「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
世の中に 鬼てふ鬼は 多かれど
鬼とは比叡の 鬼神をぞいふ
Obsidian Butterfly Find
A Last Song
In Deep Blue Forest
青の森で
黒曜石の蝶は
歌を見つける
―― 「第25楽章 神の不確かな音 : Deus Ex Machina」, 『ラーゼフォン』 [4] [5]
楠の木は、木立多かる所にも、殊に、交じらひ立てらず。おどろおどろしき思ひ遣りなど、疎ましき
(楠の木は、庭でたくさんの木が茂って木立となっている所でも、ことさらに、それらに交じって生えることはない。大木となるので、思っただけでも恐ろしい)
山の先住者が、山岳に寺院を建立しようとする仏教者に追い立てられ、抵抗を試みるべく姿を隠そうと変身したのが楠だった、というのはいかにも象徴的である。単に姿を隠すのに都合のいい鬱蒼とした木というのではなく、開発とともに伐採されて後退していく照葉樹の側の代表としての楠を彷彿させるからである。酒天童子は一度ならず二度までも楠に変じているが、楠は障碍をなさんとする先住者が変身して身を託す、いわば反体制の拠点として造形されているのである。およそ文明の側のものではない。文明側にとって楠は親しみのあるものではないどころか、怪しげな何かのこもる危険な木のイメージさえまとわりついていたのである。
―― 瀬田勝哉「「楠」 : 大地から湧きあがる力」, 『木の語る中世』 [8]
京観の 艮に坐す 都不二
鬼を追うたか 追うたが鬼か
―― 倉田幸暢
比叡山延暦寺の東塔北谷の地区の地図 [9]
はじめに
ここでは、香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、「酒天童子(酒呑童子)が変化した楠」を出発点として、それに関連する叡山開闢譚の霊木や、その霊木の守護者であった青鬼、そこからさらに、酒天童子の水神(水神)としての性質、などについて、お話したいとおもいます。
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- はじめに
- 酒天童子の昔語りのなかの霊木説話
- 比叡山の所有権移転の霊木説話が記載されている文献群
- 青色と水神のつながり
- 参考: 比叡山延暦寺(天台宗)に関連のある、そのほかの青鬼の説話
- おわりに
- 引用文献・参考文献
酒天童子の昔語りのなかの霊木説話
まことに、この巨大な「仏木」は神であった。上記の古い伝承によれば、たんに「辛酉歳」とする太古に流れ出たる大木が「里」に流れついて災厄をなす。『年表』等に「霹靂木」というのは、神の降臨した木であることを示す語としてよいだろう。それが人間の世界に出現した時に疫病などの災いをのみもたらすのは奇異なことのようであるが、そうした荒ぶるしわざこそ、新たに出現した威力ある神の特徴ともいうべきものであった。
―― 阿部泰郎「三尾明神: 長谷寺縁起」, 「比良山系をめぐる宗教史的考察」 [10]
こうした中世以降の森の破壊を積極的に推し進めたのは、キリスト教の宣教師たちであった。花粉分析の結果は、キリスト教の修道院が森を破壊する先兵であったことを明らかにしている。
〔中略〕
キリスト教の布教と浸透は、これまであったケルト人やゲルマン人の伝統的な宗教と結果的に激しい対立を引き起こすことになった。キリスト教の宣教師は、各地の聖なる森を破壊し、聖木を切り倒すように命じた。それは森の闇を切り開き、異教徒を野蛮な犠牲の儀式から解放し、人間中心の輝かしい文明の光を導入することに他ならなかった。
―― 安田喜憲「森の神々の流竄」, 『大地母神の時代』 [11] [12]
メドュウサがペルセウスに首を切られ、アルテミス神殿がキリスト教徒によって破壊され、近代ルネサンス期にメドュウサが化物にされてしまった歴史は、一口でいえば自然の神々たち、アニミズムの神々が殺戮される歴史であった。理性と一神教をふりかざした文明の勝利の歴史だった。闘争的な力の文明の勝利の歴史であった。
この理性と一神教をふりかざした力の文明によって、神だったメドュウサは神殿から追放され、あげくのはてに化物にされてしまったのである。
―― 安田喜憲「近代文明の犠牲」, 『大地母神の時代』 [13]
高僧の行脚ということは、すなわち年々秋冬のある日を定めて、神が祭りを享けに里に下られたことをいうのであります。仏教の地方伝道には、こうして在来の信仰を乗っ取ろうとした計画が、始終あったらしい
―― 柳田国男「太子講の根源」, 『女性と民間伝承』 [14]
異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。〔中略〕
信心深い斧に抵抗した聖なる樫の木は中傷された。つまりこの木の下で悪魔たちが毎晩ばかさわぎをし、魔女たちが地獄のみだらな行為をしていると今日ではいわれている。〔中略〕それは森のなかでいちばん大きくて強い木であり、その根は大地のいちばん底まで達している。その梢はみどりの軍旗のように、誇らかに空中にはためいている。詩にでてくるエルフェはその幹に住んでいる。聖なる英知のやどり木がその太い枝にまつわりつく。ただその実は小さくて人間には食べられない。
―― ハインリヒ・ハイネ『精霊物語』 [15]
現在、逸翁美術館に所蔵されている香取本『大江山絵詞』の絵巻物は、現存最古の酒呑童子説話をつたえています。その香取本『大江山絵詞』のなかに、酒天童子が自らの来歴を語る場面があります。その場面では、古くから酒天童子が住みかとしていた「平野山」の土地(比良山地や比叡山地のあたりの地域)が、伝教大師最澄(に象徴される天台教団(天台宗の教団))によって奪い取られてしまった、という話が語られています。
そのとき、その土地の先住者であった酒天童子(酒呑童子)は、最澄(に象徴される天台教団)による侵略をはばむために、楠木(くすのき)の巨木に変化して抵抗しました。ですが、結局は、力及ばず、住みかを追い出されてしまいます。この下の文章は、香取本『大江山絵詞』に記されている、その経緯についての、酒天童子による昔語りのなかの一節です。
この下の文章は、香取本『大江山絵詞』の上巻のなかの第5段の詞書の文章の一部を釈文にした文章です [16] [17] [18]。赤文字や太文字などの文字装飾は、筆者によるものです。
上記の話の要点は、かんたんに言えば、「比叡山の土地の所有権が、先住者であった酒天童子(鬼)から、最澄(に象徴される天台教団)に移った」ということです。そして、比叡山の土地の所有権は、巨木(霊木)によって象徴されています。
上記の香取本『大江山絵詞』に記されている話と、なんらかのつながりがあるとおもわれる説話(あるいは、上記の話のもとになったかもしれない説話)が、比叡山延暦寺についての文献のなかに、複数残されています(牧野, 1990, pp. 87-94) [19]。
比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂の本尊は、薬師如来像です。それらの説話というのは、その薬師如来像をつくるときにつかわれた御衣木(木彫仏像の制作にもちいられる材木)となった霊木についての説話です。それらの説話の内容は、おおまかに言えば、上記の香取本『大江山絵詞』の話とおなじような、「比叡山の土地の所有権が、先住者(鬼や、天龍八部、金剛力士、仙人など)から、最澄(に象徴される天台教団)に移った」という内容です。そして、それらの説話においても、比叡山の土地の所有権は、霊木によって象徴されています。
ちなみに、能(能楽)の謡曲「大江山」は、諸本のなかでも、香取本『大江山絵詞』と同系統に属し、話の内容もよく似ています。
この下の引用文は、その謡曲「大江山」のなかの酒天童子による昔語りのなかの一節です。
(※この下の引用文のなかの、「大師坊」というのは、「伝教大師最澄」のことです。)
われ比叡の山を重代の住家とし、年月を送りしに、大師坊といふえせ人、嶺には根本中堂を建て、麓に七社の霊神を斎ひし無念さに、一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に、大師坊一首の歌に、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち、わが立つ杣に冥加あらせ給へ」とありしかば、仏たちも大師坊にかたらはされ、出でよ出でよと責め給へば、力なくして重代の比叡のお山を出でしなり
(〔酒天童子による昔語りの一節〕, 謡曲「大江山」) [20] [21]
比叡山の所有権移転の霊木説話が記載されている文献群
『叡岳要記』上巻 「虚空蔵尾本願堂縁起」 [22]
『渓嵐拾葉集』(滋賀県大津市 西教寺 所蔵) [23]
『渓嵐拾葉集』第百七「根本中堂不思議事」によれば、最澄自刻の伝承を持つ比叡山の根本中堂の薬師如来像の御衣木も、「晝ハ紫雲を覆、夜ハ光明ヲ放」つ霊木と語られる。
これらの縁起における御衣木の、一夜成長の巨木という伝説や、放光する木という伝承は、当初の民間伝承から見れば、必ずしも素晴らしく尊い物としての記述とはいえない。『長谷寺縁起』系統の御衣木と同様に、これらの形容は、霊木といっても負の性格を持つもの、怪奇現象や祟りにより恐れられる疫木を意味したのではないか。
―― 山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」 [24]
中世の在地領主制に関するこれまでの研究においては、鎌倉期の『沙汰未練書』に、「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」「開発領主トハ、根本私領ナリ」とあるように、開発行為こそが在地領主による土地所有の最大の根拠だとされてきた。本章では、この開発の実施にあたって、絶えず用水の確保が必要となることに着目したい。用水支配権が所領の領主権の根源になっているとの指摘さえあるように、在地領主による用水の開発と整備こそが、彼らの開発領主としての支配に根拠を与えていたのではないだろうか。
―― 佐野静代『中近世の村落と水辺の環境史 : 景観・生業・資源管理』 [25]
さきほどお話したような、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」は、下記に列挙した文献に記載されています。
- 『法華経鷲林拾葉鈔』巻第24 陀羅尼品第26 [26] [27]
- 『日吉山王利生記』第1 [28] [29] [30]
- 身延文庫蔵『法華直談私見聞』 [31]
- 『渓嵐拾葉集』巻第107 記録部 私苗 六 [32]
- 『叡岳要記』上巻「虚空蔵尾本願堂縁起」(「本願堂」)の項目 [33] [34]
- 『叡岳要記』下巻「㝡澄大師一生記」(「最澄大師一生記」)(「最澄一生記」)のなかの、「沙彌㝡澄」(「沙弥最澄」)の項目 [35] [36]
- 『山門堂舎記』(「根本中堂」の項目) [37] [38]
- 『法華経直談鈔』「巻第八本」のなかの、「巻第六 寿量品第十六」のなかの、「廿三 山門三佛造事」(「23 山門三仏造事」)の項目 [39]
- 『山門堂社由緒記』「巻第一 比叡山延暦寺御由緒書」のなかの、「本願堂」の項目 [40]
- 『比叡山堂舎僧坊記』(「佛母塚」(仏母塚)の項目) [41]
- 『山門名所旧跡記』巻第一の「東塔分」のなかの、「香炉岳(香炉ガ岳)」と「佛母塚」(仏母塚)の項目 [42] [43]
- 『山門名所旧跡記』巻第一の「西塔分」のなかの、「登天峯」の項目 [44]
- 『面授口訣』(鎮国道場本仏 仁忠和尚八箇問答記云) [45]
また、上記の文献群に記載されている「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の原型のひとつである可能性がある説話として、聖徳太子について書かれている下記の文献に記載されている説話があります。その説話は、霊木こそ登場しないものの、「かつて、聖徳太子が生きていた時代に、比叡山に悪鬼がいた」という内容になっています。
- 醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』(「太子卅二歳御時」) [46]
また、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の昔語りにあった霊木説話は、比叡山延暦寺のはじまり(つまり、日本天台宗のはじまり)を物語る「開闢譚」でもあります。その「叡山開闢譚」の主題のひとつは、「開祖である高僧が、霊山で悪しきものにはばまれながらも、それに打ち克つ」という部分です。その主題は、もとをたどれば、「華頂降魔」の説話の主題をまねしたものであるようです。
比叡山延暦寺を総本山とする日本天台宗は、その開祖である最澄が、(中国の)天台宗の教えを継承して開いた宗派です。「華頂降魔」の説話というのは、その(中国の)天台宗の開祖である智顗にまつわる説話です。その「華頂降魔」の説話の主題もまた、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話とおなじように、「開祖である高僧が、霊山で悪しきものにはばまれながらも、それに打ち克つ」という内容になっています。その「華頂降魔」の説話は、下記の文献に記載されています。(「智者大師」というのは、智顗の尊称です。)
ここからは、上記で紹介した文献群のなかでも、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の成立に、とくに大きな影響をあたえた可能性や、ふかいつながりがある可能性があるとおもわれる文献と、そこに記載されている説話を、いくつかとりあげてみたいとおもいます。
ちなみに、下記の行列表(スプレッドシート)は、それらの文献に記されている、比叡山延暦寺の霊木説話についての記述を比較・分析したものです。ご参考までに。
『法華経鷲林拾葉鈔』の、鬼の霊木の説話
「今の子らは知らないだろうけど
暗森の声ってのは本当に恐ろしいお人だったんだから
たまに思い出してうなされるくらいが丁度いいのさ」
「「人」?
悪魔じゃないのか?」
「あっはは!違う違う
それは後付け
元々は人だよ
その昔マキナタを切り拓きに来た開拓団を
たったひとりでほぼ壊滅させた人が暗森の声なんだと
最後は木こりが斧で討ち取ったんだけど
それから7年間不作が続いたもんでお祀りしてんのさ
ほら 街外れの大楠
あそこに住んでたらしいよ
あんたらも木を大切にね
粗末に扱ってると祟られちまうかもよ?」
―― 「第31話 樹鎮の夕べ」, 『ハクメイとミコチ 5巻』 [51]
さきほど紹介した、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」が記載されている文献群なかでも、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の内容との共通点がとくに多いのは、『法華経鷲林拾葉鈔』巻第24のなかの、「陀羅尼品第26」の節のなかにある説話です。(『法華経鷲林拾葉鈔』の成立年代は、1512年ごろ(室町時代後期)です。)
この『法華経鷲林拾葉鈔』の文献のなかの、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の部分には、おおよそ、つぎのようなことが記されています(『日本大蔵経 第26巻 増補改訂』, 1974, p. 242) [26] (『日本大蔵経 第30巻』, 1917, p. 706) [27]。(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
叡峰開白〔比叡山開闢〕の時、根本中堂の薬師〔薬師如来像〕を造り奉らんとて、御杣木を尋ね玉ふに、東北に当たって楠あり。彼の本より光明を放つ。大師〔伝教大師最澄〕危しく思召し、彼の木の本へ尋ね行きて見玉ふに、二人の鬼有りて、此の木を守護す。時に大師詠じて云く、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ玉へ」。鬼の云く、「我、狗留孫仏〔過去七仏の第四番目の仏〕より以来、此の木を守護し、釈尊像法の時に当たり、此の山〔比叡山〕に於いて大乗弘通の人師来る可し。即ち与ふ可し」と云へり。「汝が事なるべし」と云ふに、速やかに東北を指して去りにけり。即ち此の木を切りて、一刀三礼に薬師如来の像を造り、根本中堂の本尊と為す。其の礼文に云ふ。像法転ずる時、衆生を利益す、故に薬師瑠璃光仏と称号す。此の如く唱いて礼拝し玉ひしかば、木像の薬師、新たにうなづき給ひけり。今も夜なんど道を行くに、をそろしき事之有り。此の歌を三反誦するに、鬼神障礙を成さずと云ふ也。
(「陀羅尼品第26」, 『法華経鷲林拾葉鈔』) [26] [27]
この文献の上記の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話には、つぎのような共通点があります。
- 比叡山の先住者として、鬼が登場する(「二人の鬼」と、酒天童子)。
- 最澄が、主要な人物として登場する。
- 霊木の樹種は、楠。
- 最澄がつくったとされている、つぎの和歌が記載されている。「阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまえ」。
こうした共通点があることから、『法華経鷲林拾葉鈔』と、香取本『大江山絵詞』の、双方に記載されている「比叡山の鬼の霊木の説話」には、なんらかのつながりが、あるのではないかとおもいます(あるいは、片方が、もう片方の説話の原型のひとつになったのかもしれません)。
最澄が詠んだ和歌「阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまえ」について
最澄が詠んだ和歌「阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまえ」について
『日吉山王利生記』の、青鬼の霊木の説話
東海の度索山といふ地に、大きなる桃の三千里にわだかまれる樹あり。其の卑き枝、東北に向ふ。これを鬼門といふ。此所、衆の鬼の出入する所なれば、かくは名づけしなり。
―― 〔新井白石の『鬼門説』に引用されている『山海経』の記述〕 [52]
『東塔縁起』に云う、「桓武聖主、長岡京を廃し、平安城に遷るの時、雲峰 帝都の丑寅に峙ち、嵐径 鬼門の凶害と成る。于時当りて大師自ら伽藍の基跡を開き、聖主 深く叡山の護持を恃む。爾れ自り以降、当山を以って皇帝本命道場と為す」と。
―― 「叡岳要記 上」, 「鬼門」, 「方位吉凶」, 「陰陽道 下」, 『古事類苑』 [53]
秋七月の辛卯の朔甲午に、筑紫後国の御木に到りて、高田行宮に居します。時に僵れたる樹有り。長さ九百七十丈。百寮、其の樹を蹈みて往来ふ。
―― 景行天皇十八年七月の条文, 『日本書紀』巻第七 [54]
『日吉山王利生記』第1に記載されている説話も、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の文献群なかで、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の内容との共通点がある説話です。(『日吉山王利生記』の成立年代は、鎌倉時代後期とされています(鎌倉時代は、1185年ごろ~1333年)。)
この『日吉山王利生記』の文献のなかの、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の部分には、おおよそ、つぎのようなことが記されています(『神道大系 神社編 29』, p. 650) [28](『続群書類従 第2輯 下 3版』, pp. 655-656) [29](『日本精神文化大系 第4巻』, p. 130) [30]。(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
桓武天皇御宇延暦四年〔桓武天皇が世の中を治めていた時代の延暦4年(西暦785年)〕に伝教大師御年十九にて、始て叡山によぢのぼり給しに、倒たる枯木を見守る青鬼あり。大師問給はく、「汝何者ぞ」。鬼答申云、「未来に聖人来て仏像を彫刻すべし。其祚木のために不可踏守」と。「地主権現の仰によりて、此木の二葉より之を守護す」云々。大師感涙甚し。艸庵をむすび願文を製し、同七年に一乗止観院を立給。其間彼霊木にて薬師如来を造像す。一たび斧をくだして三度礼拝し、斧をおろす度ごとに、未来悪世の衆生必利益し給べきよし誓約ありければ、仏像うなずき給ける。大師三仏を一院にきざむとは、此根本中堂〔比叡山延暦寺の総本堂(の本尊である)〕薬師〔薬師如来像〕、転法輪堂〔比叡山延暦寺の西塔地区の本堂である釈迦堂(の本尊である)〕釈迦〔釈迦如来像〕、浄土院〔最澄の廟所のとなりにある堂宇〕阿弥陀〔阿弥陀如来像〕なり。凡桓武天皇は観自在尊〔観自在菩薩尊が〕応化〔人の姿となって現れた存在である〕。伝教大師〔最澄〕は薬王菩薩の垂迹〔薬王菩薩が人の姿となって現れた存在であり〕、智者大師〔天台宗の開祖である智顗〕の後身〔生まれ変わり〕なり。
この文献の上記の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話には、つぎのような共通点があります。
- 比叡山の先住者として、鬼が登場する(「青鬼」と、酒天童子)。
- 最澄が、主要な人物として登場する。
こうした共通点があることから、『日吉山王利生記』と、香取本『大江山絵詞』の、双方に記載されている「比叡山の鬼の霊木の説話」には、なんらかのつながりが、あるのではないかとおもいます(あるいは、片方が、もう片方の説話の原型のひとつになったのかもしれません)。
身延文庫蔵『法華直談私見聞』の、青鬼の霊木の説話
昔、神代の時、日本に三本の大木あり、栗・楠・椿なり。〔中略〕栗は、丹波国大江山の麓に有之、此木を、鬼神城くわくの要害とす。源頼光、酒呑童子退治の時、太守より所の百姓に云ひ付け、此木を伐らするに、一夜の内に、肉生合、伐る事を得ず。或時、其親、子に教へけるに、伐くずをば、入火にしてたくべしといふ。其子、教に随ひ、伐りくずを、火にいれ、たき捨てしかば、終に、伐り満つ。時に、教へし親、甚だ悦び、木の元へ立寄りしに、此木忽ちに打倒れける間、親父打ちしかれ死す、依之、諺に、丹波の爺打栗と云ふ。
四年、春二月甲寅朔甲子、天皇箕野に幸す。路淡海を経る。一の枯木殖ゆ。梢空を穿ち空に入る。由に国老に問う。云う、「神代の栗木。昔此の木栄えし時、枝山嶽に並ぶ。故に並枝山と云う。又連なる高峰に並ぶ。故に並聯山と云う。毎年葉落ち土と成る。土中悉栗の葉なり」と。天皇之に感じ詠歌す。
身延文庫蔵『法華直談私見聞』に記載されている説話も、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の文献群なかで、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の内容との共通点がある説話です。(身延文庫蔵『法華直談私見聞』の成立年代は、1471年ごろ(室町時代後期)です。)
この身延文庫蔵『法華直談私見聞』の文献のなかの、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」の部分には、おおよそ、つぎのようなことが記されています(牧野, 1990, p. 90) [63]。(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。「■」の記号は、文献のなかの欠損部分をあらわしています。)
一、根本中堂本尊薬師の事。傳教大師〔伝教大師最澄〕我山〔比叡山〕に登り、作仏の為に御尊木を尋ね玉へり。■時、松尾の明神虚空に現れ、前の尾〔山裾〕に御尊木有りと告玉へり。後に行見玉へは、此木を青色の二の鬼〔青色の二人の鬼〕守護して居り、大師此の木を乞玉へは、二鬼〔二人の鬼〕問て云く、「御名をは何と申」と云り。大師、「我是大安寺の沙門行表和尚の御弟子に㝡澄法師〔最澄法師〕と云者也」と答玉ふ。其時に二鬼〔二人の鬼〕申けるは、「是は過去狗留孫仏〔過去七仏の第四番目の仏〕従、『㝡澄法師〔最澄法師〕に渡申せ』とて預かり申して、今迄守護申て候木なり。渡し申さん」とて、虚空を指失せにけり、と云ふ〔後略〕
(身延文庫蔵『法華直談私見聞』) [63]
この文献の上記の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話には、つぎのような共通点があります。
こうした共通点があることから、身延文庫蔵『法華直談私見聞』と、香取本『大江山絵詞』の、双方に記載されている「比叡山の鬼の霊木の説話」には、なんらかのつながりが、あるのではないかとおもいます(あるいは、片方が、もう片方の説話の原型のひとつになったのかもしれません)。
醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』の、比叡山の悪鬼の説話
太初の桑の巨木
『桑実寺縁起』上巻 第1段の絵図の模写〔一部分〕
江州桑実寺は、日本国の最初、扶桑の朝の濫觴也。元気既に別れて、澄める物は天と成り、濁れる物は地と成る。滔々たる海上に、一株の桑の木生ひ出でたり。梢は九山を覆ひ、根は八海に蟠れり。此の木、三つの菓を結ぶ。一は、金烏と変じて、木の頂を飛び巡る。一は、玉兎と化して、枝の辺に遊び集ふ。是、則ち、四天下を照らす日光・月光の垂迹也。一は、地に落ちて山と成る。今の桑実山これなり。その形、八葉にして、其の色、紅紫を交ふ。宛も天蓋の如し。故に織山と名付く。渓谷の声は広長舌、山嶽の色は清浄身、三災の劫末にも破れず、天真独朗の不動山なり。過去正法明如来の浄土、金剛喩定の盤陀石なり。上宮太子〔聖徳太子〕、三十三歳の厄難を払はんが為、千手の像を彼の石の上に安置し給ふ。
醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』のなかの「太子卅二歳御時」の節に記載されている説話も、「比叡山の所有権移転の説話」の文献群なかで、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の内容との共通点がある説話です。(醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』の成立年代は、1460年ごろ(室町時代中期)です。)
この説話は、霊木こそ登場しないものの、「かつて、聖徳太子が生きていた時代に、比叡山に悪鬼がいた」という内容になっています。また、この説話では、「聖徳太子が、死後に最澄に生まれ変わった」ということになっています。
この醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』の文献のなかの、「比叡山の所有権移転の説話」の部分には、おおよそ、つぎのようなことが記されています(『中世聖徳太子伝集成 第2巻』, pp. 451-453) [46]。(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
〔聖徳太子が〕初楓野〔山城国葛野郡楓野〕行詣の時。今之都〔平安京〕の深山たりしを御覧じて、左右に勅して、青龍口、吾れ〔聖徳太子〕此の地の形を相るに、北は塞り、南は晴て、東に清河流て、福寿増長之兆を示し、東西に長山遥に連て、千年の翠り深くして、万民撫育之徳を顕す。誠に是れ、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相應之勝地也。吾れ入滅一百七十餘年〔聖徳太子の死後約170年後の〕、人皇五十代之帝〔桓武天皇〕の時に此の地に於て、遷都有る可し。王法長久、佛法繁昌之霊區也。之に依り、應化の諸神先ず、居を所々に卜て、此の地を守護する也。彼の北の山の麓に月神垂迹して、百王の寶祚を守る、即ち賀茂大明神也。同き北山の高岳に龍神止住して王城の霊地を守護す、即ち貴船大明神也。西山の脚に猛霊鎮守有り、即ち松尾大明神也。其の外の諸神、稱て計う可からざる也〔数え切れないほど多い〕。然りと雖も、東北の方の高嶽〔比叡山〕に大勢力の悪鬼有り。時々障㝵を作し、是一の大難を為す也。而も、彼の嶽〔比叡山〕は、拘畄孫佛轉法輪之古跡也〔過去七仏の第四番目の仏である拘留孫仏が、かつて説法を行った場所である〕。法末之時に至て、悪鬼押領して住城を為し、佛法之大障碍を作す。應化の諸神之を奈ともせず。故を以て、此の地未だ王城と成らざる也。然りと雖も、吾れ〔聖徳太子〕無比の大願を發して、入滅一百七十餘年之後〔死後約170年後に〕、邊土に託生して、下賤の衆生を利益し、然る後に、彼の高嶽〔比叡山〕に於て、鎮護国家の大伽藍を建て、一乗圓宗〔天台宗〕の教法を崇て、悪魔を千里に拂ひ、皇基を万歳に守し、卜誓玉ければ、小野大臣筆を執て之を記録する也。此の邊土託生之御願浪ず、身後一百七十余年に〔死後約170年後に〕、近江國志賀郡の住民百枝〔最澄の父親である三津首百枝〕が子に生て、聡頴無雙、十二歳にして、行表法師〔最澄の師匠〕に投じて出家して、法相宗の章䟽を学し、并に天台三大部を自見す。十九歳にして、彼の叡嶽〔比叡山〕に上て、五種の大願を發し、柴の廬を結び、一乗止觀院と名け〔後の根本中堂〕、精修苦行して倦むこと無き也。桓武天皇〔桓武天皇〕之を尊て、檀契浅からず、茅茨を改て、梵宇を作し、延暦寺と号す。師の諱は最澄。後に傳教大師と諡す。太子の記文に、東北の方の高嶽と曰は、今の比叡山也。傳教〔伝教大師最澄〕は太子〔聖徳太子〕の後身〔生まれ変わり〕也。 已上、松子傳也。
(「太子卅二歳御時」, 醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』) [46]
この『聖徳太子伝記』の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話には、つぎのような共通点があります。
- 比叡山の先住者として、鬼が登場する(「悪鬼」「悪魔」と、酒天童子)。
- 最澄が、主要な人物として登場する。
こうした共通点があることから、醍醐寺蔵『聖徳太子伝記』と、香取本『大江山絵詞』の、双方に記載されている「比叡山の鬼の説話」には、なんらかのつながりが、あるのではないかとおもいます(あるいは、片方が、もう片方の説話の原型のひとつになったのかもしれません)。
『智者大師別伝』の、「華頂降魔」の説話
最澄に衝撃を与えたのは、その後の智顗の思いきった行動である。まさに陳の知性の星、精神的支柱と仰がれていた智顗は、数年後、人々のとめるのもきかず、都を棄てて台州の天台山にこもってしまったのだ。〔中略〕
〔中略〕ここで彼はもう一度求道者に戻ったのだ。ときに三十八歳。
── 何百年に一人、という頭脳の持主、智顗禅師が、四十に手が届くところまできて、もう一度一介の求道者に戻られたとは……
その研究生活で結実したのが、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部と知ったときの驚きはどんなだったか。
―― 永井路子「雲嶺の梵音」, 『雲と風と : 伝教大師最澄の生涯』 [67]
天台大師は能化の主
眉は八字に生いわかれ
法の使に世に出でて
殆ど仏に近かりき
―― 「僧歌十三首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [68]
天台山は、蓋し山嶽の神秀なるものなり。海を渉れば、蓬莱方丈の仙蹟あり、陸に登れば、石橋赤城の勝地あり。其高きこと一万八千丈、周回八百余里、第八重最高の処を、華頂峰と名づけ、又は望海尖とよぶ。草木薫郁、殆んど人世に非ず。大師此華頂峰に登り、後夜に座禅し給ふに、第六天の天子魔、北の百千万の魔軍を率ひ来り、暴風迅雷、千状万態、怖畏の相を現じ、更に父母師長の形となりて、或はうらみ、或はむつれ、種々に悩害を加ふといへども、大師深く実相を念じ、本無に体達して、強軟二種の魔魅を降伏し給ふ。
―― 「第二十八章 華頂降魔」, 『天台大師略伝』 [71]
深山遠谷のごときは、途路艱険にして永く人蹤を絶す。誰かあい悩乱せん。意を恣にして禅観し、念念、道にあり、毀誉起らず。この処は最も勝る。
―― 智顗〔静処に閑居せよ〕, 『摩訶止観』第六章 第一節 第三項 [72] [73]
柴の庵に聖おわす
天魔はさまざまに悩ませど
明星漸く出づる程
終には随い奉る
―― 「僧歌十三首」「四句神歌」『梁塵秘抄』 [74]
さきほどお話したように、『智者大師別伝』(天台智者大師別伝)に記されている「華頂降魔」の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話は、どちらも、「開祖である高僧が、霊山で悪しきものにはばまれながらも、それに打ち克つ」という内容になっている、という共通点があります。
そのような共通点がある理由は、おそらく、日本天台宗の教団が、「叡山開闢譚」をつくるにあたって、自分たちの宗派の源流である(中国の)天台宗の「天台山開闢譚」の内容に似せることによって、自分たちの正統性の主張と、権威付けをおこなおうとしたからではないかとおもいます。
香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話のほうのあらすじは、「日本天台宗の開祖である最澄が、酒天童子(悪鬼)が変化した楠の巨木にはばまれながらも、それを打ち破って、比叡山延暦寺を創始した」というような内容になっています。
一方、『智者大師別伝』に記されている「華頂降魔」の説話のあらすじは、「(中国の)天台宗の開祖である智者大師(智顗)が、天台山で修行していたときに、暴風や雷鳴をともなってあらわれた、たくさんの鬼や化け物たちによって、修行を妨害されながらも、それらに屈せず、悟りを開いて、天台宗を創始した」というような内容になっています。
『智者大師別伝』のなかの「華頂降魔」の部分には、おおよそ、つぎのようなことが記されています(『国訳一切経 和漢撰述 第78』, pp. 599-600) [47](『新纂大日本続蔵経 第77巻』, pp. 665-666) [48](『伝教大師全集 第四』, pp. 182-183) [49]。(この『智者大師別伝』(天台智者大師別伝)の文献は、6世紀後半~7世紀前半ごろの隋(中国)で成立しました(日本は奈良時代ごろ)。下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
寺の北の別峯を、呼で華頂と為す。登りて眺るに群山を見ず。暄涼にして、永く余処に異る。先師〔智者大師(智顗)〕、衆を捨てて、独り往きて頭陀す〔修行する〕。忽ちに、後夜に於て大風木を抜き、雷震いて、山を動かす。魑魅千群〔たくさんの鬼や化け物〕、一形百状あり。或は頭に龍虺を戴き、或は口より星火を出す。形は黒雲の如く、声は霹靂の如し。倏忽として転変し、称て計うべからず〔数え切れないほど多い〕。図書に写す所、降魔の変〔「降魔変」。釈迦が悪魔をしりぞけた場面を描いた絵図〕等、蓋し少小のみ。畏るべきの相、復是に過ぎたり。而れども、能く安心して、湛然として空寂なりければ、逼迫の境、自然に散失す。又、父母師僧の形を作す。乍に枕し、乍に抱き、悲咽流涕す。但だ、深く実相を念い、本無に体達すれば、憂苦の相、尋で復た消滅す。強軟の二縁、動かす能わず。明星出る時、神僧現じて曰く、「敵を制し、怨に勝つ。乃ち勇と為すべし。能く斯の難を過ぐる、汝の如き者無し」と。既に安慰し已りて、復〔智顗の〕為に法を説く。説法の辞、意を以て得べく、文を以て載すべからず。当に語下に於て、句に随いて明了し、雲を披き、泉を飲む。水日喩に非ず。即便、〔智顗が神僧に〕問て曰く、「大聖是れ何の法門ぞ。当に云何んが学し、云何んが弘宣すべきや」。〔神僧が〕答う、「これを一実諦と名く。之を学ぶに、般若を以てし、之を宣るに、大悲を以てす。今より已後、若し自行人を兼ぬれば、吾れ皆に影響せん」と。
(「華頂降魔」の場面のあたりの一節, 『智者大師別伝』(天台智者大師別伝)) [47] [48] [49] [75] [76]
この「華頂降魔」の説話と、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話には、つぎのような共通点があります。
- 霊山で修行する高僧の妨害をする鬼が登場する(「魑魅千群」〔たくさんの鬼や化け物〕と、酒天童子)。
- 高僧が、主要な人物として登場する(最澄と、智顗)。
こうした共通点があることから、『智者大師別伝』(天台智者大師別伝)に記されている「華頂降魔」の説話(「霊山の鬼の説話」)は、香取本『大江山絵詞』の酒天童子の霊木説話の、原型のひとつであったのかもしれません。
天台三大部という法文から受けた衝撃もだが、若い青年であってみれば天台大師智顗そのひとの軌跡に最澄はより激しい衝撃をうけ、ひたすらその後についてゆこうと思い定めたのではあるまいか。
―― 大師の籠られた天台山は、どういうところなのか。
そこをこの眼で見る可能性は、今のところ彼には皆無だが、それでも、その山を、その参籠の禅処を、どうしても見たい、と胸を熱くしたことだろう。この天台大師その人に対する傾倒は、それ以後の彼の中で、激しい炎となって燃え続ける。そのことをぬきにして彼の生涯は語れない。
(永井路子「雲嶺の梵音」, 『雲と風と : 伝教大師最澄の生涯』) [67]
参考: 「降魔成道」の場面を描いた絵図「降魔変」について
ここでは、さきほどの「華頂降魔」の説話のなかにあった、「降魔変」という言葉について、補足の説明をしたいとおもいます。
敦煌の莫高窟の第428窟の壁画に描かれている図像を指し示す言葉(題名)としてつかわれている、「降魔変」という言葉は、釈迦が、悪魔による誘惑や脅迫などの妨害をしりぞけた場面を図像化したものを指す言葉であるようです。「降魔」という言葉は、釈迦が菩提樹の下で瞑想しているときに、悪魔が誘惑したり脅迫したりして妨害したものの、釈迦がそれらの妨害をすべてしりぞけたことを指す言葉です。(この話が、いわゆる、「降魔成道」と呼ばれる説話です。)また、そのことから、「降魔」という言葉は、「悟りの妨害となるものをしりぞける」という意味でもつかわれるようになりました。「降魔変」という言葉のなかでつかわれている、「変」という言葉は、「絵」「像」「壁画」「レリーフ」などを意味する言葉としてつかわれているようです。
(参考: 「降魔変」という言葉のなかの「変」という言葉の意味について解説されている論文)
J-STAGE
「変」、「変相」、「変文」の意味
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/2/65_732/_article/-char/ja/
印佛65巻2号.indb
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/2/65_732/_pdf/-char/ja
(この論文のPDFファイル)
辛嶋静志 (2017年) 「「変」、「変相」、「変文」の意味」, 『印度學佛教學研究』, 65巻 2号, 732~739ページ.
九二〇~九八〇年の間に書かれた幾つかの敦煌写本の題目に「変」が使われている。例えば「破魔変」、「降魔変」、「八相変」、「舜子変」、「劉家太子変」などである。これら題目中の「変」は「絵」を意味していると考えられる。従って、上のタイトルは、それぞれ「(仏)が魔を打破する絵」、「(仏)が魔を降伏させる絵」、「(釈迦牟尼仏一生の)八つの主要な出来事の絵」、「舜子の絵」、「劉家の太子の絵」である。これら写本の内容は、他ならぬこれら絵の内容紹介である。
(辛嶋静志「「変」、「変相」、「変文」の意味」より) [80] [81]
漢訳と蔵訳―後者は概して梵語原典に忠実である―の比較から、漢訳の「大神通変」と「地獄変」の「変」は、「変化、神通力、奇蹟」の意味ではなく、画家(Tib. ri mo = Skt. citrakara?)が描いた「絵(壁画)」の意味だと分かる。従って、「大神通変」と「地獄変」とは「大神通の絵(壁画)」、「地獄の絵(壁画)」の意味である。しかし、漢訳のインド原典には、漢訳の「変」に対応する原語がなかったことが、蔵訳から推定される。漢訳者義浄は、意味を明確にするために「変」を加えたと考えられる。
(辛嶋静志「「変」、「変相」、「変文」の意味」より) [82] [81]
参考: 魑魅魍魎: 山や川に棲む赤い童子すがたの鬼
世に伝う。昔し叡山に一童あり。僧徒その美なるを愛し、酒を勧めて交歓す。時々人を齩み血を舐り、酒に和してこれを飲む。一旦魅と為り、酒顚童子と号す。
―― 林羅山, 林鵞峰『本朝通鑑』 [88] [89] [90] [91]
私は魑魅と光を争おうとする哀れな秋の蛍火であり、罔両に笑われるはかない野馬にすぎない。だが干宝(中国最初の小説集 「捜神記」の著者)の才も持たぬのに、かねて神を捜ることを愛し、また、人に鬼を談らせて喜んだ、かの黄州の知事(蘇東坡)と、その気分を同じくする。
―― 蒲松齢「聊斎自誌」, 『聊斎志異』 [92]
おきなわに、あだんのきが まだ いっぽんも なかった むかし……。
ちいさなしまの おかに、ガジュマルのきが たっていて、 そこに、きじむなーが すんでいた。
きじむなーには ふしぎなちからが あって、よるになると どこへでも とんでゆくことが できた。
〔中略〕
きじむなーは、あかいみを つけた きになって、とんとんみーを たすけたのさ。
それが、あだんのきだ。
―― 田島征彦『とんとんみーときじむなー』 [93]
ちなみに、さきほどの、「華頂降魔」の説話のなかにあった、「魑魅」という言葉には、「山や川に棲息している鬼や化け物」というような意味があります(『字通』, p. 1080, p. 1500)(『角川大字源』, p. 1975, p. 1977)。「魑魅」という言葉は、「魍魎」という言葉とつなげて、「魑魅魍魎」というひとつの言葉としてあつかわれることがしばしばあります。その「魍魎」という言葉にも、「山や川に棲息している鬼や化け物」というような意味があります。
なお、「魍魎」については、そうした意味にくわえて、「山のなかの水に棲む化け物」や、「水神」といった、水に関する特徴があるとされることもあるようです(『字通』, p. 1519, p. 1520, p. 1623)(『角川大字源』, p. 1977)。
『倭名類聚鈔』は〈鬼〉につづいて、餓鬼・瘧鬼・邪鬼・窮鬼・魑魅・魍魎・醜女・天探女等を鬼として説明しているが、それぞれに和名を当てて、瘧鬼は「えやみのかみ」、邪鬼は「あしきもの」、窮鬼は「いきすだま」、魑魅は「すだま」「こだま」、魍魎を「みづは」としている。「みづは」は水精であり、「こだま」「すだま」は老物の精、すなわち、木や石などの年を経たものは、おのずから精霊が宿ると考えられている
(馬場あき子「鬼と日本の〈おに〉」, 「一章 鬼の誕生」, 『鬼の研究』) [94] [81]
また、「魍魎」は、「赤い目で赤黒い色をした幼児の姿をしている」とされることもあるようです(『字通』, p. 1519, p. 1520, p. 1623)(『角川大字源』, p. 1977)。そうした、「赤い」、「赤黒い」、「幼児の姿」、などの「魍魎」の特徴は、酒天童子(酒呑童子)の体色が一般的に赤色だとされていることや、酒天童子(酒呑童子)が「童子」と呼ばれていることなどと、なんらかのつながりがあるのかもしれません。
おきなわの しまじまには、あだんというきが
たくさん はえている。
おきなわに、あだんのきが
まだ いっぽんも なかった
むかし……。ちいさなしまの おかに、ガジュマルのきが たっていて、
そこに、きじむなーが すんでいた。
きじむなーには ふしぎなちからが あって、よるになると
どこへでも とんでゆくことが できた。マングローブのしげみのなかを ながれるかわには、
たくさんの とんとんみーが すんでいた。とんとんみーは、みずや すなのうえを とんとん とびまわって、
いちにちじゅう いそがしそうに はしっていた。とんとんみーときじむなーは、なかのよい ともだちだった。
よるになって、きじむなーが あついからだを ひやしに
かわへ おりてくると、とんとんみーが あつまってきて
みずしぶきを かけてやった。〔中略〕
きじむなーは、あかいみを つけた
きになって、とんとんみーを
たすけたのさ。それが、あだんのきだ。
あだんは、おきなわのつちに ねをはって、
あめやかぜから しまを まもっている。
それに、あだんのみと やわらかいしんは
たべられるし、はっぱは とげをとって
ぼうしや しきものになる。
みきは、いえのはしらになるんだ。きじむなーが すがたを かえた あだんのきは、
おきなわの しまじまに ひろがって、
しおかぜのなかで おもいきり うでを のばしている。
(田島征彦『とんとんみーときじむなー』) [93]
参考: 霊木の怪異「倒木」「発光」「巨大化」
前述の「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」のなかには、いくつかの共通した要素が見られます。たとえば、「最澄が比叡山の霊木の所有者・守護者に出会ったときには、霊木はすでに倒木の状態であった」という要素や、「霊木のまわりには紫雲がたちこめ、光を放っていた」という要素などがその要素です。こうした怪異的な要素は、霊木にまつわるほかの多くの説話にも共通して見られる要素です。
たとえば、奈良県桜井市初瀬にある豊山 長谷寺の草創縁起を描いた『長谷寺縁起絵巻』や、福岡県久留米市山本町の曹洞宗寺院・観興寺の縁起を描いた『観興寺縁起絵』(模本)にも、同様の霊木の怪異的な要素が見られます。
『長谷寺縁起絵巻』は、「近江国の白蓮華谷にあった、蓮華が咲き良い香りと光を放つ巨大な倒木(楠)が洪水で流出し、漂着した先々で祟りをなした」というような意味の話をつたえています。
(※『長谷寺縁起絵巻』のくわしい内容や、香取本『大江山絵詞』の酒天童子(酒呑童子)の説話との関係については、こちらのリンクの記事をご参照ください。)
また、『観興寺縁起絵』では、鬼の化身である光を放つ倒木(柏の霊木)が御衣木として造仏に利用されます。
また、香取本『大江山絵詞』では、酒呑童子が「大なる楠木に変じ」るという巨大化をなしたことが記されています。
こうした霊木の怪異が意味することについては、山本陽子さんの論文「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」のなかで述べられている話を紹介したいとおもいます。
その論文のなかで、山本さんは、霊木が「倒木」であることの意味について、「霊木が抵抗せず、最澄の意に従って自ら進んで倒れたことを、奇瑞として称えたものではなかったか」 [96]とされています。
また、「発光」「巨大化」という怪異については、つぎのように述べておられます。
これらの縁起における御衣木の、一夜成長の巨木という伝説や、放光する木という伝承は、当初の民間伝承から見れば、必ずしも素晴らしく尊い物としての記述とはいえない。『長谷寺縁起』系統の御衣木と同様に、これらの形容は、霊木といっても負の性格を持つもの、怪奇現象や祟りにより恐れられる疫木を意味したのではないか。
(山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」) [24]
また、そのような障碍をなす「祟る木」をあえて造仏のための御衣木として使用した理由については、「祟りを鎮めてその負の力を正の力に転化させようとする発想があったのではないか」 [24]というような意味の説を紹介されています。
また、前述の「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」が記されている文献のなかには、最澄が霊木に刃をいれるにあたって、一度斧を振るうごとに三度礼拝をするという「一刀三礼」の儀礼をおこなったと記しているものもあります。この「一刀三礼」(一刀三拝)の儀礼について、山本陽子さんはつぎのように述べておられます。
霊木を仏像に仕上げること自体が、祟り鎮めの祭祀である。槻峯寺縁起で斧の加持が十七日間行われたように、伐採から始まって、一刀三拝という文言に象徴される造仏のための煩瑣なまでの修法、或いは中途で放置することなく仏像に仕上げることも含め呪術的要素が濃い。
(山本陽子「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」) [97]
このように、「霊木を一刀三礼して伐り出した」ということの背景には、たった1本の木を伐り出すために「一刀三礼」という煩雑な手順を踏んでまで礼をつくさなければならないほど、その霊木の祟りが強かったということを意味しているのかもしれません。
香取本『大江山絵詞』の酒呑童子の化身である霊木(楠)も、もしその木が伐採されたのだとすれば、その際には「一刀三礼」の儀礼がおこなわれたのかもしれません。
青色と水神のつながり
「比叡山の鬼の霊木の説話」に登場する青鬼が「青い色をしている」のは、その鬼が水神であることの象徴ではないかとおもいます。そのように考える理由には、つぎのようなものがあります。
- 霊木があった場所が、比叡山の水源地帯であること。
- 弁慶水の水天童子の説話の存在。
- 台密の水神である水天(ヴァルナ)と青色との関係。
- 香取本『大江山絵詞』で、鬼が城の壇上積基壇に波の文様が描かれていること。
- 香取本『大江山絵詞』で、酒天童子の首の下に青い水が描かれていること。
- 比叡山の周辺のほかの鬼伝説に登場する鬼も、水神としての要素を備えていること。
ここからは、上記の話題について、お話していきたいとおもいます。この下の地図は、比叡山延暦寺の東塔北谷の地区のなかで、これ以降でお話する話題に関連する場所を示した地図です。
比叡山延暦寺の東塔北谷の地区の地図 [9]
ちなみに、「酒天童子(酒呑童子)が、水神としてのさまざまな性質をもっている」ということについては、すでに、高橋昌明さんが、『酒呑童子の誕生』のなかの、「竜宮城の酒呑童子」という章や、その章のなかの「竜王(水神)たる酒呑童子」という節などで、さまざまな事例をあげて、くわしく述べておられます(高橋, 2005, pp. 125-158)。ですので、ここでは、「酒天童子(酒呑童子)が水神としての性質をもっている」ということについて、高橋さんがすでに述べておられることがらには触れません。
比叡山の霊木と、大宮川の水源地帯
鬼鹿村
「ポロオニウシュカペッ」
(Poro-o=ni ush-ka-pet)
樹木の上方の川
―― 菱沼右一「アイヌ語より見た日本地名新研究」 [98]
かかる性質をもつものとして信じられていた貴布禰を思うと、この神に祈って鬼になる趣向というものには、深い根底があったことになる。長々と述べた貴布禰の縁起もこうした背景からの説話化で、その本流は水源のデモンたるオカミ──尾神──の上に成長した原始信仰に発している。
―― 近藤喜博「山の鬼・水のモノ」, 『日本の鬼 : 日本文化探求の視角』 [99]
さきほど紹介した、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」が記載されている文献群を見ると、どの文献でも、霊木があったとされている場所は、だいたい、下記の2つの地区のうちのどちらかだとされています。下記の2つの地区は、比叡山延暦寺の東塔地区のなかの、北谷地区(東塔北谷)を構成する地区です。
- 虚空蔵尾
- 八部尾
ちなみに、上記の2つの地域の名称の末尾についている、「尾」という言葉は、「山の尾」(「山裾」)や、「谷」という意味であるようです(『近江輿地志略』, p. 283)。ですので、ここで言う「尾」という言葉は、「尾根」を意味しているのではないようです。
上記の2つの地区によって構成されている「東塔北谷」の地区は、比叡山地の中央を流れる大宮川の、主要な水源地帯のひとつです。大宮川は、比叡山地でもっとも重要で、もっとも神聖視されている川です。比叡山の麓にある日吉大社も、大宮川の流れによりそうような位置にあり、神事の際に大宮川の水を利用していることからも、大宮川の水に対する信仰がうかがえます。
ちなみに、虚空蔵尾は、「明星尾」や、「白狐尾」とも呼ばれます(武, 2008)。また、虚空蔵尾の地区の尾根は、「虚空蔵峰」と呼ばれます(『近江輿地志略』, p. 283)。
また、八部尾の地域のなかにある、霊木があったとされている場所は、「紅葉渓」や、「仏母谷」、「仏母塚」、「香炉岳」、「天龍峰」などとも呼ばれます(武, 2008)。
比叡山の霊木の旧跡1 : 八部尾
近江では、一般に山神は女性であり、恐しい神・あるいは霊力のある力強い神・祟る神として考えられており、気の荒い神として特に高山を持つ地域の村落では、山の天候の荒れる事を山神の仕業と考える事が多く、また農民に於いては、病害虫や旱魃やそれに伴う不作を招く神として、また流行病や災害(特に火災)を起す神として考えられている事が多い。
―― 山崎時叙「近江山神信仰の民俗学的研究」,
『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』 [100]
八部尾の地域のなかには、「仏母谷」や、「仏母塚」、「香炉岳」、「天龍峰」などと呼ばれる場所があり、そこに霊木があったとされています。その場所には、現在、「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」という文字が刻まれた石標が立っています。これは、比叡山延暦寺の総本堂である、根本中堂の本尊の薬師如来像がつくられた際に、御衣木(材木)として利用された霊木がこの場所にあった、ということを示しています。
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
比叡山のなかでも、とくに神聖な5つの水源として、「五水」と呼ばれるものがあります。その「五水」のうちのひとつに、「香炉岡」の水があります(『神道大系 神社編 29』, p. 375)。この「香炉岡」というのが、どこの場所を指すのかはっきりしないのですが、もしかすると、八部尾の地域のなかにある、「香炉岳」(「仏母塚」、「天龍峰」)のことかもしれません。もしそうだとすると、八部尾の地域が、大宮川の水源地帯として、神聖視されていたということを裏付ける証拠のひとつになるだろうとおもいます。
ちなみに、「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標がある場所のすぐそばを流れている谷川の水源のひとつは、一般的に「弁慶水」と呼ばれている閼伽井(井戸)です。その弁慶水には、水天童子という護法童子にまつわる説話が残っています。その水天童子については、後述します。
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 の石標
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚)
比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚
比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚
比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚
比叡山延暦寺 東塔 北谷 八部尾 仏母塚
比叡山の霊木の旧跡2 : 虚空蔵尾
最澄の落とした一滴のしずくは、やがて比叡山を水源として千二百年を経たいま、現代に流れている。それが最澄の描いたロマンであったかどうかは知るよしもない。
比叡山の樹海はどこまでも深い。そして広大である。平安にはじまり鎌倉に起こった“日本仏教の源流”が、いまも蕩々としてあるからであろう。
―― 梶原学『比叡山』 [102]
虚空蔵尾のもっとも高い場所から根本中堂を見守っている天台大師(智者大師)智顗の石像 [103]
かつて、虚空蔵尾の地区(東塔北谷)にあった、根本中堂の閼伽井(井戸)の水は、八大龍王の一人である阿耨達龍王が住む無熱池という池から流れ出た水であるとされて、神聖視されていました(『神道大系 論説編 4』, p. 358)。また、その根本中堂の閼伽井(井戸)の水は、比叡山のなかでもとくに神聖な5つの水源である「五水」のうちのひとつとされていました(『神道大系 神社編 29』, p. 376)。このように、虚空蔵尾の地区は、神聖な水源地帯だと考えられていたようです。
虚空蔵尾の地区のなかには、現在、霊木があったとされている場所を示す石標などはないようです。ですが、虚空蔵尾の地区は、最澄が比叡山ではじめて草庵をむすんだ聖地があったり、比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂があったりと、比叡山延暦寺のなかでも、もっとも神聖視されている地区です。
虚空蔵尾についての記述としては、『山家要略記』(神宮文庫本)という文献のなかに、おおよそ、つぎのようなことが記されています(『神道大系 論説編 4』, p. 107) [104]。(『山家要略記』(神宮文庫本)の成立年代は、鎌倉時代後期です(鎌倉時代は、1185年ごろ~1333年)。下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
根本中堂は、虚空蔵尾の中心なり。故に中堂〔根本中堂〕を、当山第一の伽藍と為す。虚空蔵尾を以て、当山第一の霊地と為す。
(『山家要略記』(神宮文庫本)) [104]
また、虚空蔵尾の地区のなかにある、最澄が比叡山ではじめて草庵をむすんだ場所には、現在、「伝教大師初入山之地 虚空蔵尾 本願堂旧跡」と刻まれた石碑があります。
『渓嵐拾葉集』巻第107のなかの、「記録部 私苗」の「六」の項目のところには、「根本中堂の本尊である薬師如来像の御衣木(材木)となった霊木は、今の本願堂の跡地にあった」という記述があります(『大正新脩大蔵経 第76巻』, p. 859) [32]。このように、もしかすると、虚空蔵尾の地区にあったとされている霊木は、本願堂の跡地にあったのかもしれません。
「伝教大師初入山之地 虚空蔵尾 本願堂旧跡」の石碑
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾)
「伝教大師初入山之地 虚空蔵尾 本願堂旧跡」の石碑
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾)
以下、本願堂旧跡の石碑の表側に刻まれた言葉より。
伝教大師初入山之地
虚空蔵尾
本願堂旧跡維時平成二十一年秋
第二五六世天台座主孝淳
「伝教大師初入山之地 虚空蔵尾 本願堂旧跡」の石碑
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾)
(本願堂旧跡の石碑の裏側)
「伝教大師初入山之地 虚空蔵尾 本願堂旧跡」の石碑
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾)
(本願堂旧跡の石碑の裏側に設置されたプレートの文章)
以下、本願堂旧跡の石碑の裏側に設置されたプレートの文章より。
本願堂旧跡(伝教大師初入山の地)
この地はもと伝教大師最澄上人が延暦四年(七八五)七月中旬、二十歳の時、初めて比叡山に登り草庵を結ばれた霊跡である。『叡岳要記』によれば、ここは仙人経行の処、明星天子来下の庭といわれ、険しき山谷にあって手掌のごとき平坦な地であり、仙人数十余人が法華経を誦し仏道を習っていたという。最澄上人はここで仙人から明星尾(虚空蔵尾)にある薬師仏の霊木の在処を教えられ、一乗止観院の本尊を刻んだと伝えている。
一乗止観院(根本中堂)創建より三年後の延暦十年(七九一)には、ここに「本願堂」を建立して義真座主自刻の三尺の薬師如来を本尊に祀り桓武天皇の御願寺となした。
その後、根本中堂修造の折にはここに中堂の本尊を遷して外遷座道場としての機能を果たした。元亀焼き討ち後は、慶長十八年(一六一三)に四間五間の堂宇が再興され、寛永・寛文・元禄・宝永・宝暦等に修理が行われたが、平成二十一年(二〇〇九)礎石のみを残して伝教大師初入山の聖地として整備した。
最澄の草庵の地といわれるところに建つ本願堂は、風雨にさらされた白灰色の木肌を持つ物寂びた堂宇である。根本中堂の目の下にあるが、しかし、そこに行くには、深い谷に架けられた素朴な木の橋を渡らねばならない。さわやかな谷川の水音が耳に満ちるここに立てば、丈高い樹々に蔽われているせいか、足許の下草は夏でも若々しい薄緑だった。
叡山の唯一の水源もここから近い。これは生活の第一条件である。またわずかに尾根を下っているだけでも、風雨を凌ぐには好適だったのではないか。
(永井路子「雲嶺の梵音」, 『雲と風と : 伝教大師最澄の生涯』) [67]
参考: 虚空蔵尾の北谷墓地に立つメタセコイアの巨木
ちなみに、虚空蔵尾の地区の北の端のあたりにある、北谷墓地には、現在、メタセコイアの巨木がそびえ立っています。もしかすると、かつて、虚空蔵尾にあったという「鬼の霊木」は、このメタセコイアの巨木のように、巨大な木だったのかもしれません。
メタセコイアの巨木
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾 北谷墓地)
メタセコイアの巨木
(比叡山延暦寺 東塔 北谷 虚空蔵尾 北谷墓地)
弁慶水の起源説話: 熊野から比叡山へやってきた那智の滝の化身であり、智証大師円珍の護法童子である水天童子
矜羯羅童子(矜羯囉童子)(右下) [107]
「法波羅蜜は慈悲の心行、所以に使者を出現す、矜羯羅と名く、此に随順といふ。〔中略〕矜羯囉の形は十五歳の童の如し、蓮華冠を著す、身白肉色にして〔中略〕天衣袈裟微妙に厳飾せり。」
(『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』) [108] [109]
弁慶水
(比叡山延暦寺 東塔西谷)
比叡山に関する古い書物をみていると、山上には二十いくつかの名水や霊泉があったことを伝えている。
東塔西谷の弁慶水(千手水)などもその一つだが、横川にも如法水、碧玉泉、寂静水などがある。苔むした岩間からいまも湧き出る泉は、冬に暖かく、夏はしびれるように冷たい。その名の示すごとく、みな山の歴史を秘めて、それぞれの縁起や伝承をもって生きつづけて来たものだ〔中略〕
〔中略〕山上に起居した幾千の僧徒は、すべてこうした山の霊泉によって、そのいのちが養われて来たことを想えば、老杉の根方に いまも湧きつづける泉に、私はつきぬ歴史のいぶきと山のいのちを感じる。
―― 景山春樹『比叡山寺 : その構成と諸問題』 [110]
異教が神聖なものとして崇拝したあの泉のわきに、キリスト教の坊さんが利口にも教会をたてた。そしてこんどは彼自身で、その水に祝福をあたえて、その魔法の力を食いものにした。
―― ハインリヒ・ハイネ『精霊物語』 [15]
さきほど、八部尾の地域の水源のひとつであり、一般的に「弁慶水」と呼ばれている閼伽井(井戸)があることを紹介しました。その弁慶水にまつわる起源説話のひとつに、水天童子という護法童子についての説話があります。その水天童子は、酒天童子の説話の成立にかかわりがある可能性があるとおもわれますので、ここで紹介させていただきます。
『山家要略記』(仙岳院本)に記されている伝承では、「智証大師円珍が熊野に参詣したときに、熊野権現が、円珍にたいして、水天童子という名前の護法童子(従者)をあたえた」、とされています。そのあと、円珍につきしたがって比叡山に来た水天童子は、住房のちかくに井戸がないために、用水の不便さに悩んでいた円珍のために、円珍の住房のちかくで井戸を掘りあてた、とされています。そのときに、水天童子が掘りあてた井戸が、「千寿井」(千手井)(現在、弁慶水と呼ばれている井戸(閼伽井))だとされています。(『神道大系 論説編 4』, pp. 214-215; 『續天台宗全書 神道 1』, pp. 61-62; 硲, 1928, pp. 42-45)
なお、『山家要略記』(仙岳院本)には、「水天童子は、熊野権現の使者であり、飛瀧権現の分身である」というような意味の記述があります(『神道大系 論説編 4』, p. 215)。飛瀧権現というのは、ご神体として信仰されている那智大滝(通称:那智の滝)のことです。このことから、水天童子が、水神としての性質をもっていることがうかがえます。
(弁慶水には、異なる起源説話が複数あるため、通称も複数あり、「千手水」や、「千寿水」、「独鈷水」などと呼ばれることもあります(武, 2008, pp. 216-217)。)
弁慶水
(比叡山延暦寺 東塔西谷)
弁慶水
(比叡山延暦寺 東塔西谷)
日常生活に不可欠な飲料水については、比叡山の各所から湧き出る霊泉を土地の傾斜を利用し筧樋によって巧みに各寺に引いているのであり、これらの泉はその数約十三に及ぶが、何れも古生層の地層から滲出するもので、大比叡の周辺から出るものが水量も豊富である。中でも東塔西谷の弁慶水は、水量比叡山第一で、根本中堂、大講堂、会館など東塔の大部分は水源をこの弁慶水に求めている。最近はこれらを巧みに利用して消火栓の設備も施されるようになったことは文化財保護の見地からしても誠に喜ばしいことである。
(延暦寺執行局(編集)「地形」, 「比叡山の自然」, 『比叡山』) [114] [81]
弁慶水がある場所は、比叡山延暦寺の東塔地区のなかの西谷地区のなかです。弁慶水がある場所は、円珍の住房であった、山王院のすぐちかくです。ちなみに、山王院は、千手堂や、後唐院という名称で呼ばれることもあります。
水天童子(シュイティエン童子)から、酒天童子(シュテン童子)へ : 護法童子から悪鬼への変貌
制多伽童子(制多迦童子)(左下) [107]
「制吒迦も亦た童子の如し、色紅蓮の如くして頭に五髻を結ぶ。〔中略〕左の手には嚩日囉、右の手には金剛棒を執る、瞋心悪性の者なり、故に袈裟を著せず、天衣を以て其の頸肩に纏へり」
(『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』) [116] [109]
獼猴は酒を得ればすなわち安楽を得。安楽を涅槃と名づけて行人を誘誑す。もし愛にしたがって転じて四重を毀破すれば、これ全く浮囊を棄つるなり。これを犯の相と名づく。
―― 智顗〔犯戒の相〕, 『摩訶止観』第六章 第一節 第一項 [117]
500年前、
ムーアの森に封印した物に
群がった邪悪な心が、
1本の木を魔物に変えた・・・
それがエクスデスじゃ・・・
―― 賢者ギードの言葉, 『ファイナルファンタジーV』 [118]
善神と悪神と、其神性おの〳〵異にして、実に黒白違へる事なれども、善神なりとても、御心に良はず、怒り給ふ時などは、悪き事も、絶て無しとは云べからず。
ちなみに、無理があるこじつけかもしれませんが、「酒天童子」(シュテン童子)という名称は、「水天童子」が転訛したことで生まれた名称である可能性もあるかもしれないとおもいます。
高橋昌明さんは、『酒呑童子の誕生』のなかで、酒呑童子(シュテン童子)という名称の由来についての説のひとつとして、「斉天大聖」という言葉の中国語読みである「チィーティエンダーション」という言葉が転訛したことで生まれた名称である可能性がある、という説を提示しておられます。下記の引用文は、そのことについて、高橋さんが、『酒呑童子の誕生』のなかで述べておられることです(高橋, 2005, pp. 98-99) [121]。
なお、「斉天大聖」というのは、中国の小説『西遊記』の主人公であり、猿の妖怪である孫悟空が自称した称号です。「斉天大聖」という名称の意味は、おおよそ、「天に斉しい大いなる聖者」というような意味です。この「斉天大聖」という称号は、「自分(孫悟空)は、天上の最高神とならぶほどに尊い存在である」ということを誇示するための称号であり、この称号に、孫悟空の傲慢さがあらわれています。
斉天大聖の現在の中国読みは、チィーティエンダーション(qí tiān dà shèng)である。これを口中で繰り返していただきたい。とくにチィーティエンの部分、どことなく酒呑に似ていないだろうか。もちろん、斉天と酒呑の音韻の違い、近世福州音で斉天をどのように発音していたかなど問題は残るが、「失妻記」の入手者と祖本作者が同一人物である必要はないから、中国語会話に堪能でない祖本作者が翻案の時、いわば宛字の感覚で酒呑童子としたとも考えられる。古い酒呑童子の表記が、逸本をはじめいずれも酒天と天になっていることを、わが想像を支える論拠の一つとする。要するに、白猿伝説は素材面と、主人公の名乗りの両面で、酒呑童子説話に深甚な影響を与えたといいたい。
(高橋昌明「中国小説の日本への渡来」, 『酒呑童子の誕生』) [121]
上記の高橋さんの発想を参考にさせていただきながら、大胆な空想をさせていただくことが許されるならば、「水天童子」という呼称が転訛して、「酒天童子」(シュテン童子)という呼称が生まれた、という可能性も考えられるのではないかとおもいます。
「水天」は、現在の中国語(普通話)の発音では、「シュイティエン」(shuǐ tiān)というような発音になります。この「シュイティエン」という発音は、「酒天童子」(シュテン童子)という呼称のなかの、「シュテン」という発音と、よく似ているとおもいます。
中世の比叡山延暦寺(日本天台宗)の僧侶たちは、漢籍などに記された漢文をとおして、中国の天台宗の教えなどを学んでいました。ですので、中世の延暦寺の学僧たちは、中国語の発音についての知識も身につけていたのではないかとおもいます。そうした、比叡山延暦寺の学僧たちが、酒天童子説話(または、その原型となった説話)を創作したのだろうとおもいます。
ですので、中世の比叡山延暦寺において、弁慶水についての伝承に登場する「水天童子」(シュイティエン童子)という護法童子の呼称が転訛して、また、なんらかの理由で、その護法童子が悪鬼とされるようになり、その影響で、「酒天童子」(シュテン童子)という悪鬼と、その呼称が生まれた、という可能性も、無いとは言えないのではないかとおもいます。
また、「水天童子」という呼称から、「酒天童子」という呼称が生まれたのだと考えると、「酒天童子」という名称のなかに、なぜ「天」という文字が入っているのか?、という疑問に対する答えになるのではないかとおもいます。
なお、「護法童子であった水天童子が、悪鬼である酒天童子に変わった」ということについては、天野文雄さんが、「「酒天童子」考」という論文のなかで、「護法童子が、悪鬼に変わることもあった」という事例を提示しておられます(天野, 1979, p. 22)。天野さんは、一例として、書写山円教寺を開山した性空上人と、その甥である皇慶に仕えた、二人の護法童子のうちの、乙天(乙護法)という護法童子が、邪悪な存在に変化した、という事例をあげておられます。(ちなみに、その乙天(乙護法)という護法童子は、青鬼であるとされています。)ですので、「護法童子(水天童子)が、悪鬼(酒天童子)に変わった」という可能性もあるだろうとおもいます。(ちなみに、上記の「二人の護法童子」のうちの、もうひとりは、若天(若護法)という名前の赤鬼だとされています。)
ちなみに、もし、護法童子であった水天童子が、悪鬼(酒天童子)とされるようになったのだとすると、その背景には、円珍派(寺門派)と、円仁派(山門派)の、派閥争いがあったのかもしれません。中世の比叡山延暦寺において、その派閥争いが激化していた時期に、円仁派(山門派)に属していた学僧が、円珍派(寺門派)をおとしめるために、円珍派の宗祖である円珍の護法童子である水天童子を悪鬼に仕立て上げた、という経緯があったのかもしれません。そのようにして、円仁派(山門派)の学僧が、「酒天童子」という悪鬼をつくりだして、その悪鬼が退治されるという筋書きの説話(物語)をつくったのかもしれません。そして、その説話が、香取本『大江山絵詞』の説話(酒天童子説話)の成立につながったのかもしれません。
台密の水神たる水天(ヴァルナ)
菩提場経略釈に云う、「水天とは、西方の醜目天王に応ず。此の天、諸の龍王衆を統摂す。故に水天と名づく」と。
こなたに来たれ、ミトラ、ヴァルナよ、われらが供物を味わんがために。グリタの雨と栄養とをもって、われらの牧場を潤おせ。われらは汝ら両神を、その心に任せつつ、人間のためここに迎え呼ぶ。天上の快き水をもってわれらを満たせ。
―― 「ミトラとヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ』 [128]
アディティの子、ヴァルナは配分者として、それらの河流を流しやりたり。天上の河流はヴァルナの天則にそいて進む。それらは疲るることなく、休むことなし。鳥のごとく、速やかに旋回して飛びゆく。
―― 「ヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ』 [129]
もしヴァルナとわれと舟に乗るとき、もし海のただ中を前進するとき、もし大水の波頭を越えゆくとき、われら両者は、鞦韆たる太陽の上において揺るがんと欲す、美しき眺めのために。
―― 「ヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ』 [130]
さきほど紹介した水天童子の「水天」という言葉からは、台密(天台宗の密教)の神である十二天のひとつである、「水天」のことが連想されます。「水天」は、もともとは、「ヴァルナ」(バルナ、嚩嚕拏、Varuna)という、古代インドの水神であったものが、密教に取り入れられたものです。水天は、水の神や、川の神、竜神、竜王などであるとされています。(佐和, 1975, pp. 422-423)(『密教大辞典 第3巻』, pp. 1321-1323)
もしかすると、さきほど紹介した「水天童子」の、「水天」という名称は、密教の十二天のひとつである、この「水天」の名称からとられたものなのかもしれません。
ちなみに、十二天のひとつである水天にまつわる密教の修法である水天供(水天法)という儀式では、青色の衣や、青色の鉢など、水を象徴する青色の品々が使用されます(『密教大辞典 第3巻』, pp. 1322-1323)(『大日本仏教全書 第40巻』, pp. 2225-2226)。そのように、台密(天台宗の密教)においては、「水や、水神の象徴として、青色をもちいる」という観念があったようです。それを踏まえると、「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」に登場する「青鬼」の、「青い色をしている」という特徴が、水神であることの象徴である、という可能性もあるのではないかとおもいます。
アーディティア神群の名のもとに総括される一群の神格の中、群を抜いて重要なヴァルナのみに捧げられた讃歌は、僅かに八篇にすぎず、他の神々特にミトラと共有する讃歌と合わせても合計五十に達せず、数量の上から見れば、インドラ、アグニ(火神)、ソーマ(神酒)のような大神に遠く及ばない。それにもかかわらずヴァルナが、リグ・ヴェーダの神格の中で最も重要なものの一つであることは、疑いをいれない。
〔中略〕
ヴァルナの本原は容易に決定されないが、水と密接な関係にあることは否定できない。ただし彼の主宰する水は人間の視野を絶する最高の天界にあるとする説が有力で、彼の住居もこの「天水・大水」の中に求められる。水との関係は後世ますます固定し、リグ・ヴェーダにおいて崇高第一を誇ったヴァルナもついに水天の地位に甘んずるにいたった。
(辻直四郎「ヴァルナとミトラ、アーディティア神群」, 『リグ・ヴェーダ讃歌』) [140]
目照りが続く中、天台座主良真(一〇二二~一〇九六)は自宗天台宗を褒め称え、他宗(真言宗)を謗り、朝廷に対して比叡山の龍尾という山岳で七仏薬師法を修するようにアピールした。しかも良真は、雨をもたらす龍王が神泉苑の池ではなく、龍尾という山岳に遊戯しているとも主張した。
〔中略〕
深刻な旱魃が続くなか、天台座主良真は東密を批判し、東密の神泉苑の龍王信仰を天台宗に取り入れ、新たに比叡山で樹立させようとした。
(スティーブン・トレンソン「醍醐寺における祈雨の登場」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』) [141]
『小野類秘鈔』に「〔中略〕」という記述があり、それによれば水天供はすでに康平八年(治暦元年〔一〇六五〕)に比叡山で執り行われたこととなる。
〔中略〕
神泉苑の龍王は、東密の伝承(後述)ではインドより当苑に来住した無熱池の龍王とされた。だが、『孔雀経』によれば、無熱池の龍王は水天である。そのために、特に十一世紀後半から神泉苑の孔雀経御読経が盛行するようになった後、東密では神泉苑の龍が水天だという信仰が一般化したのである。
〔中略〕
要するに、東密の水天供は、古来の神泉苑龍神信仰のなかに胚胎していた水天信仰に基づいていたと推定されよう。
〔中略〕
況八大龍王皆蒙於閻浮提可降雨仏勅、若干眷属在法花坐、此曼荼羅中列諸龍王、因之修此法感雨也
〔中略〕
成尋は〔中略〕、彼の祖師である智証大師円珍(八一四~八九一)が、青龍寺の法全に就いて水天法及び倶梨伽羅龍王の祈雨法を学んだことを述べた。〔中略〕これにより、天台宗寺門派で水天の祈雨法が秘法とされていた事実が分かる。〔中略〕つまり、水天供が台頭した背景に、天台宗が古くから水天法の秘法を伝持しているという点を主張していたことが想像される。
(スティーブン・トレンソン「四 水天供の確立と隆盛」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』) [142]
鬼が城の壇上積基壇に描かれた波の文様
香取本『大江山絵詞』の絵図のなかに描かれている、酒天童子の宮殿(鬼が城)の壇上積基壇の羽目石の部分には、「波の文様」が描かれています。(香取本『大江山絵詞』の絵巻物の絵図のなかに描かれている、酒天童子の宮殿の壇上積基壇のすべてに、この「波の文様」が描かれています。)
壇上積基壇の羽目石に描かれている「波の文様」の部分(拡大図)
香取本『大江山絵詞』の絵図のイメージ画像
(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」のイメージ画像)
(絵図全体のなかの一部分の抜粋) [143]
壇上積基壇の羽目石に描かれている「波の文様」の部分(拡大図)
香取本『大江山絵詞』の絵図のイメージ画像
(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」のイメージ画像)
(絵図全体のなかの一部分の抜粋) [143]
香取本『大江山絵詞』の絵巻物のなかで、複数回描かれている、壇上積基壇の部分の絵図のなかには、この「波の文様」の「波」の振幅がとてもこまかくて、遠目に見ると、ただの「ななめの直線」に見えてしまう絵図もあります。ですが、近づいてよく見ると、それらの「ななめの線」が、じつは、こまかく振幅している波線になっている、ということがわかります。
また、香取本『大江山絵詞』のなかの、酒天童子の宮殿を描いた絵図のなかでも、鬼のすがたになった酒天童子が描かれている場面などのいくつかの場面では、建物の壇上積基壇の羽目石の部分に描かれている「波の文様」が、まるで荒海の白波のような、はっきりとした「波」として描かれています。
このように、酒天童子の宮殿(鬼が城)の建物のなかに、水を暗示する「波の文様」が描かれているということは、酒天童子が水神であることをあらわしているのではないかとおもいます。
酒天童子の首の下で波打つ青い水
〔メデューサの首を切り落としたペルセウス〕 [147]
メドュウサがペルセウスに首を切られ、アルテミス神殿がキリスト教徒によって破壊され、近代ルネサンス期にメドュウサが化物にされてしまった歴史は、一口でいえば自然の神々たち、アニミズムの神々が殺戮される歴史であった。理性と一神教をふりかざした文明の勝利の歴史だった。闘争的な力の文明の勝利の歴史であった。
この理性と一神教をふりかざした力の文明によって、神だったメドュウサは神殿から追放され、あげくのはてに化物にされてしまったのである。
―― 安田喜憲「近代文明の犠牲」, 『大地母神の時代』 [13]
「仏法が圧力でほかの神々を排除しようとするからです
この国には古くから多くの守護神がおりました
その神々は 仏教の圧力におびえているのです……
つまり彼らにとって仏教は侵略者です」
―― 犬上の言葉, 『火の鳥 太陽編』 [148]
高僧の行脚ということは、すなわち年々秋冬のある日を定めて、神が祭りを享けに里に下られたことをいうのであります。仏教の地方伝道には、こうして在来の信仰を乗っ取ろうとした計画が、始終あったらしい
―― 柳田国男「太子講の根源」, 『女性と民間伝承』 [14]
香取本『大江山絵詞』の絵巻物の、下巻の一番最後の絵図のなかに、源頼光たちによって討ち取られた酒天童子の首(頭部)が、輿に載せられて運ばれる場面が描かれています。その絵図には、酒天童子の首が入っている四角い容器(底の浅い大きな枡のようなかたちをした容器)が、輿に載せられているようすが描かれています。その「酒天童子の首が入っている四角い容器」のなか(底のところ)は、まるで水が波打っているように見えます。
この「四角い容器のなかで波打っている水」は、酒天童子の首の切断面から流れ出た水なのかもしれません。もし、そうだとすると、酒天童子の首の切断面から出てくる液体は、赤い血液ではなく、青い水である、ということになります。このこともまた、酒天童子が水神であることを暗示しているのかもしれません。
(ちなみに、香取本『大江山絵詞』の下巻の一番最後の絵図に描かれている、「酒天童子の首が入っている四角い容器」の絵図は、小松和彦さんの『酒呑童子の首』や、鈴木哲雄さんの『酒天童子絵巻の謎』、などの本のカバーの表表紙側に掲載されています。ですので、それらの本の表表紙をご覧いただくと、「酒天童子の首が入っている四角い容器」の絵図を見ることができます。)
〔ゴリアテの首を切り落としたダビデの像〕 [149]
〔『平家物語』巻第十一〕
一門大路渡
同月二十六日、平氏の捕虜たちが都へはいった。みな、八葉の車に乗せられていた。車の前後の簾をあげ、左右の物見の窓をひらいてあった。〔中略〕
大臣殿は、あれほど華美できれいな方であったが、まったく別人のようにやせ衰えておられた。しかし、四方を見まわして、ふかく思い沈んでいるご様子もない。右衛門督はうつ伏せになって目もあげられず、まことに沈痛な面持である。土肥次郎実平が、木蘭地の直垂の上に小具足だけをつけ、部下の武士三十余騎を率いて、車の前後をとりかこんで警護し申し上げた。
これを見る人は都の内ばかりでなく、およそ国の遠近を問わず、山々寺々から老いた者も若者も集って来た。鳥羽の南門、作り道、四塚までびっしりと続いて、幾千万いるか数もわからないほどである。人は振りかえることもできず、車は輪をまわして進むこともできない。〔中略〕
平氏が都を出てから、中一年過ぎたばかりで、まだ間近なことであるから、華やかに栄えていたときのことも人々は忘れていない。その権勢をあれほど怖れおののいていた平家の人々の、今日のかわりはてた有様は、夢か現実か、区別もできないことである。分別のない低い身分の賤男、賤女にいたるまで、涙を流し袖をしぼらない者はなかった。まして平家一門と親交のあった人々は、どれほど悲しく思われたことであろうか。長年重い恩顧をうけ、父祖の代から仕えてきた人々も、さすが身を捨てることができずに多くは源氏に従ったけれども、昔の恩誼を急に忘れるはずもないので、さぞ悲しく思ったことであろう。それで、袖を顔に押しあてたまま、目を上げない者も多かった。
(〔原文:〕同廿六日、平氏のいけどりども京へいる。みな八葉の車にてぞありける。前後の簾をあげ、左右の物見をひらく。〔中略〕
大臣殿、さしも花やかにきよげにおはせし人の、あらぬ様にやせ衰へ給へり。されども四方見めぐらして、いと思ひ沈めるけしきもおはせず。右衛門督はうつぶして目も見あげ給はず、誠に思ひいれたるけしきなり。土肥次郎実平、木蘭地の直垂に小具足ばかりして、随兵卅余騎、車の先後にうちかこんで守護し奉る。
見る人、都のうちにもかぎらず、凡そ遠国近国、山々寺々より、老いたるも若きも来りあつまれり。鳥羽の南の門、つくり道、四塚までひしとつづいて、幾千万といふかずを知らず。人は顧る事をえず、車は輪をめぐらす事あたはず。〔中略〕
都を出でてなか一年、無下にまぢかき程なれば、めでたかりし事も忘られず。さしもおそれをののきし人の今日の有様、夢うつつともわきかねたり。心なきあやしの賤のを、賤のめにいたるまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけり。ましてなれちかづきける人々の、いかばかりの事をか思ひけん。年来重恩をかうむり、父祖のときより伺候したりし輩の、さすが身のすてがたさに、おほくは源氏についたりしかども、昔のよしみたちまちに忘るべきにもあらねば、さこそはかなしう思ひけめ。されば袖をかほにおしあてて、目を見あげぬ者もおほかりけり。)
(「一門大路渡」, 『平家物語』巻第十一) [150]
比叡山の周辺のほかの鬼伝説に登場する鬼も、水神としての要素を備えていることについて
荒ぶる神は 西の地から来た
黒い呪いの蛇を全身にまとい
触れるすべてのものを焼き尽くしながら
闇から闇へと やって来た
山の古い神が 人に討たれ 森を奪われたのだ
―― 「タタリ神」, 『The art of the Princess Mononoke : もののけ姫』 [151]
比叡山の周辺のほかの鬼伝説に登場する鬼も、水神としての要素を備えていることについて。
- 鬼怒伽羅 : 滋賀県大津市の仰木地区の衣川という河川名(地名)の由来となった鬼。
- 七ツ鬼神 : 比良山地の権現山のナナキ谷の地主神であった鬼。
鬼怒伽羅 : 滋賀県大津市の仰木地区の衣川という河川名(地名)の由来となった鬼
人の世のすべての宿業が 生きものの形をとったのだ
あらゆるものが その怒りの前に力をなくす
近寄ってはならぬ 押しとどめてはならぬ
通りすぎるのを 息をひそめて待つしかない
―― 「タタリ神」, 『The art of the Princess Mononoke : もののけ姫』 [151]
衣川(現在の天神川)の上流にある、
滝壺神社(瀧壺神社)(祭神: 闇龗神)の鳥居の扁額「闇龗大神」
(滋賀県大津市仰木町)
(※滝壺神社は、小椋神社(滋賀県大津市仰木4丁目)の旧社地であり、現在は奥宮になっています。)
衣川(現在の天神川)の上流にある、
滝壺神社(瀧壺神社)(祭神: 闇龗神)の鳥居
(滋賀県大津市仰木町)
(※滝壺神社は、小椋神社(滋賀県大津市仰木4丁目)の旧社地であり、現在は奥宮になっています。)
衣川(現在の天神川)の上流にある、
滝壺神社(瀧壺神社)(祭神: 闇龗神)のお社
(滋賀県大津市仰木町)
(※滝壺神社は、小椋神社(滋賀県大津市仰木4丁目)の旧社地であり、現在は奥宮になっています。)
衣川(現在の天神川)の上流にある、
滝壺神社(瀧壺神社)(祭神: 闇龗神)にある池
(滋賀県大津市仰木町)
(※滝壺神社は、小椋神社(滋賀県大津市仰木4丁目)の旧社地であり、現在は奥宮になっています。)
天神川(かつての衣川)に架かる新豊川橋
(滋賀県大津市仰木4丁目)
鬼怒伽羅
滋賀県大津市の仰木地区の衣川という河川名(地名)の由来となった鬼
「衣川」という河川の名称は、現在では、天神川という名称に変わっています。
「衣川」という言葉は、滋賀県大津市の仰木地区のとなりに位置する、天神川(かつての衣川)の下流(琵琶湖への河口のちかく)の地区の地名として、現在も残っています。
衣川
〔頭注:大津市 同町名あり〕
絹川トモ書ク此処二昔鬼怒伽羅ト云〔フ〕鬼栖〔スミ〕テ人ヲ取タリト云〔フ〕其鬼ノ名ヲ略シテ今キヌ川ト云〔フ〕ト也爰ニ山徒廿八家ノ士全角坊住ス
荒川治部少輔同刑務少輔ハ志賀北郡ノ内二居住也公方ノ直参也光源院殿切腹ノ時戦死ス後孫処々ニアリ本ハ六角屋形ノ近習也
(「衣川」, 「志賀郡」, 『淡海温故録』巻之四(『近江史料シリーズ 2 本編』所収)) [157] [81]
きぬがわ 衣川〈大津市〉
絹川とも書く。琵琶湖の最狭部の西岸, 比叡山横川に発する衣川の南岸にあたる。地域内には白鳳期の衣川廃寺(国史跡)ほか寺院跡が多く, 背後の丘陵地の字西羅周辺には帆立貝式の古墳(全長46m)をもつ西羅古墳群や坂尻古墳群とこれに対応する縄文期から中世までの集落が北国街道沿いで確認されている。「温故録」に「昔鬼怒伽羅ト云ウ鬼スミテ人ヲ取タリト云ウ, 其鬼ノ名ヲ略シテ今キヌ川ト云ウ」とある。北国街道の大津と和邇の間の宿で, 堅田港と結び水陸交通の要地でもあった。
(「衣川」, 『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』) [158] [81]
衣川
源は比叡山横川の峯及仰木の山中より流出で、仰木村、平尾村を過ぎて衣川村と堅田村との中間をへて湖に入る也。或はころも川ともいふ。衣川と書するを以て誤唱するなるべし川の長さ凡二里許、小石交じりの川也。
天神川(かつての衣川)に架かる新豊川橋のあたりの地図
(滋賀県大津市仰木4丁目あたりの地図)
現在、「衣川」という言葉が、地名として残っている、
滋賀県大津市衣川の地区の地図
この下の引用文は、『日本の神々:神社と聖地 第5巻』という本のなかに掲載されている、小栗栖健治さんの文章の一節です。
この一節には、衣川(現在の天神川)の上流にある、滝壺神社(瀧壺神社)についての記述があるので、ここで紹介したいとおもいます。
ちなみに、857~877年ごろに、現在の滝壺神社がある場所(滋賀県大津市仰木町)から、神社が遷座して、現在の小椋神社(滋賀県大津市仰木4丁目)ができたそうです。それにともなって、滝壺神社は、小椋神社の奥宮とされるようになったそうです。
滝壺神社も、小椋神社もどちらも、祭神として、闇龗神(闇龗大神)を祀っているようです。
小椋神社 大津市仰木町
天神川の上流、山城・近江の国境をなす仰木峠の東方三キロの所に鎮座し、現在は闇龗神を主神として猿田彦神・伊弉冉神・稚日女命・少彦名命・大穴持命を配祀する。『延喜式』神名帳の志賀郡八座のなかの一座で、『三代実録』によれば貞観五年(八六三)十二月三日、従五位下に叙せられた。創祀年代は詳らかでないが、社記によれば、天智天皇のときに大和の丹生川上神社から分祀されたという。なお、祭神について『近江国輿地志略』は「祭る所の神いまだ詳ならず」とし、『神名帳考証』は「木霊」、『仰木村志』は「祭神猿田彦神 相殿源満仲公」または「巨木霊神」とし、さらに八大龍王(雨神)として信仰されたとも記している。
社地の近くを流れる天神川の清流を二キロほど溯った仰木峠入口付近に「竜ヶ谷滝壺」と呼ばれる所があり、そこには滝壺の宮と称する小祠があって当社の奥宮とされている。社記によれば、天安・貞観(八五七―八七七)の頃この奥宮の地から現在地の葉広山に遷座したという。その滝壺は八大龍王が棲むと信じられ、古くから祈雨の祭場となっていた。すなわち、小椋神社は水源信仰に発し、のちに現在地に里宮がいとなまれたものと思われる。
(小栗栖健治「小椋神社 大津市仰木町」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) [160] [161] [81]
ちなみに、上記の引用文のなかにある、「大和の丹生川上神社」というのは、奈良県吉野郡東吉野村小にある神社です。丹生川上神社では、主祭神として、水神である罔象女神を祀っています。
七ツ鬼神 : 比良山地の権現山のナナキ谷の地主神であった鬼
あわれな古い神よ
できるなら 安らかな眠りを お前に与えたい
大いなる山の神よ
―― 「タタリ神」, 『The art of the Princess Mononoke : もののけ姫』 [163]
七ツ鬼神が住んでいたという伝承が残るナナキ谷
(ナナキ谷の一番上にある分水嶺(権現山の山頂にほどちかい尾根道)から、下の方向を撮影した写真)
(「緯度経度: 35.192957, 135.876647」のあたり)
(南比良(比良山地の南部))
峯権現のお社
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(「緯度経度: 35.192156, 135.874912」のあたり)
(南比良(比良山地の南部))
峯権現のお社
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(「緯度経度: 35.192156, 135.874912」のあたり)
(南比良(比良山地の南部))
峯権現のお社
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(「緯度経度: 35.192156, 135.874912」のあたり)
(南比良(比良山地の南部))
七ツ鬼神
比良山地の権現山のナナキ谷の地主神であった鬼
この下の引用文は、『日本の神々:神社と聖地 第5巻』という本のなかに掲載されている、小栗栖健治さんの文章の一節です。
この一節には、権現山にある「ナナギ谷」(ナナキ谷)や、そこの地主神であった「七ツ鬼神」という鬼についての記述があるので、ここで紹介したいとおもいます。
水分神社 滋賀郡志賀町栗原
〔中略〕
権現山から和邇庄に注ぐ谷筋としてナナギ谷と滝谷があり、この両谷は栗原の東端で合流して喜撰川となり、琵琶湖に注いでいる。ナナギ谷の名は、この谷に「七ツ鬼神」なる神霊が住んでいたという伝承に由来するが、この鬼神こそ権現山古来の地主神であったと考えられる。この「七ツ鬼神」が「七ツ尾七〻谷」とつたえられてきたのも、権現山の尾根・谷筋が描く自然景観に由来する。
また『栗原村万覚帳』には「其節七ツ鬼神白山権現たいじ成され候故、夫よりいまに権現山と申候」とあるが、この抗争は、たんに比良山の土俗の神と新来の神との確執といったものではなく、ある時期に白山信仰が比良山系を席巻したことを示すものといえよう。ちなみに、峯権現の小祠のなかの近世のものと思われる棟札に「承和元年(八三四)六月五日奉二造宮一白山権現社 栗原氏子中」と記されている。
峯大神社の祭礼は「権現まつり」と呼ばれ、現在は七月二十日(もとは旧暦六月二十日)に栗原の人々によって行なわれるが、かつては、和邇九郷(和邇庄)と総称された小野・中村・高城・今宿・北浜・中浜・南浜・栗原・南船路の村々が参加して行なわれた。『栗原村万覚帳』に「権現山六月廿日九郷参社仕候趣ハ、峯陣(鎮)座成さる故御祭相勤候儀者、五穀成就之為ニうやまい申候」とある。
七月二十日の早朝、村の宮役である十人衆のうち年の若い者二人が、権現山の頂上の小祠に参拝する。かつては頂上での神事を終えるとその場で狼煙をあげ、里宮で待機する宮役がそれを見て拝礼したという。午後になると、里宮の峯大神社の社前で神主の祝詞奏上や神楽などが行なわれる。この祭は七ツ鬼神信仰の一面を伝えているが、前述した土俗的な伝承は比良山系の山岳宗教を解明する大きな手がかりとなるであろう。
水分神社の例祭は五月三日。旧村社。(交通 湖西線和邇駅より江若バス栗原行で栗原下車、徒歩五分)
(小栗栖健治「水分神社 滋賀郡志賀町栗原」, 『日本の神々:神社と聖地 第5巻』) [164] [81]
この下の写真は、権現山の山頂の風景を撮影した写真です。
峯権現のお社の地図上の位置
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(おおよその緯度経度 : 35.192156,135.874912)
(南比良(比良山地の南部))
峯権現のお社の地図上の位置
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(おおよその緯度経度 : 35.192156,135.874912)
(南比良(比良山地の南部))
近江国の神奈備山と、水を得ることを目的とした水信仰(水神信仰)
山の神は同時に水の神でもあるから、その神は地域に密着したかたちで古くから崇敬されてきたとおぼしい。
―― 池上洵一「比良の天神」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』 [167]
山の霧は多くは雲そのものである。比叡山では六・七・八・九の四ヵ月にそれぞれ二十七・二十七・二十五・二十一回の霧をみている(昭和二十五年)が、これらが湿度を高めるのはうなずけるところであろう。杉立木の間にたちこめた霧が流れるように動いて行くさまは幽邃の叡山に一しお詩情を深めてくれるのである。新琵琶湖八景の一として煙雨比叡の樹林と呼ばれるもののよって起るゆえである。
―― 延暦寺執行局(編集)「気象」, 「一 比叡山の自然」, 『比叡山』 [168]
滋賀県はいまから二十年ほど前に新琵琶湖八景というのをつくっておりますが、その中に「煙雨比叡の樹林」というのがあります。雨に煙る杉の樹林の間を雲が去来する、横山大観の墨絵のような風景、それをもって比叡山の一番美しい景観だとしております。それはまさに比叡山の持つ湿、非常に湿気の多い山であるということを大きな条件に取り入れているわけです。湿気が多いということは、人間にとって困ったことも多いですが、また林相を繁茂させるという点からは、湿気は第一の条件なんですね。
―― 景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』 [169]
田中日佐夫さんは、『近江古寺風土記』において、「近江にある神奈備の山にたいする信仰は、水を得ることを目的とした信仰であった」ということを述べておられます。このことについての記述は、下記のとおりです。
ちなみに、神奈備山というのは、「神が鎮座する山」というような意味の言葉です。
神奈備山の信仰は天にいます神のたしかな表徴にたいする信仰であった。しかしその山の周辺で農耕する人々にとって、その信仰の結果を具体的に表わすものは水であったにちがいない。神奈備の山にたいする祭祀も、水を得ることがその主体を占めていたであろう。近江にあっても湖岸に沿った土地の開発から徐々に内陸の開発に向かったとき、この水の利用ということが大きな問題であった。土木工事の未発達であった古代人にとって、大きな河川を利用することにはいろいろな困難がともなったであろう。より簡単に利用できる水は平地のわき水、泉であり、また山からの落ち水であった。とともに雨がふれば流れを変え、はん乱し、耕地をのみつくす大河の勢いを押えることも大事なことであった。そのような内容をふくむ祭礼をみることもできるのである。
(田中日佐夫「水・火のまつり」, 「はつくにしらす王の国、近江 : 三上山と日子坐王の伝説」, 『近江古寺風土記』) [170]
また、水田有夏志さんは、『近江の滝 (別冊淡海文庫)』において、「近江は、川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった」というような意味のことを述べておられます。このことについての記述は、下記のとおりです。
琵琶湖に注ぐ河川は、すべてお盆の中央にある琵琶湖へと注いでいる。このため、近江には信濃川や利根川のような大規模な河川はなく、山から流れ出た川が平野部に出て、すぐに琵琶湖に注ぐ小規模な河川ばかりである。このわずかの間に、河川の水は田用水や生活用水など、さまざまな形で繰り返し高度に利用されてきた。
しかし、灌漑技術が発達する一方で、規模が小さく流量が安定しないため、流域各地で激しい水争いが頻繁に発生し、雨乞行事なども盛んに行われてきた。また、過度の伐採利用や戦乱などで山が荒れ、洪水被害にもたびたび悩まされてきた。
このように、近江は山や川と人々との関わりが濃密で、水へのこだわりが強い場所であった
(水田有夏志「近江の滝の特徴」, 「近江の滝序説」, 『近江の滝』) [171]
おそらく伝教大師が開いたころは全山が全くの自然林相、原始林相であったろうと思います。同じ比叡山といっても、いまの林相とは全く違った様相を呈しておったと思います。そういう繁茂する林相は、湿ということが大きな条件となっております。絶えず湿気を含んでおる。その絶えず含んでおる湿気は地面に落ちて、こけが吸って、地下水になる。夏どのように照っても地下水が切れないということです。
〔中略〕
最近は水道を下からポンプで若干上げているそうですが従来は、みな山の水でまかなっておりました。それじゃそれはどこにあるのかと申しますと、ここは全山地下水を湧出しております。貧弱な今日のような植生林相になってすらそれだけの地下水をたくわえる力をまだ持っているのですから、これが巨大な自然林相であったならば、その地下水の量というものはまだまだ豊富なものがあっただろうと考えられます。そういうふうに山の木を切って、地下水の水量が変わって、山の林相が変わってということは、これはまた今日の河川の洪水とか汚染という問題と決して無関係ではないのでありまして、山と水とふもとの社会生活というものとは非常に深い関係を持っているわけでございます。山の木を切るから水がきたなくなる、水がきたなくなるから自然が汚染するという因果関係があるわけですけれども、幸いにして比叡山はまだまだ水源は乏しくない。これはやはりこの湿という問題、それを景観的にいうならば「煙雲比叡の樹林」ということになりますし、実際生活的にいうならば生活の水、命の水ということになって、非常に豊かな水を持っているということに置きかえられます。
千年の歴史を持つこの比叡山には、比叡山三千坊ということばがありますように、常に何千人かの僧侶が住んでおった。この比叡山三千坊ということばは三千の僧坊があったのだという解釈をする人がありますが、そうではなく、少なくとも三千人の僧侶が住んでおったというふうにお考えをいただきたい。実際に考えますと、山上山下合わせればもっともっとおっただろうと私は思います。山の上には絶えず三干人ぐらいの僧侶は十分住んでおったと思いますが、これは三千人のつまり完全な消費地域です。〔中略〕とにかく、「湿寒」の問題、これは比叡山の持つ自然条件であり、それはまた、歴史を形成し、その中で生活をしてきた上において、非常に深い因果関係を持っておった。それは自然と人文とのかね合いという大きな問題の一端を示すものである、こういうふうに考えていただきたい。
(景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』) [172]
この比叡山の山なみを図形化すると、(黒板に描く)―このような山になります。向こう側が京都、こっちが滋賀県。こちらが琵琶湖ということになります。よく比叡山のどちら側が表でどちら側が裏かというようなことを京都の新聞記者などから質問されることがありますが、それは言うまでもなく、滋賀県側では滋賀県側が表だと言う。別に私は坂本に住んでいるからそう言うのでありませんが、歴史的に考えても、比叡山の教団組織からいっても、滋賀県側が表である。
(景山春樹「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』) [173]
夏は梅雨、台風等による他と同様な降雨のほかに、直射日光によって熱せられた上昇気流に伴う夕立にしばしば見舞われることが自然雨量を増加させる(例えば昭和二十八年八月の雷は十二回、六月、七月の降雨日数はそれぞれ二十六日、十九日に及ぶ)。雨量はまた湿度とも関連する。一般に山地は低温のため同一容積に同一量の水蒸気を含んでいても湿度は大となるのが普通である。京都の平均湿度約七七に対し、この山が約八四を示すのは右の理由による所が少なくない。然し夏季その差が増大するのは、前述のような降雨、更には霧と関係がある。山の霧は多くは雲そのものである。比叡山では六・七・八・九の四ヵ月にそれぞれ二十七・二十七・二十五・二十一回の霧をみている(昭和二十五年)が、これらが湿度を高めるのはうなずけるところであろう。杉立木の間にたちこめた霧が流れるように動いて行くさまは幽邃の叡山に一しお詩情を深めてくれるのである。新琵琶湖八景の一として煙雨比叡の樹林と呼ばれるもののよって起るゆえである。また湿度の多い関係から山上の寺坊では襖や障子がじっとりとなってはがれることはこの山に住む人がよく語って聞かせる所である。
(延暦寺執行局(編集)「気象」, 「比叡山の自然」, 『比叡山』) [168]
参考: 比叡山延暦寺(天台宗)に関連のある、そのほかの青鬼の説話
比叡山延暦寺(天台宗)に関連のある、そのほかの青鬼の説話
比叡山延暦寺の玉泉坊の青鬼
紺青鬼(天狐、天狗)
比叡山延暦寺の玉泉坊の青鬼
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
露うち払ひて家に指入て見れば、玉をつらねかざりたる家なれば、ぬしはなけれども面白かりけり。此の僧思けるは、玉泉坊と名をゆひける事は、殊に泉殿を結構して有けるによてこそ云はれけれと思て、泉殿を入て見れば、八月中旬の事なれば、月くまなきことかぎりなし。泉殿にかげやどりたり。心をすまして一首の哥をよみける。
たまのいづみ もとのあるじは すまずして
うはの空なる 月ぞやどれる
と読たりければ、奥の方より青鬼おどり出でて、あら面白やといふ。この僧、道にはしりたうれて死にけり。鬼枕がみに寄て云く、我は昔し玉泉房なり、必ずして人を検ぜむと思ふ事はなけれども、我妄犱に寄てかゝる鬼神と成たり。今日より我他国へ行べし。此坊は汝にとらせんずるなりとて、失にけり。さてこの僧生帰りにけり。この坊の跡、今につたはりたり。
―― 「めに見えぬ鬼神をもと云う事」, 曼殊院蔵 伝尊円『古今序注』 [175]
比叡山延暦寺の玉泉坊の青鬼
参考文献
武覚超
『比叡山諸堂史の研究』
参考文献
『山門堂社由緒記』
(『天台宗全書 第24巻』収載)
参考文献
『比叡山 : その歴史と文化を訪ねて』
参考文献
『伝説の比叡山』
硲慈弘
参考文献
「語園漫考(二) : ねんねん唄由来・浦島二則・玉泉坊の鬼」
今野達
『横浜国大国語研究 第05号』
横浜国立大学国語・日本語教育学会(編集)
横浜国立大学国語国文学会
1987年
60~70ページ
曼殊院蔵伝尊円『古今序注』(鎌倉末期乃至南北朝)
了誉聖冏『古今序注』(応永十三年―一四〇六)
酉誉聖聡『当麻曼荼羅疏』(永享八年―一四三六)
東塔南谷の玉泉坊(俊豪の住坊)
東塔南谷の玉泉坊(俊豪の住坊)
(東塔西谷の間違いか???)
(東塔無動寺谷の間違いか???)
権現川(藤の木川)の水源地帯
泉殿
曼殊院蔵伝尊円の『古今序注』(鎌倉末期乃至南北朝)
武覚超『比叡山諸堂史の研究』
東塔西谷の玉泉坊(玉泉院・勧学院・玉蔵坊)
「玉泉院跡」の石標
(玉泉坊(玉泉院・勧学院・玉蔵坊)の跡地)
(石標の背後の奥のほうに見えているのは、東塔駐車場(延暦寺第一駐車場)です。)
東塔西谷, 比叡山延暦寺
「玉泉院跡」の石標
(玉泉坊(玉泉院・勧学院・玉蔵坊)の跡地)
(石標の奥のほうに見えているのは戒壇院です。)
東塔西谷, 比叡山延暦寺
東塔西谷の玉泉坊(玉泉院・勧学院・玉蔵坊)
「玉泉院跡」の石標は、大宮川の水源地帯(仏母塚がある仏母谷の谷川の水源地帯)である弁慶水の近くにあります。
東塔地区のなかの、戒壇院の西側のすぐちかくの道ばたに、「玉泉院跡」という文字が刻まれた石標があります。
無動寺谷の玉泉坊(玉照院の旧称)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
玉照院(旧 玉泉坊)
(無動寺谷, 比叡山延暦寺)
比叡山延暦寺の七不思議
玉照院の鬼
四ッ谷川の支流の水源地帯
武覚超『比叡山諸堂史の研究』
西塔東谷(?)の玉泉坊
西塔東谷(?)の玉泉坊
(東塔西谷、の書き間違いか?)
大宮川の水源地帯
八部尾の近く
了誉聖冏『古今序注』(応永十三年―一四〇六)
悪霊
酉誉聖聡の『当麻曼荼羅疏』(永享八年―一四三六)
鬼神
相応和尚と、紺青鬼(天狐、天狗)と、染殿后(藤原明子)
底抜けの上天気である。何という光り輝く青さだろう、海も空も。澄み透る明るい空の青が、水平線近くで、茫と煙る金粉の靄の中に融け去ったかと思うと、その下から、今度は、一目見ただけでたちまち全身が染まってしまいそうな華やかな濃藍の水が、拡がり、膨らみ、盛り上って来る。内に光を孕んだ豊麗極まりない藍紫色の大円盤が、船の白塗の欄干の上になり下になりして、とてつもなく大きく高く膨れ上り、さて又ぐうんと低く沈んで行く。紺青鬼という言葉を私は思い出した。それがどんな鬼か知らないが、無数の真蒼な小鬼共が白金の光耀粲爛たる中で乱舞したら、あるいはこの海と空の華麗さを呈するかも知れないと、そんなとりとめない事を考えていた。
―― 中島敦『環礁 : ミクロネシヤ巡島記抄』 [177]
紺青鬼
「紺青の色したる鬼」
相応和尚
染殿后
藤原明子
天狐
天狗
真済
参考文献
『宝物集』
(『新日本古典文学大系 40』所収)
『今昔物語集』巻二十
第七話「染殿ノ后、為天宮嬈乱事」
『相応和尚伝』
『天台南山無動寺建立和尙〔相應和尙〕傳』
(『群書類従 第5輯』(訂正3版)所収)
『拾遺往生伝』巻下
「相応伝」
『古事談』巻三
『古事談』(巻第三第十五話)
『平家物語』(延慶本)
『宇治拾遺物語』(193)
相応和尚、都卒天に上る事 付、染殿の后祈り奉る事〉
『日吉山王利生記』
(『神道大系 神社編 29』所収)
『悪女伝説の秘密』
田中貴子
角川書店
2002年
『宝物集』
『宝物集』
(『新日本古典文学大系 40』所収)
『今昔物語集』巻二十 第七話「染殿ノ后、為天宮嬈乱事」
『今昔物語集』巻二十
第七話「染殿ノ后、為天宮嬈乱事」
『相応和尚伝』(『天台南山無動寺建立和尚伝』)
『相応和尚伝』(『天台南山無動寺建立和尚伝』)
(『天台南山無動寺建立和尙〔相應和尙〕傳』)
(『群書類従 第5輯』(訂正3版)所収)
『拾遺往生伝』巻下「相応伝」
『拾遺往生伝』巻下「相応伝」
『古事談』(巻第三第十五話)
『古事談』(巻第三第十五話)
『平家物語』(延慶本)
『平家物語』(延慶本)
『宇治拾遺物語』193 : 相応和尚、都卒天に上る事 付、染殿の后祈り奉る事
『宇治拾遺物語』(193)
相応和尚、都卒天に上る事 付、染殿の后祈り奉る事
『日吉山王利生記』第1
『日吉山王利生記』第1
相応和尚
染殿后
真済(柿本紀僧正)
相応和尚は、慈覚大師の御弟子なり、生身の不動を葛河滝にて拝給ふ、和尚随喜の余りいだき奉る、忽に枯木に変給ふ、かの木にて不動尊を造て、無動寺に安置し給へり、染殿后御悩の時、諸寺諸山の高徳みな験をうしなへり、和尚ならびなき誉ありて、勅喚に応じ、是を加持し奉るに猶しるしなし、無動寺に帰りて、重て祈念せられけるに、彼本尊うしろむき給ふ、むかふにしたがひていよ〳〵懇念をいたすに、結句木像中より破給へり、即袈裟にてかゝげ奉りて、なを責候はれければ、明王詞をいだしてのたまはく、后の邪気は柿本紀僧正の霊なり、彼真済は七世の不動の行者也、我生々に加護の誓あるがゆへに、たやすく明王の縛にかくべからず、而汝あながちに我を責む、しかれば真済を得脱せしめて、妄念をとらかすべし、但大威徳の咒にて加持し、心中に我を念ぜよとおしへ給ける、其後真済僧正の霊あらはれて、不動尊にまちはかられて、恥を見るとぞのゝしりける
(『日吉山王利生記』第1) [178]
『山門聖之記』(『諸国一見聖物語』)
『山門聖之記』
(『諸国一見聖物語』)
(曼殊院蔵本)
『諸国一見聖物語 : 曼殊院蔵粉河寺蔵 (京都大学国語国文資料叢書 29)』
亮海 [著者]
佐竹昭広 (京都大学文学部国語学国文学研究室 代表) [編集]
中倉千代子 [解説]
臨川書店
1981年
83ページ
恵心僧都源信と、浮舟に取り憑いた紺青鬼(『源氏物語』第53帖「手習」)
〔比叡山延暦寺の横川の僧都が〕一晩中加持していらっしゃった暁に、人に物の怪を駆り移して〔浮舟に取り憑いている物の怪(紺青鬼)と話をするために、その物の怪を、霊媒者に乗り移らせて〕、「どんな憑き物が、こんなに人〔浮舟〕をたぶらかしたのか」と、その訳だけでもしゃべらせたくて、弟子の阿闍梨と、とりどりに加持なさる。数か月間少しも現われなかった物の怪〔紺青鬼〕が、祈り伏せられて、「自分は、ここまで参って、こんなに祈り伏せられ申すべき身でもない。昔は、修行をつんだ法師で〔 [180] [181]〕、わずかばかりの恨みをこの世に残して、中有〔人が死んだあと、つぎに生まれ変わるまでの期間〕に迷っているうちに、きれいな女のたくさんお住まいだった所に住みついて、一人は取り殺したが、この人〔浮舟〕は、わが心からこの世を恨みなさって、自分は何とかして死のうということを、夜昼おっしゃっていたのに助けを得て、ひどく暗い夜、ひとりでいらっしゃったのを取ったのだ。だが、観音が、あれやこれやとお守りなさったので、この僧都に負け申した。もう退散しよう」と大声をあげる。「このように言うのは何者だ」と問うと、物の怪の憑いていた人が、元気のないせいか、はっきりとも答えない。
(『源氏物語』第53帖「手習」) [182] [183] [180] [181]
『是害房絵巻』に記された比良山の大天狗(天魔、紺青鬼)
『是害房絵巻』に記された比良山の大天狗(天魔、紺青鬼)
『是害房絵巻』に配された平山(比良山)の大天狗は、その来歴を「昔、守屋大臣ノ破法ノ時、其罪ニヒカレテ此道ニ入テ」と語り、且つ又、『比良山古人霊託』においても、「我是聖徳太子之御時者」と語るのである。〔中略〕比良山(平山、平野山とも)の天狗「天魔・鬼・紺青鬼とも〉は、「聖徳太子伝」に緊密な関わりをもっていたのである。
〔中略〕
天台を中心にして聖徳太子と同種姓にして一如ともいうべき平山(比良山)の青鬼・天狗が“楠”に現じて行動・予言し、一方では楠木正成、変じて化物となる。
(牧野和夫「中世聖徳太子伝と説話 : “律”と太子秘事・口伝・「天狗説話」」) [185]
(参考記事:香取本『大江山絵詞』の「平野山」と「近江国かが山」: 比叡山延暦寺による土地領有権説話としての酒呑童子譚)
おわりに
ここまで、香取本『大江山絵詞』の絵巻物に記されている、「酒天童子が変化した楠」を出発点として、それに関連する叡山開闢譚の霊木や、その守護者であった青鬼、そこからさらに、酒天童子の水神(水神)としての性質、などについて、お話してきました。
この話題については、まだお話したいことがたくさんあるのですが、それらの話については、またのちほど、この記事に追記させていただくかたちで、おつたえできればとおもいます。
引用文献・参考文献
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- 「比叡山延暦寺の東塔北谷の地区の地図」の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」(ズームレベル: 14~18)を、加工・編集して使用しています。地理院タイルは、「国土地理院コンテンツ利用規約」にもとづいて使用しています。くわしくは、国土地理院のウェブサイトのなかの、「地理院タイル一覧」のページ(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)のなかの、「2.基本測量成果以外で出典の記載のみで利用可能なもの」のなかの、「ベースマップ」のなかの、「写真」(衛星写真の画像)のところをご参照ください。
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
- 注記:《青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩][Back ↩]
- 注記: この和歌は、筆者(倉田幸暢)が、慈円(慈鎮和尚)がつくった和歌である、「世の中に 山てふ山は 多かれど 山とは比叡の 御山をぞいふ」という和歌を、本歌取りしてつくった和歌です。 [Back ↩]
- 参考: 慈円(慈鎮和尚) 「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡の御山をぞいふ」, 「歌番号: 1089」, 『拾玉集』, 久保田淳(監修), (2008年), 『拾玉集 上 (和歌文学大系 ; 58)』, 明治書院, 134ページ. [Back ↩]
- 「Obsidian Butterfly Find
A Last Song
In Deep Blue Forest
青の森で
黒曜石の蝶は
歌を見つける」
(出典: 小中千昭(脚本), 増井壮一(絵コンテ/演出) (2002年)「第25楽章 神の不確かな音 : Deus Ex Machina」, 21:33~21:39, 出渕裕(原作/監督), 『ラーゼフォン』 (RahXephon), ボンズ(BONES)(アニメーション制作). ) [Back ↩] - 「青の森で、黒曜石の蝶は歌を見つける」(出典: 出渕裕 (監修), アクティブコア編集部 (編集) (2004年) 「第25楽章 神の不確かな音 : Deus Ex Machina」, 「TV Series episode guide ― テレビシリーズ」, 『ラーゼフォンコンプリート』(Rahxephon Complete), メディアファクトリー, 67ページ.))[Back ↩]
- 参考文献: 清少納言(著者), 島内裕子(校訂・翻訳) (2017年) 「第四七段」, 『枕草子 上 (ちくま学芸文庫)』(Kindle版), 筑摩書房. [Back ↩]
- 参考文献: 清少納言(著者), 石田穣二(訳注) (2014年) 「第三七段」, 『新版 枕草子 上巻 : 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』(Kindle版), KADOKAWA. [Back ↩]
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- 地図の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」(ズームレベル: 14~18)を、加工・編集して使用しています。地理院タイルは、「国土地理院コンテンツ利用規約」にもとづいて使用しています。くわしくは、国土地理院のウェブサイトのなかの、「地理院タイル一覧」のページ(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)のなかの、「2.基本測量成果以外で出典の記載のみで利用可能なもの」のなかの、「ベースマップ」のなかの、「写真」(衛星写真の画像)のところをご参照ください。 [Back ↩][Back ↩]
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- 参考文献: 〔「華頂降魔」の説話が記載されているページ(コマ番号: 116(右側のページ~左側のページ)(182ページ~183ページ))〕, 灌頂 [撰], 『天台山國淸寺智者大師別傳第二』(『天台山国清寺智者大師別伝 第二』), 『天台靈應圖本傳集卷第一』(『天台霊応図本伝集 巻第一』), 比叡山専修院附属叡山学院 [編集], (1927年), 『伝教大師全集 第四』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 比叡山図書刊行所. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典: 〔霊木の話が記載されているページ(コマ番号: 357(右側のページ1段目)(706ページ1段目))〕, 「陀羅尼品第二十六」, 『法華経鷲林拾葉鈔』巻第24, 日本大蔵経編纂会 [編集], (1917年), 『日本大蔵経 第30巻 経蔵部 法華部章疏 3』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 日本大蔵経編纂会. [Back ↩]
- 出典: 樫木祐人 (2017年) 〔子供達の母親と、ハクメイと、ミコチと、コンジュの会話〕, 「第31話 樹鎮の夕べ」, 『ハクメイとミコチ 5巻 (HARTA COMIX)』(Kindle版), KADOKAWA, 117~118ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 〔新井白石の『鬼門説』に引用されている『山海経』の記述〕, 水野杏紀, (2008年), 「三.『鬼門説』全文」, 「新井白石『鬼門説』について : 翻刻と注解 (平木康平教授退職記念号)」, 『人文学論集』26巻, 大阪府立大学人文学会, 101ページ1段目~101ページ2段目. [Back ↩]
- 参考文献: 〔桓武天皇が平安京に遷都した時に、比叡山が鬼門とされていたという話が記載されているページ(コマ番号: 99(右側のページ)(166ページ)〕, 「叡岳要記 上」, 「鬼門」, 「陰陽道 下」, 「方位吉凶」, 「方技部 三」, 神宮司庁 [編集], (1929年), 『古事類苑 第26冊 : 方技部』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 古事類苑刊行会. [Back ↩]
- 参考文献: 〔景行天皇十八年七月の条文〕, 「大足彦忍代別天皇 景行天皇」, 『日本書紀』巻第七, 坂本太郎 [ほか](校注), (1994年), 『日本書紀 2 (岩波文庫)』, 岩波書店, 80ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 『日吉山王利生記』第1, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校], (1983年), 『続群書類従 第2輯 下 3版 : 神祇部』, 続群書類従完成会, 655~656ページ. [Back ↩]
- 注記:《神代の霊木、梢空を穿ち空に入る》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 参考文献: 『下総国椿新田濫觴記』, 3丁表~4丁裏 (和装本). [Back ↩]
- 参考文献: 〔『下総国椿新田濫觴記』(『椿新田濫觴記』)からの引用文〕, 藤沢衛彦 [編集], (1919年), 『日本伝説叢書 下総の巻』, 日本伝説叢書刊行会, 5~6ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 南方熊楠 「巨樹の翁の話」二, 『南方閑話』, (1971年), 『南方熊楠全集 2 (南方閑話,南方随筆,続南方随筆)』, 平凡社, 41ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 景行天皇四年二月の条文, 「神皇本紀下巻上」, 「先代旧事本紀巻二十一」, 『先代旧事本紀大成経 神皇本紀二十一』, 小笠原春夫 [校注], (1999年), 『先代旧事本紀大成経 2 (続神道大系 : 論説編)』, 神道大系編纂会, 39ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「比良山」, 『近江輿地志略 : 校定頭註』. [Back ↩]
- 参考文献: 南方熊楠 「巨樹の翁の話」三, 『南方閑話』, (1971年), 『南方熊楠全集 2 (南方閑話,南方随筆,続南方随筆)』, 平凡社, 42ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 身延文庫蔵『法華直談私見聞』, 牧野和夫, (1990年), 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), 90ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 「桑実寺縁起 上巻 〔第一段〕」, 「詞書釈文」, 「解説」, 小松茂美 [編集・解説], (1992年), 『日本の絵巻 続 24 (桑実寺縁起・道成寺縁起)』, 中央公論社, 135ページ1段目~135ページ2段目. [Back ↩]
- このなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。 [Back ↩]
- 画像の出典: 「天台大師御像 (国宝) 園城寺蔵」, 『天台宗読本 宗史篇』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 6 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 出典: 永井路子 (2014年) 「雲嶺の梵音」, 『雲と風と : 伝教大師最澄の生涯』Kindle版, ゴマブックス株式会社. [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇 [編集] 「歌番号: 296」, 「僧哥十三首」(僧歌十三首), 「四句神哥 百七十首」(四句神歌 百七十首), 「梁塵祕抄 卷第二」(梁塵秘抄 巻第二), 佐佐木信綱 [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 57ページ. [Back ↩]
- 画像の出典: "天台山石橋図" (Lions at the Stone Bridge of Mount Tiantai) by 曾我蕭白 on Wikimedia Commons (パブリック・ドメイン(Public Domain) ). [Back ↩]
- 画像の出典: "天台山石橋図" (Lions at the Stone Bridge of Mount Tiantai) by 曾我蕭白 on The Metropolitan Museum of Art (メトロポリタン美術館) (パブリック・ドメイン(Public Domain)). [Back ↩]
- 参考文献: 「第廿八章 華頂降魔」(第二十八章 華頂降魔), 堀恵慶 [編集], (1922年), 『天台大師略伝』, 芝金声堂, 69~70ページ. [Back ↩]
- 出典: 智顗 [説者], 灌頂 [記録者], 関口真大 [校注], 「第三項 静処に閑居せよ」, 「第一節 五縁を具えよ」, 「第六章 止観のための前方便(承前)」(巻第四の下), (1966年), 『摩訶止観 : 禅の思想原理 上 (岩波文庫)』, 岩波書店, 230ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 池田魯參 (2017年) 「住処について」, 「十二 衣食住の戒め : 柔和忍辱の心これなり」, 『『摩訶止観』を読む』, 春秋社, 144ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 後白河法皇 [編集] 「歌番号: 303」, 「僧哥十三首」(僧歌十三首), 「四句神哥 百七十首」(四句神歌 百七十首), 「梁塵祕抄 卷第二」(梁塵秘抄 巻第二), 佐佐木信綱 [校訂], (1941年 第7刷改版発行), 『梁塵秘抄 (岩波文庫 黄 22-1)』, 岩波書店, 58ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 木村周誠 (2011年) 「一実諦の基礎的考察」, 『天台学報 = Journal of Tendai buddhist studies (54)』, 天台学会, 23ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 池田魯參 (2017年) 「後半生~天台山の浄行者」, 「一 天台山の浄行者・天台智者大師の生涯 : 説法 最も第一なり」, 『『摩訶止観』を読む』, 春秋社, 14ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:"mayraarmy" by Shari188 on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"DSC_2148" by Ting Him Mak on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 画像の出典:"DSC_2147" by Ting Him Mak on Flickr (License: CC BY 2.0). [Back ↩]
- 出典:辛嶋静志 (2017年) 「六 敦煌写本の「変」と「変文」の意味」, 「「変」、「変相」、「変文」の意味」, 『印度學佛教學研究』, 65巻 2号, 738ページ2段目. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字や赤文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典:辛嶋静志 (2017年) 「一―三 「壁画」を意味する「変」」, 「一 漢訳で「像」を意味する「変」」, 「「変」、「変相」、「変文」の意味」, 『印度學佛教學研究』, 65巻 2号, 734ページ1段目. [Back ↩]
- 画像の出典:葛飾北斎 (絵画) 「世尊大神通懲魔軍図」, 『釈迦御一代図会 4』(『釈迦御一代記図絵 4』), 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 16 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:葛飾北斎 (絵画) 「三迦葉与魔軍闘神通図」, 『釈迦御一代図会 5』(『釈迦御一代記図絵 5』), 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号: 6 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 書誌情報:寺島良安(編纂者) ([江戸時代]) 「魍魎」, 『和漢三才図会 巻第四十:寓類 怪類』. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典:「魍魎」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「魍魎」, 「和漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻. [27]」, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:20 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 参考文献: 〔酒顚童子(酒呑童子)の話が記載されている部分(コマ番号: 151(左側のページ)~152(右側のページ)(1575ページ~1576ページ))〕, 林忠(林羅山) [共撰者], 林恕(林鵞峰) [共撰者], 「治安元年」, 「後一條天皇二(後一条天皇 二)」, 「續本朝通鑑卷第二十四(続本朝通鑑 巻第二十四) 自治安元年至同三年」, 早川純三郎 [発行者(国書刊行会代表者)], (1919年), 『本朝通鑑 第6 (国書刊行会本)』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 国書刊行会. [Back ↩]
- 参考文献: 〔酒顚童子(酒呑童子)の話が記載されている部分(コマ番号: 23(左側のページ)~24(右側のページ)(19丁表~19丁裏 (和装本)))〕, 林羅山 [編集], 林春斎(林鵞峰) [編集], 〔治安元年の条文〕, 「後一條天皇(後一条天皇)」, 「本朝通鑒巻第二十九(本朝通鑑 巻第二十九) 自長和元年至同五年」, 林昇 [校訂], 大槻東陽 [訓解], 渡辺約郎 [訓解], (1875年), 『本朝通鑑 : 標記 巻第29』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 大槻東陽 [蔵梓]. [Back ↩]
- 注記: 参考文献に記載されている文章を参考にして、引用者が、旧字体の漢字を新字体に変更したり、よみがなやふりがなを追加したりするなどの、変更を加えました。 [Back ↩]
- 注記: 『本朝通鑑』の成立年代は、1670年(寛文10年(江戸時代初期))です。 [Back ↩]
- 出典: 蒲松齢 「聊斎自誌」, 蒲松齢(著者), 増田渉(翻訳), 松枝茂夫(翻訳), 常石茂(翻訳) 「聊斎自誌」, (2009年), 『聊斎志異:中国怪異譚 1』, 平凡社ライブラリー, 平凡社, 15ページ. [Back ↩]
- 出典: 田島征彦 (1987年) 『とんとんみーときじむなー (絵本・ちいさななかまたち)』, 童心社. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 馬場あき子 (1988年) 「鬼と日本の〈おに〉」, 「2 〈おに〉と鬼の出会い」, 「一章 鬼の誕生」, 『鬼の研究 (ちくま文庫)』, 筑摩書房, 31ページ. [Back ↩]
- 注記:《霊木の怪異「倒木」「発光」「巨大化」》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 出典: 山本陽子 (2007年) 「四 御衣木の放光伝説」, 「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」, 『明星大学研究紀要. 日本文化学部・言語文化学科』, 第15号, 明星大学青梅校, 78ページ2段目. [Back ↩]
- 出典: 山本陽子 (2007年) 「四 御衣木の放光伝説」, 「祟る御衣木と造仏事業 : なぜ霊木が仏像の御衣木に使われたのか」, 『明星大学研究紀要. 日本文化学部・言語文化学科』, 第15号, 明星大学青梅校, 79ページ2段目~80ページ1段目. [Back ↩]
- 出典: 菱沼右一 「北海道樺太地名考」, 「アイヌ語より見た日本地名新研究」, 池田末則 [編集・解説], (2005年), 『近代地名研究資料集 第5巻』, クレス出版, 276ページ. [Back ↩]
- 出典: 近藤喜博 (1966年) 「6 蛇神と呪詛」, 「第十一章 貴船明神の縁起」, 「第二部 山の鬼・水のモノ」, 『日本の鬼 : 日本文化探求の視角 (講談社学術文庫)』, 講談社, 262ページ. [Back ↩]
- 出典: 山崎時叙 「一 近江山神信仰の内容」, 「近江山神信仰の民俗学的研究」, 「第四篇 近畿霊山と民間信仰」, 五来重 [編集], (1978年), 『近畿霊山と修験道 (山岳宗教史研究叢書 11)』, 名著出版, 437ページ. [Back ↩]
- 「東塔」という言葉の読み方については、現在では一般的に「とうどう」と読む場合が多いようです。ですが、そのほかにも、「とうとう」と読む場合もあります。
「東塔」という言葉に「とうどう」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献の例としては、つぎのような文献があります。
【文献1】武覚超 (2008年) 『比叡山諸堂史の研究』, 法藏館, 223ページ。
【文献2】梅原猛,今出川行雲,梅原賢一郎,奥田昭則 (2010年) 『横川の光:比叡山物語』, 角川学芸出版, 22ページ。「東塔」という言葉に「とうとう」という読み仮名(振り仮名)をつけている文献の例としては、つぎのような文献があります。
【文献1】 (1991年) 『日本歴史地名大系 第25巻 (滋賀県の地名)』, 平凡社, 183ページ。
【文献2】「東塔」, 「地名・寺社名解説」 (2001年) 馬淵和夫(校注・訳者), 国東文麿(校注・訳者), 稲垣泰一(校注・訳者), 『新編日本古典文学全集 37:今昔物語集 3』(『今昔物語集』第20巻~第26巻), 小学館, 634ページ(1段目)。(余談ですが、ぼくは、2018年11月13日に、比叡山延暦寺の東塔地区にある本願堂旧跡の石碑のちかくで、山歩きをされていた60歳代ぐらいの男性に出会い、意気投合して、その方から比叡山についてのいろいろなお話を聞かせていただく機会がありました。(その男性は、比叡山の東側の麓である大津市坂本にお住まいの地元の方でした。)その男性は、「東塔」のことを「とうとう」と発音されていました。ですので、もしかすると、比叡山の東側の麓の大津市坂本のあたりにお住まいの地元の方々のなかの、ある一定の年齢層以上の世代の方々にとっては、「東塔」のことを「とうとう」と発音することが一般的なのかもしれません。)
[Back ↩][Back ↩] - 出典: 梶原学(著者), 菊池東太(写真), (1986年) 「最北の地に炎をもやす: 香芳谷」, 「Ⅲ 高僧と文学の風光: 横川」, 『比叡山』, 佼成出版社, 209ページ. [Back ↩]
- この写真は、2020年11月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 『山家要略記』(神宮文庫本), 神道大系編纂会 [編集], (1993年), 『神道大系 論説編 4 : 天台神道 (下)』, 神道大系編纂会, 107ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 写真の画像の引用元: 菊池東太 [写真], (1993年6月), 「比叡山行脚〔口絵〕」, 『浄土 = Monthly jodo 59(5/6)』, 法然上人鑽仰会. [Back ↩]
- 挿絵の画像の出典: 〔最澄が存命時の本願堂を描いた挿絵〕, 覚深 『傳教大師傳』(『伝教大師伝』), 貝葉書院. [Back ↩]
- 画像の出典: 歌川豊国(3世)(香蝶楼豊国) [絵画] (1852年) 「不動 不動明王の霊像・矜羯羅童子・制多伽童子」, 『歌舞伎十八番』, ゑひすや, 国立国会図書館デジタルコレクション (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 〔矜羯羅童子(矜羯囉童子)についての記述があるページ(コマ番号: 111(左側のページ)~113(右側のページ)(213ページ~216ページ))〕, 「国訳聖無動尊一字出生八大童子秘要法品」(『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』), 塚本賢暁 [編集・翻訳], (1922年), 『国訳密教 : 経軌 第4』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 国訳密教刊行会. [Back ↩]
- 参考: 「T21N1204 聖無動尊一字出生八大童子祕要法品」, 「WWW Database of Chinese Buddhist texts」 (maintained by Christian Wittern (ウィッテルン・クリスティアン 教授) ), (旧)漢字情報研究センター(東アジア人文情報学研究センター), 京都大学人文科学研究所, 京都大学. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「一、三塔・九院・十六谷」, 「Ⅰ 序にかえて」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 10~11ページ. [Back ↩]
- 書誌情報:「第六図 智証大師坐像 木彫 作者不詳」, 東京帝室博物館(編集), (1913年), 『帝国美術史料 第5-10輯』, 尚美館. [Back ↩]
- 画像の出典:「第六図 智証大師坐像 木彫 作者不詳」, 『帝国美術史料. 第8輯』, 国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号:14~15 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- この写真は、2018年1月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩]
- 出典:「地形」, 「一 比叡山の自然」, 「前編」, 延暦寺執行局(編集), (改訂版の改訂者・加筆者: 景山春樹), (初版本の編纂者: 小牧実繁, 景山春樹, 近藤豊, 村山修一, 毛利久, 小林博), (1974年), 『比叡山』(改訂版)(再版 第八回), 比叡山延暦寺, 11~12ページ. [Back ↩]
- この写真は、2018年11月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 〔制多迦童子(制多伽童子)(制吒迦童子)(制託迦童子)についての記述があるページ(コマ番号: 111(左側のページ)~113(右側のページ)(213ページ~216ページ))〕, 「国訳聖無動尊一字出生八大童子秘要法品」(『聖無動尊一字出生八大童子秘要法品』), 塚本賢暁 [編集・翻訳], (1922年), 『国訳密教 : 経軌 第4』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 国訳密教刊行会. [Back ↩]
- 出典: 智顗 [説者], 灌頂 [記録者], 関口真大 [校注], 「三 犯戒の相」, 「第一項 持戒清浄なれ」, 「第一節 五縁を具えよ」, 「第六章 止観のための前方便(承前)」(巻第四の上), (1966年), 『摩訶止観 : 禅の思想原理 上 (岩波文庫)』, 岩波書店, 208ページ. [Back ↩]
- 賢者ギードの言葉, 『ファイナルファンタジーV』(参考: 「【FF5】Final Fantasy V Advance #26 ギードの祠 - YouTube」). [Back ↩]
- 出典: 平田篤胤 「鬼神新論」, 神道大系編纂会 [編集], (1986年), 「鬼神新論」, 『神道大系 論説編 26』, 神道大系編纂会, 483ページ. [Back ↩]
- 注記: 原文でカタカナ表記になっている振り仮名を、引用者がひらがな表記に変えました。また、原文では、句点「。」になっているところの一部を、引用者が読点「、」に変えました。 [Back ↩]
- 出典: 高橋昌明 (2005年) 「四、中国小説の日本への渡来」, 「第二章 酒呑童子のふるさと : 中国の小説・伝説に探る」, 『酒呑童子の誕生 : もうひとつの日本文化』, 中公文庫, 中央公論新社, 98~99ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典: 〔孫悟空を描いた挿絵〕, 呉承恩 [原作], 中島孤島 [翻訳] (1949年) 『西遊記』, 国立国会図書館デジタルコレクション, 富山房, コマ番号: 16 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典: 〔孫悟空が、「斉天大聖」と書かれた旗を掲げさせている場面の挿絵〕, 呉承恩 [原作], 中島孤島 [翻訳] (1949年) 『西遊記』, 国立国会図書館デジタルコレクション, 富山房, コマ番号: 36 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ) より, 元の画像を加工・編集して使用しています. [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第3絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第3絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 〔水天についての記述があるページ(コマ番号: 132(右側のページ2段目)(2224ページ2段目))〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 佛書刊行會(仏書刊行会). [Back ↩]
- 参考文献: 〔水天についての記述があるページ(コマ番号: 24(右側のページ2段目)(40ページ2段目))〕, 円珍 [撰], 「序品之余」, 「巻第二」, 『菩提場経略義釈』, 日本大蔵経編纂会 [編集], (1918年), 『日本大蔵経 第36巻 (経蔵部 密経部章疏 下 2)』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 日本大蔵経編纂会. [Back ↩]
- 参考文献: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「三」, 「その四(七・六五)」, 「ミトラとヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 138ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「四」, 「その二(二・二八)」, 「ヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 126ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「三」, 「その三(七・八八)」, 「ヴァルナの歌」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 128ページ. [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第1絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第1絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている複数の絵図のうちの第2絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第2絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第3絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第4絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第4絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 画像の出典:「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』, 佛書刊行會(仏書刊行会), 2226ページと2227ページの間に挿入されている水天が描かれている5つの絵図のうちの第5絵図, (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 参考:〔水天の絵図(第5絵図)〕, 「阿娑縛鈔第百五十七 水天」, 『阿娑縛抄』, 佛書刊行會(仏書刊行会)(編纂), (1914年), 『大日本仏教全書 第40巻 阿娑縛抄 第6』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), コマ番号:132~142 (著作権保護期間満了 (パブリックドメイン) ). [Back ↩]
- 出典: 辻直四郎(翻訳) (1970年) 「一」, 「ヴァルナとミトラ、アーディティア神群」, 『リグ・ヴェーダ讃歌 (岩波文庫)』, 岩波書店, 120~121ページ. [Back ↩]
- 出典:スティーブン・トレンソン (2016年) 「(1) 醍醐寺における祈雨の登場」, 「二 醍醐寺における祈雨」, 「第五章 請雨経法の途絶と醍醐寺における祈雨」, 「第一部 請雨経法の歴史」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』, プリミエ・コレクション 72, 京都大学学術出版会, 181~182ページ.[Back ↩]
- 出典:スティーブン・トレンソン (2016年) 「四 水天供の確立と隆盛」, 「第六章 鎌倉時代における請雨経法の復興と終焉」, 「第一部 請雨経法の歴史」, 『祈雨・宝珠・龍:中世真言密教の深層』, プリミエ・コレクション 72, 京都大学学術出版会, 213~218ページ.[Back ↩]
- この絵図のイメージ画像は、香取本『大江山絵詞』の絵図(現状の絵巻の原本の「下巻 第七絵図」)をもとにして、筆者(倉田幸暢)が制作したものです。[Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 画像の出典: 「File:Medusa uffizi.jpg - Wikimedia Commons」(「メデューサの首」(「Medusa's Head」), 作者不明, ウフィツィ美術館(The Uffizi Galleries(Gallerie degli Uffizi))所蔵). [Back ↩]
- 参考: この絵画作品についての Wikipedia のページ : 「Medusa (Leonardo) - Wikipedia」. [Back ↩]
- 参考: ウフィツィ美術館(英語: The Uffizi Galleries, イタリア語: Gallerie degli Uffizi). [Back ↩]
- 〔メデューサの首を切り落としたペルセウス〕. 画像の出典: "Domenico Marchetti | Perseus with the head of Medusa. from "Oeuvre de Canova: Recueil de Statues ..."" (「メデューサの首を持つペルセウス」(Perseus with the head of Medusa)) (public domain) on The Met Collection, The Metropolitan Museum of Art (メトロポリタン美術館). [Back ↩]
- 出典:手塚治虫 (2014年) [犬上と壹伎史韓国の会話], 『火の鳥 15』(太陽編)(Kindle版), 手塚プロダクション, 146ページ. [Back ↩]
- 〔ゴリアテの首を切り落としたダビデの像〕. 画像の出典: "Bartolomeo Bellano | David with the Head of Goliath | Italian, Padua" (「ダビデとゴリアテの首」(David with the Head of Goliath)) (public domain) on The Met Collection, The Metropolitan Museum of Art (メトロポリタン美術館). [Back ↩]
- 参考文献: 杉本圭三郎 [翻訳] (2017年) 「一門大路渡」, 「巻第十一」, 「平家物語(四)」, 『平家物語 : 全訳注 新版 全四冊合本版 (講談社学術文庫)』(Kindle版), 講談社. [Back ↩]
- 出典: (1997年) 「タタリ神」, スタジオジブリ(責任編集), 『The art of the Princess Mononoke : もののけ姫 (Ghibli the art series)』, スタジオジブリ, 7ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 注記:《鬼怒伽羅》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 参考文献: 「衣川村」, 『近江輿地志略 : 校定頭註』. [Back ↩]
- 参考: 「小椋神社web - 御由緒」, 2021年2月5日閲覧. [Back ↩]
- 注記: 「葉広の山」(葉広山)というのは、仰木地区にある小椋神社のある場所のあたりのことを指す地名であるようです。(参考: 「大津のかんきょう宝箱 眼の生水の宮(仰木4)」, 2021年2月5日閲覧.) [Back ↩]
- 注記: 「葉広山」という地名は、「はびろやま」と読むようです。(参考:
資料名「錦局他撰月並句合丁摺集、奉額醍醐腹帯地蔵尊、奉額西湖仰木葉広山虚空蔵堂風月翁山歌追善発句合、松門亭選見立百人一首月並発句合」(きんきょくほか せんつきなみくあわせちょうずりしゅう ほうがくだいごはらおびじぞうそん ほうがくせいこあおきはびろやまこくぞうどうふうげつおうさんかついぜんほっくあわせ しょうもんていせんみたてひゃくにんいっしゅつきなみほっくあわせ), 「ARC古典籍ポータルデータベース 詳細書誌」, ARC古典籍ポータルデータベース, 立命館大学アート・リサーチセンター(Art Research Center, Ritsumeikan University), 2021年2月5日閲覧.) [Back ↩] - 出典: 「衣川」, 「志賀郡」, 『淡海温故録』巻之四, (1976年), 『近江史料シリーズ 2 本編 : 淡海温故録(稽古蔵本)』, 滋賀県地方史研究家連絡会(滋賀県立図書館内), 92ページ2段目~93ページ1段目. [Back ↩]
- 出典: 「きぬがわ 衣川〈大津市〉」, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 [編集], (1979年), 『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』, 角川書店, 279ページ左側の列. [Back ↩]
- 出典: 「衣川村」, 『近江輿地志略 : 校定頭註』. [Back ↩]
- 出典: 小栗栖健治 [著者] 「小椋神社 大津市仰木町」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一 [編集], (1986年), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』, 白水社, 325~326ページ. [Back ↩]
- 「丹生川上神社」(参考: 「丹生川上神社 - Wikipedia」.) [Back ↩]
- 注記:《権現山の七ツ鬼神》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 出典: (1997年) 「タタリ神」, スタジオジブリ [責任編集], 『The art of the Princess Mononoke : もののけ姫 (Ghibli the art series)』, スタジオジブリ, 7ページ. [Back ↩]
- 出典: 小栗栖健治 [著者] 「水分神社 滋賀郡志賀町栗原」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一 [編集], (1986年), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』, 白水社, 342~344ページ. [Back ↩]
- 参考: 「琵琶湖八景・近江八景|滋賀県ホームページ」. [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- この写真は、2019年7月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩][Back ↩]
- 出典: 池上洵一 (2008年) 「2 比良の天神」, 「第二章 飛来した神」, 「第二編 修験の道 : 『三国伝記』の世界」, 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院, 261ページ. [Back ↩]
- 出典:「気象」, 「一 比叡山の自然」, 「前編」, 延暦寺執行局(編集), (改訂版の改訂者・加筆者: 景山春樹), (初版本の編纂者: 小牧実繁, 景山春樹, 近藤豊, 村山修一, 毛利久, 小林博), (1974年), 『比叡山』(改訂版)(再版 第八回), 比叡山延暦寺, 16ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 313ページ. [Back ↩]
- 出典: 田中日佐夫 (1973年) 「水・火のまつり」, 「一 はつくにしらす王の国、近江 : 三上山と日子坐王の伝説」, 『近江古寺風土記』, 学生社, 38ページ. [Back ↩]
- 出典: 水田有夏志 (2010年) 「近江の滝の特徴」, 「近江の滝序説」, 『近江の滝 (別冊淡海文庫 ; 18)』, サンライズ出版, 30~31ページ. [Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 313~314ページ. [Back ↩]
- 出典: 景山春樹 (1978年) 「比叡山の歴史」, 「付・講演録」, 『比叡山寺 : その構成と諸問題』, 同朋舎, 309~310ページ. [Back ↩]
- 注記:《玉泉坊の青鬼》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 参考文献: 「一 めに見えぬ鬼神をもと云う事」, 「(1) 伝尊円『古今序注』」, 今野達, 「語園漫考(二) : ねんねん唄由来・浦島二則・玉泉坊の鬼」, 横浜国立大学国語・日本語教育学会 [編集], (1987年), 『横浜国大国語研究 第05号』, 横浜国立大学国語国文学会, 67ページ2段目~68ページ1段目. [Back ↩]
- 注記:《紺青鬼と染殿后(藤原明子)と相応和尚》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 出典: 中島敦 『環礁 : ミクロネシヤ巡島記抄』, 池澤夏樹 [個人編集], (2016年), 『日本文学全集 16 : 宮沢賢治 中島敦』, 河出書房新社, 270ページ. [Back ↩]
- 出典: 『日吉山王利生記』第1, 神道大系編纂会 [編集], (1983年), 『神道大系 神社編 29 : 日吉』, 神道大系編纂会, 651ページ. [Back ↩]
- 注記:《浮舟に取り憑いた紺青鬼》(a)の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 注記: ここで自分のことを、「昔は、修行をつんだ法師」(「昔は行ひせし法師」)であると発言しているこの物の怪は、紺青鬼であるとされています。
(参考: 「むかしはおこなひせしほうし ○紺青鬼のことをひけり」(出典: 三条西公条 「手習」〔の帖(第53帖)についての注釈〕, 『源氏物語細流抄』巻十六(『細流抄』巻十六), 本居豊穎 [校訂], 木村正辞 [校訂], 井上頼囶 [校訂], (1978年), 『源氏物語古註釈大成 第5巻 (日本文学古註釈大成) : 源氏物語細流抄・源氏官職故実秘抄』, 日本図書センター, 611ページ1段目.)) [Back ↩][Back ↩]
- 注記: 『細流抄』は、室町時代後期(戦国時代)に、三条西公条という人が書いた、『源氏物語』の注釈書です。 [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 紫式部 [著者] 第53帖「手習」, 『源氏物語』, 玉上琢弥 [訳注], (2014年), 『源氏物語(10) 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』(Kindle版), KADOKAWA. [Back ↩]
- 注記: この引用文のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。 [Back ↩]
- 注記:《浮舟に取り憑いた紺青鬼》(b)の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- 出典: 牧野和夫 (1993) 「中世聖徳太子伝と説話 : “律”と太子秘事・口伝・「天狗説話」」, 本田義憲 [ほか]編, 『説話の講座 第3巻』, 勉誠社; 247ページ, 249ページ. [Back ↩]
- 出典: 「第25楽章 神の不確かな音 : Deus Ex Machina」, 『ラーゼフォン』. [Back ↩]
- 注記:《青の森で 黒曜石の蝶は 歌を見つける》の画像は、2022年に倉田幸暢がMidjourneyをつかって作成した画像です。 [Back ↩]