おもえば宇宙の広大なこと、生命あるものの数は多く、陰陽はあたため養って、さまざまな種別があり、精気はいり交って、互いにはげしく湧きたつ。幽霊や怪物は物象に触れて化け、山川に形を現わしたり、木石に状をみせるなど、いちいち言うまでもない。だから互いに矛盾するところを総合して、これを一つの響に打ち合わせ、その変化するところを成就させて、これを一つの象に融合すれば、世にいう異常も、それが異常であるといいきれないし、世にいう異常でないことも、それが異常でないといいきれない。
―― 郭璞「山海経序」, 『山海経』 [3]
現存最古の酒呑童子説話をつたえる絵巻物である、香取本『大江山絵詞』のなかで描写されている酒天童子(酒呑童子)のすがたには、「サル」としての要素がふくまれているところがいくつかあります。
おおまかに言うと、香取本『大江山絵詞』のなかで描写されている酒天童子(酒呑童子)のすがたには、下記の3つの「サル」の要素がふくまれている、と言えるとおもいます。
- 山魈(マンドリル)
- 大猩猩(ゴリラ)
- 白猿(ハヌマンラングール)
鬼の頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色に斑きて、眼十五、角五つぞ生ひたりける。
―― 鬼の姿となった酒天童子のようす, 香取本『大江山絵詞』 [6]
漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。
―― 激怒する酒天童子のすがた, 香取本『大江山絵詞』 [9]
丹後大江山の酒顚童子は古の盗賊なり。鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女をぬすみとる。もろこしの白猿伝と云書にしるせり。白猿の所作と相似たり。
この記事では、これらの3つの「サル」の要素と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)との関係について、いろいろな観点からお話してみたいとおもいます。
- 香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)がもつ3つの「サル」の要素:山魈(マンドリル)、大猩猩(ゴリラ)、白猿(ハヌマンラングール)
- 「五色に斑く」山魈(マンドリル)
- アフリカのマンドリルの極彩色の体色についての情報と、中国の山魈などの妖怪の伝承が混交して、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の五色の体色に影響をあたえた可能性と、その伝承の混交と伝播の経路についての仮説
- 中央アフリカの西部に生息するマンドリルや、ウェスタンローランドゴリラの伝聞などが、中国を経由して日本につたわった可能性について
- 『荊楚歳時記』などの文献に記された「山臊の悪鬼」や、「山㺐の鬼」、「山繅」、「山𤢖」、「山魈」、「夔」、「鬼魅」、「狐魅」などの妖怪
- 『抱朴子』に記された「五色の山精」や「一本足の山精」などの妖怪
- 『聊斎志異』に記された山魈の姿
- 山魈は、比叡山の地主神(山の神)と、酒呑童子とをむすぶ網目のなかの交点のひとつ
- 比叡山の最古の地主神(サル神、山神)としての酒天童子(酒呑童子)
- 魑魅や、魍魎は、山の精霊
- 仮説:比叡山の一つ目小僧(一眼一足法師)は、比叡山の地主神である山の神が落魄した姿
- 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』に描かれた、一本足・山の精・鬼・酒呑童子
- 『和漢三才図会』に描かれた、山の精・山鬼・サル・一本足・一つ目の妖怪
- 鳥山石燕の『百鬼夜行』に描かれた、一つ目・山の精・サルの妖怪
- 『山海経』に記された夔のすがた:「頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。」
- 五色で「サイケなボディーカラー」と「竜王(水神)たる酒呑童子」
- 「胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかす」大猩猩(ゴリラ)
- 「天に斉しき大いなる聖」(斉天大聖・孫悟空)の原型、白猿(ハヌマンラングール)
- 「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)がもつ3つの「サル」の要素:山魈(マンドリル)、大猩猩(ゴリラ)、白猿(ハヌマンラングール)
鬼の頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色に斑きて、眼十五、角五つぞ生ひたりける。
(鬼の姿となった酒天童子のようす, 香取本『大江山絵詞』) [15]
「五色」という言葉の意味は、「五種類の色」という意味です。また、それ以外にも、「多種多様」「いろいろ」という意味もあります。
「斑く」という言葉の意味は、「まだらになる」「入り乱れる」という意味です。
ですので、「五色に斑く」という言葉の意味は、「五種類の色がまだらになっている」というような意味、もしくは、「いろいろな色がまだらになっている」というような意味です。
漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。
(激怒する酒天童子のすがた, 香取本『大江山絵詞』) [9]
丹後大江山の酒顚童子は古の盗賊なり。鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女をぬすみとる。もろこしの白猿伝と云書にしるせり。白猿の所作と相似たり。
「五色に斑く」山魈(マンドリル)
鬼の頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色に斑きて、眼十五、角五つぞ生ひたりける。
―― 鬼の姿となった酒天童子のようす, 香取本『大江山絵詞』 [6]
山魈(マンドリル) [4]
童子、鉄石の室を強く構へて、其の中にぞ臥したりける。上臈・女房達四、五人置きて、「腕摩れ」などと下知してぞ寝たりける。何にしても此の戸を開くべき様なかりけるに、老ひたる・少き、二人の僧、「年来の行功只今也。本尊界会、穴賢穴賢。本誓誤り給ふな」とて袈裟の下にて印契を結びて、暫く祈念し給へば、固く閉ぢたりつる鉄石、朝の露と消え、由々しく見えつる寝所は一時に破れにけり。各打ち入りて見ければ、昼こそ童子の形に変じけれども、夜は本の体を顕はして、長五丈計りなる鬼の頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色に斑きて、眼十五、角五つぞ生ひたりける。是を見るに、偏に夢の心地して言ふ許りなき有様也。
(香取本『大江山絵詞』下巻 第六段 詞書より) [17]
アフリカのマンドリルの極彩色の体色についての情報と、中国の山魈などの妖怪の伝承が混交して、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の五色の体色に影響をあたえた可能性と、その伝承の混交と伝播の経路についての仮説
これまでにぼくが得ることができたかぎりの情報からかんがえると、中央アフリカの西部に生息するマンドリルの極彩色の体色についての伝承が、中国大陸を経由しながら、めぐりめぐって、最終的に、香取本『大江山絵詞』の記述のなかにある、酒天童子(酒呑童子)の「五色に斑く体色」の記述にいたるまでの過程は、つぎのような流れだったのではないかとおもいます。
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マンドリルの極彩色の体色についての情報が、(ゴリラなどの情報がつたわるのとおなじように、)伝聞などをつうじて、中国大陸につたわる。
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マンドリルの極彩色の体色の情報と、中国大陸の「五色の山精(飛飛)」の伝承(『抱朴子』に収載)が混交される。
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「五色の山精(飛飛)」の伝承が、中国大陸南部の華南や江南の地域の、山魈(山臊、山𤢖)の伝承(『荊楚歳時記』などに収載)と混交される。
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江南地域の浙江省にある、中国天台宗の根本道場である天台山や、その周辺地域で、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承がひろまる。
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日本から中国大陸に渡って、天台山で学んだ天台宗関連の仏教僧などのひとたちが、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承を知る。
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天台山や、その周辺地域で、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承を知ったひとたちが、日本へ帰国して、日本天台宗の総本山である比叡山延暦寺へ帰還する。
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比叡山延暦寺において、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承がひろまる。
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比叡山延暦寺において、記録文書の作成の役割をになっていた記家のひとたち(学僧)が、説話を創作するための素材として、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承をとりいれる。
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比叡山延暦寺(無動寺谷か?東塔南谷か?西塔北谷の黒谷か?)において、記家のひとたちによって、酒天童子(酒呑童子)の説話(のちの酒呑童子説話の祖型)が創作される。
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比叡山延暦寺(無動寺谷か?東塔南谷か?西塔北谷の黒谷か?)において、記家のひとたちによって、「酒天童子(酒呑童子)の体色は、五色に斑いている(さまざまな色がいりまじって斑になっている)」という概念がうみだされる。
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(詳細不明。どうやら、この上の段階から、下の段階までは、時間的にも(創作時期)、空間的にも(創作場所)、へだたりがあって、直接的につながっているわけではないようです。)
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香取本『大江山絵詞』の絵巻物が制作されて、詞書の文章のなかに、「鬼の頭と身は赤く、左の足は黒く、右の手は黄に、右の足は白く、左の手は青く、五色に斑きて」という記述が書き記される。
中央アフリカの西部に生息するマンドリルや、ウェスタンローランドゴリラの伝聞などが、中国を経由して日本につたわった可能性について
高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、香取本『大江山絵詞』のなかの一場面での酒天童子(酒呑童子)のすがたの描写が、ゴリラによく似ているということを指摘されています。
また、アフリカに生息していたゴリラが、海のシルクロード(海路)をつうじて、当時の中国に輸入された可能性についても考察しておられます。
洗濯の老女が頼光一行に、童子も獲物がなく都より手ぶらで帰る時がある、そのおりは「腹をすゑかねて、胸をたたき、歯をくひしばりて、眼をいからかして侍る」と語るくだりである。もしやと思い、京都市立動物園に問いあわせたところ、飼育課長の榊原義之氏から、こんな怒りかたをするのはゴリラしかありませんよ、と教えていただいた。
中世日本で、ゴリラの生態の情報源として考えられるのは、中国以外にない。もとより、ゴリラは西アフリカにしか生息していない。重い体重、驚くほどのパワー、神経質な性格、いずれをとっても陸送の不可能なることを示す。中国でも文字または伝聞のみの珍獣だったかもしれない。しかし、海路すなわち海のシルクロードを利用しての中国への輸送はどうか、との私の質問に、アダルトではなく子どものそれで、ぶどまり(途中の犠牲)を考慮しての輸入なら可能、との榊原氏の返答。現物の輸入もありえたとなれば、 マルコ・ポーロが、「世界無二の最大商業都市」と賛嘆した貿易港の泉州(福建省)が上陸候補地として浮かんでくる。泉州はアラビア交易が盛んで、アラビア人の一大居住地区も設けられていたからである。
それにしてもなぜゴリラ情報が、と驚く。ゴリラはオランウータンと同じショウジョウ科に属し、中国で大猩々、オランウータンは猩々または赤猩々と呼ぶから、あるいはオランウータン(赤猩々)が伝説の猩々と一体化し、その情報が日本に入ってくる過程のどこかで、ゴリラ(大猩々)のそれと混線してしまったのかもしれない。ともあれ祖本や逸本の作者が、「白猿伝」の他に中国わたりの知識を有していたことは間違いない。
(高橋昌明『酒呑童子の誕生』) [19]
もし、上記の仮説がただしいとすれば、ゴリラ(大猩々)についての文献や伝聞や、ゴリラそのものが、当時の中国につたわっていて、その情報が中世の日本にもつたわり、それが香取本『大江山絵詞』のなかに描写されている酒天童子(酒呑童子)のすがたに影響をあたえた、ということになります。
もし、それが事実だったとすれば、ゴリラ(大猩々)だけでなく、マンドリル(山魈)についての情報もまた、アフリカから中国を経由して日本につたわった、ということもありうるのではないかとおもいます。
なぜなら、マンドリルの生息地は、ゴリラとおなじく、中央アフリカであるからです。具体的なマンドリルの生息地は、カメルーンからコンゴにかけての中央アフリカ西部です [20]。
ゴリラには、3つの亜種があるそうです(ウェスタンローランドゴリラ、イースタンローランドゴリラ、マウンテンゴリラ) [21]。
ウェスタンローランドゴリラの生息地は、マンドリルの生息地とおなじ、カメルーンからコンゴにかけての中央アフリカ西部です [21]。
イースタンローランドゴリラの生息地は、中央アフリカに位置するコンゴ民主共和国の東部です [21]。
マウンテンゴリラの生息地は、コンゴ民主共和国の東部や、ルワンダや、ウガンダのあたりの一帯です [21]。
このように、すくなくとも、マンドリルと、ウェスタンローランドゴリラは、生息地がおなじ場所です。
ですので、もし、ウェスタンローランドゴリラ(大猩々)についての文献や伝聞や、ウェスタンローランドゴリラそのものが、当時の中国につたわっていたとすれば、おなじように、マンドリル(山魈)についての情報も、中国につたわっていた可能性があるとおもいます。
もし、そうだとすれば、マンドリル(山魈)についての情報が、中国から中世の日本につたわり、それが香取本『大江山絵詞』のなかに描写されている酒天童子(酒呑童子)のすがたに影響をあたえた、という可能性もあるのではないかとおもいます。
このように、香取本『大江山絵詞』のなかで描写されている、鬼のすがたになった酒天童子(酒呑童子)の、極彩色で色とりどりな五色の体色は、アフリカに生息しているマンドリルの極彩色で色とりどりな体色についての情報が、当時の中国につたわり、さらに、中国の山魈の伝説と混同されながら、中世の日本につたわったことの結果なのかもしれません。
つまり、香取本『大江山絵詞』のなかで描写されている、酒天童子(酒呑童子)の、極彩色で色とりどりな五色の体色の「源流」は、マンドリル(山魈)の極彩色で色とりどりな体色にあったのではないか、ということです。
なお、中国において、マンドリルのことを山魈と呼ぶようになった時期については、いまのところ不明です。
また、中国において、実在するマンドリルについての情報と、伝説のなかの山魈が混同されるようになった時期については、いまのところ不明です。
『荊楚歳時記』などの文献に記された「山臊の悪鬼」や、「山㺐の鬼」、「山繅」、「山𤢖」、「山魈」、「夔」、「鬼魅」、「狐魅」などの妖怪
『荊楚歳時記』というのは、6世紀の中国でつくられた、荊楚(揚子江(長江)の中流域)の年中行事を記録した書物です。作者は、当時の梁の国にいた宗懍という人です。また、そのあと、7世紀には、隋の杜公瞻という人が、『荊楚歳時記』に注釈をつけました。
この『荊楚歳時記』のなかに、「山臊の悪鬼」(「山㺐の鬼」)についての、下記のような記述があります。
先ず庭前に爆竹し、以て山臊の悪鬼を辟く。
『神異経』を按ずるに云う。「西方の山中に人あり。其の長尺余、一足にして、性は人を畏れず、之を犯さば人をして寒熱せしむ。名づけて山臊と曰う」と。人、竹を以て火中に著くに烞熚として声あり。而して山臊は驚憚して遠く去る。『玄黄経』に謂う所の山㺐の鬼なり。俗人以為、爆竹・燃草は庭燎より起る。家国まさに王より濫りにすべからざるなり。
(宗懍 (著者), 杜公瞻 (注釈) 『荊楚歳時記』) [23] [24] [25]
上記の『荊楚歳時記』の記述にある「山臊」という妖怪について、守屋美都雄さんは、つぎのように解説しておられます。
(4) 山臊 本文杜注の外に、『国語』巻五、魯語の韋昭の注に「或いは云う、夔は一足なり、越人は之を山繅という。或いは𤢖に作る。富陽に之あり、人面猴身にして能くもの言う。或いは独足と云う」とある。また王謨の『増訂漢魏叢書』本『神異経』西荒経の条には「西方深山の中に人あり。身長尺余。袒身にて蝦蟹を捕う。性、人を畏れず。人の止宿するを見れば、暮れに其の火に依りて以て蝦蟹を炙る。人の在らざるを伺いて人の塩を盗み、以て蝦蟹を食う。 名づけて山臊と曰う。其の音自ら叫ぶ。人、嘗て竹を以て火中に著くに、爆烞として出づ。臊、皆な驚き憚る。之を犯せば人をして寒熱せしむ。此れ人の形なりと難も、変化せるなり。然らば亦た鬼魅の類、今、所在の山中に皆な之有り」とある。なお『太平広記』巻四百二十八、斑子の条所引の『広異記』には「山魈は嶺南の所在に之有り。独足反踵、手足三岐、其の牝は好んで脂粉を傅く、大樹の空中に窠を作る……毎歳中、人と田を営む……性質直にして、人と分って多きを取らず、人も亦た敢て多きを取らず、多きを取る者、天疫病に遇う」とあり、『南康記』『広韻』と共に山魈(山臊)を華南の妖怪とし、『五雑爼』巻十五、事部三「江北は狐魅多く、江南には鬼魅多き事」の条も「山魈は閩・広に多く之あり、人の屋宅に拠って人の婦女を淫す……」とあって、華南特有の妖怪とする。
(守屋美都雄 [『荊楚歳時記』の「山臊」という言葉についての注記]) [26] [24] [25]
下記は、上記の『荊楚歳時記』についての文章のなかに登場したいくつかの言葉についての、補足説明です。
上記の『荊楚歳時記』についての文章のなかにある、「蝦蟹」(エビガニ)という言葉は、ザリガニの別名です [27]。
江戸時代中期(1712年)に寺島良安がつくった『和漢三才図会』や、江戸時代中期(1779年)に鳥山石燕がつくった『今昔画図続百鬼』、などの、江戸時代に日本でつくられた文献には、「山精」という妖怪の絵図が掲載されています。
これらの、日本における「山精」という妖怪は、おそらく、『荊楚歳時記』などの文献の記述のなかにある「山魈(山臊、山𤢖、山精)」の伝承などの影響をうけてうまれたものではないかとおもいます。
『和漢三才図会』や、『今昔画図続百鬼』では、「山精は、蟹を食べる」とされていて、絵図のなかでも、山精は蟹を手にしたすがたで描かれています。
このように、日本においては「山精は、蟹を食べる」とされている理由は、もしかすると、上記の守屋美都雄さんの解説のなかにある、「王謨の『増訂漢魏叢書』本『神異経』西荒経の条」の文章のなかの「蝦蟹」(ザリガニ)という言葉が、本来の言葉であったものが、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承が日本につたわる途中や、日本のなかでひろまっていく過程で、言葉の意味が変わって、「蟹」に変わったからなのかもしれません。
下記の説明は、上記の『荊楚歳時記』についての文章のなかで、山魈(山臊、山𤢖)の伝承があったとされている地域(「閩」や、「広」、華南、江南と呼ばれる地域)についての補足説明です。
「閩・広」という言葉のなかの「閩」というのは、福建省の古い呼称です [31]。
「閩・広」という言葉のなかの「広」というのは、おそらく、現在の広東省のあたりの地域のことだとおもいます [32]。
「華南」というのは、中国の南部の地域のことです。具体的には、広東省や福建省も、華南の地域にふくまれます。 [33]。
「江南」というのは、中国のなかの揚子江(長江)よりも南の地域のことです [34] [35]。
このように、山魈(山臊、山𤢖)の伝承があったとされている地域(「閩」や、「広」、華南、江南と呼ばれる地域)は、おおまかに言うと、中国大陸の南部や南東部のあたりの地域のことです。
参考: 独脚鬼(夔、山繅、山𤢖、山魈、山精、山臊、山鬼、山都)
この下の引用文は、桐本東太さんの『中国古代の民俗と文化』という本のなかの、「第八章 山中の独脚鬼に関する一考察 : 日中の比較」のなかにある、独脚鬼(夔、山繅、山𤢖、山魈、山精、山臊、山鬼、山都)についての記述です。
第八章 山中の独脚鬼に関する一考察――日中の比較
一 本論の構成
独脚を尋常ならざるものの体現と考え、そこに何らかの特殊な意味を付与しようとする民俗は地球上に広く分布するし、また一定地域において何種類かの独脚にまつわる習俗が同時に観察されえたとしても、それらをすべて同一の起源に帰するのは、安易に過ぎると言わねばならない。中国の場合においても、治水王の禹が跛行するのに習ったという、独脚の儀礼的表現である禹歩、あるいは『山海経』をはじめとして中国古代の文献にその名が散見される夔、そして本論のテーマである長江以南の南中国で集中的に伝承された妖怪態の独脚鬼等を、すべて同一の起源に収斂させることはできない。たとえ中国の長い歴史の展開過程において、それらが混淆することはあっても、である。
そこで本論では、まず南中国に住む人々によって語り伝えられた独脚鬼の伝承を一括して取り扱い、その性格を分析する。次にそれらが日本の山々を彷徨すると信じられた一本足の妖怪と、性格的に多くの面で対応することを指摘し、両者を同一の系統に属するものであろうと考えてみた。その上で日本の独脚鬼について、日本国内の資料のみで理論的肉づけを施された柳田国男氏の説を、再検討してみたいと思う。それは具体的な一局面として、妖怪が神聖なるものの零落の果てであるという、柳田氏の提出された、素朴な進化論的公理に対する疑問となるはずである。二 中国の独脚鬼
1 名称
南中国の独脚鬼を記録した最古の例は、つとに貝塚茂樹氏が指摘されているように、『国語』の魯語・下にでる夔に註した、三国時代の呉人韋昭(二〇四~二七三?)の記載であろう。
或ひと云う、夔は一足なり、越人はこれを山繅という。或いは𤢖に作る。富陽にこれあり。人面狼身にして能くもの言う。或いは独足という。ここに山繅(𤢖)という名で登場する独脚鬼は、以後中国歴代の文献にままその姿を現わし、山魈、山精、山臊、山鬼、山都といった名称を冠せられた。ただ独脚鬼の記録がすこぶる長い時代と広い地域に散らばっているために、これらの名称が指し示す実態は必ずしも同一でない場合もあり、例えば小川愽氏が、山都とは現代中国で高等猿類を指すと述べられているがごとくである。ちなみに南方熊楠も、山魈は熊の一種であろうと推定しており、必ずしも納得のゆく説明ではないが、南方が生物学に造詣が深かったことを差し引いても、山魈の側にもそう思わせる素振りがあったのは疑いない。さらに名前の表記に使用された漢字が、在来の民俗語彙を果たしてどこまで忠実に写し取っているか否かについても疑問が残り、ここに至っては正確な検証は絶望に近い。しかし独脚鬼の名前が民衆の語り口そのままではないにしても、何らかの真実はそこに含まれていると考えたい。つまり、いずれの独脚鬼も語頭に「山」の一字を冠しており、彼等が山と密接な関係を持っていると人々が観想したその事実を、漢籍の筆録者達は見逃さなかったと考えられる。この独脚鬼のテリトリーが山地帯にあるという点を筆者は極めて重視したいのであり、本論の骨子としてしばしば触れることになろう。
(桐本東太「第八章 山中の独脚鬼に関する一考察 : 日中の比較」, 『中国古代の民俗と文化』) [36]
最澄などの中国に渡った天台宗関係の仏教僧などが、江南の天台山の地域につたわっていた山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承を、中国大陸から日本にもちかえってきた可能性について
上で紹介した『荊楚歳時記』についての守屋美都雄さんの解説の文章のなかで述べられていたように、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承は、華南の地域(「閩」(現在の福建省)や、「広」(現在の広東省)の地域)や、江南の地域(揚子江(長江)よりも南の地域)に特有の伝承であるようです。
中国の天台宗や、日本の天台宗の聖地である天台山は、華南の地域のなかの、閩(福建省)の地域のとなりの、浙江省にあります。また、天台山がある浙江省の地域は、江南の地域(揚子江(長江)よりも南の地域)にふくまれます。
このように、天台山がある場所(現在の浙江省台州市天台県)は、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承があったとされている、華南や江南の地域にちかい場所です。ですので、天台山やその周辺の地域にも、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承があったのかもしれません。
日本の天台宗の開祖である伝教大師最澄は、唐に渡ったとき、天台山において天台宗の教えを学びました。ですので、もしかすると、最澄自身や、最澄とおなじように中国に渡った天台宗関係の仏教僧などが、天台山やその周辺の地域で、山魈(山臊、山𤢖、山精)の伝承と出会い、その伝承を中国大陸から日本の比叡山延暦寺にもちかえってきたのかもしれません。
また山𤢖は魃という旱魃をもたらす神とも同一視されている。魃は一ツ目一本手一本足で猿人の姿形をしているという。冬期の乾期に山童に、夏期の雨季に河童に変身する日本の伝承にも、なんらかの影響をもたらしたにちがいない。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [43]
『抱朴子』に記された「五色の山精」や「一本足の山精」などの妖怪
『抱朴子』は、4世紀中頃の中国(晋)において、道教の道士である葛洪が書いた書物です。ちなみに、「抱朴子」というのは、葛洪がつかっていた号(ペンネーム)です。
『抱朴子』には、内篇と外篇があります。
内篇は、道教の道術(仙術、不老長生術)について書かれています。
外篇は、儒教の立場から見た政治や社会について書かれています。
この『抱朴子』の内篇のなかの「登渉」という題名がつけられている一篇のなかに、「山精」という妖怪についての記述があります。その記述によると、「山精」には複数の種類があるとされていて、「一本足の山精」や、「五色の山精」などの妖怪についての記述があります。
『抱朴子』の「登渉」に記されている山精の複数の種類の名称は、つぎのとおりです。
- 山精(山精に類する妖怪に共通する特徴か?):小児のすがた、一本足、後ろ向きに走る。
- 蚑(別称:熱内):夜に人の声で大声をだす。
- 暉:太鼓のすがた、赤色、一本足。
- 金累:人のすがた、身長は九尺、裘と笠を身につけている。
- 飛飛:龍のすがた、五色、赤角がある。
七、抱朴子曰く、山中の山精の形は、小児の如くにして、独足もて走りて後に向ひ、喜び来りて人を犯す。人の山に入りて、若夜人の音声もて大語するものを聞かば、其名を蚑と曰ふ。知りて之を呼べば、即ち敢て人を犯さざるなり。一に熱内と名づく。亦兼ねて之を呼ぶ可し。又山精の鼓の如くにして赤色なるもの有り、亦一足なり。其名を暉と曰ふ。又或は人の如くにして。長は九尺、裘を衣、笠を戴くものあり。名づけて金累と曰ふ。或は龍の如くにして、五色、赤角あるものあり。名づけて飛飛と曰ふ。之を見しときは、皆名を以て之を呼べば、即ち敢て害を為さざるなり。
上記の文章のなかにある「飛飛」は、中国語では「フェイフェイ」(拼音:Fèifèi)と発音します。
狒狒(狒々、ヒヒ)は、中国語では「フェイフェイ」(拼音:Fēi fēi)と発音します。
このように、「飛飛」と、「狒狒」は、発音が似ています(拼音(中国語における一種のイントネーション)が異なります)。
ですので、もしかすると、「飛飛」と、「狒狒」は、同一視されている存在であるか、または、なんらかのつながりがある存在なのかもしれません。
漢字を日本語読みしたときの発音でかんがえてみても、「飛飛」という言葉は、おそらく「ひひ」と発音することになるのではないかとおもいます。そのように、日本語的な発音にした場合は、「飛飛」と、「狒狒」は、発音がおなじになります。このような観点からも、「飛飛」と、「狒狒」のあいだに、なんらかのつながりがあるのではないかとおもいます。
もしかすると、中国においては、「飛飛」と、「狒狒」は、べつのものとしてあつかわれているものの、日本においては混同されて同一視されるようになった、ということもかんがえられるかもしれません。
たとえば、中国では「楠」という漢字は、タブノキのことを指しますが、日本ではクスノキを指す漢字としてつかわれています。つまり、中国においては、「楠」という漢字と、「樟」という漢字は、べつのものとしてあつかわれているものの、日本においては混同されて同一視されるようになった(どちらの漢字もクスノキを指す漢字としてつかわれるようになった)、ということだとおもいます。
このような、「「楠」という漢字と、「樟」という漢字が、日本において混同されて同一視されるようになった事例」とおなじように、「飛飛」という言葉と、「狒狒」という言葉は、日本において混同されて同一視されるようになったのかもしれません。
ちなみに、上記の文章のなかにある「暉」は、「太鼓のすがたをしている」とされているので、もしかすると、夔とおなじものか、あるいは、夔となんらかの関係があるのかもしれません。
『聊斎志異』に記された山魈の姿
姑く妄りに之を言え 姑く之を聴かん
豆棚瓜架 雨は糸の如し
料るに応に人間の語を作すを厭いて
秋墳に鬼の唱うを聴くを愛するの時なるべし
―― 漁洋老人題(『聊斎志異』の題辞) [47]
清王朝時代の中国で、蒲松齢が記した怪異小説集である『聊斎志異』のなかに、山魈について記された、「山魈」という題名がつけられている一篇があります。下記の文章は、その一篇のなかで、山魈について描写されているところを抜粋したものです。
あやしんでいるうちに、風音ははや家のなかに入っていた。そして、靴音がこつこつ次第に寝室の戸口に迫って来る。このときになって、はじめてこわくなった。
いきなり寝室の戸口がひらく。あわてて見てみると、大きな鬼が背をこごめ立ちふさがるようにして入って来て、榻の前につっ立ったが、梁にとどきそうなほどだった。顔は熟れた瓜の、皮のような色だった。眼光をきらめかせて、部屋をじろじろ見回し、三寸はどもの歯のまばらに生えている盆のような大口を開いて、舌をうごかしのどを鳴らしてうなった「うおうっ」という声は、まわりの壁をゆるがした
公は肝をつぶしたが、目と鼻のあいだのことで、しょせん逃れられぬところ、 この機に刺すにしくはないと思案したから、枕の下の佩刀をそろそろ抽き出して、さっと抜いて斬りつけた。腹にあたり、石缶のような音がした。鬼は大いに怒り、巨大な爪をのばしてつかみかかったけれども、公が体をちょっとちぢめたので、衾をかっさらってしまい、それをひっつかんで血相を変えて出て往った。
公は、衾をはがされたはずみに下へ落ち、うつ伏したまま大声で呼びたてた。家人たちが灯をもって駆けつけてみると、扉はかわりなくしまっていた。窓をあけてなかへ入り、このありさまを見てびっくり仰天した。たすけ起こして寝台にのせてから、公はやっとわけを話した。
みなで調べたところ、衾は寝室の入口の隙間にはさまっていた。扉をあけて灯で照らして調ベると、箕のような爪あとがのこっていて、五本の指がふれた個所はみな穴があいていた。
(蒲松齢「山魈」, 『聊斎志異』巻一) [48]
上記の文章のなかに記されている山魈という妖怪について、常石茂さんは、つぎのように解説されています。
山臊・山𤢖・山精その他いろいろな呼称があるが、要するに山中の怪をいう。何註は『抱朴子』の、「山精は小児のような形状で、一本足。足首は前後逆さまについている。夜、ひとを犯すけれども〈山精っ〉と呼ぶと、犯すうでまえをうしなってしまう」という説を引いているが、『神異経』『南康記』『異苑』その他にもそれぞれ説があり、それらの諸説は、これを要するに、狒狒のごときものとみなしている。
(常石茂 [『聊斎志異』のなかの一篇の題名である「山魈」という言葉についての注記]) [50] [51]
「猿神退治」の話のあらすじはだいたい一致している。要するに、ある社の生贄として村の娘が指名される。そこへ他国者の男(廻国の和尚・六部・山伏・旅人など)が現われ、社に泊って深夜正体不明の怪物の発言を盗み聞く。怪物は某々(犬の名)が苦手の旨をいう。男は苦心の末その犬を探し出し、娘の身代わりとなって、犬とともに怪物と戦う。怪物の正体は多く猿である。これを退治してのち人身御供はなくなり、男は娘と結婚する(男が和尚や六部など出家者である場今には結婚はない)、というのがこの型の昔話の基本的な構成である。昔話が本質的にそうであるように、この話も本来は特定の神社や土地にのみ関係するものではないけれども、実際に語られる場合には実在の神社や土地と結びつき、伝説化して語られることが多い。信州赤穂村(長野県駒ヶ根市)の光前寺の飼犬早太郎が遠州見附(静岡県磐田市)の天満宮の猅々を退治してみずからも死んだという話などは特に有名で、駒ヶ根・磐田両市はこの話を縁にして友好協定を結んでいるほどである。
(池上洵一「昔話の猿神退治」『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [52] [51]
山魈は、比叡山の地主神(山の神)と、酒呑童子とをむすぶ網目のなかの交点のひとつ
酒呑童子, 酒天童子, 一眼一足法師, 山魈, 山𤢖, 山臊, 山精, 猩猩(猩々), 狒狒(狒々), 山鬼, 夔, 魑魅, 魍魎, すだま, 一つ目, 一本足, 杭(咋), 大山咋神, 比叡山の地主神, 比叡山の山の神・山の精、などなど。
これらはすべて、なにかしら酒呑童子説話とのつながりをもっているものであり、「酒呑童子」を中心とした大きな大きな「説話の網」のなかの、たくさんの交点のなかのひとつひとつです。
これらのキーワードはすべて、直接的・間接的に酒呑童子とのつながりをもっているとおもいます。
比叡山の最古の地主神(サル神、山神)としての酒天童子(酒呑童子)
目に見ゆる畜生は なほ美麗なり 此世の人は餓鬼か地獄か
―― 慈円 [53]
比叡山の地主神としての酒天童子(酒呑童子)
香取本『大江山絵詞』をはじめとする、最澄と比叡山が登場する酒呑童子譚における酒天童子(酒呑童子)は、比叡山の地主神としての性質を持っています。このことは、牧野和夫さんや、濱中修さんや、岩崎武夫さんが指摘されています。この方々の説を、下記で紹介します。
牧野和夫さんは、「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚:中世聖徳太子伝の裾野」という論文のなかで、中世の聖徳太子伝のなかに、「聖徳太子の生まれ変わりである最澄が太古の昔から比叡山に住んでいた地主の悪鬼を追い払った」という伝承をつたえるものがあると述べておられます [55]。(その伝承とは、醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』の「太子卅二歳御時」の項目に記されている伝承のことです [56] [57]。)
岩崎武夫さんは、つぎのように述べておられます。
叡山を伝教に追われ、弘法大師に法力によって閉じ籠められながら、大江山に居つくようになったという酒呑童子籠居のいわれは、いわゆる叡山の古い地主神が、今来の神によって追放される過程をあらわしており、童子はその地主神のなれの果てということになる。
(岩崎武夫「権現堂と土車」, 『さんせう太夫考 続』) [58] [51]
濱中修さんは、「酒呑童子の大江山止住以前の幼年期を物語」っている『伊吹童子』という文献をとりあげて、つぎのように述べておられます。なお、『伊吹童子』の物語のなかでは、酒呑童子という呼称は、伊吹童子のあだ名だとされています。
地主神がその霊地を寺院によって奪われることに対して抵抗の姿勢を示している話もある。
〔中略〕
巨木を表象とする地主神にとって、王権による収奪以上に各地で頻繁に発生し、故により深刻であったのは、仏法による土地の侵犯であったろう。
〔中略〕
巨木を通じての地主神の仏法への対立的姿勢の流れを抑えておけば、最澄の延暦寺建立に当たっての伊吹童子の行為の意味するところも明らかであろう。〔中略〕伊吹童子は、「かの伝教大師、この山に仏法をひろめ給はば、われこの山に住むことかなふまじ。いかにもして障礙をなさばやと思いつゝ、そのたけ三十丈の杉の木となりて、大比叡の嶽にぞ出生し」た
〔中略〕
最澄は地主神より叡山を譲り受けたということであり、その表象として霊木が語られているのである。
〔中略〕
香取本『大江山酒呑童子』および『伊吹童子』では、童子は地主神の面影を色濃く宿していると言えよう。〔中略〕童子にしてみれば大江山における王威・武威による敗北以前の、仏法による敗北であった。
〔中略〕
物語の真の意図は、叡山を支配していた邪悪なる在地の神を調伏し、これより叡山の支配権を天台教団が正当に譲渡されたということを、「怪物退治」の物語の中に仕組むことにあった筈である。
(濱中修「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」) [60] [25]
このように、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、比叡山の地主神として描かれています。
池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。
山の神は同時に水の神でもあるから、その神は地域に密着したかたちで古くから崇敬されてきたとおぼしい。
(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [61]
比叡山・日吉大社最古の山神であるサル神(大行事権現)と、途中でやってきた大山咋神(二宮権現)と、最後にやってきた大己貴神(大宮権現)
この地はな もともとは
お前らのものじゃないんだよ
最初の住人は ケルト人だ
森に暮らし 精霊をあがめていた
今のウェールズの民の先祖だ
やがて ローマ人がやってきた
彼らは支配者だったが
ケルト人とともにこの地に暮らし
知恵と技術と文化を授けた
ローマ人が去り――
最後にお前達 アングル人とサクソン人がやってきた
500年ほど前のことだ
お前達はケルト人に何ももたらさなかった
それどころか
ケルト人を荒れ地へ追い出して
この豊かな平原を独占したんだ
ウソだ!
ウソじゃねーよ
デーン人がケダモノだってンなら
お前らアングロサクソンも
相当ケダモノなんだぜ?
お前らは 暴力でこの地を奪った
オレ違は お前ら以上の暴力でこの地を奪う
まさか 文句はあるめェな
―― アシェラッドの言葉「第31話 ケダモノの歴史」『ヴィンランド・サガ』 [64]
下記のように、池上洵一さんは、「日吉大社のもともとの祭神は、サル神であった」と述べておられます。
日吉大社では大宮の大比叡神と二宮の小比叡神が中心的な祭神であるが、大宮は後から勧請された神で、二宮が本来の祭神であり地主神であるとされる。同社には別に猿田彦命を祀る大行事権現があるが、これこそ山王権現の使者とされる猿の首領神である。そして猿はおそらく二宮よりも古い、最古の祭神であった。これらの神々の関係を南方熊楠は、
拝猴教が二の宮の宮宗に、二の宮宗が一層新来の両部神道に併され、最旧教の本尊たりし猴神は、記紀の猿田彦と同一視され、大行事権現として二十一社の中班に列したは、以前に比して大いに失意なるべきも、その一党の猴どもは日吉の神使として栄え、大行事権現また山王の総後見として万事世話するの地位を占めえたるは、よく天命の帰するところを知って身を保ったとも一族を安んじたとも謂うべく、(『十二支考』猴に関する民俗と伝記)
と、たくみに説明している
(池上洵一「落魄の猿神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [66] [51]
祭神の入れ替わりは全国いたるところの神社に見られた普通の現象であり、比叡山麓の日吉大社では少なくとも二度の交代があったことがわかっている。即ち最古の祭神は原始的な山神としてのサル(大行事権現)、その後に来たのが二宮(東本宮。大山咋神)、最後に来たのが大宮(西本宮。大和の三輪明神)であった。後から来た大宮に主祭神の座を譲った二宮は地主神(産土神)と位置づけられ、それより古いサル神は主祭神の使者と位置づけられて落ち着いた。
(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [67] [51]
2度の祭神の入れ替わりが起こったあとの現在では、日吉大社に祀られている大山咋神(二宮権現)は、比叡山の地主神だとされています。
ですが、上記で池上洵一さんが述べておられるように、日吉大社のもともとの祭神は、サル神(山神)であったようです。
『古事記』では、「大山咋神は、比叡山の神である」とされています。
一方、上で紹介した池上洵一さんのお話では、大山咋神よりも、「原始的な山神としてのサル(大行事権現)」のほうが、より古くからの比叡山や日吉大社の地主神であるとされています。
もし、池上洵一さんのお話がただしいとするなら、比叡山や日吉大社の最古の地主神であるサル神(山神)は、『古事記』が成立した時期よりも、さらに古い時代から信仰されていた神である、ということになるのではないかとおもいます。
つまり、『古事記』に記されている大山咋神は、あとからやってきた新しい神であり、それ以前から信仰されていた猿神(山神)は、『古事記』よりも古い神であるということです。
日吉大社の最古の祭神がサルであったということは、サルの要素をもつ酒天童子(酒呑童子)が、比叡山の地主神でったことを裏付ける証拠のひとつなのではないかとおもいます。
ちなみに、三輪明神は、大己貴神とも呼ばれます。
なお、池上洵一さんは、上記の「原始的な山神としてのサル(大行事権現)」についての記述(『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』の263ページの記述)にたいして、下記のような注記をつけておられます。下記の注記のなかで紹介されている文献は、上記の「原始的な山神としてのサル(大行事権現)」についての記述の論拠としてあげられている文献です。
(9) 『神道大系・神社編二十九・日吉』所収「日吉社袮宜口伝抄」「燿天記」など。なお本巻第一編第三章、山本ひろ子『中世神話』(岩波新書、一九九八年)一二三頁など参照。
(池上洵一 [「第二章 飛来した神」の注記], 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [69] [70] [71]
上記の注記のなかで紹介されている文献のなかの、『日吉社袮宜口伝抄』は、1989年(平成元年)に佐藤真人さんの考証によって偽書であることがわかるまでは、平安時代中期の1047年につくられた文献であるとされていました。ですが、現在では、『日吉社袮宜口伝抄』は、製作時期をいつわっている偽書であることがわかっています(実際の製作時期は、幕末維新ごろの時期であるようです)。
ですので、上記の池上洵一さんが述べておられることのなかで、偽書である『日吉社袮宜口伝抄』の記述に基づいて述べられていることについては、注意が必要だとおもいます。ただ、現在は、まだ、この件についての検証ができていません。もし、上記の池上洵一さんが述べておられることのなかに、ほかの文献には記述がなくて、『日吉社袮宜口伝抄』だけにある記述を論拠として述べられているところがあった場合は、その記述を採用することはできないだろうとおもいます。ですので、検証の結果次第では、ここまでの考察を、一部変更することになるかもしれません。ご参考までに。
参考:『日吉社袮宜口伝抄』が偽書であることについて
上のところでお話したように、現在では、『日吉社袮宜口伝抄』は、製作時期をいつわっている偽書であることがわかっています。
『日吉社袮宜口伝抄』が偽書であることについて、池田陽平さんはつぎのように述べておられます。(下記の文章のなかの「日吉社」というのは、日吉大社のことです。)
永承二年(一〇四七)の成立を標榜する『日吉社袮宜口伝抄』は、かつては日吉社の古伝を記した権威ある文献と看做されていたが、佐藤真人の文献考証により、幕末維新期の偽作であることが判明している。
〔中略〕
『日吉社袮宜口伝抄』は、神仏分離を行うために日吉社が偽作したものである。
〔中略〕
佐藤真人は『日吉社袮宜口伝抄』の成立に疑問を呈し、平成元年にはこれが偽作であることを明らかにする。
『日吉社袮宜口伝抄』の成立時期について、佐藤真人さんはつぎのように述べておられます。(下記の引用文のなかの『口伝抄』というのは『日吉社袮宜口伝抄』の略称です。)
永承二年の書写という点に関しては、屢々疑われながらも、中世以降成立した日吉山王関係の諸典籍(『耀天記』『山家要略記』 『厳神紗』 『日吉社神道秘密記』等)が、多少なりとも天台宗の山王神道の影響を蒙っているのに対し、『口伝抄』は山王神道説形成以前の古伝承を記し留める史料として一般に評価されてきた。現在の日吉大社の祭神も、また『口伝抄』の説に従っている。
だが『口伝抄』は従来諸本の所在さえ明らかでなく、近年『神道大系』に翻刻収載されるまでは、限られた研究者しか披見し得ない状況だったため、本書の成立に関する本格的研究はなされないに等しかった。『口伝抄』の永承二年書写の奥書が本書の内容に照らして疑わしいことは、既に若干考察したことがあるが、此度『口伝抄』の成立を解明する上で参考となる史料を幾つか発見し得たので、ここに再考する次第である。〔中略〕
以上によれば、『口伝抄』は、弘化・嘉永年間頃成立の生源寺希烈作「雑事記」や安政二年九月成立の希烈による『賀茂年鑑』抄出本である『祖父君随筆』を材料として作成されたことが窺われ、その成立は幕末期以降であろうと考えられる。ただし管見に及んだ諸本の如き現・『口伝抄』が完成したのは明治二年の頃合と思われ、本書の完成にはおそらく樹下茂国が関与したものと推測される。
今後『口伝抄』諸本や日吉社家旧蔵書の発掘次第で、以上の論旨の細部の補訂を余儀なくされることもあろう。ただし『口伝抄』が幕末維新期の成立であることは動かし難く、本書の記事には古代・中世の諸文献を踏まえた部分が認められるものの、本書独自の説とされるものは何ら古伝と見倣すことは出来ないと考えられる。それ故、今後の日吉社研究は『口伝抄』の説に依拠することなく進めていく必要があろうし、『口伝抄』の説に基づいた従来の研究成果は再検討されて然るべきであろう。
(佐藤真人「「日吉社禰宜口伝抄」の成立」) [74] [75]
上記で佐藤真人さんや池田陽平さんが指摘されているように、偽書である『日吉社袮宜口伝抄』の記述に基づいたこれまでの研究成果を再検討することは、とてもたいせつなことではないかとおもいます。これまでに、『日吉社袮宜口伝抄』の記述に基づいて書かれた文献はとても多いので、意図的ではないにせよ、誤った情報にもとづいて書かれた誤った記述になってしまっている文献がとても多いということです。まだ、『日吉社袮宜口伝抄』が偽書であることを知らない人もいらっしゃるかとおもうので、通知や注意が必要ではないかとおもいます。
ちなみに、明治時代初期の神仏分離令(神仏判然令)や廃仏毀釈運動のときに、日吉社(日吉大社)の人々が、延暦寺にたいして、どれだけ苛烈で残酷な仕打ちをしたか、ということについても、人間らしくて人間くさい人間ドラマがあるのですが、それはまた、別の機会にお話できればとおもいます。
ちなみに、明治時代初期の神仏分離令(神仏判然令)や廃仏毀釈運動のときに、日吉大社の東本宮の祭神と、西本宮の祭神が入れ替えられたことがありました。そのときの、日吉大社の東本宮の祭神と、西本宮の祭神は、下記のような状態になっていました。
・東本宮の祭神:大己貴神
・西本宮の祭神:大山咋神
そのあと、長いあいだ、祭神が入れ替わった状態がつづいたあと、ふたたび、東本宮の祭神と、西本宮の祭神が入れ替えられて、現在の状態にいたっています。その結果、現在は、日吉大社の東本宮の祭神と、西本宮の祭神は、下記のような状態になっています。
・東本宮の祭神:大山咋神
・西本宮の祭神:大己貴神
この件についても、また別の機会にお話できればとおもいます。
双葉葵(二葉葵)の神紋と、渡来人である秦氏と、今来の神である大山咋神と、比叡山・日吉大社の古来の地主神である猿神(山神)との関係
日吉大社の東本宮と、松尾大社と、賀茂御祖神社(下鴨神社)は、すべて、双葉葵(二葉葵)を神紋(神社の紋章)としている神社であり、すべて、大山咋神を祭神としています [76]。
また、下記に列挙した神社も、双葉葵(二葉葵)を神紋としている神社です。
- 日吉大社の東本宮
- 松尾大社
- 賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)
- 賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)
- 木嶋坐天照御魂神社(別称:木嶋神社)(併設:蚕養神社(蚕ノ社))
これらの、双葉葵(二葉葵)を神紋としている神社は、秦氏と直接的・間接的な関連があるようです。秦氏は、古代における渡来人系の有力な氏族です。(秦氏は、「はたし」と呼ばれることもあります。)
このように、双葉葵(二葉葵)を神紋とする神社と、秦氏のあいだには直接的・間接的な関連があるようです。ですので、日吉大社の祭神である大山咋神と秦氏のあいだにも、なにか関連があるのかもしれません。
現在、日吉大社や比叡山において、地主神とされているのは、大山咋神です。ですが、上のところでお話した、池上洵一さんの「原始的な山神としてのサル(大行事権現)」についての記述にあったように、大山咋神よりも、山神であるサル神(大行事権現)のほうが、より古い日吉大社の祭神(地主神)であるようです。もし、そうだとすれば、最古の祭神(地主神)である猿神(山神)をおとしめて信仰の中心から追い出して、あたらしく大山咋神の信仰を日吉大社や比叡山にもちこんだひとたちと、秦氏のひとたちのあいだにも、なにか関連があるのかもしれません。
中国大陸や朝鮮半島からやってきて、山城国(現在の京都市)において、たくさんの神社や寺院にたいする影響力をもち、大きな権勢を誇った、今来の渡来人である秦氏のひとびとが、自分たちが居着いたさきの土地やその周辺において、そこで信仰されていた古来の神々を追い出して、それらの土地にあたらしく今来の神をもちこんだ、という構図は、なんだかありそうなことのようにもおもえます。
叡山を伝教に追われ、弘法大師に法力によって閉じ籠められながら、大江山に居つくようになったという酒呑童子籠居のいわれは、いわゆる叡山の古い地主神が、今来の神によって追放される過程をあらわしており、童子はその地主神のなれの果てということになる。
(岩崎武夫「権現堂と土車」, 『さんせう太夫考 続』) [58] [51]
零落した猿神を信仰していた芸能者たちの没落と、香取本『大江山絵詞』の田楽を奏で舞い踊る鬼たち
日吉大社がある近江国(現在の滋賀県)には、かつて、近江猿楽と呼ばれた猿楽座(猿楽師の専業団体)が複数ありました。そのなかには、日吉神社(日吉大社)に所属していた近江猿楽の一座もありました。もしかすると、それらの近江猿楽の一座は、比叡山の古来の地主神であった猿神(山神)を信仰していた人々の末裔だったのかもしれません。
おそらく猿の物真似が滑稽な感をもって迎えられるようになったには、猿の信仰を奉ずる者たちの落魄があったのであろう。たとえばサルタヒコがひらぶ貝にはさまれて水におぼれて死んだという『古事記』の神話にしてからが、すでに滑稽感をまぬがれないものであった。
昔話の猿聟によって、猿が水の神であったらしいといったが、その結末もまた、サルタヒコ同様水におぼれて死んでいる。そのことはすでにのべた(「祖父」)。かように下級の神が零落したのは、神自身を演じるものの零落ときりはなしがたい。ヤマサチヒコに誓いをたてて降伏したウミサチヒコが、水におぼれる敗北の状を演じて、自らの誓いを確認したように、征服者に笑いを提供するのが、一種の社会的効用となったのだ。厳粛たるべき神の出現が、滑稽感をさそうものに変化したのは、猿が滑稽であったからではなく、猿を演じて笑われるべき必要があったからにほかならない。
〔中略〕
私の意図していたのは、〔中略〕宗教的な起源をもちながら、零落した神々がその苦痛にみちた生活史によって人間性を徐々に拡大してきた変貌過程のほうをこそ提示したかったのである。
(戸井田道三『狂言 : 落魄した神々の変貌』) [77] [51]
香取本『大江山絵詞』の物語のなかには、「酒天童子(酒呑童子)の配下の鬼(妖怪)たちが、田楽を奏で舞い踊りながら、源頼光たちの一行の前にあらわれる」、という一場面があります。
種々無尽の変化の物共、背背も大きに貌も恐ろしげにて、田楽をして通りけり。
(香取本『大江山絵詞』 下巻 第一段 詞書) [78]
これらの「田楽を奏で舞い踊る鬼たち」のすがたと、零落した「猿の信仰を奉ずる者たち」の末裔であった芸能者たちのすがたに、どこか、かさなるものをかんじます。
もしかすると、香取本『大江山絵詞』の「田楽を奏で舞い踊る鬼たち」は、もともとは、比叡山の古来の猿神(酒天童子(酒呑童子))を信仰していた芸能者たちだったのかもしれません。そして、比叡山の猿神(酒天童子(酒呑童子))が、外来の豪族と外来の神によって追いやられ、零落してしまったのと時をおなじくして、その神を信仰していた芸能者たちもまた、零落して「鬼」とよばれる存在にされてしまったのかもしれません。「鬼」にされてしまった芸能者たちは、「征服者に笑いを提供する」役割だけでなく、「(香取本『大江山絵詞』の物語のような、)征服者が権威を誇示するための茶番劇のために悪役を演じなければならない」という役割までも背負わされることになってしまったのかもしれません。
参考:双葉葵(二葉葵)の神紋や、秦氏にゆかりのある神社・寺院
ここからは、双葉葵(二葉葵)を神紋としている神社など、秦氏とのあいだに直接的・間接的なつながりがあるとおもわれる神社や寺院を紹介します。
- 日吉大社の東本宮
- 松尾大社
- 賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)
- 賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)
- 木嶋坐天照御魂神社(別称:木嶋神社)(併設:蚕養神社(蚕ノ社))
- 広隆寺(別称:太秦寺)
- 大酒神社
- 伏見稲荷大社
日吉大社の東本宮も、松尾大社とおなじように、大山咋神を祭神としています。また、松尾大社とおなじように、双葉葵(二葉葵)を神紋としています。
松尾大社も、日吉大社の東本宮とおなじように、大山咋神を祭神としています。また、日吉大社の東本宮とおなじように、双葉葵(二葉葵)を神紋としています。(松尾大社は、「まつおたいしゃ」と呼ばれることもあります。)
松尾大社の起源は、秦忌寸都理が勧請して、秦氏の氏神として社殿を建てたのがはじまりとされています。
賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)は、双葉葵(二葉葵)を神紋としています。
祭神:賀茂別雷命(別雷神)
賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)も、日吉大社の東本宮や、松尾大社とおなじように、大山咋神(大山咋命)を、摂末社の祭神の一柱として祀っています。また、双葉葵(二葉葵)を神紋としていることもおなじです。
祭神:玉依姫命
祭神:賀茂建角身命
木嶋坐天照御魂神社(別称:木嶋神社)(蚕養神社(蚕ノ社))は、双葉葵(二葉葵)を神紋としています。また、秦氏にゆかりのある神社でもあります。
広隆寺(別称:太秦寺)は、秦氏にゆかりのある寺院です。
(参考)
広隆寺(こうりゅうじ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA-63369
(参考)
広隆寺 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
(参考)
太秦の牛祭(うずまさのうしまつり)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%A7%A6%E3%81%AE%E7%89%9B%E7%A5%AD-1273925
(参考:『太秦牛祭絵』(絵巻))
太秦牛祭絵 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540920/34
太秦牛祭絵 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540920/30
太秦牛祭絵|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007277101-00
大酒神社の起源は、秦始皇帝の子孫の功満王が、秦始皇帝の霊を勧請して祀ったことが起源だとされています。
功満王の子どもである弓月王が百済から帰化して、その孫である秦酒公は、養蚕をおこなって、たくさんの絹織物を朝廷に献上しました。それによって、宮中ではたくさんの絹の織物が山のようになり、そのことを喜んだ天皇が、「埋益」という意味で、「禹豆麻佐」という姓を与えました。(このことが、「太秦」という地名の起源だといわれています。)
(参考)
広隆寺(こうりゅうじ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA-63369
(参考)
広隆寺 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
(参考)
太秦の牛祭(うずまさのうしまつり)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%A7%A6%E3%81%AE%E7%89%9B%E7%A5%AD-1273925
(参考:『太秦牛祭絵』(絵巻))
太秦牛祭絵 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540920/34
太秦牛祭絵 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540920/30
太秦牛祭絵|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000007277101-00
伏見稲荷大社の起源は、秦氏にあるとされています。
「風土記」の山城国の逸文のなかに、「秦中家忌寸の遠い祖先である秦伊侶具という人物が、稲荷社の起源である」というような意味の記述があります。
風土記に云ふ。伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稲粱を積み冨裕を有つ。乃ち、餅を用ち的と為せば、白き鳥と化り、飛び翔り山の峯に居る。伊祢奈利生ふ。遂に社の名と為す。其の苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜じ、家に殖ゑ、祷み祭る。今、其の木を殖ゑ、蘇きば福を得。其の木を殖ゑ、枯れば福はず。
(風土記にいう。伊奈利というのは、秦中家忌寸等が遠い先祖である伊侶具の秦公は、穀物が多く採れ裕福になった。驕った彼は餅で弓の的を作って遊んだ。すると餅の的は白い鳥に変身して、飛び去り、山の峯に逃げてしまった。その場所に稲が生じた。そこで(稲ナリ=イナリという名を)社名に付けた。後、子孫は、祖先の過ちを悔いて、先の山中の社の木を根ごと引き抜き移植し、家に植えて十分に祭り(神に許された)。今(もその移植を行って占いをするが)、その木がちゃんと根付けば幸福になり、その木が根付かず枯れてしまえば幸福は得られない、という。)
(「伊奈利社」, [風土記 逸文 山城国]) [91] [24]
香取本『大江山絵詞』の「平野山」とは、比良山地・比叡山地・石山(石山寺)をふくむ一帯のことであり、酒天童子(酒呑童子)はその一帯の地主神である比良明神として描かれている
物語の中でそのようなことを主張しても詮ない所業ではないかというのは近代人の発想である。例えば、先にも触れた『太平記』巻十八における叡山開闢説話は、足利将軍側近達の山門領没収の評定の場所において玄慧法印の反論として提示されているのである。中世の宗教者にとって、このような物語的〈神話〉は単なるお話であり得なかったのである。
―― 濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」 [96]
香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の昔語りのなかでは、「最澄が平野山の地を酒天童子(酒呑童子)から奪いとって、その地に根本中堂を建てた」とされています。ここで言う「平野山」という地名は、おそらく、「ひらのやま」(「比良の山」)、つまり、現在で言うところの「比良山」(比良山地)のことを指しているのだろうとおもます。ですが、最澄が根本中堂を建てたのは、比叡山です。
比良山地と、比良山地の南に流れる和邇川をはさんで、さらにその南にある比叡山地は、近い位置にあります。ですが、比良山地と比叡山地は、明確に区別することができる、まったく別の山地です。
- 比良山地:主峰の武奈ヶ岳や、蓬莱山、打見山、白滝山、権現山、堂満岳などを含む山地。
- 比叡山地:主峰の大比叡や、四明岳 [97]、小比叡(別称:波母山 [98]・横高山・釈迦岳)、水井山 [99]、三石岳などを含む山地。
ここで、「なぜ、香取本『大江山絵詞』では、最澄が根本中堂を建てた山のことを指す地名として、『比叡山』という地名ではなく、『平野山』という地名をつかっているのか?」という疑問が湧いてきます。結論から言うと、おそらく、この「平野山」という言葉は、「比良山地をはじめとして、その南にある比叡山地や、さらにその南にある石山(石山寺)のあたりまでを含む一帯の山々の地域」のことだろうとおもいます。その理由は、「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々の地域」が、比良明神の信仰がある地域だからです。
このことについて、池上洵一さんは、つぎのように述べておられます。
比良連山は最高峰の武奈ヶ岳でも標高一二一四メートル、数字でみると高い山ではないが琵琶湖に面した東側は湖畔まで一気に薙ぎ落ちており、麓から見上げる山容には威圧感さえ漂う。堅田のあたりから比良の麓に洽って北上すると、もともと乏しかった湖畔の平地がますます狭くなり、ついには山脚がそのまま湖面に接するところに白鬚神社がある。旧高島郡(現高島市)鵜川の地で、湖中に立つ赤い大鳥居で知られる。これが現在もっともよく知られた比良の神であろう。〔中略〕
この神は、奈良の東大寺建立のときには良弁僧正の前に老翁となって現われ、現在の石山寺の地を譲って如意輪観音を祀らせたといい(石山寺縁起)、最澄が比叡山に根本中堂を建てたときには老人の姿で現われて、釈尊が成道して衆生を教化したときにはすでに老齢で参詣できなかったと語ったといい(古事談)、琵琶湖が七度葦原に変じたのを見てきたほどの超老齢の翁で、仏教結界の地として釈尊に比叡山の地を譲ったとも伝える(『曾我物語』、謡曲『自髭』など)。つまり、この神は比良山だけでなく比叡山やさらに南の石山付近まで含む一帯の山々の地主神として理解され、その化現は驚くべき長寿の老翁としてイメージされていたのである。
(池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [100] [51]
このように、「比良山地をはじめとして、その南にある比叡山や、さらにその南にある石山のあたりまでも含む一帯の山々の地域」は、比良明神を地主神として信仰していた地域なのです。
つまり、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、比良明神と同一の存在として描かれているのだろうとおもいます。そのため、香取本『大江山絵詞』における酒天童子(酒呑童子)は、「比叡山の地主神」というよりは、より広域の、「比良山地・比叡山・石山」の一帯の地主神として描かれているのだとおいます。
そのため、香取本『大江山絵詞』では、「地主神である比良明神の領地」という意味で、「平野山」という言葉をつかったのだろうとおもいます。そして、比叡山は、その「平野山」と呼ばれる地域のなかの一部だったのだろうとおもいます。
最澄が比良明神から比叡山の地を譲り受けたという説話があることにもあらわれているように、おそらく、天台宗の教団は、比良明神に対する信仰を、自分たちの天台宗の教団に対する信仰に置き換えていったのではないかとおもいます。
そのため、天台宗の教団は、比良明神の信仰がある地域、つまり、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を、自分たちの教団の領地であると主張したかったのではないかとおもいます。
香取本『大江山絵詞』で、最澄が、比叡山ではなく、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域の地主神である酒天童子(酒呑童子)を追い出して、根本中堂を建てた、とされている理由は、つまり、天台宗の教団が、比叡山地だけでなく、「平野山」(「比良山地から、比叡山地、石山のあたりまでを含む一帯の山々」)の地域を支配することの正統性(支配権・領有権)が、自分たちの天台宗の教団にある、ということを主張するためなのではないかとおもいます。
相応和尚に仮託して、天台宗の教団が奪い取った、比良山地の地主神(思古渕明神)の領地と信仰
比良山地の地主神については、ほかにも、天台宗の僧侶が、比良山地の地主神から比良山地の土地を譲り受けたとする説話があります。
相応和尚は、天台宗の僧侶であり、無動寺の開基であり、天台修験・比叡山回峰行の祖とされる人物です。相応にまつわる説話のなかには、「相応が、比良山地の地主神である思古渕明神から、葛川の地(比良山地の西側の地域)を譲り受けた」とする説話があります。この説話の背後にあるのは、天台宗の教団が、相応和尚に仮託して、比良山地の地主神である思古渕明神を信仰する人々の領地と信仰を奪い取った、ということなのかもしれません。
村山修一さんは、つぎのように述べておられます。下記の文章では、地主神が、比良明神ではなく、思古渕明神となっていますが、どちらも、比良山地の地主神であることはおなじです。ですので、「天台宗の教団が、比良山地の地主神の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ということは、「天台宗の教団が、比叡山の地主神(酒天童子(酒呑童子))の領地とその信仰を、自分たちの教団の領地と信仰へとすり替えていった」ことと、おなじです。
相応は二十九歳にして生身の不動明王を拝せんがため、けわしい比良山西斜面の山道を北進し、遂に一清滝を発見し、ここを修行場と定めた。
〔中略〕
相応の到達した清滝はいまの安曇川畔坊村で、この川に合流する明王川の上手、比良山系から流れ下るところに生じた一つの滝と考えられ、主峯武奈嶽の直下に近く、極めて急斜面の地形をなしている。
相応は滝の前の石の上で、七日間明王を念じていた。そこへ一老翁があらわれ、対座して動かず、八日日に何人かと問うと、向うはお前は何のためここに来たのかと応酬し、相応は生身不動明王を拝む目的で修行していると答えると老人は感歎し、ここには十九の清滝と七つの清流があり、周囲、東は比良峯、南は花折峠、西は駈籠谷・鎌鞍峯、北は右渕瀬を境とする別領をなし、誰も入ったことがない。あなたは不動明王の後身であるから別領を進ぜよう。この滝は十九のうちの第三の清滝で、兜卒内院に通じ葛川滝という。今後修行者を守り、弥勒下生の暁まで仏法を守り続けることを誓おう、われは思古渕大明神であると言い終って姿を消した。
相応はこれは明王か魔王の変化かと疑いつつ、合掌析念を止めないでいると、遂に滝の内に明王の姿を見た。たちまち滝に飛び込んで抱き上げ、石上に置いて拝んでみるとただの樹木であった。よってこの樹木を以て不動明王を彫刻し比叡山無動寺に持ち帰り本尊としてまつった。
〔中略〕
ここで葛川の支配地を相応に譲ると託宣した思古渕明神について説明しよう。志古渕.信興渕等とも書き、葛川はじめ安曇川流域全体に今日もまつられている民俗神であり、その信仰は恐らく平安朝以前に溯るであろう。
〔中略〕
けだし思古渕明神は水神であるとともに地神でもあり、太古以来住民達の生活を支える精神的基盤であったにちがいない。ゆえに神が相応に土地を譲る託宣をした話は、相応が葛川の行場開拓について土地の住民との折衝を暗示し、裏に多少住民の抵抗が秘められていたことも想像される。それは高野山開発の際の空海に対する丹生明神(これをまつる丹生氏)の抵抗ほどのことはなかったにせよ、相応以後の天台の支配は、思古渕信仰に象徴される村民の山林所有権を、不動明王信仰で示される天台の領主側が奪い取るねらいをもったものとしても解釈されよう。明王院には創立の頃鎮守社が営まれ、いまそれは地主神社として安土桃山期の本殿や中世の神像が遺っているが、そこでは延暦寺の鎮守である日吉社の神が勧請され、配祀の神として賀茂・平野・松尾・三輪・鹿島・江文の諸神とともに思古渕明神もまつられ、日吉大明神の眷属神的地位に下げられてしまった。
(村山修一『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』218~219ページ) [51]
また、佐藤弘夫さんは、『霊場の思想』のなかで、つぎのように述べておられます。
下記で述べられている、中世の寺院がおこなった「寺領荘園の拡大」のやりかたは、天台宗の教団が、相応和尚という「聖人」の説話をつくりだし、その「聖人」に仮託して、比良山地の地主神(思古渕明神)の領地と信仰を、自分たちの領地と信仰にすり替えていったやりかたと、おなじなのだろうとおもいます。
中世成立期の寺院が重視したのが、寺の所有する土地(寺領荘園)の拡大である。寺院はみずからへの土地の寄進が、極楽往生へとつながる善行であることを積極的に宣伝した。廟所にいる聖人たちは彼岸への案内人であるとともに、集積された寺領に対する侵犯を監視する役割を負った。彼らは「賞罰」=アメとムチを使い分けることによって、この世の悪人を悟りの世界に導く存在とされていたがゆえに、仏敵への治罰は本来の役割となんら矛盾するものではなかったのである。
官寺としての古代寺院からの脱却をめざした諸寺院は、積極的に地方にも教線を拡大した。それは地方では廃れていた古い寺院の再興という形態をとった。その役割を担ったのが「聖」とよばれる一群の行者たちだった。
彼らは各地を巡って目ぼしい寺院を再興するとともに、中央から持ち込んだ最新の土木技術を用いて周辺の土地を開発し、囲い込んでその寺の経済的な基盤とした。開発され買得された土地には、所有のシンボルとして要所要所に堂舎が立てられ、神々が勧請された。そのうえで、寺と寺領全体の監視者として奥の院に聖人を祀った。
(佐藤弘夫「聖の活動」, 『霊場の思想』) [103] [51]
魑魅や、魍魎は、山の精霊
私は魑魅と光を争おうとする哀れな秋の蛍火であり、罔両に笑われるはかない野馬にすぎない。だが干宝(中国最初の小説集 「捜神記」の著者)の才も持たぬのに、かねて神を捜ることを愛し、また、人に鬼を談らせて喜んだ、かの黄州の知事(蘇東坡)と、その気分を同じくする。
―― 蒲松齢「聊斎自誌」, 『聊斎志異』 [104]
魑魅魍魎という言葉あります。
現在では、この言葉は、「雑多でいろいろな化け物や妖怪や悪霊」というような意味としてつかわれる言葉になっています。
現代の人が、魑魅魍魎という言葉を聞いておもいうかべるのは、この下の『百鬼夜行絵巻』に描かれているような、付喪神などの、種々雑多な化け物や妖怪や悪霊のすがたなのではないかとおもいます。
ですが、魑魅魍魎という言葉のもともとの意味は、このような意味とはすこしちがいます。
魑魅という言葉と、魍魎という言葉は、もともとは、別々の言葉です。
魑魅という言葉や、魍魎という言葉は、もともとは、山の精、川の精、石の精、水の精、木の精、などの、山や森のなかにいる精霊や妖怪のことを指す言葉です。
「魑」
「魑」
「魅」
「魅」
「魍」
「魍」
「魎」
「魎」
「魈」(山魈)
魈
山魈
「䰠」
䰠
鯀・禹・啓・羿の夏の代々の人物が現れるので、西山経の帝江は帝康でなかろうか。康は狩にふけり国を羿に奪われた。そのためか化して鳥の姿となっている。羿は異民族有窮の出で、その神は鬼字であらわして有窮の鬼といい、鬼方と思われる槐も鬼で区別されている(鬼鬼では通じにくいため槐の字にしたか、ともに西山経)。羿の臣、武羅(『漢書』古今人表)も䰠の字であらわされるが、種族的な差別からだろうか。
(高馬三良[『山海経』についての解説]) [107] [51]
「鬽」(すだま)
鬽
鬽
〔中略〕
すだま。物の年経て変化した妖怪・精霊。
(「鬽」, 『角川大字源』) [108]
「䰡」(①えやみの神。②すだま。)
䰡
䰡
〔中略〕
①えやみの神。災厄・疫病の神。
〔中略〕
②すだま。山や森で人にあだをなす妖怪の類。
(「䰡」, 『角川大字源』) [109]
「魃」
また山𤢖は魃という旱魃をもたらす神とも同一視されている。魃は一ツ目一本手一本足で猿人の姿形をしているという。冬期の乾期に山童に、夏期の雨季に河童に変身する日本の伝承にも、なんらかの影響をもたらしたにちがいない。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [43]
「魌」(参考:「魌頭」は、鬼っ子ハンターついなちゃんの方相氏のお面の「ディクソン」)
魌
〔中略〕
「魌頭」は、疫病神を追い払うときにかぶる、醜怪な鬼の面。
(「魌」, 『角川大字源』) [110]
この「魌頭」というのは、方相氏がつけている「金色の四つ目」のお面のことだそうです。
余談ですが、現代に生きる方相氏(鬼退治師)の女の子「鬼っ子ハンターついなちゃん」というキャラクターがいます。
ついなちゃんは、役小角の子孫を自称し、役追儺を名乗っています(本名は、「如月ついな」です)。
ついなちゃんが頭につけている方相氏のお面は、「ディクソン」という名前です。
ですので、このお面「ディクソン」も、「魌頭」だといえるのではないかとおもいます。
今日はちょっと一日中お出かけなので、朝一にファンティアの更新をお届け♫
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(参考)
#追儺 鬼子誕生後初の節分記念キャラ・鬼退治師のついなちゃん - 大辺璃 紗季(かだ)のイラスト - pixiv
https://www.pixiv.net/artworks/16381646
(参考)
ついなちゃん (ついなちゃん)とは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net/a/%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
(参考)
【鬼っ子ハンターついなちゃん】(CV:門脇舞以)プロジェクト! (ついなちゃん【CV:門脇舞以・原作:大辺璃紗季】)|ファンティア[Fantia]
https://fantia.jp/fanclubs/326
(参考)
追儺 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%84%BA
(参考)
方相氏(ホウソウシ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B9%E7%9B%B8%E6%B0%8F-628121
「魋」(赤熊、神獣のくま)
魋
赤熊
神獣のくま
「魔」(鬼+麻)
魔
鬼+麻
魔
〔中略〕
修行を妨げる鬼神の意。ひいて、まものの意に用いる。
(「魔」, 『角川大字源』) [111]
(参考)
魔羅/摩羅(マラ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%94%E7%BE%85-635930
(参考)
マーラ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9
「魊」(子供の鬼)
魊
子供の鬼
「魕」(「𩴪」)(鬼を祭る風習)
「魕」(異体字:「𩴪」)
(鬼を祭る風習)
「魖」(「夔、神魖也」)
魖
少し前の、「神あり、人面にして臂なし、両足、反って頭山(上)に属く、名づけて嘘という」はまるで飛天の姿であるが、郭注では、嘘、啼也とあって、神ありの文意をころしている。『説文』に、夔、神魖也とみえ、段玉裁は神を即に改めている。一本足の動物としての夔は大荒東経にあり。この文の嘘はもと虚であった(集韻、魅・𥛳)。舜の臣である。『尚書』に比べるといずれもじめな姿をしているが、ここらあたりが『山海経』のもつ古怪の面白さであろうか。
(高馬三良[『山海経』についての解説]) [112]
「魘」(うなされる)
魘
うなされる
仮説:比叡山の一つ目小僧(一眼一足法師)は、比叡山の地主神である山の神が落魄した姿
比叡山延暦寺の「一つ目小僧」(一眼一足法師) [114]
比叡山延暦寺には、「比叡山の七不思議」 [115]という伝承があり、そのなかのひとつに、「一つ目小僧」(一眼一足法師)という妖怪の話があります。
ぼくは、この「一つ目小僧」(一眼一足法師)という妖怪は、本来は、比叡山の地主神である山の神が、天台宗の教団によっておとしめられ、追いやられ、変わりはててしまった姿ではないかとおもいます。
比叡山では修行僧を戒めてまわる、僧侶の姿をした一ツ目の奇怪な妖怪「一眼一足法師」が出没するといわれ、浪源もしくは浪源の弟子で十九代座主の慈忍和尚の生まれかわりであると信じられた。浪源の時代は厳しい戒律を与えて、僧らの生活を律していたが、それでも師匠の目を盜んで勤行をなまけて、山をひそかに降りては京の町へ通う者があった。浪源の死後に尋禅(慈忍)が座主となったが、修行をなまける僧がますますふえて、比叡山は荒れすたれる一方であった。尋禅はそのあり様を苦々しく思いながら死去し、慈忍の称号をたまわった。するとその後、一ツ目一本足の妖怪が鉦を叩いて山をめぐるようになった。そして修行をなまける僧があると、鉦を叩いてじっと奇怪な一ツ目でにらみつけたという。あまりにもひどく怠けている僧は、比叡山から追い出してしまったともいう。この一ツ目の妖怪が浪源の「めぐり大師」であるとか、その弟子の慈忍和尚の生まれかわりだと信じられるようになったという。
現在の延暦寺の東塔に、修行僧の住む僧持坊という小さな寺があるが、この寺の玄関に「一眼一足法師」という名で、一ツ目の奇怪な僧の姿を描いた板額がかかげられている。一ツ目小僧、一ツ目入道が小坊主、僧侶の姿をしているのは、この比叡山の一眼一足法師をモデルにしていると思われる。
比叡山延暦寺は京都御所の鬼門鎮護のため、延暦四年(七八五)に開祖伝教大師最澄によって建立された。最澄は中国浙江省天台県の中国天台密教の本山である天台山に来訪して学び、中国天台密教を日本にもたらし日本天台密教の開祖となった。そのため日本天台宗の信仰には、中国天台山で信仰されていた民間信仰(道教)なども同時に招来されている。このうち一眼一足の妖怪伝承は、浙江省の山間部でよく知られていた山魈(山𤢖)信仰をそのまま日本に招来したものと考えられる。当時の山魈は財産と災厄(病気、貧乏、淫乱)を気まぐれにもたらす、五路神(五通七郎諸神)とも同一視されていた。(五路神の名称が五郎の語源になったものか?)また漢民族は、少数民族である苗族の習慣、風習と山魈のそれとを重ね合わせて考えている。苗族は通信方法としてつねに鉦を携帯していた。
(多田克己「目一つ坊【めひとつぼう】」『妖怪図巻』) [116]
余談ですが、実際の「めぐり大師」という言葉のつかわれかたは、どうやら、上記の文章中で言及されているような意味でつかわれていたわけではないようです。
2019年10月~12月に、比叡山延暦寺で、『ゲゲゲの鬼太郎』(水木プロ)と延暦寺(天台宗)が協同して開催された「ゲゲゲの鬼太郎と比叡山の七不思議展」というイベントが開催されました。
(参考)
ゲゲゲの鬼太郎と比叡山の七不思議展
http://oyamanigegege.info/
(参考)
「ゲゲゲの鬼太郎と比叡山の七不思議展」のご案内 | お知らせ | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
https://www.hieizan.or.jp/archives/3966
ちなみに、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎は、原作の最初期のころは、現在のような「人間の味方」でも、「いい子ちゃん」でもありませんでした。つまり、ある意味で、現在の鬼太郎のすがたは、「人間たち」によって、すっかり「漂白」されてしまって、「いい子ちゃん」に変えられてしまった鬼太郎のすがただといえるかもしません。
そのように、「人間たち」によって、「漂白されてしまった」鬼太郎が、比叡山の「漂白されてしまった」地主神である山の神の別形のひとつであり、その変わりはてた姿である「一つ目小僧」(一眼一足法師)と、ともに描かれている、というのは、なかなか皮肉がきいていて、なにやら因縁めいたものをかんじさせます。
比叡山延暦寺の「一つ目小僧」(一眼一足法師) [114]
バビロニヤの一つの化け物
バグダッドの北東テル・アスムルから発見された神話に取材した浮彫。バビロニヤの神が一つ目の化け物を退治している所であるが、キクロペ系伝説がギリシヤ以前に存していたことを証し得るものである。ヘンリー・フランクフォート博士の説によれば、一つ目の服装から推定して約五千年以前のものであろうとされている。
(福士幸次郎「バビロニヤの一つの化け物」, 『原日本考』) [119] [121] [122]
伝教大師最澄が唐から比叡山延暦寺にもちかえった「遊天台山賦」に記されていた「魑魅」の文字
伝教大師最澄が唐から比叡山延暦寺にもちかえった『天台霊応図本伝集』という書物のなかに掲載されている「遊天台山賦」という文章のなかには、「魑魅」という文字があったそうです [123]。
おそらく、中国大陸から日本へ、仏教をはじめとするさまざまな文化が輸入されていく過程で、「魑魅」や「魍魎」といった言葉も、日本へ輸入されていったのでしょう。
そして、「魑魅」や「魍魎」といった言葉を日本にもちかえってきたひとたちの直接的・間接的な影響によって、しだいに、日本のなかの古来の山の神や山の精が、「魑魅」や「魍魎」や「魑魅魍魎」と呼ばれ、さげすまれる対象とされて、落魄していったのではないかとおもいます。
そうした、古来の山の神や山の精がおとしめられて、「魑魅魍魎」と呼ばれて落魄していく流れに影響をあたえたひとたちのなかには、たくさんの仏教僧たちもふくまれていたのだろうとおもいます。
もしかすると、そうした、日本のなかの古来の山の神や山の精をおとしめる流れを、直接的・間接的におしすすめた人たちのなかに、唐から日本へ仏法をもちかえってきた最澄も、ふくまれていたのかもしれません。
(参考文献)
論文タイトル:「伝最澄編『天台霊応図本伝集』の研究(1):現存最古の李善単注本「遊天台山賦」」
著者:池麗梅
雑誌名:鶴見大学仏教文化研究所紀要
出版者:鶴見大学
発行年:2012-03
参考箇所:184ページ
孫興公(孫綽)「遊天台山賦」(『天台霊応図本伝集』所収)
(参考)
鶴見大学・短期大学部機関リポジトリ
https://tsurumi-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=402&item_no=1&page_id=13&block_id=21
比叡山の地主神である大山咋神、杭、杖、山の神
比叡山の地主神であるとされている大山咋神の名称のなかの「咋」という言葉の意味については、諸説あります。
それらの諸説のなかでも、とくに、「咋という言葉は、杭のことを意味している」とする説が有力であるようです。
このような、「山の神を象徴する杭(棒)」は、土地の領有権を象徴する「地面につきたてられた杖」にもつうじるものがあるようです。
以下は、このことについての情報です。
次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。
(次に生まれたのはオホヤマクヒノ神で、またの名を山末之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。)
(<注> 大山咋神 「くひ」は神霊の依代としての杭の意であろう。日吉神社の祭神で比叡山の山の神。)
(次田真幸(訳注)「大年神の神裔」, 『古事記』) [125]
このように近江では、杭や木の棒・木製男根や男女型股木によって山神が祀られ、あるいは藁蛇をもって山神を祀っていると言え、神道の大山祇神と同じく大山咋が近江の民間の山神にとり入れられたことも、棒柞で祀られる山神としての意味があったからにほかならないと思われる。
(山崎時叙「近江山神信仰の民俗学的研究」) [126]
杖をめぐる思索の起点に、わたしたちはひとつのすぐれた論考をおく。松村武雄「生杖と占杖」(『民俗学論考』所収)――。
〔中略〕
松村によれば、発生の始源に還ると、ヘルメスは頂に人頭をつけた一本の柱へルムであった。この角柱には、二匹の蛇を載せた杖が描かれ、背後に一本の樹がはえている。ここに添えられた一本の樹木こそが、もっとも原始的なヘルメスの観念をあらわす。本源的には一個の生成豊鋳の霊であったへルメスは、樹木から角柱へと様式化され、同じく生成豊鏡の勢能としての陽物崇拝と合流した。
〔中略〕
松村の、ヘルメスの杖に関する発生論的了解の当否を問う力はないが、日本文化のなかの杖をかんがえる大きな手掛かりが提供されていることは確実である。
(赤坂憲雄「杖の発生」, 『境界の発生』) [127]
土地にひそむ荒ぶる神霊を殺害し、あるいは谷間から山懐深くへと駆逐する。そして、その境界にある堀に“標の梲”をたてる。そこに衝きたてられた一本の杖(「梲」は大きい杖を意味する)は、神の地/人の田を分かち隔てる境界標識となる。そうして麻多智とその一族が神の祝=祭配者として、社をもうけ、祓い棄てた夜刀の神を祀ることで、荒ぶる土地の霊と水神は鎮められ開拓が可能となった、と語られる。
〔中略〕
『風土記』からはほかにも、いくつか同型の伝承を拾いあげることができる。
〔中略〕
ともに、帰化人による土地の開墾と定住にまつわる伝承である。移り住んでくる人々、また行き過ぎる人々に妨げをなす荒ぶる神が登場する。前者では、のちに山の峰に逐われる神は、谷の神といった直接的に自然を形象した神霊ではなく、先住異部族の奉ずる神のようであるが、それを山上に祓いやり、社を山の麓にたてて祀ることで、開拓と定住が果たされている。後者の場合、佐比(鋤)を作り開墾占居神として祀ったが鎮まらず、先住異部族を逐い、はじめて開拓者として定着に成功するのが河内の漢人であるが、そこでも山の辺に居をかまえ(おそらくは社をたて)、ようやく荒ぶる神の鎮魂がなしとげられている。平野と山の境界が開墾伝承の舞台に択ばれていることに、眼をとめておきたい。
さて、わたしたちはあらためて夜刀の神伝承にもどり、山/平野をかぎる境界にたてられた“標の梲”について語らねばならない。首長=祭祀者である麻多智は、身に甲冑をまとい杖を執り角ある蛇神として可視化された自然と戦い、それを山側に祓いやったすえに、山裾の湧き水のある堀に“標の梲”を刺す。この“標の梲”の神秘な力こそが、夜刀の神という荒ぶる神霊を制圧させえたことに注意したい。しかも、夜刀の神=蛇=水神というイメージ連鎖のなかにおくとき、“標の梲”は稲作農耕に深くかかわる水の管理支配にたいして呪的な働きをなしたことがわかる。〔中略〕
麻多智とその子孫は、夜刀の神を山という外部に祀り棄てるばかりでなく、みずから夜刀の神を奉祭する神の祝でもある。いわば、人間/自然=神を分節化すると同時に、融和的に仲介する存在といえる。「地もらいの儀礼」であれなんであれ、麻多智が神の祝として主宰するのが、“人の田”を維持し繁栄をうながすための農耕祭儀であったことは否定しがたい。“標の梲”が位相転換のすえにひとつの制度として定着するとき、それは社とよばれる。この社もまた、共同体の内(人の田)/外(神の地)のはざまにたつ境界標識であったはずだ。
(赤坂憲雄「標の梲と夜刀の神」, 『境界の発生』) [128]
各地を遍歴して国占め・国作りをすすめた古代の王たち、かれらがその神秘な呪力ゆえに統治権の象徴ともされた杖を衝く姿が浮かぶ。
〔中略〕
出雲の祖先神・八束水臣津野命が、国引きをおえて鎮座するとき、 意宇の社に杖を衝きたてている。その場所は、郡家の東北のほとりの田中にある小高い山であり、その頂には一本の繁った樹がたつ。その樹がおそらくは、国引きの神が刺した杖である。
伝承のなかの杖は、しばしば樹木に変態を遂げる。〔中略〕土地占有または境界の標示としての杖や棒と、生きた樹木は置き換え可能である。
(赤坂憲雄「杖をもつ古代の王たち」, 『境界の発生』) [129]
『風土記』にみえる“形見”や“御志”として地に刺した杖。それはこれまで、 例外なしに土地占有の標示として説明されてきた。誤りではないとしても、そのたてられた場所が占有する土地の中心ではなく、ある種の境界的な地点であったことはあらためて指摘しておく必要がある。むしろ、“標の梲”を起点とすれば、境界の画定(人の田/神の地)こそが、土地の占有を意味する行為であったことが知られる。
〔中略〕
日本の古代には、境界の画定が土地の占有や支配を意味したと想像される。いずれにせよ、古くは異質なる世界が相接する境の地にたてられた杖は、やがて境界との関係を忘れられ、土地の占有標示として一義的に了解されるようになったといえるだろうか。
(赤坂憲雄「境界祭儀と杖」, 『境界の発生』) [130]
“標の梲”によって境界の外へ夜刀の神を逐った麻多智は、みずから神の祝となって夜刀の神を敬い祀りつづけることを誓い、“冀はくは、な崇りそ、な恨みそ”と告げる。
(赤坂憲雄「御杖代の巫女たち」, 『境界の発生』) [131]
仮説:狩籠岡(狩籠丘)は、比叡山の地主神である山の神霊(魑魅魍魎、山鬼)を祀り、たたりをふせぐための場所
「今より後、吾、神の祝と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀はくは、な崇りそ、な恨みそ」
(今から後、私が神を祀る司祭者となって、永久に敬い祭ってやろう。どうか、崇らないでくれ、恨まないでくれ。)
―― 箭括麻多智が、みずからが殺した夜刀の神にたいして告げた言葉「常陸国風土記」 [134] [24] [135] [136] [137]
キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。……以前の自然崇拝になれた民衆は、キリスト教への改宗ののちにも、ある特定の場所に対しては時代おくれの畏敬の念を保っていたのだが、このような共感を、ひとは新しい信仰のために利用しようと試みたり、悪い敵の推進力であるとして誹謗しようと試みたりした。異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。
―― ハインリッヒ・ハイネ『精霊物語』 [138]
「仏法が圧力でほかの神々を排除しようとするからです
この国には古くから多くの守護神がおりました
その神々は 仏教の圧力におびえているのです……
つまり彼らにとって仏教は侵略者です」
―― 犬上の言葉, 『火の鳥 太陽編』 [139]
「この近江に都ができてからというもの……
この近くにも
あのように侵入して来たわけだ
あれは新しい神の使者の像だそうな……
情けないことにわれらはそれをとめる力を持たぬ
それどころか
新しい神に仕える者は
われらを邪鬼と呼ぶ!」
―― ルベツの言葉, 『火の鳥 太陽編』 [140]
「政権に従わせるには信仰を利用することだよ
光一族がそうだったし
歴史上いくらでも例があるぞ」
―― シャドーの指導者の言葉, 『火の鳥 太陽編』 [141]
「かごめかごめ
かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ」
―― 「かごめかごめ」 [142]
比叡山延暦寺は、最古の酒呑童子説話をつたえる絵巻物である香取本『大江山絵詞』のもとになった説話がつくられた場所とされています。
その比叡山延暦寺の西塔地区のなかの北谷地区に、狩籠岡(狩籠丘、大納艮岡、大納艮岳)と呼ばれる場所があります。
天台宗や、山王神道系の古文書には、「狩籠岡(狩籠丘)は、魑魅魍魎や悪鬼を封じ込めた場所である」と書かれています。(それもあってか、狩籠岡(狩籠丘)は、いわゆる、「比叡山四大魔所」のひとつにもなっているようです。)
ぼくは、狩籠岡(狩籠丘)の場所は、比叡山の地主神である山の神や山の精などを祀った場所ではないかとおもいます。
天台宗の教団(仏法)が比叡山に侵入したときに、天台教団は、それまで当地のひとびとの信仰の対象であった比叡山の地主神である山の神や山の精などを追い出して、それらの自然崇拝的な信仰を、自分たちの教団にたいする信仰へと、すり替えていったのではないかとおもいます。
そして、そのすり替えの過程で、比叡山の山の精や、比叡山の地主神の山の神など(魑魅魍魎、山の精(山鬼))をおとしめて、低級の妖怪変化や、悪鬼だとして、悪役にしたてあげていったのではないかとおもいます。
そうして、比叡山の山の精や、比叡山の地主神の山の神などを追い出し、排除する一方で、そうした神霊を信仰していたひとびとに配慮するための「穴埋め」としてなのか、それらのひとびとからの復讐をふせぐためなのか、はたまた、それらの神霊そのものを「抹殺した」ことにたいする罪悪感からか、それらの神霊のたたりをおそれたからなのか、いずれにしろ、そうした「非業の死を遂げた者たち」の「御霊」のたたりをしずめるための「言い訳け」として、それらを祀る場所をもうけたのではないかとおもいます。
その場所が、狩籠岡(狩籠丘)だったのではないかとおもいます。
ちなみに、狩籠岡(狩籠丘)は、修験道や、密教、陰陽道、陰陽術、目籠、籠目、「臨兵闘者皆陣烈在前」の九字、四縦五横の格子、四横五縦、四竪五横、ドーマン符、セーマン符、事八日(コト八日)、一つ目の鬼、来訪神、などの観点からも語ることができるかもしれません。
狩籠岡(狩籠丘)という言葉のなかの、「籠める」という文字は、まるで、目籠の「籠目」の呪力をもって封じ込めた(閉じ込めた)ことを暗示しているようにもみえます。
狩籠岡(狩籠丘)という名の「籠」に封じ込められている「秘密」があばかれて、そのなかに隠されている「かごの中の鳥」が「出やる」とき、「後ろの正面」に立ち現れてくるのは、いったいだれの姿なのでしょうか?
地主神がその霊地を寺院によって奪われることに対して抵抗の姿勢を示している話もある。
〔中略〕
巨木を表象とする地主神にとって、王権による収奪以上に各地で頻繁に発生し、故により深刻であったのは、仏法による土地の侵犯であったろう。
〔中略〕
読者は伊吹童子に「退治されるべき怪物」以上の存在感を覚えざるを得ないのである。伊吹童子の運命に、調伏され従属させられた地主神の悲哀を感じさせるという意味では、本作は両義的である。文学の長所のひとつが、多義的な世界の相を示すことにあるなら、結果的には本作の叙述姿勢は文学的にも首肯さるべきものと言えよう。
(濱中修「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」) [144]
ああ……こういう話を、私はずいぶん忘れてしまったもんだね。小さい頃は、いろんな経験をしたはずなのに。「スピリット(霊魂・精霊)」の話は、すごく身近だったのにね。
〔中略〕
どこかに行ったら、その土地の精霊たちに挨拶しなくちゃいけないって教わったもんさ。特に、水辺に行ったら、水に入る前に砂を一握りつかんで、そっと水に撒かなくちゃいけない。それから、「私は、こういう土地から来た、こういう者です」って、精霊に話しかけて、友達にならなくちゃいけない。さもないと、精霊はあんたを病気にしてしまうんだよ。水の中にいる精霊は、「水蛇」なんだ。
ここから、ちょっと行った所に、大きな木が生えてる林があるだろ? その林の中に、むかしは泉があったんだよ。大きな泉でね、ポンプで小を汲み上げて、タンクに溜めて、農場の水源として使ってたもんさ。〔中略〕
その大きな泉を、ミンゲニューの行政事務所が周囲を堀り広げて湖にしようとしたんだ。その工事中ポンプで水をさらってたら、水蛇が一匹這い出てきたんだよ。その水蛇を、彼らは殺してしまったんだ! そうしたら泉は涸れてしまった! 行ってみてごらん。あそこには、もう一滴の水もないから。
(上橋菜穂子「アボリジニが星の下で生まれていた頃」『隣のアボリジニ』) [145]
そのテーマとはすなわち、キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。……以前の自然崇拝になれた民衆は、キリスト教への改宗ののちにも、ある特定の場所に対しては時代おくれの畏敬の念を保っていたのだが、このような共感を、ひとは新しい信仰のために利用しようと試みたり、悪い敵の推進力であるとして誹謗しようと試みたりした。異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。今でも古代の愛すべき泉があって、民衆はそこへ巡礼し、そこから自分たちの健康をくみとることがまだおこなわれている。
信心深い斧に抵抗した聖なる樫の木は中傷された。つまりこの木の下で悪魔たちが毎晩ばかさわぎをし、魔女たちが地獄のみだらな行為をしていると今日ではいわれている。しかしそういわれても樫の木は今でもドイツ民族にとくに愛されている。樫の本は今日でもドイツの民族性のシンボルである。それは森のなかでいちばん大きくて強い木であり、その根は大地のいちばん底まで達している。その梢はみどりの軍旗のように、誇らかに空中にはためいている。詩にでてくるエルフェはその幹に住んでいる。聖なる英知のやどり木がその太い枝にまつわりつく。ただその実は小さくて人間には食べられない。
(ハインリッヒ・ハイネ『精霊物語』) [138]
わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神への変身のことをのべてみようと思っているのである。民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。その意味ではキリスト教会の教えとまったく一致しているのである。教会は古代の神々を、哲学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利によってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、すなわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌でもって背教へと誘いこむというのである。このテーマ、すなわち、古代の自然崇拝がサタンに奉仕するものとされ、異教の祭司の勤行が魔法につくりかえられたこと、神々の悪魔化というテーマに関しては、わたしはすでに『サロン』の第二部と第三部において腹蔵なく意見をのべておいた。
〔中略〕
上で話題にした気の毒な古代の神々がキリスト教の決定的勝利の時代、すなわち西暦三世紀に困難な状況にたちいたったことにだけ、読者の注意をうながしておこう。その状況は神々の生活のもっと古い、悲しむべき状況とたいへんよく似ていた。神々は今、すでにむかし経験したのと同じ悲惨なきびしい暮らしを余儀なくさせられているのである。それはあの古代の革命的時代のことだった。巨人神族が冥府の神オルクスの監視を逃がれて地上に上がり、オッサ山の上にペリオン山を乗せてオリュンポス山に登った、あの時代のことなのだ。古代のあわれな神々は当時屈辱的な逃亡をし、あらゆる可能な限りの覆面をして人間の住むこの地上に身をかくしたものだった。ほとんどの神々はエジプトへ行って、より安全に暮らすために動物の姿をとったものだ。これはよく知られている。それと同様に、世界の真の主が十字架の旗を天の城にうちたて、偶像破壊に血道をあげる狂信者ども、つまり僧侶の黒い一味があらゆる寺院を破壊し、追放された神々をさらに火と呪いのことばをもって追いかけまわしたとき、異教の神々はふたたび逃亡を余儀なくされ、可能な限りの覆面をして人里離れたかくれ家に住まいを求めなければならなかった。これらの亡命者の多くは気の毒にも雨露をしのぐ軒も、神としての食物もなく、今や、せめて日々の糧を得るために人間庶民の手仕事をしなくてはならなくなった。そういう事情のもとで、自分の聖なる社を没収された神々のうちには、わがドイツで木こりとして日雇い労働をし、ネクターの代りにビールを飲まければならなくなった神もある。
〔中略〕
この地上の偉大なる者には誰にでもねずみがかじりついている。神々自身でさえしまいにはみじめにも破滅しなければならない。運命の鉄の法則がそう望んでいるのだ。不死なる者のなかで最高に位する者でさえその法則のまえには屈辱的に頭をさげなければならない。ホメロスが歌いあげ、フィディアスが黄金と象牙でその像を作りあげた最高者、目をぱちぱちさせるだけで全世界が震撼する最高者、レダとアルクメネ、セメレ、ダナエ、カリスト、イオ、レト、エウロペなどなどの恋人である最高者―その最高神がしまいには北極の氷山のかげに身をかくし、悲惨な暮らしをほそぼそとつづけるために、まるでみすぼらしいサヴォア人のようにうさぎの皮で商売をしなければならないとは!
〔中略〕
わたしたちは、偉大なる者の落ちぶれた姿を見ると心から感動させられ、それに対して敬虔なる同情の念を捧げるのだ。この情のもろさゆえに、わたしたちの物語には、歴史記述者の誉であるつめたいきまじめな調子がつかないですんだのだろう。ただわたしたちは、フランスでしか得られないようなあの重厚さをつとめて得るようにしてきた。わたしたちがつねに最大の畏敬を表してきた読者の寛恕を謹んでお願いし、これをもって、流刑の神々の物語の第一部を閉じることにする。
(ハインリッヒ・ハイネ『流刑の神々』) [146]
おそらく猿の物真似が滑稽な感をもって迎えられるようになったには、猿の信仰を奉ずる者たちの落魄があったのであろう。たとえばサルタヒコがひらぶ貝にはさまれて水におぼれて死んだという『古事記』の神話にしてからが、すでに滑稽感をまぬがれないものであった。
昔話の猿聟によって、猿が水の神であったらしいといったが、その結末もまた、サルタヒコ同様水におぼれて死んでいる。そのことはすでにのべた(「祖父」)。かように下級の神が零落したのは、神自身を演じるものの零落ときりはなしがたい。〔中略〕
猿楽の狂言そのものの発生が、零落した神々の変貌にすぎなかったのである。
狂言の種類は多い。大名もの・小名ものとか、夫婦もの・聟もの、あるいは鬼もの・山伏ものなど、分類もまた多様である。しかし、私の見るところ、これらすべてを猿にはじまり狐に終わるという稽古の目標軸にそって、発展的に並べることができるのではないかと思う。つまり、人間に悪をするが、必ず征服されて逆に人間に笑いをもたらす役割をになったもの・小さい神・精霊を本源として、それから神性を脱却しつつ人間化への道をおしすすめたのが各種のバリエーションを生んだのであって、仔細に見てゆけば、室町期以降の社会相をうつしたもののように感じられる狂言でも、その根底に信仰的な残滓を指摘しうるのである。
「釣狐」の狐は、動物としての本性にうち負けて、猟師のかけたわなと知りつつ油であげた鼠の餌にひかれてゆく。その動物としての生態は、いわば物真似の精髄であろう。人間の動物に対する優越を強調するがわから見れば、狐は笑うにたえたる動物である。神通力をもち、僧侶に化けて殺生してはならぬと説くことさえできる老狐が、わずか鼠一匹の食欲を制しかねてわなにかかるとは、滑稽でないことはない。だがわれわれは、そこにいいがたい悲しみを感じる。それはなぜだろう。狂言が狐の生態を物真似したからではない。狐の物真似をとおして、人間の動物的な側面をつかみ出したからである。
しかし、それだけでもない。人間でありながら、動物に扮して、動物のなかに人間を発掘したからなのである。われわれは狐の物真似のなかにまさに人間を見ているのである。それは狐に対象化された人間をではなく、狐の物真似をするそのことのなかにこそ人間を見ているのである。
神々に扮することは、人間が神になることであった。しかし、落魄し零落した神人は、神そのものをも敗残の姿に追いやり、自ら人間化の旅に上ったのだ。われわれが、多様なる狂言のなかに信仰的なものを見出すのは、たいして骨の折れることではない。私はいささかそのことに力を入れすぎてきた感がある。
しかし私の意図していたのは、すべての狂言のなかに宗教的な起源を見ることではない。宗教的な起源をもちながら、零落した神々がその苦痛にみちた生活史によって人間性を徐々に拡大してきた変貌過程のほうをこそ提示したかったのである。
(戸井田道三『狂言:落魄した神々の変貌』) [147]
「わしは狗族の長老でルベツと呼ばれておる」
[...]「わしたちはこの地方の生きとし生けるものを守護して来たのじゃ
人間はわしたちのことを産土神とか 地霊とか 国つ神とか呼んでおった…昔から人間は収穫時 種播き時にはわしたちを呼んでもてなしてくれた
だからこそわしたちも彼らに雨や 水源や 道具を与えてやった…
人間と狗族とは倶に苦楽を分かちおうたものじゃところが数十年前……
この倭の国に外つ国の神々が渡って来たのだその神たちは たちまち国のすみずみへ勢力をひろげていった
なにしろ王がその神を保護したのでな…」「よその国から来た神……?
仏教のことですか?」「そうじゃ
この近江に都ができてからというもの……
この近くにも
あのように侵入して来たわけだあれは新しい神の使者の像だそうな……
情けないことにわれらはそれをとめる力を持たぬ
それどころか
新しい神に仕える者は
われらを邪鬼と呼ぶ!」
[...](われらのすみかにはじめてその侵入者が姿を現したのは十年ほど前じゃった)
[...]「われわれは海の彼方からやってきた尖兵だ
おれの名は広目天」
「増長天」
「多聞天」
「持国天だ!ボサットウの四天王である!グフフフフ」
「貴様達邪鬼どもに伝える!
明日までにこの地をわれわれに引き渡せ
そして貴様らはわれわれの主人に慈悲を乞うて服従するか
それともエゾ地なりとどこへなと消え失せろ!」「そんなむたいな………………
ここはもう何百年も私たちが住みついた土地ですよ
人間達ともうまくいっています
私たちは人間を守って来たんです」
[...]「問答無用だ
明日の昼までにわれわれにこの土地をあけ渡せ
さもないと腕ずくで追い出すぞ
この無知蒙昧な邪鬼どもめ!」
(ルベツとクチイヌ(犬上)の会話と、四天王とノビルの会話, 『火の鳥 太陽編』) [148]
「わぬし…
聞けば仏法を受け入れる気がないということだな
なぜだ?」「気に入らないのです
それは 仏法がわるいとか邪教だとか言ってるのではありません」「それならば受け入れたってよかろうが」
「仏法が圧力でほかの神々を排除しようとするからです
この国には古くから多くの守護神がおりました
その神々は 仏教の圧力におびえているのです……
つまり彼らにとって仏教は侵略者です」
(犬上と壹伎史韓国の会話, 『火の鳥 太陽編』) [139]
「わしゃ今日から不滅教の教祖になるぞ
ハハハハ」「でも おやじさん…
そんなものをみんなが信じますか?」「信じない者は片っぱしから処罰する
不滅教をテレビやビデオで徹底的にPRするんだ」「……」
「なあ司令官……
政権に従わせるには信仰を利用することだよ
光一族がそうだったし
歴史上いくらでも例があるぞ
それはそうとスグルはどうした」「基地を爆破して戦死しました」
「それだ
スグルを軍神にしたてろ
不滅教のために戦死した英霊として盛大にまつれ
PRに使えるぞっ フフフフ」
(シャドーの指導者の言葉, 『火の鳥 太陽編』) [141]
たとえばこんな非難がある。
彼らは儀式の際に嬰児や幼児を生賛にして、その肉を喰らい血をワインに入れて飲み、近親相姦をはじめとする性の放縦に耽る。
魔女裁判の時代の紋切型の非難のように見えるが、実はギリシアやローマで原始キリスト教徒に対してなされたものである。この非難に疑いを入れる者もいなかったので、とりわけローマにおける迫害は苛烈をきわめ、キリスト教徒は埋葬をさえ拒否され、死体は焼かれて灰が河に撤かれた。そのキリスト教が確固とした基盤をかためるや、同じ非難を異端視する新興宗教や宗派に対して何度も執拗におこない、それが頂点に達したのが魔女の迫害だったのである。
(大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』) [149]
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』に描かれた、一本足・山の精・鬼・酒呑童子
『今昔画図続百鬼』というのは、江戸時代中期の狩野派の絵師であった鳥山石燕が描いた、妖怪の絵図を掲載した画集の名称です。
「山精」と「鬼」
「酒顚童子(酒呑童子)」と「覚」
『和漢三才図会』に描かれた、山の精・山鬼・サル・一本足・一つ目の妖怪
『和漢三才図会』というのは、江戸時代中期につくられた、絵図がついた図説百科事典の名称です。編纂者は、大坂で医師をしていた寺島良安という人です。
(参考)
和漢三才図会(わかんさんさいずえ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E4%B8%89%E6%89%8D%E5%9B%B3%E4%BC%9A-153935
(参考)
和漢三才図会 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E4%B8%89%E6%89%8D%E5%9B%B3%E4%BC%9A
(参考)
和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000003284676-00
(出版年月日:[江戸時代])
和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27] - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2596374/13
(参考)
和漢三才図会|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000519155-00
(出版年月日:1901年(明治34年))
和漢三才図会. 巻第21−52 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898184/103
山童と書いて「ヤマワロ」と呼び、子供のように背丈の低く毛深い猿人のような妖怪で、九州地方を中心とした西日本の山間部に棲むといわれる。地方によって山太郎、勢子、狩子、カシャンボ(火車坊)、木の子、崖童、ヒョウスンボ、タテクリカエシ(縦繰返シ)、手杵返シ、一本ダタラ、山男、童殿ともいう。南西諸島は奄美大島のケンモン、徳之島のイッシャ、または沖縄本島のキジムナー(ブナガヤ)も山童の系統にある妖怪といえる。
河童は水に関係する水辺の妖怪であるが、三重県以西の西日本では、河童が山に移り棲んで変身したものが山童であるとする伝承がある。とくに河童が秋の彼岸に川(里の水辺)から山に登って山童に変身し、春の彼岸に再び川に帰って河童になると言われる地方が多い。〔中略〕
こうした河童と山童の変身と去来は、田の神と山の神の問の春秋二度の去来とも共通した性格をもち、日本海側以外の冬期の乾燥した季節と夏期の湿潤な季節に二分される日本の気候とも対応している。
〔中略〕
山童の仲間を一本足(片足)もしくは一ツ目(片目)とする伝承も多い。一ツ目、一本足の伝承はより古いタイプの山童の姿形で、東日本の山の神の身体的特徴と共通することから、山童は山の神の信仰が零落したものとする学者の説がある。(ただしこれは誤説であるかもしれない。)
〔中略〕
病気をもたらす疫神で一ツ目一本足の姿形を特徴とするのは一ツ目小僧(一ツ目入道、目ヒトツ坊)という妖怪である。これら山の神、山童、一本ダタラ、山爺、一ツ目小僧(一ツ目入道)が一つの妖怪グループであったことを示している。
〔中略〕
日本本土(主に東日本)では二月八日と十二月八日を「事八日」と呼んで、疫病をもたらす一ツ目小僧(一ツ目入道)が来訪するとして、同じく芝剌や籠目(六芒星)の魔除けが家の戸口などにかざられる。籠目の魔除けは星(五芒星)形の魔除けとともに中近東から日本まで広域で信じられてきたもので、現在は中国雲南省から東日本まで、照葉樹林帯(稲作地帯)にこの習俗が残っている。
山童はアテ字で、古くは山𤢖と書いて「ヤマワロ」と読んでいた。この山𤢖は日本の妖怪ではなく、中華人民共和国の浙江省を中心に信仰されてきた山の妖怪である。福建省、広東省、広西壮族自治区などでは山魈と呼ばれる。前漢代の東方朔の著といわれる『神異経』「西荒経」に、「西方の深山に人がおり、背丈が一尺(約九十センチ)あまり、袒になって蝦や蟹を捕まえ、人を恐れない。人が(山小屋などに)泊まるのを目にするや、日が暮れると蝦や蟹を火で炙り、人の留守に塩を盗んでまぶして食べる。その名を山臊(山𤢖)という。竹を火の中にくべるとパチパチと爆ぜて音を出すので、山臊はみな驚き恐れる。そうしないと人は寒気がしたり熱を発したりする(病気になる)」とある。
西晋代の郭璞(二七六~三二四)の著という『玄中記』に、「山精は人に似ていて、足が一本、身の丈が三、四尺で、山蟹を食べ、夜に出歩き、日中は隠れている。日中は姿は見えず、夜間に声が聞こえるだけである」とあるが、これは奄美大島のケンモンや、沖縄のキジムナーの伝承に近い。東晋代の葛洪(二八四~三六四)の『抱朴子』「登渉」に、「山精は形が子供に似ていて、足が一本で、その足が後ろを向いており、好んで人に害をなす。人が山に入って、夜に大きな笑い声が聞こえたら、それは蚑という山精であり、この名を覚えておいて呼んでやれば、あえて害をなさない」とある。こうした記述は江戸時代初期までに『和漢三才図会』などによって広く日本にもよく知られていた。
山魁(山𤢖・山精)は山間部に棲み、一本足で手足の指は三本であるとされる。雄を山公または山丈と呼び、雌を山姑と呼んだ。〔中略〕
このように中国の山𤢖(山魈)を起源とし、河童の変身したものが山童、河童と関連して語られていないものが山爺、山姥、一本ダタラ、子泣き爺、一ツ目小僧などと分化していったものらしい。
〔中略〕
春秋時代末期の左丘明の『国語』「魯語(下)」について三国時代の韋昭(二〇四~二七三)がつけた注に、「夔は一本足で、越(現在の浙江省)の人は山繰(山𤢖)という〔中略〕。人面で猿の体、人語を話すことができる」とある、夔は後漢代の『説文解字』第五編(下)に、「龍のようで角がある」とあり、三国時代の薛綜(?~二三四)の注に、「鼓(太鼓)のようで、一本足」とある。夔は商(殷)時代の最高神の一つ(中国王朝を象徴する龍神信仰の原型)で、商の滅亡後は漢民族以外の少数民族の民間信仰として今日まで続いているものであるようだ。
三重県多度大社の摂社に祀る一目龍社は、一ツ目一本足の龍神で、激しい暴風雨をもたらす「一目連」という荒神であるというが、中国の夔もまた風雨や雷をもたらす水神として信仰され、同じく雨をもたらす魑龍(雨龍)に分化して、魑魅の語源となっている。日本の一目連は山𤢖の原型である夔の性質と姿形をそのまま今日に伝えている神であるようだ。一目連は「天目一箇命」という鍛冶神または風神だともされる。
また山𤢖は魃という旱魃をもたらす神とも同一視されている。魃は一ツ目一本手一本足で猿人の姿形をしているという。冬期の乾期に山童に、夏期の雨季に河童に変身する日本の伝承にも、なんらかの影響をもたらしたにちがいない。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [154]
猩猩
狒狒
マンドリルは、中国語では「山魈」と呼ばれるようです。(日本語の場合は、「山魈」は「さんしょう」と読みます。)
一方、マンドリルの近縁種であり、おなじ霊長目オナガザル科ヒヒ属に属するドリルは、中国語では「鬼狒」や、「鬼狒狒」や「灰狒狒」などと呼ばれるようです。
このように、山魈(マンドリル)と、狒狒(ドリル)と、「鬼」のあいだには、なんらかの近縁関係があるようです。
山臊・山𤢖・山精その他いろいろな呼称があるが、要するに山中の怪をいう。何註は『抱朴子』の、「山精は小児のような形状で、一本足。足首は前後逆さまについている。夜、ひとを犯すけれども〈山精っ〉と呼ぶと、犯すうでまえをうしなってしまう」という説を引いているが、『神異経』『南康記』『異苑』その他にもそれぞれ説があり、それらの諸説は、これを要するに、狒狒のごときものとみなしている。
(常石茂 [『聊斎志異』のなかの一篇の題名である「山魈」という言葉についての注記]) [50] [51]
「猿神退治」の話のあらすじはだいたい一致している。要するに、ある社の生贄として村の娘が指名される。そこへ他国者の男(廻国の和尚・六部・山伏・旅人など)が現われ、社に泊って深夜正体不明の怪物の発言を盗み聞く。怪物は某々(犬の名)が苦手の旨をいう。男は苦心の末その犬を探し出し、娘の身代わりとなって、犬とともに怪物と戦う。怪物の正体は多く猿である。これを退治してのち人身御供はなくなり、男は娘と結婚する(男が和尚や六部など出家者である場今には結婚はない)、というのがこの型の昔話の基本的な構成である。昔話が本質的にそうであるように、この話も本来は特定の神社や土地にのみ関係するものではないけれども、実際に語られる場合には実在の神社や土地と結びつき、伝説化して語られることが多い。信州赤穂村(長野県駒ヶ根市)の光前寺の飼犬早太郎が遠州見附(静岡県磐田市)の天満宮の猅々を退治してみずからも死んだという話などは特に有名で、駒ヶ根・磐田両市はこの話を縁にして友好協定を結んでいるほどである。
(池上洵一「昔話の猿神退治」『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』) [52] [25]
上記の文章のなかの、「猅々」という言葉は、おそらく、「狒狒」(狒々)とおなじ意味でつかわれている言葉だろうとおもいます。
山𤢖
山精
魃
また山𤢖は魃という旱魃をもたらす神とも同一視されている。魃は一ツ目一本手一本足で猿人の姿形をしているという。冬期の乾期に山童に、夏期の雨季に河童に変身する日本の伝承にも、なんらかの影響をもたらしたにちがいない。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [43]
魍魎
彭侯
鳥山石燕の『百鬼夜行』に描かれた、一つ目・山の精・サルの妖怪
『百鬼夜行』というのは、江戸時代中期の狩野派の絵師であった鳥山石燕が描いた妖怪の絵図を掲載した画集の名称です。(『百鬼夜行』は、『画図百鬼夜行』とも呼ばれます。)
山童
山童と書いて「ヤマワロ」と呼び、子供のように背丈の低く毛深い猿人のような妖怪で、九州地方を中心とした西日本の山間部に棲むといわれる。地方によって山太郎、勢子、狩子、カシャンボ(火車坊)、木の子、崖童、ヒョウスンボ、タテクリカエシ(縦繰返シ)、手杵返シ、一本ダタラ、山男、童殿ともいう。南西諸島は奄美大島のケンモン、徳之島のイッシャ、または沖縄本島のキジムナー(ブナガヤ)も山童の系統にある妖怪といえる。
河童は水に関係する水辺の妖怪であるが、三重県以西の西日本では、河童が山に移り棲んで変身したものが山童であるとする伝承がある。とくに河童が秋の彼岸に川(里の水辺)から山に登って山童に変身し、春の彼岸に再び川に帰って河童になると言われる地方が多い。〔中略〕
こうした河童と山童の変身と去来は、田の神と山の神の問の春秋二度の去来とも共通した性格をもち、日本海側以外の冬期の乾燥した季節と夏期の湿潤な季節に二分される日本の気候とも対応している。
〔中略〕
山童の仲間を一本足(片足)もしくは一ツ目(片目)とする伝承も多い。一ツ目、一本足の伝承はより古いタイプの山童の姿形で、東日本の山の神の身体的特徴と共通することから、山童は山の神の信仰が零落したものとする学者の説がある。(ただしこれは誤説であるかもしれない。)
〔中略〕
病気をもたらす疫神で一ツ目一本足の姿形を特徴とするのは一ツ目小僧(一ツ目入道、目ヒトツ坊)という妖怪である。これら山の神、山童、一本ダタラ、山爺、一ツ目小僧(一ツ目入道)が一つの妖怪グループであったことを示している。
〔中略〕
日本本土(主に東日本)では二月八日と十二月八日を「事八日」と呼んで、疫病をもたらす一ツ目小僧(一ツ目入道)が来訪するとして、同じく芝剌や籠目(六芒星)の魔除けが家の戸口などにかざられる。籠目の魔除けは星(五芒星)形の魔除けとともに中近東から日本まで広域で信じられてきたもので、現在は中国雲南省から東日本まで、照葉樹林帯(稲作地帯)にこの習俗が残っている。
山童はアテ字で、古くは山𤢖と書いて「ヤマワロ」と読んでいた。この山𤢖は日本の妖怪ではなく、中華人民共和国の浙江省を中心に信仰されてきた山の妖怪である。福建省、広東省、広西壮族自治区などでは山魈と呼ばれる。前漢代の東方朔の著といわれる『神異経』「西荒経」に、「西方の深山に人がおり、背丈が一尺(約九十センチ)あまり、袒になって蝦や蟹を捕まえ、人を恐れない。人が(山小屋などに)泊まるのを目にするや、日が暮れると蝦や蟹を火で炙り、人の留守に塩を盗んでまぶして食べる。その名を山臊(山𤢖)という。竹を火の中にくべるとパチパチと爆ぜて音を出すので、山臊はみな驚き恐れる。そうしないと人は寒気がしたり熱を発したりする(病気になる)」とある。
西晋代の郭璞(二七六~三二四)の著という『玄中記』に、「山精は人に似ていて、足が一本、身の丈が三、四尺で、山蟹を食べ、夜に出歩き、日中は隠れている。日中は姿は見えず、夜間に声が聞こえるだけである」とあるが、これは奄美大島のケンモンや、沖縄のキジムナーの伝承に近い。東晋代の葛洪(二八四~三六四)の『抱朴子』「登渉」に、「山精は形が子供に似ていて、足が一本で、その足が後ろを向いており、好んで人に害をなす。人が山に入って、夜に大きな笑い声が聞こえたら、それは蚑という山精であり、この名を覚えておいて呼んでやれば、あえて害をなさない」とある。こうした記述は江戸時代初期までに『和漢三才図会』などによって広く日本にもよく知られていた。
山魁(山𤢖・山精)は山間部に棲み、一本足で手足の指は三本であるとされる。雄を山公または山丈と呼び、雌を山姑と呼んだ。〔中略〕
このように中国の山𤢖(山魈)を起源とし、河童の変身したものが山童、河童と関連して語られていないものが山爺、山姥、一本ダタラ、子泣き爺、一ツ目小僧などと分化していったものらしい。
〔中略〕
春秋時代末期の左丘明の『国語』「魯語(下)」について三国時代の韋昭(二〇四~二七三)がつけた注に、「夔は一本足で、越(現在の浙江省)の人は山繰(山𤢖)という〔中略〕。人面で猿の体、人語を話すことができる」とある、夔は後漢代の『説文解字』第五編(下)に、「龍のようで角がある」とあり、三国時代の薛綜(?~二三四)の注に、「鼓(太鼓)のようで、一本足」とある。夔は商(殷)時代の最高神の一つ(中国王朝を象徴する龍神信仰の原型)で、商の滅亡後は漢民族以外の少数民族の民間信仰として今日まで続いているものであるようだ。
三重県多度大社の摂社に祀る一目龍社は、一ツ目一本足の龍神で、激しい暴風雨をもたらす「一目連」という荒神であるというが、中国の夔もまた風雨や雷をもたらす水神として信仰され、同じく雨をもたらす魑龍(雨龍)に分化して、魑魅の語源となっている。日本の一目連は山𤢖の原型である夔の性質と姿形をそのまま今日に伝えている神であるようだ。一目連は「天目一箇命」という鍛冶神または風神だともされる。
また山𤢖は魃という旱魃をもたらす神とも同一視されている。魃は一ツ目一本手一本足で猿人の姿形をしているという。冬期の乾期に山童に、夏期の雨季に河童に変身する日本の伝承にも、なんらかの影響をもたらしたにちがいない。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [154]
青坊主
彭侯
『山海経』に記された夔のすがた:「頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。」
東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。これが水に出入りするときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという。
―― 「大荒東経」, 『山海経』 [166]
(参考)
キ (中国神話) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
山海經ハ古代ノ地理書デアル。西漢ノ始當時前代ヨリ傳ハツタ古傳ニ若干新内容ヲ附加シテ撰セラレタモノト推定セラレ、晉ノ郭撲ガ之ヲ集錄加註シテ公ニシタモノデアル。全卷十八卷、其中五藏山經(五卷)ハ最モ古クテ周時代ノモノニ屬シ、共他ハ漢以后ノ附加卜想像セラレル部分ガ多イ。
(「山海經ト其記述」『黄河ノ歴史的硏究』) [167]
東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。これが水に出入りするときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという。
(「大荒東経」, 『山海経』) [166]
少し前の、「神あり、人面にして臂なし、両足、反って頭山(上)に属く、名づけて嘘という」はまるで飛天の姿であるが、郭注では、嘘、啼也とあって、神ありの文意をころしている。『説文』に、夔、神魖也とみえ、段玉裁は神を即に改めている。一本足の動物としての夔は大荒東経にあり。この文の嘘はもと虚であった(集韻、魅・𥛳)。舜の臣である。『尚書』に比べるといずれもじめな姿をしているが、ここらあたりが『山海経』のもつ古怪の面白さであろうか。
(高馬三良[『山海経』についての解説]) [112]
夔は、水神であり、龍である
『説文解字』には、「夔は、龍のようなすがたをしている」という記述があるようです。
春秋時代末期の左丘明の『国語』「魯語(下)」について三国時代の韋昭(二〇四~二七三)がつけた注に、「夔は一本足で、越(現在の浙江省)の人は山繰(山𤢖)という〔中略〕。人面で猿の体、人語を話すことができる」とある、夔は後漢代の『説文解字』第五編(下)に、「龍のようで角がある」とあり、三国時代の薛綜(?~二三四)の注に、「鼓(太鼓)のようで、一本足」とある。夔は商(殷)時代の最高神の一つ(中国王朝を象徴する龍神信仰の原型)で、商の滅亡後は漢民族以外の少数民族の民間信仰として今日まで続いているものであるようだ。
三重県多度大社の摂社に祀る一目龍社は、一ツ目一本足の龍神で、激しい暴風雨をもたらす「一目連」という荒神であるというが、中国の夔もまた風雨や雷をもたらす水神として信仰され、同じく雨をもたらす魑龍(雨龍)に分化して、魑魅の語源となっている。日本の一目連は山𤢖の原型である夔の性質と姿形をそのまま今日に伝えている神であるようだ。一目連は「天目一箇命」という鍛冶神または風神だともされる。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [43]
ちなみに、『山海経』のなかの、夔についての記述のすぐとなりには、応龍という竜についての記述があります。
このことは、夔が、水神でもあり、龍でもある、ということを暗示しているのかもしれません。
夔神鼓をかたどった古代中国の青銅器にみる、太鼓のかたちをした夔のすがた
古代中国の殷王朝の時代の青銅器(簋(英語表記:gui))
(「Gui (vessel for serving grain) China Shang Period 13th century BCE Bronze」) [174]
この多様にして広大な大陸は、悠久の時の流れのなかで、世に比類ない美術を生み続けてきた。神話と呪術に裏づけられた鬼神の美術は、やがて怪力乱神を敬して遠ざける人間の美術となった。それらの多くは、死者を慰めるために大地に埋められ、数百年、数千年の時を経て掘り起こされ、現代に衝撃をはしらせる。
―― 序文, 『新潮古代美術館 10 : 鬼神と人間の中国』 [176]
商王は絶対の権力をもっていた帝王であった。安陽の殷墟から発見された王墓には、大量の奴隷や動物を犠牲として、ほうむり、多くの財宝をみたした。あの王墓から想像される絶対権力者の王が、どうして、このように、鬼神をおそれたのであろうか。権力者でももっていた人間の弱さをかいまみるようである。
―― 樋口隆康「古代中国の祭祀」, 「鬼神の世界」, 『新潮古代美術館 10 : 鬼神と人間の中国』 [177]
『抱朴子』や、『山海経』などの古文書の記述をみると、どうやら、「夔は太鼓のようなすがたをしている」というような観念があったようです。
『山海経』の記述のなかには、「黄帝が夔をつかまえて、その皮で太鼓をつくって、雷獣の骨でたたいた」という意味の記述があります。もしかすると、このことから、夔のすがたを太鼓のようなすがたとしてとらえる考え方がうまれたのかもしれません。
ぼくは、「夔が太鼓のようなすがたをしている」という記述を読んだときに、「太鼓のようなすがたをした生き物って、いったいどんなすがたなんだろう?」とおもいました。「太鼓のようなすがたをした生き物」というのが、どうにも、あまり想像できなかったからです。ですが、下記の「泉屋博古館」さんのウェブサイトに掲載されている「夔神鼓」と呼ばれている青銅器の写真を見て、「あぁ、なるほど!太鼓のようなすがたをした生き物って、こんなかんじなのか!」と、なっとくがいきました。かなり変わったかたちをした神(神獣)だなとおもいました。「黄帝が夔の皮からつくった」という太鼓は、この写真の青銅器のようなすがたをしていたのかもしれません。
(参考:「夔神鼓」の青銅器の写真が掲載されている「泉屋博古館」さんのウェブページ)
夔神鼓|商時代後期 前12~前11世紀 高82.0㎝|泉屋博古館 住友コレクション
https://www.sen-oku.or.jp/collection/col01/001.html
商時代後期 前12~前11世紀
高82.0㎝両鼓面に鰐皮を張って鋲留にした様子を表現した青銅製の太鼓。下底は大きな方孔があいており、短い尖足が4個付いている。全体を3~5mm位の厚さで薄く造っており、当時の鋳造技術がきわめて高かったことを示す名品である。全面に精細な文様がみられるが、とくに胴両面に両手を挙げ、足をふんばった正面像が特徴的である。この像は人面であるが、羊角を戴き手の先が羽状になっていて、当時の音をつかさどる神を表現したものであろう。
(「夔神鼓」についての解説文, 泉屋博古館のウェブサイトより) [178]
春秋時代末期の左丘明の『国語』「魯語(下)」について三国時代の韋昭(二〇四~二七三)がつけた注に、「夔は一本足で、越(現在の浙江省)の人は山繰(山𤢖)という〔中略〕。人面で猿の体、人語を話すことができる」とある、夔は後漢代の『説文解字』第五編(下)に、「龍のようで角がある」とあり、三国時代の薛綜(?~二三四)の注に、「鼓(太鼓)のようで、一本足」とある。夔は商(殷)時代の最高神の一つ(中国王朝を象徴する龍神信仰の原型)で、商の滅亡後は漢民族以外の少数民族の民間信仰として今日まで続いているものであるようだ。
(多田克己「山童【やまわろ】」『妖怪図巻』) [43]
下記の『山海経』の記述のなかに、「黄帝が夔をつかまえて、その皮で太鼓をつくって、雷獣の骨でたたいた」という意味の記述があります。
東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身は蒼くて角がなく、足は一つ。これが水に出入りするときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという。
(「大荒東経」, 『山海経』) [166]
七、抱朴子曰く、山中の山精の形は、小児の如くにして、独足もて走りて後に向ひ、喜び来りて人を犯す。人の山に入りて、若夜人の音声もて大語するものを聞かば、其名を蚑と曰ふ。知りて之を呼べば、即ち敢て人を犯さざるなり。一に熱内と名づく。亦兼ねて之を呼ぶ可し。又山精の鼓の如くにして赤色なるもの有り、亦一足なり。其名を暉と曰ふ。又或は人の如くにして。長は九尺、裘を衣、笠を戴くものあり。名づけて金累と曰ふ。或は龍の如くにして、五色、赤角あるものあり。名づけて飛飛と曰ふ。之を見しときは、皆名を以て之を呼べば、即ち敢て害を為さざるなり。
余談:太鼓と越後(新潟県)の酒呑童子
それがしが古へを語りて聞かせ申すべし。本国は越後の者、山寺育ちの児なりし
―― 酒呑童子の言葉 「酒呑童子」, 『御伽草子』 [180]
これは余談なのですが、ここまで酒呑童子についてお話してきたなかで、『山海経』などに記されている夔と呼ばれる「太鼓のすがたをした妖怪」の話がでてきました。このことで、ぼくの連想が動き出して、すこしべつの方向へ連想がふくらんでいってしまいました。ですので、ここですこし脱線して、「太鼓と酒呑童子(越後(新潟県)の酒呑童子)」についての話がしたくなってきました。また、そこから派生して、「越後(新潟県)の酒呑童子」についても、お話してみたいとおもいます。
この上の動画は、新潟県燕市分水地区の創作太鼓「分水太鼓」のみなさんの練習風景などの映像です。この映像では、発足30周年記念コンサート「五鬼元気(ごきげん)コンサート」へむけて、みなさんが練習にはげんでおられる様子が記録されています。
『御伽草子』に収録されている「酒呑童子」の物語では、酒呑童子のふるさとは、越後(新潟県)であるとされています。また、あとでお話する、新潟県燕市国上にある国上寺に所蔵されている酒呑童子の絵巻物でも、酒呑童子のふるさとは、越後(新潟県)であるとされています。そうしたこともあって、新潟県では、酒呑童子や鬼にちなんだイベントなどが複数あります。
創作太鼓「分水太鼓」さんのコンサートの名称が、「五鬼元気コンサート」という、「鬼」という言葉をふくんだ名称になっているのも、酒呑童子にちなんでいるからなのではないかとおもいます。
(参考)
分水太鼓
http://bunsuidaiko.html.xdomain.jp/
(参考)
分水太鼓30周年記念公演 鼓童の名誉団員も出演 台風19号被災地への募金も
http://www.kenoh.com/2019/10/26_bunsuitaiko.html
(参考)
越後くがみ山酒呑童子行列 | 新潟県燕市の観光スポット情報なら燕市観光協会
https://tsubame-kankou.jp/events/sake/
創作太鼓「分水太鼓」さんの本拠地である新潟県燕市分水地区は、国上寺がある国上から近い場所にあります。
新潟県燕市国上にある国上寺には、寺宝として、「酒呑童子絵巻 物3巻」が所蔵されています(この「酒呑童子絵巻」は、「大江山絵巻」や、「大江山酒顛童子」と呼ばれることもあるようです)。この絵巻物は、室町時代中期・後期に活躍した土佐派の有名な絵師である土佐光信が絵図を描いたとされているそうです。
(参考)
国上寺公式サイト|国上寺は良寛ゆかりの五合庵、上杉謙信の祈願寺です。|新潟の水子供養・永代供養
https://www.kokujouji.com/
また、国上寺がある国上山のふもとには、酒呑童子神社があります。この酒呑童子神社では、国上寺所蔵の「酒呑童子絵巻」の物語のなかで、酒呑童子が鬼のすがたになる以前の、みめうるわしい人間の青年のすがたをしていて外道丸と呼ばれていたころに、女性たちからモテモテのモテまくりだったことにちなんで、カップルたちの縁結びの神として、酒呑童子を祀っているそうです。
また、酒呑童子神社のすぐちかくには、道の駅国上もあります。道の駅国上では、酒呑童子神社の絵馬や、燕市内の特産品や、地元の採れたて野菜が販売されていて、日帰り温泉や、お食事処もあります。
(参考)
酒呑童子神社 | 新潟県燕市の観光スポット情報なら燕市観光協会
https://tsubame-kankou.jp/seeing/syutenndouji_jinjya/
(参考)
道の駅国上ホームページ | 燕市内の特産品、地元の採れたて野菜を販売!日帰り温泉やお食事処もあります!
http://www.michinoeki-kugami.com/
『御伽草子』に収録されている「酒呑童子」の物語のなかに、酒に酔った酒呑童子が、自分の来歴を語る場面があります。その昔語りのなかで、酒呑童子は、「自分が生まれ育った場所は越後(現在の新潟県)であり、山寺の稚児として育った」という意味のことを語っています。下記の文章は、『御伽草子』の「酒呑童子」のなかの、酒呑童子が自分の来歴を語る場面です。
その時頼光座敷を立ち、件の酒を取り出し、「これは又都よりの持参の酒にて候へば、恐れながら童子へも御酒一つ参らせん。御心みのために」とて、頼光一つさらりとほし、酒呑童子にさされける。童子、盃受け取り、これもさらりとほされたり。げにも神便ありがたや、不思議の酒のことなれば、その味甘露の如くにて、心もことばも及ばれず。なのめならずに喜びて、「わが最愛の女あり、よび出して呑ません」とて、くにたかの姫君と花園の姫君をよび出し、座敷に置く。頼光此由御覧じて、「これは又都よりの上臈たちに参らせん」と、お酌にこそは立たれける。
童子余りのうれしさに、酔ひほれ申しけるやうは、「それがしが古へを語りて聞かせ申すべし。本国は越後の者、山寺育ちの児なりしが、法師にねたみあるにより、あまたの法師を刺し殺し、その夜に比叡の山に着き、我すむ山ぞと思ひしに、伝教といふ法師仏たちを語らひて、わが立つ杣とて追ひ出す。力及ばず山を出で、又此峰に住みし時、弘法大師といふえせもの、封じてここをも追ひ出せば、力及ばぬ処に、今はさようの法師もなし。高野の山に入定す。今又ここに立ち帰り、何の子細も候はず。
(「酒呑童子」, 『御伽草子』) [181]
余談:古代中国の銅鐸にかたどられた 夔 の文様
これは余談ですが、Instagramの投稿写真のなかに、古代中国の銅鐸にかたどられた 夔 の文様についての写真がありましたので、紹介したいとおもいます。
(参考)
夔竜文(きりゅうもん)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%94%E7%AB%9C%E6%96%87-53762
(参考)
夔鳳文(キホウモン)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%94%E9%B3%B3%E6%96%87-475629
(参考)
夔神鼓|商時代後期 前12~前11世紀 高82.0㎝|泉屋博古館 住友コレクション
https://www.sen-oku.or.jp/collection/col01/001.html
下掲の画像の文様も、夔 をかたどった文様のようです。
下掲の画像は、古代の銅鐸にかたどられた夔の文様を、現代の絵描きさんが、現代風にアレンジしたものなのかもしれません。
余談:現代風にアレンジされた上古の神獸 夔 のすがた
これは余談ですが、Instagramの投稿のなかに、『山海経』に記されている夔のすがたを、現代風にアレンジして描いている絵がありましたので、紹介したいとおもいます。
五色で「サイケなボディーカラー」と「竜王(水神)たる酒呑童子」
ついでながら、高橋昌明さんは『酒呑童子の誕生』という本のなかで、酒天童子(酒呑童子)の体の色が、「頭と胴体は赤、左足は黒、右手は黄、右の足は白、左の于は青、という五色まだらの体色」をしていることについて、「サイケなボディーカラー」だと表現されています。
たしかに、色とりどりで、サイケデリックなボディーカラーですね。
ちなみに、下記の引用文が、高橋昌明さんがこの話について述べておられるところです。
この記述にある、「竜王(水神)たる酒呑童子」についても、いろいろとお話したいことがあるのですが・・・・、またまた、長い話になりそうですので、それはまたべつのお話、ということにしたいとおもいます。
興味深いのは、寝入って正体を現した童子が、逸本の詞書では、頭と胴体は赤、左足は黒、右手は黄、右の足は白、左の于は青、という五色まだらの体色をしていることである。陰陽五行の思想では、各色はそれぞれ火・水・土・金・木を象徴する。このサイケなボディーカラーから、九世紀末より京都神泉苑で行われた陰陽道の五竜祭(雨乞祭)のことが連想される。同祭の祭神は、『大灌頂経』に見える五竜王で、祭場に東方青竜神王、南方赤竜神王、西方白竜神王、北方黒竜神王、中央黄竜神王と配置された。五色が五竜王からきているとすれば、これも童子の本質が竜王(水神)であることの暗喩となる。
(高橋昌明「二、竜王(水神)たる酒呑童子」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『酒呑童子の誕生』) [182]
「胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかす」大猩猩(ゴリラ)
漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。
―― 激怒する酒天童子のすがた, 香取本『大江山絵詞』 [9]
「鬼王の城は此の上に侍る也。八足の門を立てて〈酒天童子〉と額をば書きたる由をぞ聞き侍りし。彼の亭主の鬼王、仮に童子の姿に変じて酒を愛する也。九重の内より公卿・殿上人の姫君・北の方、貴賤上下取り集めて、料理包丁して喰ひ物とす。此の頃、都に晴明と申すなる、泰山府君を祭り給ふによりて、式神・護法、隙なく国土を廻りて守護し給ふ故に、都より人をも取り得ずして、帰る時は漫ろに腹を据ゑかねて、胸を叩き歯を食ひ縛りて、眼を怒らかして侍る也。
(香取本『大江山絵詞』上巻 第三段 詞書) [9] [51]
洗濯の老女が頼光一行に、童子も獲物がなく都より手ぶらで帰る時がある、そのおりは「腹をすゑかねて、胸をたたき、歯をくひしばりて、眼をいからかして侍る」と語るくだりである。もしやと思い、京都市立動物園に問いあわせたところ、飼育課長の榊原義之氏から、こんな怒りかたをするのはゴリラしかありませんよ、と教えていただいた。
中世日本で、ゴリラの生態の情報源として考えられるのは、中国以外にない。もとより、ゴリラは西アフリカにしか生息していない。重い体重、驚くほどのパワー、神経質な性格、いずれをとっても陸送の不可能なることを示す。中国でも文字または伝聞のみの珍獣だったかもしれない。しかし、海路すなわち海のシルクロードを利用しての中国への輸送はどうか、との私の質問に、アダルトではなく子どものそれで、ぶどまり(途中の犠牲)を考慮しての輸入なら可能、との榊原氏の返答。現物の輸入もありえたとなれば、 マルコ・ポーロが、「世界無二の最大商業都市」と賛嘆した貿易港の泉州(福建省)が上陸候補地として浮かんでくる。泉州はアラビア交易が盛んで、アラビア人の一大居住地区も設けられていたからである。
それにしてもなぜゴリラ情報が、と驚く。ゴリラはオランウータンと同じショウジョウ科に属し、中国で大猩々、オランウータンは猩々または赤猩々と呼ぶから、あるいはオランウータン(赤猩々)が伝説の猩々と一体化し、その情報が日本に入ってくる過程のどこかで、ゴリラ(大猩々)のそれと混線してしまったのかもしれない。ともあれ祖本や逸本の作者が、「白猿伝」の他に中国わたりの知識を有していたことは間違いない。
オランウータン(猩猩(猩々)、赤猩猩(赤猩々)、紅猩猩、紅毛猩猩)
「大猩猩」というのは、ゴリラの別名です。
「猩猩」(猩々)というのは想像上の動物を指す言葉ですが、オランウータンの別名でもあります。
中国語ではオランウータンのことを「紅猩猩」や「紅毛猩猩」と呼ぶこともあるようです。
チンパンジー(黒猩猩(黒猩々)、黑猩猩)
また、「黒猩猩」(黒猩々) [188]という言葉は、チンパンジーの別名です。
ちなみに、チンパンジーは唇が長いです。そのことは、こちらの画像を見ていただいてもわかるかとおもいます。
その「チンパンジーの唇の長さ」についてなのですが、『山海経』のなかには、唇が長い妖怪についての記述があります。それらの記述は、もしかすると、チンパンジー(黒猩猩(黒猩々))と、なんらかの関係があるのかもしれません。
下記の文章は、そうした、『山海経』のなかの、唇が長い妖怪についての記述のいくつかです。
南方に贛巨の人あり、人面で長い〔臂〕唇、黒い身で毛あり、踵は反りかえり、人の笑うのを見るとかれもまた笑う。笑うと唇がその面を蔽う。だからすぐ逃げだせる。
(「海内経」, 『山海経』) [190]
梟陽国は北胊の西にあり、その人となり人面で長い唇、黒い身に毛がはえ、踵は反対にそりかえり、人の笑うのをみて彼もまた笑う。(これを捕えるときには)左手に(竹の)管をもつ。
(高馬三良 [『山海経』の「海内南経」についての注記]) [191]
『異物志』に、「梟羊はよく人を食い、口が大きい。まず人をらえると喜んで笑う、笑うと唇がむくれあがって額をおおう。しばらくしてから人を食う。そこで人は竹の筒をつくって腕に通し、とらえにくるのを待つ。とらえられると、すぐ手を引きぬいて、その唇を額にうちつけてとらえる」という。これとよく符合すると郝氏はいう。
(「海内南経」, 『山海経』) [192]
余談ですが、ショウジョウバエは、漢字では「猩猩蠅」(猩々蠅)と書きます。これは、ショウジョウバエには、お酒などの発酵したものに集まる習性があることからつけられた名前だそうです。お酒が好きとされている猩猩とおなじように、お酒のあるところにあつまるので、「猩猩」になぞらえて、この名前がつけられたそうです。 [193]
ちなみに、香取本『大江山絵詞』の物語のもとになった酒呑童子説話がつくられた場所とされている比叡山延暦寺には、かつて「猩生瀧」(俗名:犬戻瀧)と呼ばれる滝があったのですが・・・・・っと、これはまた、長い話になりそうですので、それはまたべつのお話、ということにしたいとおもいます。
「天に斉しき大いなる聖」(斉天大聖・孫悟空)の原型、白猿(ハヌマンラングール)
丹後大江山の酒顚童子は古の盗賊なり。鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女をぬすみとる。もろこしの白猿伝と云書にしるせり。白猿の所作と相似たり。
酒呑童子と白猿伝との関わりは、早く江戸時代から注意されていた。例えば、宝永七(一七一〇)年に刊行された、児島正長の天地或問珍巻四には、「又、酒顚童子が事、盗賊の張本にて、甚世に害をなせしを、おそろ敷云伝り。案するに、白猿伝に書たる陽紇が事を取まじへ、面白きやうに草紙に書なしたる物也」と言い、また、貝原益軒(一六三〇―一七一四)も、「丹後大江山の酒顚童子は古の盗賊なり。鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女をぬすみとる。もろこしの白猿伝と云書にしるせり。白猿の所作と相似たり」(扶桑記勝巻六)と述べ、正徳五(一七一五)年序文のある、井沢長秀の広益俗説弁巻十にも、「又、異邦に似たる事あり」として白猿伝を引き、「説郛、白猿伝に記せり。思ふに、酒顚童子の説は此事に拠て作出せるものなるヘし」とする外、梅国の桜陰腐談巻一、滝沢馬琴の玄同放言巻三、喜多村信節の嬉遊笑覧巻九、日尾荊山の燕居雑話巻六等にも言及がある。
(黒田彰「酒呑童子と白猿伝」) [194] [51] [14]
孫悟空の称号「天に斉しき大いなる聖」(斉天大聖)
無支祁
『西遊記』
無支祁
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
・・・・・どうやら、ここで時間がきてしまったようですので、今回は、このあたりで筆をおきたいとおもいます。
ですが、どうかご安心ください。
まだ見ぬたくさんの「物語」たちが、あなたとの出会いをこころまちにしています。
なぜなら、今回のお話は、「語られるべき物語」という名の「とてつもなく大きな世界」のなかの、「ほんのひとかけら」にすぎないのですから。
それでは、またつぎの「ひとかけら」でお会いしましょう。
m(_ _)m
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
- 「五色の鬼王(サイケデリック・エイプ)」という言葉は、この画像に筆者(倉田幸暢)がつけた言葉です。 [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"Glass Lillies" by FHG Photo on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩]
- 出典:郭璞「山海経序」, 高馬三良(翻訳), (1994年), 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 9ページ. [Back ↩]
- 山魈(マンドリル(Mandrill))[Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"Mandrill at Singapore Zoo" by Robert Young on Wikimedia Commons (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』下巻 第六段 詞書(絵巻の原本の現状). [Back ↩][Back ↩]
- 大猩猩(大猩々)(ゴリラ)[Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"Gorilla" by Scott Calleja on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』上巻 第三段 詞書(絵巻の原本の現状). [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 『白猿伝』の白猿のモデルとなったハヌマンラングール(Gray langur(Hanuman langur))(印度灰叶猴(哈努曼叶猴))[Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"Gray Langur, Jim Corbett National Park, India." by _paVan_ on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:貝原篤信(貝原益軒)(編録) 「丹波 丹後」, 「【山陰道】」, 『扶桑記勝 巻之六』, 貝原益軒(著者), 益軒会(編纂), (1911年), 『益軒全集 巻7』, 益軒全集刊行部, 480ページ. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この引用文では、原文のなかの「白猿傳」という漢字表記(旧字体)を、「白猿伝」という漢字表記(新字体)に直しています。[Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 酒顚童子(酒顛童子)[Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』下巻 第六段 詞書(絵巻の原本の現状). [Back ↩]
- 画像の出典:"Mandrill Baboon" by Amit Patel on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 香取本『大江山絵詞』下巻 第六段 詞書(絵巻の原本の現状)より. [Back ↩]
- この絵図のイメージ画像は、香取本『大江山絵詞』の絵図(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」)をもとにして、筆者(倉田幸暢)が制作したものです。[Back ↩][Back ↩]
- 出典:高橋昌明 (2005年) 「二、「白猿伝」の影響」, 「第二章 酒呑童子のふるさと:中国の小説・伝説に探る」, 『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 90~91ページ. [Back ↩]
- 参考文献:マンドリルとは - コトバンク, 2019年10月24日閲覧. [Back ↩]
- 参考文献:ゴリラとは - コトバンク, 2019年10月24日閲覧. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「荊楚歳時記」, 増訂漢魏叢書. 載籍第77册, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:3 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:宗懍 (著者), 杜公瞻 (注釈) 「(三) 爆竹」「正月」, 宗懍 (著者), 守屋美都雄 (訳注), 布目潮渢 (補訂), 中村裕一 (補訂), (1978年), 『荊楚歳時記』, 東洋文庫 ; 324, 平凡社, 7~8ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの振り仮名の一部を、引用者が変更しました。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や黄色い背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:宗懍 「(三) 爆竹」「正月」, 宗懍 (著者), 守屋美都雄 (訳注), 布目潮渢 (補訂), 中村裕一 (補訂), (1978年), 『荊楚歳時記』, 東洋文庫 ; 324, 平凡社, 7~8ページ. [Back ↩]
- 参考文献:「海老蟹/蝦蟹(エビガニ)とは - コトバンク」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 画像の出典:「山精」, 鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』, 九大コレクション(九州大学附属図書館) (パブリックドメイン) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「山精」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「山精」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:19 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考文献:「閩(ビン)とは - コトバンク」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 参考文献:「広東(カントン)とは - コトバンク」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 参考文献:「華南(カナン)とは - コトバンク華南(カナン)とは - コトバンク」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 参考文献:「江南(こうなん)とは - コトバンク」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 参考文献:「江南 - Wikipedia」, 2019年11月1日閲覧. [Back ↩]
- 出典: 桐本東太 (2004年) 「第八章 山中の独脚鬼に関する一考察 : 日中の比較」, 『中国古代の民俗と文化』, 刀水書房, 93~94ページ. [Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「山𤢖」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「山𤢖」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:18 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:郭璞(伝), 蒋応鎬(絵図) ([明刊]) [「夔」の項目], 『山海経 第十四:大荒東経』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「夔」, 「山海經18卷. [4]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:14 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「魃」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「魃」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:19~20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:多田克己 (2000年) 「山童【やまわろ】」, 「「妖怪図巻」の妖怪たち」, 「解説」, 多田克己(編集・解説), 京極夏彦(文), 『妖怪図巻』, 国書刊行会, 163ページ. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「魍魎」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「魍魎」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:葛洪「内篇巻之十七 登渉 七」, 葛洪(著者), 石島快隆(訳註), (1942年), 『抱朴子』, 岩波文庫, 岩波書店, 299~300ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典:蒲松齢(著者), 増田渉(翻訳), 松枝茂夫(翻訳), 常石茂(翻訳) (2009年) 「題辞」, 『聊斎志異:中国怪異譚 1』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 14ページ. [Back ↩]
- 出典:蒲松齢(著者), 増田渉(翻訳), 松枝茂夫(翻訳), 常石茂(翻訳) (2009年) 「7 山魈」, 「巻一」, 『聊斎志異:中国怪異譚 1』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 42~43ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:'"And then she says to me..."' by John St John on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩]
- 出典:常石茂 [『聊斎志異』巻一のなかの一篇の題名である「山魈」という言葉についての注記], 蒲松齢(著者), 増田渉(翻訳), 松枝茂夫(翻訳), 常石茂(翻訳) (2009年) 「7 山魈」, 「巻一」, 『聊斎志異:中国怪異譚 1』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 44ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「1 昔話の猿神退治」, 「第三章 説話のうらおもて:中山神社の猿神」, 「第一編 『今昔物語集』の世界:中世のあけぼの」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 57~58ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献:阿部泰郎 (2018年) 「四 二十五三昧と和歌」, 「第八章 中世的知の統合:慈円作『六道釈』をめぐりて」, 「第Ⅱ部 知の世界像」, 『中世日本の世界像』, 名古屋大学出版会, 330ページ. [Back ↩]
- この写真は、2018年11月に現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考文献:牧野和夫 (1990年) 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚:中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), ぎょうせい, 92~94ページ. [Back ↩]
- 参考文献:「太子卅二歳御時」,「醍醐寺本 長禄四(一四六〇)年写」, 慶應義塾大学附属研究所斯道文庫(編集), (2005年), 『中世聖徳太子伝集成 第2巻』, 斯道文庫古典叢刊, 勉誠出版, 451~453ページ. [Back ↩]
- 注記:『中世聖徳太子伝集成 第2巻』の本のなかの、「醍醐寺本 長禄四(一四六〇)年写」のなかの、451~453ページのところの、「太子卅二歳御時」(三十二才の条)の文章の末尾には、「松子伝」と書かれています。ご参考までに。 [Back ↩]
- 出典:岩崎武夫 (1978年) 「権現堂と土車」, 「Ⅰ」, 『さんせう太夫考 続:説経浄瑠璃の世界』, 平凡社選書, 平凡社, 114ページ. [Back ↩][Back ↩]
- この写真は、現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考:叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 沖縄国際大学, 53~59ページ. [Back ↩]
- 出典: 池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道 : 『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 261ページ. [Back ↩]
- 注記:『日吉山王光華』に掲載されている「日吉山王曼茶羅圖」の絵図のなかには、この絵図のなかに描かれている神々の名称が書かれていません。また、『日吉山王光華』に記載されている解説のなかにも、この絵図のなかに描かれている神々の名称についての解説はありません。ですので、厳密には、この画像に描かれているサルの顔をした神が、大行事権現であるかどうかはわかりません。ですが、どうやら、一般的に、「山王曼荼羅」を主題にしている絵図に描かれている人物のなかで、サルの顔をしている神は、大行事権現と、新行事権現だけのようです。また、大行事権現のほうが、新行事権現よりも、上位に位置する神であるようです。「日吉山王曼茶羅圖」の絵図のなかには、9柱の神々が描かれています。この9柱の神々のなかで、サルの顔をした神は1柱だけです。ですので、このサルの顔をした神は、大行事権現か、新行事権現のどちらかだとおもいます。また、おそらく、「日吉山王曼茶羅圖」の絵図には、日吉山王二十一社の神々のなかでも、主要な9柱の神々を選び出して描いたのではないかとおもいます。ですので、このサルの顔をした神は、新行事権現よりも地位が上である大行事権現のほうなのだろうとおもいます。 [Back ↩]
- 画像の出典:「大行事権現」, 「日吉山王曼茶羅圖 一幅 京都市 守屋孝藏氏藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:29 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- イングランド軍の隊長(アングロ・サクソン人)にたいして、イングランドの「歴史」を語るアシェラッド 「第31話 ケダモノの歴史」, 幸村誠 (2007年) , 『ヴィンランド・サガ』第5巻 Kindle版, アフタヌーンコミックス, 講談社, 92~93ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「大行事の社と、二宮の社」, 「山王諸社繪圖 十九枚之内 滋賀縣 叡山文庫藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:67 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「2 落魄の猿神」, 「第三章 説話のうらおもて:中山神社の猿神」, 「第一編 『今昔物語集』の世界:中世のあけぼの」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 64ページ. [Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 263ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「日吉二宮神輿額(國寳) 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:81 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「注」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 273ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や青色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩]
- 『燿天記』は、『耀天記』と表記する場合もあります。『燿天記』という表記のしかたよりも、『耀天記』という表記のしかたのほうが、一般的であるようです。 [Back ↩]
- 画像の出典:"Fake news headline on a newspaper" by Rawpixel on Envato Elements. [Back ↩]
- 出典:池田陽平 (2010年) 「大比叡神と小比叡神」, 日本宗教文化史学会 編, 『日本宗教文化史研究』, 日本宗教文化史学会, 74ページ; 81ページ; 83ページ. [Back ↩]
- 出典:佐藤真人 (1989年) 「「日吉社禰宜口伝抄」の成立」, 大倉精神文化研究所(編集), 『大倉山論集』, 25, 大倉精神文化研究所, 2ページ; 40ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字や青色の背景色などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩]
- 注記:賀茂御祖神社(下鴨神社)では、摂末社である日吉神社が、祭神として大山咋神(大山咋命)を祀っています。 [Back ↩]
- 出典:戸井田道三 (1997年) 「猿・牛・狐」, 「Ⅰ 狂言世界の群像」, 『狂言 : 落魄した神々の変貌』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 192~193ページ; 198ページ. [Back ↩]
- 出典:香取本『大江山絵詞』 下巻 第一段 詞書(絵巻の原本の現状). [Back ↩]
- この写真は、2018年1月に現地にて筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- このスライドショーの写真は、2018年1月に筆者(倉田幸暢)が撮影した写真です。 [Back ↩]
- 画像の出典:"KTO1910-027" by nobu3withfoxy on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"KTO1910-026" by nobu3withfoxy on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"R0018596R0018596" by Yu-Ching Chu on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"KTO1910-038" by nobu3withfoxy on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"雪化粧の上賀茂神社" by eiji ienaga on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"at 上賀茂神社, Kyoto" by yukihiro.m on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"CIMG8771" by senngokujidai4434 on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- この写真は、2018年2月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2018年1月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"伏見稲荷大社" by Noriko YAMAMOTO on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典:「伊奈利社」(『延喜式』神名帳頭註), 「山城国」, 「逸文」, 中村啓信(監修・訳注), (2015年), 『風土記:現代語訳付き 下』, 角川ソフィア文庫, KADOKAWA, 141ページ; 147~148ページ; 152ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:"伏見稲荷大社" by Kentaro Ohno on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"伏見稲荷大社" by Kentaro Ohno on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"伏見稲荷大社" by Инариский on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:[良弁と比良明神], 石山寺縁起. [1], 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 59ページ. [Back ↩]
- 参考:四明岳は、「しめいだけ」と呼ばれることもあります。 [Back ↩]
- 参考:「波母山」という言葉に、「はもやま」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献としては、山口幸次さんの『日吉山王祭 : 山を駆け湖を渡る神輿たち(近江の祭礼行事 ; 1)』があります。この本の112ページのところに、つぎのような記述があります。「「山上山下巡拝絵巻」には、八王子山とは別の山に「小比叡山・波母山」とあり、「二宮権現」も描かれています。これは、横川方面にある垂釣岩(通称鯛釣岩)付近の山中のことで、今も回峯行者に尋ねると、「お山(比叡山)の伝えはここだ」とおっしゃいます。」 [Back ↩]
- 参考:「水井山」という言葉に、「みずいやま」という読み仮名をつけている文献としては、『滋賀県の山(分県登山ガイド 24)』があります。この本の86ページに、横高山と、水井山の、読み仮名が書かれています。 [Back ↩]
- 出典:池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道:『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 259ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「翁古面 一面 滋賀縣 日吉神社藏」, 『日吉山王光華』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:85 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「建立大師相応和尚御像」, 『相応和尚略伝 : 北嶺行門始祖』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:4 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:佐藤弘夫 (2003年) 「聖の活動」, 「変貌する霊場:エピローグ」, 『霊場の思想』, 歴史文化ライブラリー; 164, 吉川弘文館, 184~185ページ. [Back ↩]
- 出典: 蒲松齢 「聊斎自誌」, 蒲松齢(著者), 増田渉(翻訳), 松枝茂夫(翻訳), 常石茂(翻訳) 「聊斎自誌」, (2009年), 『聊斎志異:中国怪異譚 1』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 15ページ. [Back ↩]
- 書誌情報: [原図: 光重筆] 模写, 『百鬼夜行絵巻』, 1軸. [Back ↩]
- 画像の出典:『百鬼夜行絵巻』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:15~17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「解説」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 193ページ. [Back ↩]
- 出典:「鬽」, 尾崎雄二郎 [ほか](編集), (1992年), 『角川大字源』, 角川書店, 1975ページ. [Back ↩]
- 出典:「䰡」, 尾崎雄二郎 [ほか](編集), (1992年), 『角川大字源』, 角川書店, 1975ページ. [Back ↩]
- 出典:「魌」, 尾崎雄二郎 [ほか](編集), (1992年), 『角川大字源』, 角川書店, 1976ページ. [Back ↩]
- 出典:「魔」, 尾崎雄二郎 [ほか](編集), (1992年), 『角川大字源』, 角川書店, 1977ページ. [Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「解説」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 195ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 比叡山延暦寺の総持坊の表玄関に掲げられている一つ目小僧(一眼一足法師)を描いた絵図の扁額とその周辺を撮影したこれらの写真は、筆者が2018年~2019年に撮影した写真です。[Back ↩]
- 「「ゲゲゲの鬼太郎と比叡山の七不思議展」開催のお知らせ」より. [Back ↩][Back ↩]
- 注記:この「比叡山の七不思議」という言葉や概念は、何百年もの昔からあったというわけではなく、近代になってから、だれかが、比叡山の伝説のなかから7つを選んでつくったもののようです。ですので、「比叡山の七不思議」とよばれている7つの伝説のひとつひとつは、大昔からあったものかもしれませんが、「比叡山の七不思議」という言葉や概念は、比較的最近につくられたものだということです。「比叡山の七不思議」の7つの伝説のなかのいくつかの伝説は、たしかに、比叡山延暦寺の天台宗や山王神道関連の古文書のなかに記されています。ですが、「比叡山の七不思議」の7つの伝説のなかには、出典や出どころが不明な伝説もいくつかあります。 [Back ↩]
- 出典:多田克己 (2000年) 「目一つ坊【めひとつぼう】」, 「「妖怪図巻」の妖怪たち」, 「解説」, 多田克己(編集・解説), 京極夏彦(文), 『妖怪図巻』, 国書刊行会, 165ページ. [Back ↩]
- 書誌情報:鳥山石燕 (1805年) 「青坊主」, 『百鬼夜行 3巻拾遺3巻』, 長野屋勘吉. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「青坊主」, 「百鬼夜行 3巻拾遺3巻. [1]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:34 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:福士幸次郎 (1942年) 「バビロニヤの一つの化け物」, 『原日本考』, 白鳥書房. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「一つ目の化け物がバビロニヤの神に退治される場面」の浮彫, 『原日本考』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:5 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:「バビロニヤの一つの化け物」, 『原日本考』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:4 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) . [Back ↩]
- 注記:引用者が、この引用文のなかの旧字体を新字体に変更しました。 [Back ↩]
- 参考文献:池麗梅 (2012年) 「伝最澄編『天台霊応図本伝集』の研究(1):現存最古の李善単注本「遊天台山賦」」, 『鶴見大学仏教文化研究所紀要』, 17号, 鶴見大学, 184ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:"Basilique de Saint-Denis @ Saint-Denis" by Guilhem Vellut on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典:「七 大年神の神裔」, 「大国主神」, 次田真幸(訳注), (1977年), 『古事記 上』, 講談社学術文庫, 講談社, ページ. [Back ↩]
- 出典:山崎時叙 (1978年) 「祭祀の対象」, 「一 近江山神信仰の内容」, 「近江山神信仰の民俗学的研究」, 五来重(編集), 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 ; 11)』, 名著出版, 442ページ. [Back ↩]
- 出典:赤坂憲雄 (2002年) 「杖の発生」, 「杖と境界をめぐる風景/序章」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 128~130ページ. [Back ↩]
- 出典:赤坂憲雄 (2002年) 「標の梲と夜刀の神」, 「杖と境界をめぐる風景/標の梲」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 150~154ページ. [Back ↩]
- 出典:赤坂憲雄 (2002年) 「杖をもつ古代の王たち」, 「杖と境界をめぐる風景/標の梲」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 156~158ページ. [Back ↩]
- 出典:赤坂憲雄 (2002年) 「境界祭儀と杖」, 「杖と境界をめぐる風景/標の梲」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 166~167ページ. [Back ↩]
- 出典:赤坂憲雄 (2002年) 「御杖代の巫女たち」, 「杖と境界をめぐる風景/標の梲」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 170ページ. [Back ↩]
- 狩籠岡(狩籠丘、大納艮岡、大納艮岳)とその周辺(比叡山延暦寺の西塔北谷地区)を撮影したこれらの写真は、筆者が2018年11月に撮影した写真です。[Back ↩]
- 画像の出典:"GreenMan Svaty Vit 2" by Vít Švajcr on Wikimedia Commons (Public domain). [Back ↩]
- 参考文献:「行方郡」, 「常陸国風土記」, 中村啓信(監修・訳注), (2015年), 『風土記:現代語訳付き 上』, 角川ソフィア文庫, KADOKAWA, 37~38ページ; 76ページ; 103ページ. [Back ↩]
- 参考文献:赤坂憲雄 (2002年) 「御杖代の巫女たち」, 「杖と境界をめぐる風景/標の梲」, 『境界の発生』, 講談社学術文庫, 講談社, 170ページ. [Back ↩]
- 参考:夜刀の神. [Back ↩]
- 参考:箭括麻多智. [Back ↩]
- 出典:ハインリッヒ・ハイネ, 小沢俊夫(翻訳) (1980年) 「精霊物語」, 『流刑の神々・精霊物語』, 岩波文庫, 岩波書店, 60~61ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典:手塚治虫 (2014年) [犬上と壹伎史韓国の会話], 『火の鳥 15』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 146ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典:手塚治虫 (2014年) [ルベツとクチイヌ(犬上)の会話と、四天王とノビルの会話], 『火の鳥 14』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 127ページ. [Back ↩]
- 出典:手塚治虫 (2014年) [“おやじさん”(シャドーの指導者)の言葉], 『火の鳥 16』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 195ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 「かごめかごめ」. [Back ↩]
- 画像の出典:"Baskets in Haikou 03" by Anna Frodesiak on Wikimedia Commons (License: CC0 1.0 (Public domain) ). [Back ↩]
- 出典:濱中修 (1990年) 「『伊吹童子』考 : 叡山開創譚の視点より」, 『沖縄国際大学文学部紀要. 国文学篇』, 19(1), 53; 60ページ. [Back ↩]
- 出典:上橋菜穂子 (2010年) 「アボリジニが星の下で生まれていた頃:ローズマリーおばさんの思い出」, 「第一章 地方の町のアボリジニ」, 『隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民』, ちくま文庫, 筑摩書房, 58~60ページ.[Back ↩]
- 出典:ハインリッヒ・ハイネ, 小沢俊夫(翻訳) (1980年) 「流刑の神々」, 『流刑の神々・精霊物語』, 岩波文庫, 岩波書店, 125~126ページ, 127~128ページ. [Back ↩]
- 出典:戸井田道三 (1997年) 「猿・牛・狐」, 「Ⅰ 狂言世界の群像」, 『狂言:落魄した神々の変貌』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 192~193, 197~198ページ. [Back ↩]
- 出典:手塚治虫 (2014年) [ルベツとクチイヌ(犬上)の会話と、四天王とノビルの会話], 『火の鳥 14』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 123~134ページ. [Back ↩]
- 出典:大瀧啓裕 (2016年) 「翻訳家の蔵書」, 『翻訳家の蔵書』, KEY LIBRARY, 東京創元社, 359ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「山精」と「鬼」, 鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』, 九大コレクション(九州大学附属図書館) (パブリックドメイン) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「鬼」, 鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』, 九大コレクション(九州大学附属図書館) (パブリックドメイン) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「酒顚童子(酒顛童子)(酒呑童子)」と「覚」, 鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』, 九大コレクション(九州大学附属図書館) (パブリックドメイン) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「酒顚童子(酒顛童子)(酒呑童子)」, 鳥山石燕 『今昔画図続百鬼』, 九大コレクション(九州大学附属図書館) (パブリックドメイン) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典:多田克己 (2000年) 「山童【やまわろ】」, 「「妖怪図巻」の妖怪たち」, 「解説」, 多田克己(編集・解説), 京極夏彦(文), 『妖怪図巻』, 国書刊行会, 162~163ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「猩猩」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「猩猩」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:16~17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「狒狒」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「狒狒」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「魍魎」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「彭侯」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「彭侯」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:鳥山石燕 (1805年) 「山童」, 『百鬼夜行 3巻拾遺3巻』, 長野屋勘吉. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「山童」, 「百鬼夜行 3巻拾遺3巻. [1]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:11 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:鳥山石燕 (1805年) 「彭侯」, 『百鬼夜行 3巻拾遺3巻』, 長野屋勘吉. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「彭侯」, 「百鬼夜行 3巻拾遺3巻. [2]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:10 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「第十四 大荒東経」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 152~153ページ. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:(1944年) 「(五)山海經ト其記述」, 「(一)支那古代史ト黄河」, 「第二章 秦ノ統一以前」, 華北綜合調査研究所 (編集), 『華北綜硏叢刊 水利第一號 黄河ノ歴史的硏究』, 華北綜合調査研究所, 14~15ページ (コマ番号:15). [Back ↩]
- 書誌情報:郭璞(伝), 蒋応鎬(絵図) ([明刊]) [「夔」の項目], 『山海経 第十四:大荒東経』. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「夔」, 「山海經18卷. [4]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:13 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:郭璞(伝), 蒋応鎬(絵図) ([明刊]) [「応龍」の項目], 『山海経 第十四:大荒東経』. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「応龍」, 「山海經18卷. [4]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:15 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 書誌情報:郭璞(伝), 蒋応鎬(絵図) ([明刊]) [「応龍」の項目], 『山海経 第十四:大荒東経』. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「応龍」, 「山海經18卷. [4]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:16 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典: "Gui (vessel for serving grain) China Shang Period 13th century BCE Bronze" by Mary Harrsch on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典: "anyang yinxu - si mu wu ding" by Xuan Che on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典: 〔序文〕 (1981年) 樋口隆康(著者), 菅谷文則(著者), 繭山康彦(著者), 陳舜臣(著者), 利根山光人(著者), 林巳奈夫(著者), 岡村秀典(著者), 『新潮古代美術館 10 : 鬼神と人間の中国』, 新潮社, 7ページ. [Back ↩]
- 出典: 樋口隆康 (1981年) 「古代中国の祭祀」, 「鬼神の世界」, 「中国古美術の展開」, 樋口隆康(著者), 菅谷文則(著者), 繭山康彦(著者), 陳舜臣(著者), 利根山光人(著者), 林巳奈夫(著者), 岡村秀典(著者), 『新潮古代美術館 10 : 鬼神と人間の中国』, 新潮社, 89ページ1段目. [Back ↩]
- 出典:「夔神鼓」についての解説文, 泉屋博古館のウェブサイトより, 2019年10月26日閲覧. [Back ↩]
- 画像の出典:"Gianto Taiko!" by Elijah van der Giessen on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典:「酒呑童子」, 市古貞次(校注), (1986年), 『御伽草子 下』, 岩波文庫, 岩波書店, 203ページ. [Back ↩]
- 出典:「酒呑童子」, 市古貞次(校注), (1986年), 『御伽草子 下』, 岩波文庫, 岩波書店, 203~204ページ. [Back ↩]
- 出典:高橋昌明 (2005年) 「二、竜王(水神)たる酒呑童子」, 「第三章 竜宮城の酒呑童子」, 『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 138~139ページ. [Back ↩]
- 大猩猩(大猩々)(ゴリラ). [Back ↩]
- 大猩猩(大猩々)(ゴリラ(gorilla))のドラミング(drumming)[Back ↩]
- 出典:高橋昌明 (2005年) 「二、「白猿伝」の影響」, 「第二章 酒呑童子のふるさと:中国の小説・伝説に探る」, 『酒呑童子の誕生:もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 90~91ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「猩猩」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:16~17 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:"Singapore" by Michael Gwyther-Jones on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 黒猩猩(中国語:黑猩猩). [Back ↩]
- 画像の出典:"Knoxville zoo - chimpanzee teeth" by Richard on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「第十八 海内経」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 174ページ. [Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「注」, 「第十 海内南経」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 134ページ. [Back ↩]
- 出典:高馬三良(翻訳) (1994年) 「第十 海内南経」, 『山海経:中国古代の神話世界』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 136ページ. [Back ↩]
- 参考:「ショウジョウバエとは - コトバンク」, 「ショウジョウバエ(猩々蠅)(ショウジョウバエ)とは - コトバンク」. [Back ↩]
- 出典:黒田彰 (1985年) 「一」, 「【能と中世芸能(9)】酒呑童子と白猿伝:唐代伝奇と御伽草子」, 『観世』昭和60年4月号(第52巻 第4号), 桧書店, 78~79ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:"A Hanuman Langur" by Edwin_Butter on Envato Elements. [Back ↩]
- 画像の出典:"hanuman monkey" by irumge on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"Gray langur or Hanuman langur" by hape662 on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"Morning Gossip at Bandhavgarh" by Koshy Koshy on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"Black faced langur" by shankar s. on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]