それから、ヤクーの知を知るためには、わしらを生かしておいてもらわねばね。神話をつくるのはお手のものだろう。皇子の威信を傷つけぬよう、わしらもふくめた、うまい作り話を大いそぎで考えておくれ。これはあんたが聖導師になるまで待てないよ。すぐ手を打っておくれ。」
シュガは、しばしだまってトロガイを見つめていたが、やがて、うなずいた。
「──力をつくそう。」
―― トロガイとシュガの会話「ナナイの手記の結末」, 『精霊の守り人』 [2]
八瀬童子は冷笑を浮かべ、
「君、自分が生成りになった経緯を忘れたのかい? 君の、その鬼。それは、私が四年前に起こした、『上巳の大祓』で降ろしたものだ。そのごく一部、ちょっとした飛沫が憑いて、君は生成りになった。私が降ろしたものが何か──そんなの、少し考えれば想像が付かないかい?」
―― 夜叉丸の言葉「五章 錯綜の征野」, 『東京レイヴンズ 13』 [3]
「その跡の 名を聞だにも おそろしや
只一口の 鬼が城とは」
はじめに
ここでは、酒呑童子や、鬼童丸(鬼同丸)や、八瀬童子の祖先の鬼にゆかりのある、鬼ヶ洞という洞窟や、鬼腰掛岩という岩を紹介します。具体的には、それらの場所へ行くための道のり(ルート)を、動画と地図で紹介します。また、古文献に記されている、それらの場所についての記述も紹介します。
ちなみに、ぼくはいま、香取本『大江山絵詞』という絵巻物を研究しています。香取本『大江山絵詞』は、鎌倉時代~南北朝時代(室町時代前半)ごろにつくられたとされている、現存最古の酒呑童子説話をつたえる絵巻物です。
その香取本『大江山絵詞』に記されているものがたりでは、もともと、比叡山や比良山地の一帯に住んでいた酒天童子(酒呑童子)は、日本天台宗の開祖である伝教大師最澄によって比叡山から追い出されてしまいます。その後、各地を転々としたあと、酒天童子(酒呑童子)は、大江山にたどり着くことになります。
江戸時代前期~中期ごろに書かれた古文献のなかには、「酒呑童子(酒顚童子)は、比叡山を追い出された後、大江山にたどり着くまでのあいだに、八瀬の鬼ヶ洞という洞窟に隠れ住んだ」、という伝説が記されている文献が複数あります。その伝説は、香取本『大江山絵詞』には、記されていない話なのですが、興味深い話だなとおもったので、調べてみました。
また、八瀬童子と呼ばれる八瀬の人びとの先祖は、鬼であったとされています。その関係で、八瀬の里や、その周辺には、鬼ヶ洞以外にも、鬼にまつわる伝承がある旧跡があります。比叡山の西側のふもとにある八瀬の里と、比叡山の山上にある延暦寺の西塔地区を結んでいる北尾谷道の途中には、かつて、鬼腰掛岩という岩があったとされています。その鬼腰掛岩も、八瀬童子の先祖の鬼にまつわる伝承がある旧跡のひとつです。
ここでは、そういった、鬼にまつわる伝承がある八瀬の里周辺の旧跡である、鬼ヶ洞と、鬼腰掛岩のことを紹介します。
※下記のPDFファイルの内容は、このページの記事の内容の初期段階の状態のものです(2022年1月に、世界鬼学会 [6] の会報誌に投稿した時点での状態のものです)。このページの記事の内容は、下記のPDFファイルの内容に、加筆・修正を加えたものです。このページの記事の内容は、随時、加筆・修正しているので、内容が変わることもありますが、下記のPDFファイルの内容は確定しているので、今後、内容が変わることはありません。このページの記事の内容の、初期段階の状態の内容や、確定していて今後変わることがない文章をご覧になりたい場合は、下記のPDFファイルをご参照ください。
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凡例
このページの記事で引用している複数の古文献の引用文は、読者が読みやすくなるように、引用者が適宜、文章に手を加えています。具体的には、下記のような変更を加えています。
- ・旧仮名遣いを、現代仮名遣いに変えました。
- ・旧字体の漢字を、新字体の漢字に変えました。
- ・漢文を書き下し文にしました。
- ・ふりがなを追加しました。
- ・句読点を変更・追加しました。
- ・一部、引用文中の登場人物による発言の部分に、「」(鉤括弧)を付けました。
- ・一部、引用文中の書籍の名称の部分に、『』(二重鉤括弧)を付けました。
- ・読みやすくなるように適宜、改行を加えました。
- ・一部、言葉を変更・追加しました。
- ・一部、間違いだとおもわれる文字を別の文字に変更しました。
- ・引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。
このページの記事で引用している古文献の記述の一部には、現在では差別的と考えられる表現が見られる部分があります。ですが、筆者には差別を助長する意図はなく、資料的意義を考慮して記載していることをご了承いただければ幸いです。
- はじめに
- 鬼ヶ洞(京都洛北八瀬)
- 鬼腰掛岩(西塔北尾谷地区, 比叡山延暦寺)
- 八瀬の鬼神「とんたい」(小たんたい)と御弓式
- 参考: 八瀬童子と護法童子と酒呑童子の関連性
- おわりに
- 引用文献・参考文献
鬼ヶ洞(京都洛北八瀬)
かつて、酒呑童子や、鬼童丸(鬼同丸)や、八瀬童子の祖先である鬼が隠れ住んだという伝説がある、鬼ヶ洞という洞窟が、洛北(京都市北部)の八瀬の里の西側の山の中腹にあります。
鬼ヶ洞は、文献によっては、別の名称で呼ばれていることもあります。たとえば、鬼が洞や、鬼が洞、鬼カ洞、鬼洞、鬼の洞、鬼ヶ城(鬼个城)、酒顚童子洞(酒顛童子洞)などの表記で書き記されている場合もあります。
この下の写真は、鬼ヶ洞の写真です。
鬼ヶ洞がある場所のおおよその緯度経度は、 35.082993, 135.814054 です。
鬼ヶ洞は、標高300メートルほどの場所にあります。
江戸時代前期の儒学者である林羅山は、鬼ヶ洞の大きさを、「高さ約6メートル、深さ約9メートル」としています。ぼくの目測による推定値としては、(かなりおおざっぱな数値にはなりますが、)鬼ヶ洞を構成する巨大な岩全体の高さは12メートルぐらいで、洞窟の入口の高さは7~8メートルぐらい、洞窟の入口の横幅は2メートルぐらい、洞窟の奥行きは9~10メートルぐらいではないかと感じました。
鬼ヶ洞の洞窟の入り口が向いている方向をコンパスで確認したところ、おおよそ、南南西を向いているようでした。(鬼ヶ洞の洞窟の入り口に立って、洞窟の奥のほうを向いたときに、目線が向く方向が、おおよそ、北北東になるということです。)
鬼ヶ洞への道のり(ルート) : 地図と動画
八瀬の里から、鬼ヶ洞までの道のり(ルート)を、下記のような地図にしてみました。
この上の地図の道のりをたどっていく様子や、鬼ヶ洞の洞窟の様子や、その内部などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。
動画 : 鬼ヶ洞への道のり(ルート)と、鬼ヶ洞の映像
鬼ヶ洞から「比叡山」を見つめる視線
比叡山地の主峰は大比叡峰です。ですが、比叡山地の西側(や南西側)にあたる、八瀬地域をふくむ京都市側からは、大比叡峰は見えません。そのかわりに、八瀬側からは、大比叡峰のすぐちかくにある四明岳が、まるで比叡山の主峰であるかのようにそびえ立って見えます。つまり、ある意味で、八瀬の人びとにとっては、四明岳は「比叡山」の象徴なのではないかとおもいます。鬼ヶ洞のちかくからも、その四明岳の頂上が見えます。
梅原猛さんは、実際に鬼ヶ洞を訪れたときの経験を、次のように述べておられます。(梅原, 2001, pp. 13-14)
その日は夏の真っ盛り、カンカン照りの雲ひとつない日であった。私は、八瀬童子会・現会長の保司博氏、森田一郎氏、辻利温氏を先達に、草ぼうぼうで石がごろごろしている道を登った。老齢でしかも病後の私には、しんどい登山であったが、休み休みたっぷり時間をかけて登った。
一時間も経ったであろうか。道は横ばいの尾根道になった。そこを少し進むと、にわかに鬼が洞が現われた。それは私の予期に反して釜状の洞窟ではなく、切り立った岩石の間に奥の深い穴をもつ洞窟であった。今は岩が崩れて埋もれてしまったが、昔はその奥になお広い空間があったのであろう。
山を追われた縄文人の首領が、この山城を思わせる洞窟を一時の隠れ家としたのも、十分頷けるのである。そしてその目の前には比叡山がそそり立っている。山を追われ、叡山と朝廷に反抗した誇り高い八瀬の人たちの祖先は、隠れ家であるとともに山城でもあるこの鬼が洞で、どのような想いで叡山を眺めていたのであろうか。
(梅原猛「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』) [8]
上記の文章のなかで、梅原さんがおっしゃっているように、八瀬の人たち(八瀬童子)の祖先の鬼や、酒呑童子も、おなじように、鬼ヶ洞のあたりから比叡山(四明岳)を眺めていたのかもしれません。
下記の写真は、鬼ヶ洞から南東へ約150メートルほど行ったところにある尾根から見た四明岳の山頂を撮影した写真です。
下記の写真は、上記の写真とおなじ場所から、四明岳の頂上を拡大撮影した写真です。下記の写真の左上のところに小さく写っているのが、四明岳の山頂にある比叡山無線中継所の鉄塔です。
また、この下の写真は、鬼ヶ洞の入口の前から東側に見える横高山を撮影した写真です。横高山は、別名として、「小比叡」や「波母山」とも呼ばれる山です(武, 2008, p. 327)。「小比叡」という名称は、比叡山地の主峰である「大比叡」に対して付けられた名称です。「小比叡」という名称のなかに、「比叡」(比叡山)という言葉が使われていることからもわかるとおり、この小比叡峰も、大比叡峰と四明岳に次いで、比叡山地を代表する山のひとつです。
上記の写真のように、八瀬童子の祖先の鬼や、酒呑童子も、おなじように、鬼ヶ洞から「比叡山」を眺めていたのかもしれません。
鬼ヶ洞の念仏供養
ちなみに、かつて、八瀬の人びとが、先祖の鬼をとむらうために、毎年7月15日に、鬼ヶ洞の前でおこなっていた念仏供養の年中行事は、大正時代に廃絶してしまい、現在はおこなわれていないそうです。下記は、それについての記述です。
「鬼が洞」で八瀬の人たちは毎年七月十五日に念仏供養をし、祖先の霊を慰めたという。しかしその念仏供養も今は絶えて、「鬼が洞」を訪ねる人もいないという。(梅原, 2001, p. 13)
(梅原猛「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』) [10]
この念佛供養の行事は、大正期になって、なくなったといわれている。(池田, 1963, pp. 16-17)
(池田昭「鬼の子孫の一解釈 : 宗教社会学的考察」) [11]
鬼ヶ洞である証拠
ここからは、ぼくがおとずれた前述の洞窟が、鬼ヶ洞である証拠を紹介します。
証拠1 : 『京都発見 3 (洛北の夢)』に掲載されている鬼ヶ洞の写真と特徴が一致する
上記の複数の写真は、2021年にぼくが撮影した鬼ヶ洞の洞窟の写真です。上記の写真に写っている洞窟が、鬼ヶ洞であると言える根拠となる証拠は、つぎのとおりです。
梅原猛さんの『京都発見 3 (洛北の夢)』という本の11ページに、梅原猛さんが鬼ヶ洞をおとずれたときに撮影された写真が掲載されています [12]。その本に掲載されている鬼ヶ洞の写真と、ぼくが撮影した上記の洞窟の写真を見くらべると、複数の特徴が一致します。具体的には、下記の特徴が一致します。
- 洞窟の入り口の左側に写っている、巨大な岩の壁面のところどころにある、複数の特徴的な箇所の形状が一致する。
- 洞窟の入り口から奥にかけて、急な傾斜になっている点が一致する。
- 洞窟の入り口が、縦に細長い形状をしている点が一致する。
上記の複数の特徴が一致することが、上記の写真に写っている洞窟が鬼ヶ洞である証拠のひとつです。
※上記の複数の「洞窟の写真」は、『京都発見 3 (洛北の夢)』の11ページに掲載されている鬼ヶ洞の写真と、特徴が一致していることがわかりやすい写真を選んで掲載しています。
※『京都発見 3 (洛北の夢)』の本には、梅原猛さんが鬼ヶ洞をおとずれたときの様子が、下記のように記されています。下記の記述にある八瀬童子会の方々は、八瀬にお住まいの方々であり、八瀬の地域のことをよくご存知の方々です。ですので、その八瀬童子会の方々が、梅原猛さんを案内して連れて行った洞窟が鬼ヶ洞であることは、間違いないとおもいます。
私は先日集まって頂いた八瀬童子会・前会長の上田稔治氏及び元会長の山本六郎氏などから八瀬に伝わるお話をお聞きし、この酒呑童子が隠れていたという「鬼が洞」をどうしても見たくなった。その「鬼が洞」で八瀬の人たちは毎年七月士五日に念仏供養をし、祖先の霊を慰めたという。しかしその念仏供養も今は絶えて、「鬼が洞」を訪ねる人もいないという。
鬼が洞は八瀬の竈風呂のある「ふるさと」という料亭のすぐ裏山(瓢箪崩山)の中腹にあるが、道が険しくて回り道でしか登れない。実はこの登山を私たちは二回ほど計画したが二回とも雨で流れてしまった。三回目の平成十年(一九九八)八月三日、私はやっと想いを遂げることが出来た。
その日は夏の真っ盛り、カンカン照りの雲ひとつない日であった。私は、八瀬童子会・現会長の保司博氏、森田一郎氏、辻利温氏を先達に、草ぼうぼうで石がごろごろしている道を登った。老齢でしかも病後の私には、しんどい登山であったが、休み休みたっぷり時間をかけて登った。
一時間も経ったであろうか。道は横ばいの尾根道になった。そこを少し進むと、にわかに鬼が洞が現われた。それは私の予期に反して釜状の洞窟ではなく、切り立った岩石の間に奥の深い穴をもつ洞窟であった。今は岩が崩れて埋もれてしまったが、昔はその奥になお広い空間があったのであろう。
(梅原猛「八瀬と酒呑童子」, 「八瀬の里のものがたり」, 『京都発見 3 (洛北の夢)』) [8]
証拠2 : かつては洞窟の入り口に鬼ヶ洞についての解説板があった
以前は、鬼ヶ洞の洞窟の入り口の前に、鬼ヶ洞についての解説板があったそうです。(下記の写真に写っているのが、その解説板です。)
※下記の写真をご提供いただいた角田啓治さんによると、2011年に角田さんが鬼ヶ洞をおとずれたときには、鬼ヶ洞の入り口の前に、下記の写真に写っている解説板が落ちていたそうです。
※ぼくが2021年に、鬼ヶ洞をおとずれたときに、下記の写真に写っている解説板を探してみたのですが、見つけることはできませんでした。
上記の写真に写っている解説板は、大部分がサビに覆われているため、解説板に記されている解説文の内容の大部分が判読できない状態になっています。ですが、ところどころの判読できる文字をひろっていくと、おそらく、つぎのような内容の文章が記されていたであろうことが推測できます。
※下記の文章のなかの、背景色が黄色の部分は、上記の解説板の写真に写っている、判読できる文字の部分を示しています。
※この解説板に書かれていたであろう文章の内容(判読できなくなってしまっている文章の内容)を推測したり、言葉をおぎなったりするにあたっては、後述する複数の古文献の記述などを参考にしました。
- 「鬼ヶ洞(または、鬼が洞、鬼洞、など) おにがほら」
-
「かま風呂の西側の山の山腹にある」
(※この「かま風呂」というのは、「八瀬かまぶろ温泉 ふるさと」のことだろうとおもいます。) - 「この洞窟の高さは二丈(六メートル)、奥行きは三丈(九メートル)」
- 「酒呑童子(酒顚童子)は、この洞窟から大江山へ移り住んだ」
- 「京都市教育委員会」
八瀬の鬼ヶ洞についての記述がある古文献
ここからは、八瀬の鬼ヶ洞についての記述がある古文献などを紹介させていただきます。
「酒顚童子の洞に題す」, 『林羅山詩集』(『羅山文集』)
ここからは、八瀬の鬼ヶ洞についての記述がある古文献などを紹介させていただきたいとおもいます。
このページの記事で紹介するいくつかの古文献のなかでは、八瀬の鬼ヶ洞についての記述の引用元として、しばしば、江戸時代前期に林羅山が書いた『羅山文集』という文献が紹介されています。その文献に記載されていたという、八瀬の鬼ヶ洞についての記述は、1979年に出版された『林羅山詩集 上巻』のなかに記載されている、下記の記述のことだろうとおもいます(その理由は、後述します)。具体的には、『林羅山詩集 上巻』の巻第35の「酒顚童子洞に題す」という題名がついている文章のなかに、八瀬の鬼ヶ洞(鬼が洞、酒顚童子洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『林羅山詩集 上巻』, pp. 385-387)。(下記の文章は、すこし長い文章ですが、酒顚童子(酒呑童子)についての興味深い話がふくまれているので、鬼ヶ洞についての話以降の部分も紹介させていただきます。)
酒顚童子洞に題す 序を并す
洞〔洞穴〕は、八瀬河西山中に在り。俗に号して、鬼が洞〔鬼ヶ洞〕と曰う。洞口狭く、中閎なり〔なかは広い〕。高さ二丈強、深さ三丈有奇〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕。世に称して、「酒顚童子〔酒呑童子〕、この洞より丹波大江山に移る」と云う。余の性〔私(林羅山)の性格は〕、奇を捜り、幽を探るを嗜む〔好きである〕。名山、佳水、古跡、霊区に遇うごとに、これを歆羨せずということ無し〔とても心を惹かれる〕。今、この洞〔鬼ヶ洞〕を見んと欲す。一日山に登り、一氓〔一人の地元民〕をして、まず、これを導かしむ〔案内させた〕。数健丁〔健児〕、児子を負う〔数人の召使いが、子どもを背負う〕。暨び、同来者の数輩〔たくさんの人たち〕、倶共にす。行くこと一千余歩許り、洞〔鬼ヶ洞〕に達す。その路、嶮にして〔険しくて〕、細し。葛藟、足を縈い、荊棘、手を薟す〔葛や藟のつる草が足にまとわりつき、いばらの棘が手に刺さる〕。匍匐蚑行し、沙石転動す〔腹ばいになって進むたびに、砂や石がくずれ落ちる〕。或は〔ある人は〕、前なる者の脚、後なる者の帯を蹈む。或は〔ある人は〕、岩に傍いて、側を行けば、すなわち、不側の谷に臨む〔目指していた場所と異なる谷にたどり着いてしまった〕。或は〔ある人は〕、嶮を憚りて、陟ることあたわざる者あり〔険しい道を行くことに差し障りがあって、登ることができない人もいた〕。余〔私(林羅山)〕も、また、中途、倦み怠ることありて〔途中でつかれてしまって〕、少焉息いて、また躋る〔すこし休んでから、また登った〕。ここに於いて、余〔私(林羅山)〕、後れたり。華山の啼哭ありて、象山の健歩無きが如し。従者、扶けて、行く。既にして、洞〔鬼ヶ洞〕を望む。相距たること、殆ど二百余歩。ここに至りて、愈峻隘〔ますます、けわしくなる〕。児子、数輩と早く洞〔鬼ヶ洞〕を出でて帰るに会う。児子、余〔私(林羅山)〕を迎え見て曰く、「我、已にこれを見る。異事無し〔大したことはなかった〕。請う、ここより還らん」。余〔私(林羅山)〕、乃ち下る。遂に、一人の誤り、跌く者無し。殆ど天なり。所謂、道して径せず。岩墻の下に立たざる者をして、余〔私(林羅山)〕、自ら悔い、自ら警む。児子、唯諾して曰く、「あえて忘れじ」。且つ、このことを記せんと請う。
〔子どもが〕余〔私(林羅山)〕に告げて曰く、「諸れ、或る人に聞けり。流俗猥雑の図書を読むに、云えることあり。『昔、叡山〔比叡山〕に一童あり。僧徒その美を愛し、酒を勧め、歓を交ゆ。時時、人を齩み、血を舐り、酒に和して、これを飲む。一旦〔ある朝〕、魅〔妖怪〕と為り、この洞〔八瀬の鬼ヶ洞〕に入る。遂に、行きて大江山に栖む。天陰り、月昏く、風迅く、雨甚だしきに至る毎に、すなわち出でて、人民婦女を攫む。尋ぬれども、その之く所を見ず。また、金熊、石熊の二童あり。これが徒属為る者、数十鬼、往往に〔しばしば〕物を害す。人、皆患うの事、以聞す〔多くの人々が悩み苦しんでいることを、天皇に申し上げる〕。源の頼光、勅を奉け、綱〔渡辺綱〕、保昌〔藤原保昌〕等、七人を率い、陽りて、峰に入る行者 (俗に山伏と号す) の為し、山に入り、渓を渉る。婦の血汚るる衣を浣うを見る。婦、曰く、「これ人の到る所に非ざるなり。遄に去るべし」。頼光これを問う。その郷居、姓字、信あり。相共に語る。遂に、婦と約して、鬼窟に到る。鬼〔酒呑童子〕、童形を現し、出でて頼光等に見ゆ。誘きて、毒酒を強い使む。童〔酒呑童子〕、酔いて、窟裏に臥す。諸鬼、尽く酔う。婦、導きて、石扉を開きて、直に入る。一太鬼の、石床に寝るを見る。貌、甚だ畏るべしなり。頼光、剣を抜き、大呼して曰く、「普天率土、悉く皆王民。何ぞ鬼魅の居る所ならんや。吒〔大声でしかりつける〕。爾じ鬼、この剣は、これ八幡大神の霊剣なり」。鬼〔酒呑童子〕、駭き起きて、将に頼光を搏たんとす。頼光、径ちに前みて、鬼を刺す。鬼、猶お、その頂を掴む。綱〔渡辺綱〕、復た進みて、鬼を斬る。并せて、金熊、石熊の諸属を戮し、鬼首を一車に載す。頼光、還りて、奏す〔天皇に報告申し上げた〕。天子、大いに喜び、勅して、鬼首を石函に納め、山中に埋む』。諸れ有りや〔このようなことがあるのでしょうか?〕」。
余〔私(林羅山)〕曰く、「然り。民俗の伝うるところ、独り我邦已にあらず。武王、商〔殷王朝〕に克つ時〔勝利したとき〕、妲巳〔妲己〕、化して、九尾狐となり、飛んで天に上らんと欲す。太公〔太公望呂尚〕、符を以て呪すれば、すなわち、狐の墜るが若きは、すなわち、史伝の載するところにあらずして、婦人児女子の野語なり。何として、丈夫の歯牙に上すに足らんや〔一人前の男子が話題にするようなことではない〕。或は〔ある人は〕、万物変化、測りがたき者、或は〔ある人は〕、深山大沢、自ら厲鬼ある者、これあるが若し。また或は〔ある人は〕、事を妖術に借り、以て劫盗を為する者の、またこれあり。他日、読書格物、宜く自ら知るべし」。
ここに於いて、〔子どもが〕また問いて曰く、「羅城門、生田の森、鈴鹿山、足立が原、戸隠山、皆云う、『昔、鬼あり』と。これまた然るか〔これもまた同様のことでしょうか?〕。類に触れて、これを長ずるか」。
余〔私(林羅山)〕曰く、「然り。ここに説あり。酒顚童子〔酒呑童子〕より大なる者あり。酒顚〔酒呑童子〕は害を為したること小にして、桀紂〔古代中国の夏王朝の桀王と、殷王朝の紂王。暴君の代名詞〕は大なり」。
〔子どもが〕曰く、「何ぞや」〔なぜですか?〕。
〔林羅山が答えて言う、〕「昔、紂〔紂王〕、渉を斮き、心を割き、胎を刳り、炮烙し、玉杯に呑啖し、瓊宮に盤栖し、酒池に沈湎し、脯林に餐饕し、穢腥、天に聞う。所謂、主萃淵藪。豈に、翅、一鬼小洞の比い已みならんや。下流に居れば、天下の悪、皆帰す。豈に、翅、大江山、涓涓の細流の類いならんや〔大江山の酒呑童子の悪事などは、大したことはない〕。」
列に在る者、聞きてこれを笑う。児子、またこれを笑う。曰く、「頼光、此れ一時なり。武王、彼れ一時なり。小を以て大に喩うといえども、害を除くは一なり〔頼光此一時 武王彼一時 雖以小喩大 而除害一也〕。遂に、一絶句を作る〔五言絶句がひとつできた〕」と云う。
酒池顚飲肉林の中、殷紂〔殷王朝の紂王〕、元来これ狡童。鬼と為り、人と為りて、倶に害を作す。窟宅と瓊宮とを論ぜず。
(林羅山「酒顚童子の洞に題す」, 『林羅山詩集』巻第35) [13]
『羅山文集』についての補足説明
(以下は、『羅山文集』についての補足説明です。)
上記で引用している記述が記載されている、『林羅山詩集 上巻』の本は、1979年に、『林羅山文集』上下巻と、『林羅山詩集』上下巻の、合計4冊として出版されたもののうちの一冊です。これらの文集と詩集は、もともと、江戸時代前期の1662年(寛文2年)に、林羅山の文集75巻と、詩集75巻、目録、附録などをあわせて、合計60冊として出版されたものです(『林羅山文集 上巻』, 巻頭の「林羅山文集例言」)。その1662年(江戸時代前期)に出版された文献が、いくつかの古文献のなかで、八瀬の鬼ヶ洞についての記述の引用元として紹介されている、『羅山文集』なのだろうとおもいます。ですが、それらの古文献では、『羅山文集』が引用元であるとされているものの、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のなかには、八瀬の鬼ヶ洞についての記述は無いようでした。(念のために、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のすべてのページに、ざっと目を通してみたのですが、八瀬の鬼ヶ洞についての記述は無いようでした)。ですので、おそらくは、古文献のなかで、八瀬の鬼ヶ洞についての記述の引用元として紹介されている、『羅山文集』というのは、厳密に言えば、「(1662年(江戸時代前期)に出版された)『羅山文集』(文集と詩集の両方を含む)のなかの、詩集(『林羅山詩集』)の部分(のなかの巻第35)」のことを指しているのだろうとおもいます。
(とは言え、ぼくが見落としている部分もあるかとおもいます。ですので、もし、1979年出版の『林羅山文集』上下巻のなかに、八瀬の鬼ヶ洞についての記述がある部分をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただければ幸いです。)
『本朝通鑑』
『本朝通鑑』は、江戸時代前期の1670年(寛文10年)に成立した歴史書です。編者の林鵞峯は、林羅山の息子であり、儒学者です。父の林羅山は、3代将軍徳川家光の命令により、『本朝編年録』という歴史書をつくりました。ですが、その歴史書は、明暦の大火で焼失してしまい、林羅山自身もその数日後に亡くなってしまいます。その後、4代将軍徳川家綱の命令により、息子の林鵞峯が、『本朝編年録』に新たな内容を追加することで完成した増補改訂版が、『本朝通鑑』です。(『朝日日本歴史人物事典』, pp. 1340-1341, pp. 1346-1347)
『本朝通鑑』の巻第24の「後一条天皇 2」の「治安元年」(1021年、平安時代中期)の条文の末尾のところに、その年に亡くなった源頼光の生前の業績を紹介する文章が記載されています。その源頼光の生前の業績のひとつとして、酒顚童子(酒呑童子)を退治した話が記載されていて、その話のなかに、八瀬の鬼ヶ洞(洞、巌窟、鬼窟)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『本朝通鑑 第六』, pp. 1575-1576 ; 『本朝通鑑 : 標記 巻第29』, pp. 19丁表-19丁裏)。下記の文章の内容は、前述の『林羅山詩集』(『羅山文集』)の内容とほぼおなじです。ただ、酒顚童子についての話の末尾にある一文は、『林羅山詩集』(『羅山文集』)にはない内容です。
世に伝う。昔し叡山に一童あり。僧徒その美なるを愛し、酒を勧めて交歓す。時々人を齩み血を舐り、酒に和してこれを飲む。一旦〔ある朝〕魅〔妖怪〕と為り、酒顚童子と号す。山を出でて西の麓の八瀬の村に到り、洞を造りてこれに住す。既にして丹波国大江山に入り、巌窟を営みて、これに居す。毎に天陰り月昏く風迅く雨甚だしきに至れば、則ち出でて人民の婦女を攫む。尋ぬれどもその之く所を見ず。又金熊石熊の二童あり。且つこれが徒属為る者数十鬼、往々物を害す。人皆これを患うの事以聞す。頼光に勅してこれを討たしむ。藤の保昌をもって副と為す。頼光、渡辺綱等を率い、陽りて峰に入る行者の為して、山に入り渓を渉る。婦の血汚るる衣を浣ぐを見る。婦、頼光等に謂いて曰く、「此れ人の到る所に非ざるなり。遄に去るべし」と。頼光これを問うに、その郷居、姓字、信あり。相共に語り、遂に婦と約して、鬼が窟に到る。鬼、童形を現し出でて頼光等に見ゆ。誘きて毒酒を強い使む。童酔いて窟裡に臥す。諸鬼、尽く酔う。婦、導きて石扉を開きて、直に入る。一大鬼の石床に寝るを見る。貌甚だ畏るべしなり。頼光剣を抜きて大呼して曰く、「普天率土、悉く皆王民。何ぞ鬼魅の居る所ならんや。叱〔大声でしかりつける〕。爾じ鬼、此の剣は是れ八幡大神の霊剣なり」と。鬼、駭き起きて、将に頼光を搏たんとす。頼光径ちに前みて、鬼を刺す。鬼、猶お、その頂を掴む。綱、復た進みて鬼を斬る。并に金熊石熊の諸属を戮し、鬼首を一車に載せ、洛に還る。勅して鬼首を石函に納め、山中に埋む。
大江山、八瀬、共に鬼窟の跡あり。或いは曰う、酒顚鬼、近江国伊吹山窟に居す。頼光往きてこれを誅すと云う。
『雍州府志』
『雍州府志』は、江戸時代前期の1686年(貞享3年)に出版された、山城国についての地誌です。著者の黒川道祐は、医者、儒学者です。彼は、林羅山やその息子である林鵞峯から儒学を学んでいます(『日本随筆大成 第1期 10』, pp. 1-2 (解題) )。そのため、下記の八瀬の鬼ヶ洞についての記述のなかには、林羅山・林鵞峯の著書からの影響が見られます。
『雍州府志』の巻1の「山川門」の「愛宕郡」のところに、「八瀬の里」と、「鬼が洞」(鬼ヶ洞)についての項目があります。それらの項目の記述は、下記のようなものです(立川, 1997, pp. 34-35; 『京都叢書 第3 増補』, pp. 15-16(雍州府志))。
八瀬の里
洛を去ること、東北三里ばかり、叡山〔比叡山〕の麓にあり。この辺、すべて小野の庄内なり。一説に、天武天皇、大友の皇子に襲われ給う時、この里に逃れ給う。流矢、天皇の背後に中る。故に、矢背と号すという。土俗、男子、また椎髻。伝えいう、山鬼、かつて八瀬河の西山中、鬼が洞〔鬼ヶ洞〕に栖む。一村の男女、ことごとく山鬼の裔〔末裔〕なりと。故に、男子もまた、髪を頭上一処に束ぬ。今に到りて、毎年7月7日より同月15日に至るまで、村中の児女、この洞に聚まりて、鉦を鳴らし、大いに弥陀仏〔阿弥陀仏〕の号を唱う。これを、先祖を祭るという。予〔私(黒川道祐)〕思うに、この処、叡山〔比叡山〕の麓にあり。伝教大師より以後、牛車を聴さるるの僧、この土人をして車〔牛車〕を蔵し、牛を飼わしむ。その僧、車〔牛車〕に乗じ洛に入るの日、すなはち土人をして牛童たらしむ。倭俗、牛童、長髪を頂の上に束ね、その末を背後に垂る。今の長髪は、すなわちその遺風なり。何ぞ鬼神の裔〔末裔〕たることあらんや。一村百戸余。俗朴、身に木綿衣を着け、また裘・革袴を著る。山に登ること、猿犹の如し。田を耕すに牛馬をもってす。農暇、各々斧鎌を腰にし、山に登りて木を伐り、尺ばかりにこれを束ね、窖に入れてこれを蒸し、湿気を去るときは、青色たちまち黒に変ず。これを黒木という。日々、京師に売る。大原の土俗もまた然り。
鬼が洞(鬼ヶ洞)
八瀬河の西山中にあり。洞口狭く、中闊し。高きこと二丈強、深きこと三丈有奇〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕。古え、鬼神、この洞に棲む。故に、俗に号して、鬼が洞〔鬼ヶ洞〕という。酒顚童子〔酒呑童子〕もまた、この洞より丹波大江山に移るという。
「北肉魚山行記」, 『近畿歴覧記』
「北肉魚山行記」は、江戸時代前期の1682年(天和2年)ごろに、黒川道祐が書いた、大原や八瀬などの洛北地域(京都市北部地域)についての記録です。この「北肉魚山行記」は、『近畿歴覧記』という文献に収録されている章のひとつです。『近畿歴覧記』は、黒川道祐が、山城国の地誌である『雍州府志』を編集するにあたっての前準備として、近畿地方の名所旧跡をめぐって、それらの情報を記録したものです。
「北肉魚山行記」のなかの「矢瀬の里」(八瀬の里)についてのところに、「鬼カ洞」(鬼ヶ洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです。(引用文中の「■」は、欠損部分です。)(『京都叢書 第3 増補』, pp. 126-127)
〔前略〕これより、舞楽寺、赤山明神〔赤山禅院〕の前を過ぎ、高野村宝幢寺に入る。小野毛人の金牌を見、蓮華寺の西に見る山蔭の社〔山蔭神社〕の前を過ぎ、高野川を渡り、八瀬の道に出でて、行くこと一里許にして、矢瀬〔八瀬〕の里に入る。天武帝、昔日、大友の皇子に襲われ給うとき、この道より近江に御出あり。このところにおいて、追い奉る武士、矢を放ち供奉の人に中りし故に、それより八瀬を矢背とも書けりとなん。この道より若狭・小浜へ二十八里あり。また、朽木・大溝へ出ず。また、葛川よりは、大木へ越となん。龍華越へも、これより出ず。八瀬は土民専ら黒木を商う。これをふすぶる竈の下に塩薦を敷き、これに入るときは湿気を払えるとて、京都より男女保養に来り入る。この所のもの、各々髪を長くし丸く結い、かりそめに見ときは、男女の差別、見分け難し。天武帝、暫くこのところに御座せり。民人ども、官家の体を学し余風なりという。一説に、この一村は鬼の子孫なり。古は髪をも結わず、首に被てありしを、中世よりこれを結う。故に、今、毎年7月7日より15日まで、この奥、鬼ヶ洞とて、鬼の住し所あり。それは村中児女、毎日行き、鉦をならし念仏を修す。これ、先祖鬼の弔と言う。されども、この義にあらず。伝教繁昌の時、牛車聴さる。この時、この村に駕車牛を飼しめ、舎人を置く。この車副舎人の末裔故に首あり体■。
(黒川道祐「北肉魚山行記」, 『近畿歴覧記』) [20]
『都名所図会』
『都名所図会』は、江戸時代中期の1780年(安永9年)に発行された、挿絵入りの京都の名所案内書です。編者は秋里籬島で、挿絵を描いたのは竹原春朝斎です。
『都名所図会』の巻3(左青龍)の「矢背の里」(八瀬の里)のところに、鬼ヶ洞(鬼が洞、酒顛童子の洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第11 増補』, pp. 171-175; 岩松, 2003, p. 117)。
八瀬の里人はいにしえの風俗ありて、男も女のごとく髪をぐるぐると髷、女も男の様に脛高くからげ、脚半は向うのかたにて合せ、草鞋の爪先の紐異なるは、故ある事にや。
氏神天満宮〔八瀬天満宮〕の鳥井のまえに弁慶の背競石とて高さ八尺ばかり〔約2.4メートル〕の石有。〔弁慶がその石を〕叡山西塔〔比叡山延暦寺の西塔地区〕より、ここに提来る〔ひっさげて来た〕といい伝え侍る。
鬼が洞というは此里の西の方に有。昔、叡山の悪児、鬼同丸〔鬼童丸〕という者住しとなり。『羅山文集』〔林羅山の文集〕には「酒顛童子の洞と称じける」となん書り。
(『都名所図会』) [22]
『京師巡覧集』
『京師巡覧集』は、江戸時代前期の1679年(延宝7年)に刊行された詩集です。著者である、丈愚という名前の僧侶が、京(京都)を見物したときに書き記したものです。京の周辺の名所旧跡の、それぞれの由来や、その場所について詠んだ詩が記載されています。
『京師巡覧集』の巻之15に、八瀬の鬼ヶ城(鬼ヶ洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第4 増補』, p. 300)。
鬼ヶ城
烈々たる岩屋の中に聳たる石あり。これを鬼が石と名づく。この構えを鬼个城〔鬼ヶ城〕と名づく。
囹圄、娑婆にあり。草、芒楚を作りて振う。岩は衆合の勢を余す。風は烈し焔羅の瞋り。崔氏金椀を送る。藻妻白銀を得たり。能く地下に通すべし。沸た出て、亡親を憶う。
(『京師巡覧集』) [24]
『山城名勝志』
『山城名勝志』は、江戸時代前期の1705年(宝永2年)に発行された、山城国(現在の京都府南部の地域)の名所旧跡についての文献です。編者は、大島武好(源武好)(通称:求馬)です。
『山城名勝志』の巻第15(愛宕郡5)の末尾にある「附録」のなかに、八瀬の鬼ヶ洞(鬼洞、酒顚童子洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『新修京都叢書 第14巻 2版』, p. 283; 『史籍集覧 22 改定』, p. 837)。
また、下記の文章には、「八瀬童子が地獄の鬼の子孫である」というような意味の記述があるという、『蹇驢嘶余』という文献からの引用文も含まれています。(『蹇驢嘶余』の成立年代は、「早くは室町時代と思われる」とされています(池田, 1963, p. 15)。)
鬼洞〔鬼ヶ洞〕 八瀬村西山腹にあり
『羅山文集』〔林羅山の文集〕に云う。洞〔鬼ヶ洞〕は八瀬河〔八瀬川〕の西の山中にあり。俗に号して鬼洞〔鬼ヶ洞〕と曰う、口狭く中閎く、高さ二丈強、深さ三丈有奇〔高さは約6メートル、深さは約9メートル〕、世に酒顚童子洞と称す、云云。
『蹇驢嘶余』に云う。 (門跡御輿舁事) 八瀬童子なり、閻魔王宮より皈る〔帰る〕の時、輿舁たる鬼の子孫なり。
鬼洞〔鬼ヶ洞〕はこの縁によって名付けたる歟。毎年7月15日、この村民等この洞の前に来て念仏すと云云。また酒呑童子と云うこと、謂れ無し。
『著聞集』〔『古今著聞集』〕に、鬼同丸〔鬼童丸〕と云う者あり、源頼光朝臣、鞍馬詣での時、市原野においてこれを誅す、云云。ある書に云う、市原野の乾に当って一つの岩窟あり。鬼同丸〔鬼童丸〕と云う狡童住めり。その先、比叡山の児なり。山を追い出され、かの窟を構えて、隠れ住みけると云えり。
『出来斎京土産』
『出来斎京土産』は、江戸時代前期の1677年(延宝5年)に発行された文献です。京(京都)の周辺の名所旧跡の、それぞれについての情報と、その場所について詠んだ狂歌が記載されています。著者は不詳です。
『出来斎京土産』の巻之5のところに、八瀬の鬼城(鬼ヶ洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第4 増補』, pp. 94-95)。
鬼城
八瀬の里より西北の方に鬼が城とて、もの恐ろしき岩窟あり。その内に鬼石とて、角菱荒けなき石あり。むかし、酒典童子〔酒呑童子〕ひえの山〔比叡山〕より追出だされて、この岩窟に隠り、この石の上に起き伏しけりと言う。後に丹波国大江山にして、源の頼光に殺されしとかや。藤原千方は、四の鬼を召し使い、坂上田村丸は、勢州〔伊勢国〕鈴鹿山の鬼を殺し、渡辺源五綱は、東寺の羅生門の鬼を討ち、和州〔大和国〕宇多の森の鬼を斬り、余五将軍平維茂は、信州〔信濃国〕戸隠山の鬼を打たりと言えり。そのほか、異国、本朝に、鬼のことども、その例少なからず。今は時世治まりて、仏法繁昌する故にや、いずくに鬼ありとも聞こえず。されども、天狗、火車の所為は今もありと言う。むかし、大和の元興寺の宝蔵に盗人の隠れ住みけるを、「鬼あり」と言い流行らかし、子どもを脅して元興寺〔がごじ、元興寺の鬼、妖怪〕と言えば泣きさしけりと言う。中頃、盗人の大将と聞こえし石川五右衛門とかや言う者、大和・河内の境、立田の峠に隠れ、面に粧鬼瞼をあて、鬼の出立して人を追い倒し、はぎ取りしと聞き伝う。盗人の科無き人を殺し、物を奪うは鬼ならずや。六条の御息所、金輪の女房は、生きながら鬼になりたり。もの妬み猛く、執心深く、吝姫強く怨み瞋る女は、角は生えずとも鬼ならずや。兼盛〔平兼盛〕が安達ヶ原の歌は、女を鬼と詠めり。
その跡の名を聞だにもおそろしや
只一口の鬼が城とは
(『出来斎京土産』) [27]
『山州名跡誌』
『山州名跡誌』は、江戸時代中期の1711年(正徳元年)に出版された、山城国(現在の京都府南部の地域)の名所旧跡についての地誌です。著者は、国学者の白慧(坂内直頼(ばんないなおより)、山雲子)です [28] [29]。
『山州名跡誌』の巻之五(愛宕郡)のなかの、「矢背」(八瀬)の項目のなかに、「鬼洞」についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『山州名跡誌 (大日本地誌大系 第2冊)』, p. 115)。
矢背 或は八瀬に作る
民家件石北一町許にあり。但、八瀬領堺は、此れ自り十八町前、甲淵の南、石橋を限るなり。
矢背と書く事は、昔、大友皇子、天武天皇と軍し玉えり。天武の軍、敗れて落玉うとき、流矢来て天武の背に中る。是、其地なる故に矢背と号す 云云
〔中略〕
鬼洞 右鳥居の西山に在り。此の所、北南に谷あり。其の南の谷下より上ること四町許にあり。伝云う、「昔、鬼神住し」と。
(白慧(坂内直頼)「鬼洞」, 「矢背」, 『山州名跡誌』巻之五) [31]
『菟藝泥赴』
『菟藝泥赴』は、江戸時代前期の1684年(貞享元年)に書かれた、山城国(現在の京都府南部の地域)の周辺の名所旧跡についての文献です。著者は、俳人、歌人、古典学者である北村季吟です。現存するものは写本であり、原本は現存していないようです(『京都叢書 第5 増補』, p. 2 (解題) )。
『菟藝泥赴』の第5の「矢瀬」のところに、鬼洞(鬼ヶ洞)についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都叢書 第5 増補』, pp. 278-279)。
矢瀬
天野の奥、八瀬の河、天智帝、隠れさせ給いて後、御子大友の皇子の東宮、天武帝を襲い奉らんとす。天武帝、吉野を出でさせ給いて、山城の国を過ぎ給うに、流矢来たりて、天武の背に中れり。其所を矢瀬と云うよし、『日本紀』〔『日本書紀』〕にあり。
『六帖』〔『古今和歌六帖』〕
春雨のふりはへ行て人よりはわれ先つまむ八瀬河のせり『拾玉集』
冬の来てはむに物なき牛の子のやせゆくさとの頃の淋しさ一、矢瀬〔八瀬〕に鬼洞〔鬼ヶ洞〕とて、洞口三間ばかり〔約6メートル〕。奥の深さ知る人無し。いにしえ、この洞に鬼住めり。日枝〔比叡山延暦寺〕の西方院の何がし阿闍梨〔院源のことか?〕に仕えたり。八瀬の里人はその鬼の子孫とて、日枝〔比叡山延暦寺〕の法会に詣でて、飯を鬼喰いとて食うことあり。頭、唐輪に綰げて〔頭髪を唐輪の髪形の髷にして〕、鬼童と言えり。
(北村季吟『菟藝泥赴』) [32]
『京都府愛宕郡村志』
『京都府愛宕郡村志』は、1911年(明治44年)に、京都府愛宕郡役所によって編集された地誌です。かつて、愛宕郡に属していた村々についての情報が記載されています。
『京都府愛宕郡村志』の「八瀬村」のところに、鬼ヶ洞についての記述があります。その記述は、下記のようなものです(『京都府愛宕郡村志』, p. 346)。
鬼ヶ洞
本村西山字岩山の半腹〔中腹〕に在り。登路〔登り道〕、五町余〔約545メートル〕。険なり。洞は南に向い、高さ二丈、深さ三丈余〔高さ約6メートル、深さ約9メートル〕。入口、広さ八尺〔約2.4メートル〕。口〔入り口〕隘く、内広し。殆ど四帖敷許なり〔畳約四畳ほどの広さがある〕。天然の岩窟なり。口碑に、「八瀬童子の旧跡なり」と云う。今に至り、毎年7月15日、洞の前にて念仏供養をなすとぞ。
(『京都府愛宕郡村志』) [33]
『八瀬記』
『八瀬記』は、江戸時代中期の1716年(正徳6年)に成立した文献です。内容は、八瀬村についての史料集です。『八瀬記』に収録されている史料は、南北朝時代の1336年(建武3年)~江戸時代前期の1710年(宝永7年)までの史料です。(『八瀬童子会文書』, p. 11)
『八瀬記』のなかに記されている、鬼ヶ洞についての記述は、下記のようなものです(『八瀬童子会文書』, pp. 72-73)。下記の記述のなかには、「八瀬童子の祖先である鬼を酒顛童子(酒呑童子)だとする言説があるが、それは間違いである」というような意味の記述があります。
鬼洞〔鬼ヶ洞〕 八瀬村の西の山腹に在り
『羅山文集』に云う。洞、八瀬川の西の山中に在り。俗に号して、鬼洞〔鬼ヶ洞〕と曰う。口狭く、中広し。高さ二丈強〔約6メートル〕、深さ三丈〔約9メートル〕有し、奇世に、酒顛童子洞と称す、云々。
『蹇驢嘶余』に云う、 (門跡御輿舁事) 八瀬童子なり。
閻魔王宮より皈る〔帰る〕時、輿舁たる鬼の子孫なり。鬼洞〔鬼ヶ洞〕の事、この如く相見え候えども、当村、申し伝え候うは、先祖鬼の子孫ゆえ、今に至り、毎年7月15日、鬼洞〔鬼ヶ洞〕の前にて念仏供養申し候う段、代々申し伝え候う。酒顛童子と申すこと、大いなる誤りに候う。後代のため、書きしるし置くものなり。
(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) [34]
ちなみに、『八瀬記』に記されている鬼ヶ洞についての記述のなかには、元の文章から写し間違ったとおもわれる箇所があります。このことについては、『八瀬記』を収載している『八瀬童子会文書』の冒頭の「解説」のところに、つぎのような注意書きがあります。「『八瀬記』の記載内容について注意すべきは、原文章の写しまちがい等が散見されることにあるが、翻刻にあたっては原本どおりとした」(『八瀬童子会文書』, p. 11)。
鬼石について
鬼ヶ洞の地図が収載されている文献
鬼ヶ洞の場所の地図が収載されている文献はあまりないようです。ですが、下記の文献には、鬼ヶ洞の場所の地図が収載されていました。
- 谷北兼三郎 (1925年) 『八瀬大原の栞』の、巻末の折り込み地図。
- 梅原猛 (2001年) 『京都発見 3 (洛北の夢)』の、巻頭の地図。
- 京都新聞社 [編] (1980年) 『京の北山 : 史跡探訪』の、43ページの地図。
- 駒敏郎 [著者] 中川正文 [著者] (1976年) 『京都の伝説 (日本の伝説 ; 1)』の、75ページの地図と、付属の「京都伝説地図」。
ただ、これらの文献に収載されている地図で示されている鬼ヶ洞の場所は、どれもおおまかな場所を示すにとどまっています。ですので、鬼ヶ洞の正確な場所や、そこへ至る経路などは、これらの文献の地図からはわかりません。ちなみに、『八瀬大原の栞』の巻末の地図は、八瀬の御所谷や聖社などの名所旧跡以外にも、大原地域の名所旧跡も記載されているので、興味深いです。
ちなみに、江戸時代に比叡山延暦寺側の人たちがつくったとおもわれる、『山門三塔坂本惣絵図』と、『山門結界裁許絵図』の古地図には、八瀬の里が描かれています。ですが、なぜか鬼ヶ洞については、どちらの古地図にも描かれていませんでした。(『八瀬童子 : 天皇と里人 : 重要文化財指定記念』, p. 57, p. 71, p. 83; 武, 2008, 口絵(『山門三塔坂本惣絵図』))
※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)
鬼ヶ洞のマンガン鉱石
ちなみに、鬼伝説と鉱山とのあいだに深いかかわりがあることは、よく言われることですが、八瀬の鬼ヶ洞やその周辺にも、鉱山としての性格があった、というような話があるようです。若尾五雄さんの『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』には、鬼ヶ洞の周辺でマンガン鉱石が採掘されていたという、次のような話が記されています(若尾, 1981, pp. 200-201)。
下記の話については、はっきりとしたことはわかりませんが、興味深い話だとおもいます。
〔前略〕高野川の右岸にある山には、いわゆる鬼ヶ洞という岩屋があり、その中に鬼石という石があり、比叡山を追われた酒呑童子のいたとされるもので、その昔は八瀬の人々が七月十五日まで一週間念仏供養をここで行ったと言われている所である。
この八瀬を訪ねて、秋元の玉川という老人に話を聞いた。鬼ヶ洞は今はくずれて近寄りがたいが、硫黄という地名で、この鬼ヶ洞の裏手は、マンガン鉄が出て、戦時中に掘ったことがある。さらに、この山の下方には銅を含んだ山もあると話てくれた。だが、京都市北方の鉱脈は高野川の西方で東の地区には全くなく昔からも採掘、採鉱等跡もありません。又南は大原の南までで八瀬まで続いておりません。北東は滋賀へ、西は京北町へ延びて居ます。上記の通りです。参考になりますか、御推察の如く大古からの名刹の境内等には或はとも考えられますが、古から探鉱など簡単に出来ない場所故想像も出来ない状態です。
京都市左京区高野泉町 吉田吉太郎と、鉱山師からは返信を帰岸してから得ている。この通信の高野川西方とあるのは高野川の右岸鬼の洞がある方で、東方は比叡山側である。だから鬼ヶ洞の山にマンガン鉄が出ても当然だが、この文では大原という八瀬の北隣の地城から南にあたる八瀬には鉱脈がないとあるが、前記の玉川氏は七〇を越した古老であって、マンガン鉄を掘った戦時中のことは生きた目で見ていることは確実だから、大原から南方に鉱脈がないというのは誤りである。
(若尾五雄『鬼伝説の研究 : 金工史の視点から』) [35]
参考: そのほか
鬼腰掛岩(西塔北尾谷地区, 比叡山延暦寺)
かつて、比叡山延暦寺の天台座主であった院源という仏教僧侶が、閻魔大王からの依頼をうけて地獄を訪れたことがあり、院源が帰る際に、彼を比叡山延暦寺へと送り届けるために、閻魔大王が二人の鬼を遣わした、という伝説があります。その二人の鬼は、比叡山の西側のふもとにある、洛北(京都市北部)の八瀬の里に住む、八瀬童子の人びとの先祖の鬼だとされています。
その二人の鬼が腰掛けて休息をとった、という伝説がある鬼腰掛岩という岩が、比叡山延暦寺の西塔北尾谷地区にあったとされています。ぼくがその岩を探すための実地調査をおこなったときに、その鬼腰掛岩だとおもわれる岩を見つけたので、ここで紹介させていただきたいとおもいます。
鬼腰掛岩は、文献によっては、別の名称で呼ばれていることもあります。たとえば、鬼の腰掛け岩、鬼の腰掛岩、鬼の腰掛石、鬼掛石、などの表記で書き記されている場合もあります。
この下の写真は、鬼腰掛岩(推定)の写真です。
鬼腰掛岩を探すために参考にしたのは、江戸時代中期に制作された、比叡山延暦寺の古地図である『山門三塔坂本惣絵図』と、武覚超さんの『比叡山諸堂史の研究』に収載されている「堂舎僧坊分布図」と「比叡山の古道および諸堂分布図」の地図です。そこから、鬼腰掛岩のおおよその位置を推測して、その場所へ行き、その周辺を探索してみたところ、鬼腰掛岩だとおもわれる岩を見つけました。
※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)
鬼腰掛岩(推定)がある場所のおおよその緯度経度は、 35.074995, 135.829416 です。
鬼腰掛岩への道のり(ルート) : 地図と動画
鬼腰掛岩までの道のり(ルート)と、そこから八瀬の里への道のりを、下記のような地図にしてみました。
この上の地図の道のり(ルート)をたどっていく様子や、鬼腰掛岩とおもわれる岩などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。
また、この下の動画では、鬼腰掛岩から、八瀬天満宮への道のりも紹介しています。
動画 : 鬼腰掛岩への道のり(ルート)と、そこから八瀬天満宮への道のりの映像
鬼腰掛岩であると判断した根拠
この岩が、鬼腰掛岩であると判断した根拠は、つぎのとおりです。
- 古文献のなかでは、鬼腰掛岩があるとされている場所は、西塔北尾谷地区だとされています。鬼腰掛岩とおもわれる岩のある場所は、その西塔北尾谷地区の堂舎僧坊の跡地です。このように、場所が一致するので、この岩が鬼腰掛岩である可能性があるとおもいます。
- 比叡山延暦寺の古地図である『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪に描かれている鬼腰掛岩は、岩の上部の形状がひらべったい扁平な形状をしています。現地にある鬼腰掛岩とおもわれる岩の形状も、上部がひらべったい扁平な形状にちかい形状をしています。また、ぼくが調査したかぎりでは、この場所の周辺には、この岩のほかに、上部がひらべったい扁平な形状をした岩は無いようでした。このように、岩の形状が一致するので、この岩が鬼腰掛岩である可能性があるとおもいます。
- この岩は、西塔北尾谷地区にあります。また、この岩がある場所は削平地であり、さらに、この岩の周辺には複数の削平地があります。それらの削平地は、おそらく、かつて西塔北尾谷地区にあった、堂舎僧坊跡の削平地だろうとおもいます。『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪に描かれている鬼腰掛岩は、西芳院(西方院のことか?)や、月輪坊という名称の堂舎僧坊の旧跡(舊跡)のちかくに位置しています。この鬼腰掛岩だとおもわれる岩がある削平地は、おそらく、かつて、西芳院(西方院のことか?)や、月輪坊などの堂舎僧坊が立っていた削平地なのではないかとおもいます。
『山門三塔坂本惣絵図』の古地図に描かれた鬼腰掛岩
この下の画像は、江戸時代中期に制作された、比叡山延暦寺の古地図である『山門三塔坂本惣絵図』の第2鋪のなかの、鬼腰掛岩が描かれている部分です。
『山門三塔坂本惣絵図』は、比叡山延暦寺の境内と坂本地区を描いた古地図です。成立年代は 1767年 [37] [38] (江戸時代中期 [39])。作者不詳。第1鋪と第2鋪の2つの地図で構成されます [40]。
第2鋪の地図には、比叡山延暦寺の東塔地区と西塔地区が描かれています。
※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)
この上の『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪の画像のなかに書かれている、「鬼腰掛岩」という文字の先頭の「鬼」の文字は、下記の画像のように、「角の無い鬼」の文字になっているようです。八瀬童子の祖先である鬼は、「角の無い鬼である」とされています。ですので、この「角の無い鬼」の文字は、八瀬童子の祖先である鬼(角の無い鬼)をあらわしているのかもしれません。
この下の画像は、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪の全体図です。比叡山延暦寺の東塔地区と西塔地区が描かれています。
※参考記事 : 比叡山延暦寺の古地図『山門三塔坂本惣絵図』(1767年, 江戸時代中期)
鬼腰掛岩についての記述がある古文献
ここからは、鬼腰掛岩についての記述がある古文献などを紹介させていただきます。
『山門名所旧跡記』
『山門名所旧跡記』は、江戸時代中期の1744年(延享元年)に撰述された、比叡山延暦寺の名所旧跡についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 120)。
『山門名所旧跡記』の第1巻の「西塔分」には、鬼腰掛岩についての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, p. 228)。
鬼腰掛岩 同前〔西塔北尾谷にあり〕
〔比叡山延暦寺の西塔北尾谷の〕西方院の院源座主、寛仁年中〔平安時代中期の寛仁時代に〕、陰府〔地獄〕の請いに赴きし時、閻魔、二鬼を遣わしてこれを送る。その時の二鬼、この岩に踞す〔腰掛ける〕。故に呼びて鬼の腰掛岩という。今、八瀬の村民、世に矢瀬童子〔八瀬童子〕と呼ぶは、この二鬼の裔〔末裔〕なり。
(「西塔分」, 『山門名所旧跡記』巻一) [41]
『西塔堂舎並各坊世譜』
『西塔堂舎並各坊世譜』は、江戸時代中期の1713年~1714年(正徳3年~正徳4年)に撰述された、比叡山延暦寺の西塔地区の堂舎についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 117)。
『西塔堂舎並各坊世譜』の「北尾」(西塔北尾谷地区)の「大智院」の項目ところには、鬼腰掛岩についての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, pp. 152-153)。
大智院
旧西方院と号す。寛永中〔江戸時代前期の寛永時代に〕、改めて松寿院と名づく。元禄7年〔江戸時代中期の1694年に〕、また今の名〔大智院〕に更む。座主〔天台座主〕院源僧正の嘗て住する所なり。相伝う、寛仁中〔平安時代中期の寛仁時代に〕、閻羅王〔閻魔大王〕、師〔院源〕を陰府〔地獄〕に請い、法華を講読せしむ〔法華経の講義をさせた〕。 (或いは、伝えて法華〔法華経〕十万部供養導師と為ると云う。) 師〔院源〕、因りて告げて曰く、「今、適具に脂獄の苦報を観る〔地獄におちた人があじわう苦しみを見た〕。我、人間〔現世〕に還るに、何を以てか証と為さん。以て諸人〔たくさんの人〕に説き知らしめん」。冥王〔閻魔大王〕、すなわち、〔院源の〕為に一宝印を授けて、且つ曰く、「若し、人、この印を持せば、その人、設い重き咎あれども、我、当に方便して、これを赦すべし」。その印文、版に彫りて伝えて、見るに在り。またその往くにも去て弥陀迎接の聖像〔阿弥陀如来が来迎する様子を描いた阿弥陀聖衆来迎図〕を奉る。 (慧心僧都〔恵心僧都源信が〕手写するところ、迅雲弥陀と名づく。) 以て冥界の衆生を福す。その像、初め本山〔比叡山延暦寺〕に在り。後、展転流伝して、今、〔比叡山の東側のふもとにある〕西教寺に在り。その縁詳らかなること、梶井盛胤親王〔梶井門跡の盛胤法親王が〕筆せる像の記に見る。已にして、師〔院源〕、将に言に還らんとす。王〔閻魔大王〕、鬼卒の二人を発つ〔地獄の鬼を二人派遣した〕。護送の二鬼、すなわち輿を舁きて〔かついで〕、頃剋にして〔しばらくして〕、坊に致し〔西方院まで院源を送り届けて〕、輿を階下に放ちて〔輿を階段の下に放置して〕、石に拠りて、相憩う〔岩によりかかって、二人で一緒に休息をとった〕。その石、院〔西方院〕の旧址〔旧跡〕に在り。伝えて、鬼の腰掛石と曰う。その二鬼、山下に留まりて、遂に孫子〔子孫〕を生む。すなわち、八瀬の奴童、皆その種〔子孫〕なり。この故に、奴童、当坊〔大智院(旧西方院)〕を以て、八瀬の本坊と称す。
(『西塔堂舎並各坊世譜』) [42]
『山門堂社由緒記』
『山門堂社由緖記』は、江戸時代中期の1767年(明和4年)に撰述された、比叡山延暦寺の堂社についての情報が記された文献です(武, 2008, p. 120)。
『山門堂社由緖記』の巻第一の「北尾」(西塔北尾谷地区)の「西方院」の項目ところには、鬼腰掛岩についての次のような記述があります(『天台宗全書 第24巻』, p. 272)。
『山門堂社由緖記』の「西方院」の項目のところに書かれている内容は、前述の『西塔堂舎並各坊世譜』の「大智院」の項目の記述内容から、後半部分の内容などの一部を省略した内容になっています。ですので、『山門堂社由緖記』の記述は、簡略版のようなものであるようです。
西方院 旧跡
此の院は、座主〔天台座主〕院源僧正、嘗て住する所なり。相伝えて曰く、寛仁中〔平安時代中期の寛仁時代に〕、閻羅王〔閻魔大王〕、師〔院源〕を陰府〔地獄〕に請い、法華を講読せしむ〔法華経の講義をさせた〕。師〔院源〕、因りて告げて曰く、「今、適具に脂獄の苦報を観る〔地獄におちた人があじわう苦しみを見た〕。我、人間〔現世〕に還るに、何を以てか証と為さん。以て諸人〔たくさんの人〕に説き知らしめん」。冥王〔閻魔大王〕、乃ち、〔院源の〕為に一宝印を授く。且つ曰く、「若し、人、是の印を持せば、其の人、重き咎有れども、我、当に方便して、之を赦すべし」。其の印文、版に彫りて伝えて、見るに在り。師〔院源〕、将に言いて還らんとす。王〔閻魔大王〕、鬼卒の二人を発つ〔地獄の鬼を二人派遣した〕。護送の二鬼、乃ち輿を舁きて〔輿をかついで〕、頃剋にして〔しばらくして〕、坊に致し〔西方院まで院源を送り届けて〕、輿を階下に放ちて〔輿を階段の下に放置して〕、石に拠りて、相憩う〔岩によりかかって、二人で一緒に休息をとった〕。其の石、今に在り。伝えて、鬼腰掛岩と云う。其の鬼、山下に留まりて、遂に子孫を生む。即ち、八瀬の奴童、皆其の種〔子孫〕なり。是の故に、奴童、当坊〔大智院旧西方院〕を以て、八瀬の本坊と称す。今の大智院、是れなり。
(『山門堂社由緒記』) [43]
参考: 八瀬童子の先祖の鬼と院源の伝説について
参考: 院源について
参考 : 西方院と大智院について
参考: 院源が往来した「地獄」の意味
参考: 八瀬と西塔を結ぶ北尾谷道について
参考: 天狗岩: 八瀬と延暦寺との境界論争(境相論)の的となった境界線上の地点のひとつ
(京都府京都市左京区八瀬秋元町)
比叡山の北尾谷道の途中の、八瀬の里にほどちかい、八町谷(八丁谷)という谷を流れる谷川の右岸(東側)に、天狗岩と呼ばれる巨石がそびえ立っています。
この大岩は、かつて江戸時代に、八瀬童子と呼ばれる八瀬の里の住人たちと、比叡山延暦寺とのあいだで、境界線の位置をめぐる境界論争(境相論)が起こったときに、八瀬の里と延暦寺の境内との境界線を構成する複数の地点のうちのひとつとして指定された場所です。
天狗岩は、その巨大さから、ひと目でわかるわかりやすい目印(ランドマーク)として、利用されたのでしょう。
天狗岩の姿が描かれている古地図としては、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪や、『山門結界裁許絵図』があります。
『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪のなかの、北西の端のほうに、天狗岩が描かれています。
この境界論争(境相論)の経緯は、下記の本でくわしく語られています。
・猪瀬直樹 (2002年) 「柩をかつぐ : 八瀬童子の六百年」, 『天皇の影法師』, 小学館
・犬丸治 (2012年) 「三段目 下々の下々たる牛飼舎人 : 「車引」と「賀の祝」」, 『「菅原伝授手習鑑」精読 : 歌舞伎と天皇(岩波現代文庫. 文芸 ; 199)』, 岩波書店, 121~128ページ
参考: 江戸幕府の命令文(『山門結界裁許絵図』の裏書き)
下記で引用している文章は、1708年(江戸時代前期)に、延暦寺(山門)側の働きかけによって、江戸幕府から下された命令の文章です。
(この文章は、八瀬の里と比叡山延暦寺との境界線をさだめるためにつくられた古地図『山門結界裁許絵図』の裏書きの文章です。)
下記の文章のなかに、八瀬の里と延暦寺との境界論争(境相論)の的となった境界線上の地点のひとつとして、天狗岩の名前が記されています。
山門結界の儀、往古は四至牓示の内に、女人牛馬、制禁の処、近来、西表八瀬村に属し、女人牛馬、浄界を往来せしめ、汚濁に及ぶについて、日光准后〔日光山輪王寺門跡公弁法親王〕、御願いにより、結界の地、これを改む。小比叡、波母山、阿弥陀峯、登天石、三尊石、五百羅漢石、等は、山門の要地たり。これによって山頂は、狼馬場より、元黒谷、松生際に至る。并びに、経塚、南尾墓、天狗岩は、山門の境内に、これを相加う。石杭牓示をもって、これを定む。絵図に注し、墨筋これを引く。その内へ、女人牛馬はもちろん、惣じて八瀬村の者、一切入るべからず。山下 、白筋は、古来、結界牓示の跡なり。これまた相改め、石杭をもって、これを定む。女人牛馬、出入の儀、堅くこれを停止せしむ。斧堂、地蔵谷は、牓示の内といえども、八瀬村に属し、惣じて墨引の外は、八瀬村の者、持分たるの条、柴薪、伐り採るの儀は、これを制せざるもの、墨筋おのおの印判を加え、境目相極むるなり。右、今度、相改め、絵図に注し、黒白の筋、これを引く。後証のため、山門、八瀬村、双方へこれを渡し畢んぬ。堅く相守るべきものなり。
参考: 鬼と天狗の類似性
参考: 八町谷(八丁谷)の石地蔵(通称: 首切り地蔵)
青龍寺からは、釈迦堂までのぼっても、八瀬にくだっても一キロほどであろうか。八丁谷にまでくると「八丁谷首切地蔵尊」というのがある。ほこらの中に一体の地蔵。信長の焼き打ちのとき、この谷で首をはねられた僧徒の供養にと八瀬の里人がもちあがったと聞いたが、定かではない。
(梶原学「浄土門に光明をはなつ念仏聖 : 北谷・黒谷」, 「霧にけむる杣道 : 西塔」, 『比叡山』) [46] [47]
⑮~⑱八町坂
八町坂は八瀬天満宮を登山口とし、丹住谷川の上流の八町谷の谷川通を経由する道であることから八町坂と称され、⑮西塔の南尾谷、⑯北尾谷、⑰北谷瑠璃堂、⑱北谷別所青龍寺へと接続する四本の登山道がある。
八瀬天満宮からの行程は、坂口から約一キロメートル東へ進むと丹住谷川の深い渓谷が左手下に見え、渓谷の向側には巨大な岩山がそびえている。この巨岩は天狗岩と呼ばれ、内閣文庫蔵『山門三塔坂本惣絵図」には高さ二〇間(三六メートル)、幅一〇間(一八メートル)と記されている。天狗岩から約二〇〇メートル登ると右手に石地蔵尊(通称首切地蔵)があり、そのすぐ手前あたりの谷川を渡ると急な斜面を東北東に登る坂道がある。これが⑱八町坂黒谷道で、石地蔵より約六〇〇メートル坂を登ると、走出からの黒谷道に合流して黒谷青龍寺に到達する。次に⑰八町坂北谷道は、石地蔵から左手の谷川を渡って東南東に渓流にそって登り、武蔵坊など西塔北谷の坊跡を経て、約一キロメートルで瑠璃堂に至る道である。しかし現在は崖崩れにより寸断されている。⑯八町坂北尾谷道は、先の石地蔵から谷川道をさらに三〇〇メートルばかり南へ行くと、風呂谷からの渓流が流れ込む地点に達する。そこから左手の尾根ぞいに南東方向へ急坂を約三〇〇メートル登り、北尾谷の墓地や坊跡を経由して釈迦堂に至る道である。⑮八町坂南尾谷道は、北尾谷への分岐点からさらに一キロメートルほど南へ谷川通をさかのぼり、松尾坂に合流して南尾谷坊跡を経て釈迦堂へ到達する道である。
以上のごとく八町坂は、京都の大原あるいは八瀬方面から西塔の各谷へ登る道であり、全部で四本確認できたが、明治以後に西塔各谷の山坊が廃絶してからは、これらの参道は使用されることはなく、いずれも道の状態はかなり悪いといわねばならない。
(武覚超「八町坂」, 「西塔への古道」, 『比叡山諸堂史の研究』) [48] [47]
高野川 たかのがわ
〔中略〕丹住谷 たんじゅうだに八丁谷 はっちょうだに
テント村ノ谷
風呂が谷 ふろがたに
北尾谷 きたおだに〈弁慶谷〉
西塔五谷の一。武蔵坊弁慶が住したといわれる弁慶屋敷にちなむ。
尸羅谷 しらがたに
四明ヶ岳の北面、八丁谷の源流部をいう。南尾谷の寺坊を通る松尾坂がこの谷を横切って、八瀬〈高野〉へと下る。尸羅とは竜神のことという。また尸羅は三聚浄戒のある谷、という意味で戒の梵語が尸羅ともいう。
(北村賢二『祷の嶺 : 北村賢二遺稿集』) [49] [47]
参考: 北尾谷上墓、北尾谷下墓
北尾谷上墓
北尾谷下墓
参考: そのほか
八瀬の鬼神「とんたい」(小たんたい)と御弓式
余談ですが、鬼ヶ洞や鬼腰掛岩以外にも、八瀬には鬼にまつわる伝承があります。それは、「とんたい」(または、「小たんたい」)という鬼神についての伝承です。その伝承の内容は、「昔、「とんたい」(「小たんたい」)という鬼神が、常に八瀬の人々を悩ませていたので、天照太神、八幡大菩薩、春日大明神の神々が、弓矢を射てこの鬼神を退治した」というような内容です。その伝承がもとになって、「弓始」(御弓式)という儀式が年中行事としておこなわれるようになったそうです。
江戸時代中期の1716年(正徳6年)に成立した『八瀬記』には、「弓始」(御弓式)の儀式のことが、次のように記されています(『八瀬童子会文書』, p. 70)。なお、『八瀬童子会文書』に所収されている『八瀬記』の記述では、鬼神の名称が「小たんたい」になっています。
当村諸役覚書
弓始
毎年正月廿日、天神の社〔八瀬天満宮〕へ、村中、衣装を着し出ずる。左座・右座の両座より、大鏡餅十居え、一居え五斗〔約9リットル〕ずつ、小鏡餅廿五居え、一居え三合〔約0.5リットル〕ずつ、神前に居え、恵方の方に、桧の薄板、網代に組み、五尺〔約1.5メートル〕にして、星黒の的を立て、神主、一手射る。次に、神主の子、素襖を着し、本弓に鴾〔トキ〕の羽の矢を取り添え、神主に渡す。神主、受け取り、逆さまに、また、一手射る。次に、村の子、二人出でて、本弓にて一手射る。この起りは、昔、「小たんたい」という鬼神、常に八瀬の人を悩ますゆえに、天照太神・八幡大菩薩・春日大明神の三社の神、射さしめ給うのよし、天下泰平の御祈り、毎年これを執り行う。
(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) [51]
また、上記の「弓始」(御弓式)と関連があるとおもわれる「花の弓」という儀式についても、『八瀬記』のなかに記されています(『八瀬童子会文書』, p. 70)。
花の弓
毎年三月、躑躅の盛りに、天神の旅所〔八瀬天満宮の御旅所の〕南の方に、桧の薄板を網代に組み、三尺〔約90センチメートル〕にして、星白の的を立て、年十六七のもの四人、これを射る。その後は、子共あらそいて射る。射終わりて、的の吊り糸を切り落とし、的のおもてを十文字に切り、「鬼は川へ流し候う」と囃し立て、川へ流す。正月弓始の的は、村鎮めとて、星黒し。本の弓は、なお霊残るとて、星白し。
(『八瀬記』(『八瀬童子会文書』所収)) [52]
これらの「弓始」(御弓式)や、「花の弓」について、池田昭さんは、『天皇制と八瀬童子』で、次のように述べておられます(池田, 1991, pp. 48-49; 犬丸, 2012, pp. 82-84)。なお、下記の記述では、鬼神の名称が「とんたい」になっています。
この呪的カリスマの所有者、神殿〔こうどの。一年神主〕は、次の宗教行為も行う。
〔中略〕
正月二〇日の御弓の式。
神殿〔こうどの〕は、春祭の場合と同様に、頬紅をし、神が乗り移ったもとで鬼を射、天下泰平を祈る。
『八瀬記』には、「昔、『とんたい』と云う鬼神常に八瀬の人を悩ます故に天照大神、八幡大菩薩、春日大明神この三社の神射さしめ給ふのよし、天下泰平の御いの里[御祈り]毎年これをとり行ふ」とあって、この御弓の式は柳田国男氏の指摘とは相違し年占いではなく、むしろ祓除の呪術である。
現在では行われていないが、『八瀬記』によると、「花の弓」と称し、三月のつつじの季節に子供らは「花を霊のこるとて……」と考え、鬼の的をつくり、これを射、その後的を十文字に切り、「鬼は川へながしたとはやしたて川へ流す」のであった。これは、神殿〔こうどの〕が主宰していたかどうかわからないが、次に述べる安楽花〔やすらいはな〕の伝承と同一の意味をもったものである。
ちなみに、「御弓式」(弓始)の儀式は、現在でも毎年1月20日におこなわれているようです。写真家の横山健蔵さんが、京都の年中行事の祭りや儀式を撮影した写真集のなかに、八瀬の御弓式において弓を射る儀式の様子を撮影した写真や、そのほかの八瀬における儀式の様子の写真も収録されています(横山, 1994b, p. 20; 横山, 1994a, photo no. 39)。
参考: 八瀬童子と護法童子と酒呑童子の関連性
『遠碧軒記』に記された、矜羯羅童子と制多迦童子の二人の護法童子に由来する、八瀬童子の特徴的な髪形
下記で引用している『遠碧軒記』は、江戸時代の儒学者である黒川道祐が、自身の膨大な雑記や随筆をまとめた『遠碧軒随筆』を、江戸時代中期の1756年(宝暦6年)に、公家の難波宗建が抜書きし、分類したものです(『日本随筆大成 第1期 10』, p. 1 (解題) )。ちなみに、「遠碧軒」というのは、黒川道祐の雅号(通称)です。
『遠碧軒記』の「上之一」の矢瀬郷〔八瀬郷〕の項目には、下記のような記述があります(『日本随筆大成 第1期 10』, pp. 15-16)。下記の文章では、八瀬童子の特徴的な髪形は、矜羯羅童子と制多迦童子の、二人の天童(護法童子)の髪形に似せたものだ、とされています。鬼腰掛岩の伝説に登場する二人の鬼も、比叡山延暦寺の代表者である天台座主という仏教僧に仕えているという点では、護法童子にちかいものではないかとおもいます。ですので、鬼腰掛岩の伝説に登場する二人の鬼と、矜羯羅童子と制多迦童子の二人の天童には、なにか通じるものがあるのかもしれません。
矢瀬郷〔八瀬郷〕高二百七十石、施薬院、弘文院等の領あり。また大原の寂光院の領、御朱印三十石の内も、八瀬より少し納む。
八瀬に百十七軒、古き家あり。この者ども、小法師のせんのと云う類の名を付け、この百十七軒の者の内より、年老を三十六択で、これがみな国名を付く。三十六人かければ、また替えてその内へ入る。これが鎮守氏神の天神〔八瀬天満宮〕の事に預る。侍分にても〔侍の身分であったとしても〕、入人〔入り婿〕は三十六人の内へ入れず。八瀬祭のとき、三十六人は、浄衣白張を着す。その外は、かちん〔褐色。濃い藍色〕に子持筋を付して、蘇袍〔素袍のことか?〕を着す。
扨、この所は、天神の〔八瀬天満宮の祭神である菅原道真が〕、阿闍梨屋敷へ手習に九才より通い給うとき、この在所にて、昼の休息所なり。所の者〔八瀬の住人〕、貧窮の体を見給い、釜風呂をして病人をも治し、「渡世にせよ」〔この仕事で生活していきなさい〕との事なり。それにより、十才の形を束帯に作りて、天神〔菅原道真〕を祭る。また、山門〔比叡山延暦寺〕の下故に、山の鎮守、山王二の宮の社を合せ祭る。祭日、先へ出で、神輿は天神、跡の小きは二の宮なり。三十六人の内、一人ずつ社人を務む。毎年大晦日が交替なり。 中略
さて、八瀬の人の髪長きは、世上には、「清見原天皇〔天武天皇が〕、しばらく此所に御入故、その末」という。これは謬伝なり。慧心〔恵心僧都源信〕の生身にて冥途へ参られし時、こんがら・せいたか〔矜羯羅童子と制多迦童子〕の二天童現じて供奉す。冥官、「この者どもは何者ぞ」とあれば、「しかじか」と答え給う。奇代の事なり。一人は此方に留置たきとあり。其代には安楽花の実を遣うべしとて、三粒与う。これを種えて菩提を願うものは、即滅無量罪と申す。携え帰りて、安楽寺の庭に植え給う。今に三本ありて枯れず。葉の裏に実なりて、菩提樹子に似たり。この、こんがら・せいたか〔矜羯羅童子と制多迦童子〕の天童の体を似せて、髪を長く、童子の体を表すという。
(黒川道祐 [著者], 難波宗建 [編集], 『遠碧軒記』) [55]
「童子」の原義
たとえばお伽草子の一つとして特に知られた『酒呑童子』の物語にしても、さまざまの要素は加わっており、いろいろの研究角度はあるであろうが、この題名の「童子」をはっきり説き明かすためには、やはり部落史の観点に立ち散所の問題にかえらねばならぬ。元来「童子」という語は、令制にも見えるように仏教寺院におこり、童部ともいって衆徒の僧侶が供侍としたもので、当初は年齢十七までの文字通りの童子であったらしいが、平安末期には年齢に開わりなく一種の護衛兵の如きものとなり、やがて「堂衆」として大衆の武力となるものであった。その出自は、奈良朝以来寺院に施入された奴婢の後裔であったが、これらの隷属民が部落に定着した場合には、特別な歴史的粉飾によって散所を名乗らなくとも、実質的には散所的な活動を行ったのである。それは領内の清掃雑役、駕輿丁の夫役、神事法会等の勤仕等である。京都の北郊八瀕が、今もなお駕輿丁奉仕を歴史的伝統として、その住民自ら童子を称している事実をみても、この点は容易に諒解し得ると思う。
(林屋辰三郎「「山椒大夫」の原像」, 『古代国家の解体』) [56]
「八瀬童子」は、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称
山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した八瀬記にそう書いてあるのだから間違いない。そしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。かの酒呑童子や茨木童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一つの「護法胤」と見てよいのであろう。
〔中略〕
つまりは里から遠く離れて住んだ地主たる先住民の或るものが、里の文化の進歩や生活の向上に伴わなかった結果として、だんだん生活風俗等について里人との間に著しい差別を生じたので、ついには彼らは人間以外の非類である、或る特別の霊能を有する鬼類であると信ぜられる様になり、地主側の方でもまた時にはそれをよい事にして、所謂鬼を標榜して民衆の畏敬を受け、渡世のたずきとなしていたものもあったが為に、ついに全く筋の違うものと見做されるに至ったのであろうと言うのである。現にかの八瀬童子の如きは、本来筋の違う山人の子孫であるという事を以て、御所に薪炭を供給し、駕輿丁にも採用されたので、後の世までも一種変った伝説と風俗とを保持し、御所と特別の関係を有していたのであった。そしてそれが霊的の或る能力を有するものとして認識された場合に、或いは護法筋ともなり、その他陰陽筋・神子筋・禰宜筋などと言われて、卜筮祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられたが如きものであって、その例は他の民族にも甚だ多いのである。そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝・居勢祝などという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。これけだし祝部すなわち神と人との間に立って、霊界との交通を掌る能力あるものが、土人すなわち地主側のものの後裔に多く存する事を示したものと解せられる。
(喜田貞吉「牛蒡種は護法胤 : 鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗」, 「憑き物系統に関する民族的研究」, 『先住民と差別』) [57]
比叡山の霊木を守護していた二人の鬼の説話
比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂の本尊は、薬師如来像です。その薬師如来像をつくるときにつかわれた御衣木(木彫仏像の制作にもちいられる材木)となった霊木についての説話が複数残されています。
その説話のなかに、霊木の守護者(比叡山の先住者)として、二人の鬼が登場する説話があります。
それらの説話の内容は、おおまかに言えば、「比叡山の土地の所有権が、先住者である鬼から、最澄(に象徴される天台教団)に移った」という内容です。
それらの説話においては、比叡山の土地の所有権が、霊木によって象徴されています。
その「霊木に象徴される、比叡山の所有権移転の説話」は、下記に列挙した文献に記載されています。
これらの文献の説話に登場する、霊木を守護していた鬼は、護法童子的な性格を持たされているのではないかとおもいます。
これらの文献のなかに、霊木を守護していた鬼が二人だとされている文献があるのは、「制多迦童子と矜羯羅童子の二人のように、仏法に仕える護法童子は二人一組である」ということを前提にしているからなのかもしれません。
参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子
『法華経鷲林拾葉鈔』の、鬼の霊木の説話
(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
叡峰開白〔比叡山開闢〕の時、根本中堂の薬師〔薬師如来像〕を造り奉らんとて、御杣木を尋ね玉ふに、東北に当たって楠あり。彼の本より光明を放つ。大師〔伝教大師最澄〕危しく思召し、彼の木の本へ尋ね行きて見玉ふに、二人の鬼有りて、此の木を守護す。時に大師詠じて云く、「阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我が立つ杣に冥加あらせ玉へ」。鬼の云く、「我、狗留孫仏〔過去七仏の第四番目の仏〕より以来、此の木を守護し、釈尊像法の時に当たり、此の山〔比叡山〕に於いて大乗弘通の人師来る可し。即ち与ふ可し」と云へり。「汝が事なるべし」と云ふに、速やかに東北を指して去りにけり。即ち此の木を切りて、一刀三礼に薬師如来の像を造り、根本中堂の本尊と為す。其の礼文に云ふ。像法転ずる時、衆生を利益す、故に薬師瑠璃光仏と称号す。此の如く唱いて礼拝し玉ひしかば、木像の薬師、新たにうなづき給ひけり。今も夜なんど道を行くに、をそろしき事之有り。此の歌を三反誦するに、鬼神障礙を成さずと云ふ也。
(「陀羅尼品第26」, 『法華経鷲林拾葉鈔』) [58] [59]
参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子
身延文庫蔵『法華直談私見聞』の、青鬼の霊木の説話
(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。「■」の記号は、文献のなかの欠損部分をあらわしています。)
一、根本中堂本尊薬師の事。傳教大師〔最澄〕我山〔比叡山〕に登り、作仏の為に御尊木を尋ね玉へり。■時、松尾の明神虚空に現れ、前の尾〔山裾〕に御尊木有りと告玉へり。後に行見玉へは、此木を青色の二の鬼守護して居り、大師此の木を乞玉へは、二鬼問て云く、「御名をは何と申」と云り。大師、「我是大安寺の沙門行表和尚の御弟子に㝡澄法師〔最澄法師〕と云者也」と答玉ふ。其時に二鬼申けるは、「是は過去狗留孫仏〔過去七仏の第四番目の仏〕従、『㝡澄法師〔最澄法師〕に渡申せ』とて預かり申して、今迄守護申て候木なり。渡し申さん」とて、虚空を指失せにけり、と云ふ〔後略〕
(身延文庫蔵『法華直談私見聞』) [64]
参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子
『日吉山王利生記』の、青鬼の霊木の説話
(下記の文章のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、筆者による注記です。)
桓武天皇御宇延暦四年〔桓武天皇が世の中を治めていた時代の延暦4年(西暦785年)〕に伝教大師御年十九にて、始て叡山によぢのぼり給しに、倒たる枯木を見守る青鬼あり。大師問給はく、「汝何者ぞ」。鬼答申云、「未来に聖人来て仏像を彫刻すべし。其祚木のために不可踏守」と。「地主権現の仰によりて、此木の二葉より之を守護す」云々。大師感涙甚し。艸庵をむすび願文を製し、同七年に一乗止観院を立給。其間彼霊木にて薬師如来を造像す。一たび斧をくだして三度礼拝し、斧をおろす度ごとに、未来悪世の衆生必利益し給べきよし誓約ありければ、仏像うなずき給ける。大師三仏を一院にきざむとは、此根本中堂〔比叡山延暦寺の総本堂〕薬師〔薬師如来像〕、転法輪堂〔比叡山延暦寺の西塔地区の本堂である釈迦堂〕釈迦〔釈迦如来像〕、浄土院〔最澄の廟所のとなりにある堂宇〕阿弥陀〔阿弥陀如来像〕なり。凡桓武天皇は観自在尊〔観自在菩薩尊〕応化。伝教大師は薬王菩薩の垂迹、智者大師〔天台宗の開祖である智顗〕の後身〔生まれ変わり〕なり。
参考記事: 青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子
悪鬼となった護法童子の事例
天野文雄さんは、「「酒天童子」考」という論文のなかで、「護法童子が、悪鬼に変わることもあった」という事例を提示しておられます(天野, 1979, p. 22)。天野さんは、一例として、書写山円教寺を開山した性空上人と、その甥である皇慶に仕えた、二人の護法童子のうちの、乙天(乙護法)という護法童子が、邪悪な存在に変化した、という事例をあげておられます。
ですので、「護法童子が、悪鬼に変わる」という可能性もあるようです。
また、天野文雄さんのその論文のなかの下記の文章のなかには、「酒天童子(酒呑童子)の姿と、葛川明王院の碑伝に描かれた護法童子の姿が、よく似ている」というような意味のことが書かれています。
(※碑伝というのは、修験者(密教行者)が、山岳での修行を終えたあとに建立する石碑や木碑(参籠札、卒塔婆)のことです。)
酒天童子なる存在も、当然、護法という視点から見直される必要があろう。すると、酒天童子こそ護法の属性をことごとく備えた存在であることに気づくのである。
〔中略〕
延暦寺の別院である葛川明王院には元久元年(一三〇四)の年記をもつ碑伝が現存するが、そこに描かれている蓬髪裸身の護法童子は、まさに「身体肥壮」という体であって、『信貴山縁起絵巻』の剣の護法の体躯ともども、護法の典型を表していると思われる。ところで、諸絵巻に描かれた酒天童子の姿は葛川明王院の碑伝に描かれた護法と驚くべき類似を示している〔後略〕
(天野文雄「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」) [68]
参考記事: 酒天童子(酒呑童子)と護法童子の類似性
おわりに
ここまで、酒呑童子や、鬼童丸(鬼同丸)や、八瀬童子の祖先の鬼にゆかりのある、鬼ヶ洞という洞窟や、鬼腰掛岩という岩について紹介してきました。もし、興味があれば、あなたもぜひ、酒呑童子や鬼や八瀬童子にゆかりのあるこれらの場所に、足をはこんでみていただくと、おもしろいかもしれません。
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
引用文献・参考文献
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地図画像の出典
- 地図1、地図2、地図3は、国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図1 : ズームレベル16, 地図2 : ズームレベル18, 地図3 : ズームレベル18)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html .
- 地図1「八瀬童子旧跡周辺地図」で使用している衛星画像の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図1 : ズームレベル16)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html . [Back ↩]
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- 注記: 文章を読みやすくするために、引用者がふりがなをふりました。 [Back ↩]
- 注記: 世界鬼学会(鬼学会)というのは、鬼好きな人たちや、鬼に興味がある人たちが集まる、すてきコミュニティーです。鬼学会の拠点は、酒呑童子伝説の舞台である大江山の中腹にある、日本の鬼の交流博物館(愛称:鬼博)です。日本の鬼の交流博物館(鬼博)がある京都府福知山市大江町は、鬼にまつわる3つの伝説が残る鬼伝説の地です。参考記事: 「「鬼シンポジウム in ふくちやま 2019」のイベント紹介レポート(世界鬼学会設立25周年記念イベント)」。 [Back ↩]
- 地図2「八瀬の鬼ヶ洞への道のり」で使用している衛星画像の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図2 : ズームレベル18)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html . [Back ↩]
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- 出典: 東堂いづみ [原作], 松本理恵 [監督], (2013年), 八瀬の台詞, 「第4話 次女と素敵な妖怪達」, 『京騒戯画』, 東映アニメーション [アニメーション制作], 17:56~18:19. [Back ↩]
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- 地図3「鬼腰掛岩への道のり」で使用している衛星画像の出典: 国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図3 : ズームレベル18)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html . [Back ↩]
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- 注記: 引用者が、原文の漢文を書き下し文にして、一部、旧仮名遣いを新仮名遣いに変え、句読点を追加しました。引用文のなかの〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。 [Back ↩]
- 出典: 梶原学 [著者], 菊池東太 [写真], (1986年), 「浄土門に光明をはなつ念仏聖 : 北谷・黒谷」, 「Ⅱ 霧にけむる杣道 : 西塔」, 『比叡山』, 佼成出版社, 133ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの太文字などの文字装飾は、引用者によるものです。 [Back ↩][Back ↩][Back ↩]
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- 参考文献: 〔霊木の話が記載されているページ(コマ番号: 357(右側のページ1段目)(706ページ1段目))〕, 「陀羅尼品第二十六」, 『法華経鷲林拾葉鈔』巻第24, 日本大蔵経編纂会 [編集], (1917年), 『日本大蔵経 第30巻 経蔵部 法華部章疏 3』(国立国会図書館デジタルコレクション)(国立国会図書館オンラインのページ), 日本大蔵経編纂会. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 身延文庫蔵『法華直談私見聞』, 牧野和夫, (1990年), 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), 87~94ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 『日吉山王利生記』第1, 神道大系編纂会 [編], (1983年), 『神道大系 神社編 29 : 日吉』, 神道大系編纂会, 650ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 『日吉山王利生記』第1, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校], (1983年), 『続群書類従 第2輯 下 3版 : 神祇部』, 続群書類従完成会, 655~656ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 『日吉山王利生記』第1, 藤田徳太郎 [ほか] [編], (1936年), 『日本精神文化大系 第4巻』, 金星堂, 130ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 身延文庫蔵『法華直談私見聞』, 牧野和夫, (1990年), 「叡山における諸領域の交点・酒呑童子譚 : 中世聖徳太子伝の裾野」, 『国語と国文学』, 67(11), 90ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 『日吉山王利生記』第1, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校], (1983年), 『続群書類従 第2輯 下 3版 : 神祇部』, 続群書類従完成会, 655~656ページ. [Back ↩]
- 出典: 平田篤胤 「鬼神新論」, 神道大系編纂会 [編集], (1986年), 「鬼神新論」, 『神道大系 論説編 26』, 神道大系編纂会, 483ページ. [Back ↩]
- 注記: 原文でカタカナ表記になっている振り仮名を、引用者がひらがな表記に変えました。また、原文では、句点「。」になっているところの一部を、引用者が読点「、」に変えました。 [Back ↩]
- 出典:天野文雄 (1979年) 「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論 (8)』, 22ページ 1段目. [Back ↩]