伊吹弥三郎 山中やしろ 聞けば大君が 宿じやげな
伊吹おそろし 後は山で 前に大河を ひきうけて
ことわりや 日の本ならば てりもしよ
さりとて今また 雨がした
山里の くさばにすむる 蟲さへも 日に悲しむぞ あはれさよ
龍
雨の神 清水
ちはや降る
氏子
おひ茂る
いや
長
―― 「高番
琵琶湖に注ぐ河川は、すべてお盆の中央にある琵琶湖へと注いでいる。このため、近江には信濃川や利根川のような大規模な河川はなく、山から流れ出た川が平野部に出て、すぐに琵琶湖に注ぐ小規模な河川ばかりである。このわずかの間に、河川の水は田用水や生活用水など、さまざまな形で繰り返し高度に利用されてきた。
しかし、灌漑技術が発達する一方で、規模が小さく流量が安定しないため、流域各地で激しい水争いが頻繁に発生し、雨乞行事なども盛んに行われてきた。また、過度の伐採利用や戦乱などで山が荒れ、洪水被害にもたびたび悩まされてきた。
このように、近江は山や川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった
―― 水田有夏志『近江の滝』 [9]
地図 : 「伊吹弥三郎
はじめに
滋賀県と岐阜県の境界にそびえる伊吹山
- はじめに
- 伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう ってだれ? - 伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう が「生きた場所」: 伊吹山いぶきやま (伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の岩屋いわや )、姉川あねがわ - 伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう が「死んだ場所」: 妹川いもうとがわ (高時川たかときがわ )(井明神社いのみょうじんしゃ )- 井明神社
いのみょうじんしゃ : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の霊廟 - 「飛行上人
ひぎょうしょうにん の事こと 付つ けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどの の事こと 」『三国伝記』 - 参考: 「井
ゆ 」ってなに?(出雲井いずもゆ や、餅の井もちのゆ などの、湖北地方こほくちほう の井堰いせき と水利すいり について) - 伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう と、千田せんだ の庄屋うねめさんの娘 - 井明神社
いのみょうじんしゃ の祭神さいじん は誰なのか? - 参考: 高時川
たかときがわ ってどんな川? - 参考: 雨森
あめのもり の乙子井おとごゆ にまつわる伝承 - 参考: 竜としての高時川
たかときがわ が、水を吐き出す「口くち 」に位置する与志漏神社よしろじんじゃ と、その祭神さいじん たる水神すいじん (竜神)が坐いま す己高山こだかみやま
- 井明神社
- 千の顔をもつ弥三郎
- 伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう の分類を試みた先人の方々 - 鬼としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう (鬼伊吹おにいぶき ) - 水神
すいじん (竜神)としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう - 伊吹大明神
いぶきだいみょうじん たるヤマタノオロチと伊吹弥三郎いぶきやさぶろう - 風神としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 雷神としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 善人としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 巨人としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 投石する伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 天狗としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 怨霊、祟り神としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 盗賊としての伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう - 酒呑童子
しゅてんどうじ としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう - 伊吹童子
いぶきどうじ (酒呑童子しゅてんどうじ )の父親としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
- 伊吹弥三郎
- おわりに
- 鬼アートの記念NFTはこちら
- 脚注
凡例はんれい
本稿で引用している文献の引用文は、読者が読みやすくなるように、引用者が適宜、文章に手を加えています。具体的には、下記のような変更を加えています。
- 一部、旧仮名遣いを、現代仮名遣いに変えました。
- 一部、旧字体の漢字を、新字体の漢字に変えました。
- 一部、漢文を書き下し文にしました。
-
一部、振り仮名
ふりがな (ルビ)や読み仮名よみがな を追加しました。 -
読み方(発音)が不明な言葉に対して、便宜的に、仮の振り仮名
ふりがな (ルビ)や、仮の読み仮名よみがな を付けていることがあります。くわしくは、「読み方(発音)が不明な言葉について」の項目をご参照ください。 - 一部、句読点を変更・追加しました。
- 一部、引用文中の登場人物による発言の部分に、「」(鉤括弧)を付けました。
- 一部、引用文中の書籍の名称の部分に、『』(二重鉤括弧)を付けました。
- 一部、読みやすくなるように適宜、改行を加えました。
- 一部、漢数字をアラビア数字に変えました。
- 一部、言葉を変更・追加しました。
- 一部、間違いだとおもわれる文字を別の文字に変更しました。
- 引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう ってだれ?
龍と鬼にはともに牙と角がある。動物生態的には「角のあるものには牙がなく、牙のあるものには角がない」というのが一般的だが、これを破ってまで龍と鬼に角と牙をつけたのは、あらゆる能力を持つことを示すためであろう。
―― 笹間良彦, 瓜坊進『図説・龍の歴史大事典』 [11]
伊吹弥三郎
・歴史上の人物である柏原弥三郎
・神話上の伊吹山
・伝説上の巨人
・信仰上の水神
・説話上の酒呑童子
などなど・・・
ちなみに、伊吹弥三郎
(※下記の引用文のなかに登場する、「三上
さて又
また 、近江の国おうみのくに 伊吹山いぶきやま に弥三郎やさぶろう と云い う者あり。その身は鉄のごとくにて、力ちから は千人ちひと が力ちから にも超こ えつべし。国中くになか の者もの ども是これ を怖お じて鬼伊吹おにいぶき とぞ申もう しける。然しか るに、この伊吹いぶき 、東国とうごく 、北国ほっこく より大内おおうち へ奉たてまつ る御調物みつぎもの を中なか にて奪うば い取と りしかば、御門みかど はかの伊吹いぶき を退治せんとし給たま うに、この伊吹いぶき 、切るをも突くをも痛まず。まして射い る矢もその身に立たず。その上、山野さんや を走る事、飛ぶ鳥の如ごと し。さて、「いかにとしてかこの伊吹いぶき を平たいら げん」と、公卿くぎょう 僉議せんぎ ましまして、近国きんごく の兵つわもの を召め され、「この伊吹いぶき 、討う ち取とっ て奉たてまつ るものならば、勲功くんこう 勧賞けじゃう あるべし」と宣旨せんじ を下くだ し給たま いけり。ここに同国どうこく に三上みかみ と聞えし兵法ひょうほう 達たっ せし大剛だいごう の者もの あり。この人、優ゆう なりし娘むすめ を一人持てり〔三上みかみ には、美しい娘むすめ が一人いた〕。しかれば、彼かの 伊吹いぶき 、たびたび来きた りて娘むすめ を所望しょもう せしかば、三上みかみ はこの伊吹いぶき を討う たんため、娘むすめ を伊吹いぶき に取と らせけり。その後のち 、娘むすめ を呼び寄せ、伊吹いぶき が身み のありさまを尋たず ぬるに、娘むすめ 、語りていわく、「人の膚はだえ とおぼしき所ところ は、右左脇みぎひだりのわき の下した より外ほか になし」と云い う。三上みかみ はこれを聞き、はかり事ごと をめぐらし、よろずの大石おおいわ を集め、庭にわ を作らせ、中なか にもすぐれたる石いわ 、二ふた つ三み つ、庭にわ のまん中なか に直なお しかねたる体てい に引ひ きすてて置お きつつ、伊吹いぶき を請しょう じ入い れつつ、山海さんかい の珍物ちんぶつ をととのえ、伊吹いぶき をもてなし、酒さけ をすすめける。酒さけ も半なか ばの事こと なるに、伊吹いぶき 、庭にわ のけしきをきっと見て〔さっと見て〕、「面白おもしろ と作れる庭にわ かな、さて、これなる石いわ をば、何なに とて、かくては置お き給たま うらん」と云い いしかば、三上みかみ 、申もう すよう、「あなたへ直なお したくは候そうら えども、あまりに石いわ が重おも き故ゆえ 、さてかくて候そうろ う」と答こた う。伊吹いぶき 、聞きて、「あら、ことごとしや。あれほどの石いわ をば、飛礫つぶて にも打う つべくは候そうら え。さらば、直なお して参まい らせん」と云い うままに、座敷ざしき を立た って鎧よろい を脱ぬ ぎすて、広庭ひろにわ に飛と んで下お りたりけり。頃ころ は水無月みなづき 半なか ば〔太陰暦たいいんれき (旧暦きゅうれき )の6月中旬ちゅうじゅん (太陽暦たいようれき の7月ごろ)〕、暑あつ さは暑あつ し、酒さけ には酔よ いぬ、日頃の用心もうち忘れ、左右さゆう の肩をひん脱ぬ いで、小山こやま のようなる大石おおいわ を宙ちゅう にずんと差し上げたり。三上みかみ 、この由よし 見るよりも、「あわや、ここぞ」と心得て〔「ああっ、ここだ」と理解して〕、伊吹いぶき が左の小脇を右へ通れとかっぱと突く。伊吹いぶき 、きっと見て〔さっと見て〕、「すわや、たばかられたる口惜くちお しさよ」〔「ああっ、だまされてしまったことがくやしい」〕と云い うままに、持ちたる石いわ を投げ捨て、三上みかみ を取と らんと飛んでかかる。「叶かな わじ」とや思おぼ いけん、後うしろ さまに八尺築地やさかのついじ を躍おど り越こ え、行方ゆくえ しらず逃に げ失う せたり〔三上みかみ は、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の力ちから には敵かな わない(対抗できない)」と思ったようで、後ろを向いて、大きな土塀どべい を飛び越えて、どこかへ逃げ去ってしまった〕。伊吹いぶき 、大おお きに怒いか って、我わ が女房にょうぼう をば八つ裂きやつざき にして投げ捨て、雷いかずち の激げき する如ごと くに屋形やかた 〔三上みかみ の邸宅ていたく 〕のうちを鳴な りまわり、女おんな わらんべともいわず〔女性や子供であっても容赦なく〕、当る物を最後に踏み殺し、ねじ殺し、多くの人を亡ほろ ぼして、その身み は門かど に立た ちすくみ、居い なり死じに にぞ死し したりける〔門もん のところで、立ちつくしたままの姿で死んだ〕。三上みかみ 、伊吹いぶき が首しるし をとり、大内おおうち へ捧ささ げたりしかば、御門みかど 、御感ぎょかん に思おぼ し召め して、官かん も禄ろく も望のぞ みのままに成な し下くだ し給たま えば、三上みかみ は栄花えいが をきわめけり〔三上みかみ が、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の首を切り落として、天皇へ献上すると、天皇は感心されて、官位かんい も俸禄ほうろく も、望むままにお与えになったので、三上みかみ は栄華を極めた〕。
(『日本二十四孝
伊吹山いぶきやま ってどこ?
伊吹山が、近づいてきた。
牛の背のように大きく、しかもミルク入りのチョコレート色の岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るたびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。
南近江の象徴的な神聖山が三上山
―― 司馬遼太郎『街道をゆく 24』 [15]
そのままよ
月も頼まじ
伊吹山
―― 松尾芭蕉
伊吹山
(滋賀県米原市
下記の文章は、満田良順さんが書かれた「伊吹山の修験道」という文章(『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』所収)のなかの、伊吹山
伊吹山は、1377メートルの標高を有し、新幹線の関ヶ原近辺の車窓より、そのどっしりとした山容を目の当りにすることができる〔中略〕
〔中略〕
伊吹山の初見は、言うまでもなく、『古事記』に見られる倭建命〔やまとたけるのみこと〕による伊吹山の山神鎮定伝説である。この伝説は、『日本書紀』に記されており、倭建命(日本武尊)〔やまとたけるのみこと〕が草薙剣〔くさなぎのつるぎ〕を美夜受比売〔みやずひめ〕のもとに預け、「伊服岐山」〔いぶきやま〕の山神を鎮定せんがために現地に赴いた時、「荒神アラブルカミ 」の「正身」(化身)である大きな「白猪」(大蛇)が現われ、氷雨を降らせて命みこと を打ち惑わし、それが因で命は崩ぜられた話として周知のところである。山神の正身・化身が白猪・大蛇といった記紀の違いがあるものの、記紀編集当時、伊吹山が山神の領うしは くところとして観念され、その神も「荒神アラブルカミ 」として意識されていたのである。
また、奈良時代に僧延慶により記された『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」においても、荒ぶる神が伊吹山を領くという当時の一般常識的山岳観が窺え、さらに『帝王編年記』養老7年(723)条に所収され、風土記の逸文と考えられている「夷服岳」と「浅井岳」との背比べ伝説にも、擬人化された伊吹山の神をみとめることができる。そして記紀や『延喜式』や『三代実録』などにおいて、伊吹山は、「伊服岐」「胆吹」「伊夫伎」「伊富伎(岐)」「伊吹」などと表記される「イフキ」という発音にも山岳観が窺え、『古事記』に「吹き棄つる気吹イフキ の狭霧の成りませる」と表現されるように、山気や霊気を吐き息づくという「息吹き」の意に解すことができ、古代においては、伊吹山には何物かが息づいていると観念されていたであろうことが想像される。
(満田良順「伊吹山の修験道」, 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』) [16] [13]
柏原弥三郎かしわばらやさぶろう ってだれ?
おりくだる 山の裾野
もとつ葉まじり しげる頃かな
―― 冷泉為相
秋寒
露のみもろく 風渡るなり
―― 飛鳥井雅世
則ち天皇
伊吹弥三郎
「柏原弥三郎
ちなみに、丸山顕徳さんは、「伊吹弥三郎伝説の形成」のなかで、『北条九代記
たしかに、『北条九代記
近江国の住人柏原
かしわばらの 弥三郎は故右大将頼朝卿の御時に、平家を追って西海に赴き、ぬきんでた働きがあったので、平氏滅亡の後にその手柄の賞として近江国柏原の荘園を拝領した。また、京都警固の役人の中に加えられ、上皇の御所に参勤して奉仕していたが、勝手気ままにふるまって、禁令を破って神社の木を伐り倒し、仏寺の資財を奪い、公卿・殿上人に無礼・不作法を働いて、しばしば帝の御命令にそむくなど、重ね重ねの罪科があった。そのうえ、「弥三郎は(御所の警固をさぼり)自分の領地に引っ込んで、もっぱら鹿狩しかがり ・川狩(川で魚をとること)を行い、百姓を弾圧していじめている」ということを、上皇がたいそうお憎みになって、蔵人頭左大弁藤原公定きんさだの 朝臣に命じられ、「弥三郎追討」の宣旨を下された。これを佐々木左衛門尉定綱さだつな が飛脚をとばして鎌倉に伝え申した。
同年(一二〇〇)十一月四日、将軍家から恐縮の由御返信があり、渋谷しぶやの 次郎高重たかしげ ・土肥先二郎惟光といのせんじろうこれみつ が使者となって、配下の部下を引き連れて上京した。こうした中にあって、幕府の判断をも待たずに、京都駐在の官軍四百余騎は近江国に押し寄せ、柏原の荘に至って弥三郎の館やかた に面と向かったが、このとき三尾谷みおのやの 十郎が夜の闇やみ にまぎれて先ばしり、館の後方の山間やまあい から鬨とき の声をはりあげたものだから、弥三郎は恐れおののいて、妻子および部下と共に館を引き払って逃亡してしまった。その行方を探したが全然わからない。鎌倉からやってきた高重・惟光の両使節は仕方なく引き返して、そのまま鎌倉に帰参した。官軍もまた押し寄せたかいがない。三尾谷の行為は全く兵法にかなわぬ失態で、柏原を取り逃がしてしまったのである。鎌倉方の御機嫌および上皇のそれもきっと「よろしくないだろう」と思わない人々はなかった。けれども別段処分をお命じになる御様子もなかったので、なんとなく静まってしまった。
(増淵勝一 [翻訳], 「柏原弥三郎逐電 付けたり 田文の評定」, 『北条九代記
歴史書に記された史実上の「柏原弥三郎
『吾妻鏡
正治
しょうじ 2年(1200年)11月1日の条文〔要旨:源仲章
みなもと の なかあきら と佐々木定綱ささきさだつな が京都から送った飛脚が、鎌倉に到着して、後鳥羽上皇ごとば じょうこう から柏原弥三郎かしわばらやさぶろう を討伐する宣旨がくだったことを報告しました。〕1日 癸巳 晴る。相摸権守(源仲章)ならびに佐々木左衛門尉定綱等が飛脚、京都より参着す。去月22日、頭弁(藤原)公定朝臣を奉行として、近江国の住人柏原弥三郎を追討すべきの由、宜下せらる。これ近年事において帝命を背くの故なりと云々。
(正治
正治
しょうじ 2年(1200年)11月4日の条文〔要旨:渋谷高重
しぶや の たかしげ と土肥惟光とい の これみつ が、柏原弥三郎かしわばらやさぶろう を追討するために、京に行きました。〕4日 丙辰 陰
くも る。小雨、常に降る。今日、渋谷次郎高重、土肥先次郎惟光、使節のため上洛す。これ、柏原弥三郎追討のためなり。各先相模国所領、自彼所可進発、云々。
(正治
正治
しょうじ 2年(1200年)12月27日の条文〔要旨:渋谷高重
しぶや の たかしげ と土肥惟光とい の これみつ が鎌倉に帰着して、「三尾谷十郎みおのや の じゅうろう が、柏原弥三郎かしわばらやさぶろう に奇襲をしかけたものの、失敗して、柏原弥三郎かしわばらやさぶろう に逃げられてしまいました」と報告しました。〕27日 己酉 晴る。先日上洛する渋谷次郎高重・土肥先二郎惟光等、帰着す。申して云はく、高重等、上洛以前に、官軍、かの柏原弥三郎が住所、近江国柏原庄に発向するの刻、三尾谷十郎々々、件の居所の後面を襲ふの間、賊徒、逐電しをはんぬ。今両使、その行方を伺ふといへども、拠所
よんどころ なきによって帰参すと云々。
(正治
建仁元年
けんにんがんねん (1201年)5月17日の条文〔要旨:佐々木定綱
ささきさだつな が送った飛脚が鎌倉に到着して、「佐々木信綱ささきのぶつな が、柏原弥三郎かしわばらやさぶろう を討伐しました」と報告しました。〕17日 丙寅 佐々木左衛門尉定綱が飛脚、参着す。申して云はく、柏原弥三郎、去年、三尾谷十郎がために襲はるるの刻、逃亡するの後、行方を知らざるのところ、(佐々木)広網が弟、四郎信綱、件の在所を伺ひ得て、今月9日これを誅戮すと云々。
(建仁元年
また、藤原定家
又参此御所、頭弁参奉宣旨、栢原許三郎〔柏原弥三郎〕といふ物、年来所聞也、依物可追討之由宣旨云〻
(正治
『伊吹山名勝記』という本のなかに、柏原弥三郎
なお、下記の引用文では、柏原弥三郎
(※史実上は、佐々木定綱
(※史実上は、佐々木頼綱
七 柏原弥三郞伊吹山に遁れ伊吹弥三郎と称せらる
弥三郎為長は源氏の軍に従ひて、平氏を屋島壇の浦に討ちし功を以て、鎌倉幕府の時、柏原荘の地頭となれり、(領地は柏原荘内の一部)依て柏原弥三郞と称せしが、後寺領を奪ひ、神社の樹を伐〔き〕 り、武家の権を乱用して違勅の事を為す屢〔しばしば〕 なるを以て、正治二年十一月、頭弁公定朝臣を奉行として、弥三郞追討の宣旨を、近江の守護佐々木定綱に下さる、定綱は状を鎌倉幕府に注申す、幕府は渋谷高重、土肥惟光をして、追討せしむ、其兵未だ到らず、京師の官軍先して柏原に向ひたりしに、三尾谷みをのや 十郞、先登の功を為さんと欲し、即夜弥三郞の館後より攻めんとしたるに、弥三郞遁れて伊吹山中に入り、巧に隠れて其跡を眩〔くらま〕 す、佐々木定綱は、其子頼綱をして弥三郞を討伐せしめたるも、弥三郞神出鬼没して山中に在りしが、建仁元年五月九日終に頼綱の為に殺さる、故に伊吹弥三郞の名あり、後世弥三郞を怪賊として、種々の附会説を為す、曰〔いわ〕 く弥三郞の百間廊下、弥三郞の泉水、弥三郞の足跡、等是なり、其足跡と称するは、方数尺もあらん凹地を称す、弥三郞は此の如き大なる足の人に非ず、附会も亦甚し、(吾妻鑑、明月記、北条九代記、佐々木系譜)
伊香郡高時川の附近に、井の明神あり、是れ後年伊吹弥三郎の霊を祀りしものと伝ふ、(近江輿地誌略)
(中川泉三 [編集] 「七 柏原彌三郞膽吹山に遁れ伊吹彌三郎と稱せらる」, 『伊吹山名勝記』) [33]
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう が「生きた場所」: 伊吹山いぶきやま (伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の岩屋いわや )、姉川あねがわ
近曽
―― 『三国伝記』巻第6 第6「飛行上人
長
しづの女や 夜毎日の水引きをや あわれみ給
見え渡るよ 田畑
弥高きや 山谷々の水細りよ 雨降らしめよ 久也菩薩
大高野のや 道の智又は多けれどよ 雨の願いは一筋
千草
名も高きや 薬草道を踏み分けてよ 弥勒菩薩
登り降って池の尾へや 早
巡
末
―― 「上野
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の岩屋いわや (播隆上人ばんりゅうしょうにん の風穴かざあな )
ここからは、伊吹弥三郎
(播隆上人
伊吹弥三郎
上の2つの写真は、伊吹弥三郎
伊吹弥三郎
-
伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう の岩屋いわや (播隆上人ばんりゅうしょうにん の風穴かざあな )がある場所のおおよその緯度経度 : 35.420861,136.414639 - 「福松稲荷皇神」の石柱がある場所のおおよその緯度経度 : 35.420781,136.414885
伊吹弥三郎
「地図2」については、ぼく自身が実際に通ったことがあるのは「ルート2」だけです。「ルート1」については、本や、ほかの方から教えていただいた情報から、みちびき出したものです。なお、国土地理院の地理院地図を見ると、「寺横道
下の動画で、「伊吹弥三郎
地図 : 「伊吹弥三郎
伊吹弥三郎
戸谷の岩屋は別に「天の岩戸」とも呼ばれており、天照大神の信仰に結びついています。入口には〆縄が張られ、いまでも信仰の対象になっています。ほかにも、「弥三郎の岩屋」「酒呑童子岩屋」(『岐阜県揖斐郡 ふるさとの地名』より)など、伊吹山を拠点に隠れ住んだという大盗賊や鬼にまつわるもの、本願寺教如が籠った岩屋や槍ヶ岳開山でしられる播隆上人の風穴などがあり、いずれも、行場・信仰の場であったと思われます。
5月に、米原市上平寺地区の方と弥三郎の岩屋にいきました。この洞窟は美濃側では播隆上人の風穴といわれており、伝説・史実織りなす史跡です。伊吹山ドライブウェイ12km駐車場からの尾根道をのぼり、〔標高〕1200m付近で北へ折れて、真東へ伸びる尾根へとりつき、その北斜面にあります。石灰石の巨岩が空間を作り出していて、奥行き約15m、高さは約5mあります。「皇紀二千…」と読める落書きのほか、信仰に関する遺構・遺物は見られませんでした。
かつて地元の人は、山頂にギボシ(オオバギボウシの若芽。お浸しや天婦羅がおいしい)を採りにいった帰りにこの洞窟で一服したそうです。
(高橋順之「伊吹山の洞窟探訪」, 『米原市文化財ニュース 佐加太』第27号) [40]
『伊吹町史 文化・民俗編』では、伊吹弥三郎
(※下記の引用文のなかの、「南側は垂直に近い岩壁」という部分の「南側」というのは、おそらく書き間違いだろうとおもいます。ただしくは、「北側」だろうとおもいます。実際、「伊吹弥三郎の洞穴」(伊吹弥三郎
伊吹弥三郎の洞穴 通称風穴と呼ばれる洞穴で東尾根の寺横道分岐点、オゴヤから横崖の道をたどると約三〇〇メートルで洞穴の尾根に達します。南側〔「北側」の間違いか?〕は垂直に近い岩壁で入口は狭く漸く人の出入りが可能な程度ですが、洞穴の中はかなり広く、奥行一六~七メートル、幅は最も広いところで四メートルに達します。入口から奥までは急な傾斜をみせ、崩れた岩が遮っているので構造の詳細を確かめることは困難です。
(「伊吹弥三郎の洞穴」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [41]
『伊吹町史 自然編』のなかの、伊吹山
伊吹山は大半が石灰岩で占められ、場所によって形成された地質年代を異にし、含まれるフズリナ化石の種類も異なり貴重な学術資料です。またこれらの石灰岩層の作り出すドリーネ・石灰洞などのカルスト地形や大断層が伊吹の景観となっており、今後の開発や採石には十分な検討が必要です。
以上伊吹山の自然について地形地質動植物の面から保全の重要性を考えましたが、それぞれの重要性を検討の上観光資源としての活用が望まれ、自然博物館の設置も切望されるところです。
(「第6章 伊吹山の自然保護」, 『伊吹町史 自然編』) [42]
播隆上人ばんりゅうしょうにん ってだれ?
私はいっさいの望みの究極
〔中略〕
私の視力は清らかに澄みわたり、ただそれだけが真実な、崇高な光輝
その先で私が見た姿は言葉では及ばぬ言葉を越えた像
〔中略〕
ああ至高の光よ、人間の観念の極限を越えて高く昇る光よ。私が仰ぎ見た御姿
〔中略〕
その光の深みには宇宙に散らばったもろもろのものが愛によって一巻
実体も偶有
〔中略〕
至高の光の深く明るい実体の中に三色で同じ幅の三つの環
虹
〔中略〕
突然私の脳裡
私の空想の力もこの高みには達しかねた。
だが愛ははや私の願いや私の意
太陽やもろもろの星を動かす愛であった。
―― ダンテ・アリギエーリ『神曲 天国篇』第三十三歌 [43]
弥三郎は播隆のそばに坐り直して、播隆の顔を覗きこんだ。
播隆の眼に感情が動いていた。喜びの表情とまではいかなかったが、彼が、いま、なにかを見て、それに話しかけようとしていることだけは確かであった。〔中略〕
弥三郎はもうなにも云わなかった。人を呼びに立とうともしなかった。このまま静かに、播隆を死なせてやりたいと思った。〔中略〕
弥三郎はもはや微動だにしない播隆に向って、合掌して、南無阿弥陀仏を唱えた。生れてはじめて、彼が口にした名号であった。
播隆の顔に安らぎの色が浮び、光明が、涅槃の霧の中にただよっていた。
―― 新田次郎『槍ヶ岳開山』 [44]
伊吹弥三郎
播隆上人
大久保甚一さんの『念仏行者播隆上人』という本には、播隆上人
南宮山奥院で一夏九十日の結願中、或る夜の夢に「大悲観世音菩薩」のお告げがあった。それは、「伊吹山の嶺で、千日の別時念仏を行うように。」との事であった。
いわゆるままに、伊吹山へ登り、大谷峰「伊吹山八合目のところにある通称岩穴という岩屋」で参籠した。ここは、晴れた日に一心に念仏を唱えると、たびたび御来迎の奇瑞が現われるので仏恩の有難さに感激したことと思われる。春日村笹又の住民たちは伊吹山で鉦鋸をたたく音がするのでおかしいと云って登ってみたところ播隆が念仏を唱えていたので、毎日ソバ粉と水を運んで供養したという。
(大久保甚一『念仏行者播隆上人』) [45]
また、上記の「通称岩穴という岩屋」(播隆上人
御来迎については、「私が八合目岩穴というところの岩根に坐って一心に名号を唱えておりますと、前が少しずつ明るみ出したような気がいたしました。すると不思議や、眼の前の雲の中に七色の光輪が現われ、その中央に如来がお姿を現わしたのです。七色の光輪はあまりにも美しく、眼もくらむばかりに光り輝いておりました。如来は私を見つめておられました。なにか私に語りかけられているかのようにもお見受けいたしました。」
そこまで話すと、参詣の人々はきっと南無阿弥陀仏を唱えたと伝えられる。
(大久保甚一『念仏行者播隆上人』) [46]
1893年(明治26年)に刊行された、播隆上人
余談ですが、播隆上人
(ちなみに、その場面で、播隆上人
播隆上人
「ここまで来たのだ、どっちみち、これ以上天気が悪くなるということはあるまい」
播隆は中田又重郎にそういうと、錫杖を取って、槍ヶ岳の穂に向って歩き出した。槍ヶ岳の根元で霧が渦を巻いていた。
渦はゆっくり廻りながら、岩峰の肌をこすり上げるようにしながら、頂へ近づいていった。播隆はその霧の渦の行方を追った。渦の眼の中の岩肌のなめらかさを追うように、次第次第に上方へ眼をやっていった。槍の穂の頂上は僅かな平らを持っているように見えた。文政十一年(一八二八年)七月二十八日、太陽は傾きつつあった。
「上人様、やはりやめたほうがいいではねえずらか、この槍の穂へは未だに誰も登った者はねえ、生きものは、たとえ鳥でさえも、この尖とが った岩の頭に止まったのを見た者はござらぬ、これから上は天のものだ。われわれが登るべきではねえ」
中田又重郎が云った。
「天のもの」
播隆は又重郎のことば尻をつかまえたが敢て追求することはなく、
「もう一度身をととのえよう。ひとつの油断があってもならぬ」
播隆はそういって、自らの草鞋の紐を結び直し、山ばかま、脚絆きゃはん 、股引をも改めた。最後に播隆が、頭巾をかぶり直したとき、又重郎は、あきらめた顔でいった。
「では上人様、登れるところまで登るずらか」
又重郎は仏像の入った背負袋ねこだ とその上にくくりつけた綱の束の重みをたしかめるようにゆすぶってから岩峰の基部へ向って踏み出した。二人が踏みころがす岩の音がしばらく霧の中で聞えていた。
〔中略〕
両手をいっぱいにひろげて抱きつくような大きな岩を乗り越えたところが頂上だった。
信濃国安曇あずみ 郡小倉村中田又重郎がまず槍ヶ岳の頂上を踏み、つづいて、山城国一念寺の僧、播隆が頂上を踏んだ。文政十一年(一八二八年)七月二十八日申の刻(午後四時)であった。
ふたりは手を取り合ったまま、しばらくは口が利けなかった。播隆の大きな眼に露が光っていた。又重郎は怒ったような顔で、しきりに鼻をすすり上げていた。
槍ヶ岳の頂上は下で想像したとおり、大小無数の岩が累積している五坪ばかりのゆるやかな高まりになっていた。平面ではないが、尖とが ってもいなかった。安曇地方でよく使う平ひら に近かった。石を取り片づければさらに平らにすることは可能のように思われた。
登攀行動を停止すると、風が身にしみてつめたく感じられた。汗で水をあびたように濡れていた身体が急速に冷やされていった。
中田又重郎が背負っていた荷物の中から半纏はんてん を出して播隆に着せ、その上に茶色の僧衣を着せた。槍ヶ岳山頂に仏を安置する儀式のための僧衣であった。
〔中略〕
「もうすぐ日が暮れるで」
又重郎はそういいながら、平ひら にした槍の穂の頂上に、その平よりやや高い、祠ほこら のための台座場を作りはじめた。二尺ほどの高さの台座場ができると、又重郎は、その上に仏像の入った厨子ずし を置き、そのまわりを比較的小さな石で固め、さらにその周囲に大きな石を積んだ。
もはやいかなることがあろうとも、仏像は、そこから動かないことを確かめてから、又重郎は厨子の扉を開こうとした。
「風が止んだようだ」
と播隆がなにげなくつぶやいた。又重郎は厨子の扉に手をかけたまま、西の雲海に沈もうとする太陽に眼をやった。播隆は落日を背にして厨子の方へ眼をやった。又重郎の視線と播隆の視線が空中で交差し、反対側にそれていった。
播隆の口元が動いた。発しかけた声を飲みこんだようだった。顔中が驚愕して言葉を失った顔でもあった。又重郎はあたりが急に明るくなったような気がした。静かな空間のどこかに、なにかの異変が起ったように感じた。
又重郎は播隆の視線を追ってふりかえった。そしてそこに驚くべきものを見たのであった。
五色に彩いろど られた虹にじ の環わ が霧の壁の中にあった。五色の環の中心をなす赤色光は血のように鮮明だった。たぐいなきその光の配色の虹の環の中に又重郎は影を見た。立影りつえい も、坐影にも見えた。背光を負った仏の姿にも見えた。現実の世のものとは思えぬ、あざやかなその光と影に、又重郎は頭の下がる思いをした。
一瞬彼は、その異常なるものこそ、阿弥陀如来の来迎らいごう というものではないかと思った。背筋にそって、つめたいものが流れた。ありがたいとは感じなかった。おそろしい神秘的な物に感じた。その美しい物が突然、大きな禍わざわい を投げかけて来るのではないかというふうに感じた。見てはならないものを見たと思った。この世で、誰も見られない、仏とも神とも、或はそれ以上に人間とかけ離れたものが、そこに現われたのだと思った。又重郎はそこに坐りこんだ。ごく自然に彼は合掌した。彼はふるえながら、その美しい虹環こうかん の内部にいる、明らかに人間の形をした者が、なにをするかをじっと見詰めていた。
播隆は虹環の中に如来を見た。現実にこの眼で、誰にも見ることのできないものを見たと思った。
〔中略〕
虹環が薄らいだ。消えかかって、ぱっと一度明るくなり、そして消えた。そこには白い霧の壁だけがあった。
播隆は気の狂ったように名号をとなえた。だが、虹環は二度と現われなかった。
(新田次郎『槍ヶ岳開山』) [47]
参考: 参考地図上の各地点(伊吹山いぶきやま の周辺)
思ひ出で登る 傘松
古へ
はるか登れば 弥高山
清く流れて たゆぬらん
此
いながらおがむ 代子供
古へ
西をはるかに 眺
三島
役の行者
弥勒菩薩
阿弥陀岳
過ぎ行
はるばる此迄
いざや帰りて 我郷
―― 「弥高
地図 : 「伊吹弥三郎
(下記の緯度経度の数値は、それぞれの場所の、おおよその緯度経度です。)
-
伊吹弥三郎
いぶきやさぶろう の岩屋いわや (播隆上人ばんりゅうしょうにん の風穴かざあな ) : 35.420861,136.414639▼動画: 伊吹弥三郎の岩屋(播隆上人の風穴)の洞窟への道のり(ルート)と洞窟探検 in 伊吹山【鬼伊吹】
- 「福松稲荷皇神」の石柱 : 35.420781,136.414885
- ヨセゴロ
- 伊吹山
いぶきやま 山頂 - 弥三郎の泉水
- 百間廊下
ひゃっけんろうか - 八ツ頭
やつがしら (白竜はくりゅう さん) - 鈴岡神社
すずおかじんじゃ (黒竜こくりゅう さん) - 三ツ頭
みつがしら - 雨降岩
- 戸谷
とったに - 天岩屋
あまのいわや (洞窟) - 弥三郎岩屋
やさぶろういわや (戸谷とったに )(不詳) - 伊吹酒呑童子岩屋
いぶきしゅてんどうじがいわや (伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや )(奥戸谷おくとったに )(不詳) - 御座峰(兀山
はげやま )(標高1070m) -
伊夫岐神社
いぶきじんじゃ (祭神さいじん : ヤマタノオロチ、スサノオ、伊富岐大神いぶきおおかみ 、多々美比古命たたみひこのみこと )(※伊夫岐神社いぶきじんじゃ の祭神さいじん については、諸説あります。) -
姉川
あねがわ -
姉川頭首工
あねがわとうしゅこう -
出雲井
いずもゆ (いづもゆ)(についての解説板)
(※出雲井いずもゆ については、後述する「「井ゆ 」ってなに?」の項目で説明します。) -
井之口円形分水
いのくちえんけいぶんすい (滋賀県米原市小田しがけん まいばらし やないだ (滋賀県米原市井之口しがけん まいばらし いのくち )) - ヤマトタケル遭難の地
-
鞠蹴場
まりけば (マルケバ)(伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の鞠蹴場まりけば )/蹴鞠場けまりば -
伊吹神社
いぶきじんじゃ (祭神さいじん : スサノオ)(滋賀県米原市上平寺しがけん まいばらし じょうへいじ ) -
三之宮神社
さんのみやじんじゃ - ケカチの水
- 「播隆上人修行屋敷跡
ばんりゅうしょうにん しゅぎょうやしきあと 」の石碑(播隆屋敷跡ばんりゅうやしきあと ) -
阿弥陀如来像(かつて播隆屋敷にあった石仏)(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合
ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすが かわい のなかの笹又ささまた の地区)(おおよその緯度経度: 35.419335,136.42972 ) - さざれ石公園
- 上平寺越駐車場
じょうへいじごえ ちゅうしゃじょう - 長尾護国寺
- 七尾山
ななおやま - 伊吹山ドライブウェイ
- 臼谷の湧水
- 小碓の清水
- 播隆名号碑
ばんりゅうみょうごうひ (滋賀県米原市志賀谷しがけん まいばらし しがや ) - 弥三郎の足跡(極楽橋)(滋賀県米原市大鹿
しがけん まいばらし おおしか ) - 居醒の清水
いさめのしみず (滋賀県米原市醒井しがけん まいばらし さめがい ) - 伊吹山文化資料館
- 泉神社
いずみじんじゃ (滋賀県米原市大清水しがけん まいばらし おおしみず ) - 弥三郎の足跡(滋賀県米原市大清水
しがけん まいばらし おおしみず ) - 白清水
しらしょうず (米原市柏原まいばらし かしわばら ) - 日本武尊腰掛岩
やまとたけるのみこと こしかけいわ (岐阜県不破郡関ケ原町玉ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう たま )
伊吹山いぶきやま と姉川あねがわ の水神すいじん としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
御礼の踊り おどろよ 〳〵
有難
神
―― 「藤川
伊福山
法
水汲玉
―― 円空
今年
植ゑ
いでやこの民の うれひを
吾
うきごとの 数さまざまに 別れども
夏のひでりに しくぞなき
三日三夜と かけまはる しはしも早く 利生
とくどくうるはせ たびたまへ
ことはりや 日の本
照
さあれば 三十一
ふればふりぬる 雨もある
願
御礼神慮に まかすべし
霊験
早くうるはせ たひたまへ
山里
紅葉
長々し 日照
民のなげきを しろしめせ
末
―― 「春照
伊夫岐神社
冒頭でもおつたえしたように、伊吹弥三郎
昔、伊吹山に力持ちの伊吹弥三郎という大男が住んでいた。弥三郎は鉄でも噛み砕いて食べるほどの男で、身体に温みがない。或時琵琶湖の水をがぶ飲みしたので、竹生島が陸続きになり、飲んだ水を伊吹山に吹きかけたら、大水となって出雲川となったという。ところで弥三郎の暴れ方が酷いので退治することになり、伊吹十三郎と云う人のオソデという娘が弥三郎の嫁だったので、娘にいいつけて密かに弥三郎を探らせたところ、体中鉄のように冷たいが脇の下だけ温みの有る事が判り、密かに時機を待った。やがて大風で出雲川が氾濫したので土手に杭を打って大水を防ぐことになり、十三郎は大きな杭を作り弥三郎に打たせ、掛矢を振り上げた時、脇の下へ矢を放ち、弥三郎は死んだ。オソデも後を追って川に飛び込んだ。弥三郎とオソデは村のお宮に祭られているという。(『いろりばた』)
(「佐々木信綱と柏原弥三郎」, 『山東町史 本編』) [55] [13]
上記の引用文中で、引用元になっている『いろりばた : 伊吹町昔ばなし (ふるさと近江伝承文化叢書)』という本に記されている「伊吹弥三郎の物語」は、下記のとおりです。
伊吹の弥三郎
昔、伊吹山にそれはそれは力もちの、伊吹弥三郎という大男がすんでいました。なにしろ弥三郎は鉄でもかみくだいて食べるほどの男で、からだにはぬくとみというものがありませんでした。あるとき琵琶湖の水をがぶがぶ飲んだので、とうとう竹生島が陸つづきになってしまったということです。飲んだ水を伊吹山に吹きかけたらそれが大水となって流れ出しました。それがイズモ川のおこりということです。
ところで弥三郎のあばれ方があまりにもひどいので、とうとう弥三郎を退治することになりました。伊吹十三郎という人のオソデという娘が弥三郎のお嫁になっていましたので、十三郎は娘にいいつけてひそかに弥三郎をさぐらせたところ、からだじゅう鉄のようにつめたい弥三郎もわきの下だけにはぬくみがあるということがわかりました。そこでひそかに時のくるのを待っていました。
やがて大風がおこってイズモ川がはんらんしました。土手に杭をうって大水をふせぐことになりました。十三郎は何倍もある大きな杭を作って、弥三郎を呼んでこの枕をうたせました。弥三郎が勢よくかけやをふりあげたとたんに、そのわきの下めがけて矢を放ちました。こうしてさしもの弥三郎もとうとう死んでしまいました。オソデもあとを追って川にとびこんでしまったということです。
弥三郎とオソデはいまも村のお宮さんに祭られているというおはなしです。
(「伊吹の弥三郎」, 『いろりばた : 伊吹町昔ばなし (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [56]
上記の話の伊吹弥三郎は、琵琶湖の水をあやつり、川を生み出すなど、水神
(※出雲井
また、上記の話に登場する、伊吹弥三郎
伊夫岐神社は伊吹大菩薩と呼ばれ多多美比古、八岐の大蛇を祭っていますが、ここにも殺された弥三郎と妻おそでさんを祀ったという伝説も残っています。
〔中略〕
弥三郎の殺害を知ったおそでさんは、川に身を投げて命を絶ったといい、二人の霊を伊夫岐神社に祀ったという古老の話〔後略〕
(「弥三郎実在論」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [57]
高橋順之さんは、下記のように、『伊吹山風土記』のなかで、姉川
(ちなみに、伊夫岐神社
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです)。
奥伊吹から峡谷を南流してきた姉川は、ここ〔伊夫岐神社
いぶきじんじゃ 〕で平野部に出て、西に向きを変えて琵琶湖へ向かう。逆にすこし上流に行ってみると、伊吹山の水を集めて懸崖を駆け下る、県下有数の急流大富おおとみ 川が合流している。さらにさかのぼると、大昔、姉川を堰せ き止めて満々と水をたたえたという蝉合せみあい 峡谷(米原市小泉)の景勝地。これらの水を集めて平野部に放出される姉川は、まるで龍が水を吐き出すようにみえる。伊夫岐神社はまさにこの場所にあり、本殿越しに水神の坐いま す伊吹山頂を望む里宮が鎮座する〔後略〕
(高橋順之「伊吹山がみつめる姉川水利」, 『伊吹山風土記』) [59] [13]
また、満田良順さんは、「伊吹山の修験道」のなかで、次のように述べておられます(満田, 1978, pp.37-38)。下記の文章は、室町時代初期に、伊吹山
勧進に応じた村々は、伊吹山地より流出する姉川の恩恵を受ける村々に多い事実が注目される。このことは、当時の伊吹山に対する山岳信仰の様子を示しており、伊吹山の山神が水分神〔みくまりのかみ〕として水田耕作に利用される姉川の水を司っているという観念が、姉川の扇状地や流域の農民に存在したためであったと思われる。
水分神〔みくまりのかみ〕としての伊吹神の性格は、長尾護国寺の中世の縁起に、八大龍王が伊吹山頂に住すると記されることや、近世の時代に、伊吹山麓の村々の雨乞い行事で「伊吹雨乞懸ヶ」と称して山頂で雨乞いが行われていることからも知られる〔後略〕
(満田良順「伊吹山の修験道」, 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』) [60]
このように、伊吹山
伊夫岐神社
下記の引用文は、丸山顕徳さんの論文「伊吹弥三郎伝説の形成」に記されている記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
私は、この要因は、伊吹弥三郎の祟り神としての性格、つまり蛇神(水神)としての性格と結びついたからだと考える。この論考の始めに、民話の例として、弥三郎とスサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治、伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇、伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊吹弥三郎を伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。
伊吹弥三郎が伊吹山の神と結びつき、水神として、守護神となると、彼のイメージは伊吹山の巨大なイメージ重ね合わさって巨人化への道をたどることになるではあるまいか。
ほかにも、伊吹弥三郎の水神
伊吹弥三郎は子供の時分に聞いた話では、まあとにかく、大きなでっかい力持ちの人やったと。で、この琵琶湖は、この男が土を持ってって、そしてその伊吹山を作りよったんやと。そして水を飲む時はこの姉川の両の山に跨
また がって、姉川の水をぐうっと飲みほしたと。それほどの力持ちの大きな男やったと。
(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [62]
伊吹弥三郎ちゅうのは、相当まあ想像にも及ばんような大きな人であったらしいんですよ。その人が伊吹山から七尾山へこう跨
また いで、ほいでおしっこしたら姉川ができたちゅうようなこと、ちょっと聞いとるんですがね。
(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [62]
参考: 姉川あねがわ ってどんな川?
琵琶湖には、多くの河川が流れこむ。
湖畔は、湖東平野でさえ山がちかく、従って川の長さがみじかい。その上、山の土砂をはこびこむため、みな河床
そのなかにあって、近江
長さ三七キロもある。ただしそのうち半分以上は伊吹
―― 司馬遼太郎『街道をゆく 24』 [63]
下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、姉川
(※下記の引用文のなかに出てくる「出雲井
〔前略〕
さて姉川は、ここから西に大きく流れを変えることになり、下流域の重要な用水として利用されていくことになる。このため、伊吹に大原庄(伊吹町・山東町さんとうちょう )の出雲井いずもい 〔いずもゆ〕、その下流の相撲庭すまいにわ の大井、郷里庄ごうりのしょう (長浜市北東部)の横井などの井堰いぜき が中世から設けられていた。姉川は、通常から流水量は豊かでなく、日照りが続くと砂礫されき のみの川となってしまい、上・下流、右岸・左岸の村々の間で水争いが行われ、井堰の存亡にかかわることも多かった。
このため、上・下流の井堰の間や取水した川の分流などの取り決めがつくられ、用水が確保された。
例えば長浜市の東を区切る横山(臥龍山がりゅうざん )の北端・龍たつ が鼻はな 地先の横井(郷里井)は、明徳元年(一三九〇)に東上坂ひがしこうざか の大野木土佐守が対岸の三田村左右門との戦いに勝って横井を築いたといわれ、大渇水時には、上流の出雲井で姉川の水が取られると横井へ流れてこないため、西上坂にしこうざか の土豪で京極氏の被官であった上坂こうざか 氏が文明(一四六九~一四八七)のころに京極氏の許しを得て(一説には大原氏との婚姻により)年に三度、出雲井を落として下流に流すことができるようになった。
これを三度水といい、一昼夜に限って落とされ、七日間隔で最高三度までであった。横井から取水した水は、さらに割合をもって各川に分水されていった。また、渇水時には、分水にも樽番たるばん といって、樽に小さな穴をあけて、時間を計って流す方法も明暦二年(一六五六)から始められるなど、水利についての細やかな配慮がうかがわれる。
この横井の近くの今荘橋いまじょうばし から野村橋・今村橋付近にかけての一帯は、元亀元年(一五七〇)六月二十八日、姉川をはさんで織田・徳川連合軍(約二万八〇〇〇人)と浅井・朝倉連合軍(約一万八〇〇〇人)とが激突したいわゆる「姉川の合戦場」となったところである。戦いは、徳川対朝倉、織田村浅井の形で始まり、当初浅井・朝倉の攻勢で始まった戦いも、最後は織田・徳川軍が勝利を収め、浅井・朝倉軍は浅井氏の居城小谷城へ敗走した。この戦死者は両軍あわせて、数千人に及び姉川の水は赤く染まり、「野も田畠も死骸ばかりに候」といわれるありさまとなったという。いまも、血原ちはら という地名が残り、「姉川戦死者之碑」など古戦場を示す石碑が建てられている。
姉川が全国的に名を知られるのは、この合戦によるところが大きい。ちなみに亮政・久政・長政と三代続いた戦国大名浅井氏は、天正元年(一五七三)八月二十八日の小谷落城とともに滅亡する。
(近江地方史研究会, 木村至宏, 「血に染まった古戦場」, 「3 姉川」, 『近江の川』) [64]
戸谷とったに の、「伊吹酒呑童子岩屋いぶきしゅてんどうじがいわや (伊吹童子岩屋いぶきどうじのいわや )」と、「弥三郎岩屋やさぶろういわや 」
ちなみに、伊吹山
戸谷
地元の方々にお話をうかがったり、いろいろな文献を調べてみたのですが、いまのところ、どちらの洞窟も、詳細は不明です。
なお、戸谷
なお、伊吹酒呑童子岩屋
参考: 伊夫岐神社いぶきじんじゃ にいたるまでの、伊吹山いぶきやま の水信仰の伝播経路
竜王は勿論水の神で、漢訳の御経と共に日本に輸入された名であるが、これを山上に祀るという風習は日本渡来以後のものであろう。おそらくは山上に水の神を祀る風がすでに日本にあり、これと習合した結果かと思うが、とにかく雨の神が山上にいますという信仰の証跡は竜王山のほかにも少なくなく、かつてこの信仰の弘く流布していたことが考えられる。山上の火焚きはこの神に雨を乞うために始まったものと考えられるのである。
―― 高谷重夫「4 山上の竜神」, 「(四) お火焚き祭り」, 「第三節 火祭りと雨乞」, 「第七章 雨乞儀礼の諸相 (四)」, 『雨乞習俗の研究』 [68]
伊吹山の水信仰の伝播経路
下記の引用文は、木村至宏
いま太平寺の推定地(大阪セメント伊吹鉱山近く)から南西方向に下りたところの伊吹町伊吹という集落に、かつては伊吹山頂に鎮座していたと伝えられる伊夫岐神社がある。『延喜式』神名帳にもその名をのこすほどの由緒ある神社で、昔から雨ごいの神様として多くの人々の信仰を集めているという。創建の年代はわからないが、当社の位置や残された伝承などからあるいは伊吹山寺とも何らかの関連があったかもしれない。
(松浦俊和
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう が「死んだ場所」: 妹川いもうとがわ (高時川たかときがわ )(井明神社いのみょうじんしゃ )
井明神社いのみょうじんしゃ : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の霊廟
暫し窓越に高時幹線の小谷山に目をやると、戦国時代浅井家三代の領主が偲ばれ、手前の高時川からは400年余に亘って井口弾生から伝承された厳粛な水利慣行のプレッシャが伝わってくる。また、賤ヶ岳から余呉湖に眼を転じると、風光明媚な景観に手を付けるのかと「羽衣の天女」の悲しげな顔が浮かぶ。絡んだ凧糸か、切れた琴糸か、何処から手をつけたら良いのか途方にくれて一日渡岸寺に参詣した。本堂に差し込む木洩日の中に十一面観音の静かな立像を拝観できた。頭上の各面差しは喜怒哀楽と、正面のお顔は柔和な衆生済度の微笑みをうかべている。戦火をくぐり土中に埋蔵され、人間の栄枯盛衰、業の深さを千余年見守ってきた慈愛の眼差しに心が洗われた。
―― 磯田秀雄「江州音頭と十一面観音」, 『湖北農業水利事業誌』 [70]
「近江」をとりまく戦国史は、信長、秀吉によって占領され、徳川史観や明治藩閥政府に塗り替えられた背景がある。もう一度、「近江」の視点に立って見直す必要がある。そうしなければ、正当な評価がされずに永遠に酷評に甘んじねばならぬ「近江ゆかりの人々」の魂が浮かばれぬ。
先に出版した『戦国近江伝 江争
―― 山東圭八
ここからは、伊吹弥三郎
高時川
「伊吹弥三郎
(※井明神社
一説によると弥三郎は伊香郡高時川畔の井之口で殺されたといわれます。しかしなぜか井之口大明神として祠にまつられて今日に至っています。井之囗は高時川上流の文字通り堰のある所です。本町伊吹の出雲井にあたります。
(「弥三郎実在論」, 『伊吹町史 文化・民俗編』) [72]
「伊吹弥三郎
(※「木本村
井口
ゐのくち 明神社
同村〔木本村きのもとむら 〕にあり。土俗相伝往古伊吹三郎〔伊吹弥三郎いぶきやさぶろう 〕といへる怪異の者あり、佐々木備中守頼綱〔佐々木頼綱ささきよりつな 〕命を蒙り之を窺ふ事日あり、偽って倶に井口川〔高時川たかときがわ 〕に遊び刺殺す。其霊祟りをなす故に祭りて井口大明神といへり。
(寒川辰清
上記の、『近江輿地志略
『伊吹山名勝記』という本のなかで、『近江輿地志略
下記の引用文を読むと、『近江輿地志略
伊香郡高時川の附近に、井の明神あり、是れ後年伊吹弥三郎の霊を祀りしものと伝ふ、(近江輿地誌略)
(中川泉三 [編集] 「七 柏原彌三郞膽吹山に遁れ伊吹彌三郎と稱せらる」, 『伊吹山名勝記』) [74] [13]
また、『近江伊香郡志
(※「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名(ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。)
【井之明神
ゆのみょうじん 】 大字おおあざ 井口いのくち 〔滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち 〕
文永ぶんえい 八年〔1271年(鎌倉時代中期)〕、大旱おおひでり す。佐々木頼綱ささきよりつな 、領民りょうみん に令れい して、諸もろもろの 井水せいすい の口くち に、大蛇おろち の霊たましい のなす所ところ なりとして、神霊しんれい を祀まつ らしむ。井之明神ゆのみょうじん と号ごう す。頼綱よりつな の臣しん 、東条経方とうじょうつねまさ 、蒲生郡がもうぐん 〔滋賀県近江八幡市しがけん おうみはちまんし 〕佐々木神社ささきじんじゃ 〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に祈いの りて神告しんこく を受う け、頼綱よりつな と共とも に家伝かでん の征矢そや を以もっ て大蛇おろち を伏ふ し、旱害かんがい を止とど めしによってなり。経方つねまさ の子孫しそん 、皆みな 、井口姓いのくちせい を称しょう す。
又また 、「井口弾正女いのくちだんじょうのむすめ 〔娘むすめ 〕、井水せいすい の為た め人柱ひとばしら となりしを祀まつ れる井明神社いみょうじんしゃ 、尾山村おやまむら 〔滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま 〕にあり」と、『輿地志略よちしりゃく 』〔『近江輿地志略おうみよちしりゃく 』〕にあり。『湖路名跡志こじめいせきし 』に、「中古ちゅうこ 、佐々木備中守源頼綱ささき びっちゅうのかみ みなもとの よりつな 、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう を誅ちゅう せし後あと 、九ヶ年きゅうかねん の間あいだ 旱魃ひでり し、井之明神ゆのみょうじん に神霊しんれい を祀まつ りて災わざわい を免まぬか る」とあり。
(富田八右衛門 [編集] 「井之明神(井口)」, 「北富永村」, 「第一節 神社誌」, 「第九章 社寺編」, 『近江伊香郡志
(※上記の『近江伊香郡志
下の写真に写っているのが、井明神社
「かつての餅の井堰付近の様子」の図 [78]
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」 [79])
井明神社
(滋賀県長浜市高月町尾山
地図 : 「伊吹弥三郎
参考: 参考地図上の各地点(高時川たかときがわ の周辺)
(下記の緯度経度の数値は、それぞれの場所の、おおよその緯度経度です。)
-
井明神社
いのみょうじんしゃ : 35.4988652,136.2487057
(祭神さいじん : 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう ?井口弾正いのくちだんじょう の娘?せせらぎ長者?(または、せせらぎ長者の娘?)渡江淵わたらいぶち の大蛇おろち ? [80]) -
「井口弾正娘 為人身御供 投身之跡」の石柱: 35.499245,136.249046
(井口弾正いのくちだんじょう の娘が、人身御供ひとみごくう (人柱ひとばしら )となって、身投げをした場所の跡地) - 「高時川水利発祥之地
たかときがわすいりはっしょうのち 」の石碑 - 白山神社
はくさんじんじゃ (滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま ) -
「餅井堰跡
もちのゆぜきあと 」の石碑
(餅の井もちのゆ )の跡地 - 馬上井堰之碑
まけゆぜきのひ - 井明神橋
いみょうじんはし - 高時川頭首工
たかときがわとうしゅこう -
与志漏神社
よしろじんじゃ (與志漏神社よしろじんじゃ )
(祭神さいじん : スサノオ、波多八代宿禰はたのやしろのすくね ) - 高時川大橋
たかときがわおおはし - 己高閣
ここうかく (十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう ) - 石道寺
しゃくどうじ (十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう ) -
オトチの岩窟(大蛇
おとち の岩窟)、オトチの洞穴、オトチのホコラ)おろち
(おおよその緯度経度: 35.53144,136.266381 )
(※「オトチの岩窟」を訪れる場合は、安全のため、「奥びわ湖観光ボランティアガイド協会」のガイドさんに道案内をしていただくことをおすすめします。(参考情報)) - 水分神社
みずわけ神社 (滋賀県長浜市木之本町川合しがけん ながはまし きのもとちょう かわい ) - 己高山
こだかみやま -
神前神社
かみさき神社
(祭神さいじん : スサノオ、許勢小柄宿禰こせのおからのすくね ) -
井ノ神社
いのじんじゃ
(祭神さいじん : 御井神) -
日吉神社
ひよしじんじゃ (滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち ) - 己高山円満寺
ここうざん えんまんじ -
「井口弾正邸趾
いのくちだんじょうていあと 」の石碑上記の写真に写っている石碑の文章は、下記のとおりです。
井口弾正邸址
ここは、かって栄えた井口氏の居館あとです。井口氏は、近江佐々木家の一族と伝え、中世以来高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握していました。戦国時代には、浅井家の重臣として活躍し、「湖北四家」に数えられていました。
享禄四年箕浦の戦いにおいて井口弾正経元は浅井亮政の身代わりとなって、主君の危機を救い亮政は経元の忠死を悼み、経元の嫡男経親を重用し、弾正の娘阿古を亮政の子久政の室に迎え長政を産みました。
長政は、お市との間にお茶々(のちの淀君)、お初、お江をもうけました。末娘お江は二代将軍秀忠の正室となり、その子和子は天皇家へと系譜は続きました。
このような由緒あるこの土地は、富永小学校用地として供用され、今秋改築された富永小学校へと引継がれています。これを機にこの歴史ある土地を後世に引継ぐため、ここに址碑を建立しました。平成十五年十一月 井口区
- 理覚院
くりかくいん - 白山神社
はくさんじんじゃ (滋賀県長浜市高月町保延寺しがけん ながはまし たかつきちょう ほうえんじ ) - 白山神社
はくさんじんじゃ (滋賀県長浜市高月町持寺しがけん ながはまし たかつきちょう もちでら ) - 雨森観音寺
あめのもりかんのんじ (己高山観音寺ここうざん かんのんじ 、蔵座寺ぞうざんじ ) - 天川命神社
あまかわのみこと神社 - 富永橋
とみながばし - 雨之森橋
-
井宮神社
ゆのみやじんじゃ [81] [82](祭神さいじん : 竜神(龍神) [83](高龗神たかおかみのかみ [84])) - 石作神社
いしつくり神社 ・玉作神社たまつくり神社 (伊吹弥三郎いぶきやさぶろう が投げた岩、「玉姫物語」の石碑) -
渡岸寺観音堂
どうがんじかんのんどう (所属寺: 向源寺こうげんじ )(十一面観音立像じゅういちめんかんのんりゅうぞう (国宝))
(※「渡岸寺どうがんじ 」というのは、かつて中世の時代にこの地にあったお寺の名前です。そして、現在は、渡岸寺どうがんじ というお寺は存在しません。また、そのお寺があった場所の地名は、そのお寺の名前にちなんで、「渡岸寺どうがんじ 」という地名になりました。その地名は、現在も残っています(滋賀県長浜市高月町渡岸寺しがけん ながはまし たかつきちょう どうがんじ )。現在の渡岸寺観音堂どうがんじかんのんどう の位置づけは、そのすぐ近くにある向源寺こうげんじ という浄土真宗大谷派のお寺に所属する「飛地仏堂」という位置づけになっています。) - 高月観音の里歴史民俗資料館
- 世々開長者流水遺功碑
せせらぎ長者流水遺功碑 - 馬橋
うまはし - 世々開橋
せせらぎはし - 小谷城跡
おだにじょうせき (浅井氏三代の居城)
参考: 『湖路名跡志こじめいせきし 』について
前述の『近江伊香郡志
『湖路名跡志
『湖路名跡志
『湖路名跡志
こじめいせきし 』に、「中古ちゅうこ 、佐々木備中守源頼綱ささき びっちゅうのかみ みなもとの よりつな 、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう を誅ちゅう せし後あと 、九ヶ年きゅうかねん の間あいだ 旱魃ひでり し、井之明神ゆのみょうじん に神霊しんれい を祀まつ りて災わざわい を免まぬか る」とあり。
(富田八右衛門 [編集] 「井之明神(井口)」, 「北富永村」, 「第一節 神社誌」, 「第九章 社寺編」, 『近江伊香郡志
(※『[滋賀]県立図書館所蔵文書 18 写真複製版』に収載されている『湖路名跡志
-
外題
げだい (貼外題はりげだい ): 湖路名跡誌こじめいせきし -
内題
ないだい (巻首題かんしゅだい ): 淡海名跡誌おうみめいせきし -
尾題
びだい : 湖路名跡志こじめいせきし
(※注記: 『湖路名跡志』(『湖路名跡誌』)という文献の題名の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、『湖路名跡志』(『湖路名跡誌』)を「こじめいせきし」と読むことにします。)
(※注記: 『淡海名跡誌』という題名の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、『淡海名跡誌』を「おうみめいせきし」と読むことにします。)
『湖路名跡志
そのあたりの事情については、下記の『北村季吟
季吟の著書で「湖路名跡誌」というのがあった。それは近江国の名勝・旧跡を「いろは」順」にまるで字引のように書いたものであるが、今その原本は伝わっていないが、後に中房非々という人が享保十六年(季吟歿後二十七年)に増補して「淡海名跡誌」として出された。
(寺井秀七郎, 滋賀県野洲郡 祇王小学校
「飛行上人ひぎょうしょうにん の事こと 付つ けたり 伊吹弥三郎殿いぶきやさぶろうどの の事こと 」『三国伝記』
桃李樹樹に微妙の花を捧
渓水時々に梵音の声を唱う
雪下の寒梅は解脱の香を焼き
巌上の幽月は不夜灯を挑
桃李樹樹捧微妙花
渓水時時唱梵音声
雪下寒梅焼解脱香
巌上幽月挑不夜灯
―― 「飛行上人
琴詩酒伴皆抛我
雪月花時最憶君
琴詩酒
雪月花
ふつう竜宮といえば海中を連想するが、中世説話では必ずしもそうではない。たとえば、『平治物語』には、邪気(病気などを起こす悪い気)払いに良いというので、摂津箕面
祇園の神殿の下には竜宮に通じる穴がある(『釈日本紀』巻七 述義三 神代上)、興福寺の下に竜宮城がある(延慶本『平家物語』巻六―二二)といった観念も、広く流布していたようだ。山中の洞窟の奥や地下に竜宮があるというのは、石田英一郎が指摘したように、地下の洞穴は「いわゆる“地脈”として思想的には水界と通じている」からである。
―― 高橋昌明『酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』 [88]
このいわゆる牛ククリに似た俗信は、マライ半島にも見出だされ、また『今昔物語集』の天竺の部にも、牛が石穴中の仙境に入った物語を伝えているが、中国人古来の世界観にあっては、この種の地下の洞穴も、いわゆる“地脈”として思想的には水界と通じているのであって、われわれの住む大地は、大は“浮洲”、小は“浮山”の名にあらわれるように、大洋に浮かぶ氷塊にも似て、しばしば淪陥して湖となり、あるいは大海に通ずる“海眼”を処々に有するものとされている。日本にも同様、海からくる地下水の観念が普及しており、したがって岩屋に水の神の信仰の移っていることは、柳田先生や折口先生などもつとに指摘せられた。壱岐には水界からきた美しい女房が、ある時屋敷内の井
―― 石田英一郎「地下水」,「第一章 馬と水神」, 「新版 河童駒引考」 [89]
『三国伝記』巻第6のなかの第6の「飛行上人
さき頃、伊吹山に弥三郎という変化のものがいた。昼は険しい山中の洞窟に住み、夜は関東・九州の遠方まで出かけ、人家の財宝を盗み、国土の凶害をなした。天下の憂いとなったので、近江の守護佐々木備中守頼綱に、国内の狼藉を退治せよとの勅命が下る。そこで険難の峰に分け入ったが、いるかと思えば他郷に逃れ、たまに山にある時は人の通わぬ竜池に隠れ、容易に退治できない。頼綱は思案のあげく、摩利支天の秘法、隠形の術を習って姿を隠し、ついに弥三郎が高時川の河中にあるとき近づいて殺した。
そののち、弥三郎の怨霊は毒蛇となって高時川の井の口を深い淵になし、水がゆかないようにして田を荒廃させ、人びとを苦しめた。悪霊を神と崇め井の明神として祭ったところ、毒心改まって井の口の守護神になった。
人びとの暮らしに幸いをもたらすようになっても、年に一度夏の頃、弥三郎は伊吹山頂の禅定に通った。その時は一天にわかにかき曇り、霹靂が轟き霰が降るので、見た人びとは、弥三郎殿が伊吹の禅定に通うぞ、と恐れ怖じた。
(高橋昌明「一、竜宮としての鬼が城」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『定本 酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』) [91]
上記の、『三国伝記』巻第6のなかの第6の「飛行上人
和
やまと 伝う。近江・美濃両国の境に伊福貴いぶき と云い う太山たいざん あり。大乗の峰と号す。古仙の霊崛として弥勒説法の砌みぎり 也。峰は是れ実相大乗の峰、此れを霊山一会と名づく。所は是れ弥勒説法の所、豈に龍花三会を待たんやと。玆ここ に因りて桃李樹樹に微妙の花を捧ささ げ、渓水時々に梵音の声を唱う。雪下の寒梅は解脱の香を焼き、巌上の幽月は不夜灯を挑かか げたり。〔中略:飛行上人
ひぎょうしょうにん (三朱沙門さんしゅしゃもん 、三修上人さんしゅうしょうにん 、三修沙門さんしゅうしゃもん )についての記述の部分を省略。〕近曽
さいつころ 、彼か の伊福〔貴〕山いぶきやま に弥三郎やさぶろう と云い う変化へんげ の者の栖す みけり。昼は崔嵬畳嶂さいかいちょうしょう の洞壑どうがく に住して、夜は関東、鎮西ちんぜい の遠境に往還し、人家の財宝を盗奪うば い、国土の凶害を成す事、斜なのめ ならず。天下の大なる愁うれ えなる故ゆえ に、当国守護、佐々木の備中の守ささきのびっちゅうのかみ 、源の頼綱みなもとのよりつな 〔佐々木頼綱ささきよりつな 〕の卿きょう に勅命ちょくめい を下されて、「分国ぶんこく の狼籍ろうぜき 、討ち治めしむべし」云々うんぬん 。頼綱よりつな 、宣旨せんじ に任、嶮難けんなん の峰に分け入りて彼か の物を伺うかが う。是こ れに在あり かとすれば、忽焉こつえん として他郷に移り、適たまたま 此こ の山〔伊吹山いぶきやま 〕に有る時も、本もと の栖家すみか を捨て去りて、人倫じんりん 都すべ て通つう ぜざる龍池の辺ほとり に隠れけり。さる程に治罰じばつ 己すで に延引えんにん して両年を過すご したり。爰ここ に頼綱よりつな 思いけるは、彼か の盗跖とうせき が巨悪、柳下恵りゅうかけい が大賢なりしも罰せず。丹朱たんしゅ 〔堯ぎょう の息子〕が不肖ふしょう をば、唐とう の堯帝大聖ぎょうていたいせい も治おさ むは難かた し。彼等あれら は父子兄弟の間なりしすら尚な お此か くの如ごと し。何況いわん や雲泥、交を隔たる、野心違勅いちょく の悪党を打捕うちとら ん事、豈あ に輙たやす からん哉や 。然しか りと雖いえど も、若も し彼か を遁のが したらば、一身の不覚、万世よろづよ の口遊くちずさ みたるべし〔永遠に笑いものにされてしまうだろう〕と思い入りて、摩利支天まりしてん の秘法を伝え、隠形おんぎょう の術を修して彼か の盗賊を伺うに、高時河たかときがわ 〔高時川たかときがわ 〕の河中にして近付会い、忽たちまち に彼か を誅戮ちゅうりく し、四海しかい の白浪しらなみ を静め、一家の名誉を播ほどこ せり。その後、彼か が怨霊、毒蛇と変じて高時川たかときがわ の井の口いのぐち を碧潭へきたん 〔深い淵〕と成して用水を大河に落したり。是こ れに依よ りて多くの田代たしろ 、枯潑こはつ して青苗黄枯れ、飲水忽たちまち に尽き、民間みんかん 悉ことごと く窮渇せり。人、九年畜たくわ え無ければ、飢饉死亡の者、その数を知らず。これに依りて、その所に祠やしろ を建てて悪霊を神と崇め、井の明神いのみょうじん と号す。礼典れいてん を儲もう けて、如在にょざい の儀ぎ を致す〔まるで弥三郎やさぶろう が生きているかのうように奉仕し、弥三郎やさぶろう を祀まつ る儀式をおこなった〕。故ゆえ に生ての怨も、死しての歎と毒心を改めて、井の口いのぐち の守護神と成りたまう。所以このゆえ に風雨、天の時に随い、水津すいしん 、地利を潤うるお せり。然しかる に、九夏三伏きゅうかさんぷく の比ころ 〔一年でもっとも暑い時期に〕、猶な お一年に一度、伊吹いぶき の禅定ぜんじょう に上りて〔伊吹山いぶきやま の頂上に登って〕、昔の路みち に彷徨ほうこう す。その時に、晴天、俄にわか に曇りて、霹靂へきれき の、空に動いて、凍霰とうさん 、地に降る。見る者、「あはや、例れい の弥三郎殿やさぶろうどの の禅定ぜんじょう に通かよ い給たま うは」とて、惶怖こうふ せずと云い う事なし〔それを見た人は、「ああ、弥三郎やさぶろう さんが伊吹山いぶきやま の山頂に登っておられるんだな」と言って、恐れた〕。
(『三国伝記』巻第6 第6「飛行上人
上記の『三国伝記』の物語では、伊吹弥三郎
井明神社
(井明神社
この本の「井明神社」の項目の説明文には、「文永8年(1271)大旱魃の時、建立。正保4年(1647)石材で再建。井堰水利の守護神として崇められている」と書かれています(高月町史編纂委員会, 1998, p.16)。
上記の記述と同様のことが、下記の『近江伊香郡志
【井ノ神社】文永八年九月〔1271年9月〕創立 正保四年八月〔1647年8月〕石材を以て再建す 尾山
(富田八右衛門 [編集] 「井ノ神社(尾山)」, 「北富永村」, 「第一節 神社誌」, 「第九章 社寺編」, 『近江伊香郡志
井明神社
参考: 「井ゆ 」ってなに?(出雲井いずもゆ や、餅の井もちのゆ などの、湖北地方こほくちほう の井堰いせき と水利すいり について)
本稿のなかに、「井
滋賀県北東部の「湖北
(※滋賀県米原市
(※伊吹弥三郎
ここで言う「井
また、ここで言う「井
湖北地方
-
出雲井
いずもゆ (いづもゆ): 伊吹山いぶきやま のふもとにある伊夫岐神社いぶきじんじゃ のちかくにあった「井ゆ 」(井堰いせき )です。出雲井いずもゆ は、姉川あねがわ から用水路に水を引くための井堰いせき でした。出雲井いずもゆ よりも下流の姉川あねがわ 流域には、ほかにも複数の「井ゆ 」(井堰いせき )がありました。(たとえば、「相撲庭すまいにわ の大井」や、「郷里庄ごうりのしょう の横井(郷里井)」などの「井ゆ 」(井堰いせき )がありました。)。 -
餅の井
もちのゆ : 井明神社いのみょうじんしゃ のちかくにあった「井ゆ 」(井堰いせき )です。餅の井もちのゆ のちかくには、ほかにも複数の「井ゆ 」(井堰いせき )がありました。餅の井もちのゆ と、そのちかくにあった「井ゆ 」は、高時川たかときがわ (妹川いもうとがわ )から用水路に水を引くための井堰いせき でした。
下の図は、餅の井
「かつての餅の井堰付近の様子」の図 [78]
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」 [79])
佐野静代さんは、「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」のなかで、「井
さて、上記の水利をめぐる民俗儀礼の中で、「餅の井落し」〔もちのゆおとし〕の際に大井組の村落民が参拝し、また「勘弁水」の返礼として御礼踊りが奉納される井ノ神社とは現在日吉神社境内にまつられている小さな祠である(第2図参照)。井ノ神社は、もとは日吉神社の裏に別に社地を持ってまつられていたのであるが、明治になって今の日吉神社の境内に合祀されたものという。井ノ神社は別名井の明神とも呼ばれ水の神であるが、それが井と関わっていることに注目すべきであろう。近江湖北地方においては、井(ゆ)とは、井戸ではなく井堰とその用水路のセットとしての水利システムを意味しており、井ノ神社の場合、上述の民俗儀礼からみて、大井の祭祀に深く関わっていることが予想される。
(佐野静代「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」) [95] [13]
以下、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです)。
“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし(その一)伊吹弥三郎
むかしむかし、伊吹山にな、伊吹弥三郎ちゅう怪人
かいじん がいよってな、悪いこともするんやけどよいこともしよったんやと。まるで赤鬼のような大男で、体じゅう毛むくじゃら、すごいカ持ちだったんやで。
そのじぶん、千田にうねめちゅう庄屋さんがいやはってな、村中のたんぼの水が足らんさかい上水井こうずいゆ をもっとしっかり立てなあかんとおもて、長いことくろうしてやはったんやと。上水井ちゅうのは、尾山の東の川原ん中にあった井ゆ やで。
井〔ゆ〕ちゅうのはな、今はコンクリートや鉄で造ったるけんど、昔は、木やら柴しば やら、俵やらむしろを使うて、水を止めたったもんや。ほんで、大水が出ると、一ペんに流されてもて、たんぼがつくれなんだんや。
井〔ゆ〕を立てるんやったら、じょうぶな杭くい を川原にうちこまんとあかんやろ。ほやけど、川原の底は石やら岩ばっかりやがな。岩にあたったらもうしまいや。人間のカでは、岩に杭はうてんもんなあ。
(「“井
参考: 「餅の井落としもちのゆおとし 」ってなに?
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう と、千田せんだ の庄屋うねめさんの娘
以下、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より。
下記の文中の「千田」というのは、現在の滋賀県長浜市木之本町千田
下記の文中の「上水井
「かつての餅の井堰付近の様子」の図 [78]
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」 [79])
以下、『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』より。
“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし(その一)伊吹弥三郎
むかしむかし、伊吹山にな、伊吹弥三郎ちゅう怪人
かいじん がいよってな、悪いこともするんやけどよいこともしよったんやと。まるで赤鬼のような大男で、体じゅう毛むくじゃら、すごいカ持ちだったんやで。
そのじぶん、千田にうねめちゅう庄屋さんがいやはってな、村中のたんぼの水が足らんさかい上水井こうずいゆ をもっとしっかり立てなあかんとおもて、長いことくろうしてやはったんやと。上水井ちゅうのは、尾山の東の川原ん中にあった井ゆ やで。
井〔ゆ〕ちゅうのはな、今はコンクリートや鉄で造ったるけんど、昔は、木やら柴しば やら、俵やらむしろを使うて、水を止めたったもんや。ほんで、大水が出ると、一ペんに流されてもて、たんぼがつくれなんだんや。
井を立てるんやったら、じょうぶな杭くい を川原にうちこまんとあかんやろ。ほやけど、川原の底は石やら岩ばっかりやがな。岩にあたったらもうしまいや。人間のカでは、岩に杭はうてんもんなあ。ほんで、庄屋さんも、ほっこりよわってもてやはったんやと。
ほいたら、村の人らがな、
「伊吹弥三郎にたのんでみたらあかんやろか」
て、ゆいだしたんやと。ほんで庄屋さんが、伊吹山へつかいを出して、
「村中のもんをたすけるために、どうか川原に杭をうって下さい」
と、たのまはったら、弥三郎は、なんてゆいよったと思う? やさぶろうはな、
「庄屋の娘をわしの嫁にくれたら、いつでもうってやろう」
て、ゆいよったんやと。
「ほんなこと、でけん」
ちゅうて、つかいの人がかえってきて、庄屋さんにゆうたら、庄屋さんも、
「杭はうってほしいけんど、ほんでも、娘がかわいそうやさかいなあ」
ちゅうて、よわってまわはったんやと。
なんせい、ほの娘さんは、村でもひょうばんのべっぴんさんで、おまけに気立てのやさしい娘さんやっ
たさかい、だぁれも、怪人みたいなやつの嫁さんにはやりとうなかったんやてや。
「いかにも、むりな話やさかい、ことわるよりしょうがない」
ちゅうて、みんながそうだんしているのを、娘さんが聞いてな、また、なんてゆわはったとおもう?
娘さんはな、
「わたしが嫁にいったら、村中が助かるんやさかい、村への御恩返しに伊吹山へまいります」
てゆわはったんやて。かわいそうになあ。
ほんで庄屋さんも、
「おまえが、そうゆうてくれるんやったら……」
ちゅうて、心を鬼にして決心しやはって、弥三郎に、
「娘を嫁にあげますさかい、川原に杭を百本うってもらいたい」
と返事しやはって、いよいよ、うってもらうことになったんやと。
弥三郎は、ほらもう大よろこびで、伊吹山から雲をおこしてとんできよってな、どんどん杭をうちよったんやと。なんせ怪力やさかい、川原の岩でも何でもつきやぶってもてな、みてるまに五六十本もうってまいよったんやがな。
はじめのうちは、みんなもどだい感心してよろこんでながめてたんやけどな、だんだんしんぱいになってきたんやなあ。
「こりゃえらいこっちゃ。うてやせんやろとおもてたら、ほんまにうってまいよるがな。ほんなら、娘さんをどうしてもやらんならんことになってまうがな」
ちゅうて、みんなで相談して、いよいよ百本めをうちこみよる時に、後からよってたかって、竹やりで突いてしまおうて、きめたんやと。なんせ、村の人らは、庄屋さんの娘さんが、かわいそうでかわいそうでならなんだんやな。わるいこっちゃけどしょうがないちゅうて、竹やりをぎょうさんつくってな、じっとかくれてたんやと。
弥三郎が、汗をタラタラ流して、百本めをうちこんだ時にな、
「そら、やれ」
「わきの下をつけ」
ちゅうて、
「ダーッ」
とついたら、弥三郎も、ゆだんしとったもんやさかい、うまいこと突けたんやと。
さあ、弥三郎がそらもうおこりよったのなんのて、血だらけになってとびあがってな、千田めがけて娘さんをとりに走りよったんや。血が流れて、そこらのみぞが真赤まっか になってもたさかい、今でも“ちぬるみぞ”ちゅう名まえがのこったるそうや。
けんどな、庄屋さんの家は、みんなしてよってたかって弓やらやりをそろえて守ってたもんやさかいどうしてもはいれなんだんやな。ほんで弥三郎は、伊吹山へとんで帰って、山のてっぺんから大きな岩をつかんで、千田の方めがけてポンポン投げよったんやと。さいわいひとつもあたらなんださかいよかったんやそうな。
ほんで今でも、このあたりの田んぼに、あっちにもこっちにもいかい石があるやろ。あれは、弥三郎が投げつけよった石やで。いかい石やろが。
なんやて、弥三郎はどうなりよったてか? そら、ぎょうさん血が出てもたさかい、怪カが出んようになってもて、死によったんやろ。上水井こうずいゆ のとこは、いま、合同井ごうどうゆ になったるわな。
こんでしまい。
(「“井
井明神社いのみょうじんしゃ の祭神さいじん は誰なのか?
さきほどの『三国伝記』の話では、井明神社
その影響なのか、井明神社
・伊吹弥三郎
・井口弾正
・せせらぎ長者、または、せせらぎ長者の娘
・渡江淵
「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう 」説
「伊吹弥三郎
「井口弾正いのくちだんじょう の娘」説
中世の在地領主制に関するこれまでの研究においては、鎌倉期の『沙汰未練書』に、「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」「開発領主トハ、根本私領ナリ」とあるように、開発行為こそが在地領主による土地所有の最大の根拠だとされてきた。本章では、この開発の実施にあたって、絶えず用水の確保が必要となることに着目したい。用水支配権が所領の領主権の根源になっているとの指摘さえあるように、在地領主による用水の開発と整備こそが、彼らの開発領主としての支配に根拠を与えていたのではないだろうか。
―― 佐野静代『中近世の村落と水辺の環境史 : 景観・生業・資源管理』 [100]
伊吹弥三郎
なお、井口地区
『近江輿地志略
尾山村
をやま村 〔おやまむら〕
持寺村〔もちでらむら〕の東に在〔あ〕り。
井明神社ゐのみやうじん社 〔いのみょうじんしゃ〕
尾山村に在〔あ〕り、大井〔おおゆ〕といふ井水の上に在〔あ〕り。相伝井口弾正娘、井水引兼ぬる故、人柱に入りしを祭れる神なりといふ。
(寒川辰清
井明神社
佐野静代さんは、「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」のなかで、つぎのような説を紹介されています(佐野, 1997, p.135)。
かつて大井の開削の時、高時川の取水口である尾山に大穴があいて水を吸い込んでしまい、大井の用水路に高時川の水を引くことができなかった。時の領主井口弾正の娘が人身御供となってこの大穴に入水すると、たちまち大穴はふさがり、高時川の水は大井用水路へ流れ込むようになった。この娘の霊を祭り水利の神としてあがめたのが井ノ神社の始まりであるという(『高月町のむかし話』)。
(佐野静代「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」) [102]
上記の引用文のなかで出典としてあげられているのは、『高月町のむかし話』という本です。その『高月町のむかし話』に記されている、「井口弾正
〔“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし〕(その三)ひとばしら
井口の日吉神社の東に、小さなお宮さんがあります。このお宮さんは、はじめ、高時川地先にまつられていたのですが、後になって、今の場所に移されたそうです。
このお宮さんは「井ゆ の明神」といって、私たち農村にとって、一ばんたいせつな水利すいり の神さまです。
井の明神には、大へん珍しいものがまつられてあるそうです。それは、昔の女の人たちが使った、櫛くし と笄こうがい だということです。なぜこんなものがおまつりしてあるのでしょうか? それには、こんなむかしばなしが語りつがれています。◇ ◇ ◇
「おうーっ、また、水がすいこまれるぞい」
「また、穴があいたんじゃ」
「こんどの穴は、前よりも大きいぞい」
つかれきった村人たちは、もっこやかけやをなげ捨てて、水の行方を見守っていました。水取口に、ポッカリあいた大穴は、埋めても理めても、水を通すたびに、村人の苦心をあざけるかのように、水をすいこんでしまって、せっかく造った用水川には一滴てき の水も流れません。十二ヶ村の総力をあげて立てた大井おおゆ の井ぜきも、水が引けなければ、たんぼは枯れて、ひとつぶのお米もとれないのです。
「こりゃきっと、龍神りゅうじん さまが、おこっていなさるんじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ。おそろしいことじゃ」
「だれか、悪いことをしたもんがいるからじゃ」
村人たちは、おそろしげにささやき合いながら、カラカラにかわいたたんぼ道を、力なくトボトボと帰っていきました。
井口をはじめとして、富永の庄の水利を支配する井口弾正も、この大穴をふさぐことについては、日夜頭をいためていました。
ある朝、村の大庄屋孫兵衛が、弾正の館やかた へ参上して、
「実は、昨夜たいへんな夢をみました。私の夢枕ゆめまくら に、岩滝大神いわたきおおかみ がお立ちになりまして、『妙齢みょうれい の婦人を、人身御供ひとみごくう にすれば、水は流れるであろう』といって、そのまま消えてしまわれました。まことにふしぎな夢でございました」
と申しあげているところへ、もう一人の大庄屋八兵衛が、同じ夢のお告げを報告に来ましたので、弾正もそのお告げの重大さに驚いて、三人でいろいろと詮議せんぎ をしましたが、人身御供というのは、その大きな穴へ身を投げて、竜神さまに命をささげることであるだけに、だれそれと名指なざ しをするわけにはいくまい、ということになって、三人とも、めったにいいだすこともできず、ただ思案にくれていました。
弾正には、何人かの美しい娘さんがありました。そのうちの一人が、このはなしをとなりの部屋で聞い
ていました。心のやさしい娘さんは、
「わたし一人がひとばしらにたてば、龍神さまが水を通してくださるのなら、よろこんでまいりましよう」
と、父にも、母にも、だれにも言わないで、その夜、こっそりと家をぬけだして、川原の水取口の大きな穴のところまでやってまいりますと、話に聞いたとおりの巨大な穴が、深く深く地獄にまでつづいているかと思われる、大きな口を見せていました。
“南無、意波大岐いわたき の竜神さま、この穴をふさいで水を通させたまえ”
と、高らかに祈りながら、穴に身を投げようとした時、
「ゴゴーッ」
と山鳴りがして、山上から大岩石がころがり落ちたかと思うと、たちまち、大穴の口をふさいでしまいました。水は、みるみる満水となり、取入口から用水川へ、とうとうと流れ始めました。
「水がきたぞーっ」
「たんぼが、助かったぞーっ」
喜びいさんだ村人たちは、つかれも忘れてかけつけました。なんと、巨大な石がすっぽりと、穴をふさいでいるではありませんか。
「龍神さまじゃ」
「龍神さまが、石をころがして下さったのじゃ」
「ありがたいことじゃ」
青々と勢をもり返したたんぼをながめて、村人たちは、手の舞い、足のふむところを知らずに喜んでいたのですが、やがて、その岩の上に、何か白いものが置いてあることに気がつきました。おそるおそる手にとってみますと、白い紙につつまれた櫛くし と笄こうがい であったのです。
「あっ、この櫛はたしか、弾正さまの娘さまが持っていなさった櫛じゃ」
「それに、この笄にも、見おぼえがある。まちがいなく、弾正さまのお姫さまの笄じゃ」
どうして、それがここに・・・・・・と、いぶかっている村人たちのところへ、息せき切って、かけつけた大庄屋二人は、
「あっ」
と、息をのんでしまいました。
「実は、娘さまがお一人、今朝になって、どこにもいなさらんのじゃ」
「弾正さまも、えろうご心配なのじゃ」
櫛と笄を手にとった孫兵衛は、ハッと気がついて、八兵衛の顔を見ました。八兵衛もまた、孫兵衛の顔を見ました。二人の視線は、ヒタと出合ったまま、しばらくはものもいえずに、立ちつくしていました。
やがて二人は、地面にひざまずいて、岩に向かい、櫛と笄をおしいただきながら、村人たちに告げました。
「皆の衆、どうか坐ってくだされ。そして、手を合わせて、いっしょにおがんでくだされや。弾正さまの娘さまが、龍神さまのお告げを受けて、人柱にたってくだされたのじゃ」
「娘さまは、もう今ごろは、龍神さまの御殿から、わしらの喜んでいる姿を、じっと見てござらっしゃるぞ」
村人は、はじめて知った尊い人柱の霊験と、娘さまの慈悲の心にうたれて、だれひとり、立っている者はいませんでした。岩をめぐって、じっと坐りこんだまま、ありがた涙にくれて、いつまでも合掌していました。
(「“井
『近江伊香郡志
下記の『近江伊香郡志
(※「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名(ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。)
【井之明神
ゆのみょうじん 】 大字おおあざ 井口いのくち 〔滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち 〕
文永ぶんえい 八年〔1271年(鎌倉時代中期)〕、大旱おおひでり す。佐々木頼綱ささきよりつな 、領民りょうみん に令れい して、諸もろもろの 井水せいすい の口くち に、大蛇おろち の霊たましい のなす所ところ なりとして、神霊しんれい を祀まつ らしむ。井之明神ゆのみょうじん と号ごう す。頼綱よりつな の臣しん 、東条経方とうじょうつねまさ 、蒲生郡がもうぐん 〔滋賀県近江八幡市しがけん おうみはちまんし 〕佐々木神社ささきじんじゃ 〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に祈いの りて神告しんこく を受う け、頼綱よりつな と共とも に家伝かでん の征矢そや を以もっ て大蛇おろち を伏ふ し、旱害かんがい を止とど めしによってなり。経方つねまさ の子孫しそん 、皆みな 、井口姓いのくちせい を称しょう す。
又また 、「井口弾正女いのくちだんじょうのむすめ 〔娘むすめ 〕、井水せいすい の為た め人柱ひとばしら となりしを祀まつ れる井明神社いみょうじんしゃ 、尾山村おやまむら 〔滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま 〕にあり」と、『輿地志略よちしりゃく 』〔『近江輿地志略おうみよちしりゃく 』〕にあり。『湖路名跡志こじめいせきし 』に、「中古ちゅうこ 、佐々木備中守源頼綱ささき びっちゅうのかみ みなもとの よりつな 、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう を誅ちゅう せし後あと 、九ヶ年きゅうかねん の間あいだ 旱魃ひでり し、井之明神ゆのみょうじん に神霊しんれい を祀まつ りて災わざわい を免まぬか る」とあり。
(富田八右衛門 [編集] 「井之明神(井口)」, 「北富永村」, 「第一節 神社誌」, 「第九章 社寺編」, 『近江伊香郡志
「井口弾正娘
(滋賀県長浜市高月町尾山
参考: 井口弾正いのくちだんじょう の娘である阿古あこ は、浅井久政あざいひさまさ の妻つま であり、浅井長政あざいながまさ を産んだ母
「久政公御内儀ハ井ノ口弾正少弼息女也信長公十指ヒ数日切リ生害ノ由」
〔浅井久政
織田信長
『嶋物語』(『嶋記録』)より [104] [105] [106] [107]
涙でかすむ目でも、拝む手の皺は見えた。十分に生きられた証
「それならばよい方法がございます。信長らしい仕打ちだと誰もが思い、誰かは泣いてくれるでしょう」
そう言うと阿古は天を見上げた。土蔵の天井は暗く、空は見えなかった。それでも、阿古は祈るように願った。
「ああ、どうか、許してください。私は地獄に落ちるともかまいません。どうかこのような仕打ちをすることをお許しください」
白く美しい十本ある指と指を重ねて、阿古は祈り続けた。
『信長公記』には次のように記録されている。
浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを探し出し、関ヶ原というところで磔に掛けた。
『嶋記録』には次のように記録されている。
久政公の内儀
阿古は、その美しい十本の指と引き替えに、信長の検分を遅らせるための十日ほどの日数を生み出した。
―― 山東圭八
これは史実の話ですが、井口弾正
さきほど、『高月町のむかし話』の「“井
さきほど引用した、『高月町のむかし話』の「“井
下記の文章は、太田浩司さんの『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡』という本からの引用です。
〔一 戦国大名浅井氏の歴史〕
〔女性からみた浅井氏の系譜〕
久政の妻・阿古御料
久政〔浅井久政
あざいひさまさ 〕の妻、伊香郡井口いのくち (長浜市高月町井口)の土豪井口経元〔井口弾正いのくちだんじょう 〕の女〔むすめ〕で、小野殿とか阿古御料あこのごりょう とか言われた人物である。この井口氏は、富永庄総政所まんどころ を主宰する庄官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を統括していた「井預り」でもあった。
この伊香郡用水の村々と、高時川左岸を灌漑する浅井郡用水各村の対立は、すでに応永年間(一三九四~一四二八)から見え、江戸時代には浅井郡用水(餅もち の井ゆ )の優先権を認めた「餅の井落とし」の慣行を生んだ。この高時川左岸を灌漑する浅井郡用水は、浅井氏の出身地である丁野〔ようの〕をはじめとする小谷城〔おだにじょう〕の麓の村々を灌漑する。浅井氏が、その用水権の代表者として考えられるのは当然である。
亮政〔浅井亮政あざいすけまさ 〕の時代に行なわれたであろう、浅井氏と井口氏の婚姻は、絶えず緊張関係にあった、伊香郡用水の代表者である井口氏と手を結ぶことで、浅井氏がその最大の経済基盤であった小谷城下の生産を安定させることに目的があった。井口氏から阿古御料を迎えたのは、自らの経済基盤の生産を安定させるために行なった、浅井氏の国内向けの対策であったと結論出来よう。なお、この阿古御料は『嶋記録』によれば、信長によって十指を数日の間に切られ殺害されたという。長政生母であったことが、信長の恨みをかった悲劇であった。
(太田浩司「久政の妻・阿古御料」, 「女性からみた浅井氏の系譜」, 「一 戦国大名浅井氏の歴史」, 『浅井長政と姉川合戦 : その繁栄と滅亡への軌跡』) [115]
下記の文章は、山東圭八
そこで、信長の使者は、半兵衛に告げた。
「信長様の御命令である。浅井長政の嫡男と母を処刑しろ。嫡男は磔に、母も近江の人々が慕う気持ちを挫くような殺し方をしろ。これを竹中半兵衛が行え。今、信長様は長島一向一揆の征伐に行っておられる。処刑が済めば、検分するため関ヶ原に寄るので伝えよ。これがお屋形様の命である」
半兵衛は愕然がくぜん となった。まさかそれほどの仕打ちを、信長が本当に考えているとは思わなかった。半兵衛の心の中であの声がこだました。
半兵衛は、阿古に会って話をしなければならないと思った。
〔中略〕
阿古の問いに半兵衛は言いにくそうにして、重い口を開いた。
「阿古様は、北近江の人々の心を繋ぐ大事な人です。信長様はそのことを恐れている。あなたを私の手で殺さねばならん」
しばらくの沈黙の後、阿古は呟いた。
「そうですか」
阿古はもう悟っていたようである。しかし、半兵衛はもう一つ重要なことを伝えなければならなかった。
「阿古様。信長様は、秀吉殿以上に目が利く。処刑された子を見れば不審に思うだろう」
達観しているように見えた阿古の顔色が変わった。
「確かに同じ年頃の少年であるが、身体は細く柔軟な体つき。恰幅かっぷく の良い大柄な長政様からは想像できない。喜久丸殿を知る者もいる。私ですら不審に思った。あの少年は、別人ではないのか」
半兵衛の話を聞くうちに阿古の顔から血の気が失せ、真っ白になった。
「半兵衛殿。どうか助けてください。喜右衛門殿が死ぬ前に言っていました。もしも浅井家が滅び、頼る者がなければ、半兵衛を頼るとよい。本当は半兵衛という男は、儂らと同じで、ここに生きる人たちを命懸けで守ってくれる奴やと喜右衛門殿が言っていました。ですから、どうか半兵衛殿、助けてください。私たちの最後の望みなのです。だから、あなたに命を預けたのです」
阿古は、真っ白な手を合わせて半兵衛を拝んだ。半兵衛の脳裏にあの声がこだまする。喜右衛門が昔言っていた言葉が思い出される。
「主人あるじ が何と言おうと儂自身が正しいと思うことはやってきた。それが本当に世の人のためになると思ったら…半兵衛、為すべきことを…」
半兵衛の脳裏に喜右衛門が現れていた。半兵衛は自分だけに言い聞かせるように、僅かに唇を動かし呟いた。
「為す」
そして半兵衛は阿古に告げた。
「処刑した後、そう、十日。十日もあれば、誰の亡骸なきがら かは分からなくなるだろう。その日数をいかに稼ぐか。信長様の検分を十日遅らせることができるなら」
半兵衛はそう言った。阿古は、半兵衛の思いを知ると、また拝んだ。拝み見る男の顔が、溢れる涙で見えなくなった。両の掌てのひら を合わせて何度も何度も拝み、そして思案した。涙でかすむ目でも、拝む手の皺は見えた。十分に生きられた証あかし だと思った。その白く長い指を見て、ふと思いついた。
「それならばよい方法がございます。信長らしい仕打ちだと誰もが思い、誰かは泣いてくれるでしょう」
そう言うと阿古は天を見上げた。土蔵の天井は暗く、空は見えなかった。それでも、阿古は祈るように願った。
「ああ、どうか、許してください。私は地獄に落ちるともかまいません。どうかこのような仕打ちをすることをお許しください」
白く美しい十本ある指と指を重ねて、阿古は祈り続けた。
『信長公記』には次のように記録されている。
浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを探し出し、関ヶ原というところで磔に掛けた。
『嶋記録』には次のように記録されている。
久政公の内儀ないぎ は、井口弾正少弼の女むすめ なり。信長公、十指数日切り生害しょうがい の由よし 。
阿古は、その美しい十本の指と引き替えに、信長の検分を遅らせるための十日ほどの日数を生み出した。
(山東圭八
参考: 「浅井」の読み方は、「あざい」なのか?「あさい」なのか?
「浅井」の読み方は、「あざい」なのか?「あさい」なのか?
「せせらぎ長者(または、せせらぎ長者の娘)」説
馬酔木
石井
―― 『万葉集』巻第七 [117]
いざさら 綾
宮
ものうさに 氏神様
綾
秋
綾
水まさや 笠
―― 「大清水
綾
浪
有
五穀成就
綾
稲葉
秋の田の 稲田
神国なれば 有難
綾
鶴
末
―― 「藤川
綾
小竹に雀
花は葵
獅子
綾
千代万歳
―― 「村木
「世々開長者流水遺功碑
(滋賀県長浜市中野町
つぎに、井明神社
下記の物語に登場する、「餅の井
「かつての餅の井堰付近の様子」の図 [78]
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」 [79])
井明神橋
(かつて、「餅の井
下記が、せせらぎ長者の物語です(『湖北農業水利事業誌』, p.28)。
当時、東浅井郡旧小谷村一帯の掛りである丁野井(後の餅ノ井掛り)は井明神六井堰の最下流にあって最も用水不足に悩んでいた。浅井氏が小谷城にその居を構えるようになって丁野井掛りの農民は井堰を井明神の最上流に押し上げようとして領主浅井久政(長政の父)に懇願した。これに対し、同じ領民中でも最も居城に近い農民の要請であり、支配者が足下を固める常道として久政の容れるところとなって、井口弾正家に圧力をかけてきた。井口家としては浅井一族の無理を聞き入れれば自家の勢力衰退につながり、さりとて無下に断れば浅井の顰蹙
ひんしゅく を買うことになる。困却の果、到底できない難題をふっかけて、あきらめさせようとした。
「綾千駄、餅千駄、綿千駄(綾とは布・千駄とは牛千頭に積んだ荷物分)を片目の馬子に片目の牛をもって索いてこい」と最上流井堰を認める条件を提示し、暗に断ったつもりでいた。ところが、豈あに はからんや中野の土豪で資産家である長者が資産をなげ出して、この無理難題の品を贈ってきたので、やむを得ずこれを認めざるを得なかったと伝えられている。
かくしてようやく最上流に井堰を新設したが堰上げ不充分で水路に水が乗らず困却していたところ、前記中野の長者の女〔むすめ〕「松ノ前」による尊い人柱によって取水が叶った。以来中野の長者を「セセラギノ長者」と人呼んで尊敬するとともに餅千駄から餅ノ井と名ずけれらたという。
餅ノ井にまつわる物語が史実か否かは明らかでないが、当時の支配権力と農民の水に対する執念の程を充分察知することができる。
(「餅ノ井の由来」, 『湖北農業水利事業誌』) [121]
上記の文章中の「中野」というのは、中野村
『近江輿地志略
(※下記の引用文のなかの、「中野村」というのは、現在の地名でいうと、滋賀県長浜市中野町
餅井
もちのゐ
同村〔中野村〕にあり、相傳古昔此地にせゝらぎ長者といふ者あり。此村は高月川より東にして山麓によつて土地高く用水の便なし、行程四里許北に伊香郡井口ゐのくち に井口越前〔井口弾正いのくちだんじょう 〕といふ者ありて高月川の預なり、故にせゝらぎ長者此河流を井水にせむことを請ひ、綾千駄、綿千駄、餅千駄、牛につけて送る。越前〔井口弾正いのくちだんじょう 〕許諾す、こゝに於て長者川水をわけむとすれども高地へ水引あぐること能〔あた〕はず。長者の女〔むすめ〕、松の前を井堰に沈め然して後水あがることなつて其道筋八村の田地を濕す、彼餅にて請ひ受たる故に餅の井と號すといへり。
井ゐの 明神社
餅の井の水の分口にあり。毎年三月二十五日長者祭とてあり、彼せゝらぎ長者の祭なり其日紙袋こしらへ此明神に奉る。
(寒川辰清
また、高島緑雄さんの論文「近世的用水秩序の形成過程 : 近江伊香郡・浅井郡用水の研究」によると、高月町
餅の井の名称の起源に関して次のような伝承がある(高月町「磯野区有文書」)。
餅ノ井起リ事
浅井郡中野村〔現在の滋賀県長浜市中野町しがけん ながはまし なかのちょう 〕ニ往古せゝラキ長者〔せせらぎ長者〕トいふ人あり、此村ハ高月川〔高時川たかときがわ 〕より東ニ𬼀〔して〕、山麓〔虎御前山とらごぜんやま のふもと〕ニ依テ土地高ク、用水ノ便ナシ、行程四里許〔ばかり〕北に、伊香郡井口村〔いのくちむら〕ニ井口越前守〔井口弾正いのくちだんじょう 〕とて、高月川〔高時川たかときがわ 〕ノ預り也、此故ニ長者〔せせらぎ長者〕川流ヲ井水ニせん㕝〔こと〕ヲ請〔こう〕、更〔さらに〕綾千駄・錦千駄・餅千駄ヲ牛ニつけて贈ル、越前守〔井口弾正〕許諾ス、ユヘニ長者〔せせらぎ長者〕川水ヲ分ケントスレ𪜈〔ども〕、高地へ水引上ルヿ〔こと〕アタハズ、長者〔せせらぎ長者〕ノ娘松ノ前ヲ井堰ニ沈ム、而後〔しかるのち〕水上ル事成テ、其筋八ヶ村ノ田地ヲ閏(ママ)スナリ、彼餅ニテ請タル処ユヘニ、餅ノ湯(井)〔もちのゆ〕ト号クル者ナリ、
井ノ大明神〔いのだいみょうじん(井明神社いのみょうじんしゃ )〕
餅ノ井〔もちのゆ〕ノ水ノ分口ニアリ、每年三月二十五日、長者マツリ〔長者祭り〕トテ、彼せゝラギ長者〔せせらぎ長者〕ヲ祭ルナリ、紙袋ヲコシラヘ、明神ヘ奉ル者ナリ、
(高島緑雄「近世的用水秩序の形成過程 : 近江伊香郡・浅井郡用水の研究」) [123] [13]
これらのことから、「井明神社
また、人柱
下記の文章は、『高月町のむかし話』という本に記されている、「せせらぎ長者」についての伝承です。
〔“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし〕(その二)せせらぎ長者
今から、五百年も前のことです。
富永の庄の井口に城をかまえて、高時川の水利を支配していた、井口弾正だんじょう は村役人を集めて、古橋の小高い山の上から、はるか南の方の小谷城のあたりをじっと見守っておりました。村々のたんぼはカラカラにかわいて、今にも枯れてしまいそうな稲が、ひと雨降るのを待ちかねて、しおれかえっています。今年もまた、米のとれないひでりがやってくるのかと思うと、つくづくおてんとうさまが、うらめしくなってきました。
そのうえにこんどは、じぶんの仕えている浅井のとのさまから、とんでもない難題を申しこまれて、ホトホト困りはてていたのでした。
その難題というのは、となりの浅井郡にあった小谷城のまわりの村々のたんぼへ、水をひくために高時川の一ばん上流の古橋のあたりに、井をたてさせてやってもらいたい、ということだったのです。
「いくらとのさまでも、あんまりひどすぎる」
「わしらのたんぼは、どうしてくれるんだ」
とたいへんなさわぎになってしまったのです。
富永の庄の用水だけでも、毎年足りなくて、じゅうぶんお米がとれないのに、この上そんな井をたてて水をとられてしまってはそれこそ大へんだと、村人たちが、承知するはずがないのはよくわかっていたのです。
弾正は、村人たちをなだめるために、とてもできそうにない無理な注文を出して、とのさまにあきらめてもらうことを考えて、
「片目の馬千頭に、絹千駄だ ・綾あや 千駄だ ・餅千駄だ つんで持ってきたら、たてさせましょう」
と返事を出しました。そんなとんでもないことかできるはずがないと思ったからです。村々の百姓たちも役人も、それを聞いて安心していました。
ところが、なんとおどろいたことには、浅井郡の方から、
「承知いたしました。さっそく持参いたしますから、おまち下さいますように。なおまた、用水路はこれから通ります道に沿うて掘りわりさせてもらいましょう」
という、とても信じられないあいさつが、堂々とかえされてきたのです。
さあ、大へん、ひくにひけなくなった弾正は、それでも、まさかと思いながら、役人どもをしたがえて山の上から見渡していたというわけです。
やがて陽がたかくのぼるころ、南の丁野ようの のあたりから、もうもうと土けむりをあげなから、人と馬の大行列ぎょうれつ が、上かみ へ上へとのぼってくるのです。やくそくのとおり、片目の馬千頭が、それぞれ、絹と綾と餅とを一駄ずつ積んでいます。先頭の馬が古橋の川原へついているのに、あとの馬は、まだ丁野を出発していない程の、長い長い行列でした。
“いったい、誰がどうして、こんな大金のかかることを、やってのけたのでしようか?”
それは、浅井郡の中野村に住んでいた、
『せせらぎ長者』
という、大金持ちの長者さんが、ありったけのお金をぜんぶ投げだして、村のために買いととのえたからだそうです。
弾正は、
「この勝負、おれの敗ま けだ」
と、うめくようにいいました。
村人たちも、役人たちも、
「これは、せせらぎ長者が、村のために、必死になってととのえた尊いおくりものだ。井を立てられても、しかたがない」
と、口々に話し合いました。
それいらい、この井のことを“もちの井”とよんで、五百年の間、その権利がまもられて、昭和のはじめまでつづきました。
もちろん、ひでりの年には、井おとしといって、もちの井を切りおとして、下流の井へ水を流すというならわしも、ずっとつづいていたのです。
(「“井
下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、「せせらぎ長者」についての伝承や、洪水のときに田川
中野には、治水に尽くした世々開
せせらぎ 長者の伝説が伝えられている。このあたり一帯は、水利が悪く、高時川からの分水を懇願したところ「一日一夜に綾千駄、錦千駄、餅千駄を牛に積んで持って来い」という難題を、世々開長者は何とか実現して分水の許可を得、さらに、分水路工事にあたっては、娘を人柱として難工事を完成したという話である。直接田川とは関係ないが、水利への人々の願いがよくあらわれている。
また、中野の田川にかかる橋には、馬のレリーフがあって馬川橋と呼んでいる。これは、古くから田川が洪水のときには、白馬が現れて往来する人を悩ましたという伝説があることから田川を馬川、橋を馬川橋というようになったことからで、このことは『近江輿地志略』にでている。田川の洪水の激しさ、白い波頭の様子を馬にたとえたものと考えられなくもない。ともかくこの橋の北岸には先述した世々開長者の記念碑も建ち、水にまつわる伝説がこのところに相立つ形となっている。
(近江地方史研究会 [編集&著作], 木村至宏 [編集&著作], 「洪水時に白馬出現」, 「20 田川
『近江輿地志略
馬川橋
うまかはばし
中野村南の入口、田川にかゝれる橋なり。相伝田河洪水の時、白馬顕れて往来の人を悩ます、それ故こゝにては川を馬川といふ又橋にも名づく。
(寒川辰清
上記の引用文に記されている、「馬川橋
現在の「馬橋
「馬橋
「渡江淵わたらいぶち の大蛇おろち 」説
渡江淵
昔
―― 寒川辰清
文永
―― 富田八右衛門『近江伊香郡志
是歳
井明神社
(※「渡江淵」という言葉の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、「渡江淵」を「わたらいぶち」と読むことにします。)
(※「近江国蒲生郡
佐野静代さんは、「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」のなかで、井口地区
(※「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名(ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。)
文永七年(1270)蒲生郡渡江淵に大蛇が現れ、夜毎人を害したので、近江守護佐々木頼綱とその一族の東条経方〔とうじょうつねまさ〕がこれを射殺した。翌年近江国が大干ばつにあったが、頼綱は件の大蛇の霊をまつれば潤雨ありとの夢告を受け、国中の井頭に神霊をまつらせた。当社はその一つで、東条経方をして祭らしめたもので、経方の子孫は代々高時川預かりとなってこの地に居住し、井口姓を名乗ることになったという(社伝による)。
(佐野静代「水と環境教育 : 滋賀県高時川流域村落の水環境認識を素材として」) [102]
『湖国夜話 : 伝説と秘史』によると、渡江淵
(※下記の引用文のなかに登場する、「敦実親王
(※下記の引用文のなかの「佐々木神社」というのは、「沙沙貴神社
(※下記の引用文のなかの「百々神社
宇多天皇の御代、蒲生郡
がもうぐん 島村しまむら にある渡会わたらい の橋の下に大蛇が出て、往来の人を害うたので困る人が多かったのを敦実親王あつざねしんのう と狛長者こまちょうじゃ が佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に願をかけて退治せられたといふことで、この大蛇の霊を祀ったものが橋のそばの百々神社どどじんじゃ 〔現在の百々神社ももじんじゃ 〕であると伝へ、この神社の名を書いて貼っておくと蛇よけになると信じられてゐる。
これもやはり渡会わたらい のことであらうと思はれるが、それには蒲生郡渡江淵と書かれてゐる。
それは亀山天皇の御代で、文永七年にやはりこゝに大蛇が現はれたので、国主の佐々木頼綱は東条経方とうじょうつねまさ に命じて佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に祈願をかけさせたところ「その大蛇は昔日本武尊〔ヤマトタケルノミコト〕が伊吹山で退治した大蛇の神霊が恨みを留めたものである。之を殺さんとすれば大蛇は石に変じ蜍形くもがた となり東南に向ふであらう」と告げられたので経方を案内として淵に行き、家伝の征矢そや で石を射てこれを退治した。
ところがその翌年の夏は江州〔ごうしゅう〕一帯〔近江国おうみのくに 一帯〕の井水せいすゐ が涸れて白田しろた となって困ってゐると、佐々木大明神は「それは先年殺した大蛇の神霊が田の井口ゐぐち に住んで水を吸ふからである。神霊を慰めたらよからう」と告げられたので、国中井口に神を祭り井口大明神ゐぐちだいみょうじん といふやうになった。伊香郡いかぐん 北富永村きたとみながむら の井ノ神社は即すなは ちこれである――。といふ伝説が残されてゐて共通したやうな点もあって、面白いと思ふ。
(樋上亮一「渡会の大蛇」, 『湖国夜話 : 伝説と秘史』) [135]
上記の伝承の中で、佐々木頼綱
下記の引用文は、滋賀県神社庁伊香郡支部が編集した、『伊香郡神社史』という本に記されている、井口地区
(※「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名(ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。)
〔前略〕当社の創立に関しては、文書記録にも之を徴するに足るものがないが、当社に伝えるところによれば、文永七年(一二七〇)七月近江ノ国蒲生郡
〔おうみのくに がもうぐん〕 渡江淵〔わたらいぶち〕 に大蛇〔おろち〕 現われ夜毎人畜を害する事甚〔はなは〕 だしく、その数多かった。茲〔ここ〕 に国主佐佐木頼綱〔佐々木頼綱 之を聞き、その害を除かんとしたが、大蛇ささきよりつな 〕〔おろち〕 は変幻出没、常にその姿を変じて計り難く、その跡を韜くら ますので之を除く事を得ず、然るところ、佐佐木〔佐々木〕 の一族、東条経方〔とうじょうつねまさ〕 その害を除かんと欲し、佐佐木大明神〔沙沙貴神社 に三七日の祈願を籠めたが、満願の夜、神の御告げありて、大蛇ささきじんじゃ 〕〔おろち〕 はその昔、日本武尊〔ヤマトタケルノミコト〕 に危害を加えしもので、今に至るもその大蛇〔おろち〕 の霊、恨をのこし人を害す。かくすれば之を除くことを得べしとて、これを射殺すべき法を授けられた。経方〔つねまさ〕 大いに喜び驚き醒むれば、これ南柯の一夢〔南柯の夢 なりける、経方なんかのゆめ 〕〔つねまさ〕 、委細の様を頼綱〔よりつな〕 に告ぐ、頼綱〔よりつな〕 大いに悦び、経方〔つねまさ〕 嚮導として渡江の淵〔わたらいのふち〕 に到り、家伝の征矢〔そや〕 を放ってこれを射殺した。然るに翌八年の夏、近江一国旱ひでり する事甚〔はなは〕 だしく、井水涸渇して田地悉〔ことごと〕 く白田と化せんとしたが、頼綱〔よりつな〕 、或る夜の夢に佐佐木大明〔神〕告げ給〔たま〕 わく、旱〔ひでり〕 甚〔はなはだ〕 しきは先年殺したる大蛇〔おろち〕 のなせるところ、よって祠〔ほこら〕 を建て、その霊を祀〔まつ〕 らば潤雨あらんと、頼綱〔よりつな〕 、即〔すなわ〕 ち国中に命じて井がしらに神霊を祀〔まつ〕 り、これを井口大明神と号せしむ。
当社〔高月町井口たかつきちょう いのくち の日吉神社ひよしじんじゃ 〕はその随一にして、頼綱〔よりつな〕 特に経方〔つねまさ〕 をして当社を守護せしめ子孫永く井口〔いのくち〕 姓を称したと云う。
この所説もとより無稽の謬説ならむも、当社創立の由来を暗示するものというべく、上下十二組用水の井口を守護せんがため茲〔ここ〕 に冨永庄〔富永庄〕 の本所たる延暦寺の守護神たりし坂本の日吉神社〔日吉大社 の御分霊を奉祀したることは、当社創立の大きな理由であったと考えるのである。ひよしたいしゃ 〕
(滋賀県神社庁伊香郡支部 [編集] 「日吉神社 高月町大字井口」, 『伊香郡神社史』) [136]
下記の引用文は、滋賀県神社誌編纂委員会が編集した、『滋賀県神社誌』という本に記されている、井口地区
(※下記の『滋賀県神社誌』の引用文のなかの「由緒」の項目の文章は、上記の『伊香郡神社史』の引用文を要約したような文章になっています。ですので、両者の文章のおおまかな内容は、ほぼおなじです。)
日吉
ひよし 神社鎮座地 伊香郡高月町井口一二二
主祭神 大山咋命
境内社 井の神社 天満宮 稲荷社
神紋 左三ツ巴
例祭 四月十四日
本殿 入母屋造向拝付 間口三間三尺
奥行二間五尺
拝殿 入母屋造 間口二間五尺 奥行二間二尺
その他主たる建物 宝物庫 手水舎 社務所
境内地 七四八坪 飛地境内 一五〇坪
氏子 一〇三戸由緒
当社の創祀に関して伝えるところによれば文永七年七月近江国蒲生郡渡江淵に大蛇現れ夜毎人蓄を害する事甚だしく、国主佐佐木頼綱これを聞き、その害を除かんとしたが、大蛇変幻出没常にその姿を変じて計り難く、東条経方〔とうじょうつねまさ〕と共にその大蛇を家伝の征矢〔そや〕にて射殺し、其の霊を国中の井がしらに祀らせた伝承あり、これを当社井口大明神と号せしむ等々、この所説もとより、無稽の謬説ならむも当社創立の由来を暗示するものと云うべく、上下十二組用水の井口を守護せんがため茲〔ここ〕に冨永庄の本所たる延暦寺の守護神である坂本の日吉神社御分霊を奉祀したことは、当社創立の大きな理由であったと考えられる。観音寺別院円満寺の鎮守新日吉神社の名で呼ばれた。銅鐘一口(重工)寛喜三年鋳之ノ銘あり社宝として蔵している。大正十二年郷社に列した。
(滋賀県神社誌編纂委員会 [編集] 「日吉
下記の引用文は、『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』に記されている、「渡合橋
わたらいばし 渡合橋〈近江八幡市〉
近江八幡市北部の八幡山と奥津島山の間の水路に架かる橋。長さ10m・幅8m。現橋は昭和38年3月竣工。北之庄町から奥津島への唯一の動脈路である。当橋には昔,橋下に往来の人々を悩ます大蛇がいたが,佐々木神社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に祈願した狛長者〔こまちょうじゃ〕敦実親王〔あつざねしんのう〕が弓矢で大蛇の眼を射て滅ぼし,その霊を橋のたもとに祀ったという伝説があり,現在も道祖神の社がある。
(『角川日本地名大辞典 25 (滋賀県)』(1979年)) [138]
『近江伊香郡志
(※「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名(ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。)
【井之明神
ゆのみょうじん 】 大字おおあざ 井口いのくち 〔滋賀県長浜市高月町井口しがけん ながはまし たかつきちょう いのくち 〕
文永ぶんえい 八年〔1271年(鎌倉時代中期)〕、大旱おおひでり す。佐々木頼綱ささきよりつな 、領民りょうみん に令れい して、諸もろもろの 井水せいすい の口くち に、大蛇おろち の霊たましい のなす所ところ なりとして、神霊しんれい を祀まつ らしむ。井之明神ゆのみょうじん と号ごう す。頼綱よりつな の臣しん 、東条経方とうじょうつねまさ 、蒲生郡がもうぐん 〔滋賀県近江八幡市しがけん おうみはちまんし 〕佐々木神社ささきじんじゃ 〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に祈いの りて神告しんこく を受う け、頼綱よりつな と共とも に家伝かでん の征矢そや を以もっ て大蛇おろち を伏ふ し、旱害かんがい を止とど めしによってなり。経方つねまさ の子孫しそん 、皆みな 、井口姓いのくちせい を称しょう す。
又また 、「井口弾正女いのくちだんじょうのむすめ 〔娘むすめ 〕、井水せいすい の為た め人柱ひとばしら となりしを祀まつ れる井明神社いみょうじんしゃ 、尾山村おやまむら 〔滋賀県長浜市高月町尾山しがけん ながはまし たかつきちょう おやま 〕にあり」と、『輿地志略よちしりゃく 』〔『近江輿地志略おうみよちしりゃく 』〕にあり。『湖路名跡志こじめいせきし 』に、「中古ちゅうこ 、佐々木備中守源頼綱ささき びっちゅうのかみ みなもとの よりつな 、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう を誅ちゅう せし後あと 、九ヶ年きゅうかねん の間あいだ 旱魃ひでり し、井之明神ゆのみょうじん に神霊しんれい を祀まつ りて災わざわい を免まぬか る」とあり。
(富田八右衛門 [編集] 「井之明神(井口)」, 「北富永村」, 「第一節 神社誌」, 「第九章 社寺編」, 『近江伊香郡志
『近江輿地志略
渡会
わたらい 橋
或あるい は渡来わたらい に作る、又また 渡合わたらい にも作れり。北庄村きたのしょうむら より奥島村おくしまむら へこゆる橋なり。長ながさ 五間ごけん 許ばか りの板橋いたばし なり。土俗どぞく 、相伝あいつたう 、「昔むかし 、此この 橋下はしのした に大蛇おろち 棲止せいし して往来おうらい の人ひと を悩なやま す。郷民ごうみん 、之これ が為ため に苦くるし み、狛長者こまのちょうじゃ 、及および 、敦実親王あつみしんのう に此事このこと を告つ ぐ。両将りょうしょう 、諾だく して佐々木社ささきしゃ 〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に参籠さんろう して此事このこと を祈いの るに、あらたかに霊夢れいむ を蒙こうむ り、彼かの 橋上はしのうえ に到いた るに、大蛇おろち 、水上みずのうえ に浮うか び出い づ。両眼りょうのまなこ 、日月じつげつ の如ごと く、其その 影かげ 、水みず に映うつ りて眼まなこ 四よつ あるが如ごと し。敦実親王あつみしんのう 、弓矢ゆみや を取と りて件くだん の眼まなこ を射い て遂つい に蛇くちなわ を滅ほろぼ し、件くだん の蛇くちなわ の霊たましい を祭まつ りて神かみ とす。今いま 、橋はし の傍かたわら の社やしろ 〔百々神社どどじんじゃ (ももじんじゃ)〕是これ なり。さて、彼かの 四の眼よつのまなこ を射い るの故ゆえ を以もっ て佐々木ささき 京極きょうごく の家紋かもん を四目よつめ とするは、此謂このいい なり云々うんぬん 」と。臣しん 按あん ずるに〔私が考えるに〕、渡会橋下わたらいばしのした 、水底みなそこ 甚はなはだ 深く、水色すいしょく 凄すご しく見ゆ。古昔こせき 、大蛇おろち 抔など の棲止せいし せし事はさもあるべし。狛長者こまのちょうじゃ 、及および 、敦実親王あつみしんのう 等ら へ此事このこと を郷民等ごうみんら が願いたる事、不審つまびらかならず し。狛長者こまのちょうじゃ という者、伝説詳つまびらか ならず。されども、当国〔近江国おうみのくに 〕金勝寺こんしょうじ 狛坂寺こまさかでら の旧記を考うる時は、人皇じんこう 五十二代 嵯峨天皇さがてんのう よりは遥はるか に以前の者と見えたり。又また 、敦実親王あつみしんのう は人皇じんこう 五十九代 宇多天皇うだてんのう 第九皇子みこ なり。ここを以もっ て、遥はるか に時世ときよ の相違そうい 懸隔けんかく せる事を知るべし。又また 、狛長者こまのちょうじゃ という者、数代相続してありし者にやと、普あまね く旧記、及および 、故老ころう の遺聞いぶん を捜索すれども、嘗かつ て是これ なく、及および 、彼かの 蛇くちなわ の四眼よつめ を射い たるより、佐々木家四目結よつめゆい を以もっ て家紋とするという事、笑うべし。彼かの 蛇くちなわ 、四眼よつめ に非あら ず。実は、両眼りょうのまなこ のみにて、其その 眼光の水に映りて四眼よつめ に見ゆるなれば、之これ を以もっ て四目よつめ の事にはあらず。若も し、佐々木氏ささきうじ 、蛇くちなわ の目を家紋とすとあらば、此説このせつ 有る事もあるべけれ共ども 、決して無し。土俗どぞく 、或あるい は又また 曰いわ く、「此時このとき 、蛇くちなわ を射い たる矢を、後世、四目よつめ と号し、家紋四目よつめ とす」と。殊こと に以もっ て、笑うに堪た えたり。四目鏑よつめのかぶら の名は、忝かたじけな くも神代じんだい 八目鏑やつめのかぶら より起れり。何なん ぞ此時このとき に始らん。若も し仮に、四目よつめ の紋は蛇目くちなわのまなこ の四なといはば、蛇くちなわ の目は円まろ し〔丸い形をしている〕。何なん ぞ、方ほう 〔四角形〕を用もち いん。総すべ て孟浪もうろう の説なり〔根拠の無い、いいかげんな言説である〕。古老ころう いう、「佐々木の紋、四目結よつめゆい は、本名ほんみょう 倚懸目結よせかけめゆい というなり。鹿子かのこ 合あわ し〔鹿の子絞りかのこしぼり 〕の象形なり」と。【佐々木社記】曰いわく 、「当社〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕、四目結よつめゆい 紋は、神秘の第一なり。委細いさい 、これを記しる さず」云々うんぬん 。【新定佐々木家譜】定綱さだつな 〔佐々木定綱ささきさだつな 〕の譜下曰いわく 、「始め、器服きふく 章識を定さだ め、四方目を為な す」云々うんぬん 。定綱さだつな は、佐々木源三秀義ささき げんざ ひでよし の子なり。宇多天皇うだてんのう 第九皇子みこ を、敦実親王あつみしんのう という。親王しんのう 、左大臣さだいじん 雅信まさのぶ 〔源雅信みなもと の まさのぶ 〕を生う む。雅信まさのぶ 、参議さんぎ 扶義すけよし 〔源扶義みなもと の すけよし 〕を生う み、扶義すけよし 、成頼なりより 〔源成頼みなもと の なりより 〕を生う み、成頼なりより 出い でて近江国おうみのくに 蒲生郡がもうぐん 佐々木郷ささきごう に居こ せしより、始めて佐々木と号し、武臣ぶしん となれり。秀義ひでよし は、成頼なりより よりは五代の孫にして、敦実親王あつみしんのう よりは九代の孫たり。其秀義ひでよし の子の定綱さだつな が時に至って、始めて四つ目を紋とせしとあれば、旁彼かの 蛇くちなわ の四目よつめ を表あらわ して四目よつめ をつくるという説、甚はなはだ 偽いつわり なり。【佐々木家譜】は、佐々木二十四世の嫡孫ちゃくそん 、左兵衛さひょうえ 定賢〔佐々木定賢〕が撰せん して、当時佐々木の社ささきのやしろ 〔沙沙貴神社ささきじんじゃ 〕に奉納ほうのう する処ところ の実録なり。臣しん 〔私が〕、定賢が児こ 、佐々木定明に問うに、蛇目くちなわのまなこ の事は嘗かつて ゆえなき事なりといえり。是これ を以もっ て彼かの 偽いつわり を知るべし。
道祖神社どうそじんじゃ
渡会橋わたらいばし の傍かたわら に在あ り。土俗どぞく は、「彼かの 水底みなそこ の大蛇おろち が霊たましい を祭まつ る」といえり。非ひ なり。道祖神どうそじん なり。
(寒川辰清
「渡合橋
(滋賀県近江八幡市
地図 : 「伊吹弥三郎
- 渡江淵
わたらいぶち [80] - 渡合橋
わたらいばし (渡会橋わたらいばし ) - 百々神社
ももじんじゃ (百々神社どどじんじゃ ) - 長命寺川
ちょうめいじがわ - 沙沙貴神社
ささきじんじゃ
参考: 渡会橋わたらいばし (渡合橋わたらいばし )の百々神社どどじんじゃ (百々神社ももじんじゃ )と、安土城あづちじょう の百々橋どどばし
安土の町ができたのは五年前のことである。観音寺城から見下ろす麓、琵琶湖に面した場所に信長は本拠となる城を建設した。安土城と名付けた。
堀に架かる百々橋
―― 山東圭八
ここまでお話してきた話のなかにあったように、百々神社
その「百々
(※百々神社
下記の引用文は、『近江百景 : スケッチ探訪』という本に記されている、安土城
下記の引用文によると、安土城
もしかすると、百々神社
百々橋と安土城
安土城の天守閣跡へは三方面の登り口がある。その中でも、百々(どど)橋口から見る城跡が最も美しいようだ。国鉄安土駅から、城下町の風情を伝える屋敷やセミナリヨ(神学校)跡をながめながら、北へ約十分。石造りの百々橋を渡ると、安土城の緑したたる木々が、さわやかな湖風に揺れている。
信長が安土城を築いたのは天正四年(一五七六)。正月中旬から工事を始め、気の短い信長は二月末、出来あがったばかりの建物に移住。十一月には、立派な七層の天守閣が完成した。その後、城の整備や城下の道路、堀江の増設などが続き、城下町の体裁が整ったのは本能寺の変の前年、天正九年だった。
百々橋は、この付近の川幅が急に狭くなり、川が“どうどう”と音をたてて流れるのにちなんだという。今では、その面影もないが、橋下の石垣の間から、緑鮮やかな雑草。徳富蘇峰筆「安土城址」の石碑に降りそそぐセミしぐれが、のどかな古城の夏を演出している。
(「百々橋と安土城」, 『近江百景 : スケッチ探訪』) [143] [13]
参考: 高時川たかときがわ ってどんな川?
近江
のどけき御代
秋といえば 光りを添えて高月
川瀬の浪
―― 大江匡房
高時川は、遠く越前・美濃国境に源を発する谷川が、伊香郡の山地を辞する木之本町河合で合流して、琵琶湖東北畔に扇状地性の沖積平野を形成する(第一図)。この地の開発は早く、木之本町川合・古橋・石道の縄文遺跡や、高月町西野古墳群があり、一九七四年には高月町保延寺地区の圃場整備事業にともなう遺跡事前調査において、古墳時代から奈良時代中期の集落遺跡が発見された。また典型的な条里制施行地域としても知られている。したがって、高時川の利水は、時代の諸条件に応じてその様相を異にすることは当然であるが、伊香郡の余呉川水系および浅井郡の田川以南を除く水田の死命を制する主要な生産条件であった。
―― 高島緑雄「近世的用水秩序の形成過程 : 近江伊香郡・浅井郡用水の研究」 [145]
下記の文章は、近江地方史研究会と木村至宏さんの『近江の川』という本に記されている、高時川
福井県境から始まる近畿の水がめ
高時川の源流は伊香郡余呉町中河内なかかわち の奥、栃とち ノ木き 峠付近にあり、全長四一・四キロメートル流域面積二〇八・七平方キロメートルである。その名に、余呉町では丹生にゅう 川、高月町では馬上まけ 川・高月川、湖北町では馬渡もうたり 川の別名がある。その流れは、余呉川、塩津川などとともに、濃越のうえつ 高原・丹波たんば 山地の間に生まれた南北方向に近い断層に沿った流路をとる。
峠には余呉高原スキー場が建設されている。道路をはさんで「淀川の水源」と書かれた石碑があった。淀川とは遠慮したもの、「高時川の水源」、それとも「近畿の水源」と書いてもおかしくない、と思う。
〔中略〕
さらに続く鷲見わしみ ・田戸たど ・小原おはら の各村も、工事が進む丹生川ダムの底に沈む予定で、町ではその離村対策を進めている。
過疎は、日本の高度成長期にはじまり、発展が続く限りとまらないだろうが、山林や水源地は、「緑の基地」としてのこうした山村の人々の力で支えられてきたことを忘れてはならないと思う。
〔中略〕
さらに下流には、上丹生・下丹生の村々があり、両村の丹生神社では有名な「茶わん祭り」が三年に一度行われる。
多数の式内社しきないしゃ 、観音の里
この辺りの水量は夏でも豊富で、木之本町大見おおみ に至る。そこには真言宗の医王寺いおうじ があり、平安期の木造十一面観音立像があり、国の重要文化財となっている。また、大見おおみ 神社の神像三体も同様である。
山向うの余呉町坂口さかぐち には孝謙天皇が藤原仲麻呂の怨霊を鎮めるために勅願された菅山寺かんざんじ があるが、その中興の祖専暁せんぎょう は大見の出身で、建治元年(一二七五)宋版大蔵経七千巻を持ち帰っている。しかしこれは徳川家康に請われて東京の芝増上寺に移されている。
大見から谷あいをさらに下ると、支流の杉野すぎの 川と合流する。そこは名の通り川合かわい と呼ぶ。
杉野川には国道三〇三号が沿い、八草はっそう 峠を経て岐阜県坂内さかうち 村に通じる。県境には廃鉱となった土倉つちくら 鉱山と村のあとがある。
土倉鉱山は、明治四十年(一九〇七)岐阜県の人による銅鉱脈の発見から昭和四十年鉱脈の枯渇と貿易の自由化による閉山まで、六〇年間にわたり黄銅鉱および黄鉄鉱を産出した。多い時には従業員三五〇名余、家族を含めると九〇〇名余が、雪や台風、さらには粉塵と戦いながら、月産二千トンから五千トンを産出した。
土倉から下しも には金居原かねいはら ・杉野すぎの ・杉本の集落があり、そして川合となる。
川合には延喜式内社である佐波加刀さわかと 神社がある。延喜式内社とは、平安時代の延喜年代(九〇一~九二三)に書かれた法律書に載せられた神社のことで、伊香郡内の延喜式内社の数四十六は、全国の郡の内で六番目という。その多さは、いかにこの地方が早く開け、栄えたかを示している。
〔中略〕
神社と並んで、この付近の素晴らしい仏像神像の多さはどうだろう。ひっそりと、国指定重要文化財の仏様がたたずんでおられる。川合の下の古橋ふるはし の東には行基開創と伝える己高こだかみ 山があり、多数の堂宇がそびえていた。現在は、その五ヵ寺の一つの石道いしみち の石道寺しゃくどうじ 、中心寺院だった観音寺別院の鶏足寺けいそくじ 宝物類が古橋町内の己高閣に保存され、昔の栄華を残している。この付近では、支流の谷川が合流する。
高月町内にも、渡岸寺どうがんじ の国宝十一面観音立像を初めとして、その数は枚挙にいとまなく、「観音の里」と呼ばれて資料館〔高月観音の里歴史民俗資料館〕がある。
〔中略〕
また、村作り日本一の雨森は、小川には鯉が泳いで水車が回り、家々の軒先には花が咲く。夏も尽きぬ水の恵み豊かなればこそできる芸当といわざるをえない。
さらに、庵の内外を初め、町内にはケヤキの大木が多い。豊富な地下水がなせるわざであろう。往古、槻(ケヤキの古名)があることから高槻と名付けられたこの地域を、大江匡房おおえのまさふさ (平安後期の歌人)が、
近江なる高月川の底清しのどけき御代の影ぞ移れり
秋といえば光りを添えて高月の川瀬の浪も清く澄むなり
とうたったことから月の名所となり、高月と改名したという。月が清水に映えるところなのだ。
水争いも今は昔
さて、清水も涸れると血なまぐさくなる。
井明神橋いみょうじんばし の上と下には、餅もち の井ゆ ・松田井・高水井、上、下六組の大井・下井の六つの井堰があった。その最も上にあったのが餅の井といい、欲しいだけ水を利用できたという。これに対して他の井の組の村々は、餅の井の堰を切りに押しかけ、生死をかけた闘いが近代に至るまで伊香と東浅井の村々で繰り返されたという。
なかでも中世、この付近の水利の権利を握ったのは、土豪の井口弾正といい、次いで、浅井氏が指図し、その後は太閤秀吉が引き継いだ。高月町高月には太閤堤と呼ばれる堤まであるという。ともあれ、湖北の穀倉地帯を、余呉川・姉川と共にまかなってきたのである。
現在は、昭和四十年に着手した湖北水利事業により井明神橋の手前で取水する高時川幹川かんせん 水路が完成、浅井町内保うちぼ まで配水している。
橋の下流の水は、取水されたあと川底には少なくなる反面、配水された井口いのくち ・持寺もちでら ・馬上まけ など付近の町内にはあふれるほど水が流れている。馬上では、ずらりと橋が並び、その脇に竹に生け花が咲いている。下手で、山田川が合流するが、水のない天井川である。
〔中略〕
国道八号がまたぐ馬渡もうたり 橋をすぎると、砂利と河川敷の畑が目立ち、水は枯渇している。コンクリートの簗場やなば と捨ておかれたドンベがかろうじて漁師さんの存在をうかがわせてくれる。さらに、錦織にしこおり 橋をすぎ、田川カルバートを越えて、びわ町難波なんば の東、同町落合で姉川と合流する。
高時川は、姉川と落ち合うので妹川とも呼ぶ。今回、高時川を上流から下流まで眺めてみて、その流域の雄大さには、改めて湖北のふところの深さを感じ、歴史の重みを悟った次第である。神社・仏閣に祭礼、人物・産業に水量。どれをとっても一流である。
そしてそれは、中国で酈道元れきどうげん という人が書いた川の地誌『水経注すいけいちゅう 』という本に出てくる「游神ゆうしん の勝処すぐるところ 」という言葉を思い出させる。「心をなごませる地、リラックスできる景勝地」とも訳すべきか。そんな味わいのある川であると思う。
(近江地方史研究会, 木村至宏, 「28 高時川」, 『近江の川』) [146]
参考: 高時川たかときがわ が天井川てんじょうがわ になった原因はなにか?
参考: もし、高時川たかときがわ 流域で鉱業こうぎょう がおこなわれなかったとしたら、歴史はどのように変わっていたか?
参考: 雨森あめのもり の乙子井おとごゆ にまつわる伝承
「かつての餅の井堰付近の様子」の図
(図の引用元: 「【第四章】餅の井落しの実際 | 湖北の祈りと農 Prayer and agriculture of Kohoku | 滋賀(湖北平野) | 水土の礎」 [79])
(上の図のなかの「乙下井」という表記は、書き間違いです。ただしくは、「乙子井
〔“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし〕(その四)乙子井
おとごゆ の護まも り神、久兵衛さん「乙子
おとご 」ということばを知っていますか?
きょうだいのうちで、いちばん上を“そうりょう”、いちばん末っ子を“おとご”といいますね。二ばんめは次男坊、三ばんめは三男坊などといいますよ。
高時川には、たんぼの水やのみ水を、村々へひくために、いくつもの井ゆ がありました。大きな井だけでも、上流からじゅんばんに、餅の井・松田井・上水井こうずいゆ ・大おお 井・下しも 井などがあって、一ばん下に、乙子井おとごゆ がありました。これは、雨森の川東のたんぼをうるおすための井でした。はじめは、河原井といいましたが、いちばん末っ子の井なので、いつのまにか、乙子井とよぶようになったそうです。雨が降って、水の多い時はいいのですが、ひでりになると、みんな上流の方で水をとられて、
“かわいそうなは、おとごでござる”
と、ひやかされたり、くやしがったりする井でした。
この井の水量が少ないために、川東のたんぼのうちで、洪水のため、土砂で埋う められた荒れ地を、もとのたんぼにもどすことができなくて、たいへん困っていたのです。江戸幕府ばくふ になってから百姓は、たとえ一坪や二坪でも、じぶんの田が持てるようになったので、みんな、必死になって、たんぼをひろげました。しかし、一けんの家族だけのカでは、なかなかできない大しごとだったのです。
そのじぶんの雨森の庄屋さんは、大橋久兵衛さんという人で、とてもえらい人でしたから、村中の人が尊敬し、心からしたっていました。久兵衛さんは、じぶんの家のことはかまわずに、村のために働き、すこしでも多くの水をひき、一坪でも多く荒れ田をよい田にもどすために、日夜、けんめいに努力されました。村人もまた、よく働きました。
承応二年は前年につづいて雨の少ないひでり年でした。昔から、どこの百姓でも、ひでりになると、じぶんの田へ水をひくことについては、それこそ必死になりました。村ぜんたいが、殺気だってきて、ついには、水のとりあいのため、血の雨がふることさえあったほどです。水あらそいの相手の村へは“嫁にもやるな、むこもとるな”というおきてが守られるくらいでした。
とうとう乙子井の雨森と、一つ上流の下井組の村々との間に、小ぜり合いが始まりました。久兵衛さんは、心配して、夜のめもねないで、その解決にあたり、百方手をつくされましたが、争いはひどくなるばかりで、ついに村人どおしの大げんかになってしまったのです。なぐり合い、つかみ合いのあげく、雨森のものが、けがをしたものですから、さあ、おさまりません。ついに雨森は大ぜいしておしかけ、竹やりや刀などをふりまわしたりしたので、下井組に死人の出るほどの大事件になってしまいました。
江戸時代には、百姓がおおぜい集まって、武器をふりまわしたりしたら、文句なしに庄屋は、親子もろともはりつけの刑にするという法律が、きびしく定められていました。
久兵衛さんは、しまったと思って、すぐさま、代官所へとんでいって、事情を訴えられたのですが、その時の役人が、奉行所へ申し伝えるのがおそかったために、ついに久兵衛さんは、めしとられてしまったのです。
承応二年七月二十二日、久兵衛さんは、川原に組まれた竹矢来の中で、首を打たれ、首は川原にさらされました。一子熊丸も、こどものことだからと、西瓜すいか をたべさせておいて、うしろから首をうたれたと伝えられています。
この事件についての村人のおどろきと悲しみは、ひじょうなものでした。村中が、もうおしまいだと思うくらいのできごとでした。
この久兵衛さん親子の死は、それからの雨森の、否、あたり一帯の、水に関する争論に際して、大きな大きな教訓となり、また、雨森がはらった高価な犠牲ぎせい は、為政者いせいしゃ にみとめられて、それ以後の水の問題に大きく貢献こうけん することになったことは、残された記録を見ても明らかなことです。
今でも、村では久兵衛さんの石碑の前で毎年法要をいとなみ、その御恩に感謝し、御加護を祈念しています。
(「“井
〔“井
ゆ ”にまつわるむかしばなし〕(その五)身がわり弥蔵さん
大橋久兵衛さん親子を失った雨森は、深い悲しみにしずんでいました。たんぼの水のことについて、雨森ほどくろうする村は、どこにもなかったほどでした。それは、雨森村には、高時川をはさんで、東にも、西にも、たんぼがあって、それぞれ、水のとりかたがちがうために、よその村との折れあいがたいへんむずかしかったからなのです。
杖とも柱ともたのんでいた久兵衛さんをとられて、これからいったい、どうやってたんぼをまもっていけばいいか、まったく途方にくれていました。
ところがある日、どこからか弥蔵さんという人があらわれて、雨森の村の水とりのむずかしさを聞いて、
「それは気のどくなことだ。何とかなるまで、お力になりましょう」
といって、村に住みついてくださいました。
弥蔵さんは、たいへんかしこい人でした。そのうえ、土地を測量したり、水を引いたりする工事が上手な人でした。しかも、自分の身を投げだして、村のためにはたらいてくださる、情け深い人でしたから、村人たちは、まるで、久兵衛さんのうまれかわりではなかろうかと喜んて、力を合わせて、せっせとはたらきました。
やがて、弥蔵さんの指導によって、下井しもゆ のすぐ下のところに、横井という新しい水路が開かれて、水利は一だんとらくになり、今まで、洪水などで川原のように荒れていた土地が、りっぱな水田にうまれかわりました。村人たちは、手をとり合って喜びあいました。弥蔵さんは、村人の喜ぶ姿を見て、自分のことのように喜んで下さったということです。
横井は、今はなくなりましたが、その水路は今でものこっていて、むかしをしのぶことができます。
ところが、ある日のこと、とつぜん、弥蔵さんは村人をあつめて、
「わたしの仕事は終りました。これから江戸へかえります。みなさん、どうかいつまでも仲よく力をあわせて、村をまもってはたらいてください」
といわれるではありませんか。おどろいた村人たちは、親にわかれる子どものように、泣きながら、いつまでもいてくださいとおねがいしました。すると、弥蔵さんは、
「わたしも、お別れはさびしい。しかし、わかれても心ではいつもこの村のことは忘れません。たとえ死んでも、魂はいつまでもこの村にとどまっていると信じて下さい」
といい残して、去っていかれました。それきり、その後のたよりはありませんでした。
村人たちは、そののち、よるとさわると、弥蔵さんの話をしては、なつかしがっていましたが、しばらくたったある年の秋、毎年のように、千手観音さまをまつる蔵座寺ぞうざんじ (己高山観音寺)へ、農繁の十月十七日にそろって参詣さんけい して、お経をあげた後、お燈明とうみよう や十二燈をぜんぶちゃんと消して下向げこう しようとしますと、たしかに消したはずのお燈明や十二燈が、いちどにパッと、一せいにともって、まるで、極楽のよそおいかと思われるほど、明るくかがやきわたりました。
あまりにもふしぎな極楽のかがやきにうたれていた村人のあいだから、異口同音に、
「おお、これはきっと、弥蔵さんがかえって来なさったのじゃ」
「いや、弥蔵さんがなくなられたのじゃ」
「そうじゃ、弥蔵さんの魂が今、からだをはなれて、この蔵座寺へ帰ってきなさったにちがいない」
「観音さまが、村のみんなに知らせて下さったのじゃ」
という声がひろがって、蔵座寺の森は、弥蔵さんのありし日をしのび、ごめいふくをいのる念仏のひびきにつつまれました。
今でも、十月十七日をご命日として、区長さんが祭主さいしゅ となり、毎年の供養くよう をつづけています。
(「“井
参考: 竜としての高時川たかときがわ が、水を吐き出す「口くち 」に位置する与志漏神社よしろじんじゃ と、その祭神さいじん たる水神すいじん (竜神)が坐いま す己高山こだかみやま
前述の「伊吹山
下記の引用文のなかで、高橋順之さんは、姉川
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです)。
奥伊吹から峡谷を南流してきた姉川は、ここ〔伊夫岐神社
いぶきじんじゃ 〕で平野部に出て、西に向きを変えて琵琶湖へ向かう。逆にすこし上流に行ってみると、伊吹山の水を集めて懸崖を駆け下る、県下有数の急流大富おおとみ 川が合流している。さらにさかのぼると、大昔、姉川を堰せ き止めて満々と水をたたえたという蝉合せみあい 峡谷(米原市小泉)の景勝地。これらの水を集めて平野部に放出される姉川は、まるで龍が水を吐き出すようにみえる。伊夫岐神社はまさにこの場所にあり、本殿越しに水神の坐いま す伊吹山頂を望む里宮が鎮座する〔後略〕
(高橋順之「伊吹山がみつめる姉川水利」, 『伊吹山風土記』) [59] [13]
伊夫岐神社
上記の引用文では、「龍に見立てられた姉川
このような「対応関係」は、姉川
具体的には、つぎのようなかんじです。
対応関係1 |
龍に見立てられた姉川 |
---|---|
対応関係2 |
龍に見立てられた高時川 |
上記の高橋順之さんの『伊吹山風土記』からの引用文のなかで示されている、「対応関係1」についての記述をまねして、「対応関係2」を表現するとすれば、下記のように表現することができるのではないか、とおもいます。
福井県との県境から峡谷を南流してきた高時川
(※姉川
与志漏神社
参考: 「波多八代宿禰はたやしろのすくね による、己高山こだかみやま の大蛇退治おろちたいじ 」の伝説と、与志漏神社よしろじんじゃ (與志漏神社よしろじんじゃ )
《オトチの岩窟の三ツ頭の大蛇
(三頭山
即
―― 三宅弁造『神社由緒記』 [152]
尾山地区
また、尾山地区
与志漏神社
その与志漏神社
かつて、己高山
(ちなみに、与志漏神社
現在、与志漏神社
下記の引用文は、1921年(大正10年)に、三宅弁造さん(滋賀県内務部教育課)が編集した『神社由緒記』という本に記されている、与志漏神社
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
滋賀縣伊香郡高時村大字古橋字よしろ鎮座
式内 鄕社 與志漏神社一 祭神
神速須佐之男命
波多八代宿禰之命(明細帳脱漏)
比賣神(同上)一 由緒
勧請年月不詳四月初丑を以て年祭するは此神謂歟〔いいか〕人皇四十五代聖武天皇御宇〔724~749年ごろ〕行基法師勅を蒙りて神影像を彫刻すと傅へたり
明治九年〔1876年〕十月二十一日村社に列せらる考證參考 (鄕社與志漏神社)
當神社御祭神
須佐之男命を此地に齋き奉るに至りしは遠く景行天皇の御宇に始まる
即ち景行天皇の即位二十五年〔西暦95年〕武内宿禰〔たけのうちのすくね〕、北陸及東方諸國巡視の命を受け此の地に來り更に北越の國に入らんとし給へり(上古は今の北陸街道未だ開けず近江より北陸に入るには此地より高時川を遡りたるものなり)然るに此地土地肥沃にして水利の便宜しきを得しに人煙極めて稀なりしかば宿禰之れを怪しむ、偶々白髪の老翁宿禰の傍に現はる、即ち宿禰問ふて曰く住むに易かるべき地なるに人跡極めて少なきは何故ぞと、老翁答へて曰く、此の地の東方己高山〔こだかみやま〕の山中大蛇の棲むあり、人畜を害すること屢々なり、人深く之を恐れ住み慣れし耕圃を捨て〻皆他に逃ると、宿禰之を聞きて憐み後日必ず大蛇を討つべきを誓はせ給ひて越の國に入り給ひ二年にして復命し給ふ、爰に宿禰即ち約に遵ひ其子波多八代宿禰〔はたやしろのすくね〕に己高山〔こだかみやま〕の大蛇を討つべきを命じ給ふ、即ち八代宿禰〔やしろのすくね〕父が命を奉じ此の地に來り給ひ大蛇を討たんとし給へるに勢ひ強猖にして半歳を閲〔けみ〕するも之れを討つこと能はず、八代宿禰〔やしろのすくね〕こ〻に思ひ給はく神代の昔、肥の川上に須佐之男命〔スサノオノミコト〕の八ッ頭の大蛇〔八岐の大蛇ヤマタノオロチ 〕を平らげ給ひし故事あり、如かず、この大神の力を藉らむにはと其の御佩かせる御劔に大神の神靈を齋き奉りて漸く之を平らげ給ふ(今も己高山中蛇ヶ谷と云ふ字ありて大蛇の棲みたりと云ふ大なる岩窟あり、人今に懼る)於此大蛇の難を避け居たりし此地の土民皆歸り來りて農耕の業に安んず。斯くて八代宿禰〔やしろのすくね〕の此地を去らむとし給ふや衆皆之れを惜み乞ふに永くこの地に駐〔とどま〕り給はむことを乞ふこと頻〔しきり〕なりしかば八代宿禰〔やしろのすくね〕亦之れを納れ宮殿を造営し之れに住み給ひ猶須佐之男命〔スサノオノミコト〕の靈を齋き奉らる、その子孫又此地に繁榮して允恭天皇〔いんぎょうてんのう〕即位四 乙卯 年〔西暦415年〕淡海臣の姓を賜り(古事記云 武内宿禰〔たけのうちのすくね〕之子九 男七女二 波多八代宿禰〔はたやしろのすくね〕者、波多臣、林臣、淡海臣、星川臣、長谷部君之祖也、とあり)國造縣主などに任けられたるもの多し、八代宿禰〔やしろのすくね〕薨去し給ふや鄕人其の威德を追慕するの餘り其の靈を先きに宿禰の齋き奉りし須佐之男命〔スサノオノミコト〕に合せ祀りて此の鄕の鎮護の神と崇め奉り、波多八代之大神、後略して八代之大神と稱へ奉る之れ當社〔与志漏神社よしろじんじゃ (與志漏神社よしろじんじゃ )〕の起源なり。其後
聖武天皇の神亀 甲子〔神亀元年じんきがんねん (西暦724年)〕 行基の此の地に鶏足寺を開くや此の大神を鎮護の神と齋き奉り、世代大權現と稱す(後に與志漏大權現)この時代より「ヨシロ」の稱起る蓋し「ヨシロ」は八代の轉訛せるものなり「古事記傳二十二卷に云ふ同國伊香郡に與志漏神社ありよしろはやしろに近し祭神波多八代宿禰〔はたやしろのすくね〕ならん」更に降りて大同四 已丑 年〔西暦809年〕釋最澄〔仏教僧侶である最澄
さいちょう 〕鶏足寺及び當社〔与志漏神社よしろじんじゃ (與志漏神社よしろじんじゃ )〕の荒廢せるを惜み之を再築す、之より當社は鶏足寺と其の興廢を共にし來り 鎌倉の末葉時代より地方の豪族武家の崇敬するところとなり殊に淺井家三代の祈願所となり奉納の寳物數點竝に長政〔浅井長政あざいながまさ 〕の木像を安置す一 社格加列 明治十八年〔1885年〕六月二十九日鄕社に列せらる
一 神饌幣帛料供進指定 明治四十二年〔1909年〕十月十三日
一 境內坪數 千百十坪
一 氏子戶數 百四十一戶
ちなみに、上記の引用文のなかに、「古事記傳二十二卷に云ふ同國伊香郡に與志漏神社ありよしろはやしろに近し祭神波多八代宿禰ならん」という記述があります。その記述については、本居宣長
六 波美
ハミノ 臣これも地ノ名と聞ゆれど、詳
サダカ ならず。神名式に、近江ノ國伊香ノ郡波彌ハミノ 神社、〔同郡に、與志漏ヨシロノ 神社もあり。八代ヤシロ にちかし。〕丹後ノ國丹波ノ郡波彌ハミノ 神社。あり。是レらの地にもやあらむ。
(本居宣長
与志漏神社
(滋賀県長浜市木之本町古橋
参考: 己高山こだかみやま 地域の、三頭山みつかしらやま のオトチの岩窟(大蛇おとちおろち の岩窟)に隠れ住んだ、関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい 敗戦後の石田三成いしだみつなり
関ヶ原の敗戦後、石田三成は単身、伊吹山の山中に入り、消息をくらました。命が惜しかったのではなく、多分に観念主義者な面をもつ三成は、総帥はこうあるべきものだという信念をもっていた。総帥の勇気は、走卒の勇気とはちがうものだということである。一度や二度の敗戦で死ぬべきものではなく、生きて再挙の機を待つべきものだということらしかった。三成の教養のなかでは、しばしば敗走した漢の劉邦
―― 司馬遼太郎『街道をゆく 24』 [154]
下記の引用文は、『近江伊香郡志
(安土桃山時代
(※「オトチの岩窟」は、「大蛇
(※「三頭山」の読み方(発音)は、「みつかしらやま」だそうです。この件については、長浜城歴史博物館と、高月観音の里歴史民俗資料館に問い合わせたところ、「三頭山」は「みつかしらやま」と読むのだということを教えていただきました。)
当時彼〔石田三成
いしだみつなり 〕が隠れたるは三頭山〔みつかしらやま〕の巌窟なりと云い、又古橋村の与次郎太夫に頼りしとも云う。その熟れが真なるを知らず。俚伝は三頭山の中腹なる巌窟間口十二尺、奥行二十尺に余れるものがそれに該当すれども、それを確認するに足るべき史料のなきは、われ人ともに遺憾とする所なり。
(富田八右衛門 [編集] 「第六節 石田三成の民政」, 『近江伊香郡志
下記の引用文は、『長浜市史 第2巻 : 秀吉の登場』という本のなかの、太田浩司さんと宮本知恵子さんが執筆を担当された「第四章 天下統一とその後」のなかの、「第二節 湖北の武将たち」のなかの「石田三成」のなかの「関ヶ原の合戦」という項目の記述です。その記述のなかに、「関ヶ原の戦いの経緯と、その戦いに敗戦した石田三成
関ヶ原の合戦
〔中略〕
秀吉の死後、五大老であった徳川家康の行動に対して不安をいだいていた三成は、家康以外の五大老四人に秀頼への忠誠を誓う誓紙
せいし を出させるなどの方策をとっていたが、家康との政情の均衡は崩れ、慶長四年(一五九九)三成は佐和山へ引退する事態となった。三成は同五年七月佐和山城へ越前敦賀つるが の城主大谷吉継よしつぐ を迎えて家康攻略の計画に協力を求めた。そして家康が上杉景勝かげかつ を攻めるため会津あいづ (福島県)へ向かったのを機に兵を挙げ、伏見ふしみ 城(京都市)・田辺城(宮津市)の攻撃を始める。さらに八月には佐和山城に父正継・兄正澄まさずみ をおいて美濃みの 国(岐阜県)大垣おおがき 城を攻め落とした。一方、家康も岐阜城を陥落かんらく させ、九月十五日の関ヶ原の合戦へと戦いは進んでいった。この戦いは家康を中心とする福島正則・松平忠吉・井伊直政ら東軍と三成を中心とする島津義弘・宇喜多秀家・小西行長ゆきなが ・大谷吉継の西軍の間で松尾まつお 山・南宮なんぐう 山などの山に三方を囲まれた関ヶ原において行われた。慶長五年(一六〇〇)九月十五日早朝に戦いの火ぶたがきっておとされ、最初は西軍が善戦していたが、松尾山に陣していた西軍の小早川秀秋の裏切りなどもあって東軍の勝利に終わり、三成の父正継や兄正澄の守る佐和山城も陥落した。
三成は戦場から逃げのびて伊吹いぶき 山中に隠れた。家康配下であった田中吉政よしまさ の手によって捕らえられるまでの経緯については『常山紀談』・『慶長見聞書』・『関ヶ原軍記大成』などに記されている。三成は浅井郡草野谷を経て伊香郡古橋ふるはし 村(木之本町)の山中の洞穴〔オトチの岩窟〕に身をひそませていたところを田中吉政に捕らえられたといい、古橋には三成が隠れたと伝える洞穴〔オトチの岩窟〕が残っている。吉政は井い ノ口くち 村(高月町)にしばらく三成の身柄をとどめた後、大津の家康の陣へとともなった。西軍首謀者としては三成以外に小西行長・安国寺恵瓊あんこくじえけい が捕えられ、長束正家は水口みなくち 城(水口町)を出て日野中之郷(日野町)で自殺した。
三成・行長・恵瓊の三人は慶長五年十月一日に京都の六条河原で処刑され、その首は三条の橋のたもとでさらされた。三成四一歳のことである。この三成の遺骸については京都大徳寺の三玄院境内に葬られた。
三成は、京都の大徳寺の円鑑国師のもとに参禅し、天正十四年(一五八六)には、浅野長政らと同寺に三玄院を建立し、慶長四年(一五九九)母のために佐和山に瑞岳寺を、父のために妙心寺に寿聖寺を建立し、高野山に一切経と経蔵を寄進したりしている。茶の湯や『源平盛衰記』などの書籍での勉学もするなど、教養人としての資質も有していた。
(太田浩司 & 宮本知恵子「関ヶ原の合戦」, 「石田三成」, 「第二節 湖北の武将たち」, 「第四章 天下統一とその後」, 『長浜市史 第2巻 : 秀吉の登場』) [156] [13]
オトチの岩窟(大蛇
(※「オトチの岩窟」を訪れる場合は、安全のため、「奥びわ湖観光ボランティアガイド協会」のガイドさんに道案内をしていただくことをおすすめします。(参考情報))
オトチの岩窟(大蛇
(滋賀県長浜市木之本町古橋
地図 : 「伊吹弥三郎
千の顔をもつ弥三郎
この島へは、常に真実を告げ誤ることなき海の翁が終始やって来る。プロテウスというアイギュプトスの神で、ポセイダオンに仕え、海のいかなる深淵も彼の知らざるはない。〔中略〕陽が中天に懸かる頃になると、常に真実を語る海の翁は、西風の息吹きとともに、黒ずんだ小波
―― ホメロス『オデュッセイア』第四歌 [158]
神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない。今後も、そのような体系が確立されることはないだろう。神話というのは、プロテウス神(海に住む真実を語る老人)に似ている。この神は、「あらゆる姿をとろうとする。地を這い回るものにもなり、水にもなり、燃えさかる火にもなる。ありとあらゆる姿になる」
〔中略〕
神話についてはさまざまな判断が下される。というのも、神話とは何かという観点ではなく、どう機能するか、過去にどのように役立ってきたか、現在どのように役立つかという観点から考えた場合、神話は、生命そのものがそうであるように、個人、集団、時代、精神、要求に合わせて、その姿を現すからである。
―― ジョーゼフ・キャンベル「姿を変えるもの
この物語を伊吹童子の側から見るとどのような様相を呈するであろうか。先に見てきたように、『伊吹童子』ではその出生譚に英雄誕生譚のモチーフが用いられているし、しかも物語叙述の視点は伊吹童子の側に在るのである。物語作者の意図はともあれ、物語叙述の結果においては、読者は伊吹童子に「退治されるべき怪物」以上の存在感を覚えざるを得ないのである。伊吹童子の運命に、調伏され従属させられた地主神の悲哀を感じさせるという意味では、本作は両義的である。文学の長所のひとつが、多義的な世界の相を示すことにあるなら、結果的には本作の叙述姿勢は文学的にも首肯さるべきものと言えよう。
―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 [161]
中世の文学の底流に、現在のわれわれが、およそ思いも及ばぬ次元の中世的教養が基盤として在ったことを雄弁に証言するのは、あらゆるジャンルで試みられた秘伝、注釈の類であると言えば、言い過ぎになるであろうか。
〔中略〕
中世において、それらにみられる諸説こそが知識であり、学問であったとすれば、そのような世界を母胎として醱酵し、醸成されたその時代の文芸一般について、現在の学的レベルの物指しをあてて計量することの不当さを思わねばならぬであろう。つまり中世にはその時代の教養の質があり、それを支える中世の思想――あざやかに澄み切った理論としてのそれではなく、それゆえにまたひろくよどみわたったものの考え方があった。それは、もはや今のわれわれにとっては捨て去った塵芥にも等しいものであろう。しかし、その塵芥を堆肥として咲き出た花の美しさは賞でるのである。何故その花が咲いたのか、その美しさのゆえんは、それを咲かしめた土壌の質を問題にせざるを得ないであろう。
―― 伊藤正義「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」 [162]
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の分類を試みた先人の方々
鬼としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう (鬼伊吹おにいぶき )
鬼としての伊吹弥三郎
下記の引用文は、『鬼の地名辞典 : 鬼のルーツを地名から探る』という本に記されている、「伊吹山
伊吹
イブキ 山(坂田郡伊吹町)
・源頼光ら四天王が伊吹山に住む鬼神,伊吹童子ら眷属を退治した「伊吹山絵詞」が残る.
・その昔,伊吹山の麓に鬼が現われ,旅人を殺したり,金品をかすめ取るという噂があった.それを聞いた役小角が,世の人々の危難を救おうとやって来た.役小角が霊力をもってみると,見すぼらしい一軒の茅屋がある.その中には貴婦人が住んで居られた.その人は大海人親王の妃で,戦乱を避け,樵人谷蔵のもとに身を寄せているのであった.世に恐れられている鬼こそ,この谷蔵の変身であることを見破った小角は,訳をきくと生活が豊かでなく,その上妃の日々の食事に事欠くので悪事をしたと告白したのであった.小角は懇に谷蔵を戒め,許してやったが5人を殺したので5鬼という名をつけ,弟子にした.それで住んでいた谷,伊香郡高時村(現在は高月町)石部,を五鬼ヶ谷と呼ぶようになったということである.
(荒木伊佐男 (他) 『鬼の地名辞典 : 鬼のルーツを地名から探る』) [163]
水神すいじん (竜神)としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
水神
民間の説話の中では、雷神制圧伝説が、伊吹町の高番や上野に伝わっている。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [164]
深有上人じんゆうしょうにん が、『三国伝記』の伊吹弥三郎いぶきやさぶろう 伝説をつくったのか?
神々の征服者は同時に崇拝者でもあった。
―― 武藤武美 [165]
キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。……以前の自然崇拝になれた民衆は、キリスト教への改宗ののちにも、ある特定の場所に対しては時代おくれの畏敬の念を保っていたのだが、このような共感を、ひとは新しい信仰のために利用しようと試みたり、悪い敵の推進力であるとして誹謗しようと試みたりした。異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。
―― ハインリッヒ・ハイネ『精霊物語』 [166]
「仏法が圧力でほかの神々を排除しようとするからです
この国には古くから多くの守護神がおりました
その神々は 仏教の圧力におびえているのです……
つまり彼らにとって仏教は侵略者です」
―― 犬上の言葉, 『火の鳥 太陽編』 [167]
高僧の行脚ということは、すなわち年々秋冬のある日を定めて、神が祭りを享
―― 柳田国男「太子講の根源」, 『女性と民間伝承』 [168]
龍王 lung-wang と呼ばれる河神は、その名称にもかかわらず単にインドや仏教の影響を受けたがために無害になった蛟
他方、「権力の介入」もまた、赤裸々に明らかとなってきた。すなわち、筑紫を原点とする九州王朝の歴史を大はばに「盗用」していたこと、それが立証されてきたのである。それは神話段階だけではない。九州王朝の発展史や朝鮮半島側との交渉史、その各段階にわたって他王朝の歴史を切り取ってあたかも自己の歴史であるかのごとくに、見せかけていた。――それが明白となったのである。
またこれらの点において一見“純粋”に見えた『古事記』も、神話段階においては“大きな盗用”を犯していたことが明らかとなってきた。しかもこの場合、『日本書紀』とは異なり、挿入した原史書(「出雲古事記」)の題名すらカットされていたのである。
このように『記・紀』は、一に未証説話の「史実との対応」という性格、二に権力の介入による「改変」という性格、この二性格を、ともにあわせもっていることが判明してきたのである。
―― 古田武彦『盗まれた神話 : 記・紀の秘密』 [171]
真言宗醍醐派
深有上人
もう一つの柳田国男の発言に注目してみたい。それは悪霊になって祟る人間は必ずしも悪行をなしたとは限らないということである。伊吹弥三郎は実際は悪行をなさなかったのではあるまいか。つまり、荘園領主に対する悪党としての狼藉は、そのまま民衆への収奪であったとは断定することはできないと思われるからである。だから『三国伝記』の伝説の中で、民間の人々が生活に「窮渇」したと表現したのは、荘園領主の側が感じたことを、民間の人々になぞらえて表現したのかもしれない。菅原道真を祭った神社が各地に天満宮として祭られている。それは彼への怨霊鎮魂ということであろうが、これも支配者側の恐怖を民間の中に降していった例である。同様のことが、伊吹弥三郎の場合についていえるのではないか。
これを民間信仰へ結びつける役割を果したのが、宗教家としての深有ではないか。つまり領主の側のイデオロギーを民衆の中におろしていき、民衆の中における悪党像をつくり出し、民衆の支持を得る。更に、その怨霊を民衆の生活の中に役立てるという、屈曲した発想をもって弥三郎を形成させていけたのは、神仏の世界にかかわる者であったからなのではあるまいか。私はそれを深有に見立てたいと思うのである。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [172]
伊吹大明神いぶきだいみょうじん たるヤマタノオロチと伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
天津御神
それを便
筒井筒
氏子
八雲立
遷
理
さりとて云は 亦
漣
神の恵
―― 「大清水
天照
八百万
有難
神風
此
面白
雲晴
―― 「弥高
天照
住める世の 神のいさみも 白湯
国富
此
いや高き 御山み池 水際は 雨をさづけて やくまたず
夕立
天と地や わがほに育つ 五穀
―― 「弥高
それが荒唐無稽であるがゆえに、あるいは、現在の学問のレベルに無縁であるがゆえに、まともにとり上げられることのなかったその意味での中世の思想と文化の一端に、この中世の日本紀の物語がある。そして、日本書紀原典から大きくはずれた中世日本紀が、ひとつには、中世の思想と文芸の各分野にひろく泌みわたって、いわば通説化して行き、常識化している実情を知っておかなければならないこと、そして、いまひとつには、このような諸説は、たしかに中世という時代の一性格をあらわすものではあろうけれども、暗く秘められた時代のひだから突如湧き出したものではなく、多くは、その原型乃至萌芽がすでに前時代にあるのだということ、またそれゆえに、それからの展開乃至歪曲の過程での諸相と、それをふまえて創り出されて行ったその時代の文芸一般のすがたの中にこそ、中世の本質を探る鍵もあろうか〔後略〕
―― 伊藤正義「中世日本紀の輪郭 : 太平記における卜部兼員説をめぐって」 [176]
下記の引用文は、丸山顕徳さんの論文「伊吹弥三郎伝説の形成」に記されている記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
この論考の始めに、民話の例として、弥三郎とスサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治、伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇、伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊吹弥三郎を伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。
下記の引用文は、『志賀町史 第1巻』という本のなかの、丸山竜平さんと小熊秀明さんが執筆を担当された章のなかの、「比良山麓の製鉄遺跡」という項目のなかの、「製鉄集団の系譜」という項目の記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
このことから、〔兵庫県の〕千種川〔ちくさがわ〕上流域での初期製鉄操業時には和邇氏〔わにうじ〕同族の関与があり、鉄鉱石で製錬がなされていたことが推測されるが、おそらくヤマト王権の支配下での鉄支配であったと思われる。これらの地域で製造された鉧もまた大和・河内に鉄器の原料として運び込まれたものと推定される。出雲の製鉄でもその工人は千種〔ちくさ〕から移りすんだものとの伝承がある。また、出雲の伝承で著名なヤマタノオロチ〔八岐の大蛇
やまたのおろち 〕の尾から出たムラクモノツルギ〔天叢雲剣あまのむらくものつるぎ 〕は、後、クサナギノツルギ〔草薙剣くさなぎのつるぎ 〕となってヤマトタケル〔倭建命やまとたけるのみこと (『古事記』)、日本武尊やまとたけるのみこと (『日本書紀』)〕が所持するが、伊吹山のアラブる神〔伊吹神いぶきのかみ 、伊吹明神いぶきみょうじん 、伊吹大明神いぶきだいみょうじん 〕を撃つときに、ミヤズヒメ〔美夜受比売みやずひめ (『古事記』)、宮簀媛みやずひめ (『日本書紀』)〕に預けたこの剣こそ、本来伊吹の神体であったといい伝えられている。伝承の世界ではあるが、このような背景には、近江の製鉄集団が千種〔ちくさ〕・出雲の工人集団の祖であるといった観念が存在していたのであろうか。しかし、その真偽のほどは現在の段階では明確ではない。
( 丸山竜平 & 小熊秀明「製鉄集団の系譜」, 「比良山麓の製鉄遺跡」, 「第三節 鉄と須恵器の生産」, 「第二章 原始・古代の生活と文化」, 『志賀町史 第1巻』) [177] [13]
「剣の巻つるぎのまき 」: 天照大神あまてらすおおみかみ が伊吹山いぶきやま に落とした天叢雲剣あめのむらくものつるぎ をめぐる竜神たちの物語
最後に、天照大御神
―― 次田真幸「禊祓
剣の巻
・ヤマタノオロチ(八岐の大蛇
・スサノオ(素盞嗚尊
・天叢雲剣
・天照大神
・伊吹山
『源平盛衰記げんぺいじょうすいき 』日巻第44
『源平盛衰記
「神鏡神璽
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
〔前略〕大蛇〔八岐の大蛇
やまたのおろち 〕が腹ばいになってやって来た。尾頭ともに八つあった。背中にはさまざまな木が生え、苔むしていた。眼は日月じつげつ のごとくで、年々呑んだ人は、幾千万かわからない。大蛇の八つの尾、八つの頭は、八つの岡、八つの谷に広がっていた。大蛇がこの酒を見ると、八つの酒槽の中に八人の美人がいる。これを本当の人間と思い、頭を八つの槽に浸して人を呑もうと思って、その酒を飲み干した。大蛇は頭を垂れて酔い伏した。尊は佩は いておられる十握剣とつかのつるぎ を抜いて大蛇をずたずたにお斬りになった。そこで十握剣を羽々斬はばきり と名づける。蛇の尾は斬れず、十握剣の刃やいば が少し欠けた。不思議に思って尾を斬り開いてみると、一つの剣がある。光ること磨いた鏡のようである。素盞嗚尊はこれを取り上げて、
「さだめてこれは神剣であろう。私の物にしてよいものではない」
と、すぐに天照大神に差し上げた。大神は大いにお悦びになられて、
「私が天の岩戸に閉じ籠った時、近江の国伊吹いぶき が嶽〔伊吹山いぶきやま 〕に落とした剣である」
と仰せられた。
その大蛇というのは、伊吹大明神の法体である。この剣が大蛇の尾にあった時は、常に黒雲がたなびいてあたりを覆ったので、天叢雲剣あまのむらくものつるぎ と名づけたのであった。天照大神が孫に当たられ天津彦尊あまつひこのみこと (神話では天照大神の曽孫)を葦原の瑞穂みずほ の国(日本)の主あるじ にしようと天降りさせ申した時、八咫鏡やたのかがみ 、叢雲剣むらくものつるぎ 、神璽しんじ の三種の神器を授け申したが、その中の一つである。代々の帝のお宝であるので宝剣という。素盞嗚尊と申すは、今の出雲の国の杵築きつき の大社(出雲大社)である。
(「神鏡神璽
『源平盛衰記
「老松
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
老松
おいまつ ・若松剣を尋ねる事平家が宝剣を取って、都の外へ持ち出して、准后(平時子)が持って海にお入りになったけれども、上代ならば紛失しなかったであろう、末代であることが悲しいことだ。海にもぐる海士
あま に命じて海底を探り、泳ぎの達者な者を入れて求められたけれども、とうとう見えない。朝廷では天の神、地の神に祈り、仏教の大法秘法を行われたけれども、験しるし がない。後白河法皇はたいそうお嘆きになった。仏神の加護がなくては、尋ねて得ることは難しいと、賀茂大明神に七日間御参籠になった。宝剣の行方ゆくえ についてお祈りをなさった。七日目に夢のお告げがあった。
「宝剣の事は長門の国壇ノ浦の老松・若松という海士に命じて、お尋ねなさいませ」
と霊夢があらたかであったので、法皇は還御かんぎょ になり、九郎判官ほうがん を召されて、お夢の趣旨に任せて言い含められた。
義経は百騎の軍勢で西国へ下向、壇ノ浦でふたりの海士を召された。老松は母であり、若松は娘である。院の命令の趣おもむき を言い含められた。母子ともに海に入って、一日経ってふたりともに浮き上がった。若松は、
「差し障さわ りはありません」
と申す。老松は、
「わたしの力ではかないません。不思議な差し障りのある所があります。普通の人間が入れる所ではありません。法華経を書写して、それを身にまいて、仏神ぶっしん の力をもって入りましょう」
と申したので、貴い僧を集めて、法華経を書写して老松に与えた。海士は身に経を巻いて海に入って、一日一夜上がらなかった。人は皆老松は死んでしまったのだと思い、嘆いていたところに、老松は翌日の午の刻ばかり(午後十二時頃)に上がった。判官は待ち設けて詳しい事情を聞いた。老松が、
「内々に申すべきことではございません。帝の前で申し上げましょう」
と言ったので、それならばと相連れて上洛する。判官がことの次第を申し上げると、後白河院は老松を院の御所法住寺殿(六条殿か)に召された。庭上ていじょう に参上して、老松は、
「わたしは宝剣を尋ねようとして、竜宮城と思われる所へ入りました。そこは金銀の砂を敷き、美しい階段を渡し、二階建ての楼門を構え、さまざまの殿閣を並べていました。そのありさまは普通の人間の住まいに似ていない。心で想像することも、言葉で表現することもできない。しばらく総門(外に構えた正門)にたたずんで、『大日本国の帝王のお使いです』と申し入れますと、紅くれない の袴を着けた女房がふたり出て、『何事ですか』と尋ねました。『宝剣の行方をご存でしょうか』と申し入れますと、この女房達は内に入り、しばらくたって出て、『しばらくの間お待ちなさい』といってまた内へ入りました。
だいぶたって、大地が動き、氷雨ひさめ が降り、大風が吹いて、天がそこで晴れました。しばらくして先の女がやって来て、『こちらへ』と言う。老松は庭上に進みました。御簾みす をなかば上げていた。庭上より中を見ますと、長さはわからないが、臥した長さは二丈(六メートルほど)もあろうかと思われる大蛇が、剣を口にくわえ、七八歳の小児を抱き、眼は日や月のようで、口は赤くて朱しゅ を差したようです。舌は紅の袴を振るのに似ています。言葉を出して、
『やあ日本のお使いよ、帝にこう申し上げなさい。宝剣は必ずしも日本の帝の宝ではない。竜宮城の重宝である。自分の第二の王子は、私の不審を蒙って、海中に住むことなく、出雲の国簸川ひのかわ の川上で、尾と頭がともに八つある大蛇おろち となり、人を呑むこと毎年に及んだが、素盞嗚尊はかの国の王者を憐れみ、民を大切にして、かの大蛇を殺された。その後この剣を尊はお取りになって、天照大神に差し上げた。
景行天皇の御代に、日本武尊やまとたけるのみこと が東夷を平定された時、天照大神より斎宮いつきのみや をお使いとして、この剣を下してお与えになられた。私は伊吹山いぶきやま の裾で、臥した長さが一丈の大蛇となって、この剣を取ろうとした。けれども尊は勇猛でいらっしゃる上に、勅命によって東国に下られていたので、私を恐れることなく、飛び越えてお通りになったので、取ることができなかった。その後計略をめぐらして取ろうとしたけれども、できなかった。簸川の川上の大蛇は安徳天皇となって、源平の戦乱を起こし、剣を竜宮に取り返した。口にくわえているものはとりもなおさず宝剣である。抱いている小児は先帝安徳天皇である。平家の入道太政大臣清盛公より始めて、一門の人々は皆ここにいる。見なさい』
とそばにある御簾を巻き上げると、法師を上座に据えて、気高い貴人が大勢並んで座っていらっしゃいました。
『お前に見せてよいものではない。けれどもお前が身に巻いている法華経の尊さに、経に結縁けちえん するために、もとの姿を変えずに会うのである。未来永劫えいごう この剣を日本に返すことはないであろう』
といい、大蛇ははらばいになって内にお入りになりました」
と奏上したところ、法皇を始めとして、公卿がたは皆同じく不思議なこととお思いになった。それによって、三種の神器の中で、宝剣はなくなったと決定したのであった。
疑問に思うことは、崇神天皇の御代に、霊威に恐れ、新しい鏡、新しい剣を模造して、本ものを伊勢大神宮に送られたといっている。そこで壇ノ浦の海に入ったのは、新剣であろう。どうして竜神が自分の宝というはずがあろうか。つぎに素盞鳴尊が蛇の尾から剣を取り出した時、大神宮(天照大神)に差し上げる際には、大神が、
「私が天岩戸あまのいわと にいた時に落とした剣である」
とおっしゃった。今また竜神が竜宮の宝という。そうすると竜神と天照大神は一体異名いみょう なのであろうか。不審を明らかにすべきだ、ということである。
(「老松
延慶本『平家物語』巻十一(第六本) : 「霊剣等事」
延慶本『平家物語』巻十一(第六本)
「霊剣等事」
(下記の引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
〔前略〕此山の奥に八岐羽々と云大蛇あり、年々に人を飲親を被飲者は子悲み子を被飲者は親悲、故に村南村北に哭する音不絶、我に八人の女ありき、年々に被飲て只此女一人残れり、今又被飲なんと云て始の如く又哭、尊哀と思食て此女を我に奉らは其難を休へしと宣けれは、老翁老嫗泣々悦て手を合て尊を奉礼て彼女を尊に奉りぬ、尊乍立彼の女湯津爪櫛
ゆつのつまくし に取なして御髪にさし給て、奇稲姫の形を作給て、鐘の装束をきせて、大蛇の栖ける岡の上に八坂と云所に立て、八船に醍■〔「酉」偏に「頁」の漢字〕を湛へて其影を酒船に移て、八の口に当て侍給に、即大蛇来れり、尾頭共に八有、眼は日月の光の如して天を耀し背には霊草異木生滋て山岳を見に似り、八の頭八の尾八の岳八の谷に這渡り、酒の香をかき酒の船に移れる影をみて、女を飲と飲程に残り少くすいほして、醉臥たり、共時尊帯給へる取柄剣を抜給て、大蛇を寸々に切給、一の尾に至て不切、剣の刃少し折たり、相構て即其尾を割て見給へは尾の中に一の剣あり、是神剣也、尊是を取て我何か私に安せむとて天照大神に、献給、天照大神是を得給て、此剣は我高天原に有し時今の近江国伊吹山の上にて落たりし剣也、是天宮あめの宮 御宝なりとて、豊葦原の中津国の主とて天孫を降奉給し時、此剣を御鏡に副て献り給けり、爾より以来、代々の帝の御守として大内に崇奉れたり、此剣大蛇の尾中に有ける時黒雲常に覆へり、故に天叢雲剣と名く、彼大蛇と申は今の伊吹大明神是也、湯津爪櫛と云事昔如何なる人にてか有けん、夜鬼に追れて遁去へき方無りけるに、懐より爪櫛と云物を取出して、鬼神に投懸たりけれは鬼神怖て失にけり、かゝる由緒有ける事なれはにや、素盞鳥尊〔素盞嗚尊〕も少女を湯津爪櫛に取なし給けるなるへし、尊其後同国素鵞里に宮造し給ける時其所には色の雲常に聳けれは尊御覧してかくそ詠し続ける、
八雲立出雲八重垣つまこめて八重垣造る菀八重垣を
此そ大和歌の卅一字の始なる、国を出雲と号するも其故とそ承る、彼尊と申は出雲国杵築大社是也、〔後略〕
(「霊剣等事」, 延慶本『平家物語』巻十一(第六本)) [182] [13]
参考: 八岐の大蛇やまたのおろち を伊夫岐神社いぶきじんじゃ の祭神さいじん とする説について
《伊吹山
(伊吹おろしの強風を利用した古代たたら製鉄)
フィリップ氏またキリスト教法で竜を罪悪の標識、天魔の印相とする風今に変らざる由を述べていわく、中世異端
―― 南方熊楠
風神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
アナシのシは風の古名で、シはジ・ゼに変ずる。荒風
―― 松尾俊郎「アナシと穴師神社」, 「風に関連した地名」, 『地名の探究』 [186]
おぼつかな 伊吹おろしの風先に
朝妻船は あひやしぬらん
―― 西行
『江源武鑑
十一月
廿一日大風近国ノ山木半
ナカハ 吹倒フキタヲ ス弥三郎風ト云〔元和7年(1621年)〕11月
21日 大風 近国の山木 半なかば 吹倒ふきたお す 弥三郎風やさぶろうかぜ と云いう
(『江源武鑑
近江国一帯に吹く大風を、「弥三郎風」といったという伝承なども、怨霊が風となって吹くという信仰が背景にあったと解釈するほうがよいのではないか。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [189]
雷神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
伊邪那美ノ命
〔中略〕
黄泉醜女
――折口信夫 『古事記の研究』 [191]
伊吹
江戸時代前期の1665年(寛文5年)に刊行された、仮名草子
(※下記の引用文のなかの、「鬼伊吹
(※下記の引用文のなかに登場する、「三上
さて又
また 、近江の国おうみのくに 伊吹山いぶきやま に弥三郎やさぶろう と云い う者あり。その身は鉄のごとくにて、力ちから は千人ちひと が力ちから にも超こ えつべし。国中くになか の者もの ども是これ を怖お じて鬼伊吹おにいぶき とぞ申もう しける。然しか るに、この伊吹いぶき 、東国とうごく 、北国ほっこく より大内おおうち へ奉たてまつ る御調物みつぎもの を中なか にて奪うば い取と りしかば、御門みかど はかの伊吹いぶき を退治せんとし給たま うに、この伊吹いぶき 、切るをも突くをも痛まず。まして射い る矢もその身に立たず。その上、山野さんや を走る事、飛ぶ鳥の如ごと し。さて、「いかにとしてかこの伊吹いぶき を平たいら げん」と、公卿くぎょう 僉議せんぎ ましまして、近国きんごく の兵つわもの を召め され、「この伊吹いぶき 、討う ち取とっ て奉たてまつ るものならば、勲功くんこう 勧賞けじゃう あるべし」と宣旨せんじ を下くだ し給たま いけり。ここに同国どうこく に三上みかみ と聞えし兵法ひょうほう 達たっ せし大剛だいごう の者もの あり。この人、優ゆう なりし娘むすめ を一人持てり〔三上みかみ には、美しい娘むすめ が一人いた〕。しかれば、彼かの 伊吹いぶき 、たびたび来きた りて娘むすめ を所望しょもう せしかば、三上みかみ はこの伊吹いぶき を討う たんため、娘むすめ を伊吹いぶき に取と らせけり。その後のち 、娘むすめ を呼び寄せ、伊吹いぶき が身み のありさまを尋たず ぬるに、娘むすめ 、語りていわく、「人の膚はだえ とおぼしき所ところ は、右左脇みぎひだりのわき の下した より外ほか になし」と云い う。三上みかみ はこれを聞き、はかり事ごと をめぐらし、よろずの大石おおいわ を集め、庭にわ を作らせ、中なか にもすぐれたる石いわ 、二ふた つ三み つ、庭にわ のまん中なか に直なお しかねたる体てい に引ひ きすてて置お きつつ、伊吹いぶき を請しゃう じ入い れつつ、山海さんかい の珍物ちんぶつ をととのえ、伊吹いぶき をもてなし、酒さけ をすすめける。酒さけ も半なか ばの事こと なるに、伊吹いぶき 、庭にわ のけしきをきっと見て〔さっと見て〕、「面白おもしろ と作れる庭にわ かな、さて、これなる石いわ をば、何なに とて、かくては置お き給たま うらん」と云い いしかば、三上みかみ 、申もう すよう、「あなたへ直なお したくは候そうら えども、あまりに石いわ が重おも き故ゆえ 、さてかくて候そうろ う」と答こた う。伊吹いぶき 、聞きて、「あら、ことごとしや、あれほどの石いわ をば、飛礫つぶて にも打う つべくは候そうら え。さらば、直なお して参まい らせん」と云い うままに、座敷ざしき を立た って鎧よろい を脱ぬ ぎすて、広庭ひろにわ に飛と んで下お りたりけり。頃ころ は水無月みなづき 半なか ば〔太陰暦たいいんれき (旧暦きゅうれき )の6月中旬ちゅうじゅん (太陽暦たいようれき の7月ごろ)〕、暑あつ さは暑あつ し、酒さけ には酔よ いぬ、日頃の用心もうち忘れ、左右さゆう の肩をひん脱いで、小山こやま のようなる大石おおいわ を宙ちゅう にずんと差し上げたり。三上みかみ 、この由よし 見るよりも、「あわや、ここぞ」と心得て〔「ああっ、ここだ」と理解して〕、伊吹いぶき が左の小脇を右へ通れとかっぱと突く。伊吹いぶき 、きっと見て〔さっと見て〕、「すわや、たばかられたる口惜くちお しさよ」〔「ああっ、だまされてしまったことがくやしい」〕と云い うままに、持ちたる石いわ を投げ捨て、三上みかみ を取と らんと飛んでかかる。「叶かな わじ」とや思おぼ いけん、後うしろ さまに八尺築地やさかのついじ を躍おど り越こ え、行方ゆくえ しらず逃に げ失う せたり〔三上みかみ は、「伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の力ちから には敵かな わない(対抗できない)」と思ったようで、後ろを向いて、大きな土塀どべい を飛び越えて、どこかへ逃げ去ってしまった〕。伊吹いぶき 、大おお きに怒いか って、我わ が女房にょうぼう をば八つ裂きやつざき にして投げ捨て、雷いかずち の激げき する如ごと くに屋形やかた 〔三上みかみ の邸宅ていたく 〕のうちを鳴な りまわり、女おんな わらんべともいわず〔女性や子供であっても容赦なく〕、当る物を最後に踏み殺し、ねじ殺し、多くの人を亡ほろ ぼして、その身み は門かど に立た ちすくみ、居い なり死じに にぞ死し したりける〔門もん のところで、立ちつくしたままの姿で死んだ〕。三上みかみ 、伊吹いぶき が首しるし をとり、大内おおうち へ捧ささ げたりしかば、御門みかど 、御感ぎょかん に思おぼ し召め して、官かん も禄ろく も望のぞ みのままに成な し下くだ し給たま えば、三上みかみ は栄花えいが をきわめけり〔三上みかみ が、伊吹弥三郎いぶきやさぶろう の首を切り落として、天皇へ献上すると、天皇は感心されて、官位かんい も俸禄ほうろく も、望むままにお与えになったので、三上みかみ は栄華を極めた〕。
(『日本二十四孝
民間の説話の中では、雷神制圧伝説が、伊吹町の高番や上野に伝わっている。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [164]
善人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
人間の作品においても、自然の作品においても、本来特に注目に値するのは、その意図である。
―― ゲーテ「格言と反省」 [193]
私たちが知っている紀元前五世紀のギリシアの姿が不完全なのは、多くの事実が偶然によって失われたというのが主たる理由ではなく、むしろ、全体として、それが、アテナイ市の住民の中の本当に小さなグループによって形作られた姿であるという理由によるものであります。紀元前五世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって〔中略〕どう見えていたかということになりますと、私たちは殆んど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。
―― エドワード・ハレット・カー「歴史的事実が生まれる過程」, 『歴史とは何か』 [194]
さてここで、ツノ付きの生物に共通しているおおきな特徴を、もうひとつ挙げてみたい。
それは、すべてが「植物食」という点だ。
どれも動物を狩って食べることがないことにも注目していただきたい。シカもヒツジも、先に挙げた生物すべてである。カブトムシも樹液を吸う植物食者なのだ。
実はツノのある生物に、肉食はほぼいないと言える。ツノは保身、もしくはオス同士の争いに用いられ、獲物を狩るなど、積極的に他の生物に襲いかかるために使用されるものではないからだ。
例外を求めてツノ付きの肉食動物を探すほうが難しい。
―― 荻野慎諧「鬼の真実 : ツノという視点から」, 『古生物学者、妖怪を掘る : 鵺の正体、鬼の真実』 [195]
もう一つの柳田国男の発言に注目してみたい。それは悪霊になって祟る人間は必ずしも悪行をなしたとは限らないということである。伊吹弥三郎は実際は悪行をなさなかったのではあるまいか。つまり、荘園領主に対する悪党としての狼藉は、そのまま民衆への収奪であったとは断定することはできないと思われるからである。だから『三国伝記』の伝説の中で、民間の人々が生活に「窮渇」したと表現したのは、荘園領主の側が感じたことを、民間の人々になぞらえて表現したのかもしれない。菅原道真を祭った神社が各地に天満宮として祭られている。それは彼への怨霊鎮魂ということであろうが、これも支配者側の恐怖を民間の中に降していった例である。同様のことが、伊吹弥三郎の場合についていえるのではないか。
これを民間信仰へ結びつける役割を果したのが、宗教家としての深有ではないか。つまり領主の側のイデオロギーを民衆の中におろしていき、民衆の中における悪党像をつくり出し、民衆の支持を得る。更に、その怨霊を民衆の生活の中に役立てるという、屈曲した発想をもって弥三郎を形成させていけたのは、神仏の世界にかかわる者であったからなのではあるまいか。私はそれを深有に見立てたいと思うのである。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [172]
つまり『三国伝記』は、弥三郎がいかに体制推持側に対しての悪であるか、反秩序の権化的存在であるかを強調している。
〔中略〕
書承伝承は『三国伝記』以来の反秩序がいかに悪であるかを軸にして、お伽草子『伊吹童子』における反社会行為として成長する肉食を加えることで、仮名草子の伊吹弥三郎として完成する。そこには、体制を支える者の意識は強力に働いているが、常人(住民) の意識や弥三郎に対する評価は、期待できないように思われる。
〔中略〕
支配者におけるコントロール(支配そのもの) は自然に近い大力や無縛の精神の存在を怖れる。なぜなら恣意での行動は、支配のよって立つ秩序(いかなる形態においても支配者を最上部とする秩序) の否定・破壊に直結するからである。従って、体制に服さないものとして、一般の人々から孤立させて根絶する必要があるのは、いつの時代、どんな社会でも潜在的に含まれている支配者側の論理である。
(杦浦勝「伊吹弥三郎伝説について:伝承成立の分析」) [196]
さらに注目したいこととして、数少ない弥三郎伝承のなかに、伊吹弥三郎が寺の庭掃除をしたというのがあった。ここでは弥三郎は真面目な信仰者であった。伊吹山麓全域の調査が完了しない段階では確定はできないが、伊吹弥三郎が、もとから盗賊であったという確証は、これによっても疑いがもたれるのである。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [197]
巨人としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
1520年3月31日、マゼランが現在のサンタクルス州サンフリアンの海岸に上陸し、パタゴニアに初めてヨーロッパ人の足跡をきざんだ。この時、先住民のテウエルチェ族と出会い、彼らを「パタゴン」(大足族)と呼んだのが「パタゴネスの国」を意味するパタゴニアの地名となった。それもテウエルチェ族は「タマンゴ」と呼ばれる嵩張
マゼランの船団はサンフリアンで6ヵ月近く過ごしたが、遠征隊に同行したイタリア人のアントニオ・ピガフェッタはその航海記に「先住民は一人も姿を現さず2ヵ月が過ぎた。ある日、突然、一人の巨大な体軀の男が目前に出現し、ほとんど裸同然で頭に白い粉をかけて歌いながら浜を踊りまわった。男は驚くほど大きく、われわれの頭はようやくその腰に届くほどだった」と当時の模様を書き残している。
―― 藤井正夫「パタゴン伝説の真相」, 『希望の大地 パタゴニア』 [199]
おそらく猿の物真似が滑稽な感をもって迎えられるようになったには、猿の信仰を奉ずる者たちの落魄があったのであろう。たとえばサルタヒコがひらぶ貝にはさまれて水におぼれて死んだという『古事記』の神話にしてからが、すでに滑稽感をまぬがれないものであった。
昔話の猿聟によって、猿が水の神であったらしいといったが、その結末もまた、サルタヒコ同様水におぼれて死んでいる。そのことはすでにのべた(「祖父」)。かように下級の神が零落したのは、神自身を演じるものの零落ときりはなしがたい。ヤマサチヒコに誓いをたてて降伏したウミサチヒコが、水におぼれる敗北の状を演じて、自らの誓いを確認したように、征服者に笑いを提供するのが、一種の社会的効用となったのだ。厳粛たるべき神の出現が、滑稽感をさそうものに変化したのは、猿が滑稽であったからではなく、猿を演じて笑われるべき必要があったからにほかならない。
〔中略〕
私の意図していたのは、〔中略〕宗教的な起源をもちながら、零落した神々がその苦痛にみちた生活史によって人間性を徐々に拡大してきた変貌過程のほうをこそ提示したかったのである。
―― 戸井田道三『狂言 : 落魄した神々の変貌』 [200]
巨人としての伊吹弥三郎
伊吹弥三郎は子供の時分に聞いた話では、まあとにかく、大きなでっかい力持ちの人やったと。で、この琵琶湖は、この男が土を持ってって、そしてその伊吹山を作りよったんやと。そして水を飲む時はこの姉川の両の山に跨
また がって、姉川の水をぐうっと飲みほしたと。それほどの力持ちの大きな男やったと。
(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [62]
伊吹弥三郎ちゅうのは、相当まあ想像にも及ばんような大きな人であったらしいんですよ。その人が伊吹山から七尾山へこう跨
また いで、ほいでおしっこしたら姉川ができたちゅうようなこと、ちょっと聞いとるんですがね。
(『伊吹町の民話 (伊吹山麓口承文芸資料 1)』) [62]
下記の引用文は、丸山顕徳さんの論文「伊吹弥三郎伝説の形成」に記されている記述です。(引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者が加えたものです。)
そこで最初にとり上げた、なぜ巨人伝説が発生したかについて考えてみたい。先にも少し触れたように、巨人伝説は垂井町まではダイダラボッチの伝承であったのが、伊吹町で伊吹弥三郎に変わったのである。要するにこの地域で、伊弥三郎を巨人と見る何かが働いた。その要因を考えればよいのである。
私は、この要因は、伊吹弥三郎の祟り神としての性格、つまり蛇神(水神)としての性格と結びついたからだと考える。この論考の始めに、民話の例として、弥三郎とスサノオ、弥三郎とヤマトタケルの話を紹介した。登場人物の時代を無視した話である。しかし、出雲におけるスサノオの大蛇退治、伊吹山におけるヤマトタケルの蛇退治の話を弥三郎退治に変容させた話であることは明白である。しかも、弥三郎はこの場合、出雲における大蛇、伊吹山における蛇の役をおわされている。この話が民間に伝えられる背後には、単なる時代錯誤の民話という以上に伊吹弥三郎を伊吹山の蛇神と重ねてとらえていなくては成り立ちえないものがあったことを考えておかねばならないのである。
伊吹弥三郎が伊吹山の神と結びつき、水神として、守護神となると、彼のイメージは伊吹山の巨大なイメージと重ね合わさって巨人化への道をたどることになるではあるまいか。そのとき、ダイダラボッチの巨人伝説は伊吹弥三郎にかわることになる。伊吹弥三郎巨人伝説が文献に登場せず民衆の間に伝わったのは、伊吹山を神として抑ぎ、その福利を受けた山麓の人々の伝承であったからであると思うのである。
投石する伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
伊吹山いぶきやま のヨセゴロ: 伊吹弥三郎いぶきやさぶろう が投石のための岩を集めたガレ場
伊吹山
伊吹弥三郎いぶきやさぶろう が投げた岩と、玉姫物語(石作神社いしつくり神社 ・玉作神社たまつくり神社 )
岩ヶ町の大岩
阪田郡清滝〔旧・坂田郡清滝、現在の滋賀県米原市清滝
しがけん まいばらし きよたき 〕の豪族に生れた、柏原弥三郎は、母親が炊事の時、誤って指を切り落し、菜さい の中に混じっていたのを食べ、以後性格が強暴になったと伝えられています。
地頭じとう であったが横暴な振舞ふるま いが多いので、追われて伊吹山へ隠れ、山賊になりました。山を下り金銀財宝を盗み、婦女を連れ去ったといわれて人々から恐れられていました。
ある時、弥三郎は山を越えて、玉作たまつくり を業となす石作いしつくり の庄しょう (木ノ本町千田)に行き、草屋根の下で無心に勾玉まがたま を磨みが いている一人の美しい娘を見つけました。娘を自分の嫁にしょうと「娘御むすめご を私に下され」と頼みましたところ、「氏うじ の長おさ に相談して」とのことで、返事を待つことにしましたが、二日たっても三日たっても返事がこないので、業ごう を煮やした弥三郎はもう我慢が出来ず、怒り、狂い、大暴れに暴れ、伊吹山から岩石をもぎとっては、石作の庄めがけて投げつけました。(千田の石作神社の境内に弥三郎の手の跡のついた大きい岩が保存されています)
千田にはその岩がとんできたところを岩田という名で語り継がれています。
伊吹山から投げられた岩が、それて唐川の田圃の中に落されました。唐川では岩ヶ町という名で現存しています。(一本杉の東方百メートルほどの田圃の中)
その岩石にさわると腹が痛くなるとか、怪我をするとか、死ぬとかいわれて、里人からおそれられています。
伊吹山の弥三郎執念しゅうねん のかたまりでありましょう。
(高月町教育委員会『高月町のむかし話 (ふるさと近江伝承文化叢書)』) [202]
滋賀県長浜市木之本町千田
伊吹弥三郎
この岩の由緒について書かれている「玉姫物語」の石碑
(石作神社
(滋賀県長浜市木之本町千田
伊吹弥三郎
(石作神社
(滋賀県長浜市木之本町千田
伊吹弥三郎
(石作神社
(滋賀県長浜市木之本町千田
伊吹弥三郎
(石作神社
(滋賀県長浜市木之本町千田
この上の「玉姫物語」の石碑の左側の側面に刻まれている文字は、下記のとおりです。
この左側の大きな岩が、伊吹山から伊吹の三郎によって、投げつけられたものと言伝えられております。
石作神社
(滋賀県長浜市木之本町千田
天狗としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
佐々木氏の家臣が久しく捜索に困難せしに依りて、天狗的の怪物とまでの翼を附けられ、山中の岩石多き處を其の住居阯の岩窟と言ひ、百間廊下と言ひ、終には窪地を其の足跡とさへ言ふに至りては、怪談も亦、極まりて滑稽に陥れるなり。
(「第七編 第八章 柏原弥三郎の討伐」, 『近江国坂田郡志 2巻 改訂』) [203]
怨霊、祟り神としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
伊吹弥三郎も死後、怨霊となって祟ったことが示されている。
〔中略〕
伊吹弥三郎が祟り神として、これらと結合するのは土地柄としても極めて容易であったと思われる。
(丸山顕徳「伊吹弥三郎伝説の形成」) [204]
盗賊としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
このころ、上総国夷灊郡館山
―― 曲亭馬琴『南総里見八犬伝』第九集 巻の三 第九十七回 [205]
ところがだ、黄帝
酒呑童子しゅてんどうじ としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
伊吹童子いぶきどうじ (酒呑童子しゅてんどうじ )の父親としての伊吹弥三郎いぶきやさぶろう
おわりに
ここまで、伊吹弥三郎
伊吹弥三郎
引用文献・参考文献
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・「春日村山岳・谷概要図」, 春日村史編集委員会 [編], (1983), 『春日村史 下巻 付録』, 春日村.
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・《伊吹弥三郎
・《播隆上人
・《千の顔をもつ弥三郎》
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《伊吹弥三郎
・《巨人 伊吹弥三郎
・《弥三郎風
・《雷神
・《寒梅幽月
・《伊吹山
・《渡江淵
・《渡江淵
・《渡江淵
・《天照大神
・《オトチの岩窟の三ツ頭の大蛇
・《オトチの岩窟の三ツ頭の大蛇
・《伊吹山
・《柏原弥三郎
・ 《伊吹弥三郎
・《おそでさん ver. 8f5642ab1bbc_1》
地図の出典
地図1、地図2、地図3、地図4は、国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像(ズームレベル18)を、加工・編集して使用しています。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html .
動画で使用している素材
上の動画で使用させていただいている素材は、下記のとおりです。
▼3D地図の映像制作ツール:
Google Earth Studio
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▼動画で使用させていただいたBGM:
-
Title: Boys Adventure
Artist: Nash Studio Inc.
NSF-370-04 Boys Adventure の作品詳細 | Nash Music Library
https://www.nash.jp/nml/search/detail/track/NSF-370-04 -
Title: 森の魔法陣
Artist: 山本由貴子
神秘的・民族的な女性コーラス曲 (No.1037292) 著作権フリーの歌詞付き・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
https://audiostock.jp/audio/1037292 -
Title: New Expectations
Artist: Scoring Heroes
スポーツ大会の開幕・オーケストラ (No.935184) 著作権フリー音源・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
https://audiostock.jp/audio/935184 -
Title: ボーカルチョップが癖になるブチアゲBGM
Artist: Tsuyoshi Henna
ボーカルチョップが癖になるブチアゲBGM (No.954226) 著作権フリー音源・音楽素材 [mp3/WAV] | Audiostock(オーディオストック)
https://audiostock.jp/audio/954226
読み方(発音)が不明な言葉について
本稿で使用している言葉のなかで、読み方(発音)が不明な言葉については、便宜的に、仮の振り仮名
具体的には、下記のとおりです。
- 『湖路名跡志』(『湖路名跡誌』)という文献の題名の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、『湖路名跡志』(『湖路名跡誌』)を「こじめいせきし」と読むことにします。
- 『淡海名跡誌』という題名の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、『淡海名跡誌』を「おうみめいせきし」と読むことにします。
- 「渡江淵」という言葉の読み方は不明です。そこで、本稿では、便宜的に、「渡江淵」を「わたらいぶち」と読むことにします。
-
「東条経方」という人物の名前の、正式な読み方は不明です。ですが、『湖国夜話 : 伝説と秘史』では、「東条経方」という人名に「とうじょうつねまさ」という振り仮名
ふりがな (ルビ)がつけられています [75]。そこで、本稿では、便宜的に、「東条経方」を「とうじょうつねまさ」と読むことにします。
初出文献について: 『世界鬼学会会報 28号』への投稿記事
下記リンクのPDFファイルの内容は、このページの記事の内容の初期段階の状態のものです。具体的には、2024年1月に、世界鬼学会 [208]の会報誌(第28号 2024年)に投稿した時点での状態のものです。
このページの記事の内容は、下記のPDFファイルの内容に、加筆・修正を加えたものです。このページの記事の内容は、随時、加筆・修正しているので、内容が変わることもあります。ですが、下記のPDFファイルの内容は確定しているので、今後、内容が変わることはありません。
このページの記事の内容の、初期段階の状態の内容や、確定していて今後変わることがない文章をご覧になりたい場合は、下記のPDFファイルをご参照ください。
PDFファイルへのリンク: 「伊吹弥三郎の岩屋と井明神社 : 姉川を生き、妹川に没した、伊吹山の水竜鬼の生と死」(初期段階の状態)
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