『長谷寺縁起絵巻』(徳川美術館所蔵)第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した楠の霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の老翁)や、長谷寺守護童子(持蓋童子)、
異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神(この絵では見切れていて見えません))
まことに、この巨大な「仏木」は神であった。上記の古い伝承によれば、たんに「辛酉歳」とする太古に流れ出たる大木が「里」に流れついて災厄をなす。『年表』等に「霹靂木」というのは、神の降臨した木であることを示す語としてよいだろう。それが人間の世界に出現した時に疫病などの災いをのみもたらすのは奇異なことのようであるが、そうした荒ぶるしわざこそ、新たに出現した威力ある神の特徴ともいうべきものであった。
―― 阿部泰郎「三尾明神: 長谷寺縁起」, 「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [1]
『渓嵐拾葉集』第百七「根本中堂不思議事」によれば、最澄自刻の伝承を持つ比叡山の根本中堂の薬師如来像の御衣木も、「晝ハ紫雲を覆、夜ハ光明ヲ放」つ霊木と語られる。
これらの縁起における御衣木の、一夜成長の巨木という伝説や、放光する木という伝承は、当初の民間伝承から見れば、必ずしも素晴らしく尊い物としての記述とはいえない。『長谷寺縁起』系統の御衣木と同様に、これらの形容は、霊木といっても負の性格を持つもの、怪奇現象や祟りにより恐れられる疫木を意味したのではないか。
―― 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」 [2]
古はよな、平野山を重代の私領として罷り過ぎしを、伝教大師といひし不思議の房が此の山を点じ取りて、峰には根本中堂を建て、麓には七社の霊神を崇め奉らんとせられしを、年来の住所なれば、且は名残も惜しく覚え、且は栖もなかりし事の口惜しさに、楠木に変じて度々障碍をなし、妨げ侍りしかば、大師房、此の木を切り、地を平げて、「明けなば」と侍りし程に、其の夜の中に又、先のよりも大なる楠木に変じて侍りし
―― 自らの領地への侵入者(伝教大師最澄)を防ぐために楠木の巨木に変化した酒天童子
(香取本『大江山絵詞』より) [3]
天使来りて追ひ出せしかば、力無くして又、此の山を迷ひ出でて、立ち宿るべき栖もなかりし事の口惜しさに、風に託し雲に乗りて、暫くは浮かれ侍りし程に、時々其の怨念の催す時は、悪心出で来て、大風と成り旱魃と成りて、国土に仇を成して心を慰み侍りき。
―― 近江国から追い出されて「流出」した酒天童子が行く先々で引き起こした「祟り」
(香取本『大江山絵詞』より) [3]
『長谷寺縁起絵巻』の概要
ここでは、『長谷寺縁起絵巻』の概要について、お話したいとおもいます。
この下の引用文は、『古美術』15号に掲載されている、宮次男さんの「名品鑑賞 長谷寺縁起」という論文の文章です。この引用文では、『長谷寺縁起絵巻』の概要について説明されています。
大和長谷寺といえば、牡丹と桜の名所として名高いが、西国三十三番参りの一つとして、
いくたびも参る心は初瀬寺
山も誓も深き谷川と巡礼御詠歌に詠われた十一面観音を本尊とした由緒の深い札所であり、古くから人々の信仰をあつめた寺である。
長谷寺縁起絵巻三巻は、この十一面観音の造立にまつわる諸々の奇譚、霊験譚を集成したものだが、その内容は、 寛平八年(九九六)に菅原道真が勅命によって作成したと偽托されている漢文の長谷寺縁起文を和文化したものである。
上巻は道真が長谷寺に入って縁起文を筆する段を巻頭において、この縁起絵が由緒正しいことを示し、次いで、古くからあった本長谷寺の縁起を第二段に描くが、第三段以下は、本尊造像に尽力した徳道上人の誕生から出家、修行、寺院建立の決意、仏像造立の祈願を第七段までに描き、第八段は徳道が師の道明に教えられた霊木について、古老にその由来をたずねるところ。第九段以下第十二段は古老の語る霊木出現の経緯や、この木が人々にたたりをする説話を四話載せ、第十三段で徳道が里人からこの霊木をもらいうけた事をのべる。
中巻は〔中略〕仏師が六臂の菩薩像になったり(第六段)、台座となる金剛宝磐石が鬼神によって掘り出されたり(第八殿)する奇譚が描かれている。〔中略〕
下巻は、〔中略〕
以上が長谷寺縁起絵巻の概要であるが、これを大別すると、徳道上人の事蹟、十一面観音像の材料となった霊木にまつわる説話、十一面観音像の造立、行基による霊場巡歴 (長谷山内の紹介)、長谷寺造営と寺の景観がその主要主題になっている。その中でも注目されるのは、霊木にまつわる霊験説話と行基の巡歴した霊地で、いずれも観者の興味をそそるものである。〔中略〕
ここにみられるような作風の絵巻は南北朝から室町にかけてあらわれるが、特に林家旧蔵現幸節家蔵の長谷寺縁起が最も近い。また、応永二十六年(一四一九)の杉谷神社本北野天神縁起にも、共通のスタイルが部分的ではあるが認められる。本絵巻も、十五世紀前半、室町初期を降らぬ製作と推定して、大過ないであろう。なお長谷寺縁起には、この外、徳川美術館、奈良長谷寺、堺長谷寺、鎌倉長谷寺、シャトル美術館などかなり残っている。この盛況は長谷観音の信仰と縁起絵巻の面白さに由来するものと言えよう。
(宮次男「名品鑑賞 長谷寺縁起」, 『古美術』15号) [4] [5]
この下の引用文は、『美術研究』275号に掲載されている、宮次男さんの「研究資料 長谷寺縁起 上」という論文の文章です。この引用文では、『長谷寺縁起絵巻』に関する諸本や、その概要について説明されています。
長谷寺の本尊十一面観音に対する貴賤の信仰は古来篤く、多くの霊験説話が伝えられているが、その草創の縁起を描いた「長谷寺縁起」も中世以降、広く流布し、遺品としては鎌倉末期ないし室町時代の製作になるものが数種伝存している。過眼の作品をあげると、
1 旧林家 現 幸節静彦氏蔵三巻
2 奈良 長谷寺蔵三巻本(甲本―奈良国立博物館寄託中、乙本、丙本、丁本)
3 同 六巻本
4 鎌倉 長谷寺蔵本二巻(巻三欠)
5 東京 徳川黎明会蔵本(残欠一巻)
6 米国 シャトル美術館蔵三巻
7 米国 ジョン・パワーズ氏蔵三巻(散逸部がかなりある)
8 群馬 白岩長谷寺蔵本一巻(巻下)
がある。しかし、長谷寺縁起絵巻についての研究文献は意外に少く、またその全貌を紹介した論著もないので、ここに研究資料として提示するものである。なお、底本としては、幸節本を用い、長谷寺蔵三巻本(甲本)を参照校合した。
この縁起絵巻は、異本、別本の類は、特定の「長谷寺」の縁起、例えば「泉州堺長谷寺縁起」二巻の如きものを除いてはなく、いずれも同一原本から転写流布したものと考えてよい。その構成は、上・中・下の三巻本で、計三十三段よりなっており、石山寺縁起、清水寺縁起の例でも知られる通り、観音の三十三応身に因む段数である。
元来、この種の縁起絵巻は、本尊造像に関する草創説話と本尊の利生説話からなる場合が多い。しかし、長谷寺縁起の場合は利生説話がなく、そのかわり長谷寺の山内が聖域として尊崇すべき聖地であることを強調しているところに特色があり、さらに、天皇家と藤原氏との連帯が強固で両家が国の基になることをのべており、藤原氏の作為が強く感じられるのである。この特色は、寛平八年(八九六)二月十日の菅原道真勘出「長谷寺縁起文」に見られるところで、絵詞自体が「縁起文」に依って製作されたことは、両者を比較すると明らかである。〔中略〕
長谷寺の縁起を記載した文献としては、絵巻のほかに、かなりの数があるが古代・中世の主なものをあげると、左のようになる。
1 「法華説相図銅板銘」
2 『七大寺年表』養老五年所引
3 菅原道真 寛平八年勘出『長谷寺縁起文』
4 源為憲 永観二年述『三宝絵』「五月 長谷寺菩薩戒」所引
5 『扶桑略記』第六 神亀四年三月三十日条所収「縁起文」「為憲記」
6 『東大寺要録』第六「末寺章」第九所引
7『今昔物語』巻十一「徳道聖人始建長谷寺語第三十一」
8 十巻本『伊呂波字類抄』所引
9『建久御巡礼記』所引
10 『古事談』第五「神社仏寺」(長谷寺観音事)所収「縁起」「為憲記」
11 『長谷寺霊験記』序
12 護国寺本『諧寺縁起集』所収「長谷寺縁起」所引「菩薩前障子文」「神亀六年太政官符」「天平五年徳道上表文」
13 菅家本『諸寺建立次第』所引
14 『阿裟縛抄』所収「諸寺略記」所引
15 『帝王編年記』巻十一 神亀四年三月廿日条所引
16 『元亨釈書』第二十八所引
17 『三国伝記』巻第二「第十五大和国長谷寺事」
18 菅家本『諧寺縁起集』所引〔中略〕
本絵巻の典拠となった菅原道真勘出『長谷寺縁起文』については、早くから疑問視され、後世道真に偽托したものであるとする伴信友「長谷寺縁起剥偽」の考証は尊重すべきである。それで、これが何時、誰人によって作られたかという点については検討を要する。
永観二年(九八四)源為憲『三宝絵』には古記録として「徳道々明等が天平五年にしるせる観音の縁起幷雑記等」をあげていて、『縁起文』については何ら記すところなく、また霊木流伝説話も、後述のようにかなり相違するから、両者の直接的な関係は認めがたいと考えられる。
(宮次男「研究資料 長谷寺縁起 上」, 『美術研究』275号) [6] [5]
『長谷寺縁起絵巻』に登場する、三尾明神と、祟りをなす霊木(御衣木)の楠と、香取本『大江山絵詞』に登場する、平野山(比良山地)の地主神(比良明神)としての酒天童子と、酒天童子が変化した姿である祟りをなす楠の巨木との、類似性について
『長谷寺縁起絵巻』(徳川美術館所蔵)第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した楠の霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の老翁)や、長谷寺守護童子(持蓋童子)、
異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神(この絵では見切れていて見えません))
まことに、この巨大な「仏木」は神であった。上記の古い伝承によれば、たんに「辛酉歳」とする太古に流れ出たる大木が「里」に流れついて災厄をなす。『年表』等に「霹靂木」というのは、神の降臨した木であることを示す語としてよいだろう。それが人間の世界に出現した時に疫病などの災いをのみもたらすのは奇異なことのようであるが、そうした荒ぶるしわざこそ、新たに出現した威力ある神の特徴ともいうべきものであった。
―― 阿部泰郎「三尾明神: 長谷寺縁起」, 「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [1]
『渓嵐拾葉集』第百七「根本中堂不思議事」によれば、最澄自刻の伝承を持つ比叡山の根本中堂の薬師如来像の御衣木も、「晝ハ紫雲を覆、夜ハ光明ヲ放」つ霊木と語られる。
これらの縁起における御衣木の、一夜成長の巨木という伝説や、放光する木という伝承は、当初の民間伝承から見れば、必ずしも素晴らしく尊い物としての記述とはいえない。『長谷寺縁起』系統の御衣木と同様に、これらの形容は、霊木といっても負の性格を持つもの、怪奇現象や祟りにより恐れられる疫木を意味したのではないか。
―― 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」 [2]
古はよな、平野山を重代の私領として罷り過ぎしを、伝教大師といひし不思議の房が此の山を点じ取りて、峰には根本中堂を建て、麓には七社の霊神を崇め奉らんとせられしを、年来の住所なれば、且は名残も惜しく覚え、且は栖もなかりし事の口惜しさに、楠木に変じて度々障碍をなし、妨げ侍りしかば、大師房、此の木を切り、地を平げて、「明けなば」と侍りし程に、其の夜の中に又、先のよりも大なる楠木に変じて侍りし
―― 自らの領地への侵入者(伝教大師最澄)を防ぐために楠木の巨木に変化した酒天童子
(香取本『大江山絵詞』より) [3]
天使来りて追ひ出せしかば、力無くして又、此の山を迷ひ出でて、立ち宿るべき栖もなかりし事の口惜しさに、風に託し雲に乗りて、暫くは浮かれ侍りし程に、時々其の怨念の催す時は、悪心出で来て、大風と成り旱魃と成りて、国土に仇を成して心を慰み侍りき。
―― 近江国から追い出されて「流出」した酒天童子が行く先々で引き起こした「祟り」
(香取本『大江山絵詞』より) [3]
雪かゝる槇も檜原も高島のみをの杣山幾代へぬらん
―― 『新続古今和歌集』 [7]
現存最古の酒天童子(酒呑童子)の伝説(説話)が描かれている、香取本『大江山絵詞』(かとりぼん・おおえやまえことば)という絵巻物があります。
ぼくはいま、その絵巻物に描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説について研究しています。
香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠)と、『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている、祟りをなす霊木(御衣木)の楠には、たくさんの共通点があります。
そうした、たくさんの共通点があることから、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
ここでは、そのことについてお話したいとおもいます。
この下の引用文は、宮次男さんの「研究資料 長谷寺縁起 上」という論文のなかに記されている『長谷寺縁起絵巻』についての文章です。
次に長谷寺縁起絵巻三巻の内容についてのべるが、各巻の段は通し番号で示すことにする。また詞書の詳細は別掲の公刊を参照されたい。
巻上
〔中略〕
7 徳道は無上菩提の心おさえがたく、師の道明に仏像を造るために御衣木を求めようと思うと語った。道明は善き哉、近くの神河の岸に霊木があり、もっとも吉である。それについて昨夜一つの夢をみた。数人の異形の者が彼の木を中にして坐ってならび、その中の一人の童子が天蓋を木の上にかかげていて、また木の下には白衣の翁がいる。自分が翁に誰人かとたずねると、翁は、「我は三尾大明神である。この木を護るために本国から片時もはなれず、諸々の眷属をつれて来たのである。又天蓋をもつ童子は当山守護の童子で、この霊木は彼の請いによってこの山に来たものである。」と答えた。そして夜をあかすと汝が請問したと語った。
絵は、道明の住坊をたずねて語る徳道。
8 徳道は長谷の郷の古老に木の由来をたずねると、古老は、此の木がここに来て以来、里の人々は、たたりをなすという木なので不安に思い、力をあわせて遠くの地に送ろうと思っていると語った。これ以後が霊木説話に導入される。
絵は、山中で古老に木の由来をたずねる徳道。
「徳道上表文」、『諸寺略記』は古老の伝えとして導入する形式をとる。
9 古老の言。近江国三尾前山の白蓮花谷に大きな臥木があり、長さ十余丈の楠で、此木は常に光を放ち、異香がのぼり、又諸天人が飛来して白蓮花をこの木に散らすと、この木から白蓮華が生じて、多年がすぎた。それゆえに、ここを白蓮華谷というのである。
絵は、臥木の上から天人が散花し、木から白蓮華が生じているところ。
白蓮華谷についてのべるのは菅家本『諸寺縁起集』のみである。
10 又云、継体天皇十一年、雷電風雨がおこり洪水となって此木が彼の谷から流出した。
絵は、風神・雷神が大風、洪水をおこし、異行の者や持蓋童子、白衣の翁が霊木を護る光景。
11 又云、志賀郡大津の里にこの木は七十年とどまった。里の人が霊木であることを知らず、木を切りとると、里の家々は火災を生じ疫病が流行して不吉なことがおこった。そのわけを占うと、この木のたたりであるというので、以後は木を切る者はいなくなった。
絵は、岸辺にある木をなたで切る里人とそれをみまもる翁、童子、異形の者たち。それにつづいて家々の火災、病気の者たちを描く。
この木の流出とそのたたりの説話は、『三宝絵』では、洪水のあったのは「昔辛酉歳」で、『縁起文』の継体天皇即位十一年丁酉歳および「徳道上表文」の「塲丁酉年」というのと干支があわない。なお『建久御巡礼記』、『諸寺略記』は「丁酉」の年をとり、大津の里で木のたたりがあったとのべる。『三宝絵』は高島郡のみをか崎という所で災害があったとする。『七大寺年表』、『今昔物語』は高島郡というだけであるが、いずれにしても干支と場所が齟齬していることは明らかである。
12 又云、大和国高市郡八木の里に住む小井門子という女性が、父母と夫のために仏像を造ろうとして、用明天皇元年に八木の辻に霊木を曵き置いたが、そのたたりによって彼女は死亡した。その後三十余年霊木はそこに在ったが郡郷の家々に不吉なことがたえなかった。そこで葛下郡の人、出雲臣大水沙弥法蛄という僧が十一面観音像を作ろうとして、推古天皇七年に葛下郡当麻郷にこの木を曳き置いたが、願をはたさず法勢も死亡した。その後この里に五十余年長かれたが、あちこちで不吉なことがつづいた。
絵は、近江より大和へ霊木が曵かれて行く所と、門子が死去するところの二場面である。
(宮次男「研究資料 長谷寺縁起 上」, 『美術研究』) [8]
この下の箇条書きのなかのそれぞれの項目は、この上の、「研究資料 長谷寺縁起 上」という論文のなかに記されている『長谷寺縁起絵巻』についての引用文のなかに登場する、霊木(御衣木)についての説話にまつわる、登場人物や、地名や、霊木の性質や、文献名などを、列挙したものです。
- 登場人物・人名
- 白衣の翁(三尾明神(三尾大明神))
- 持蓋童子(天蓋(宝蓋)(仏蓋)を持つ童子)
- 異形の者
- 徳道(仏教僧)
- 道明(仏教僧)(徳道の師)
- 長谷の郷の古老(「長谷の郷」: 現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 継体天皇
- 風神・雷神
- 小井門子(女性)
- 葛下郡の人、出雲臣大水沙弥法蛄という僧(仏教僧)
- 法勢(仏教僧)
- 地名
- 大和国の長谷寺(泊瀬寺)(現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 近江国の三尾前山の白蓮華谷(現在の滋賀県高島市音羽のあたり)
- 近江国の高島郡のみをか崎(三尾崎)(現在の滋賀県高島市音羽のあたり)
- 大和国の神河(現在の初瀬川(大和川の上流)(現在の奈良県桜井市大字初瀬))
- 大和国の長谷の郷(現在の奈良県桜井市大字初瀬)
- 近江国の滋賀郡(志賀郡)の大津の里(現在の滋賀県大津市)
- 大和国の高市郡の八木の里(現在の奈良県橿原市八木町)
- 大和国の葛下郡の当麻郷(現在の奈良県葛城市當麻)
- 霊木(御衣木)の性質
- 祟りをなす
- 樹木の高さ: 長さ十余丈(十数丈(約三十数メートル))
- 樹木の種類: 楠
- 常に光を放つ
- 異香を発する
- 天人が飛来する
- 白蓮華(白蓮花)が生えている
- 多年を経ている
- 強風をともなう雷雨が引き起こした洪水によって、谷から流出した
- 流れ着いた先々の土地で、火災や、疫病の流行や、災害など、何度も不吉なことを引き起こす
- 文献名
- 「徳道上表文」
- 『諸寺略記』
- 菅家本『諸寺縁起集』
- 『三宝絵』
- 『縁起文』(菅原道真勘出『長谷寺縁起文』)
- 『建久御巡礼記』
- 『諸寺略記』
- 『七大寺年表』
- 『今昔物語』
鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子説話をつたえる、香取本『大江山絵詞』という絵巻物があります。
この下の文章は、その香取本『大江山絵詞』の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書に記されている文章です。その文章で描かれている場面は、香取本『大江山絵詞』の絵巻で描かれている説話のなかの、酒天童子(酒呑童子)が自らの来歴を語る場面です。
この場面で語られている酒天童子(酒呑童子)の性質は、『長谷寺縁起絵巻』のなかで描かれている霊木(御衣木)の性質と似ているところがあります。具体的には、香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)も、『長谷寺縁起絵巻』の霊木(御衣木)も、どちらも、この下に箇条書きにしたような共通点があります。
こうした、たくさんの共通点があることから、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説を「元ネタ」のひとつとしてつくられた可能性があるのではないかとおもいます。(または、その逆の流れだったのかもしれません。)
- 樹木の種類: 楠(香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)は、楠に変身しました。)
- 樹木の高さ: 楠の樹高は、十丈(約30メートル)を超える。(なお、諸本のなかで、香取本『大江山絵詞』と同系統に属し、物語の内容もよく似ている、能楽の謡曲『大江山』では、酒天童子(酒呑童子)は、「三十余丈の楠」に変身したとされています。(三十余丈: 約90メートル))
- 酒天童子(酒呑童子)が、もともといた場所(住処)は、近江国(現在の滋賀県)の湖西地域(琵琶湖の西側の湖岸の地域)だった。
- 酒天童子(酒呑童子)は、(最澄と桓武天皇によって「平野山」と「近江国かが山」を追い出されたあとに、)もともといた場所から「流出」して、各地を転々と移動した。
- 行く先々で、祟りをなすかのように、強風・暴風などの災害のかたちで各地に被害をもたらした。
また、べつの文献に記されている伝承ではありますが、最澄は、最初に比叡山に入山したときに、そこにあった霊木を伐り倒して、それを、一乗止観院(のちの、根本中堂)の本尊である薬師如来像を造仏するための御衣木としてつかった、という伝承があります。
(ちなみに、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ給へ」という、最澄が詠んだとされている和歌は、最澄が、最初に比叡山に入山したときに、根本中堂(一乗止観院)の本尊にする薬師如来像を造仏するための御衣木としてつかうために、比叡山にあった霊木を伐り倒したときに詠んだ和歌だとされています。)
この伝承は、香取本『大江山絵詞』のなかの、酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかで語られている、「最澄が、比叡山に入山したときに、酒天童子が変化した楠を伐り倒した」という話と、なんらかの関連性をかんじさせる伝承だとおもいます。
童子、又我身の有様を心に懸けて語りけり。「我は是、酒を深く愛する者なり。然れば、眷属等には酒天童子と異名に呼び付けられ侍るなり。古はよな、平野山を重代の私領として罷り過ぎしを、伝教大師といひし不思議の房が此の山を点じ取りて、峰には根本中堂を建て、麓には七社の霊神を崇め奉らんとせられしを、年来の住所なれば、且は名残も惜しく覚え、且は栖もなかりし事の口惜しさに、楠木に変じて度々障碍をなし、妨げ侍りしかば、大師房、此の木を切り、地を平げて、「明けなば」と侍りし程に、其の夜の中に又、先のよりも大なる楠木に変じて侍りしを、伝教房、不思議かなと思ひて、結界封じ給ひし上、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ給へ」と申されしかば、心は猛く思へども力及ばず、現はれ出でて、「然らば、居所を与へ給へ」と愁ひ申せしに依て、近江国かが山、大師房が領なりしを得たりしかば、然らばとて彼の山に住み替えてありし程に、桓武天皇、又勅使を立て宣旨を読まれしかば、王土にありながら、勅命さすがに背き難かりし上、天使来りて追ひ出せしかば、力無くして又、此の山を迷ひ出でて、立ち宿るべき栖もなかりし事の口惜しさに、風に託し雲に乗りて、暫くは浮かれ侍りし程に、時々其の怨念の催す時は、悪心出で来て、大風と成り旱魃と成りて、国土に仇を成して心を慰み侍りき。
(香取本『大江山絵詞』の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書) [3] [9]
奈良県の豊山長谷寺に所蔵されている『長谷寺縁起絵巻』
大和国(現在の奈良県)の長谷寺(豊山長谷寺)(奈良県桜井市初瀬)
(参考)
奈良大和路の花の御寺 総本山 長谷寺
https://www.hasedera.or.jp/
奈良県の豊山長谷寺所蔵の『長谷寺縁起絵巻』の絵図
鎌倉の長谷寺に所蔵されている『長谷寺縁起絵巻』
鎌倉の長谷寺(海光山長谷寺)(神奈川県鎌倉市長谷)
(参考)
鎌倉 長谷寺
https://www.hasedera.jp/
鎌倉長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』の、上巻第1段~上巻第13段の詞書
鎌倉長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』の、上巻第1段~上巻第13段の詞書
長谷寺縁起絵巻 上巻
〔第一段〕
長谷寺縁起上
寛平八年二月十日、依勅菅丞相の勘出せしめ給ふ長谷寺の縁起にいはく、吾遣唐大使中納言従三位兼行左大弁春宮大夫式部の大輔侍従菅原朝臣某、かたしけなくも寺管にかして大安寺に附す。爰に則、勝絶たる霊場にむかひ、大明をなす。滋記をみるに、精気一たひ通して、霊夢を得たり。十一面の堂もしも二百余歩くたり、そはたちて岡あり。雲の梯と名つく。高き事幾許ならす。厥頂より雲□かまへる三の金梯有て、金峯山にわたる三たりの蔵王各山神等諸の眷属を率して梯を踏て影□す。忽に十一面堂に人て、おの〳〵五色の蓮華をもつて宝前に捧。則其故を求るに、蔵工権現答てのたまはく、此山は功徳成就の地、諸仏経行の砌、是兜率天宮観世音院也。菩薩声聞、此山に住して功徳をほしひまゝにし、諸天神祇この山に在て威験をふるふ。専四海の安寧を納め、鎮に一人の宝祥をまほる。我等彼冥権に融して、日々に来て衆生を利益すと云々。爰に弥信仰二心なし。仍行基菩薩の国符の記七巻并本縁起の文三巻、本願上人の上表の状一通を鏡とす。古の中に花金をあつめ、愧を去て、縁起文一首を勘出す。
〈絵〉
聖廟長谷寺に参して国府記等の縁記を見并霊夢を感する所
長谷寺より金峯山におよひて三の金橋あり
三体の蔵王影向の所要の懸梯なり
長谷寺今懸橋といふ
聖廟縁起を勘出して一文三尺の板に二枚書て御堂に打〔第二段〕
夫南閻浮提陽谷輪王所化卜磤馭廬嶋水穂国泊瀬神河浦に観音利生の道場あり。此砌に二の名あり。一には泊瀬寺。 又云本長谷寺。 名を得たる事ははつせの川上瀧蔵の社を脇として天人所造の毘沙門天王います。其御手の宝塔流てこの山のふもと神河の瀬に泊る。武内の宿袮卜筮して云、斯天の徳を授け、地の栄を表すと云々。則崇て北の峯に納か。仍旧号三神をあらためて、泊瀬豊山とす。其後三百余歳をへて道明上人□を石室にうつす。其より此山繁昌□て観音応現し給ふ。かかる故に里の□を取て寺号に呈す。是天武天皇更に道明上人に勅して西の峯に石室の仏像并に三重塔婆を建立す。〈絵〉
〔第三段〕
二には長谷寺。 又云後長谷寺。 大悲利生の谷の長きによりて此袮を得たり。これ北嶺に徳道上人聖武天皇の勅を承て、観音の霊場を建立す。其上人は播磨の国揖宝の郷の大。俗姓は辛、矢田部の造米丸也。是法起菩薩の応現第三仙人再□。母をは菽子と申き。夢に明星天子くたりて口中に入と見て物をのむかことくして、卜六ヶ月を経て斎明天皇即位二年丙辰の歳九月十八日の出日に天もはれ、風静にして慈母をなやます事もなく、懐の子をはなつかことくにしてうみ給ふ。〈絵〉
本願上人胎に入所
本願□□□の所〔第四段〕
徳道上人生年十一にして孝に別、十九歳にして妣をはなれたまふ。芸をまなむて跡をあらはす。則五常を存してよく四恩をおもふ。遂に彼二親の菩提廻向し、仏道を求めむかために遥に本郷を去て異域にうつる。因縁相感して此山に来れり。慈悲の師に遇て、俗性の号をあらためしむ。于時天武天皇即位四年二月五日生年廿にして出家受戒す。〈絵〉
上人出家の所
〔第五段〕
則習学いとまなく、勤行隙なし。終に仏心を得て修験ならひなく、精進多年なり。〈絵〉
〔第六段〕
上人累年の間、所の相を検知するに上求菩提の山高く、下化衆生の谷深し。四神相応の霊場、一天無双の勝地なり。定て知ぬ、此所は古仙修行の跡、衆妙吉祥の砌也。吾此山に精舎をひらきて、日域の生を利せむと心中に思慮して山内を見まはすに、北嶺に金色の光を現す。いよ〳〵恠て日々に其所に行て勤行精進するほとに、怛に此事をみる。〈絵〉
うつつに本願徳道上人瑞相の光を見伽藍開発の心をおこす所
〔第七段〕
上人無上菩提の心さしかたくして終に大師道明大徳に語云、仏像をつくらむか為に御曾木を求とおもふ。大師答云、善哉、不遠神河浦に霊木あり、尤吉也、恠哉、今夜一の夢を見る。数輩異形の類、彼木を中にして座烈す。其中に一人童子蓋を以て木に覆ふ。又木のもとに白衣の老翁あり。其形誠に厳也。我問云、翁公は何人そ。又何事にこの所に住するそ。答曰、我は是三尾の明神也。此木をまほらかか為に本国より片時もはなれす諸眷属を引居て来る。又蓋をとる童子は当山守護の童子也。霊木彼請によりて此山に来る。所の相応縡の奇瑞なりと云々。爰に窘然として夜をあかすほとになんちいま請問すと上人つゝしむて請したまふ。〈絵〉
本願徳道上人
師範道明大徳〔第八段〕
上人長谷の郷の古老に木の由来を尋ね給ふに答云、所命の木、此上に来てよりこのかた郡郷の人民おたやかならす、各力を合せ、遠く他のさとに送らむとおもふ。〈絵〉
〔第九段〕
古老語ていはく、伝聞、近江国三尾前山の白蓮花か谷に大なる臥木あり。長事十余丈の楠也。此木より常に瑞光を放、異香を薫す。又諸天来下して白蓮花をもちて、此木に散す。其花此木に属して蓮花を生す。其色又白也。如此其谷にして多年を経たり。かかるゆへにいまに白蓮花か谷といふ。〈絵〉
白蓮花谷にして奇瑞あり
〔第十段〕
又云、継体天皇即位十一年雷電風雨大に命して洪水あり、此木かの谷よりなかれいつるなり。〈絵〉
〔第十一段〕
又云、志賀の郡大津の里にある事七十年也。里の人いまた木の心を知らすして切とるほとに郡郷の家々門々宅を焼、病を発して万事不吉なりけれは、其家を占給ふに木のたゝりなりと聞て恐をなしけり。〈絵〉
〔第十二段〕
又云、大和国高市郡八木の里に住する小井門子といふ女人、因縁有て、父母并夫のために仏像をつくり奉むと用明天皇即位元年をもつて八木の辻に引をく。木のたゝりによりて門子死去す。其後彼里に経迴する事卅余年郡郷の家々門々不吉なり。則葛下郡の人、出雲臣大水沙弥法勢法印、十一面の像を造らむとす。推古天皇即位七年に葛下郡当麻のさとに此木を引をく。願をはたさすして法勢又命盡給。其後此里に経廻する事五十余年かくのことく所々にしてみな不吉なりける也。〈絵〉
近江国より大和国へ引こす繁かゆへに所々に引移す次第略之
〔第十三段〕
又云、天智天皇即位七年城上郡長谷の郷神河の浦をさして此木を引捨て去ぬ。其より後この里にとゝまりぬる奉卅九年彼木をおかす者おたやかならすといふ。徳道上人この詞を聞て弥霊奇あるへき事を知て、さと人に乞請、則古老の刀袮とも悦喜して件の木をゆるす。〈絵〉
〔奥書〕
長谷寺本願増海(花押)
弘治三年正月吉日
求主本願院之内大夫相陽鎌倉海光山慈照院長谷寺 緑起貳軸之内上巻
当寺住持
伝蓮社法誉弁秋求之以而
当寺常住物寄附之者也
旹延宝第四丙辰秊霜月十八日弁秋(花押)
(参考文献: 平塚泰三「鎌倉・長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』弘治三年奥書について」, 『日本美術の空間と形式 : 河合正朝教授還暦記念論文集』) [10]
鎌倉長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』の、中巻第1段~中巻第4段の詞書
鎌倉長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』の、中巻第1段~中巻第4段の詞書
長谷寺縁起絵巻 中巻
〔第一段〕
長谷寺縁起中
其後徳道上人十五年のあひた精進修行して、あかめ重くたてまつれとも、都て願をはたすへき事なし。只冥助を仰ところに、夢に東峯に三燈を見る。其傍にあやしき人ありて、三燈は三世の利益を表するなり。彼峯に霊木をひきあけて仏像をつくるへしといふ。
〈絵〉
〔第二段〕
をしへのことく養老四年二月のはしめに霊木を東の峯にひきあけて、庵をむすひ香花を備てあつく三宝の加被をたのむ。夙夜の勤めおこたらす、重て願をたてゝ彼木を礼していはく、聖朝安穏藤氏繁昌乃至法界平等利益のために十一面の像を造たてまつらむと思、大悲弘誓我願を感せは霊木自然に仏像になり給へと礼拝す。然に同八年七月に房前朝臣、大和国班田の勅使をつとめられし次に狩のため此峯に打立ところに山の中に礼拝の音をきく。〈絵〉
〔第三段〕
勅使礼拝の音をきくに、あやしみのおもひをなして庵のまへに行て問云、上人何そ両家をいのる。答云、伝へきく、第六天の魔王我朝をおかさむとせし時、天照太神法性宮に居して此事を見、大悲のあまり春日大明神と契云、汝と共に日域にあまくたりて、我は国主となり、汝を臣下として彼土の衆生を益せむといへり。其めくみにむくひて忝二神此土の塵に交て、二神の孫として両家此国をおさむ。仏法の興廃は両家にあり。又両家の運否は仏法によるへし。此両家仏法繁昌せは、広く衆生を利せむ。如此具に仏像を造らむことをひらき申。勅使聞云、おのつから慶賀の事あらは、必助成のために朝庭に奏聞して官物を申下精進を融して懇念を運と約東畢。〈絵〉
〔第四段〕
祈念に酬て房前朝臣不幾して勅賞をうけ給り。栄名を忝す。弥聖人の徳に帰して解状をすゝむ。則神亀元年正月一目解状をたてまつる。同年二月廿三日勅す。其年三月二日宣下せらる。〈絵〉
(参考文献: 平塚泰三「鎌倉・長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』弘治三年奥書について」, 『日本美術の空間と形式 : 河合正朝教授還暦記念論文集』) [11]
徳川美術館(名古屋)に所蔵されている『長谷寺縁起絵巻』
『長谷寺縁起絵巻』(徳川美術館所蔵)第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した楠の霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の老翁)や、長谷寺守護童子(持蓋童子)、
異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神(この絵では見切れていて見えません))
徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町)
(参考)
名古屋・徳川美術館へようこそ
https://www.tokugawa-art-museum.jp/
出光美術館(東京都千代田区)に所蔵されている『長谷寺縁起絵巻』
『長谷寺縁起絵巻』(出光美術館所蔵)上巻第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した楠の霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の老翁)(この絵では見切れています)や、
持蓋童子(長谷寺守護童子)、異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神)
出光美術館(東京都千代田区丸の内)
現在、出光美術館に所蔵されている『長谷寺縁起絵巻』は、
以前は、幸節家(幸節静彦氏)に旧蔵されていたものです。
さらにそれ以前は、林家(林平造氏)に旧蔵されていました。
(参考)
出光美術館
http://idemitsu-museum.or.jp/
出光美術館所蔵『長谷寺縁起絵巻』の、上巻第7段~上巻第11段の詞書
この下の引用文は、出光美術館所蔵の『長谷寺縁起絵巻』の、上巻第7段から上巻第11段までの部分の詞書と、それらの段の絵図のなかの文字を書き起こしたものです。(この下の引用文のなかの句読点やカギカッコは、文章を読みやすくするために、引用者が付け加えたものです。)
〔上巻 第7段の詞書〕
上人、无上菩提の心さへかたくして、終に、大師道明大徳に語て 云、「仏像をつくらんかために、御そ木を求とおもふ。」大師答ていはく、「善哉。不遠、神河浦に霊木あり。尤吉なり。」怪哉。今夜、一の夢を見る。数輩異形のたくひ、彼木を中にして坐烈す。其中に、一人の童子、蓋をもて木を覆ふ。又、木の下に白衣老翁あり。其形まことに徹也。我、向ていはく、「翁公は何人そ。又、何事に此所に住するそ。」答て 云く、「我是、三尾の大明神也。此木をまもらんかために、本国より片特もはなれす、諸の眷属をひきゐて来る。又、蓋をとる童子は、当山守護の童子也。霊木、彼請によりてこの山に来る所の相応ことの奇瑞也 云〻」。爰に、窘然として夜を曙す程に、汝、今請問すと、上人、謹請給。〔上巻 第7段の絵図のなかの文字〕
『本願徳道上人』
『師匠道明 大師』〔上巻 第8段の詞書〕
上人、長谷の郷の古老に木の由来を尋るに、答ていはく、「所命の木、此土に来てより以来、郡郷の人民おたやかならす。をの〳〵力をあハせて、遠く他の里におくらんとおもふ。」〔上巻 第8段の絵図のなかの文字〕
『上人泊瀬の古老に 木の由来を尋』〔上巻 第9段の詞書〕
古老、語ていはく、「つたへきく近江国三尾前山の白蓮花か谷に、大なる臥木あり。長こと、十余丈の楠なり。此木より、常に光をはなち、異香をくんす。又、諸天来下して、白蓮花を持て此木に散す。其花、此木に属して蓮花を生す。其色、又白色なり。如此、其谷にして多年を経たり。故に、いまに白蓮花か谷といふ。」〔上巻 第9段の絵図のなかの文字〕
『白蓮花か谷にして 奇瑞あり』〔上巻 第10段の詞書〕
又 云、「継体天皇即位十一年、雷電風雨大に命して洪水あり。此木、彼谷より流いつ。」〔上巻 第10段の絵図のなかの文字〕
『童子』
『三尾□□□』〔上巻 第11段の詞書〕
又 云、「志賀の郡大津の里にある事七十年。里の人、いまに木の心をしらすして切とる程に、郡郷の家〻門〻宅をやき、病を発して、よろつ不吉なりけれは、其故をうらなふに、此木のたゝり也。聞者、おかす心なし。」〔上巻 第11段の絵図のなかの文字〕
『大津』
『里のわつらいを うらなふ』
(『長谷寺縁起絵巻』(出光美術館所蔵)の、上巻第7段~上巻第11段までの部分の詞書と、それらの段の絵図のなかの文字) [12] [13] [14] [15] [16]
『長谷寺縁起絵巻』(出光美術館所蔵)上巻第10段の絵図の模写〔一部分〕
(近江国の高島の白蓮華谷(白蓮花谷)から流出した楠の霊木を見守る
三尾明神(三尾大明神)(白衣の老翁)や、持蓋童子、
異行の者たち(鬼たち)、雷神、風神)
『阿娑縛抄』の「諸寺略記」に記されている「長谷寺縁起」
『阿娑縛抄』の「諸寺略記」に記されている「長谷寺縁起」
『阿娑縛抄』巻第二百
「諸寺略記 上」
「長谷寺」
大日本仏教全書. 第41巻 阿娑縛抄 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952721/187
大日本仏教全書. 第41巻 阿娑縛抄 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952721/188
「長谷寺」
大日本仏教全書. 第41巻 阿娑縛抄 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952721/183
『阿娑縛抄』巻第二百
「諸寺略記 上」
大日本仏教全書 第41巻 阿娑縛抄 第7|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I952721-00
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
- 出典:阿部泰郎 (1980年) 「三節 三尾明神: 長谷寺縁起」, 「四章 比良山の神々」, 「一、比良山系をめぐる宗教史的考察: 寺社縁起を中心とする」, 「論文篇」, 元興寺文化財研究所(編集), 『比良山系における山岳宗教調査報告書』, 元興寺文化財研究所, 51ページ1段目. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 山本陽子 (2007年) 「四 御衣木の放光伝説」, 「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」, 『明星大学研究紀要. 日本文化学部・言語文化学科』, 第15号, 明星大学青梅校, 77ページ1段目. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 香取本『大江山絵詞』の絵巻の原本の現状の、上巻のなかの第五段の詞書. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典: 宮次男 (1966年) 「名品鑑賞 長谷寺縁起」, 三彩社(編集), 『古美術』, 15号, 三彩社, 81~82ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 宮次男 (1971年) 「研究資料 長谷寺縁起 上」, 東京文化財研究所企画情報部(編集), 『美術研究』, 275号, 国立文化財機構東京文化財研究所, 32~33ページ. [Back ↩]
- 参考: 「近江輿地志略 : 校定頭註 - 国立国会図書館デジタルコレクション」, コマ番号: 595. [Back ↩]
- 出典: 宮次男 (1971年) 「研究資料 長谷寺縁起 上」, 『美術研究』275号, 34~36ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩]
- 参考文献: 平塚泰三 (2003年) 「鎌倉・長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』弘治三年奥書について」, 河合正朝教授還暦記念論文集刊行会(編集), 『日本美術の空間と形式 : 河合正朝教授還暦記念論文集』, 河合正朝教授還暦記念論文集刊行会, 95~98ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 平塚泰三 (2003年) 「鎌倉・長谷寺所蔵『長谷寺縁起絵巻』弘治三年奥書について」, 河合正朝教授還暦記念論文集刊行会(編集), 『日本美術の空間と形式 : 河合正朝教授還暦記念論文集』, 河合正朝教授還暦記念論文集刊行会, 98~99ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 黒田泰三 (1986年) 「7 長谷寺縁起絵巻」, 「図版解説」, 黒田泰三(編集担当), 黒田泰三(図版解説), 脇坂進(撮影), 出光美術館(編集), 『やまと絵 (出光美術館蔵品図録)』, 出光美術館, 224~225ページ. [Back ↩]
- 注記: この文章のなかの、「相応ことの奇瑞也」という一文のところの、「こと」という言葉は、原文では、「糸偏(いとへん)」に「寄」と書く漢字になっています。ですが、その漢字を活字として表示することができませんでした。ですので、ここでは、その漢字の読み仮名である「こと」というひらがなで、表記しています。 [Back ↩]
- 注記: この文章のなかの、「三尾□□□」という部分は、「三」という文字以降の文字が欠損してしまっているために、不明になっています。ただ、おそらくですが、ここには、「三尾大明神」と書かれていたのではないかとおもいます。 [Back ↩]
- 注記: 引用者が、一部の漢字を、旧字体から新字体に変えました。 [Back ↩]
- 注記: この引用文のなかの句読点やカギカッコは、文章を読みやすくするために、引用者が付け加えたものです。 [Back ↩]