『嶋物語』(『島物語』)と呼ばれることもあります。 [Back ↩]
  77. 参考: 以下は、『滋賀県中世城郭分布調査 7 (伊香郡・東浅井郡の城)』に記されている、『嶋物語』(『島物語』)の概要についての説明です。

     『嶋記録』は、江北の戦国大名浅井氏と、江南の戦国大名六角氏にはさまれ、両者の争いの中で微妙な動きを強いられた一領主今井氏と、嶋氏を中心としたその「家臣」の動向を記した史料である。坂田郡天ノ川流域を本拠する今井、嶋氏の動きからは、戦国期の江北の情況を読み取ることができ、浅井氏研究における必読の書とも言える。城館についての記載がたいへん多く、本調査でも、遺構の文献的な裏付けの為に、たびたび利用されている。
     本書については、小和田哲男氏の詳細な研究がある。それによると、『嶋記録』には、三種の伝本があるという。その内二種は、坂田郡山東町本郷の百々保氏(現当主は、百々元昭氏)の所蔵にかかるもので、江戸時代の写本(A)と、同じく江戸時代の前者より新しい写本(B)である。もう一種は、内閣文庫所蔵の「嶋物語」で、内容はいずれも大きな相違はない。
     全体の成立は、三段階に分かれ、それぞれの部分の成立年代・筆者は、小和田氏によって次のように推定されている。
     (1)冒頭の嶋氏系譜の部分 元禄十年(一六九七)以降、筆者不明
     (2)本文(全十五章にわたる記録部分と引用古文書) 天正八年(一五八〇)以前、嶋 秀安筆
     (3)本文中の「覚へ」と、最後の「従是本書之覚書」の部分 寛文六年(一六六六)以降、嶋 俊通筆
     中心となる(2)の本文については、最後に嶋秀安没後の天正十一年(一五八三)の事項がみえることから簡単にわかるよう、秀安筆とするには疑問が残るが、同氏の一族の筆であることは間違いなかろう。
     さて、本書の史料的価値であるが、戦前の『東浅井郡志』から小和田氏に至るまで、きわめて信憑性が高いとされている。しかし、小和田氏も、本書が嶋氏の顕彰碑的な性格があることを認めているように、その使用には若干の史料批判が必要である。特に、記録部分は、嶋氏の有利な様に、また抜きんじた活躍をした様に脚色がほどこされており、また、古文書についても、同様な改竄の可能性がある。従って、本書を史料として読む場合は、筆者嶋氏の自家顕彰の脚色をどこまで見破ることができるかがポイントになる。

    (出典: 滋賀県教育委員会 [編集] (1990年) 「3. 嶋記録」, 「第2章 城郭関係史料目録(その7)」, 『滋賀県中世城郭分布調査 7 (伊香郡・東浅井郡の城)』, 滋賀県教育委員会, 99-100ページ. ) [Back ↩]

  78. 出典: 黒田惟信 [編集] (1927年) 「第一項 井口氏の惨殺」, 「第六節 浅井氏の族滅」, 「第三十三章 浅井氏の滅亡」, 『東浅井郡志 巻2』, 滋賀県東浅井郡教育会, 545ページ. [Back ↩]
  79. 出典: 山東圭八さんとうけいや (2022年) 「四 十指」, 「四章 落ちる」, 戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』, サンライズ出版; 354-355ページ, 357-358ページ. [Back ↩]
  80. 出典: 畑裕子 「長政とお市の結婚」, 「総説 浅井家をめぐる女性たち」, 長浜みーな編集室 [編集], (2007年11月), 『み~な : びわ湖から vol.97 : 浅井家をめぐる女性たち』, 長浜みーな協会 [発行], サンライズ出版 [制作], 7ページ3段目. [Back ↩]
  81. 出典: 太田浩司 「餅の井の懸越し」, 「水争いと地域権力 : 餅の井と出雲井における「ありえない」水利慣行」, 長浜みーな編集室 [編集], (2015年11月), 『み~な : びわ湖から vol.126 : 湖北用水史 : 争いから分かち合いへ』, 長浜みーな協会 [発行], サンライズ出版 [制作・印刷], 15ページ2段目. [Back ↩]
  82. 参考文献: 太田浩司 (2023年) 「久政の妻・阿古御料」, 「女性からみた浅井氏の系譜」, 「一 戦国大名浅井氏の歴史」, 『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡 増補版 (淡海文庫 ; 46)』, サンライズ出版, 39-40ページ. [Back ↩]
  83. 出典: 山東圭八さんとうけいや (2020年) 「あとがき」, 戦国近江伝せんごくおうみでん 江争うみあらそい, サンライズ出版, 252ページ. [Back ↩]
  84. 参考文献: 黒田惟信 [編集] (1927年) 「第一項 井口氏の惨殺」, 「第六節 浅井氏の族滅」, 「第三十三章 浅井氏の滅亡」, 『東浅井郡志 巻2』, 滋賀県東浅井郡教育会, 545ページ. [Back ↩]
  85. 出典: 太田浩司 (2023年) 「久政の妻・阿古御料」, 「女性からみた浅井氏の系譜」, 「一 戦国大名浅井氏の歴史」, 『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡 増補版 (淡海文庫 ; 46)』, サンライズ出版, 39-40ページ. [Back ↩]
  86. 出典: 山東圭八さんとうけいや (2022年) 「四 十指」, 「四章 落ちる」, 戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』, サンライズ出版; 354-355ページ, 356-358ページ. [Back ↩]
  87. 参考文献: 「綾の歌」, 「大清水雨乞歌」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 742ページ1段目. [Back ↩]
  88. 参考文献: 「綾織」, 「藤川・寺林雨乞歌」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 743ページ1段目~2段目. [Back ↩]
  89. 参考文献: 「綾織歌」, 「村木雨乞唄」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 740ページ1段目. [Back ↩]
  90. 出典: 「事業誌」編集委員会 [編集], 株式会社日本水工コンサルタント 名古屋事務所 [編集], (1987年) 「(4) 餅ノ井の由来」, 「1.3.1 近世の水利慣行等(餅ノ井落しを中心に)」, 「1.3 農業水利と治水史」, 「第1章 自然環境」, 『湖北農業水利事業誌』, 近畿農政局湖北農業水利事業所, 28ページ. [Back ↩]
  91. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「(その二)せせらぎ長者」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 65-68ページ. [Back ↩]
  92. 出典: 近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], (1993年), 「洪水時に白馬出現」, 「20 田川たがわ」, 『近江の川』, 東方出版, 171-172ページ. [Back ↩]
  93. 出典: 樋上亮一 (1935年) 「渡会の大蛇」, 『湖国夜話 : 伝説と秘史』, 立命館出版部, 71-72ページ. [Back ↩]
  94. 出典: 滋賀県神社誌編纂委員会 [編集] (1987年) 「日吉ひよし神社」〔伊香郡高月町井口一二二〕, 『滋賀県神社誌』, 滋賀県神社庁, 527ページ. [Back ↩]
  95. 出典: 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 [編集] (1979年) 「わたらいばし 渡合橋」, 「わ」, 「地名編」, 『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』, 角川書店, 739ページ左側の列. [Back ↩]
  96. 出典: 山東圭八さんとうけいや (2022年) 「結 継ぐ」, 戦国近江伝せんごくおうみでん 長比たけくらべ : 浅井長政か 織田信長か』, サンライズ出版, 363ページ. [Back ↩]
  97. 参考文献: 近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], (1993年), 「多数の式内社しきないしゃ、観音の里」, 「28 高時川」, 『近江の川』, 東方出版, 233ページ. [Back ↩]
  98. 出典: 近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], (1993年), 「28 高時川」, 『近江の川』, 東方出版, 228-236ページ. [Back ↩]
  99. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「(その四)乙子井おとごゆまもり神、久兵衛さん」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 73-76ページ. [Back ↩]
  100. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「(その五)身がわり弥蔵さん」, 「“”にまつわるむかしばなし」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 76-79ページ. [Back ↩]
  101. 出典: 滋賀県教育課 [編集] (1921年) 「與志漏神社」, 「鄕社之部」(郷社之部), 『神社由緒記』, 滋賀県教育課, 〔「郷社之部」のなかでのページ数〕117-118ページ. [Back ↩]
  102. 出典: 本居宣長 [著者], 向山武男 [校註], (1930年) 「六 波美ハミノ」, 「古事記伝二十二之巻 : 境原宮巻サカヒバラノミヤノマキ」, 『古事記伝 第3』, 日本名著刊行会, 1227ページ. [Back ↩]
  103. 出典: 富田八右衛門 [編集] (1983年) 「第六節 石田三成の民政」, 『近江伊香郡志 上巻』, 弘文堂書店, 568ページ. [Back ↩]
  104. 出典: 太田浩司 & 宮本知恵子 (1998年) 「関ヶ原の合戦」, 「石田三成」, 「第二節 湖北の武将たち」, 「第四章 天下統一とその後」, 長浜市史編さん委員会 [編集], 『長浜市史 第2巻 : 秀吉の登場』, 長浜市, 399-400ページ. [Back ↩]
  105. English title: "The Oni with a Thousand Faces". [Back ↩]
  106. 出典: ホメロス [著者], 松平千秋 [翻訳], (1994年), 「第四歌 ラケダイモンにて」, 『オデュッセイア 上 (岩波文庫)』, 岩波書店. [Back ↩]
  107. 出典: ジョーゼフ・キャンベル [著者], 倉田真木 [翻訳], 斎藤静代 [翻訳], 関根光宏 [翻訳] (2015年) 「1 姿を変えるもの」, 「エピローグ : 神話と社会」, 『千の顔をもつ英雄 下 新訳版 (ハヤカワ文庫 NF ; 453)』, 早川書房, 277~279ページ. [Back ↩]
  108. 出典: 濱中修(浜中修) (1990年8月) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 沖縄国際大学文学部, 『沖縄国際大学文学部紀要 国文学篇』19巻1号, 45-64ページ. [Back ↩]
  109. 出典: 伊藤正義 (1972年) 「一」, 「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」, 『文学』40(10), 岩波書店, 28ページ1段目~28ページ2段目. [Back ↩]
  110. 出典: 荒木伊佐男 [著者], 池本盛雄 [著者], 塩見行雄 [著者], 田中真澄 [著者], 田中洋子 [著者], (1982年), 伊吹イブキ山(坂田郡伊吹町)」, 「滋賀県」, 「近畿」, 「各地方の鬼」, 『鬼の地名辞典 : 鬼のルーツを地名から探る』, 鬼を語る会, 96ページ. [Back ↩]
  111. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 302ページ. [Back ↩]
  112. 出典: 武藤武美「夜刀神やとのかみ」, 『改訂新版 世界大百科事典』, 平凡社, コトバンク, 2024年4月8日閲覧. [Back ↩]
  113. 出典:ハインリッヒ・ハイネ, 小沢俊夫(翻訳) (1980年) 「精霊物語」, 『流刑の神々・精霊物語』, 岩波文庫, 岩波書店, 60~61ページ. [Back ↩]
  114. 出典:手塚治虫 (2014年) [犬上と壹伎史韓国いきのふびとからくにの会話], 『火の鳥 15』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 146ページ. [Back ↩]
  115. 出典: 柳田国男 「太子講の根源」, (2015年), 『女性と民間伝承』(Kindle版), グーテンベルク21. [Back ↩]
  116. 出典: 古田武彦 (2010年) 「未証みしょう説話」, 「結び 真実の面前にて」, 『盗まれた神話 : 記・紀の秘密 (古田武彦・古代史コレクション ; 3)』, ミネルヴァ書房, 349-350ページ. [Back ↩]
  117. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 300-301ページ. [Back ↩][Back ↩]
  118. 参考文献: 「振歌(雨乞・返礼共)」, 「大清水雨乞歌」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 741~742ページ. [Back ↩]
  119. 参考文献: 「帰り唄」, 「弥高雨乞唄」, 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 733ページ 1~2段目. [Back ↩]
  120. 参考文献: 「弥高雨乞唄」(彌高雨乞唄), 「九 雨乞踊歌」, 「第四節 伊吹町の民謡」, 「第八章 芸能・歌謡」, 伊吹町史編さん委員会 [編集], (1994年), 『伊吹町史 文化・民俗編』, 伊吹町, 732ページ. [Back ↩]
  121. 出典: 伊藤正義 (1972年) 「六」, 「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」, 『文学』40(10), 岩波書店, 48ページ1段目. [Back ↩]
  122. 出典: 丸山竜平 [著者], 小熊秀明 [著者], (1996年) 「製鉄集団の系譜」, 「比良山麓の製鉄遺跡」, 「第三節 鉄と須恵器の生産」, 「第二章 原始・古代の生活と文化」, 志賀町史編集委員会 [編集], 『志賀町史 第1巻』, 滋賀県志賀町, 246ページ. [Back ↩]
  123. 出典: 石黒吉次郎 [翻訳] (2005年) 「神鏡神璽しんじ都入り、並びに三種の宝剣の事」, 『源平盛衰記げんぺいじょうすいき』日巻第四十四, 『完訳 源平盛衰記 8(巻43-巻48) (現代語で読む歴史文学)』, 勉誠出版, 47~48ページ. [Back ↩]
  124. 出典: 吉沢義則 [校註] (1961年) 「十九 霊剣等事」, 延慶本『平家物語』巻十一(第六本), 『平家物語 : 応永書写延慶本』, 白帝社, 890~891ページ. [Back ↩]
  125. 参考文献: 近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], (1993年), 「七夕塚や彦星塚」, 「6 天野川あまのがわ」, 『近江の川』, 東方出版, 69ページ. [Back ↩]
  126. 出典: 佐々木氏郷 [編集&著者] 〔元和7年(1621年)11月21日の条文〕, 江源武鑑こうげんぶかん』巻第18, (1982年), 江源武鑑こうげんぶかん, 弘文堂書店, 424ページ1段目. [Back ↩]
  127. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 300ページ. [Back ↩]
  128. 出典: ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ [著者], 高橋健二 [翻訳], (1952年), 「芸術と文学について」, 『ゲーテ格言集 (新潮文庫)』, 新潮社, 98ページ. [Back ↩]
  129. 出典: エドワード・ハレット・カー(E. H. カー) [著者], 清水幾太郎 [翻訳], (1962年), 「歴史的事実が生まれる過程」, 「I 歴史家と事実」, 『歴史とは何か (岩波新書)』, 岩波書店, 12ページ. [Back ↩]
  130. 出典: 杦浦勝 (1984年) 「伊吹弥三郎伝説について:伝承成立の分析」, 日本口承文芸学会 [編集], 『口承文芸研究』第7号, 33ページ2段目~35ページ1段目. [Back ↩]
  131. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 301ページ. [Back ↩]
  132. 出典:戸井田道三 (1997年) 「猿・牛・狐」, 「Ⅰ 狂言世界の群像」, 『狂言 : 落魄した神々の変貌』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 192~193ページ; 198ページ. [Back ↩]
  133. 注記: 《伊吹弥三郎いぶきやさぶろう岩屋いわや ver. 7be07560d575》 [Back ↩]
  134. 出典: 高月町教育委員会 [編集] (1980年) 「岩ヶ町の大岩」, 『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』, サンブライト出版, 36-37ページ. [Back ↩]
  135. 出典: 坂田郡教育会 (1975年) 「第八章 柏原弥三郎の討伐」, 「第七編 鎌倉時代」, 『近江国坂田郡志 2巻 改訂』, 日本資料刊行会, 114ページ. [Back ↩]
  136. 出典: 丸山顕徳 「伊吹弥三郎伝説の形成」, 和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会 [編集], (1983年), 『日本文学 : 伝統と近代 和田繁二郎博士古稀記念』, 和泉書院, 300ページ, 302ページ. [Back ↩]