「独学のすすめ」タグの記事一覧

「適塾」とは

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

適塾
緒方洪庵
(*1)
(*2)

 

「マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多く迚(とて)も手に及ばないことで、その師弟の間はおのずから公(おおやけ)なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正(まさ)しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を治療してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。」

「これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆(ほとん)ど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻(しき)りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥して眠るか、あるいは床の間の床側(とこぶち)を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて『なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから』と初めて気が付きました。これでも大抵趣(おもむき)がわかりましょう。これは私一人が格段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。」

――― 福沢諭吉、『福翁自伝』

幕末の大阪に、 続きを読む


脚注
  1. (適塾(photo by Reggaeman at Wikimedia Commons))[↩ Back]
  2. (緒方洪庵)[↩ Back]

人間万事 Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

どうも、倉田幸暢です。

ここでは、なぜ、僕がこのウェブサイトをつくったのかということ、つまり、このウェブサイトのテーマについて、お話します。

「WisdomMingle」ってなに?

このウェブサイトのタイトルである、「WisdomMingle」という言葉は、「ウィズダム・ミングル」と読みます。

この言葉は、「wisdom」という言葉と、「mingle」という言葉の2つの言葉を使って、僕が作った造語です。

wisdom」(ウィズダム)という言葉には、「知恵」という意味があります。

ここでは、「古今東西のさまざま人々の叡智」というような意味で、この「wisdom」(ウィズダム)という言葉を使っています。

もうひとつの、「mingle」(ミングル)という言葉には、「混ぜ合わせる」という意味があります。

なお、あとで紹介するように、ここでは、この「mingle」(ミングル)という言葉に、「ごちゃまぜ」というニュアンスもこめています。

また、この「mingle」(ミングル)という言葉には、ほかにも、「人と話をする」、「人と交わる」、「加わる、参加する」といった意味もあります。

そして、この2つの言葉を組み合わせた「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉を、ここでは、

「知恵を混ぜ合わせてひとつにすること」
または、
「知恵が混ざり合ってひとつになっている状態」

といった意味で使っています。

より正確に言うと、僕は、この「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉に対して、次のような意味をこめています。

「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」

これが、僕が言う「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉の真意です。

そして、この、「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」ということが、このサイトのテーマです。

それはまた、僕自身のテーマでもあります。

ちなみに、僕がこの「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という考えにいたったきっかけは、加藤秀俊さんの著書である『独学のすすめ』という本でした。

加藤秀俊さんの『独学のすすめ』から受けた影響

ここからは、この加藤秀俊さんの『独学のすすめ』という本のなかで、僕が「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という考えにいたるきっかけとなった部分をご紹介します。

 アメリカの小学校の実験学級というものを見たことがある。実験学級であるから、あくまで、その運営のしかたはアメリカの教育の現状からみて例外的というべきだろうが、見ていて、たいへんおもしろかった。どんな点でおもしろかったのか。要するに、この学級では、わたしたちが一般的に知っている「教科目」がごちゃまぜになっているのである。いや、ごちゃまぜ、というよりは、そもそも「教科目」というかんがえかたじたいがそこでは極力、排除されているのである。
(中略)
べつな時間は、まず、メリケン粉、砂糖、タマゴ、などの食料品を机のうえにならべて先生が話しはじめる。メリケン粉はデンプンである。デンプンの存在はどうやってたしかめるか―ヨード実験をやってみる。砂糖というのは、どんなふうにつくられるか―砂糖生産のスライドが用意されていて、砂糖キビ畑というのがどんなものか、子どもたちは教えられる。タマゴについても、その生物学的な説明がほどこされる。
ひととおり、これらの学習がすむと、これでケーキをつくってみよう、ということになる。材料をまぜあわせ、かたちをつくり、オヴンにいれるまえに、目方をはかる。焼いているあいだは、なぜ、ベーキング・パウダーをいれるとふくらむか、についての化学の授業がある。ケーキが焼きあがると、そこでふたたび目方をはかり、水分がどれだけ蒸発したかを計算する。そして、できあがったケーキを、そのグループの子どもたちが公平にわけるとすると、ケーキの中心角は何度であるか、の計算が命ぜられる。六人、九人、などというキリのいい人数ならば計算は簡単だが、七人、十一人などだと、いくらやっても割り切れない。割り切れないから、そこで循環小数というものについて説明があり、概数のとらえかたが教えられる。そして、ひととおり済んだところで、ケーキを切りわけ、みんなで食べて、それで授業がおわる。このばあいには、「教科目」的にいうと、理科、算数、社会、家庭の各科が一体化しているのである。
実験学級の子どもたちは、こうした授業をおもしろがっている。算数とか理科とか、ひとつひとつの科目がバラバラに切りはなされているときには退屈する子どもでも、このような実験授業には、目をかがやかせて惹きつけられている。そういう姿を見ながら、わたしはかんがえた。いったい、「教科目」とはなんなのであろうか。
もともと、人間の知識というのは、かなりの程度まで総合的なものである。べつだん、われわれお互いの頭の中にたくさんのヒキ出しが用意されていて、これが数学、こっちが歴史、というふうにきっちり知識が区分けされているわけのものでもない。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.179-181)

この話を聞いていただければ、「ごちゃまぜ」(「mingle」、ミングル)ということが、いかに楽しく、有益なものなのかということがお分かりいただけると思います。

そして、また、この話のなかにあった、「目をかがやかせて惹きつけられている」という言葉は、このサイトのもうひとつのテーマである、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉につながっています。

この「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉については、あとでお話します。

以下は、さきほどの『独学のすすめ』の一節のつづきの部分です。

およそ「教科目」というのは、ひとつの歴史的な産物であって、こんな妙ちくりんなものにおつきあいしながら「教育」がおこなわれるようになったのは、ごくさいきんのことなのである。
日本でも西洋でも、ついこの間までは「学問」とは、しょせん「学問」ということであり、その「学問」とは、要するに知識を探求する、ということ以外のなにものでもなかった。知識の領域は、ぼんやりとわかれていたけれども、ひとりの人間の内部では、さまざまな領域にわたっての好奇心がひとつに統合されていた。レオナルド・ダ・ヴィンチなどはその典型ともいうべき人物であって、かれはいっぽうでは、揚水機だのハシゴ車だの飛行機の原型などをつくりながら、他方では人体解剖図をつくったり、流水の研究をしたりもした。そして、人生論も書いたし、あの「モナ・リザ」をもふくめて、たくさんの名画ものこした。かれののこした論考は五千枚におよび、そのテーマは、万華鏡のごとく多岐にわたっているのである。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.182)

かれは、あらゆることに興味をもち、その興味のおもむくままに、あらゆることをしてみた、というだけのことなのである。「専門」という名の、ふしぎな制限をもたなかったことがあの、のびやかで雄大なひとりの人物をつくったのだ。学問とか知識とかいうものは、じっさいは茫洋としていて、どこにも境界線なんか、ありはしない。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.184)

知識のありかたがバラバラであるほど、じつは、それを互いにつなぎあわせ、総合化する努力が必要なのではないか。そして、人間のがわも、かつての人間がもっていた健全な多面性を要求されているのではないか。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.187)

わたしは、オーケストラの指揮のできる首相だの、考古学的発掘をみずからこころみる実業家だの、といった、はばの広い大きな人物のいる社会は、ほんとうに学問だの知識だのがたのしく生きている社会なのではないか、と思う。そして、そんなふうに多面的な人間をそだてる社会は、きっと、いい社会なのだろうと思う。

(加藤秀俊 『独学のすすめ』、文春文庫189-1、文藝春秋、p.190)

加藤秀俊さんの言う、このような、「ほんとうに学問だの知識だのがたのしく生きている社会」や、「多面的な人間をそだてる、いい社会」というのは、僕にとっては、すばらしいものに感じられます。

そして、そのような社会を実現するための方法として、僕なりに考えて出した答えが、「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)でした。

どういうことかというと、つまり、「いろいろなことを学んでいくなかで、過去から現在に至るまでの世界中のさまざま人々やものごとと出会い、それらと対話することで、新たな知恵が生まれる」ということを、多くの人々に実感してもらうことで、いろいろなことを学ぶことの楽しさやすばらしさを知ってもらうことができれば、多面的でおもしろい人がどんどん増えていって、その結果として、多種多様なおもしろい人がたくさんいる多様性に満ちた楽しい社会になるのではないか、と考えているのです。

Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)ってなに?

ここからは、上でご説明した、「wisdom mingle」(ウィズダム・ミングル)という言葉に関連して、このサイトのもうひとつのテーマである、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉についてお話していきます。

以下の文章は、それぞれ、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉について書かれた文章の一節です。

これらの文章には、「Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)」という言葉の意味について、教えてくれるものがあります。

 子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。

(レイチェル・カーソン、(上遠恵子 訳)『センス・オブ・ワンダー』、新潮社、1996.7.25、p.23)

 何かをうまくやるためには、それを愛していなければならない。ハッキングがあなたがやりたくてたまらないことである限りは、それがうまくできるようになる可能性が高いだろう。14歳の時に感じた、プログラミングに対するセンス・オブ・ワンダーを忘れないようにしよう。

(Paul Graham(ポール・グレアム)(川合史朗 訳) 『ハッカーと画家:コンピューター時代の創造者たち』、オーム社、平成17年1月25日、p.237)

僕は、「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)というのは、
目を輝かせて夢中になること」だと思います。

そして、人は「目を輝かせて夢中になること」があるからこそ、生きていけるのではないかと思います。

ですので、「人間万事 Sense of Wonder」だなぁと、僕は思うのです。

そして、たくさんの人に「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)を感じていて欲しいと思っています。

たくさんの人が、「Sense of Wonder」(センス・オブ・ワンダー)を感じながら、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうと思います。

2009年11月6日1:02
倉田幸暢

自己紹介 「英語ネット独学のすすめ」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

はじめまして、
当サイトの運営者、倉田 幸暢といいます。
 
突然ですが、
ここに一冊の本があります。
 
本の名前は 『独学のすすめ』 。
加藤秀俊という方が書かれた本です。
 
この本のなかに、次のような一文があります。

学校に入らなければ学問はできない、などという思想は、
ついこのあいだ出来たばかりの新興思想に
すぎないのであって、人間の知識の歴史のうえでは、
「独学」こそが唯一の学問の方法であったのではないか。
だいいち、学校などというものが、
こんなにいっぱいできたのは
ここ二、三十年の新世相だったのである。
人間が、なにかを学ぼうとするとき、
たよりになるのはじぶんじしん以外にはなにも
ないのがふつうなので、
「独学」以外に学問の正道はなかった。

 
そして、この本は次の言葉で締めくくられています。
 

「独学」とは、主体的に学ぼうとする姿勢のことに
ほかならない

 
私は、この本と、これらの言葉が大好きです。
 
それは、自分から学びを求めていくことの大切さを教えてくれるからです。
 
私は、この本に出会うまで
誰かから一方的に押し付けられるという学びのあり方に
ずっと強い疑問を感じていました。
 
学びとは自ら求めるもの。
いつまでも、誰かに一方的に与えられ続けている人は、
本当の意味で「学んでいる」とはいえない。
 
この本は、それを教えてくれました。
それまでずっと感じていた疑問の答えを、この本から得ることができたのです。
 
そして、くじけそうになったときも
何度もこれらの言葉に励まされ、支えられてきました。
 
この本とこれらの言葉を胸に、これまで生きてきたのです。
 
その過程で得た知識や経験、独学の精神、方法論などは、
なにものにも代えがたい私自身の宝物であり、
誰にも奪うことができない最高の財産だと感じています。
 
私のこうした知識や経験が、
少しでも皆さんのお役に立つことができたなら、
これ以上の喜びはありません。
 
なお、私の実践してきた独学が
どの程度のものであったかということを知っていただくために、
私がこれまでに得ることができた成果の一部を、下に掲載しておきます。
 
(画像をクリックすると拡大画面が見られます。)

 

語学関連

TOIEC IPとTOEFL ITPのスコアは、どちらも大学生時代に
大学単位の団体受験として受験したものです。

 

TOIEC IP (Institutional Program)

団体特別受験制度(IP:Institutional Program、以下IPテスト)とは、実施される団体のご都合に合わせて随時TOEICテストを実施できる制度です。

テスト結果の有効性は通常公開テストと同等であると判断されます。

   (TOEIC公式ホームページ 「団体特別受験制度」 より)

 

TOIEC(IP)スコア 795
2005年12月03日 受験
TOIEC(IP)795

 

TOIEC(IP)スコア 720
2005年06月04日 受験
TOIEC(IP)720

 

TOIEC(IP)スコア表 裏面
TOIEC(IP)スコア表裏面

 

TOEFL ITP (Institutional Testing Program)

スコアは公的なものではありませんが、TOEFLテストスコアと高い相関関係があります。
世界中の教育機関等で利用されており、グローバルスタンダードの英語テストとして団体独自の目的に合わせた利用が可能です。

   (ETSプロダクツ公式ページ 「TOEFLテスト ITPとは」 より)

 

TOEFL(ITP)スコア 540
2004年06月12日 受験
TOEFL(ITP)540

 

TOEFL(ITP)スコア 500
2003年10月25日 受験
TOEFL(ITP)500

 

TOEFL(ITP)スコア 463
2003年05月31日 受験
TOEFL(ITP)463

 

中国語検定試験

中検3級合格証明書
2006年11月 受験
中検3級合格証明書

 

西園寺育英奨学金

大学生時代には、
大学から「西園寺育英奨学金」という奨学金をいただきました。

この奨学金は、立命館大学の創設者である
西園寺公望の名を冠した学内最高峰の奨学金です。

この奨学金の受給対象者となるための条件は、
私が所属していた学部の場合、
一学年1000人以上いる学生のなかで、成績上位3.5%に入ることでした。

 
奨学金の金額は、52万3500円でした。

 

西園寺育英奨学金給付証書の表紙
西園寺育英奨学金給付証書 表紙

 

西園寺育英奨学金の給付証書
西園寺育英奨学金の給付証書

 

西園寺育英奨学金の募集要項
西園寺育英奨学金の募集要項

 

西園寺育英奨学生給付決定通知
西園寺育英奨学生給付決定通知

 

「英語ネット独学のすすめ」 運営方針

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

「英語ネット独学のすすめ」では、インターネットを活用して英語を学習する方法についての情報を発信しています。


この「英語ネット独学のすすめ」の運営方針は、次の一節に要約されています。

人間の知識の歴史のうえでは、

「独学」こそが唯一の学問の方法であったのではないか。

(…中略…)

人間が、なにかを学ぼうとするとき、

たよりになるのはじぶんじしん以外には

なにもないのがふつうなので、

「独学」以外に学問の正道はなかった。

     (加藤秀俊 著 『独学のすすめ』 より)

 
たしかに、学校に通って講義を聞くことは学習の基本といえるでしょう。

しかし、なによりも大切なことは、自主的に学ぼうとする気持ちです。

その気持ちさえあれば、

たとえ金銭的・時間的な事情などにより

学校で学ぶことができなかったとしても、

独学で立派に成果をあげることができます。

 

とくに現在では、インターネットに代表されるIT技術の進歩により、

いつでも、どこでも、どんな人でも

少額、あるいは無料で、膨大な情報に触れることができるようになり、

また同時に、多くの便利なツールを使うこともできるようになりました。

そのため、昔に比べて独学することがはるかに容易になっています。

このような革命的な状況は、

これまで金銭的・時間的な制限を受けていた人にとっては

とりわけ大きなチャンスをもたらしてくれています。

しかしそれはまた、もはや言い訳ができないということでもあるのです。

なぜならば、その気になればいくらでも学ぶ機会があるからです。

 

この「英語ネット独学のすすめ」では、そうしたインターネットを活用した学習法の中でも、

インターネットを活用した英語の学習法についての情報を発信しています。

ここから発信する情報が、少しでも皆さんのお役に立てば幸いです。

 

倉田 幸暢

「たまたま巡り合った学校の先生より、もっといい先生が本を書いている」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

何と言っても、自分で自分を教育するよりないですよ。(中略)たまたま巡り合った学校の先生より、もっといい先生が本を書いているわけでしょ。それを読むほうが速いですよ。読むと空想力ができる。活字というものは、空想力の刺戟のために存在しているようなもので、テレビはイマジネーションを画面にしてくれますから空想力は落ちますよ。(中略)活字に刺戟してもらうことによってしか、人間は人間らしくなれませんよ

司馬遼太郎
(大阪市立図書館が発行している「図書館通信」の昭和46年12月号に司馬氏が図書館についての思い出を語った談話より)
司馬遼太郎がゆく―「知の巨人」が示した「良き日本」への道標』 p.242より
半藤一利、山折哲雄ほか、2001年、プレジデント社

「人間の知識の歴史のうえでは、「独学」こそが唯一の学問の方法であったのではないか。」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

よくしらべてみると、これまで東西の大学者、思想家と呼ばれる人たちのすくなからぬ部分が、学校教育をうけることなく、独学で勉強していたことがわかる。
いや、学校に入らなければ学問はできない、などという思想は、ついこのあいだ出来たばかりの新興思想にすぎないのであって、人間の知識の歴史のうえでは、「独学」こそが唯一の学問の方法であったのではないか。
だいいち、学校などというものが、こんなにいっぱいできたのはここ二、三十年の新世相だったのである。
人間が、なにかを学ぼうとするとき、たよりになるのはじぶんじしん以外にはなにもないのがふつうなので、「独学」以外に学問の正道はなかった。

加藤秀俊
独学のすすめ』p.18、1978、文春文庫、文芸春秋

「自分にとって最も分かりやすい教科書」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

自分にとって最も分かりやすい教科書やテキストというのもは
市販の既成品のなかには存在しません。
自分にとって最も分かりやすい教科書やテキストは
自分で書き込みを行ったり
アンダーラインやマーカーを使って
ある意味、自分で育てていくものです。
ですので、ある程度質のいい教科書を選ぶ必要はありますが
市販の教科書に完璧を求めることはあまり意味のないことだとおもいます。
自分にとって最も理解しやすい教科書が欲しいのであれば
買う前にあれやこれやと悩むのではなく
他人の書評などを参考にして、過不足ないと判断した時点で
早めに買ってしまって、
一刻も早くその教科書を自分流にアレンジしていくことが必要だとおもいます。
書き込みがまったくなく、きれいなままの教科書なんて、何の価値もありません。
むしろ、書き込みが多く、
他人から見れば汚いと思われるほどに使い込んだ教科書にこそ
真の価値があります。
自分自身の教科書であって、他人の教科書ではないのですから
他人から見た評価なんてなんの意味もありません。無意味です。
とにかく、学習の過程で気付いたことや考えたこと、疑問に思ったことは
どんどん書き込んでいくべきだとおもいます。
自分から自発的に考えたことに関する事項は
記憶に定着しやすいです。
逆に、自分にとって最も理解しやすい教科書が欲しいのであれば
「自分自身が教科書を作っていく」という意識と努力が必要になるのです。
他人の頭を通して理解していたものを
自分の頭を通して理解できるように努力するです。

「自分からひきはなし、もぎとろうとしても、決して、もぎとられない、血肉化した学問、知識を身につけていく学び方」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

 独学とは、自分自身を中心にして、自分自身のために、現実から一歩一歩学びつつ、確実に現実を自らのものにし、征服することである。自分自身をふとらせていく学び方である。頭だけでなく、身体全体をふとらせていくことである。自分からひきはなし、もぎとろうとしても、決して、もぎとられない、血肉化した学問、知識を身につけていく学び方である。試験や就職のために、学ぶのではない学び方である。
 あなたが、現在の不満だらけで、面白くない状態から脱出しようと思ったなら、まず、これまでに学んできたもの、現在のあなたを支えている知識を再検討してみることである。そこから、あなたの本当の人生の第一歩が開かれるであろう。現代という時代は、それを、なによりもあなたたちに求めているからである。

池田 諭「<はじめに> やりがいある独学・生きがいある人生

(池田 諭の会HPより)、

独学のすすめ―自分なりに生きよう (1965年)』より

「自らの欲望を開発し、自らの感覚をとぎすましながら、それらを基調にしていく勉強は、他人がきめたコースを、安易に、無自覚に学んでいくところからは生まれない。」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

 くじけたりいいかげんに妥協したりすることがなく、たえず前進をつづける学力と知力こそが、それらを身につけた人々を人生の輝かしい勝利者にし、さらに新しい時代を築いていく。
 このように、自らの欲望を開発し、自らの感覚をとぎすましながら、それらを基調にしていく勉強は、他人がきめたコースを、安易に、無自覚に学んでいくところからは生まれない。それは、学校に学ぼうと学ぶまいと、それに関係なく、自らの道を自問自答しながら、自学自習をつづける独学によるしかない。

池田 諭「<はじめに> やりがいある独学・生きがいある人生
(池田 諭の会HPより)、
独学のすすめ―自分なりに生きよう (1965年)』より

「学校は、すべての人が、それなりに一人立ちできることを目標としながら、その実、八割近い人々に、無力感や劣等感をうえつけ、一人一人将来を切り拓くかわりに、その夢や希望をつみとっているのである。」

By Yukinobu Kurata (倉田幸暢)

 現在の学校教育は、これらの能力を身につける上で、むしろマイナスの作用をしているといってもよかろう。しかも、長い間こういう雰囲気の中におれば、いつか、一、二割の学校秀才と、一割にみたない有名校の学生、生徒をのぞく大部分の人々が、自信を失い、劣等感のとりこになっていくしかない。学校は、すべての人が、それなりに一人立ちできることを目標としながら、その実、八割近い人々に、無力感や劣等感をうえつけ、一人一人将来を切り拓くかわりに、その夢や希望をつみとっているのである。こうして人々は、ファイトを失い、あきらめを身につけさせられる。
 私でなくとも、この事実を考えたら、「学校よ、くたばれ」といいたくなろう。
 学校教育をうけなかった者の中には、学歴がないということで差別をうけたり、いわれのない劣等感に悩まされることはあっても、自分自身の能力を勝手にゆがめられたり、無力感や劣等感をうえつけられることもないままに、ぐんぐんと成長し、のびのびと生活をしている者がある。非常にすぐれた仕事をやっている者もある。それは、妙な足カセ、手カセをはめこまれることのなかったせいともいえる。
 学校教育の渦中にある者は、この事実をよくよく、胸に深く刻みつけることが必要である。

池田 諭「<はじめに> やりがいある独学・生きがいある人生
(池田 諭の会HPより)、
独学のすすめ―自分なりに生きよう (1965年)』より

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