Ps_地図_八瀬童子旧跡周辺地図(鬼ヶ洞、鬼腰掛岩)_ズームレベル16_002_001★
地図1 : 八瀬童子やせどうじ旧跡周辺地図

鬼ヶ洞_IMG_20211114_142801_PXL_20211114_052758715
鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

鬼腰掛岩_IMG_20210922_143952_PXL_20210922_053948551.MP
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう

鬼腰掛岩_『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_2021-12-17_13-03-12_w1280xh720_001.jpg
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

 

 それから、ヤクーのを知るためには、わしらを生かしておいてもらわねばね。神話しんわをつくるのはお手のものだろう。皇子おうじ威信いしんを傷つけぬよう、わしらもふくめた、うまい作り話を大いそぎで考えておくれ。これはあんたが聖導師になるまで待てないよ。すぐ手を打っておくれ。」
 シュガは、しばしだまってトロガイを見つめていたが、やがて、うなずいた。
「──力をつくそう。」

―― トロガイとシュガの会話「ナナイの手記しゅき結末けつまつ」, 『精霊の守り人せいれいのもりびと(*1)

 

 八瀬童子は冷笑れいしょうかべ、
「君、自分が生成りになった経緯を忘れたのかい? 君の、その鬼。それは、私が四年前に起こした、『上巳の大祓』で降ろしたものだ。そのごく一部、ちょっとした飛沫ひまつとりついて、君は生成りになった。私が降ろしたものがか──そんなの、少し考えれば想像が付かないかい?」

―― 夜叉丸の言葉「五章 錯綜の征野」, 『東京レイヴンズ 13』 (*2)

 

「そのあときくだにも おそろしや
 ただ一口ひとくち鬼が城おにがじょうとは」

―― 「鬼城をにがじゃう」〔八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほら〕の項目の末尾に添えられた短歌, 『出来斎京土産できさいきょうみやげ』巻之五 (*3) (*4)

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はじめに

ここでは、酒呑童子しゅてんどうじや、鬼童丸きどうまる(鬼同丸きどうまる)や、八瀬童子やせどうじの祖先の鬼にゆかりのある、鬼ヶ洞おにがほらという洞窟や、鬼腰掛岩おにのこしかけいわという岩を紹介します。具体的には、それらの場所へ行くための道のりを、動画と地図で紹介します。また、古文献に記されている、それらの場所についての記述も紹介します。

 

ちなみに、ぼくはいま、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばという絵巻物を研究しています。香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばは、鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子しゅてんどうじ説話をつたえる絵巻物です。

その香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばに記されているものがたりでは、もともと、比叡山ひえいざん比良山地ひらさんちの一帯に住んでいた酒天童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ)は、日本天台宗てんだいしゅう開祖かいそである伝教大師でんぎょうだいし最澄さいちょうによって比叡山ひえいざんから追い出されてしまいます。その後、各地を転々としたあと、酒天童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ)は、大江山おおえやまにたどり着くことになります。

江戸時代前期~中期ごろに書かれた古文献のなかには、「酒呑童子しゅてんどうじ酒顚童子しゅてんどうじ)は、比叡山ひえいざんを追い出された後、大江山おおえやまにたどり着くまでのあいだに、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらという洞窟に隠れ住んだ」、という伝説が記されている文献が複数あります。その伝説は、香取本かとりぼん『大江山絵詞』おおえやまえことばには、記されていない話なのですが、興味深い話だなとおもったので、調べてみました。

また、八瀬童子やせどうじと呼ばれる八瀬やせの人びとの先祖は、鬼であったとされています。その関係で、八瀬やせの里や、その周辺には、鬼ヶ洞おにがほら以外にも、鬼にまつわる伝承がある旧跡があります。比叡山ひえいざんの西側のふもとにある八瀬やせさとと、比叡山ひえいざんの山上にある延暦寺えんりゃくじ西塔さいとう地区を結んでいる北尾谷道きたおだにみちの途中には、かつて、鬼腰掛岩おにのこしかけいわという岩があったとされています。その鬼腰掛岩おにのこしかけいわも、八瀬童子やせどうじの先祖の鬼にまつわる伝承がある旧跡のひとつです。

ここでは、そういった、鬼にまつわる伝承がある八瀬やせさと周辺の旧跡である、鬼ヶ洞おにがほらと、鬼腰掛岩おにのこしかけいわのことを紹介します。

このブログ記事は、まだ書きかけの状態ですが、「すずろ作法」というかんがえかたにもとづいて、ある程度できたところで公開して、そのあとで、随時、内容を追加・修正する方法をとっています。更新通知をうけとるには、メールマガジンに登録していただいたり、ソーシャルメディアでフォローしていただければとおもいます。

 

※下記のPDFファイルの内容は、このページの記事の内容の初期段階の状態のものです(2022年1月に、世界鬼学会 (*5) の会報誌に投稿した時点での状態のものです)。このページの記事の内容は、下記のPDFファイルの内容に、加筆・修正を加えたものです。このページの記事の内容は、随時、加筆・修正しているので、内容が変わることもありますが、下記のPDFファイルの内容は確定しているので、今後、内容が変わることはありません。このページの記事の内容の、初期段階の状態の内容や、確定していて今後変わることがない文章をご覧になりたい場合は、下記のPDFファイルをご参照ください。

PDFファイルへのリンク: 「鬼ヶ洞と鬼腰掛岩 : 酒呑童子と八瀬童子の祖先の鬼の旧跡 in 京都洛北八瀬 & 比叡山延暦寺」(初期段階の状態)

 

なお、このページの記事で引用している古文献の引用文は、読者が読みやすくなるように、引用者が適宜、文章に手を加えています。具体的には、旧仮名遣いを、現代仮名遣いに変えたり、一部言葉を変更・追加したり、句読点を変更・追加したり、ふりがなを追加したり、旧字体の漢字を新字体に変えたり、漢文を書き下し文にしたり、一部間違いだとおもわれる文字を別の文字に変更したり、読みやすくなるように適宜、改行を加えたりしました。また、引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。

このページの記事で引用している古文献の記述の一部には、現在では差別的と考えられる表現が見られる部分があります。ですが、筆者には差別を助長する意図はなく、資料的意義を考慮して記載していることをご了承いただければ幸いです。

目次
  1. はじめに
  2. 鬼ヶ洞おにがほら京都きょうと洛北らくほく八瀬やせ
    1. 鬼ヶ洞おにがほらへの道のり : 地図と動画
    2. 鬼ヶ洞おにがほらから「比叡山」を見つめる視線
    3. 鬼ヶ洞おにがほら念仏供養ねんぶつくよう
    4. 鬼ヶ洞おにがほらである証拠
    5. 八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述がある古文献
      1. 酒顚童子の洞しゅてんどうじのほらだいす」, 『林羅山詩集はやしらざんししゅう』(『羅山文集らざんぶんしゅう』)
      2. 本朝通鑑ほんちょうつがん
      3. 雍州府志ようしゅうふし
      4. 北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」, 『近畿歴覧記きんきれきらんき
      5. 都名所図会みやこめいしょずえ
      6. 京師巡覧集けいしじゅんらんしゅう
      7. 山城名勝志やましろめいしょうし
      8. 出来斎京土産できさいきょうみやげ
      9. 菟藝泥赴つぎねふ
      10. 京都府愛宕郡村志きょうとふおたきぐんそんし
      11. 『八瀬記』
    6. 鬼石おにいしについて
    7. 鬼ヶ洞おにがほらの地図が収載されている文献
    8. 鬼ヶ洞おにがほらのマンガン鉱石
    9. 参考: そのほか
  3. 鬼腰掛岩おにのこしかけいわ西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
    1. 鬼腰掛岩おにのこしかけいわへの道のり : 地図と動画
    2. 鬼腰掛岩おにのこしかけいわであると判断した根拠
    3. 山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』の古地図に描かれた鬼腰掛岩おにのこしかけいわ
    4. 鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての記述がある古文献
      1. 山門名所旧跡記さんもんめいしょきゅうせきき
      2. 西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ
      3. 山門堂社由緒記さんもんどうしゃゆいしょき
    5. 参考: 八瀬童子やせどうじの先祖の鬼と院源いんげんの伝説について
      1. 参考: 院源いんげんについて
      2. 参考 : 西方院さいほういん大智院だいちいんについて
      3. 参考: 院源いんげんが往来した「地獄」の意味
    6. 参考: 八瀬やせ西塔さいとうを結ぶ北尾谷道きたおだにみちについて
      1. 参考: 天狗岩: 八瀬やせ延暦寺えんりゃくじとの境相論さかいそうろんの的となった境界線上の地点のひとつ
        1. 参考: 鬼と天狗の類似性
      2. 参考: 八町谷の石地蔵(通称: 首切り地蔵)
      3. 参考: 北尾谷きたおだに上墓、北尾谷きたおだに下墓
    7. 参考: そのほか
  4. 八瀬やせの鬼神「とんたい」(小たんたい)と御弓式おゆみしき
  5. 参考: 八瀬童子やせどうじ護法童子ごほうどうじ酒呑童子しゅてんどうじの関連性
    1. 遠碧軒記えんぺきけんき』に記された、矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじの二人の護法童子ごほうどうじに由来する、八瀬童子やせどうじの特徴的な髪形かみがた
    2. 「童子」の原義
    3. 「八瀬童子」は、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称
    4. 比叡山の霊木を守護していた二人の鬼の説話
      1. 法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう』の、鬼の霊木の説話
      2. 身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん』の、青鬼の霊木の説話
      3. 日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』の、青鬼の霊木の説話
    5. 悪鬼となった護法童子の事例
  6. おわりに
  7. 引用文献・参考文献
    1. 地図画像の出典

鬼ヶ洞おにがほら京都きょうと洛北らくほく八瀬やせ

かつて、酒呑童子しゅてんどうじや、鬼童丸きどうまる鬼同丸きどうまる)や、八瀬童子やせどうじの祖先である鬼が隠れ住んだという伝説がある、鬼ヶ洞おにがほらという洞窟が、洛北らくほく(京都市北部)の八瀬やせの里の西側の山の中腹にあります。

鬼ヶ洞おにがほらは、文献によっては、別の名称で呼ばれていることもあります。たとえば、鬼が洞おにがほらや、鬼が洞おにがほら鬼カ洞おにがほら鬼洞おにがほら鬼の洞おにのほら鬼ヶ城おにがじょう鬼个城おにがじょう)、酒顚童子洞しゅてんどうじのほら(酒顛童子洞しゅてんどうじのほら)などの表記で書き記されている場合もあります。

この下の写真は、鬼ヶ洞おにがほらの写真です。

鬼ヶ洞_IMG_20211114_142801_PXL_20211114_052758715
鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほら
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

鬼ヶ洞おにがほらがある場所のおおよその緯度経度は、 35.082993, 135.814054 です。

鬼ヶ洞おにがほらは、標高300メートルほどの場所にあります。

江戸時代前期の儒学者である林羅山はやしらざんは、鬼ヶ洞おにがほらの大きさを、「高さ約6メートル、深さ約9メートル」としています。ぼくの目測による推定値としては、(かなりおおざっぱな数値にはなりますが、)鬼ヶ洞おにがほらを構成する巨大な岩全体の高さは12メートルぐらいで、洞窟の入口の高さは7~8メートルぐらい、洞窟の入口の横幅は2メートルぐらい、洞窟の奥行きは9~10メートルぐらいではないかと感じました。

鬼ヶ洞おにがほらの洞窟の入り口が向いている方向をコンパスで確認したところ、おおよそ、南南西を向いているようでした。

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鬼ヶ洞おにがほらへの道のり : 地図と動画

八瀬やせさとから、鬼ヶ洞おにがほらまでの道のりを、下記のような地図にしてみました。

Ps_地図_鬼ヶ洞への道のり_八瀬_ズームレベル18_001_002★
地図2 : 八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらへの道のり

 

この上の地図の道のりをたどっていく様子や、鬼ヶ洞おにがほらの洞窟の様子や、その内部などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。


動画 : 鬼ヶ洞おにがほらへの道のりと、鬼ヶ洞おにがほらの映像

 


鬼ヶ洞おにがほらの地図上の位置
(おおよその緯度経度 : 35.082993, 135.814054
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう


鬼ヶ洞おにがほらの地図上の位置
(おおよその緯度経度 : 35.082993, 135.814054
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬近衛町やせこのえちょう

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鬼ヶ洞おにがほらから「比叡山」を見つめる視線

比叡山地ひえいさんちの主峰は大比叡峰おおびえみねです。ですが、比叡山地ひえいさんちの西側(や南西側)にあたる、八瀬やせ地域をふくむ京都市側からは、大比叡峰おおびえみねは見えません。そのかわりに、八瀬やせ側からは、大比叡峰おおびえみねのすぐちかくにある四明岳しめいがたけが、まるで比叡山ひえいざんの主峰であるかのようにそびえ立って見えます。つまり、ある意味で、八瀬やせの人びとにとっては、四明岳しめいがたけは「比叡山ひえいざん」の象徴なのではないかとおもいます。鬼ヶ洞おにがほらのちかくからも、その四明岳しめいがたけの頂上が見えます。

梅原猛うめはらたけしさんは、実際に鬼ヶ洞おにがほらを訪れたときの経験を、次のように述べておられます。(梅原, 2001, pp. 13-14)

 その日は夏の真っ盛り、カンカン照りの雲ひとつない日であった。私は、八瀬童子会・現会長の保司ほし博氏、森田一郎氏、辻利温としはる氏を先達せんだつに、草ぼうぼうで石がごろごろしている道を登った。老齢でしかも病後の私には、しんどい登山であったが、休み休みたっぷり時間をかけて登った。
 一時間も経ったであろうか。道は横ばいの尾根道になった。そこを少し進むと、にわかに鬼が洞が現われた。それは私の予期に反して釜状の洞窟ではなく、切り立った岩石の間に奥の深い穴をもつ洞窟であった。今は岩が崩れて埋もれてしまったが、昔はその奥になお広い空間があったのであろう。
 山を追われた縄文人の首領が、この山城を思わせる洞窟を一時の隠れ家としたのも、十分うなずけるのである。そしてその目の前には比叡山がそそり立っている。山を追われ、叡山と朝廷に反抗した誇り高い八瀬の人たちの祖先は、隠れ家であるとともに山城でもあるこの鬼が洞で、どのような想いで叡山を眺めていたのであろうか。

(梅原猛「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』) (*6)

上記の文章のなかで、梅原さんがおっしゃっているように、八瀬やせの人たち(八瀬童子やせどうじ)の祖先の鬼や、酒呑童子も、おなじように、鬼ヶ洞おにがほらのあたりから比叡山ひえいざん四明岳しめいがたけ)を眺めていたのかもしれません。

下記の写真は、鬼ヶ洞おにがほらから南東へ約150メートルほど行ったところにある尾根から見た四明岳しめいがたけの山頂を撮影した写真です。

四明岳_from_鬼ヶ洞の南の尾根のあたり_遠望_IMG_20211113_171244_PXL_20211113_081238261
鬼ヶ洞おにがほらのちかくから見える四明岳しめいがたけの頂上

下記の写真は、上記の写真とおなじ場所から、四明岳しめいがたけの頂上を拡大撮影した写真です。下記の写真の左上のところに小さく写っているのが、四明岳しめいがたけの山頂にある比叡山無線中継所の鉄塔です。

四明岳_from_鬼ヶ洞の南の尾根のあたり_ズーム_IMG_20211113_171254_PXL_20211113_081250489
四明岳しめいがたけの頂上と、そこに立っている
比叡山無線中継所の鉄塔(拡大撮影)

また、この下の写真は、鬼ヶ洞おにがほらの入口の前から東側に見える横高山よこたかやまを撮影した写真です。横高山よこたかやまは、別名として、「小比叡おびえ」や「波母山はぼやま」とも呼ばれる山です(武, 2008, p. 327)。「小比叡おびえ」という名称は、比叡山地ひえいさんちの主峰である「大比叡おおびえ」に対して付けられた名称です。「小比叡おびえ」という名称のなかに、「比叡ひえ」(比叡山ひえいざん)という言葉が使われていることからもわかるとおり、この小比叡峰おびえみねも、大比叡峰おおびえみね四明岳しめいがたけに次いで、比叡山地ひえいさんちを代表する山のひとつです。

横高山_from_鬼ヶ洞_遠望_IMG_20211114_155938_PXL_20211114_065930969
鬼ヶ洞おにがほらの東側には横高山よこたかやま
小比叡峰おびえみね波母山はぼやま)が見えます

横高山_from_鬼ヶ洞_ズーム_IMG_20211114_160105_PXL_20211114_070103207
鬼ヶ洞おにがほらの前から見える横高山よこたかやま
小比叡峰おびえみね波母山はぼやま)の山頂部分(拡大撮影)

上記の写真のように、八瀬童子やせどうじの祖先の鬼や、酒呑童子も、おなじように、鬼ヶ洞おにがほらから「比叡山ひえいざん」を眺めていたのかもしれません。

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鬼ヶ洞おにがほら念仏供養ねんぶつくよう

ちなみに、かつて、八瀬やせの人びとが、先祖の鬼をとむらうために、毎年7月15日に、鬼ヶ洞おにがほらの前でおこなっていた念仏供養ねんぶつくよう年中行事ねんちゅうぎょうじは、大正時代に廃絶してしまい、現在はおこなわれていないそうです。下記は、それについての記述です。

「鬼が洞」で八瀬の人たちは毎年七月十五日に念仏供養をし、祖先の霊を慰めたという。しかしその念仏供養も今は絶えて、「鬼が洞」を訪ねる人もいないという。(梅原, 2001, p. 13)

(梅原猛「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』) (*7)

この念佛供養の行事は、大正期になって、なくなったといわれている。(池田, 1963, pp. 16-17)

(池田昭「鬼の子孫の一解釈 : 宗教社会学的考察」) (*8)

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鬼ヶ洞おにがほらである証拠

・梅原猛さんの『京都発見 3 (洛北の夢)』の11ページに掲載されている、鬼ヶ洞おにがほらの写真と特徴が一致する。

・以前は、洞窟の入り口の前に、鬼ヶ洞おにがほらについての解説板があった。

 

鋭意製作中です m(_ _)mトンテン♬(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪(o≧ω≦)Oカンテン♪☆\(≧ロ≦)トンテン♬d(≧∀≦)bカンテン♪(*^ー^)/トンテン♬o(^-^o)(^o-^)oカンテン♪(^∀'*)ノ〃トンテン♬☆(^∀^o)カンテン♪┗(`・ω・´)┛トンテン♬(●´ω`●)カンテン♪
このあたりは、現在、鋭意製作中です。

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八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述がある古文献

ここからは、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述がある古文献などを紹介させていただきます。

酒顚童子の洞しゅてんどうじのほらだいす」, 『林羅山詩集はやしらざんししゅう』(『羅山文集らざんぶんしゅう』)

ここからは、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述がある古文献などを紹介させていただきたいとおもいます。

このページの記事で紹介するいくつかの古文献のなかでは、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述の引用元として、しばしば、江戸時代前期に林羅山はやしらざんが書いた『羅山文集らざんぶんしゅう』という文献が紹介されています。その文献に記載されていたという、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述は、1979年に出版された『林羅山詩集はやしらざんししゅう 上巻』のなかに記載されている、下記の記述のことだろうとおもいます(その理由は、後述します)。具体的には、『林羅山詩集はやしらざんししゅう 上巻』の巻第35の「酒顚童子洞しゅてんどうじのほらだいす」という題名がついている文章のなかに、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほら鬼が洞おにがほら酒顚童子洞しゅてんどうじのほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『林羅山詩集 上巻』, pp. 385-387)。(下記の文章は、すこし長い文章ですが、酒顚童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ)についての興味深い話がふくまれているので、鬼ヶ洞おにがほらについての話以降の部分も紹介させていただきます。)

酒顚童子洞しゅてんどうじのほらだいす じょあわ

ほら洞穴ほらあな〕は、八瀬河やせがわ西山中にり。ぞくごうして、鬼が洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕とう。洞口ほらぐちせまく、なかこうなり〔なかは広い〕。高さ二丈にじょうきょう、深さ三丈さんじょう有奇ゆうき〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕。しょうして、「酒顚童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ〕、このほらより丹波たんば大江山おおえやまに移る」とう。さがわたし(林羅山はやしらざん)の性格は〕、さぐり、ゆうさぐるをたしなむ〔好きである〕。名山、佳水、古跡、霊区にうごとに、これを歆羨きんせんせずということ無し〔とてもこころかれる〕。今、このほら鬼ヶ洞おにがほら〕をんとほっす。一日ひとひ山に登り、一氓いちぼう〔一人の地元民〕をして、まず、これをみちびかしむ〔案内させた〕。数健丁こでい健児こでい〕、児子じしう〔数人の召使めしつかいが、子どもを背負う〕。および、同来者の数輩すはい〔たくさんの人たち〕、倶共もろともにす。くこと一千余歩よほばかり、ほら鬼ヶ洞おにがほら〕にたっす。そのみちけんにして〔けわしくて〕、ほそし。葛藟かつるい、足をまとい、荊棘けいきょく、手をす〔くずふじかずらのつる草が足にまとわりつき、いばらのとげが手に刺さる〕。匍匐蚑行ほふくきこうし、沙石転動しゃせきてんどうす〔腹ばいになって進むたびに、砂や石がくずれ落ちる〕。あるは〔ある人は〕、まえなる者のあしあとなる者のおびむ。あるは〔ある人は〕、岩にいて、そばけば、すなわち、不側ふそくの谷にのぞむ〔目指していた場所と異なる谷にたどり着いてしまった〕。あるは〔ある人は〕、けんはばかりて、のぼることあたわざるものあり〔険しい道を行くことに差し障りがあって、登ることができない人もいた〕。わたし(林羅山はやしらざん)〕も、また、中途ちゅうとおこたることありて〔途中でつかれてしまって〕、少焉しばしいこいて、またのぼる〔すこし休んでから、また登った〕。ここにいて、わたし(林羅山はやしらざん)〕、おくれたり。華山かざん啼哭ていこくありて、象山の健歩けんぽ無きがごとし。従者ずさたすけて、く。すでにして、ほら鬼ヶ洞おにがほら〕をのぞむ。相距あいへだたること、ほとんど二百余歩よほ。ここにいたりて、いよいよ峻隘しゅんあい〔ますます、けわしくなる〕。児子じし数輩すはいと早くほら鬼ヶ洞おにがほら〕をでて帰るに会う。児子じしわたし(林羅山はやしらざん)〕をむかえ見ていわく、「われすでにこれを見る。異事いじ無し〔たいしたことはなかった〕。う、ここよりかえらん」。わたし(林羅山はやしらざん)〕、すなわる。ついに、一人のあやまり、つまずもの無し。ほとんど天なり。所謂いわゆるみちしてこみちせず。岩墻がんしょうの下に立たざる者をして、わたし(林羅山はやしらざん)〕、みずから悔い、みずかいましむ。児子じし唯諾いだくしていわく、「あえて忘れじ」。つ、このことをしるせんとう。

〔子どもが〕わたし(林羅山はやしらざん)〕にげていわく、「れ、る人にけり。流俗猥雑りゅうぞくわいざつ図書ずしょを読むに、えることあり。『むかし叡山えいざん比叡山ひえいざん〕に一童あり。僧徒そうとその美を愛し、酒をすすめ、かんまじゆ。時時ときどき、人をみ、血をねぶり、酒にして、これを飲む。一旦いったん〔ある朝〕、すだま妖怪ようかい〕とり、このほら八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほら〕にる。ついに、きて大江山おおえやまむ。天かげり、月くらく、風はげしく、雨はなはだしきにいたごとに、すなわちでて、人民婦女をつかむ。たずぬれども、そのところを見ず。また、金熊かねくま石熊いしくまの二童あり。これが徒属とぞくもの、数十鬼、往往おうおうに〔しばしば〕物をがいす。人、みなうれうのこと以聞いぶんす〔多くの人々が悩み苦しんでいることを、天皇に申し上げる〕。源の頼光みなもとのよりみつみことのりけ、つな渡辺綱わたなべのつな〕、保昌やすまさ藤原保昌ふじわらのやすまさ〕等、七人ななたりひきい、いつわりて、みね行者ぎょうじゃ (ぞく山伏やまぶしごうす) のまねし、山にり、たにわたる。おんなの血よごるるころもあらうを見る。おんないわく、「これ人のいたところあらざるなり。すみやかるべし」。頼光よりみつこれをう。その郷居さとい姓字かばねなしんあり。相共あいともかたる。ついに、おんなやくして、鬼窟きくついたる。おに酒呑童子しゅてんどうじ〕、童形どうぎょうあらわし、でて頼光よりみつ等にまみゆ。おびきて、毒酒どくしゅ使む。童〔酒呑童子しゅてんどうじ〕、いて、窟裏くつりす。諸鬼もろおにことごとう。おんなみちびきて、石扉いしどを開きて、ただちる。ひとつの太鬼おおおにの、石床いわとこいぬるを見る。かたちはなはおそるべしなり。頼光よりみつつるぎを抜き、大呼たいこしていわく、「普天率土ふてんそっとことごとみな王民。なん鬼魅きみところならんや。〔大声でしかりつける〕。なんおに、このつるぎは、これ八幡大神はちまんおおかみの霊剣なり」。おに酒呑童子しゅてんどうじ〕、おどろきて、まさ頼光よりみつたんとす。頼光よりみつただちにすすみて、おにす。おにお、そのいただきつかむ。つな渡辺綱わたなべのつな〕、た進みて、おにを斬る。あわせて、金熊かねくま石熊いしくまの諸属をころし、鬼首を一車にす。頼光よりみつかえりて、そうす〔天皇に報告申し上げた〕。天子てんしおおいに喜び、みことのりして、鬼首を石函せきかんおさめ、山中にむ』。りや〔このようなことがあるのでしょうか?〕」。

わたし(林羅山はやしらざん)〕いわく、「しかり。民俗のつたうるところ、ひと我邦わがくにのみにあらず。武王ぶおうしょういん王朝〕につ時〔勝利したとき〕、妲巳だっき妲己だっき〕、して、九尾狐きゅうびのきつねとなり、飛んでてんのぼらんとほっす。太公たいこう太公望呂尚たいこうぼうりょしょう〕、もっしゅすれば、すなわち、狐のおちるがごときは、すなわち、史伝しでんするところにあらずして、婦人ふじん児女子じじょし野語やごなり。なんとして、丈夫じょうふ歯牙しがのぼすにらんや〔一人前の男子が話題にするようなことではない〕。あるは〔ある人は〕、万物変化ばんぶつへんげはかりがたき者、あるは〔ある人は〕、深山大沢しんざんだいたくみずか厲鬼れいきある者、これあるがごとし。またあるは〔ある人は〕、こと妖術ようじゅつり、もっ劫盗ごうとうする者の、またこれあり。他日たじつ読書格物どくしょかくぶつよろしみずから知るべし」。

ここにいて、〔子どもが〕またいていわく、「羅城門らじょうもん生田いくたの森、鈴鹿山すずかやま足立が原あだちがはら戸隠山とがくしやまみなう、『むかしおにあり』と。これまたしかるか〔これもまた同様のことでしょうか?〕。るいれて、これをちょうずるか」。

わたし(林羅山はやしらざん)〕いわく、「しかり。ここに説あり。酒顚童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ〕よりだいなる者あり。酒顚しゅてん酒呑童子しゅてんどうじ〕は害をしたることしょうにして、桀紂けっちゅう〔古代中国の王朝の桀王けつおうと、いん王朝の紂王ちゅうおう。暴君の代名詞〕はだいなり」。

〔子どもが〕いわく、「なんぞや」〔なぜですか?〕。

林羅山はやしらざんが答えて言う、〕「むかしちゅう紂王ちゅうおう〕、渉をき、心をき、胎をえぐり、炮烙ほうらくし、玉杯ぎょくはい呑啖どんたんし、瓊宮けいきゅう盤栖ばんせいし、酒池しゅち沈湎ちんめんし、脯林ほりん餐饕さんとうし、穢腥えせいてんきこう。所謂いわゆる主萃淵藪しゅすいえんそうに、ただ、一鬼小洞のたぐみならんや。下流にれば、天下てんかあくみなす。に、ただ大江山おおえやま涓涓けんけん細流さいりゅうたぐいならんや〔大江山の酒呑童子しゅてんどうじの悪事などは、大したことはない〕。」

れつる者、聞きてこれを笑う。児子じし、またこれを笑う。いわく、「頼光よりみつ一時いっときなり。武王ぶおう一時いっときなり。小をもって大にたとうといえども、害をのぞくはひとつなり〔頼光此一時 武王彼一時 雖以小喩大 而除害一也〕。ついに、一絶句ぜっくを作る〔五言絶句ごごんぜっくがひとつできた〕」とう。

酒池しゅち顚飲てんいん肉林にくりんの中、殷紂いんちゅういん王朝の紂王ちゅうおう〕、元来これ狡童こうどう。鬼とり、人とりて、ともに害をす。窟宅くったく瓊宮けいきゅうとを論ぜず。

林羅山はやしらざん酒顚童子しゅてんどうじほらだいす」, 『林羅山詩集』巻第35) (*9)

(以下は、『羅山文集らざんぶんしゅう』についての補足説明です。)

上記で引用している記述が記載されている、『林羅山詩集はやしらざんししゅう 上巻』の本は、1979年に、『林羅山文集はやしらざんぶんしゅう』上下巻と、『林羅山詩集はやしらざんししゅう』上下巻の、合計4冊として出版されたもののうちの一冊です。これらの文集と詩集は、もともと、江戸時代前期の1662年(寛文かんぶん2年)に、林羅山はやしらざんの文集75巻と、詩集75巻、目録、附録などをあわせて、合計60冊として出版されたものです(『林羅山文集 上巻』, 巻頭の「林羅山文集例言」)。その1662年(江戸時代前期)に出版された文献が、いくつかの古文献のなかで、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述の引用元として紹介されている、『羅山文集らざんぶんしゅう』なのだろうとおもいます。ですが、それらの古文献では、『羅山文集』が引用元であるとされているものの、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のなかには、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述は無いようでした。(念のために、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のすべてのページに、ざっと目を通してみたのですが、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述は無いようでした)。ですので、おそらくは、古文献のなかで、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述の引用元として紹介されている、『羅山文集らざんぶんしゅう』というのは、厳密に言えば、「(1662年(江戸時代前期)に出版された)『羅山文集らざんぶんしゅう』(文集と詩集の両方を含む)のなかの、詩集ししゅう(『林羅山詩集はやしらざんししゅう』)の部分(のなかの巻第35)」のことを指しているのだろうとおもいます。

(とは言え、ぼくが見落としている部分もあるかとおもいます。ですので、もし、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のなかに、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述がある部分をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただければ幸いです。)

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本朝通鑑ほんちょうつがん

本朝通鑑ほんちょうつがん』は、江戸時代前期の1670年(寛文かんぶん10年)に成立した歴史書です。編者の林鵞峯はやしがほうは、林羅山はやしらざんの息子であり、儒学者です。父の林羅山はやしらざんは、3代将軍徳川家光とくがわいえみつの命令により、『本朝編年録ほんちょうへんねんろく』という歴史書をつくりました。ですが、その歴史書は、明暦の大火めいれきのたいかで焼失してしまい、林羅山はやしらざん自身もその数日後に亡くなってしまいます。その後、4代将軍徳川家綱とくがわ いえつなの命令により、息子の林鵞峯はやしがほうが、『本朝編年録ほんちょうへんねんろく』に新たな内容を追加することで完成した増補改訂版が、『本朝通鑑ほんちょうつがん』です。(『朝日日本歴史人物事典』, pp. 1340-1341, pp. 1346-1347)

本朝通鑑ほんちょうつがん』の巻第24の「後一条天皇ごいちじょうてんのう 2」の「治安じあん元年がんねん」(1021年、平安時代中期)の条文の末尾のところに、その年に亡くなった源頼光みなもとのよりみつの生前の業績を紹介する文章が記載されています。その源頼光みなもとのよりみつの生前の業績のひとつとして、酒顚童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ)を退治した話が記載されていて、その話のなかに、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらほら巌窟がんくつ鬼窟きくつ)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『本朝通鑑 第六』, pp. 1575-1576 ; 『本朝通鑑 : 標記 巻第29』, pp. 19丁表-19丁裏)。下記の文章の内容は、前述の『林羅山詩集はやしらざんししゅう』(『羅山文集らざんぶんしゅう』)の内容とほぼおなじです。ただ、酒顚童子しゅてんどうじについての話の末尾にある一文は、『林羅山詩集はやしらざんししゅう』(『羅山文集らざんぶんしゅう』)にはない内容です。

つたう。むか叡山えいざんに一童あり。僧徒そうとその美なるを愛し、酒をすすめて交歓こうかんす。時々人をみ血をねぶり、酒にしてこれを飲む。一旦いったん〔ある朝〕すだま妖怪ようかい〕とり、酒顚童子しゅてんどうじごうす。山をでて西のふもと八瀬やせの村にいたり、ほらを造りてこれに住す。すでにして丹波国たんばのくに大江山おおえやまり、巌窟がんくついとなみて、これにす。つねに天かげり月くらく風はげしく雨はなはだしきに至れば、すなわでて人民の婦女をつかむ。たずぬれどもそのく所を見ず。また金熊かねくま石熊いしくまの二童あり。つこれが徒属とぞくもの数十鬼、往々おうおう物をがいす。人みなこれをうれうのこと以聞いぶんす。頼光よりみつみことのりしてこれをたしむ。ふじ保昌やすまさをもって副とす。頼光よりみつ渡辺綱わたなべのつな等をひきい、いつわりて峰にる行ぎょうじゃまねして、山にたにわたる。おんなの血よごるるころもすすぐを見る。おんな頼光よりみつ等にいていわく、「れ人のいたところあらざるなり。すみやかるべし」と。頼光よりみつこれをうに、その郷居さとい姓字かばねなしんあり。相共あいともに語り、ついおんなやくして、おにいわやいたる。おに童形どうぎょうあらわでて頼光よりみつ等にまみゆ。おびきて毒酒どくしゅ使む。童いて窟裡くつりす。諸鬼もろおにことごとう。おんなみちびきて石扉いしどを開きて、ただちる。ひとつの大鬼おおおに石床いわとこいぬるを見る。かたちはなはおそるべしなり。頼光よりみつつるぎを抜きて大呼たいこしていわく、「普天率土ふてんそっとことごとみな王民。なん鬼魅きみところならんや。しつ〔大声でしかりつける〕。なんじ鬼、つるぎ八幡大神はちまんおおかみの霊剣なり」と。鬼、おどろきて、まさ頼光よりみつたんとす。頼光よりみつただちにすすみて、おにす。おにお、そのいただきつかむ。つなた進みておにを斬る。ならび金熊かねくま石熊いしくまの諸属をころし、鬼首を一車にせ、らくかえる。みことのりして鬼首を石函せきかんおさめ、山中にむ。

大江山おおえやま八瀬やせとも鬼窟きくつあとあり。あるいはう、酒顚鬼しゅてんのおに近江国おうみのくに伊吹山窟いぶきやまのいわやす。頼光よりみつきてこれをちゅうすとう。

(林羅山, 林鵞峰, 『本朝通鑑』) (*10) (*11)

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雍州府志ようしゅうふし

雍州府志ようしゅうふし』は、江戸時代前期の1686年(貞享じょうきょう3年)に出版された、山城国やましろのくにについての地誌ちしです。著者の黒川道祐くろかわどうゆうは、医者、儒学者です。彼は、林羅山はやしらざんやその息子である林鵞峯はやしがほうから儒学を学んでいます(『日本随筆大成 第1期 10』, pp. 1-2 (解題) )。そのため、下記の八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらについての記述のなかには、林羅山はやしらざん林鵞峯はやしがほうの著書からの影響が見られます。

雍州府志ようしゅうふし』の巻1の「山川門」の「愛宕郡おたぎぐん」のところに、「八瀬やせさと」と、「鬼が洞おにがほら」(鬼ヶ洞おにがほら)についての項目があります。それらの項目の記述は、下記のようなものです(立川, 1997, pp. 34-35)。

八瀬やせさと

みやこを去ること、東北三ばかり、叡山えいざん比叡山ひえいざん〕のふもとにあり。このへん、すべて小野おの庄内しょうないなり。一説に、天武天皇てんむてんのう大友おおとも皇子おうじおそわれたまう時、このさとのがたまう。流矢ながれや天皇てんのう背後はいごあたる。ゆえに、矢背やせごうすという。土俗どぞく、男子、また椎髻ついけいつたえいう、山鬼さんき、かつて八瀬河やせがわの西山中、鬼が洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕にむ。一村の男女、ことごとく山鬼さんきえい末裔まつえい〕なりと。ゆえに、男子もまた、かみ頭上とうじょう一処ひとところたばぬ。今にいたりて、毎年7月7日より同月15日にいたるまで、村中の児女、このほらあつまりて、かねを鳴らし、大いに弥陀仏みだぶつ阿弥陀仏あみだぶつ〕のごうとなう。これを、先祖せんぞまつるという。わたし(黒川道祐くろかわどうゆう)〕思うに、このところ叡山えいざん比叡山ひえいざん〕のふもとにあり。伝教大師でんぎょうだいしより以後いご牛車ぎっしゃゆるさるるのそう、この土人どじんをしてくるま牛車ぎっしゃ〕をぞうし、うしわしむ。そのそうくるま牛車ぎっしゃ〕にじょうみやこるの日、すなはち土人どじんをして牛童うしわらわたらしむ。倭俗わぞく牛童うしわらわ長髪ちょうはついただきうえたばね、そのすえ背後はいごる。今の長髪ちょうはつは、すなわちその遺風いふうなり。なん鬼神きじんえい末裔まつえい〕たることあらんや。一村百あまり。俗朴、身に木綿衣をけ、またかわごろも革袴かわばかまる。山に登ること、猿犹えんゆうごとし。田をたがやすに牛馬ぎゅうばをもってす。農暇のうか各々おのおのおのかまこしにし、山に登りて木をり、尺ばかりにこれをたばね、あなぐらに入れてこれをし、湿気を去るときは、青色たちまち黒にへんず。これを黒木くろきという。日々、京師けいしに売る。大原おおはら土俗どぞくもまたしかり。

黒川道祐くろかわどうゆう雍州府志ようしゅうふし』) (*12)

鬼が洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら

八瀬河やせがわの西山中にあり。洞口ほらぐちせまく、なかひろし。高きこと二丈にじょうきょう、深きこと三丈さんじょう有奇ゆうき〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕。いにしえ、鬼神きじん、このほらむ。ゆえに、ぞくごうして、鬼が洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕という。酒顚童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ〕もまた、このほらより丹波たんば大江山おおえやまうつるという。

黒川道祐くろかわどうゆう雍州府志ようしゅうふし』) (*13)

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北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」, 『近畿歴覧記きんきれきらんき

北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」は、江戸時代前期の1682年(天和てんな2年)ごろに、黒川道祐くろかわどうゆうが書いた、大原おおはら八瀬やせなどの洛北らくほく地域(京都市北部地域)についての記録です。この「北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」は、『近畿歴覧記きんきれきらんき』という文献に収録されている章のひとつです。『近畿歴覧記きんきれきらんき』は、黒川道祐くろかわどうゆうが、山城国やましろのくに地誌ちしである『雍州府志ようしゅうふし』を編集するにあたっての前準備として、近畿地方の名所旧跡をめぐって、それらの情報を記録したものです。

北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」のなかの「矢瀬やせさと」(八瀬やせさと)についてのところに、「鬼カ洞おにがほら」(鬼ヶ洞おにがほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです。(引用文中の「■」は、欠損部分です。)(『京都叢書 第3 増補』, pp. 126-127)

〔前略〕これより、舞楽寺ぶがくじ赤山明神せきざんみょうじん赤山禅院せきざんぜんいん〕の前を過ぎ、高野村たかのむら宝幢寺ほうどうじる。小野毛人おののえみし金牌きんぱいを見、蓮華寺れんげじの西に見る山蔭の社やまかげのやしろ山蔭神社やまかげじんじゃ〕の前を過ぎ、高野川たかのがわを渡り、八瀬やせの道にでて、行くこと一里いちりばかりにして、矢瀬やせ八瀬やせ〕のさとる。天武帝てんむてい昔日せきじつ大友おおとも皇子すめみこおそわれたまうとき、この道より近江おうみに御出あり。このところにおいて、たてまつ武士ぶしはな供奉ぐぶの人にあたりしゆえに、それより八瀬やせ矢背やせともけりとなん。この道より若狭わかさ小浜おばま二十八里にじゅうはちりあり。また、朽木くつき大溝おおみぞず。また、葛川かつらがわよりは、大木へ越となん。龍華越りゅうげごえへも、これよりず。八瀬やせ土民どみんもっぱ黒木くろきあきなう。これをふすぶるかまどの下に塩薦しおごもを敷き、これにるときは湿気を払えるとて、京都より男女保養にきたる。このところのもの、各々おのおのかみながくしまるい、かりそめに見ときは、男女の差別、見分けがたし。天武帝てんむていしばらくこのところに御座せり。民人ども、官家かんけていまなび余風よふうなりという。一説に、この一村は鬼の子孫なり。いにしえかみをもわず、かしらかぶせてありしを、中世よりこれをう。ゆえに、今、毎年7月7日より15日まで、この奥、鬼ヶ洞おにがほらとて、おにすみところあり。それは村中児女、毎日き、かねをならし念仏ねんぶつしゅす。これ、先祖おにとむらいと言う。されども、このにあらず。伝教でんぎょう繁昌はんじょうの時、牛車ぎっしゃゆるさる。この時、この村に駕車牛をかわしめ、舎人とねりく。この車副くるまぞい舎人とねり末裔まつえいゆえに首あり体■。

黒川道祐くろかわどうゆう北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」, 『近畿歴覧記きんきれきらんき』) (*14)

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都名所図会みやこめいしょずえ

都名所図会みやこめいしょずえ』は、江戸時代中期の1780年(安永あんえい9年)に発行された、挿絵入りの京都の名所案内書です。編者は秋里籬島あきざとりとうで、挿絵を描いたのは竹原春朝斎たけはらしゅんちょうさいです。

国立国会図書館デジタルコレクション_『都名所図会』巻三_172ページ_002
矢背やせさと」(八瀬やせさと)の挿絵
都名所図会みやこめいしょずえ』巻3 (*15)

都名所図会みやこめいしょずえ』の巻3(左青龍ひだりせいりゅう)の「矢背やせさと」(八瀬やせさと)のところに、鬼ヶ洞おにがほら鬼が洞おにがほら酒顛童子の洞しゅてんどうじのほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第11 増補』, pp. 171-175; 岩松, 2003, p. 117)。

八瀬やせ里人さとびとはいにしえの風俗ふうぞくありて、おとこも女のごとくかみをぐるぐるとまげ、女もおとこようはぎたかくからげ、脚半きゃはんむこうのかたにてあわせ、草鞋わらじ爪先つまさきひもことなるは、ゆえあることにや。

氏神天満宮うじがみてんまぐう八瀬天満宮やせてんまんぐう〕の鳥井とりいのまえに弁慶べんけい背競石せくらべいしとてたか八尺はっしゃくばかり〔約2.4メートル〕のいしあり。〔弁慶べんけいがその石を〕叡山えいざん西塔さいとう比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ西塔さいとう地区〕より、ここに提来さげきたる〔ひっさげて来た〕といいつたはべる。
鬼が洞おにがほらというはこれさとの西のかたありむかし叡山えいざん悪児あくちご鬼同丸きどうまる鬼童丸きどうまる〕というものすみしとなり。『羅山文集らざんぶんしゅう』〔林羅山はやしらざん文集ぶんしゅう〕には「酒顛童子の洞しゅてんどうじのほらしょうじける」となんかけり。

(『都名所図会みやこめいしょずえ』) (*16)

国立国会図書館デジタルコレクション_『都名所図会』巻三_174ページ_002
矢背やせさと」(八瀬やせさと)の挿絵
都名所図会みやこめいしょずえ』巻3 (*17)

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京師巡覧集けいしじゅんらんしゅう

京師巡覧集けいしじゅんらんしゅう』は、江戸時代前期の1679年(延宝えんぽう7年)に刊行された詩集です。著者である、丈愚じょうぐという名前の僧侶が、きょう(京都)を見物したときに書き記したものです。きょうの周辺の名所旧跡の、それぞれの由来や、その場所について詠んだ詩が記載されています。

京師巡覧集けいしじゅんらんしゅう』の巻之15に、八瀬やせ鬼ヶ城おにがじょう鬼ヶ洞おにがほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第4 増補』, p. 300)。

鬼ヶ城おにがじょう

烈々れつれつたる岩屋いわやの中にそびえたる石あり。これを鬼が石おにがいしと名づく。このかまえを鬼个城おにがじょう鬼ヶ城おにがじょう〕とづく。

囹圄れいぎょ娑婆しゃばにあり。くさ芒楚しもとを作りてふるう。岩は衆合しゅごういきおいあます。風ははげ焔羅ほむらいかり。崔氏金椀を送る。藻妻白銀を得たり。く地下に通すべし。沸た出て、亡親ぼうしんおもう。

(『京師巡覧集けいしじゅんらんしゅう』) (*18)

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山城名勝志やましろめいしょうし

山城名勝志やましろめいしょうし』は、江戸時代前期の1705年(宝永ほうえい2年)に発行された、山城国やましろのくに(現在の京都府南部の地域)の名所旧跡についての文献です。編者は源武好です。

山城名勝志やましろめいしょうし』の巻第15(愛宕郡5)の末尾にある「附録」のなかに、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほら鬼洞おにがほら酒顚童子洞しゅてんどうじのほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『新修京都叢書 第14巻 2版』, p. 283; 『史籍集覧 22 改定』, p. 837)。

また、下記の文章には、「八瀬童子が地獄の鬼の子孫である」というような意味の記述があるという、『蹇驢嘶余けんろせいよ』という文献からの引用文も含まれています。(『蹇驢嘶余けんろせいよ』の成立年代は、「早くは室町時代と思われる」とされています(池田, 1963, p. 15)。)

鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕 八瀬村やせむら西山腹さんぷくにあり

羅山文集らざんぶんしゅう』〔林羅山はやしらざん文集ぶんしゅう〕にう。ほら鬼ヶ洞おにがほら〕は八瀬河やせがわ八瀬川やせがわ〕の西の山中にあり。ぞくごうして鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕とう、くちせまなかひろく、高さ二丈にじょうきょう、深さ三丈さんじょう有奇ゆうき〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕、酒顚童子洞しゅてんどうじのほらしょうす、云云うんぬん

蹇驢嘶余けんろせいよ』にう。 (門跡もんぜき輿舁こしかくこと) 八瀬童子やせどうじなり、閻魔えんま王宮よりかえる〔帰る〕の時、輿舁こしかきたるおに子孫しそんなり。

鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕はこのえにしによって名付けたる。毎年7月15日、この村民そんみん等このほらの前に来て念仏ねんぶつすと云云うんぬん。また酒呑童子しゅてんどうじうこと、いわし。

著聞集ちょもんじゅう』〔『古今著聞集ここんちょもんじゅう』〕に、鬼同丸きどうまる鬼童丸きどうまる〕とものあり、源頼光みなもとのよりみつ朝臣あそん鞍馬詣くらまもうでの時、市原野いちはらのにおいてこれをちゅうす、云云うんぬん。あるしょう、市原野いちはらのいぬいあたって一つの岩窟がんくつあり。鬼同丸きどうまる鬼童丸きどうまる〕と狡童こうどうめり。そのせん比叡山ひえいざんちごなり。山をいだされ、かのいわやかまえて、かくみけるとえり。

(『山城名勝志やましろめいしょうし』) (*19)

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出来斎京土産できさいきょうみやげ

出来斎京土産できさいきょうみやげ』は、江戸時代前期の1677年(延宝えんぽう5年)に発行された文献です。きょう(京都)の周辺の名所旧跡の、それぞれについての情報と、その場所について詠んだ狂歌が記載されています。著者は不詳です。

出来斎京土産できさいきょうみやげ』の巻之5のところに、八瀬やせ鬼城おにがじょう鬼ヶ洞おにがほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第4 増補』, pp. 94-95)。

鬼城おにがじょう

八瀬やせの里より西北の方に鬼が城おにがじょうとて、もの恐ろしき岩窟いわやあり。その内に鬼石おにいしとて、角菱かどひしあらけなき石あり。むかし、酒典童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ〕ひえの山〔比叡山ひえいざん〕より追出おいいだされて、この岩窟いわやこもり、この石の上に起きしけりと言う。後に丹波国たんばのくに大江山おおえやまにして、源の頼光みなもとのらいこうに殺されしとかや。藤原千方ふじわらのちかたは、四の鬼を召し使い、坂上田村丸さかのうえのたむらまるは、勢州せいしゅう伊勢国いせのくに鈴鹿山すずかやまの鬼を殺し、渡辺源五綱わたなべのげんごつなは、東寺とうじ羅生門らしょうもんの鬼を討ち、和州わしゅう大和国やまとのくに宇多うだの森の鬼を斬り、余五将軍よごしょうぐん平維茂たいらのこれもちは、信州しんしゅう信濃国しなののくに戸隠山とがくしやまの鬼を打たりと言えり。そのほか、異国いこく本朝ほんちょうに、鬼のことども、そのためし少なからず。今は時世じせいおさまりて、仏法繁昌ぶっぽうはんじょうするゆえにや、いずくに鬼ありとも聞こえず。されども、天狗てんぐ火車かしゃ所為しわざは今もありと言う。むかし、大和やまと元興寺がんごうじ宝蔵ほうぞう盗人ぬすびとの隠れ住みけるを、「鬼あり」と言い流行はやらかし、子どもを脅して元興寺かこじ〔がごじ、元興寺がんごうじの鬼、妖怪〕と言えば泣きさしけりと言う。中頃なかごろ盗人ぬすびとの大将と聞こえし石川五右衛門いしかわごえもんとかや言う者、大和やまと河内かわちさかい、立田のとうげに隠れ、おもて粧鬼瞼そうきれんをあて、鬼の出立いでたちして人を追い倒し、はぎ取りしと聞き伝う。盗人ぬすびととが無き人を殺し、物を奪うは鬼ならずや。六条の御息所ろくじょうのみやすどころ金輪かなわ女房にょうぼうは、生きながら鬼になりたり。ものねたたけく、執心しゅうしん深く、吝姫りんき強くうらいかる女は、つのえずとも鬼ならずや。兼盛かねもり平兼盛たいらのかねもり〕が安達ヶ原あだちがはらの歌は、女を鬼とめり。

そのあときくだにもおそろしや
ただ一口ひとくち鬼が城おにがじょうとは

(『出来斎京土産できさいきょうみやげ』) (*20)

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菟藝泥赴つぎねふ

菟藝泥赴つぎねふ』は、江戸時代前期の1684年(貞享じょうきょう元年がんねん)に書かれた、山城国やましろのくに(現在の京都府南部の地域)の周辺の名所旧跡についての文献です。著者は、俳人、歌人、古典学者である北村季吟きたむらきぎんです。現存するものは写本であり、原本は現存していないようです(『京都叢書 第5 増補』, p. 2 (解題) )。

菟藝泥赴つぎねふ』の第5の「矢瀬やせ」のところに、鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第5 増補』, pp. 278-279)。

矢瀬やせ

天野の奥、八瀬やせかわ天智帝てんちていかくれさせたまいてのち御子みこ大友おおとも皇子すめみこ東宮とうぐう天武帝てんむていおそたてまつらんとす。天武帝てんむてい吉野よしのでさせたまいて、山城の国やましろのくにたまうに、流矢ながれやたりて、天武てんむあたれり。其所そのところ矢瀬やせうよし、『日本紀にほんぎ』〔『日本書紀にほんしょき』〕にあり。

六帖ろくじょう』〔『古今和歌六帖こきんわかろくじょう』〕
春雨はるさめのふりはへゆきて人よりはわれ先つまむ八瀬河やせがわのせり

拾玉集しゅうぎょくしゅう
ふゆの来てはむにものなきうしのやせゆくさとのころさびしさ

ひとつ矢瀬やせ八瀬やせ〕に鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕とて、洞口ほらぐち三間さんげんばかり〔約6メートル〕。奥の深さ知る人無し。いにしえ、このほらおにめり。日枝ひえ比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ〕の西方院さいほういんなにがし阿闍梨あじゃり院源いんげんのことか?〕につかえたり。八瀬やせ里人さとびとはそのおに子孫しそんとて、日枝ひえ比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ〕の法会ほうえもうでて、めし鬼喰おにぐいとてうことあり。かしら唐輪からわげて〔頭髪とうはつ唐輪からわ髪形かみがたまげにして〕、鬼童おにわらわと言えり。

北村季吟きたむらきぎん菟藝泥赴つぎねふ』) (*21)

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京都府愛宕郡村志きょうとふおたきぐんそんし

京都府愛宕郡村志きょうとふおたきぐんそんし』は、1911年(明治めいじ44年)に、京都府愛宕郡おたぎぐん役所によって編集された地誌です。かつて、愛宕郡おたぎぐんに属していた村々についての情報が記載されています。

京都府愛宕郡村志きょうとふおたきぐんそんし』の「八瀬村やせむら」のところに、鬼ヶ洞おにがほらについての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都府愛宕郡村志』, p. 346)。

鬼ヶ洞おにがほら

本村ほんそん西山あざ岩山の半腹はんぷく中腹ちゅうふく〕にり。登路〔登り道〕、五町ごちょうあまり〔約545メートル〕。けんなり。ほらは南にむかい、高さ二丈にじょう、深さ三丈さんじょうあまり〔高さ約6メートル、深さ約9メートル〕。入口いりぐち、広さ八尺はっしゃく〔約2.4メートル〕。くち〔入り口〕せまく、うち広し。ほとん四帖敷よじょうじきばかりなり〔たたみ四畳よんじょうほどの広さがある〕。天然てんねん岩窟がんくつなり。口碑こうひに、「八瀬童子やせどうじ旧跡きゅうせきなり」とう。今にいたり、毎年7月15日、ほらの前にて念仏供養ねんぶつくようをなすとぞ。

(『京都府愛宕郡村志きょうとふおたきぐんそんし』) (*22)

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『八瀬記』

『八瀬記』は、江戸時代中期の1716年(正徳しょうとく6年)に成立した文献です。内容は、八瀬村やせむらについての史料集です。『八瀬記』に収録されている史料は、南北朝時代の1336年(建武けんむ3年)~江戸時代前期の1710年(宝永ほうえい7年)までの史料です。(『八瀬童子会文書』, p. 11)

『八瀬記』のなかに記されている、鬼ヶ洞おにがほらについての記述は、下記のようなものです(『八瀬童子会文書』, pp. 72-73)。下記の記述のなかには、「八瀬童子の祖先である鬼を酒顛童子(酒呑童子)だとする言説があるが、それは間違いである」というような意味の記述があります。

鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕 八瀬村やせむらの西の山腹やまはら

羅山文集らざんぶんじゅう』にう。ほら八瀬川やせがわの西の山中にり。ぞくごうして、鬼洞おにのほら鬼ヶ洞おにがほら〕とう。くちせまく、なかひろし。高さ二丈にじょうきょう〔約6メートル〕、深さ三丈さんじょう〔約9メートル〕ゆうし、奇世きよに、酒顛童子洞しゅてんどうじのほらしょうす、云うんぬん
蹇驢嘶余けんろせいよ』にう、 (門跡もんぜき御輿舁おんこしかくこと) 八瀬童子やせどうじなり。
閻魔王宮えんまおうきゅうよりかえる〔帰る〕時、輿舁こしかきたるおに子孫しそんなり。

鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕のこと、このごと相見あいみそうろえども、当村、もうつたそうろうは、先祖せんぞおに子孫しそんゆえ、今に至り、毎年7月15日、鬼洞おにがほら鬼ヶ洞おにがほら〕の前にて念仏供養ねんぶつくようもうそうろだん代々だいだいもうつたそうろう。酒顛童子しゅてんどうじもうすこと、おおいなるあやまりにそうろう。後代こうだいのため、きしるしくものなり。

(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) (*23)

ちなみに、『八瀬記』に記されている鬼ヶ洞おにがほらについての記述のなかには、元の文章から写し間違ったとおもわれる箇所があります。このことについては、『八瀬記』を収載している『八瀬童子会文書』の冒頭の「解説」のところに、つぎのような注意書きがあります。「『八瀬記』の記載内容について注意すべきは、原文章の写しまちがい等が散見されることにあるが、翻刻にあたっては原本どおりとした」(『八瀬童子会文書』, p. 11)。

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鬼石おにいしについて

 

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鬼ヶ洞おにがほらの地図が収載されている文献

鬼ヶ洞おにがほらの場所の地図が収載されている文献はあまりないようです。ですが、下記の文献には、鬼ヶ洞おにがほらの場所の地図が収載されていました。

  • 谷北兼三郎 (1925) 『八瀬大原の栞』の、巻末の折り込み地図。
  • 梅原猛 (2001) 『京都発見 3 (洛北の夢)』の、巻頭の地図。
  • 京都新聞社 [編] (1980) 『京の北山 : 史跡探訪』の、43ページの地図。

ただ、これらの文献に収載されている地図で示されている鬼ヶ洞おにがほらの場所は、どれもおおまかな場所を示すにとどまっています。ですので、鬼ヶ洞おにがほらの正確な場所や、そこへ至る経路などは、これらの文献の地図からはわかりません。ちなみに、『八瀬大原の栞』の巻末の地図は、八瀬やせ御所谷ごしょだに聖社ひじりのやしろなどの名所旧跡以外にも、大原おおはら地域の名所旧跡も記載されているので、興味深いです。

ちなみに、江戸時代に比叡山延暦寺側の人たちがつくったとおもわれる、『山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』と、『山門結界裁許絵図さんもんけっかいさいきょえず』の古地図には、八瀬やせの里が描かれています。ですが、なぜか鬼ヶ洞おにがほらについては、どちらの古地図にも描かれていませんでした。(『八瀬童子 : 天皇と里人 : 重要文化財指定記念』, p. 57, p. 71, p. 83; 武, 2008, 口絵(『山門三塔坂本惣絵図』))

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鬼ヶ洞おにがほらのマンガン鉱石

ちなみに、鬼伝説と鉱山とのあいだに深いかかわりがあることは、よく言われることですが、八瀬やせ鬼ヶ洞おにがほらやその周辺にも、鉱山としての性格があった、というような話があるようです。若尾五雄さんの『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』には、鬼ヶ洞おにがほらの周辺でマンガン鉱石が採掘されていたという、次のような話が記されています(若尾, 1981, pp. 200-201)。

〔前略〕高野川の右岸にある山には、いわゆる鬼ヶ洞という岩屋があり、その中に鬼石という石があり、比叡山を追われた酒呑童子のいたとされるもので、その昔は八瀬の人々が七月十五日まで一週間念仏供養をここで行ったと言われている所である。
 この八瀬を訪ねて、秋元の玉川という老人に話を聞いた。鬼ヶ洞は今はくずれて近寄りがたいが、硫黄という地名で、この鬼ヶ洞の裏手は、マンガン鉄が出て、戦時中に掘ったことがある。さらに、この山の下方には銅を含んだ山もあると話てくれた。だが、

京都市北方の鉱脈は高野川の西方で東の地区には全くなく昔からも採掘、採鉱等跡もありません。又南は大原の南までで八瀬まで続いておりません。北東は滋賀へ、西は京北町へ延びて居ます。上記の通りです。参考になりますか、御推察の如く大古からの名刹の境内等には或はとも考えられますが、古から探鉱など簡単に出来ない場所故想像も出来ない状態です。
    京都市左京区高野泉町 吉田吉太郎

と、鉱山師からは返信を帰岸してから得ている。この通信の高野川西方とあるのは高野川の右岸鬼の洞がある方で、東方は比叡山側である。だから鬼ヶ洞の山にマンガン鉄が出ても当然だが、この文では大原という八瀬の北隣の地城から南にあたる八瀬には鉱脈がないとあるが、前記の玉川氏は七〇を越した古老であって、マンガン鉄を掘った戦時中のことは生きた目で見ていることは確実だから、大原から南方に鉱脈がないというのは誤りである。

(若尾五雄『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』) (*24)

上記の話については、はっきりとしたことはわかりませんが、興味深い話だとおもいます。

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参考: そのほか

 

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鬼腰掛岩おにのこしかけいわ西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ

かつて、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ天台座主てんだいざすであった院源いんげんという仏教僧侶が、閻魔大王えんまだいおうからの依頼をうけて地獄を訪れたことがあり、院源いんげんが帰る際に、彼を比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじへと送り届けるために、閻魔大王えんまだいおうが二人の鬼をつかわした、という伝説があります。その二人の鬼は、比叡山ひえいざんの西側のふもとにある、洛北らくほく(京都市北部)の八瀬やせさとに住む、八瀬童子やせどうじの人びとの先祖の鬼だとされています。

その二人の鬼が腰掛こしかけて休息をとった、という伝説がある鬼腰掛岩おにのこしかけいわという岩が、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ西塔北尾谷さいとう きたおだに地区にあったとされています。ぼくがその岩を探すための実地調査をおこなったときに、その鬼腰掛岩おにのこしかけいわだとおもわれる岩を見つけたので、ここで紹介させていただきたいとおもいます。

鬼腰掛岩おにのこしかけいわは、文献によっては、別の名称で呼ばれていることもあります。たとえば、鬼の腰掛け岩おにのこしかけいわ鬼の腰掛岩おにのこしかけいわ鬼の腰掛石おにのこしかけいわ、鬼掛石、などの表記で書き記されている場合もあります。

この下の写真は、鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)の写真です。

鬼腰掛岩_IMG_20210922_143952_PXL_20210922_053948551.MP
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう

IMG_20210922_144008_PXL_20210922_054006436
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう

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鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう

鬼腰掛岩おにのこしかけいわを探すために参考にしたのは、江戸時代中期に制作された、比叡山延暦寺の古地図である山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえずと、武覚超たけ かくちょうさんの『比叡山諸堂史の研究』に収載されている「堂舎僧坊分布図」と「比叡山の古道および諸堂分布図」の地図です。そこから、鬼腰掛岩おにのこしかけいわのおおよその位置を推測して、その場所へ行き、その周辺を探索してみたところ、鬼腰掛岩おにのこしかけいわだとおもわれる岩を見つけました。

※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)

鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)がある場所のおおよその緯度経度は、 35.074995, 135.829416 です。

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鬼腰掛岩おにのこしかけいわへの道のり : 地図と動画

鬼腰掛岩おにのこしかけいわまでの道のりと、そこから八瀬の里への道のりを、下記のような地図にしてみました。

Ps_地図_鬼腰掛岩への道のり_西塔北尾谷_ズームレベル18_001_004★
地図3 : 鬼腰掛岩おにのこしかけいわへの道のり
八瀬やせ西塔さいとうを結ぶ北尾谷道きたおだにみち
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょうのあたり)

 

この上の地図の道のりをたどっていく様子や、鬼腰掛岩おにのこしかけいわとおもわれる岩などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。

また、この下の動画では、鬼腰掛岩おにのこしかけいわから、八瀬天満宮やせてんまんぐうへの道のりも紹介しています。


動画 : 鬼腰掛岩おにのこしかけいわへの道のりと、そこから八瀬天満宮やせてんまんぐうへの道のりの映像

 


鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)の地図上の位置
(おおよその緯度経度 : 35.074995, 135.829416
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう


鬼腰掛岩おにのこしかけいわ(推定)の地図上の位置
(おおよその緯度経度 : 35.074995, 135.829416
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
(京都府京都市左京区さきょうく八瀬秋元町やせあきもとちょう

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鬼腰掛岩おにのこしかけいわであると判断した根拠

この岩が、鬼腰掛岩おにのこしかけいわであると判断した根拠は、つぎのとおりです。

  • 古文献のなかでは、鬼腰掛岩おにのこしかけいわがあるとされている場所は、西塔北尾谷さいとう きたおだに地区だとされています。鬼腰掛岩おにのこしかけいわとおもわれる岩のある場所は、その西塔北尾谷さいとう きたおだに地区の堂舎僧坊の跡地です。このように、場所が一致するので、この岩が鬼腰掛岩おにのこしかけいわである可能性があるとおもいます。
  • 比叡山延暦寺の古地図である『山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2に描かれている鬼腰掛岩おにのこしかけいわは、岩の上部の形状がひらべったい扁平な形状をしています。鬼腰掛岩おにのこしかけいわとおもわれる岩の形状も、上部がひらべったい扁平な形状にちかい形状をしています。また、ぼくが調査したかぎりでは、この場所の周辺には、この岩のほかに、上部がひらべったい扁平な形状をした岩は無いようでした。このように、岩の形状が一致するので、この岩が鬼腰掛岩おにのこしかけいわである可能性があるとおもいます。
  • この岩は、西塔北尾谷さいとう きたおだに地区にあります。また、この岩がある場所は削平地であり、さらに、この岩の周辺には複数の削平地があります。それらの削平地は、おそらく、かつて西塔北尾谷さいとう きたおだに地区にあった、堂舎僧坊跡の削平地だろうとおもいます。『山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2に描かれている鬼腰掛岩おにのこしかけいわは、西芳院(西方院のことか?)や、月輪坊という名称の堂舎僧坊の旧跡(舊跡)のちかくに位置しています。この鬼腰掛岩おにのこしかけいわだとおもわれる岩がある削平地は、おそらく、かつて、西芳院(西方院のことか?)や、月輪坊などの堂舎僧坊が立っていた削平地なのではないかとおもいます。

 

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山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』の古地図に描かれた鬼腰掛岩おにのこしかけいわ

この下の画像は、江戸時代中期に制作された、比叡山延暦寺の古地図である山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえずの第2のなかの、鬼腰掛岩おにのこしかけいわが描かれている部分です。

山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』は、比叡山延暦寺の境内と坂本地区を描いた古地図です。成立年代は 1767年 (*25) (*26)江戸時代中期 (*27))。作者不詳。第1と第2の2つの地図で構成されます (*28)

第2の地図には、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ東塔とうどう地区西塔さいとう地区が描かれています。

※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)

00000011_鬼腰掛岩_切り抜き_『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_004_001★
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

この上の『山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2の画像のなかに書かれている、「鬼腰掛岩おにのこしかけいわ」という文字の先頭の「おに」の文字は、下記の画像のように、「つのおに」の文字になっているようです。八瀬童子やせどうじの祖先であるおには、「つのおにである」とされています。ですので、この「つのおに」の文字は、八瀬童子やせどうじの祖先であるおにつのおに)をあらわしているのかもしれません。

00000011_鬼腰掛岩_切り抜き_『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_角の無い「鬼」の字_002_001★
つのおに」の字
(「鬼腰掛岩おにのこしかけいわ」の「おに」の字の部分)
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

00000011_鬼腰掛岩_切り抜き_『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_007_001
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

鬼腰掛岩_『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_2021-12-17_13-03-12_w1280xh720_001.jpg
鬼腰掛岩おにのこしかけいわ
西塔北尾谷さいとう きたおだに地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪 全体図 (JPEG版)_002_002_西塔地区_003_001.png
西塔さいとう地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪 全体図 (JPEG版)_002_002_西塔地区_001_001.png
西塔さいとう地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(一部分)

この下の画像は、『山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2の全体図です。比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ東塔とうどう地区西塔さいとう地区が描かれています。

『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪 全体図 (JPEG版)_002_002★
西塔さいとう地区, 東塔とうどう地区, 比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(全体図)

『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪_00000001(表表紙)_(JPEG版)_001_001
山門三塔坂本惣絵図さんもんさんとう さかもと そうえず』第2(表表紙)

※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)

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鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての記述がある古文献

ここからは、鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての記述がある古文献などを紹介させていただきます。

山門名所旧跡記さんもんめいしょきゅうせきき

山門名所旧跡記さんもんめいしょきゅうせきき』は、江戸時代中期の1744年(延享えんきょう元年がんねん)に撰述せんじゅつされた、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの名所旧跡についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 120)。

山門名所旧跡記さんもんめいしょきゅうせきき』の第1巻の「西塔さいとう分」には、鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, p. 228)。

鬼腰掛岩おにのこしかけいわ 同前〔西塔北尾谷さいとう きたおだににあり〕

比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ西塔北尾谷さいとう きたおだにの〕西方院さいほういん院源いんげん座主ざす寛仁かんにん年中ねんじゅう〔平安時代中期の寛仁かんにん時代に〕、陰府いんぷ〔地獄〕のいにおもむきし時、閻魔えんま、二鬼をつかわしてこれを送る。その時の二鬼、この岩にきょす〔腰掛こしかける〕。ゆえびて鬼の腰掛岩おにのこしかけいわという。今、八瀬やせの村民、矢瀬童子やせどうじ八瀬童子やせどうじ〕とぶは、この二鬼のすえ末裔まつえい〕なり。

(『山門名所旧跡記さんもんめいしょきゅうせきき』) (*29)

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西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ

西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ』は、江戸時代中期の1713年~1714年(正徳しょうとく3年~正徳しょうとく4年)に撰述せんじゅつされた、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ西塔さいとう地区の堂舎についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 117)。

西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ』の「北尾きたお」(西塔北尾谷さいとう きたおだに地区)の「大智院だいちいん」の項目ところには、鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, pp. 152-153)。

大智院だいちいん

もと西方院さいほういんと号す。寛永かんえいじゅう〔江戸時代前期の寛永かんえい時代に〕、改めて松寿院しょうじゅいんづく。元禄げんろく7年〔江戸時代中期の1694年に〕、また今の名〔大智院だいちいん〕にあらたむ。座主ざす天台座主てんだいざす院源僧正いんげんそうじょうかつて住する所なり。相伝あいつたう、寛仁かんにんじゅう〔平安時代中期の寛仁かんにん時代に〕、閻羅王えんらおう閻魔大王えんまだいおう〕、師〔院源いんげん〕を陰府いんぷ〔地獄〕にい、法華ほっけ講読こうどくせしむ〔法華経ほけきょうの講義をさせた〕。 (あるいは、伝えて法華ほっけ法華経ほけきょう〕十万部供養導師くようどうしるとう。) 師〔院源いんげん〕、りて告げていわく、「今、たまたまつぶさに脂獄の苦報くほうる〔地獄におちた人があじわう苦しみを見た〕。我、人間じんかん現世げんせ〕にかえるに、何をもってかあかしさん。もっ諸人もろびと〔たくさんの人〕にき知らしめん」。冥王〔閻魔大王えんまだいおう〕、すなわち、〔院源いんげんの〕ためひとつの宝印ほういんを授けて、いわく、「し、人、この印をせば、その人、たとい重きとがあれども、我、まさ方便ほうべんして、これをゆるすべし」。その印文いんもんいたに彫りて伝えて、見るにり。またそのくにも去て弥陀みだ迎接ごうしょうの聖像〔阿弥陀如来が来迎する様子を描いた阿弥陀聖衆来迎図あみだしょうじゅらいごうず〕をたてまつる。 (慧心僧都えしんそうず恵心僧都源信えしんそうず げんしんが〕手写しゅしゃするところ、迅雲弥陀じんうんみだづく。) もって冥界の衆生しゅじょうを福す。その像、初め本山〔比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ〕にり。のち展転流伝てんてんるでんして、今、〔比叡山ひえいざんの東側のふもとにある〕西教寺さいきょうじり。そのえにしつまびらかなること、梶井かじい盛胤親王せいいんしんのう梶井門跡かじいもんぜき盛胤法親王せいいんほうしんのうが〕ひっせる像のに見る。すでにして、師〔院源いんげん〕、まさに言にかえらんとす。王〔閻魔大王えんまだいおう〕、鬼卒きそつ二人ふたりはなつ〔地獄の鬼を二人派遣した〕。護送の二鬼、すなわち輿こしきて〔かついで〕、頃剋きょうこくにして〔しばらくして〕、ぼういたし〔西方院さいほういんまで院源いんげんを送り届けて〕、輿こし階下きざはしのもとはなちて〔輿こしを階段の下に放置して〕、いわりて、相憩あいいこう〔岩によりかかって、二人で一緒に休息をとった〕。そのいわ、院〔西方院さいほういん〕の旧址きゅうし旧跡きゅうせき〕にり。伝えて、鬼の腰掛石おにのこしかけいわう。その二鬼、山下やましたとどまりて、つい孫子まごこ子孫しそん〕をむ。すなわち、八瀬やせの奴童、みなそのたね子孫しそん〕なり。このゆえに、奴童、当坊〔大智院だいちいん(きゅう西方院さいほういん)〕をもって、八瀬やせ本坊ほんぼうしょうす。

(『西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ』) (*30)

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山門堂社由緒記さんもんどうしゃゆいしょき

山門堂社由緖記さんもんどうしゃゆいしょき』は、江戸時代中期の1767年(明和めいわ4年)に撰述せんじゅつされた、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの堂社についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 120)。

山門堂社由緖記さんもんどうしゃゆいしょき』の巻第一の「北尾きたお」(西塔北尾谷さいとうきたおだに地区)の「西方院さいほういん」の項目ところには、鬼腰掛岩おにのこしかけいわについての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, p. 272)。

山門堂社由緖記さんもんどうしゃゆいしょき』の「西方院さいほういん」の項目のところに書かれている内容は、前述の『西塔堂舎並各坊世譜さいとうどうしゃ ならびに かくぼうせいふ』の「大智院だいちいん」の項目の記述内容から、後半部分の内容などの一部を省略した内容になっています。ですので、『山門堂社由緖記さんもんどうしゃゆいしょき』の記述は、簡略版のようなものであるようです。

西方院さいほういん 旧跡きゅうせき

いんは、座主ざす天台座主てんだいざす院源僧正いんげんそうじょうかつじゅうするところなり。相伝あいつたえていわく、寛仁かんにんじゅう〔平安時代中期の寛仁かんにん時代に〕、閻羅王えんらおう閻魔大王えんまだいおう〕、院源いんげん〕を陰府いんぷ地獄じごく〕にい、法華ほっけ講読こうどくせしむ〔法華経ほけきょうの講義をさせた〕。院源いんげん〕、りてげていわく、「今、たまたまつぶさに脂獄の苦報くほうる〔地獄におちた人があじわう苦しみを見た〕。我、人間じんかん現世げんせ〕にかえるに、なにもってかあかしさん。もっ諸人もろびと〔たくさんの人〕にらしめん」。冥王〔閻魔大王えんまだいおう〕、すなわち、〔院源いんげんの〕ためひとつの宝印ほういんさずく。いわく、「し、人、の印をせば、の人、重きとがれども、われまさ方便ほうべんして、これゆるすべし」。印文いんもんいたりて伝えて、見るにり。院源いんげん〕、まさいてかえらんとす。王〔閻魔大王えんまだいおう〕、鬼卒きそつ二人ふたりはなつ〔地獄の鬼を二人派遣した〕。護送の二鬼、すなわ輿こしきて〔輿こしをかついで〕、頃剋きょうこくにして〔しばらくして〕、ぼういたし〔西方院さいほういんまで院源いんげんを送り届けて〕、輿こし階下きざはしのもとはなちて〔輿こしを階段の下に放置して〕、いわりて、相憩あいいこう〔岩によりかかって、二人で一緒に休息をとった〕。いわ、今にり。伝えて、鬼腰掛岩おにのこしかけいわう。おに山下やましたとどまりて、つい子孫こまごむ。すなわち、八瀬やせの奴童、みなたね子孫しそん〕なり。ゆえに、奴童、当坊とうぼう大智院だいちいんきゅう西方院さいほういん〕をもって、八瀬やせ本坊ほんぼうしょうす。今の大智院だいちいんれなり。

(『山門堂社由緒記さんもんどうしゃゆいしょき』) (*31)

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参考: 八瀬童子やせどうじの先祖の鬼と院源いんげんの伝説について

参考: 院源いんげんについて

 

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参考 : 西方院さいほういん大智院だいちいんについて

 

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参考: 院源いんげんが往来した「地獄」の意味

 

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参考: 八瀬やせ西塔さいとうを結ぶ北尾谷道きたおだにみちについて

 

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参考: 天狗岩: 八瀬やせ延暦寺えんりゃくじとの境相論さかいそうろんの的となった境界線上の地点のひとつ

 

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参考: 鬼と天狗の類似性

 

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参考: 八町谷の石地蔵(通称: 首切り地蔵)

 

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参考: 北尾谷きたおだに上墓、北尾谷きたおだに下墓

 

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参考: そのほか

 

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八瀬やせの鬼神「とんたい」(小たんたい)と御弓式おゆみしき

余談ですが、鬼ヶ洞おにがほら鬼腰掛岩おにのこしかけいわ以外にも、八瀬やせには鬼にまつわる伝承があります。それは、「とんたい」(または、「小たんたい」)という鬼神についての伝承です。その伝承の内容は、「昔、「とんたい」(「小たんたい」)という鬼神が、常に八瀬やせの人々を悩ませていたので、天照太神てんしょうだいじん八幡大菩薩はちまんだいぼさつ春日大明神かすがだいみょうじんの三柱の神々が、弓矢を射てこの鬼神を退治した」というような内容です。その伝承がもとになって、「弓始ゆみはじめ」(御弓式おゆみしき)という儀式が年中行事としておこなわれるようになったそうです。

江戸時代中期の1716年(正徳しょうとく6年)に成立した『八瀬記』には、「弓始ゆみはじめ」(御弓式おゆみしき)の儀式のことが、次のように記されています(『八瀬童子会文書』, p. 70)。なお、『八瀬童子会文書』に所収されている『八瀬記』の記述では、鬼神の名称が「小たんたい」になっています。

当村諸役覚書とうむらしょやくおぼえがき

弓始ゆみはじめ

毎年正月廿日はつか天神てんじんやしろ八瀬天満宮やせてんまんぐう〕へ、村中、衣装いしょうちゃくずる。左座ひだりざ右座みぎざ両座りょうざより、大鏡餅おおかがみもちえ、一居ひとす五斗ごと〔約9リットル〕ずつ、小鏡餅こかがみもち廿五にじゅうごえ、一居ひとす三合さんごう〔約0.5リットル〕ずつ、神前にえ、恵方えほうかたに、ひのき薄板うすいた網代あじろみ、五尺ごしゃく〔約1.5メートル〕にして、ほしくろの的をて、神主かんぬし一手ひとてる。つぎに、神主の子、素襖すおうちゃくし、本弓にとう〔トキ〕のえ、神主にわたす。神主、り、さかさまに、また、一手ひとてる。次に、村の子、二人でて、本弓にて一手ひとてる。このおこりは、むかし、「小たんたい」という鬼神、常に八瀬やせの人をなやますゆえに、天照太神てんしょうだいじん八幡大菩薩はちまんだいぼさつ春日大明神かすがだいみょうじん三社さんしゃの神、さしめたまうのよし、天下泰平てんかたいへいの御いのり、毎年これをり行う。

(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) (*32)

また、上記の「弓始ゆみはじめ」(御弓式おゆみしき)と関連があるとおもわれる「花の弓はなのゆみ」という儀式についても、『八瀬記』のなかに記されています(『八瀬童子会文書』, p. 70)。

花の弓はなのゆみ

毎年三月、躑躅つつじさかりに、天神てんじん旅所たびしょ八瀬天満宮やせてんまんぐう御旅所おたびしょの〕みなみかたに、ひのき薄板うすいた網代あじろみ、三尺さんしゃく〔約90センチメートル〕にして、ほししろまとを立て、とし十六七のもの四人、これをる。そののちは、子共あらそいてる。終わりて、まと吊り糸つりいとを切り落とし、まとのおもてを十文字に切り、「おには川へ流しそうろう」とはやて、川へ流す。正月しょうがつ弓始ゆみはじめまとは、村鎮むらしずめとて、ほしくろし。本の弓は、なおれいのこるとて、ほししろし。

(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) (*33)

これらの「弓始ゆみはじめ」(御弓式おゆみしき)や、「花の弓はなのゆみ」について、池田昭さんは、『天皇制と八瀬童子』で、次のように述べておられます(池田, 1991, pp. 48-49; 犬丸, 2012, pp. 82-84)。なお、下記の記述では、鬼神の名称が「とんたい」になっています。

 この呪的カリスマの所有者、神殿〔こうどの。一年神主〕は、次の宗教行為も行う。
〔中略〕
 正月二〇日の御弓の式。
 神殿〔こうどの〕は、春祭の場合と同様に、頬紅をし、神が乗り移ったもとで鬼を射、天下泰平を祈る。
 『八瀬記』には、「昔、『とんたい』と云う鬼神常に八瀬の人を悩ます故に天照大神、八幡大菩薩、春日大明神この三社の神射さしめ給ふのよし、天下泰平の御いの里[御祈り]毎年これをとり行ふ」とあって、この御弓の式は柳田国男氏の指摘とは相違し年占いではなく、むしろ祓除の呪術である。
 現在では行われていないが、『八瀬記』によると、「花の弓」と称し、三月のつつじの季節に子供らは「花を霊のこるとて……」と考え、鬼の的をつくり、これを射、その後的を十文字に切り、「鬼は川へながしたとはやしたて川へ流す」のであった。これは、神殿〔こうどの〕が主宰していたかどうかわからないが、次に述べる安楽花〔やすらいはな〕の伝承と同一の意味をもったものである。

(池田昭『天皇制と八瀬童子』) (*34) (*35)

ちなみに、「御弓式おゆみしき」(弓始ゆみはじめ)の儀式は、現在でも毎年1月20日におこなわれているようです。写真家の横山健蔵さんが、京都の年中行事の祭りや儀式を撮影した写真集のなかに、八瀬やせ御弓式おゆみしきにおいて弓を射る儀式の様子を撮影した写真や、そのほかの八瀬やせにおける儀式の様子の写真も収録されています(横山, 1994 b, p. 20; 横山, 1994 a, photo no. 39)。

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参考: 八瀬童子やせどうじ護法童子ごほうどうじ酒呑童子しゅてんどうじの関連性

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遠碧軒記えんぺきけんき』に記された、矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじの二人の護法童子ごほうどうじに由来する、八瀬童子やせどうじの特徴的な髪形かみがた

下記で引用している『遠碧軒記えんぺきけんき』は、江戸時代の儒学者である黒川道祐くろかわどうゆうが、自身の膨大な雑記や随筆をまとめた『遠碧軒随筆えんぺきけんずいひつ』を、江戸時代中期の1756年(宝暦ほうれき6年)に、公家くげ難波宗建なんばむねたけが抜書きし、分類したものです(『日本随筆大成 第1期 10』, p. 1 (解題) )。ちなみに、「遠碧軒えんぺきけん」というのは、黒川道祐くろかわどうゆう雅号がごう通称つうしょう)です。

遠碧軒記えんぺきけんき』の「上之一」の矢瀬郷やせのさと八瀬郷やせのさと〕の項目には、下記のような記述があります(『日本随筆大成 第1期 10』, pp. 15-16)。下記の文章では、八瀬童子やせどうじの特徴的な髪形かみがたは、矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじの、二人ふたり天童てんどう護法童子ごほうどうじ)の髪形かみがたに似せたものだ、とされています。鬼腰掛岩おにのこしかけいわの伝説に登場する二人ふたりの鬼も、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの代表者である天台座主てんだいざすという仏教僧に仕えているという点では、護法童子ごほうどうじにちかいものではないかとおもいます。ですので、鬼腰掛岩おにのこしかけいわの伝説に登場する二人ふたりの鬼と、矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじ二人ふたり天童てんどうには、なにか通じるものがあるのかもしれません。

矢瀬郷やせのさと八瀬郷やせのさとたか二百七十こく施薬院せやくいん弘文院こうぶんいん等のりょうあり。また大原おおはら寂光院じゃっこういんりょう御朱印ごしゅいん三十こくうちも、八瀬やせより少しおさむ。

八瀬やせに百十七けんふるき家あり。この者ども、小法師こぼうしのせんのとたぐいけ、この百十七けんの者のうちより、年老としおいを三十六択で、これがみな国名くになく。三十六人かければ、またえてそのうちる。これが鎮守氏神ちんじゅうじがみ天神てんじん八瀬天満宮やせてんまんぐう〕の事にあずかる。侍分さぶらいぶんにても〔さむらいの身分であったとしても〕、入人いりうど婿むこ〕は三十六人のうちれず。八瀬祭やせまつりのとき、三十六人は、浄衣白張じょうえはくちょうちゃくす。そのほかは、かちん〔褐色かちいろ。濃い藍色あいいろ〕に子持筋こもちすじして、蘇袍すおう素袍すおうのことか?〕をちゃくす。

さて、このところは、天神てんじんの〔八瀬天満宮やせてんまんぐう祭神さいじんである菅原道真すがわらのみちざねが〕、阿闍梨あじゃり屋敷やしき手習てならいに九ここのつよりかよたまうとき、この在所ざいしょにて、ひるの休息所なり。ところもの八瀬やせの住人〕、貧窮びんぐうてい見給みたまい、釜風呂かまぶろをして病人やまいとをもなおし、「渡世とせいにせよ」〔この仕事で生活していきなさい〕とのことなり。それにより、十才とおかたち束帯そくたいつくりて、天神てんじん菅原道真すがわらのみちざね〕をまつる。また、山門さんもん比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじ〕のもとゆえに、山の鎮守ちんじゅ山王さんのう二の宮にのみややしろあわまつる。祭日まつりびさきで、神輿みこし天神てんじんあとちいさきは二の宮にのみやなり。三十六人のうち、一人ずつ社人しゃにんつとむ。毎年大晦日おおみそか交替こうたいなり。 中略 

さて、八瀬やせの人のかみながきは、世上せじょうには、「清見原天皇きよみはらのすめらみこと天武天皇てんむてんのうが〕、しばらく此所このところ御入おいりゆえ、そのすえ」という。これは謬伝びゅうでんなり。慧心えしん恵心僧都源信えしんそうず げんしん〕の生身いきみにて冥途めいどまいられし時、こんがら・せいたか〔矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじ〕の二天童てんどうげんじて供奉ぐぶす。冥官みょうかん、「この者どもは何者なにものぞ」とあれば、「しかじか」とこたたまう。奇代きたいことなり。一人は此方こなた留置とどめおきたきとあり。其代そのだいには安楽花やすらいはなつかうべしとて、三粒みつぶあたう。これをえて菩提ぼだいを願うものは、即滅無量罪そくめつむりょうざいもうす。たずさかえりて、安楽寺あんらくじにわたまう。今に三本ありてれず。葉の裏になりて、菩提樹子ぼだいじゅしに似たり。この、こんがら・せいたか〔矜羯羅童子こんがらどうじ制多迦童子せいたかどうじ〕の天童てんどうていせて、かみながく、童子どうじていあらわすという。

黒川道祐くろかわどうゆう [著者], 難波宗建なんばむねたけ [編集], 『遠碧軒記えんぺきけんき』) (*36)

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「童子」の原義

 

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たとえばお伽草子の一つとして特に知られた『酒呑童子』の物語にしても、さまざまの要素は加わっており、いろいろの研究角度はあるであろうが、この題名の「童子」をはっきり説き明かすためには、やはり部落史の観点に立ち散所の問題にかえらねばならぬ。元来「童子」という語は、令制にも見えるように仏教寺院におこり、童部ともいって衆徒の僧侶が供侍としたもので、当初は年齢十七までの文字通りの童子であったらしいが、平安末期には年齢に開わりなく一種の護衛兵の如きものとなり、やがて「堂衆」として大衆の武力となるものであった。その出自は、奈良朝以来寺院に施入された奴婢の後裔であったが、これらの隷属民が部落に定着した場合には、特別な歴史的粉飾によって散所を名乗らなくとも、実質的には散所的な活動を行ったのである。それは領内の清掃雑役、駕輿丁の夫役、神事法会等の勤仕等である。京都の北郊八瀕が、今もなお駕輿丁奉仕を歴史的伝統として、その住民自ら童子を称している事実をみても、この点は容易に諒解し得ると思う。

(林屋辰三郎「「山椒大夫」の原像」, 『古代国家の解体』) (*37)

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「八瀬童子」は、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称

 

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山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した八瀬記にそう書いてあるのだから間違いない。そしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。かの酒呑童子や茨木童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一つの「護法胤」と見てよいのであろう。

〔中略〕

つまりは里から遠く離れて住んだ地主たる先住民の或るものが、里の文化の進歩や生活の向上に伴わなかった結果として、だんだん生活風俗等について里人との間に著しい差別を生じたので、ついには彼らは人間以外の非類である、或る特別の霊能を有する鬼類であると信ぜられる様になり、地主側の方でもまた時にはそれをよい事にして、所謂鬼を標榜して民衆の畏敬を受け、渡世のたずきとなしていたものもあったが為に、ついに全く筋の違うものと見做されるに至ったのであろうと言うのである。現にかの八瀬童子の如きは、本来筋の違う山人の子孫であるという事を以て、御所に薪炭を供給し、駕輿丁にも採用されたので、後の世までも一種変った伝説と風俗とを保持し、御所と特別の関係を有していたのであった。そしてそれが霊的の或る能力を有するものとして認識された場合に、或いは護法筋ともなり、その他陰陽筋・神子筋・禰宜筋などと言われて、卜筮祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられたが如きものであって、その例は他の民族にも甚だ多いのである。そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝いのはふり居勢祝こせのはふりなどという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。これけだし祝部はふりべすなわち神と人との間に立って、霊界との交通をつかさどる能力あるものが、土人すなわち地主側のものの後裔に多く存する事を示したものと解せられる。

(喜田貞吉「牛蒡種は護法胤 : 鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗」, 「憑き物系統に関する民族的研究」, 『先住民と差別』) (*38)

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比叡山の霊木を守護していた二人の鬼の説話

比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂こんぽんちゅうどうの本尊は、薬師如来像です。その薬師如来像をつくるときにつかわれた御衣木みそぎ(木彫仏像の制作にもちいられる材木)となった霊木についての説話が複数残されています。

その説話のなかに、霊木の守護者(比叡山の先住者)として、二人の鬼が登場する説話があります。

それらの説話の内容は、おおまかに言えば、「比叡山の土地の所有権が、先住者である鬼から、最澄さいちょう(に象徴される天台教団)に移った」という内容です。

それらの説話においては、比叡山の土地の所有権が、霊木によって象徴されています。

その「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」は、下記に列挙した文献に記載されています。

  • 法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう』巻第24 陀羅尼品だらにほん第26 (*39) (*40)
  • 身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん(*41)
  • 日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1 (*42) (*43) (*44)

これらの文献の説話に登場する、霊木を守護していた鬼は、護法童子的な性格を持たされているのではないかとおもいます。

これらの文献のなかに、霊木を守護していた鬼が二人だとされている文献があるのは、「制多迦童子と矜羯羅童子の二人のように、仏法に仕える護法童子は二人一組である」ということを前提にしているからなのかもしれません。

 

参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子

 

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法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう』の、鬼の霊木の説話

 

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(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)

叡峰開白かいびゃく比叡山ひえいざん開闢かいびゃく〕の時、根本中堂こんぽんちゅうどう薬師やくし薬師如来像やくしにょらいぞう〕を造りたてまつらんとて、御杣木そまぎたずたまふに、東北に当たってくすのきあり。もとより光明こうみょうはなつ。大師だいし伝教大師でんぎょうだいし最澄さいちょうあやしく思召おぼしめし、の木のもとたずね行きて見たまふに、二人ふたりおにりて、の木を守護しゅごす。とき大師だいしえいじていはく、「阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい仏達ほとけたちが立つそま冥加みょうがあらせたまへ」。おにいはく、「われ狗留孫仏くるそんぶつ過去七仏かこしちぶつの第四番目のほとけ〕より以来、の木を守護しゅごし、釈尊しゃくそん像法ぞうほうの時に当たり、の山〔比叡山ひえいざん〕にいて大乗だいじょう弘通ぐずう人師にんし来るし。すなはあたし」とへり。「なんじことなるべし」とふに、すみやかに東北を指して去りにけり。すなはの木を切りて、一刀三礼いっとうさんれい薬師如来やくしにょらいの像を造り、根本中堂こんぽんちゅうどう本尊ほんぞんす。の礼文にふ。像法ぞうほうてんずる時、衆生しゅじょう利益りやくす、ゆえ薬師瑠璃光仏やくしるりこうぶつと称号す。ごとうたいて礼拝したまひしかば、木像の薬師やくし、新たにうなづきたまひけり。今も夜なんど道を行くに、をそろしきことこれり。の歌を三反誦はんしょうするに、鬼神おにがみ障礙しょうげさずとなり

(「陀羅尼品だらにほん第26」, 『法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう』) (*39) (*40)

 

参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子

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身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん』の、青鬼の霊木の説話

 

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(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。「■」の記号は、文献のなかの欠損部分をあらわしています。)

ひとつ根本中堂こんぽんちゅうどう本尊ほんぞん薬師やくしこと傳教大師でんぎょうだいし最澄さいちょう我山わがやま比叡山ひえいざん〕にのぼり、作仏さくぶつため御尊木ごそんぼくたずたまへり。■時、松尾まつのを明神みょうじん虚空こくうあらわれ、まえ山裾やますそ〕に御尊木ごそんぼくりとつげたまへり。のちゆきてたまへは、この木を青色あをいろおに守護しゅごしてり、大師だいしの木をこひたまへは、二鬼にのおにとひいはく、「御名みなをはなんますう」といへり。大師だいし、「われこれ大安寺だいあんじ沙門しゃもん行表ぎょうひょう和尚かしょうの御弟子でし㝡澄さいちょう法師ほうし最澄さいちょう法師ほうし〕といふものなり」とこたえたまふ。其時そのとき二鬼にのおにまうしけるは、「これ過去かこ狗留孫仏くるそんぶつ過去七仏かこしちぶつの第四番目のほとけより、『㝡澄さいちょう法師ほうし最澄さいちょう法師ほうし〕にわたしまうせ』とてあずかりまうして、今迄いままで守護しゅごまうしさうらふ木なり。わたまうさん」とて、虚空こくうさしせにけり、とふ〔後略〕

身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん』) (*45)

 

参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子

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日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』の、青鬼の霊木の説話

 

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(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)

桓武天皇くはんむてんわう御宇ぎょう延暦えんりゃく四年よとせ桓武天皇かんむてんのうが世の中をおさめていた時代の延暦えんりゃく4年(西暦785年)〕に伝教大師でんぎょうだいし御年おとし十九とをあまりここのつにて、はじめ叡山えいざんによぢのぼりたまひしに、たほれたる枯木かれきを見守る青鬼あをおにあり。大師だいしとひたまはく、「なんじ何者なにものぞ」。おにこたえ申云まうしていはく、「未来みらい聖人しょうにんきたりて仏像を彫刻すべし。その祚木そぼくのために不可踏守」と。「地主じぬし権現ごんげんおおせによりて、此木このき二葉ふたばよりこれ守護しゅごす」云々うんぬん大師だいし感涙かんるいはなはだし。艸庵くさのいおりをむすび願文がんもんを製し、同七年ななとせ一乗止観院いちじょうしかんいん立給たてたまふ其間そのまかの霊木にて薬師やくし如来にょらい造像ぞうぞうす。ひとたび斧をくだして三度礼拝れいはいし、斧をおろすたびごとに、未来悪世みらいあくせ衆生しゅじょうかならず利益りやくたまふべきよし誓約うけひありければ、仏像うなずきたまひける。大師だいし三仏を一院いちいんにきざむとは、これ根本中堂こんぽんちゅうどう比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじの総本堂〕薬師やくし薬師如来やくしにょらい像〕、転法輪堂てんぽうりんどう比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ西塔さいとう地区の本堂である釈迦堂しゃかどう釈迦しゃか釈迦如来しゃかにょらい像〕、浄土院じょうどいん最澄さいちょう廟所びょうしょのとなりにある堂宇どうう阿弥陀あみだ阿弥陀如来あみだにょらい像〕なり。およそ桓武天皇くはんむてんわう観自在尊かんじざいそん観自在菩薩尊かんじざいぼさつそん応化おうげ伝教大師でんぎょうだいし薬王菩薩やくおうぼさつ垂迹すいじゃく智者大師ちしゃだいし〔天台宗の開祖である智顗ちぎ〕の後身こうしん〔生まれ変わり〕なり。

(『日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1) (*42) (*46) (*44)

 

参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子

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悪鬼となった護法童子の事例

天野文雄さんは、「「酒天童子」考」という論文のなかで、「護法童子が、悪鬼に変わることもあった」という事例を提示しておられます(天野, 1979, p. 22)。天野さんは、一例として、書写山しょしゃざん円教寺えんぎょうじを開山した性空しょうくう上人しょうにんと、その甥である皇慶こうげいに仕えた、二人の護法童子のうちの、乙天おとてん乙護法おとごほう)という護法童子が、邪悪な存在に変化した、という事例をあげておられます。

ですので、「護法童子が、悪鬼に変わる」という可能性もあるようです。

また、天野文雄さんのその論文のなかの下記の文章のなかには、「酒天童子しゅてんどうじ酒呑童子しゅてんどうじ)の姿と、葛川明王院碑伝ひでに描かれた護法童子の姿が、よく似ている」というような意味のことが書かれています。

(※碑伝ひでというのは、修験者(密教行者)が、山岳での修行を終えたあとに建立する石碑や木碑(参籠札、卒塔婆)のことです。)

酒天童子なる存在も、当然、護法という視点から見直される必要があろう。すると、酒天童子こそ護法の属性をことごとく備えた存在であることに気づくのである。

〔中略〕

延暦寺の別院である葛川明王院には元久元年(一三〇四)の年記をもつ碑伝ひでが現存するが、そこに描かれている蓬髪裸身の護法童子は、まさに「身体肥壮」という体であって、『信貴山縁起絵巻』の剣の護法の体躯ともども、護法の典型を表していると思われる。ところで、諸絵巻に描かれた酒天童子の姿は葛川明王院の碑伝に描かれた護法と驚くべき類似を示している〔後略〕

(天野文雄「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」) (*47)

 

参考記事: 酒天童子(酒呑童子)と護法童子の類似性

 

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おわりに

ここまで、酒呑童子しゅてんどうじや、鬼童丸きどうまる鬼同丸きどうまる)や、八瀬童子やせどうじの祖先の鬼にゆかりのある、鬼ヶ洞おにがほらという洞窟や、鬼腰掛岩おにのこしかけいわという岩について紹介してきました。もし、興味があれば、あなたもぜひ、酒呑童子しゅてんどうじや鬼や八瀬童子やせどうじにゆかりのあるこれらの場所に、足をはこんでみていただくと、おもしろいかもしれません。

 

「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」

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引用文献・参考文献

  • 秋里籬島 [編], 竹原春朝斎 [挿絵], 『都名所図会』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第11 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 朝日新聞社 [編] (1994) 『朝日日本歴史人物事典』, 朝日新聞社.
  • 池田昭 (1963) 「鬼の子孫の一解釈 : 宗教社会学的考察」, 日本仏教研究会, 『日本仏教』, 17 : 15-32.
  • 池田昭 (1991) 『天皇制と八瀬童子』, 東方出版.
  • 犬丸治 (2012) 『「菅原伝授手習鑑」精読 : 歌舞伎と天皇』, 岩波現代文庫, 岩波書店.
  • 岩松文代 (2003) 「「都名所図会」にみる京都近郊山村の名所性 : 近世京都から伝えられた山村観」, 日本林学会, 『日本林学会誌』, 85(2) : 114-120.
  • 梅原猛 (2001) 『京都発見 3 (洛北の夢)』, 新潮社.
  • 北村季吟 『菟藝泥赴』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第5巻 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 京都史蹟会 [編] (1979) 『林羅山文集 上巻』, ぺりかん社.
  • 京都新聞社 [編] (1980) 『京の北山 : 史跡探訪』, 京都新聞社.
  • 京都府愛宕郡役所 [編] (1911) 『京都府愛宕郡村志』.
  • 京都文化博物館 [編], 京都市歴史資料館 [編], ニューリー株式会社 [編], (2012), 『八瀬童子 : 天皇と里人 : 重要文化財指定記念』, 京都文化博物館.
  • 黒川道祐 [著], 難波宗建 [編], 『遠碧軒記』, 日本随筆大成編輯部 [編], (1975), 『日本随筆大成 第1期 10』, 吉川弘文館.
  • 黒川道祐 「北肉魚山行記」, 『近畿歴覧記』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第3 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 黒川道祐 『雍州府志』, 立川美彦 [編], (1997), 『訓読雍州府志』, 臨川書店.
  • 丈愚 『京師巡覧集』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第4 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 武覚超 (2008) 『比叡山諸堂史の研究』, 法藏館.
  • 谷北兼三郎 [編] (1925) 『八瀬大原の栞』, 無竹庵院.
  • 林羅山 『林羅山詩集』, 京都史蹟会 [編], (1979), 『林羅山詩集 上巻』, ぺりかん社.
  • 林羅山(林道春) [編], 林鵞峰(林春斎) [編], 『本朝通鑑』, 林昇 [校訂], 渡辺約郎 [訓解], (1875), 『本朝通鑑 : 標記 巻第29』, 大槻東陽.
  • 林羅山(林忠) [編], 林鵞峰(林恕) [編], 『本朝通鑑』, 国書刊行会 [編], (1919), 『本朝通鑑 第六』, 国書刊行会.
  • 源武好 『山城名勝志』, 近藤瓶城 [編], (1907), 『史籍集覧 22 改定』, 近藤出版部.
  • 源武好 『山城名勝志』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第8 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 源武好 『山城名勝志』, 野間光辰 [編], 新修京都叢書刊行会 [編], (1994), 『新修京都叢書 第14巻 2版』, 臨川書店.
  • 横山健蔵 (1994 a) 『京都祭の魅力 1』, 京都書院.
  • 横山健蔵 [著], 芳井敬郎 [著], (1994 b), 『京の祭』, 佼成出版社.
  • 若尾五雄 (1981) 『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』, 大和書房.
  • 『西塔堂舎並各坊世譜』, 天台宗典刊行会 [編], (1974), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房.
  • 『山門堂社由緒記』, 天台宗典刊行会 [編], (1974), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房.
  • 『山門名所旧跡記』, 天台宗典刊行会 [編], (1974), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房.
  • 『出来斎京土産』, 増補京都叢書刊行会 [編], (1934), 『京都叢書 第4 増補』, 増補京都叢書刊行会.
  • 『八瀬記』, 京都市歴史資料館 [編] (2000) 『八瀬童子会文書』, 叢書・京都の史料, 京都市歴史資料館.

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地図画像の出典

  • 地図1、地図2、地図3は、国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図1 : ズームレベル16, 地図2 : ズームレベル18, 地図3 : ズームレベル18)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html .

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脚注
  1. 出典: 上橋菜穂子うえはしなほこ (1996年) 「6 ナナイの手記しゅき結末けつまつ」, 「第三章 孵化ふか」, 精霊の守り人せいれいのもりびと, 偕成社かいせいしゃ, 276ページ. [↩ Back]
  2. 出典: あざの耕平 (2015年) 「5」, 「五章 錯綜の征野」, 『東京レイヴンズ 13 : COUNT>DOWN』(Kindle版), KADOKAWA. [↩ Back]
  3. 出典: [著者不詳], 「鬼城をにがじゃう」の項目の末尾に添えられた短歌, 『出来斎京土産できさいきょうみやげ』巻之五, 増補京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第4 増補』, 増補京都叢書刊行会, 95ページ2段目. [↩ Back]
  4. 注記: 文章を読みやすくするために、引用者がふりがなをふりました。 [↩ Back]
  5. 注記: 世界鬼学会(鬼学会)というのは、鬼好きな人たちや、鬼に興味がある人たちが集まる、すてきコミュニティーです。鬼学会の拠点は、酒呑童子伝説の舞台である大江山の中腹にある、日本の鬼の交流博物館(愛称:鬼博おにはく)です。日本の鬼の交流博物館(鬼博おにはく)がある京都府福知山市大江町は、鬼にまつわる3つの伝説が残る鬼伝説の地です。参考記事: 「「鬼シンポジウム in ふくちやま 2019」のイベント紹介レポート(世界鬼学会設立25周年記念イベント)」。 [↩ Back]
  6. 出典: 梅原猛 (2001年) 「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』, 新潮社, 13~14ページ. [↩ Back]
  7. 出典: 梅原猛 (2001年) 「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』, 新潮社, 13ページ. [↩ Back]
  8. 出典: 池田昭 (1963年) 「鬼の子孫の一解釈 : 宗教社会学的考察」, 日本仏教研究会, 『日本仏教』, 17 : 15~32ページ. [↩ Back]
  9. 参考文献: 林羅山 「酒顚童子しゅてんどうじほらだいす」, 『林羅山詩集』巻第35, 京都史蹟会 [編集], (1979年), 『林羅山詩集 上巻』, ぺりかん社, 385~387ページ. [↩ Back]
  10. 参考文献: 林羅山(林忠) [著者], 林鵞峰(林恕) [著者], 『本朝通鑑』, (1919年), 『本朝通鑑 第6 (国書刊行会本)』, 国書刊行会, 1575~1576ページ. [↩ Back]
  11. 参考文献: 林羅山 [著者], 林鵞峰 [著者], 『本朝通鑑』, 林昇 [校訂], 大槻東陽 [訓解], 渡辺約郎 [訓解], (1875年), 『本朝通鑑 : 標記 巻第29』, 大槻東陽, 19丁表~19丁裏. [↩ Back]
  12. 参考文献: 黒川道祐 [撰者] 『雍州府志』, 立川美彦 [編集], (1997年), 『訓読雍州府志』, 臨川書店, 34ページ1段目~2段目. [↩ Back]
  13. 参考文献: 黒川道祐 [撰者] 『雍州府志』, 立川美彦 [編集], (1997年), 『訓読雍州府志』, 臨川書店, 35ページ1段目. [↩ Back]
  14. 参考文献: 黒川道祐くろかわどうゆう北肉魚山行記ほくにくぎょざんこうき」, 『近畿歴覧記きんきれきらんき』, 増補京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第3 増補』, 増補京都叢書刊行会, 126~127ページ. [↩ Back]
  15. 画像の出典: 〔「矢背の里」(八瀬の里)の挿絵〕, 『都名所図会. 巻1−3』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 95 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  16. 参考文献: 『都名所図会』, 増補京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第11 増補』, 増補京都叢書刊行会, 172~173ページ. [↩ Back]
  17. 画像の出典: 〔「矢背の里」(八瀬の里)の挿絵〕, 『都名所図会. 巻1−3』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 96 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [↩ Back]
  18. 参考文献: 『京師巡覧集』, 増補京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第4 増補』, 増補京都叢書刊行会, 300ページ. [↩ Back]
  19. 参考文献: 『山城名勝志』, 野間光辰 [編集], 新修京都叢書刊行会 [編集], (1994年), 『新修京都叢書 第14巻 2版』, 臨川書店, 283ページ1段目. [↩ Back]
  20. 参考文献: 『出来斎京土産』, 増補京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第4 増補』, 増補京都叢書刊行会, 300ページ. [↩ Back]
  21. 参考文献: 北村季吟 『菟藝泥赴』, 京都叢書刊行会 [編集], (1934年), 『京都叢書 第5巻 増補』, 京都叢書刊行会, 278~279ページ. [↩ Back]
  22. 参考文献: 京都府愛宕郡役所 [編集] (1911年) 『京都府愛宕郡村志』, 京都府愛宕郡, 346ページ. [↩ Back]
  23. 参考文献: 『八瀬記』, 京都市歴史資料館 [編集], (2000年), 『八瀬童子会文書 (叢書・京都の史料 ; 4)』, 京都市歴史資料館, 72ページ2段目~73ページ1段目. [↩ Back]
  24. 出典: 若尾五雄 (1981年) 『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』, 大和書房, 200~201ページ. [↩ Back]
  25. 参考文献: 武覚超 (2008年) 『比叡山諸堂史の研究』, 法藏館, 116ページ. [↩ Back]
  26. 参考文献: 武覚超 (1992年) 「内閣文庫蔵『山門三塔坂本惣絵図』全二葉の成立について」, 『叡山学院研究紀要』第15巻, 叡山学院, 60-61ページ. [↩ Back]
  27. 参考文献: 大津市歴史博物館 [編集] (2000年) 『古絵図が語る大津の歴史 : 開館10周年記念・文化財保護法50年記念』, 大津市歴史博物館, 53ページ. [↩ Back]
  28. 参考: 「(舗)(ほ)」とは、折りたたみ式の地図などの 畳もの を数えるのに用いられる助数詞です。 [↩ Back]
  29. 参考文献: 『山門名所旧跡記』, 天台宗典刊行会 [編集], (1974年), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房, 228ページ2段目. [↩ Back]
  30. 参考文献: 『西塔堂舎並各坊世譜』, 天台宗典刊行会 [編集], (1974年), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房, 152ページ2段目~153ページ1段目. [↩ Back]
  31. 参考文献: 『山門堂社由緒記』, 天台宗典刊行会 [編集], (1974年), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房, 272ページ2段目. [↩ Back]
  32. 参考文献: 『八瀬記』, 京都市歴史資料館 [編集], (2000年), 『八瀬童子会文書 (叢書・京都の史料 ; 4)』, 京都市歴史資料館, 70ページ1段目. [↩ Back]
  33. 参考文献: 『八瀬記』, 京都市歴史資料館 [編集], (2000年), 『八瀬童子会文書 (叢書・京都の史料 ; 4)』, 京都市歴史資料館, 70ページ2段目. [↩ Back]
  34. 出典: 池田昭 (1991年) 『天皇制と八瀬童子』, 東方出版, 48~49ページ. [↩ Back]
  35. 参考文献: 犬丸治 (2012年) 『「菅原伝授手習鑑」精読 : 歌舞伎と天皇 (岩波現代文庫. 文芸 ; 199)』, 岩波書店, 82~84ページ. [↩ Back]
  36. 参考文献: 黒川道祐 [著者], 難波宗建 [編集], 『遠碧軒記』, 日本随筆大成編輯部 [編集], (1975年), 『日本随筆大成 第1期 第10巻』, 吉川弘文館, 15~16ページ. [↩ Back]
  37. 出典: 林屋辰三郎 (1955年) 「第三 「山椒大夫」の原像」, 「Ⅳ 古代国家の余影」, 『古代国家の解体』, 東京大学出版会, 326ページ. [↩ Back]
  38. 出典: 喜田貞吉 「六 牛蒡種は護法胤 : 鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗」, 「憑き物系統に関する民族的研究 : その一例として飛騨の牛蒡種」, 「2 差別と漂泊放浪」, 喜田貞吉 [著者], 礫川全次 [編集], (20008年), 『先住民と差別 : 喜田貞吉歴史民俗学傑作選』, 河出書房新社, 152~153ページ. [↩ Back]
  39. 参考文献: 「陀羅尼品だらにほん第26」, 『法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう(24巻之内自巻15至巻24)』, 鈴木学術財団 [編], (1974年), 『日本大蔵経 第26巻 (経蔵部 法華部章疏 6,密経部章疏 1) 増補改訂』, 鈴木学術財団, 242ページ. [↩ Back][↩ Back]
  40. 参考文献: 〔霊木の話が記載されているページ(コマ番号: 357(右側のページ1段目)(706ページ1段目))〕, 陀羅尼品だらにほん第二十六」, 法華経鷲林拾葉鈔ほけきょうじゅりんしゅうようしょう』巻第24, 日本大蔵経編纂会 [編集], (1917年), 『日本大蔵経 第30巻 経蔵部 法華部章疏 3』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 日本大蔵経編纂会. [↩ Back][↩ Back]
  41. 参考文献: 身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん』, 牧野和夫, (1990年), 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), 87~94ページ. [↩ Back]
  42. 参考文献: 『日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1, 神道大系編纂会 [編], (1983年), 『神道大系 神社編 29 : 日吉』, 神道大系編纂会, 650ページ. [↩ Back][↩ Back]
  43. 参考文献: 『日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校], (1983年), 『続群書類従 第2輯 下 3版 : 神祇部』, 続群書類従完成会, 655~656ページ. [↩ Back]
  44. 参考文献: 『日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1, 藤田徳太郎 [ほか] [編], (1936年), 『日本精神文化大系 第4巻』, 金星堂, 130ページ. [↩ Back][↩ Back]
  45. 参考文献: 身延みのぶ文庫ぶんこぞう法華直談私見聞ほっけじきだんしけんもん』, 牧野和夫, (1990年), 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), 90ページ. [↩ Back]
  46. 参考文献: 『日吉山王利生記ひえさんのうりしょうき』第1, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校], (1983年), 『続群書類従 第2輯 下 3版 : 神祇部』, 続群書類従完成会, 655~656ページ. [↩ Back]
  47. 出典:天野文雄 (1979年) 「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, 22ページ 1段目. [↩ Back]