現存最古の酒呑童子説話をつたえる絵巻物である、香取本『大江山絵詞』のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の物語の成立には、比叡山延暦寺の天台宗教団がふかくかかわったとされています。
ここでは、その比叡山延暦寺の天台宗教団のなかでも、とくに、比叡山延暦寺の無動寺谷に所属していた修験道の山伏(修験者)や、無動寺谷に関連があった記家のひとたち(学僧)が、香取本『大江山絵詞』のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の物語の創作に、ふかくかかわったのではないか、という可能性について、かんがえてみたいとおもいます。
- 香取本『大江山絵詞』に描かれている酒呑童子説話の成立に、比叡山延暦寺の天台宗教団がふかくかかわっていたことについて
- 酒呑童子説話の祖型をつくった比叡山延暦寺の記家と、無動寺谷の修験道山伏との関係
- 早尾権現と、素戔嗚命と、荒神と、不動明王と、慈円と、無動寺谷の修験道山伏とのつながり
- 不動明王の尊称である「大聖不動明王」という呼称について
- 大威徳明王と、相応和尚と、無動寺谷
- 香取本『大江山絵詞』の四神のなかに、熊野の神の化身(山伏)が登場する理由
- 慈円(慈鎮和尚)と、無動寺谷の修験道
- 謡曲「大江山」と、観世太夫と、室町幕府の将軍と、青蓮院門跡と、無動寺谷
- 「平野山」とは、比良山地・比叡山地・石山(石山寺)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神である比良明神として描かれている
- 「近江国かが山」が、己高山である可能性と、白山信仰について
- 無動寺谷の玉泉坊流もふくめた、数ある天台宗系の修験道の始祖が、智証大師円珍である可能性について
- 水天童子という護法童子の名称が起源となって、酒天童子という名称がうまれた可能性について
- 比叡山延暦寺の3D地図
香取本『大江山絵詞』に描かれている酒呑童子説話の成立に、比叡山延暦寺の天台宗教団がふかくかかわっていたことについて
香取本『大江山絵詞』に描かれている酒呑童子説話の成立に、比叡山延暦寺の天台宗教団がふかくかかわっていたことについて
酒呑童子説話の祖型をつくった比叡山延暦寺の記家と、無動寺谷の修験道山伏との関係
記録成仏を理想としたと見らるゝ記家は、古今殆どその比類なき特色をもつ仏教であつて、それは正に記録宗と名け、記家仏教と称して好い日本独特の仏教の創造であつた
酒呑童子説話の祖型をつくった比叡山延暦寺の記家と、無動寺谷の修験道山伏との関係
記家と呼ばれた学僧の人たちってどんな人たちだったの?
『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。
―― 末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』 [8]
記家と呼ばれた、比叡山延暦寺の学僧の人たちについて。
単純な交信よりもっと積極的に、三神中に日吉山王が入っていることが山門側の興味をそそった、と見ることもできる。説話の飛躍にあたり、記家がなんらかの関与をしたことが考えられるからである。
記家とは、比叡山の記録・故実を学問修道の対象とする一家のことで、 鎌倉末期を黄金時代とする。彼らは当時の風潮として、たんなる記録者にとどまらず、記録・故実にみな秘伝を認め、口伝を説いて相承伝承した。その内容は、天台宗の顕密の教学、他学派・他宗との異同、叡山の境域・堂塔・仏神像の由来・意義、先哲・碩徳の行状、霊験・奇瑞・懲罰・災異の伝説にまで及ぶ。②に見える『和光同塵利益灌頂』は、こうした記家秘伝の最高・究極のものといわれる。
彼らは、仏・菩薩が、日吉山王七社など垂迹の神々として比叡山に現れ、国土と衆生を守護し教化してきた歴史的事実と、現実の境内・堂舎・仏神像・教学・儀礼などの状況とを論述し意味づけることを、とくに重視した。いいかえるとそれは、比叡山で発展した神道説(日吉山王神道)の探求であり、その方法が記録の探求だった。記家とはかかる「縁起」的・神話的な歴史解釈を、創造・増幅・普及し、ひいては神国思想の興隆を準備した人々のことである。
[9]
高橋昌明
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
233~234ページ
下記の文章のなかの、『要略記』というのは、『山家要略記』の略称です。
また、『渓嵐集』というのは、『渓嵐拾葉集』の略称です。
『山家要略記』は、教理的な要素をも含むが、その中心はむしろ叡山に関する伝承や記録を集大成したものと考えられる。従って、すべてが神道関係というわけではないが、神道がきわめて重要な位置を占めている。この点を考えるためには、本書や次の『渓嵐拾葉集』成立の基盤となる叡山の記家と呼ばれるグループに着目しなければならない。記家というのは、叡山の記録を扱うことを主要な職務とするが、その性格については、『渓嵐集』の序を見るのが適当である。それによると、「山家記録有四分。所謂一顕、二密、三戒、四記」とあり、記録が四分されることが記されている。この四分は詳しくは、顕部・密部・戒部・記録部と呼ばれ、他の文献にも見られるところから、中世の叡山では広く認められていたことが知られる。なお、ここで注目されるのは、この四分の全体を「記録」と呼び、その中にまた「記録部」を立てていることである。すなわち、「記録」には広義の記録と狭義の記録の両義があり、前者は狭義の記録の他に、顕・密・戒をも含むものである。顕・密・戒と言えば、実質的に叡山の仏教の総体であり、したがって、広義の記録は叡山の仏教全体に関わるものであったことが知られる。後にも触れるように、『渓嵐集』が広義の記録全体にわたるのに対し、『要略記』は狭義の記録に関する著述と見ることができる。『渓嵐集』はまた、広義の記録を顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部門にも分けている。雑記というのは、古今の美談などを集めたものである。狭義の記録の内容について、『渓嵐集』では、浄刹結界章・仏像安置章・厳神霊応章・鎮護国家章・法住方規章・禅侶修行章の六章を立てるが、このうち第三の厳神霊応章が神道に関するものである。
なお、四分の記録にはそれぞれ灌頂がある。灌頂は、言うまでもなく密教の儀礼に由来するものであるが、ここではそれが四分のそれぞれに規定されている。顕部は生智妙悟の秘決、密部は都法灌頂、戒部は鎮護授戒、記録部は和光同塵利益国土灌頂である。ここで注目されるのは、記録部の灌頂が和光同塵利益国土灌頂とされていることである。「和光同塵」は本地垂迹を意味するもので、したがって、狭義の記録が神道を中心とするものであることは、ここからも明らかである。因みに、『渓嵐集』では、「顕宗者観心大綱也。密宗者宗義大事也。戒法者秘旨深奥也。記録者末後一言也」と言われており、記録こそ究極の言葉(末後の一言)とされている。狭義の記録が他の三部門より上位に位置付けられていると見てよい。記録において仏教の根本は尽くされるのであり、「記録成仏」とも言われるくらいである。その狭義の記録の中で神道が最も中心的な位置を占めるのであるから、中世天台理論において神道の持つ重要性は明らかであろう。
(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) [8] [9]
『山家要略記』が狭義の記録を代表する文献だとすれば、それに対して、『渓嵐拾葉集』は広義の記録を総合する中世天台の百科全書とも言うべきものである。『渓嵐集』は義源の弟子に当る光宗(一二七六~一三五〇)の編集になるもので、(後略)
(末木文美士「解題」, 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』) [10] [9]
比叡山の記録故実を学問修道の対象として、しかも直に、大乗菩薩の願行を満足し仏道を成ずべしとなし、また記録に即して特異の観心法門を創作し、その一々に於て、直に一心三観一念三千の妙観を成ずべしとなして、究竟する所いはゆる記録成仏を理想としたと見らるゝ記家は、古今殆どその比類なき特色をもつ仏教であつて、それは正に記録宗と名け、記家仏教と称して好い日本独特の仏教の創造であつたといはねばならぬ。然らば、斯の如き記家をして、発展独立せしめた根本のものは何であり、その基調をなすものは何であつたか。それは勿論言ふまでもなく、日本天台独特の本覚絶待思想であつて、いはゆる記家は、正にこの本覚思想を基調とする中古天台のこれを創作する所であつた。かくして我等は、いはゆる声明道を独立せしめ、戒家を別立せしめ、また我が記家を独立せしめた、日本中古の偉大なる発展創作に対しては、今更ながら寧ろ驚嘆するの念に堪へぬ。
(硲慈弘「中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 『日本仏教の開展とその基調 下』) [6] [7] [9]
光宗、『渓嵐拾葉集』
光宗、『渓嵐拾葉集』
義源、梶井流記家の重要人物
義源、梶井流記家の重要人物
鎌倉初期の顕真
鎌倉初期の顕真
無動寺谷の智信(知心)が、記家に影響をあたえたことについて
記家の義源・光宗の学問の伝統がその多くを無動寺智信(知心)に負うものであることは、「渓嵐拾葉集」等に明らかである
(牧野和夫「「幽王始めて是を開く」ということ:天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」) [11] [9]
『渓嵐拾葉集』
「智信」についての記述があるところ。
SAT大蔵経テキストデータベース2018
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
問。山王現猿給有證據耶 答。山王祕決ニ
云。無動寺ノ智信記ニ。於心法有五性。所謂魂
心魄意神ナリ。如次五行精神也。今ノ山王ト者釋
尊ノ應迹。以猿爲垂迹。天神ニハ無氏。示申爲
神。地祇ニハ有氏。示土爲社 云云 已上 又云。五
行大義ノ序ニ云。申ト者無所擁滯故ニ名テ云神ト
云云 凡ソ猿ト者。其形貌人形ニ&MT06279;畜獸ヲ兼タリ。於天
地得自在。故ニ擁滯スル無シト所云也 云云 凡ソ猿ト
者。天台宗ノ四教ノ大事眞言教ノ北山ノ石藏ノ相
傳大日經ノ縁起等深祕ノ習事有之。更ニ可問
云云
『渓嵐拾葉集』
問。神明開會ノ事。其ノ相如何 示云。智信阿
闍梨山王祕決ニ云。十界三世ノ諸佛菩薩者釋
尊一佛ノ之分身也。我日本國中大小神明者
山王三聖之應迹也。仍山王出世而開顯久
成實本之時。開三權ノ諸神歸一實山王。以
之山王ノ爲開會。深可思之
『渓嵐拾葉集』
『耀天記』
(『燿天記』)
「智信」についての記述があるところ。
已上無動寺智信阿闍梨説云々。
[12]
三十九
山王記
『耀天記』
(『神道大系 神社編 29 日吉』所収)
江戸時代の無動寺谷の学僧である真超、記家
江戸時代の無動寺谷の学僧である真超
記家
大原三千院門跡(円融院門跡)に引き継がれて今日に至っているわけだから、平安朝以来の著名な学室の一つとして、名のある山坊であった。真超は無動寺谷の行門の阿闍梨で、慈本と並ぶ近世山門の学僧であり、叡山文庫には真超の所持本が多く所蔵されている。表紙に「山門無動寺蔵」の黒印を捺す。享和元年の奥書に「梨下御所」とあるのは、梨本の宛て字、上述の三千院門跡のことである。
[12]
『神道大系 神社編 29 日吉』
29ページ
真超はすでに述べたとおり、近世無動寺谷の学僧、ことに歴史的な研究で聞こえている。
[12]
『神道大系 神社編 29 日吉』
32ページ
『続日吉山王利生記』一巻も、内容からみてその成立は同じ、一貫したものと考えられるが、続群書類従本は前記の坂本生源寺本の霊験絵詞によっているので、両者の内容はほぼ同一である。そしてその底本は、文化元年(一八〇四)に山門無動寺谷の僧真超が、生源寺蔵の絵巻物から写生したものであることを、その末尾に付記している。
[12]
『神道大系 神社編 29 日吉』
54ページ
早尾権現と、素戔嗚命と、荒神と、不動明王と、慈円と、無動寺谷の修験道山伏とのつながり
早尾権現
不動明王
室を構へて、都鄙の老少を籠め置く。又、忍び声にて経を読み奉る声のしければ、如何なる人ぞと思ひて、声を導に行きて見れば、銅の籠を作りて女房四■人籠め置きたる中に、いと清げなる児の十四、五許りなるが、練貫の小袖に白き大口着て、守より小経を取り出して、涙の露に点を添へて読まるるにぞ有りける。此の児の左右を見れば、十羅刹女、諸々の天菓を置きて、外に種々に形を現はして守護す。又、薬師の十二神将は、この格子の外に形を現はして守り給ふ。又、不動の炎光の如くに火燃ゑ上がりたる猿一疋ぞ立ちたりける。是を見て頼光、「これは如何なる事にや」と尋ね給へば、白翁答へけるは、「此の児、法華経を読誦し奉る功によりて、十羅刹、此の所に来臨して擁護し給ふ也。又、十二神将は此の児の師匠、七仏薬師を行じ給ふ故に、守護して眷属の十二神来りて守り給ふ。又、猿の様なる物はよな、あれこそ叡山早尾権現よ。かの本地は大聖不動明王なれば、生々して加護の誓ひといひ、猿は又、山王の使者、彼此、両形を現はして守り給ふ也」とぞ宣ひける。頼光は、此の白翁元より怪しく思はれけり。「誠に権現の加護にあらずば、天魔の凶悪を鎮め難し。偏に是、年来日来、憑みを懸けたる霊神の化現かや」と感喜相並びければ、保昌と窃かに目を見合ひて頷き給ひけり。此の児と申すは、前の老女が語らひつる慈恵大師の御弟子、御堂の入道殿の御子息是也。
(早尾権現・不動明王の描写, 香取本『大江山絵詞』) [14] [12]
不動明王の信仰は、古代インドの民俗宗教に淵源をもっている。その原語のサンスクリットのアチャラナータは「山岳の王」「山の守護神」を意味している。当時インドでは、背後に火を背負った不動明王の前で火を焚いてまつりを行っていた。その祭祀者も火を操作するシャーマン的な性格を持っていた。
「不動明王とは」
「不動信仰と民俗宗教」
慶應義塾大学名誉教授
宮家準
『不動信仰事典 (神仏信仰事典シリーズ 9)』
宮坂宥勝(編集)
13ページ
早尾権現
比叡山延暦寺の門番の神
『日本書紀』は近江国の伊吹山の「荒ぶる神」の話をあげている。その後吉田兼倶(一四三五~一五一一)はこの荒ぶる神を素戔嗚尊、大巳貴神、事代主神などの類、すなわち荒神であるとしている。一般に荒神は修験者が好んで祀った三宝荒神のことで、その本地は観音で垂迹神は麁乱神とされている。
「日本の荒ぶる神と不動明王」
「不動信仰と民俗宗教」
慶應義塾大学名誉教授
宮家準
『不動信仰事典 (神仏信仰事典シリーズ 9)』
宮坂宥勝(編集)
17ページ
18ページ
19ページ
逸本には、鬼が城を偵察する頼光らが、牢中の道長の児を見る場面がある。児を猿のようなものが守っているのにたいし、住吉神が、あれは叡山の早尾権現、本地は大聖不動明王、猿は山王の使者、と教える。早尾社は、祭神スサノオ、本地仏は不動、日吉七社の一つである。修験の神々の中で、具体的な名前のでてくるのは早尾権現だけだから、おそらく、早尾社に集う山伏たちが、この物語の成立・管理・伝播になんらかの形でかかわっていたのであろう。
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
高橋昌明
149~150ページ
「四、山伏姿の意味論」
慈円と、竹台山王社と、早尾権現と、大行事権現と、無動寺谷
慈円と、竹台山王社と、早尾権現と、大行事権現と、無動寺谷
『山門堂社由緒記』所引の『本願堂記』(天台宗全書二四・二五八下)によれば、竹台山王はもと最澄が根本中堂内に山王三聖を勧請し、のち円珍が東岳に移して七社となし、さらに慈円が早尾と大行事を加えて九社としたという。また昔、山王祭礼の日に一人の稚児が法楽のために法華八講を修した時、神明権現が竹台に影向して天台の秘法を授かったところから「竹台山王」と号されたと伝えている。
[12]
(19) 東塔北谷
『比叡山諸堂史の研究』
武覚超
229ページ
不動明王の尊称である「大聖不動明王」という呼称について
香取本『大江山絵詞』
不動明王の尊称である「大聖不動明王」という呼称について
大威徳明王と、相応和尚と、無動寺谷
頼光も、我が身を軽く思ひ給ふべからず。致頼・頼信・維衡・保昌とて四人の名将おはしませども、此の人数にも差し抜けて、洛中洛外の上下に恐れ敬はれ給ふ事、すなわ則ち五大尊の其の中、大威徳の化生にてまします、其の故也。然れば、悪魔降伏も世に越ゑ、盗賊追討も人に勝れ給へる也。
[12]
香取本『大江山絵詞』
絵巻の原本の現状:詞書巻 第一段 詞書
相応和尚は、慈覚大師の御弟子なり、生身の不動を葛河瀧にて拝給ふ、和尚随喜の余りいだき奉る、忽に枯木に変給ふ、かの木にて不動尊を造て、無動寺に安置し給へり、
〔中略〕
染殿后御悩の時、諸寺諸山の高徳みな験をうしなへり。和尚ならびなき誉ありて、勅喚に応じ、是を加持し奉るに猶しるしなし、無動寺に帰りて、重て祈念せられけるに、
〔中略〕
后の邪気は柿本紀僧正の霊なり、彼真済は七世の不動の行者也、
〔中略〕
但大威徳の咒にて加持し、心中に我を念ぜよとおしへ給ける、其後真済僧正の霊あらはれて、
[12]
『日吉山王利生記』
(『神道大系 神社編 29』所収)
651ページ
香取本『大江山絵詞』の四神のなかに、熊野の神の化身(山伏)が登場する理由
山臥は、「熊野山那智の辺りに侍る也。名をば雲滝と申す」とて、是も掻き消つ様に失せられけり。
―― 熊野権現の化身である山伏が正体を明かす場面, 香取本『大江山絵詞』 [18]
香取本『大江山絵詞』の四神のなかに、熊野の神(の化身の山伏)が登場する理由
香取本『大江山絵詞』の物語のなかでは、熊野の神の化身である山伏は、まったく活躍していません。
このことについては、高橋昌明さんが、つぎのように述べておられます。
鬼王退治に助勢する神々のこと〔中略〕
逸本を点検すると、四神の中で終始中心的に活躍するのが老翁で、これは住吉神。次は、童子退治の戦端を開くにあたり、鉄石の寝所を破壊し、われら四人で手足を押さえつけているので、銘々心を合わせて鬼王の頭をめがけて斬りかかれと促す若僧これが目吉山王。その次は、若僧と一緒に寝所を破壊し、別れにあたって、頼光と形見を取り交わす老僧の八幡。四神目の山伏(熊野)は、名前ばかりで実際の活躍がまったくない。
第五章で、祖本は三神の物語であったとしたが、そのことはこうしたところにも透けて見える。
(高橋昌明「第六章 酒呑童子説話の成立」, 『酒呑童子の誕生』) [19] [12]
このように、香取本『大江山絵詞』の物語のなかでは、熊野の神の化身である山伏は、まったく活躍していません。
それにもかかわらず、なぜ、熊野の神を、物語のなかに登場させる必要があったのでしょうか?
その理由は、熊野と天台修験とのかかわりにあるのかもしれません。
頼光、「各々の御名をば誰と申し奉る。御在所は何方にはおはします」と尋ね申されければ、老翁宣ひけるは、「我は住吉の辺りの旧仁なり」とて幻の如くにて失せ給ひぬ。山臥は、「熊野山那智の辺りに侍る也。名をば雲滝と申す」とて、是も掻き消つ様に失せられけり。老僧宣ひけるは、「此の僧は八幡の辺りに侍るが、摂津守殿へ御祈祷の為に参りたり」とて雲煙の如くにて失せられけり。若僧は、「延暦寺の辺りに住する沙門なり」とて、何れも皆失せられにけり。倩此の心を案ずるに、「是併せて年来憑みを懸け、志を運びし霊神達、且は鎮護国家の誓ひにより、且は利益衆生の願ひに任せて、我等を守護し給ひけるよ」と弥頼もしく忝く思ひ奉る事、限りなし。凡そ神の威を顕はす事は、是、人の崇め奉るにより、人の運の全うする事は、又、神の助けにあらずや。例へば、響きの音に応ずるが如く、月の水に宿るが如し。「感応満ち交はる事、世の常の習ひ」と言ひながら、著しき事、上古にも末代にも例少なき事とぞ覚えし。
(四神の化身の四人が自分たちの正体を明かす場面, 香取本『大江山絵詞』) [18] [12]
以後も伊吹四護国寺間においては争いが繰り返されており、とりわけ応永七年(一四〇〇)から、約四〇年間にわたって争われた宿争いは、最も大きな争いであった様子である。これは、弥高護国寺が入峰修行の一宿を主張するのに対して、太平・長尾・観音の三護国寺が伊吹町上野の三宮神社を一宿と主張する争いである。
〔中略〕
しかし、熊野三山検校の下知にもかかわらず、事は解決しなかったとみえ、応永十一年(一四〇四)に「弥高寺客僧」山伏として、現在の近江八幡市の伊崎寺を本寺とする阿弥陀寺、長命寺、安楽寺、石馬寺、千手寺の修験集団が、弥高寺一宿が正当であることを修験道本山派の法頭である聖護院に訴えている。
〔中略〕
その後、三十二年を経た永享十年(一四三八)に、
〔中略〕
とあるように、四十年近くに及ぶ宿争いも、ようやく三宮神社を一宿とすることにより、終結している。四十年近くに及ぶ宿争いにより、伊吹修験道はかなりの退転をみたことであろうが、その様な争いの背景には、入峰修行者の増大にともなう経済的な問題が存在していたのではなかろうか。
この宿争いの解決のために熊野三山検校職や聖護院が関与しており、伊吹修験道が、当時、本山派に所属し聖護院法頭の下に支配されていた事が知られるが、伊吹山においても熊野行者講が結成されている。
〔中略〕
このように、伊吹山伏が熊野詣の先達として、近辺の村々の熊野信徒を熊野の御師の元へ先導案内し、熊野信仰上の紐帯として活動している様が知られる。また、先の己高山縁起によれば、「入峰事」として、
〔中略〕
とあり、伊吹修験道の末寺である伊香郡の己高山修験が、伊吹山大乗峰と共に北陸の白山へ入峰しており、本寺である伊吹修験道においても、当然、白山入峰を行なっていたであろうことが類推できる。
[9]
53~56ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)
慈円(慈鎮和尚)と、無動寺谷の修験道
慈円(慈鎮和尚)
天台座主
住房:無動寺谷の大乗院
慈円(慈鎮和尚)は、修験者であった
慈円(慈鎮和尚)自身も、修験者として修験道の修行をおこなったとされています。
謡曲「大江山」と、観世太夫と、室町幕府の将軍と、青蓮院門跡と、無動寺谷
足利義教(義円)
天台座主
室町幕府将軍
青蓮院門跡
無動寺谷
謡曲「大江山」
観世流の観世太夫
「平野山」とは、比良山地・比叡山地・石山(石山寺)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神である比良明神として描かれている
「近江国かが山」が、己高山である可能性と、白山信仰について
現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本『大江山絵詞』には、「近江国かが山」という謎の山が登場します。この山は、最澄の所有地であったとされ、比叡山を追い出された酒天童子が、移住先の土地を与えてくれるように最澄に求めたことで、酒天童子に与えられた土地です。
ぼくは、この「近江国かが山」というのは、己高山のことではないかと思います。おそらく、「近江国にある白山信仰の盛んな山」(己高山)を、「加賀国の白山(はくさん)」(かが山)に見立てて、「近江国かが山」と呼んだのではないかと思います。
「かが」(加賀国(現在の石川県南部))にある山のなかで、代表的な山といえば白山です。ですので、「かが山」というのは、白山のことを指しているのだろうと思います。白山信仰は、香取本『大江山絵詞』の成立に深く関わったとされている天台宗や天台修験と深い関係があります。その関係で、香取本『大江山絵詞』のなかに、天台宗ゆかりの白山に見立てられていた山(白山信仰の盛んな山)が登場するのでしょう。
『己高山縁起』によれば、己高山は、加賀の白山を開山したとされる泰澄が寺院を開いた場所とされていて、白山信仰が盛んな地域だったようです。また、日本天台宗の開祖である最澄は、己高山で修行していたときに、「白山の白翁」と名乗る神と出会い、己高山の所有権を譲り受けて、この地域一帯の寺社を再興したとされています。このように、己高山は、天台宗とも関わりがある場所です。
また、己高山は近江国の鬼門であるとされています。つまり、京の都の鬼門である比叡山から追い出された酒天童子が、その次にあてがわれた移住先が、近江国の鬼門である己高山であった、ということです。酒天童子の移住の流れを、「鬼門から鬼門への移動」という流れであると解釈すれば、酒天童子の移住先の「近江国かが山」は、近江国の鬼門である己高山である、ということになるだろうと思います。
高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、香取本『大江山絵詞』のなかに登場する「近江国かが山」という言葉を、「近江加賀山」と表記されています。これはつまり、高橋昌明さんは、「近江国かが山」という言葉のなかの「かが山」という言葉は「加賀山」のことを意味していると考えておられる、ということなのだろうとおもいます。
(参考)
『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』
高橋昌明
2005年
100ページ
湖北地域は仏教美術の宝庫で、特に木之本町から高月町にかけては「観音の里」と呼ばれている。それらの仏像を育んだ背景の一つが、己高山の山林修行である。
文献史料から見る己高山
己高山は滋賀県木之本町にある山で、標高九二三メートル。その歴史を語るうえで欠かせないのが、『己高山縁起』と『與福寺官務牒疏』である。
木之本町・鶏足寺の所蔵する『己高山縁起』(滋賀県指定文化財、図版26)は、甲乙二巻からなり、「當山草創事」から「学頭坊事」まで一二条にわたって己高山の歴史を記している。応永十四年(一四〇七)に「天台陰士穴太末資金剛仏子法眼春全」によって編纂された。
「當山草創事」によれば、古老の言い伝えでは、己高山は近江国の鬼門で、古仙練行の秘窟であった。行基が勝地としてこの峰を選び、伽藍を草創して仏像を彫刻し、泰澄が聖跡としてこの山を崇め、峰に入って行門を建立したという。
また、「當山再興事」には、最澄再興の話を載せる。最澄が己高山南麓の高尾の草堂で修行中に、仏閣の礎石跡で十一面観音の頭部を発見した。すると白山白翁が現れて、二〇〇年前に仏閣を建てたが焼失してしまい、復興してくれる人が来るのを待っていたという。最澄は、霊木を御衣木加持して、その仏頭に続く胴体部を自ら彫刻した。そして白山白翁の指示を受け、己高山の鎮守として十所権現を勧請したという。これが現在、鶏足寺に伝わる木造十所権現像である(滋賀県指定文化財、図版27)。
一方の『興福寺官務牒疏』(図版25)は、嘉吉元年(一四四一)の成立である。これは、中世における奈良興福寺の末寺を記録したもので、興福寺の勢力を誇示する目的で編纂されたため、一般に内容の信憑性には疑問が持たれている。しかし、個々の寺院の当時の規模や資財記録には参考にすべき点があり、中世の湖北の寺院の様相を知るうえで貴重な史料となっている。
ここでは「己高山五箇寺」と記載され、己高山が法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の五か寺と、別院で構成されていたことが知られる。なかでも山頂にあった観音寺が己高山随一で、別院を六か寺もっていたという。これらの寺院の開基には、行基や泰澄の関与が記されている。また、現在石道寺に安置されている十一面観音立像(滋賀県指定文化財、図版28)は、寺伝では高尾寺のものであったとされる。
(秀平文忠「文献史料から見る己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) [22] [9]
28 十一面観音立像 滋賀県木之本町 石道寺蔵
〔中略〕
右頁の十一面観音立像は寺伝では、己高山五箇寺のうちのひとつ、高尾寺の本尊であったという。
石道寺では、11世紀頃成立と考えられる本尊十一面観音立像(重要文化財)が著名だが、本像は本尊と同じくケヤキ材製の一木造で、内刳を施さない。像高107.3。滋賀県指定文化財。
端正な面持ちと、整理された衣文線、小像ながら重量感を残しつつ、明確な括れをもったプロポーションなどの特徴は、正暦4年(993)頃の作とされる滋賀県湖南市の天台寺院・善水寺の諸像と近しい。本尊にさかのばる10世紀末頃の作と考えられ、この頃石道寺を含めた己高山周辺にも天台系仏師の関与が想定される。
(秀平文忠「山林修行と観音の山:己高山」, 『近江湖北の山岳信仰』) [23] [9]
「近江国かが山」が、伊吹山である可能性と、白山信仰について
伊香郡己高山鶏足寺は、伊吹修験道の末寺
48ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)
己高山縁起によれば、「入峰事」として、
〔中略〕
とあり、伊吹修験道の末寺である伊香郡の己高山修験が、伊吹山大乗峰と共に北陸の白山へ入峰しており、本寺である伊吹修験道においても、当然、白山入峰を行なっていたであろうことが類推できる。
[9]
53~56ページ
「伊吹山の修験道」
満田良順
「第一篇 近江・山城の修験道と山岳信仰」
(『近畿霊山と修験道(山岳宗教史研究叢書 11)』所収)
「近江国かが山」が、比良山地の権現山である可能性と、白山信仰について
水分神社 滋賀郡志賀町栗原
祭神は玉依姫命。近世には龍王明神社・八大龍王と呼ばれていた。〔中略〕『栗原村万覚帳』では、八大龍王明神は十一面観音、白山権現(峯権現)は十一面観音となっている。〔中略〕峯権現は本殿左方の小祠に祀られ、現在は峯大神社と称している。これは比良山系南部の権現山(九九六メートル)の頂上に祀られる小祠(峯権現)の里宮であり、山頂の小祠を村人は「権現さん」と称している。
〔中略〕
権現山から琵琶湖側に開けた荘園を和邇庄という。
〔中略〕
権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。
(小栗栖健治「水分神社」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) [24] [9]
無動寺谷の玉泉坊流もふくめた、数ある天台宗系の修験道の始祖が、智証大師円珍である可能性について
法の舟さして行く身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ
―― 智証大師円珍
下記にあげた、複数の天台宗の系統の修験道(天台修験)のすべての始祖は、智証大師円珍なのではないかとおもいます。
- 無動寺谷の玉泉坊流の修験道(北嶺修験)
- 本山派の修験道(聖護院、熊野三山)(本山修験宗)
- 園城寺(三井寺)の寺門派(天台寺門宗)の修験道(三井修験)
園城寺(三井寺)の寺門派(天台寺門宗)の修験道(三井修験)と、聖護院の本山派の修験道(本山修験宗)が、どちらも、智証大師円珍を起源とする修験道の流れをくんでいることは、よく知られている話かもしれません。
園城寺(三井寺)は、円珍によって再興され、そのあと、天台宗寺門派の総本山となりました。そのため、円珍は、園城寺(三井寺)の中興の祖とされています。また、円珍は、園城寺(三井寺)の寺門派(天台寺門宗)の修験道(三井修験)の始祖でもあります。
また、本山派の修験道(本山修験宗)の本山である聖護院は、円珍によって開創されたとされています。また、そののちに、聖護院を再興した増誉は、白河上皇の熊野詣の先達をつとめた功績から、熊野三山の検校に任命されて、聖護院が本山派修験道(本山修験宗)の本山になるいしずえを築いた人です。また、増誉は、園城寺(三井寺)の長吏をつとめたこともある人です。
このように、園城寺(三井寺)の寺門派(天台寺門宗)の修験道(三井修験)と、聖護院の本山派の修験道(本山修験宗)は、どちらも、智証大師円珍を起源とする修験道の流れをくんでいます。
天台宗の系統の修験道(天台修験)のなかでも有名なのは、比叡山延暦寺の千日回峰行をおこなう、無動寺谷の玉泉坊流の修験道です。
一般的には、千日回峰行や比叡山回峰行の始祖とされているのは、無動寺の開基でもある、相応和尚だとおもいます。
ですが、実際には、その相応和尚も、不動明王についての密教の修法を、智証大師円珍から学んだようです。
無動寺谷の玉泉坊流の修験道における天台宗の密教(台密)だけではなく、そのほかの修験道の密教においても、不動明王関連の密教の修法は、とても重要なものです。そのことは、修験道における本尊の多くが不動明王であることや、回峰行者が「生身の不動明王」と呼ばれることなどにもあらわれています。また、比叡山延暦寺の無動寺谷の、「無動寺谷」という名称のなかの、「無動」という言葉は、「不動明王」の「不動」という意味です。つまり、無動寺谷自体がその、名称からして不動明王を重要視している場所だということです。
一般的な認識では、相応和尚が、不動明王関連の密教の修法を学んだ師匠は、慈覚大師円仁だということになっているのではないかとおもいます。
ですが、事実としては、相応和尚が、不動明王関連の密教の修法を学んだ師匠は、円珍であるようです。
では、なぜ、一般的な認識では、相応和尚が、不動明王関連の密教の修法を学んだ師匠が、円珍ではなく、円仁だということになっているのでしょうか?
その理由は、比叡山延暦寺における、山門派と寺門派の争いのなかで、山門派が、寺門派をおとしめるために、寺門派の始祖である円珍の功績を、意図的に抹消したからであるようです。そのような隠蔽工作がなされたことで、「相応和尚が、不動明王関連の密教の修法を学んだ師匠は、円珍である」という事実が、後世につたえられなくなってしまった、ということのようです。
このことについて、三崎良周さんは、円仁関連の密教の修法の記録や、円珍の著書『行歴抄』のなかの記述などを検証したうえで、下記のように述べておられます。
相応和尚伝に、円仁から「不助明王法、幷別尊儀軌、護摩法」を授かったということも、熟さない表現である。それは不動明王法そのものが別尊儀軌でもあるし、また円仁自身の伝記やその撰述に不動明王に関説したものはないようであるからである。その将来録に不動明王についての経軌や真言が著録されてはいるが、このことのみを以てその修法を行ったとも、その信仰があったとも判定をすべきではないであろう。むしろ台密における不動明王の修法や信仰は智証大師円珍(八一四~八九一)に始まるものと考えられる。
〔中略〕
さらに円珍の行歴抄には、大中八年二月九日、天台山国清寺の東北の霊芝峯の巌峻難行なることを「宛如延暦葛阪」と記していることからして、彼は延暦寺と葛川の間を抖擻したことが推測される。当時においては。元興寺の静安も比良山に二寺を建立しているが、相応としては、静安よりも円珍の先蹤に倣ったと見るべきであろう。しかるに相応和尚伝に円仁から不動明王法を授かったと記されていることは、円仁は師であるからということのほかに、平安朝末の山寺両門の角遂のために、円珍からの伝承が消されたものと考えられる。
(三崎良周「回峯行の根幹」, 「比叡山の回峯行とその理論的根拠」) [29] [30] [31]
上記の文章のなかの「葛川」というのは、相応和尚が創立したとされている、息障明王院(葛川明王院、葛川寺)がある葛川の地域のことです。
つまり、相応和尚が、葛川の土地で修行することを決めた背景には、それ以前に、葛川の土地をおとずれていた円珍を手本として、それをみならおうとした、という事情があったのかもしれません。
三不動(園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動、青蓮院の青不動)と、智証大師円珍の関係
水天童子という護法童子の名称が起源となって、酒天童子という名称がうまれた可能性について
酒天童子なる存在も、当然、護法という視点から見直される必要があろう。すると、酒天童子こそ護法の属性をことごとく備えた存在であることに気づくのである。
―― 天野文雄「酒天童子と護法童子と」,「「酒天童子」考」 [38]
智証大師円珍の伝承のなかに、水天童子という名称の護法童子が登場する伝承があります。その「水天童子」という名称が起源となって、酒天童子という名称がうまれた可能性について、かんがえてみたいとおもいます。
水天童子と円珍と弁慶水(千手水)の伝承と、熊野・那智との関係
水天童子
智証大師円珍
円珍
熊野・那智
日常生活に不可欠な飲料水については、比叡山の各所から湧き出る霊泉を土地の傾斜を利用し筧樋によって巧みに各寺に引いているのであり、これらの泉はその数約十三に及ぶが、何れも古生層の地層から滲出するもので、大比叡の周辺から出るものが水量も豊富である。中でも東塔西谷の弁慶水は、水量比叡山第一で、根本中堂、大講堂、会館など東塔の大部分は水源をこの弁慶水に求めている。最近はこれらを巧みに利用して消火栓の設備も施されるようになったことは文化財保護の見地からしても誠に喜ばしいことである。
(延暦寺執行局 (編集)「地形」, 「比叡山の自然」, 『比叡山』) [40] [12]
最近は水道を下からポンプで若干上げているそうですが従来は、みな山の水でまかなっておりました。それじゃそれはどこにあるのかと申しますと、ここは全山地下水を湧出しております。貧弱な今日のような植生林相になってすらそれだけの地下水をたくわえる力をまだ持っているのですから、これが巨大な自然林相であったならば、その地下水の量というものはまだまだ豊富なものがあっただろうと考えられます。〔中略〕実際生活的にいうならば生活の水、命の水ということになって、非常に豊かな水を持っているということに置きかえられます。
(景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』) [41]
護法童子としての酒天童子(酒呑童子)
諸絵巻に描かれた酒天童子の姿は葛川明王院の碑伝に描かれた護法と驚くべき類似を示している
―― 天野文雄「酒天童子と護法童子と」,「「酒天童子」考」 [38]
比叡山の地主神(水神)としての酒天童子(酒呑童子)
比叡山の地主神(水神)としての酒天童子(酒呑童子)
香取本『大江山絵詞』をはじめとする、最澄と比叡山が登場する酒呑童子譚における酒天童子(酒呑童子)は、比叡山の地主神としての性質を持っています。このことは、牧野和夫さんや、濱中修さんや、岩崎武夫さんが指摘されています。この方々の説を、下記で紹介します。
牧野和夫さんは、「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚:中世聖徳太子伝の裾野」という論文のなかで、中世の聖徳太子伝のなかに、「聖徳太子の生まれ変わりである最澄が太古の昔から比叡山に住んでいた地主の悪鬼を追い払った」という伝承をつたえるものがあると述べておられます [42]。(その伝承とは、醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』の「太子卅二歳御時」の項目に記されている伝承のことです [43] [44]。)
岩崎武夫さんは、つぎのように述べておられます。
叡山を伝教に追われ、弘法大師に法力によって閉じ籠められながら、大江山に居つくようになったという酒呑童子籠居のいわれは、いわゆる叡山の古い地主神が、今来の神によって追放される過程をあらわしており、童子はその地主神のなれの果てということになる。
(岩崎武夫「権現堂と土車」, 『さんせう太夫考 続』) [45] [12]
濱中修さんは、「酒呑童子の大江山止住以前の幼年期を物語」っている『伊吹童子』という文献をとりあげて、つぎのように述べておられます。なお、『伊吹童子』の物語のなかでは、酒呑童子という呼称は、伊吹童子のあだ名だとされています。
地主神がその霊地を寺院によって奪われることに対して抵抗の姿勢を示している話もある。
〔中略〕
巨木を表象とする地主神にとって、王権による収奪以上に各地で頻繁に発生し、故により深刻であったのは、仏法による土地の侵犯であったろう。
〔中略〕
巨木を通じての地主神の仏法への対立的姿勢の流れを抑えておけば、最澄の延暦寺建立に当たっての伊吹童子の行為の意味するところも明らかであろう。〔中略〕伊吹童子は、「かの伝教大師、この山に仏法をひろめ給はば、われこの山に住むことかなふまじ。いかにもして障礙をなさばやと思いつゝ、そのたけ三十丈の杉の木となりて、大比叡の嶽にぞ出生し」た
〔中略〕
最澄は地主神より叡山を譲り受けたということであり、その表象として霊木が語られているのである。
〔中略〕
香取本『大江山酒呑童子』および『伊吹童子』では、童子は地主神の面影を色濃く宿していると言えよう。〔中略〕童子にしてみれば大江山における王威・武威による敗北以前の、仏法による敗北であった。
〔中略〕
物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。
(濱中修「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」) [46] [47]
このように、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、比叡山の地主神として描かれています。
池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。
山の神は同時に水の神でもあるから、その神は地域に密着したかたちで古くから崇敬されてきたとおぼしい。
(池上洵一『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』261ページ)
比叡山と、水を得ることを目的とした信仰(水神信仰)
田中日佐夫さんは、『近江古寺風土記』において、「近江にある神奈備の山にたいする信仰は、水を得ることを目的とした信仰であった」ということを述べておられます。このことについての記述は、下記のとおりです。
ちなみに、神奈備山というのは、「神が鎮座する山」というような意味の言葉です。
神奈備山の信仰は天にいます神のたしかな表徴にたいする信仰であった。しかしその山の周辺で農耕する人々にとって、その信仰の結果を具体的に表わすものは水であったにちがいない。神奈備の山にたいする祭祀も、水を得ることがその主休を占めていたであろう。近江にあっても湖岸に沿った土地の開発から徐々に内陸の開発に向かったとき、この水の利用ということが大きな問題であった。土木工事の未発達であった古代人にとって、大きな河川を利用することにはいろいろな困難がともなったであろう。より簡単に利用できる水は平地のわき水、泉であり、また山からの落ち水であった。とともに雨がふれば流れを変え、はん乱し、耕地をのみつくす大河の勢いを押えることも大事なことであった。そのような内容をふくむ祭礼をみることもできるのである。
(田中日佐夫「水・火のまつり」, 「はつくにしらす王の国、近江 : 三上山と日子坐王の伝説」, 『近江古寺風土記』) [49]
また、水田有夏志さんは、『近江の滝 (別冊淡海文庫)』において、「近江は、川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった」ということを述べておられます。このことについての記述は、下記のとおりです。
琵琶湖に注ぐ河川は、すべてお盆の中央にある琵琶湖へと注いでいる。このため、近江には信濃川や利根川のような大規模な河川はなく、山から流れ出た川が平野部に出て、すぐに琵琶湖に注ぐ小規模な河川ばかりである。このわずかの間に、河川の水は田用水や生活用水など、さまざまな形で繰り返し高度に利用されてきた。
しかし、灌漑技術が発達する一方で、規模が小さく流量が安定しないため、流域各地で激しい水争いが頻繁に発生し、雨乞行事なども盛んに行われてきた。また、過度の伐採利用や戦乱などで山が荒れ、洪水被害にもたびたび悩まされてきた。
このように、近江は山や川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった
(水田有夏志「近江の滝の特徴」, 「近江の滝序説」, 『近江の滝』) [50]
おそらく伝教大師が開いたころは全山が全くの自然林相、原始林相であったろうと思います。同じ比叡山といっても、いまの林相とは全く違った様相を呈しておったと思います。そういう繁茂する林相は、湿ということが大きな条件となっております。絶えず湿気を含んでおる。その絶えず含んでおる湿気は地面に落ちて、こけが吸って、地下水になる。夏どのように照っても地下水が切れないということです。
〔中略〕
最近は水道を下からポンプで若干上げているそうですが従来は、みな山の水でまかなっておりました。それじゃそれはどこにあるのかと申しますと、ここは全山地下水を湧出しております。貧弱な今日のような植生林相になってすらそれだけの地下水をたくわえる力をまだ持っているのですから、これが巨大な自然林相であったならば、その地下水の量というものはまだまだ豊富なものがあっただろうと考えられます。そういうふうに山の木を切って、地下水の水量が変わって、山の林相が変わってということは、これはまた今日の河川の洪水とか汚染という問題と決して無関係ではないのでありまして、山と水とふもとの社会生活というものとは非常に深い関係を持っているわけでございます。山の木を切るから水がきたなくなる、水がきたなくなるから自然が汚染するという因果関係があるわけですけれども、幸いにして比叡山はまだまだ水源は乏しくない。これはやはりこの湿という問題、それを景観的にいうならば「煙雲比叡の樹林」ということになりますし、実際生活的にいうならば生活の水、命の水ということになって、非常に豊かな水を持っているということに置きかえられます。
千年の歴史を持つこの比叡山には、比叡山三千坊ということばがありますように、常に何千人かの僧侶が住んでおった。この比叡山三千坊ということばは三千の僧坊があったのだという解釈をする人がありますが、そうではなく、少なくとも三千人の僧侶が住んでおったというふうにお考えをいただきたい。実際に考えますと、山上山下合わせればもっともっとおっただろうと私は思います。山の上には絶えず三干人ぐらいの僧侶は十分住んでおったと思いますが、これは三千人のつまり完全な消費地域です。〔中略〕とにかく、「湿寒」の問題、これは比叡山の持つ自然条件であり、それはまた、歴史を形成し、その中で生活をしてきた上において、非常に深い因果関係を持っておった。それは自然と人文とのかね合いという大きな問題の一端を示すものである、こういうふうに考えていただきたい。
(景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』) [51]
この比叡山の山なみを図形化すると、(黒板に描く)―このような山になります。向こう側が京都、こっちが滋賀県。こちらが琵琶湖ということになります。よく比叡山のどちら側が表でどちら側が裏かというようなことを京都の新聞記者などから質問されることがありますが、それは言うまでもなく、滋賀県側では滋賀県側が表だと言う。別に私は坂本に住んでいるからそう言うのでありませんが、歴史的に考えても、比叡山の教団組織からいっても、滋賀県側が表である。
(景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』) [52]
天台座主良真が喧伝しようとした、天台宗の祈雨の霊験と、比叡山延暦寺の龍王・龍神(水神)説話の創作と、水天供
天台座主良真が喧伝しようとした、天台宗の祈雨の霊験と、比叡山延暦寺の龍神(水神)説話の創作
目照りが続く中、天台座主良真(一〇二二~一〇九六)は自宗天台宗を褒め称え、他宗(真言宗)を謗り、朝廷に対して比叡山の龍尾という山岳で七仏薬師法を修するようにアピールした。しかも良真は、雨をもたらす龍王が神泉苑の池ではなく、龍尾という山岳に遊戯しているとも主張した。
〔中略〕
深刻な旱魃が続くなか、天台座主良真は東密を批判し、東密の神泉苑の龍王信仰を天台宗に取り入れ、新たに比叡山で樹立させようとした。
(スティーブン・トレンソン「醍醐寺における祈雨の登場」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』) [55] [9]
『小野類秘鈔』に「〔中略〕」という記述があり、それによれば水天供はすでに康平八年(治暦元年〔一〇六五〕)に比叡山で執り行われたこととなる。
〔中略〕
神泉苑の龍王は、東密の伝承(後述)ではインドより当苑に来住した無熱池の龍王とされた。だが、『孔雀経』によれば、無熱池の龍王は水天である。そのために、特に十一世紀後半から神泉苑の孔雀経御読経が盛行するようになった後、東密では神泉苑の龍が水天だという信仰が一般化したのである。
〔中略〕
要するに、東密の水天供は、古来の神泉苑龍神信仰のなかに胚胎していた水天信仰に基づいていたと推定されよう。
〔中略〕
況八大龍王皆蒙於閻浮提可降雨仏勅、若干眷属在法花坐、此曼荼羅中列諸龍王、因之修此法感雨也
〔中略〕
成尋は〔中略〕、彼の祖師である智証大師円珍(八一四~八九一)が、青龍寺の法全に就いて水天法及び倶梨伽羅龍王の祈雨法を学んだことを述べた。〔中略〕これにより、天台宗寺門派で水天の祈雨法が秘法とされていた事実が分かる。〔中略〕つまり、水天供が台頭した背景に、天台宗が古くから水天法の秘法を伝持しているという点を主張していたことが想像される。
(スティーブン・トレンソン「四 水天供の確立と隆盛」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』) [56] [12]
「龍尾という山岳」が、龍尾山や龍尾水(天龍水)のことである可能性について
相応和尚が登場する伝承のなかに、無動寺谷の地区のなかにある、龍尾山と、その龍尾山にあった閼伽井である龍尾水(天龍水)についての伝承があります。
龍尾水(天龍水)と呼ばれた閼伽井があったとされている龍尾山は、もしかすると、天台座主良真が喧伝した「龍尾という山岳」とおなじものなのかもしれません。
もし、そうだとすると、天台座主良真の意向をうけて、比叡山延暦寺における龍神(水神)の、雨や水についての伝承や説話の創作をになっていたのは、無動寺谷の僧侶たちだったのかもしれません。
『山門名所旧跡記』
(『天台宗全書 第24巻』収載)
222ページ
閼伽井
本名天龍水。又名龍尾水
是又八箇龍池之随一也
(意訳)
閼伽井(閼伽水)がなかったので、相応和尚が龍神八部に祈願した。
すると、一匹の龍が降りてきて、尾っぽで地面をたたいたところ、清水が激しく湧き出して三重の瀧となって流れ出した。
これは、根本中堂の閼伽水とおなじように、無熱池(むねっち)(阿耨達池(あのくだっち))から流れ出た冷水である。
このことから、この山を龍尾山という。
流れを天龍河という。
これは、また、八個の龍池(八箇龍池)の随一のものである。
(参考)
『山門堂社由緒記』
(『天台宗全書 第24巻』収載)
265ページ
(参考)
武覚超
『比叡山諸堂史の研究』
46ページ
表
東塔無動寺谷
※閼伽井(天龍水、又ハ龍尾水)
良真と、天台座主慶命と、無動寺谷の修験道と、白山信仰
前大僧正道玄
わきて猶たのむ心もふかき哉あとたれそめし雪の白山
―― 『新千載和歌集』巻第十 神祇歌[歌番号1006] [58]
天台座主
慶命
弟子
良真
白山信仰
慶命は賀秀・遍斅・慶圓らに師事した人物で、長保五年(一〇〇三)に尊叡の譲りによって律師の位に就いており、同年多武峰座主に就任している。ここからは、隠棲する尊叡から律師の位と同時に、多武峰座主職も譲られたものと思われる。その後も順調に位を高めていった慶命は、寛仁三年(一〇一九)に無動寺座主、長元元年(一〇二八)には天台座主となっている。
(大平敏之「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」) [59] [12]
ちなみに、遍斅は、相応和尚の直弟子のなかでも代表的な人です。
白山宮は白山比咩神社、客人権現とも呼ばれ、宇佐宮からさらに東へ下がったところに鎮座している。加賀の白山比咩神を祭り、勧進は慶命が座主を努めた十一世紀前半であろうと推測されている。本地は十一面観音だ。これは、修験道を通してのつながりのあった北陸の白山教団と天台教団との深いかかわりを示唆するものだと考えられる。
〔中略〕
日吉大社の摂社で、天安二年(八五八)相応和尚が勧進した、という説と、長暦三年(一〇三九)に勧進された説とがある。
(「白山宮」, 「日吉大社」, 『比叡山歴史の散歩道:延暦寺から、日吉大社を歩く』) [60] [9]
水分神社 滋賀郡志賀町栗原
祭神は玉依姫命。近世には龍王明神社・八大龍王と呼ばれていた。〔中略〕『栗原村万覚帳』では、八大龍王明神は十一面観音、白山権現(峯権現)は十一面観音となっている。〔中略〕峯権現は本殿左方の小祠に祀られ、現在は峯大神社と称している。これは比良山系南部の権現山(九九六メートル)の頂上に祀られる小祠(峯権現)の里宮であり、山頂の小祠を村人は「権現さん」と称している。
〔中略〕
権現山から琵琶湖側に開けた荘園を和邇庄という。
〔中略〕
権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。
(小栗栖健治「水分神社」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) [24] [9]
藤原道長と、慶命と、無動寺谷の関係
藤原道長と、慶命と、無動寺谷の関係
ここでは道長と慶命、ひいては無動寺との関係に注目したい。
慶命は道長主催の法会に頻繁に参加しており、寛仁二年(一〇一八)の道長の出家にも立ち会っている。そしてこの両者の結びつきについて見るとき、欠かすことの出来ない事例として道長の息顕信の出家が挙げられる。
〔中略〕
道長第を訪れた慶命は顕信が突然出家し、無動寺に来たことを道長に伝えた。理由あってのことだろうと一応の理解を示しつつも、母や乳母の悲しむ姿を見るにつけ「心神不覚」となる道長。ここからは、顕信の出家がよほど突然であったろうことがうかがわれる。その顕信が入寺すべく向かった先が無動寺であった。これは慶命と道長の関係が発展し、無動寺と摂関家の関係へと拡大していたためであろう。その後、道長は出家した愛息のため無動寺に往坊を建てさせるなど、この寺院の発展に寄与した。
(大平敏之「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」) [61] [9]
慶命の父は大宰少貳を務めた藤原孝友である。考友についての詳しいことは未詳であるが、考友の兄には文人としても著名な藤原有国がいる。彼は道長の父である兼家に重用された人物で、それは惟仲とともに「左右のまなこ」と袮されるほどであった。しかし兼家の死後、その跡を継いだ道隆には疎まれ、除名・散位という憂き身に甘んじる時期が数年続いた。その後、長徳元年(九九五)に道隆、道兼が相次いでこの世を去り道長の時代となると、太宰大弐という重職に任命され、そこで多くの蓄財をなしたようである。長保三年(一〇〇一)に帰京した有国は参議に名を連ねるようになり、以後道長の忠実な家司としてその生涯を全うした。
道長の信任厚かった有国を叔父にもつ慶命が、この血縁関係を介して道長に重用されたとしても何ら不思議なことはなかろう。
〔中略〕
勧学会を創始した有国、それを再興した甥慶命。この二者は強い絆で結ばれていたのだろう。そして彼らをバックアップした道長。ここからは三者の密接な関係がうかがえる。
(大平敏之「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」) [62] [12]
香取本『大江山絵詞』に描写されている水神としての酒天童子(酒呑童子)
香取本『大江山絵詞』に描写されている水神としての酒天童子(酒呑童子)
酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇の羽目石に描かれた「波の文様」
香取本『大江山絵詞』の絵図のなかに描かれている、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の建物の下の基礎の部分は、壇上積基壇になっています。
この下の写真や絵画は、壇上積基壇の実例です。
香取本『大江山絵詞』の絵図のなかに描かれている、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇のところの、羽目石の部分には、「波の文様」が描かれています。
ちなみに、香取本『大江山絵詞』の絵巻物の原本の写真は、こちらのウェブページ [66]や、こちらのウェブページ [67]で、閲覧することができます。(どちらのウェブページでも、写真の画像を拡大して見ることができます。)それらの写真の画像を拡大していただくと、(小さくて見えにくいかもしれませんが、)酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の建物の下の基礎の、壇上積基壇のところの、羽目石の部分に、「波の文様」が描かれていることが確認できるかとおもいます。
香取本『大江山絵詞』の絵図のなかに描かれている、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇のすべてに、この「波の文様」が描かれています。
壇上積基壇の羽目石に描かれている「波の文様」の部分(拡大図)
香取本『大江山絵詞』の絵図のイメージ画像
(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」のイメージ画像)
(絵図全体のなかの一部分の抜粋) [63]
壇上積基壇の羽目石に描かれている「波の文様」の部分(拡大図)
香取本『大江山絵詞』の絵図のイメージ画像
(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」のイメージ画像)
(絵図全体のなかの一部分の抜粋) [63]
香取本『大江山絵詞』の絵図のなかに、複数回描かれている、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇のところの絵図のなかには、この「波の文様」の「波」の振幅がとてもこまかくて、遠目に見ると、ただのななめの直線に見える絵図もあります。
ですが、近づいてよく見ると、それらのななめの線が、じつは、こまかく振幅している波線になっている、ということがおわかりいただけるとおもいます。
このように、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)を描いた絵図の、すべての壇上積基壇の羽目石の部分に、「波の文様」が描かれていることがわかります。
香取本『大江山絵詞』のなかの、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)を描いた絵図のなかでも、鬼のすがたになった酒天童子(酒呑童子)が描かれている場面などのいくつかの場面では、建物の壇上積基壇の羽目石の部分に描かれている「波の文様」が、まるで荒海の白波のような、はっきりとした「波」として描かれています。
このように、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の建物のなかに、水を暗示する「波の文様」が描かれているのは、酒天童子(酒呑童子)が水神(龍神)であることを暗示しているのではないかとおもいます。
この上のところでお話したように、香取本『大江山絵詞』の絵図は、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇の羽目石の部分に、「波の文様」を描くことによって、酒天童子(酒呑童子)が水神であることを表現しているのだろうとおもいます。
余談ですが、神田明神の境内には、水神である弥都波能売命を祀っている魚河岸水神社という神社があります。
その魚河岸水神社のまわりの玉垣 は、「波の文様」をかたどったデザインになっています。これは、その神社の主である神が、水神であることを表現しているのだろうとおもいます。
このように、魚河岸水神社の玉垣 を、「波の文様」にすることで、祭神が水神であることを表現しているのとおなじように、香取本『大江山絵詞』の絵図では、酒天童子(酒呑童子)の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇に「波の文様」を描くことによって、その宮殿(鬼が城)の主である酒天童子(酒呑童子)が、水神であることを表現しているのだろうとおもいます。
酒天童子(酒呑童子)の首を運ぶ輿に載せられた、酒天童子(酒呑童子)の首が入っている容器の底で波打つ水
香取本『大江山絵詞』の絵巻物のなかの、下巻の一番最後の絵図 [69]のなかに、源頼光たちによって討ち取られた酒天童子(酒呑童子)の首が、輿に載せられて運ばれる場面が描かれています。
その場面の絵図に描かれている、輿に載せられている、酒天童子(酒呑童子)の首が入っている四角い容器(底の浅い大きな枡のようなかたちをした容器)のなか(底のところ)は、まるで水が波打っているように見えます。
ちなみに、『酒天童子絵巻の謎』という本の表表紙には、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかの、酒天童子の首が輿で運ばれていく場面の絵図が掲載されています。Amazon.com, Inc. (アマゾン)のウェブサイトのなかの、『酒天童子絵巻の謎』の本の販売ページの上のところに掲載されている、この本の表表紙の画像を押すか、この本の表表紙の画像の下にある「この画像を表示」と書かれているリンクを押すと、この本の表表紙の画像の拡大画像を見ることができます。その拡大画像の画面では、本の表表紙の画像をさらに拡大することもできます。
そうやって、この本の表表紙の画像を拡大して見ていただくと、輿に載せられている、酒天童子(酒呑童子)の首が入っている四角い容器(底の浅い大きな枡のようなかたちをした容器)のなか(底のところ)が、まるで水が波打っているように描かれていることが確認できるかとおもいます。
この水は、酒天童子(酒呑童子)の首の切断面から出た水なのかもしれません。もしそうだとすると、酒天童子(酒呑童子)の首の切断面から出てくる液体は、赤い血液ではなく、青い水であるということになります。
このこともまた、酒天童子(酒呑童子)が水神(龍神)であることを暗示しているのかもしれません。
水天(=ヴァルナ=龍神・水神)
水天
ヴァルナ
山神
水神
比叡山延暦寺の3D地図
古くからの登拝路は廃れ、表参道であった本坂でさえ今は草に埋もれている。いわんや谷に沿い、嶺をつたってひらかれた山間の諸道は、いずれも深い歴史を秘めていながら寺院関係者や、ここを生業の場所とする杣人に伝えられるばかりとなっている。
北村は故郷の山の変貌に気がついていた。「早よう聞いとかんと判らんようになる」といって坂本の人々に尋ねて歩いた。それは山林管理に長年従事してきた古老のような、山を熟知した人が少なくなったという危機感からであった。彼は伝承の収集と共に、限られた休暇をつかって山中を歩き、古道の踏査に精を出した。道標や石碑は克明に採寸し、文字を写し取っていった。こうした地味な作業を続ける内に、それらが比叡の歴史につながっているのを感じ始めていた。
―― 近江百山之会 「比叡山資料」の章の巻頭言, 『祷の嶺 : 北村賢二遺稿集』 [81]
3D地図の操作方法
回転:マウスの左クリックを押しながらマウスを動かす。
視点移動:マウスのホイールを押したまマウスを動かす。
拡大縮小:マウスのホイールを回転させる。
3D地図の制作者:倉田幸暢
地図データの出典:国土地理院「地理院地図」( https://maps.gsi.go.jp/ )(地理院タイル (全国最新写真(シームレス))を加工・編集して使用しています。地理院タイル一覧ページ:https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html。)
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
- この写真は、2019年5月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2020年1月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- 参考文献: 「長き夜の更ゆく月をながめても近づく闇を知る人ぞなき」; 慈円(慈鎮和尚)(原著), 石川一(著者), 山本一(著者), 久保田淳(監修), (2011年) [歌番号5681], 「第五」, 『拾玉集 下 (和歌文学大系 ; 59)』, 明治書院, 243ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「長き夜のふけゆく月をながめても近づく闇を知る人ぞなき」; [歌番号1529], 藤原良経(原著), 『秋篠月清集』, 谷知子(著者), 平野多恵(著者), 久保田淳(監修), (2013年), 『和歌文学大系 60 (秋篠月清集・明恵上人歌集)』, 明治書院, 249ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「座主無動寺に侍りける頃十首むかし歌つかはしける返事の中に ながき夜の更ゆく月をなかめても近つく闇をしる人ぞなき(後京極殿御自歌合)」; 硲慈弘 (1928年) 「無動寺」, 「山の部」, 「二、叡山和歌集」, 「附録」, 『伝説の比叡山』, 近江屋書店, 111ページ. [Back ↩]
- 出典:硲慈弘 (1972年) 「(5) 結語」, 「二、中世比叡山に於ける記家と一実神道の発展」, 「六、慧檀両流に於ける実際信仰」, 『日本仏教の開展とその基調 下 (中古日本天台の研究)』, 5版, 三省堂, 265ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 注記:引用者が、引用文中の旧字体の文字を新字体の文字に変更しました。 [Back ↩][Back ↩]
- 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 7~8ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:末木文美士 (1993年) 「総説」, 「解題」, 神道大系編纂会 (編集), 『神道大系 論説編 4 天台神道(下)』, 神道大系編纂会, 9ページ. [Back ↩]
- 出典:牧野和夫 (1988年) 「「幽王始めて是を開く」ということ:天台三大部注釈書と「源平盛衰記」の一話をめぐる覚書」, 『実践国文学』, 実践国文学会, 60ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2019年4月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』下巻 第四段 詞書(絵巻の原本の現状). [Back ↩]
- 画像の出典:「早尾社(早尾神社)と、早尾神門(鳥居)」, 「三二 日吉山王秘密社參次第繪圖 一卷 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:64~65 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- この写真は、2018年8月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- この写真は、2018年1月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』詞書巻 第一段(絵巻の原本の現状). [Back ↩][Back ↩]
- 出典:高橋昌明 (2005年) 「三、四天王寺・住吉・八幡」, 「第六章 酒呑童子説話の成立」, 『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 224~225ページ. [Back ↩]
- 参考文献:阿部泰郎 (2018年) 「四 二十五三昧と和歌」, 「第八章 中世的知の統合:慈円作『六道釈』をめぐりて」, 「第Ⅱ部 知の世界像」, 『中世日本の世界像』, 名古屋大学出版会, 330ページ. [Back ↩]
- 地図の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」を、加工・編集して使用しています。地理院タイルは、「国土地理院コンテンツ利用規約」にもとづいて使用しています。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」は、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」のズームレベル9~13で表示される画像(地理院タイル)です。地理院タイル「全国ランドサットモザイク画像」のデータソース: Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)。くわしくは、国土地理院のウェブサイトのなかの、「地理院タイル一覧」のページ(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)のなかの、「2.基本測量成果以外で出典の記載のみで利用可能なもの」のなかの、「ベースマップ」のなかの、「写真」(衛星写真の画像)のところをご参照ください。 [Back ↩]
- 出典:秀平文忠 (2005年) 「文献史料から見る己高山」, 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 52ページ. [Back ↩]
- 出典:秀平文忠 (2005年) 「第3章 山林修行と観音の山:己高山」, 市立長浜城歴史博物館 (企画・編集), 『近江湖北の山岳信仰』, 市立長浜城歴史博物館, 58~59ページ. [Back ↩]
- 出典:小栗栖健治 (1986年) 「水分神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集) 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』, 白水社, 341~342ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:「第六図 智証大師坐像 木彫 作者不詳」, 東京帝室博物館(編集), (1913年), 『帝国美術史料 第5-10輯』, 尚美館. [Back ↩]
- 画像の出典:「第六図 智証大師坐像 木彫 作者不詳」, 『帝国美術史料. 第8輯』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:14~15 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 書誌情報:円珍 (原著者), 古典保存会, (1934年), 『行歴抄』, 古典保存会. [Back ↩]
- 画像の出典:「円珍の行歴抄には、大中八年二月九日、天台山国清寺の東北の霊芝峯の巌峻難行なることを「宛如延暦葛阪」と記している」ということに該当する記述があるページ, 『行歴抄』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:三崎良周 (2006年) 「回峯行の根幹」, 「比叡山の回峯行とその理論的根拠」, 宮坂宥勝 (編集), 『不動信仰事典』, 神仏信仰事典シリーズ; 9, 戎光祥出版, 289ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色や青色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩]
- 参考:円珍が書いた『行歴抄』, 国立国会図書館デジタルコレクション. [Back ↩]
- 書誌情報:「智証大師像(国宝)」, (1910年), 『滋賀県写真帖 4冊』, 滋賀県. [Back ↩]
- 画像の出典:「智証大師像(国宝)」, 『滋賀県写真帖. 4冊』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:75~76 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 書誌情報:「黄不動明王画像(絹本着色)」, 田島志一(編集), (1908年), 『真美大観 第19巻』, 日本真美協会. [Back ↩]
- 画像の出典:「黄不動明王画像(絹本着色)」, 『真美大観. 第19巻』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 書誌情報:「不動明王画像(絹本着色)」, 田島志一(編集), (1902年), 『真美大観 第8巻』, 日本真美協会. [Back ↩]
- 画像の出典:「不動明王画像(絹本着色)」, 『真美大観. 第8巻』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:15 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:天野文雄 (1979年) 「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, 22ページ 1段目. [Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2018年11月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:「地形」, 「一 比叡山の自然」, 「前編」, 延暦寺執行局 (編集), (改訂版の改訂者・加筆者: 景山春樹), (初版本の編纂者: 小牧実繁, 景山春樹, 近藤豊, 村山修一, 毛利久, 小林博), (1974年), 『比叡山』(改訂版)(再版 第八回), 比叡山延暦寺, 11~12ページ. [Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 314ページ. [Back ↩]
- 参考文献:牧野和夫 (1990年) 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚:中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), ぎょうせい, 92~94ページ. [Back ↩]
- 参考文献:「太子卅二歳御時」,「醍醐寺本 長禄四(一四六〇)年写」, 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫(編集), 『中世聖徳太子伝集成 第2巻』, 斯道文庫古典叢刊, 勉誠出版, 451~453ページ. [Back ↩]
- 注記:『中世聖徳太子伝集成 第2巻』の本のなかの、「醍醐寺本 長禄四(一四六〇)年写」のなかの、451~453ページのところの、「太子卅二歳御時」(三十二才の条)の文章の末尾には、「松子伝」と書かれています。ご参考までに。 [Back ↩]
- 出典:岩崎武夫 (1978年) 「権現堂と土車」, 「Ⅰ」, 『さんせう太夫考 続:説経浄瑠璃の世界』, 平凡社選書, 平凡社, 114ページ. [Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学, 46ページ, 52ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色い背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩]
- この写真は、現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典: 田中日佐夫 (1973年) 「水・火のまつり」, 「一 はつくにしらす王の国、近江 : 三上山と日子坐王の伝説」, 『近江古寺風土記』, 学生社, 38ページ. [Back ↩]
- 出典: 水田有夏志 (2010年) 「近江の滝の特徴」, 「近江の滝序説」, 『近江の滝 (別冊淡海文庫 ; 18)』, サンライズ出版, 30~31ページ. [Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 313~314ページ. [Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 309~310ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會, 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている複数の絵図のうちの第3絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:水天の絵図(第3絵図), 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 出典:スティーブン・トレンソン (2016年) 「(1) 醍醐寺における祈雨の登場」, 「二 醍醐寺における祈雨」, 「第五章 請雨経法の途絶と醍醐寺における祈雨」, 「第一部 請雨経法の歴史」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』, プリミエ・コレクション 72, 京都大学学術出版会, 181~182ページ.[Back ↩]
- 出典:スティーブン・トレンソン (2016年) 「四 水天供の確立と隆盛」, 「第六章 鎌倉時代における請雨経法の復興と終焉」, 「第一部 請雨経法の歴史」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』, プリミエ・コレクション 72, 京都大学学術出版会, 213~218ページ.[Back ↩]
- 画像の出典:「日吉白山宮神輿額(國寳) 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:83 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典: [歌番号1006], 「新千載和歌集 巻第十 神祇歌」, 滝沢貞夫(編集), (1993年), 『新千載集総索引』, 明治書院, 77ページ. [Back ↩]
- 出典:大平敏之 (2009年) 「二、多武峰の無動寺別院化」, 「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」, 大谷大学文芸学会(編集), 『文芸論叢』, 72, 大谷大学文芸学会, 32ページ. [Back ↩]
- 出典:「四 白山宮」, 「日吉大社」, 講談社 (編集), (1995年), 『比叡山歴史の散歩道:延暦寺から、日吉大社を歩く』, 講談社カルチャーブックス; 101, 講談社, 83ページ. [Back ↩]
- 出典:大平敏之 (2009年) 「三、慶命と藤原道長」, 「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」, 大谷大学文芸学会(編集), 『文芸論叢』, 72, 大谷大学文芸学会, 33ページ. [Back ↩]
- 出典:大平敏之 (2009年) 「三、慶命と藤原道長」, 「藤原道長と多武峰:無動寺別院化とその背景」, 大谷大学文芸学会(編集), 『文芸論叢』, 72, 大谷大学文芸学会, 34ページ. [Back ↩]
- この絵図のイメージ画像は、香取本『大江山絵詞』の絵図(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」)をもとにして、筆者(倉田幸暢)が制作したものです。[Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2019年6月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典: 『石山寺縁起絵巻』, 『日本絵巻全集. 第7輯』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 149 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- ウェブページの情報:「写真(7)「《大江山絵詞 下巻》」」, 展覧会名: 「大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで」(開催期間: 2016年7月5日(火)~8月28日(日)), 会場: 江戸東京博物館, ウェブサイト名: 「インターネットミュージアム」, 2019年11月4日確認. [Back ↩]
- ウェブページの情報:「写真(6)「重要文化財《大江山絵詞 下巻》」」, 展覧会名: 「大妖怪展 ─ 鬼と妖怪そしてゲゲゲ」(開催期間: 2013年7月6日(土)~9月1日(日)), 会場: 三井記念美術館, ウェブサイト名: 「インターネットミュージアム」, 2019年11月4日確認. [Back ↩]
- この写真は、2019年3月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- この「下巻の一番最後の絵図」というのは、あくまでも、絵巻の原本の現状においての、「下巻の一番最後の絵図」という意味です。というのも、香取本『大江山絵詞』の絵巻物の原本の現状は、詞書や絵図の一部が欠損していたり、並び順がまちがっている部分があるとされているのです。 [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第3絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第3絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第1絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第1絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている複数の絵図のうちの第2絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第2絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第3絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第4絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第4絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第5絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第5絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 近江百山之会 (1988年) 「比叡山資料」の章の巻頭言, 北村賢二 [著者], 近江百山之会 [編集], 『祷の嶺 : 北村賢二遺稿集』, サンブライト出版, 74ページ.[Back ↩]