「創造力がすべてを変える」の記事一覧(4 / 4ページ目)

革新的なものを生み出すために、本当に必要なこととは?

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

隠忍していやしくもき、糞土のうちに幽せられてせざる所以ゆえんものは、私心ししんの、尽くさざる所有り、鄙陋ひろうにして世を没し、文彩ぶんさいの、後世にあらわれざるを恨めばなり。

―――司馬遷、『報任少卿書』 (*1) (*2)

“Bearing”
“Bearing” (*3) (*4)

今までになかった革新的なものを生み出すために、
あなたは、なにが必要だと思いますか?

もしかすると、

「ひらめき」

という答えが返ってくるかもしれません。

しかし、第一線で活躍するクリエイティブな人たちの声に耳をかたむけてみると、
どうやら、必要なのは「ひらめき」だけではないようです。

むしろ、「ひらめき」よりも大切なことがあるようです。

そのことについて考えるために、次のお二人にご登場願おうと思います。

1人目は、ジブリ映画でおなじみで、世界的な評価も高いアニメーター、
宮崎駿さん
です。

そして、2人目は、1999年の『インダストリアル・ウィーク』誌において、
ピーター・ドラッカー、マイケル・ポーター、ビル・ゲイツ、
ジャック・ウェルチ、アンディ・グローブとともに、
「経営に関する世界の六賢人」に選ばれた、
エイドリアン・スライウォツキー・・・・・・

・・・・・、の著書であるビジネス小説の登場人物であり、
「ビジネスで利益が生まれる仕組みを知り尽くした男」
デビッド・チャオ
です。

この二人が創造性について語った話のなかから、

「今までになかった革新的なものを生み出す」

ということの本当の意味を考えてみたいと思います。

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  1. (引用元、著:原田種成、著:竹田晃、編集:小嶋明紀子、「報任少卿書」任少卿じんしょうけいに報ずるの書)、『文選 文章篇 (新書漢文大系 35)』、明治書院、2007年、130~131ページ)[↩ Back]
  2. (解釈:「耐え難い気持ちを押さえ、からくも命を長らえて、汚泥の中に身を堕しても我慢しているのは、私の、心の思いが尽くされることのないまま永遠に私の名が、世にうずもれ、文章が後世に伝えられないのを残念に思うからであります。」(引用元、著:原田種成、著:竹田晃、編集:小嶋明紀子、「報任少卿書」任少卿じんしょうけいに報ずるの書)、『文選 文章篇 (新書漢文大系 35)』、明治書院、2007年、131ページ)[↩ Back]
  3. ("Bearing" (U.S. Navy photo by Photographer's Mate 3rd Class Dominique M. Lasco at Wikimedia Commons))[↩ Back]
  4. (「bearing」(ベアリング)という言葉には、「辛抱」や「我慢」という意味もあります。)[↩ Back]

「ハッカー(hacker)」とは

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

歌川国芳、『名誉右に敵なし左甚五郎』)

歌川国芳、『名誉右に敵なし左甚五郎』(中央図)
歌川国芳、『名誉右に敵なし左甚五郎』 (*1)

「ハッカー = 犯罪者」

もしも、「ハッカー(hacker)」という言葉をこのように捉えておられるとしたら、
すこしだけ時間を割いていただいて
次のハッカーに関する記述に目を通してみてください。

まずは、Paul Graham(ポール・グレアム)の著書、『ハッカーと画家』より。

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  1. 歌川国芳、『名誉右に敵なし左甚五郎』 at Wikimedia Commons[↩ Back]

1.口にできないこと「ハッカーと洋学者 : 革命期の創造者たち」

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

Darwin Monkey (ダーウィン・モンキー)
ダーウィン・モンキー (*1)

口にできない考えを抱かないほうが、ほぼ間違いなくどこかおかしいんだ

――― ポール・グレアム、『ハッカーと画家』 (*2)

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言わザル 言うサル

徳ある者は必ず言あり

――― 孔子、『論語』 憲問篇 (*3)

「現代のハッカー」と「幕末の洋学者」に
共通する点はいくつかあります。

そのなかから、今回は、

「常識はずれなことを考える」

という共通点についてお話していこうと思います。

現代のハッカーたちも、幕末の洋学者たちも
彼らが生きている時代からすれば
かなり常識はずれなことを考えています。

たしかに、「常識的な」一般の人々の目に映る彼らの言動は、
常識はずれなものばかりのようです。

鎖国状態にあり、海外との交流が禁止されていた江戸時代に
ときに命の危険を冒してまで異国の珍奇な物事を知ろうとしていた
洋学者たちや、

ときに寝る間も惜しんで何時間もぶつぶつ言いながらパソコンとにらめっこしたり
意味不明なアルファベットの羅列に美しさを感じたりしている
ハッカーたち、

彼らは、一言でいえば、「へんな奴ら」なのです。

では、なぜ彼らはこのような常識はずれなことを考るのでしょうか?

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  1. (Darwin Monkey (ダーウィン・モンキー) (Photo by 3DWiki at Wikimedia Commons))[↩ Back]
  2. (ポール・グレアム (川合史朗 訳) 『ハッカーと画家:コンピューター時代の創造者たち』、オーム社、2005年、p.41)[↩ Back]
  3. (貝塚茂樹訳注、『論語』、中公文庫、中央公論新社、1973年、p.385)[↩ Back]

0.はじめに「ハッカーと洋学者 : 革命期の創造者たち」

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

どうやら、大きな変化を起こす人には、
古今東西を問わず、ある種の共通点があるようです。

このことに気づいたのは、
ある2つの本で描かれている、時代も場所も異なる2種類の人々の間に
ある種の共通点を感じたのがはじまりでした。

その2種類の人々の片方は、
現代のアメリカのプログラマーであるPaul Graham (ポール・グレアム)が、
著書である 『ハッカーと画家』 というエッセー集のなかで語る
ハッカーの人々です。

そして、もう片方は、
司馬遼太郎の 『花神』 という日本の幕末期を描いた小説に登場する、
村田蔵六 (後の、大村益次郎)という人物をはじめとした
洋学者たちです。

「現代のハッカー」「幕末の洋学者」

この一見無関係に思える彼らには、
どうも共通点があるように思えてしかたありません。

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人間万事 Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

どうも、倉田幸暢です。

ここでは、なぜ、僕がこのウェブサイトをつくったのかということ、つまり、このウェブサイトのテーマについて、お話します。

「WisdomMingle」ってなに?

このウェブサイトのタイトルである、「WisdomMingle」という言葉は、「ウィズダム・ミングル」と読みます。

この言葉は、「wisdom」という言葉と、「mingle」という言葉の2つの言葉を使って、僕が作った造語です。

wisdom」(ウィズダム)という言葉には、「知恵」という意味があります。

ここでは、「古今東西のさまざま人々の叡智」というような意味で、この「wisdom」(ウィズダム)という言葉を使っています。

もうひとつの、「mingle」(ミングル)という言葉には、「混ぜ合わせる」という意味があります。

なお、あとで紹介するように、ここでは、この「mingle」(ミングル)という言葉に、「ごちゃまぜ」というニュアンスもこめています。

また、この「mingle」(ミングル)という言葉には、ほかにも、「人と話をする」、「人と交わる」、「加わる、参加する」といった意味もあります。

そして、この2つの言葉を組み合わせた「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉を、ここでは、

「知恵を混ぜ合わせてひとつにすること」
または、
「知恵が混ざり合ってひとつになっている状態」

といった意味で使っています。

より正確に言うと、僕は、この「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉に対して、次のような意味をこめています。

「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」

これが、僕が言う「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉の真意です。

そして、この、「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」ということが、このサイトのテーマです。

それはまた、僕自身のテーマでもあります。

ちなみに、僕がこの「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という考えにいたったきっかけは、加藤秀俊さんの著書である『独学のすすめ』という本でした。

加藤秀俊さんの『独学のすすめ』から受けた影響

ここからは、この加藤秀俊さんの『独学のすすめ』という本のなかで、僕が「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という考えにいたるきっかけとなった部分をご紹介します。

 アメリカの小学校の実験学級というものを見たことがある。実験学級であるから、あくまで、その運営のしかたはアメリカの教育の現状からみて例外的というべきだろうが、見ていて、たいへんおもしろかった。どんな点でおもしろかったのか。要するに、この学級では、わたしたちが一般的に知っている「教科目」がごちゃまぜになっているのである。いや、ごちゃまぜ、というよりは、そもそも「教科目」というかんがえかたじたいがそこでは極力、排除されているのである。
(中略)
 べつな時間は、まず、メリケン粉、砂糖、タマゴ、などの食料品を机のうえにならべて先生が話しはじめる。メリケン粉はデンプンである。デンプンの存在はどうやってたしかめるか―ヨード実験をやってみる。砂糖というのは、どんなふうにつくられるか―砂糖生産のスライドが用意されていて、砂糖キビ畑というのがどんなものか、子どもたちは教えられる。タマゴについても、その生物学的な説明がほどこされる。
 ひととおり、これらの学習がすむと、これでケーキをつくってみよう、ということになる。材料をまぜあわせ、かたちをつくり、オヴンにいれるまえに、目方をはかる。焼いているあいだは、なぜ、ベーキング・パウダーをいれるとふくらむか、についての化学の授業がある。ケーキが焼きあがると、そこでふたたび目方をはかり、水分がどれだけ蒸発したかを計算する。そして、できあがったケーキを、そのグループの子どもたちが公平にわけるとすると、ケーキの中心角は何度であるか、の計算が命ぜられる。六人、九人、などというキリのいい人数ならば計算は簡単だが、七人、十一人などだと、いくらやっても割り切れない。割り切れないから、そこで循環小数というものについて説明があり、概数のとらえかたが教えられる。そして、ひととおり済んだところで、ケーキを切りわけ、みんなで食べて、それで授業がおわる。このばあいには、「教科目」的にいうと、理科、算数、社会、家庭の各科が一体化しているのである。
 実験学級の子どもたちは、こうした授業をおもしろがっている。算数とか理科とか、ひとつひとつの科目がバラバラに切りはなされているときには退屈する子どもでも、このような実験授業には、目をかがやかせて惹きつけられている。そういう姿を見ながら、わたしはかんがえた。いったい、「教科目」とはなんなのであろうか。
 もともと、人間の知識というのは、かなりの程度まで総合的なものである。べつだん、われわれお互いの頭の中にたくさんのヒキ出しが用意されていて、これが数学、こっちが歴史、というふうにきっちり知識が区分けされているわけのものでもない。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.179-181)

この話を聞いていただければ、「ごちゃまぜ」(「mingle」、ミングル)ということが、いかに楽しく、有益なものなのかということがお分かりいただけると思います。

そして、また、この話のなかにあった、「目をかがやかせて惹きつけられている」という言葉は、このサイトのもうひとつのテーマである、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉につながっています。

この「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉については、あとでお話します。

以下は、さきほどの『独学のすすめ』の一節のつづきの部分です。

およそ「教科目」というのは、ひとつの歴史的な産物であって、こんな妙ちくりんなものにおつきあいしながら「教育」がおこなわれるようになったのは、ごくさいきんのことなのである。
 日本でも西洋でも、ついこの間までは「学問」とは、しょせん「学問」ということであり、その「学問」とは、要するに知識を探求する、ということ以外のなにものでもなかった。知識の領域は、ぼんやりとわかれていたけれども、ひとりの人間の内部では、さまざまな領域にわたっての好奇心がひとつに統合されていた。レオナルド・ダ・ヴィンチなどはその典型ともいうべき人物であって、かれはいっぽうでは、揚水機だのハシゴ車だの飛行機の原型などをつくりながら、他方では人体解剖図をつくったり、流水の研究をしたりもした。そして、人生論も書いたし、あの「モナ・リザ」をもふくめて、たくさんの名画ものこした。かれののこした論考は五千枚におよび、そのテーマは、万華鏡のごとく多岐にわたっているのである。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.182)

かれは、あらゆることに興味をもち、その興味のおもむくままに、あらゆることをしてみた、というだけのことなのである。「専門」という名の、ふしぎな制限をもたなかったことがあの、のびやかで雄大なひとりの人物をつくったのだ。学問とか知識とかいうものは、じっさいは茫洋としていて、どこにも境界線なんか、ありはしない。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.184)

知識のありかたがバラバラであるほど、じつは、それを互いにつなぎあわせ、総合化する努力が必要なのではないか。そして、人間のがわも、かつての人間がもっていた健全な多面性を要求されているのではないか。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.187)

わたしは、オーケストラの指揮のできる首相だの、考古学的発掘をみずからこころみる実業家だの、といった、はばの広い大きな人物のいる社会は、ほんとうに学問だの知識だのがたのしく生きている社会なのではないか、と思う。そして、そんなふうに多面的な人間をそだてる社会は、きっと、いい社会なのだろうと思う。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.190)

加藤秀俊さんの言う、このような、「ほんとうに学問だの知識だのがたのしく生きている社会」や、「多面的な人間をそだてる、いい社会」というのは、僕にとっては、すばらしいものに感じられます。

そして、そのような社会を実現するための方法として、僕なりに考えて出した答えが、「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)でした。

どういうことかというと、つまり、「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」ということを、多くの人々に実感してもらうことで、いろいろなことを学ぶことの楽しさやすばらしさを知ってもらうことができれば、多面的でおもしろい人がどんどん増えていって、その結果として、多種多様なおもしろい人がたくさんいる多様性に満ちた楽しい社会になるのではないか、と考えているのです。

Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)ってなに?

ここからは、上でご説明した、「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉に関連して、このサイトのもうひとつのテーマである、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉についてお話していきます。

以下の文章は、それぞれ、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉について書かれた文章の一節です。

これらの文章には、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉の意味について、教えてくれるものがあります。

 子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
 もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
 この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

(レイチェル・カーソン、(上遠恵子 訳)『センス・オブ・ワンダー』、新潮社、1996.7.25、p.23)

 何かをうまくやるためには、それを愛していなければならない。ハッキングがあなたがやりたくてたまらないことである限りは、それがうまくできるようになる可能性が高いだろう。14歳の時に感じた、プログラミングに対するセンス・オブ・ワンダーを忘れないようにしよう。

(Paul Graham(ポール・グレアム)(川合史朗 訳) 『ハッカーと画家:コンピューター時代の創造者たち』、オーム社、平成17年1月25日、p.237)

僕は、「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)というのは、
目を輝かせて夢中になること」だと思います。

そして、人は「目を輝かせて夢中になること」があるからこそ、生きていけるのではないかと思います。

ですので、「人間万事 Sense of Wonder」だなぁと、僕は思うのです。

そして、たくさんの人に「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)を感じていて欲しいと思っています。

たくさんの人が、「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)を感じながら、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうと思います。

2009年11月6日1:02
倉田幸暢

『プラネテス』 ―人間たちの物語―

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

突然ですが、アニメ『プラネテス』を紹介したいと思います。

 

このアニメは、笑いあり、涙あり、シリアスありと、
アニメの域を超えたおもしろさです。

 

表題の『プラネテス』(ΠΛΑΝΗΤΕΣ、PLANETES) の意味は 続きを読む

生産者と消費者

By 倉田 幸暢 (Yukinobu Kurata)

 (Photo by Kelvin Kay at Wikimedia Commons)
Photo by Kkmd on Wikimedia Commons

最近ふと思った。

大人になるってことが、年を重ねるってことが、
消費しかしなくなるってことと同義になっていってるんじゃないか、って。

映画とか、演劇とか、音楽とか、料理とか、本とか、絵とか、
観賞したり、聞いたり、味わったり、読んだり、鑑賞したり、
よいものを消費するのはとっても楽しい。

でも、本当はクリエイターである、つくる側が一番楽しいんじゃないかって。

手からこぼれ落ちる砂みたいに、
やった先からどこに行ってしまったのか分からなくなって、
誰からも忘れ去られてしまうような日々の作業じゃなくて、

カタチに残せること、
たしかにそこにあって、自分がつくったんだって胸を張って言えるもの。

よいものをつくるのはきっと大変だろうと思う。

徹夜したり、煮詰まったり、期日に間に合わなかったり、意見がぶつかったり、
身も心もボロボロで、
自分はなんでこんな苦しいことやってんだろ、ってなときもあるだろう。

でも、なによりも、

誰かに言われたからじゃない、
その過程自体が楽しいから、
自分の心が求めることをカタチにしていくことができるから、
持てる力のすべてをかけてそれに没頭できるから、
そして、その努力が時として自分自身が予想していた以上のものを見せてくれるから、

やっぱり一番楽しいのは生産者じゃないかな。

生産者は本当は心のなかで思ってるんじゃないだろうか。

あーあ、消費者ってかわいそうだよなー、こっち側はこんなに楽しいのに、って。
ほんとうの「楽しい」はこっち側にしかないのに、って。

そんなこんなで、
自分も生産者でいたいなぁ、なんて思っとります。

ほんとは、みんな心のどっかで
何やらつくってみたくてうずうずしてるんじゃないかなぁ。

2007年1月14日2:36
倉田幸暢

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