又、大師、告云、
「我自生以來、口無麤言、手不笞罰
今、我同法、不打童子
爲我大恩
努力、努力」
(また、伝教大師はおっしゃいました
「私は、生まれてからこのかた
罵倒の言葉を口にせず
刑罰の鞭を手にしませんでした
今、皆さんにお願いします
童子に乱暴しないでください
そうしていただけると、とてもありがたいです
どうか、どうかお願いします」)
はじめに
この和歌は、比叡山延暦寺が「京の鬼門」であることを詠んだ歌です。(作者は、鎌倉時代に延暦寺の最高位である天台座主を4回務めた慈円です)。この和歌に詠われている鬼門の話のように、比叡山には鬼にまつわる伝承がたくさん残されています。そうした伝承のなかの代表的なもののひとつに、現存最古の酒呑童子説話をつたえる香取本『大江山絵詞』のなかで語られている話があります。かいつまんで言うと、「比叡山の先住者であった酒呑童子が、あとからやってきて寺院を建てようとした最澄に追い出されてしまった」という話です。その話以外にも、比叡山には鬼にまつわる伝承がたくさんあります。本稿では、そうした「比叡山の鬼にまつわる伝承」を紹介したいとおもいます。
ひとくちに鬼と言っても、いろいろな種類の鬼がいます。馬場あき子さんは『鬼の研究』のなかで、鬼の分類として、下記の5つをあげておられます(馬場, 1988, pp.13-14)(引用者が原文の内容を要約して箇条書きにしました)。
- 神道系の鬼:民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
- 修験道系の鬼:天狗(山伏系の鬼)
- 仏教系の鬼:邪鬼、夜叉、羅刹、地獄卒、牛頭、馬頭鬼
- 人鬼系の鬼:放逐者、賤民、盗賊
- 変身譚系の鬼:復讐をとげるために鬼となることをえらんだもの
延暦寺には、1200年以上の長い歴史があるため、そのあいだに蓄積されてきた鬼の伝承も多種多様です。そのため、比叡山に残されている鬼の伝承は、かならず上記の分類のどれかに当てはまるとおもいます。
下の地図は、比叡山のなかで、鬼にまつわる伝承が残されている場所や、それに関連する場所を示したものです。ここからは、これらの鬼スポットにまつわる「比叡山の鬼の伝承」を、はばひろく紹介していきたいとおもいます。ぜひこれらの「鬼魔所」で、鬼との出会いを楽しんでみてください。
《めくるめく鬼魔所の比叡山》
『山門三塔坂本惣絵図』について
本稿では、参考資料として、比叡山延暦寺の境内を描いた『山門三塔坂本惣絵図』(さんもんさんとう さかもと そうえず)という名前の古地図を掲載しています。その古地図は、江戸時代中期(1767年)に制作されたもので、比叡山延暦寺の境内と、比叡山のふもとの坂本地区が描かれています。(第1鋪(ほ)と第2鋪の2つの地図で構成されています)。(武, 2008, p.116 ; 大津市歴史博物館, 2000, p.53)
第1鋪の地図には、比叡山延暦寺の横川地区(北塔地区)と、比叡山の東麓の坂本地区(現在の滋賀県大津市坂本)が描かれています。
第2鋪の地図には、比叡山延暦寺の東塔地区と西塔地区が描かれています。
この古地図には、鬼にまつわる伝承が残されている場所が複数描かれています。それらの伝承は、数百年前から語り継がれてきたものであり、ものによっては、それよりももっと前から語り継がれてきたものもあるかもしれません。そうした、古絵図に描かれた伝承の地を見ていただくことで、それらの伝承が連綿と語り継がれてきた悠久の時の流れをかんじていただけるかとおもいます。
(参考:『山門三塔坂本惣絵図』の古地図については、こちらの記事でくわしくお話しています)。
鬼の霊木(根本中堂 薬師如来 御衣木)の旧跡
ここで紹介する伝承は、おそらく、比叡山の鬼の伝承のなかでも、とくに古いもののひとつだろうとおもいます。それは、「叡山開闢譚」と呼ばれる、延暦寺のはじまりについての伝承です。叡山開闢譚のなかには「延暦寺開山のときに、霊木の所有権(比叡山の所有権の象徴)が、先住者(鬼や仙人や神)から最澄に移った」という形式の説話が複数あります。そのなかでも、先住者(霊木の守護者)として鬼が登場する、つぎのような文献があります(牧野, 1990, pp.87-94)。
- 「二人ノ鬼」:『法華経鷲林拾葉鈔』巻第24 陀羅尼品第26
- 「青鬼」:『日吉山王利生記』第1
- 「青色の二の鬼」:身延文庫蔵『法華直談私見聞』
これら3つの文献では「最澄が、先住者の鬼からその霊木を譲り受けて、その霊木をつかって根本中堂の本尊の薬師如来像を造った」とされています。その霊木があったとされているのは、仏母塚という場所です。現在、そこには「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」 と刻まれた石標があります。(御衣木(みそぎ)というのは、仏像や神像をつくるためにつかわれる木材のことです)。この石標がある場所のおおよその緯度経度は、35.073428,135.837600 です。
上記の石標がある仏母塚(佛母塚)は、下の『山門三塔坂本惣絵図』にも描かれています。
下の図は、上の図の周辺をふくむ東塔地区の中心部のあたりの図です。下の図の左下のあたりにある大きな建物は、根本中堂や大講堂です。
上記の「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」の石標に行くルートは、つぎのとおりです。(この下の動画もご参照ください)。まず、浄土院の正面(南側)の道から、浄土院の横の東側の山道を北東へ向かいます。しばらく登っていくと、三叉路があり、そのすぐ北側に、「別當大師御廟」(別名:別当大師廟、光定和尚廟)という建物があります。その別当大師廟が立っている尾根を北に下っていくと、ちいさな丘のような場所があります。その丘が、仏母塚です。その丘の上に「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」の石標があります。(別当大師廟からその丘までの山道は、一部、道すじがわかりにくいところがあるので、ご注意ください)。
(比叡山延暦寺 浄土院から)
(※別当大師(別當大師)というのは、光定という名前の僧侶に与えられた称号(大師号)です。ですので、別当大師というのは、その光定という僧侶のことです。光定は、最澄(伝教大師)の直弟子のひとりで、最澄のことをとても尊敬していたそうです。もしかすると、光定(別当大師)を祀る廟所(別当大師廟)が、最澄の廟所である浄土院のすぐちかくに建てられている理由は、光定と最澄の親密な関係を反映しているからなのかもしれません。)
下の動画は、上記のルートとはすこし別のルートです。ですが、下の動画でも、「別當大師御廟」(別当大師廟、光定和尚廟)から先のルートは、上記のルートとおなじですので、参考にしてみてください。
(比叡山延暦寺 東塔 駐車場(延暦寺バスセンター)から)
(※上記の霊木の伝承については、下記のリンクの記事でくわしくお話しています。)
参考記事:青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子
ちなみに、香取本『大江山絵詞』の物語では、酒呑童子(酒天童子)が変化した楠を、最澄が伐り倒します。そうした楠も、上記の「叡山開闢譚」の伝承に登場するような、「比叡山の所有権の象徴」としての霊木なのだろうとおもいます。もしかすると、かつて酒呑童子の楠(霊木)は、前述の仏母塚の「御衣木旧跡」の石標の場所にあり、それを最澄が伐り倒して、根本中堂の本尊の薬師如来像を造ったのかもしれません。
「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」の石標の地図上の位置
(おおよその緯度経度 : 35.073428,135.837600)
(仏母塚, 東塔北谷の八部尾地区, 比叡山延暦寺)
根本中堂の赤い鬼瓦
比叡山延暦寺の中心である総本堂は、根本中堂です。その根本中堂の屋根には、まるで酒呑童子のような赤い顔をした鬼瓦が付いています(文化財保護委員会, 1968, p.442)。江戸時代後期に描かれた根本中堂の絵のなかには、すでにこの赤い鬼瓦が描かれています(国立歴史民俗博物館, 2002, p.29 ; 国宝延暦寺根本中堂修理事務所, 1955, 口絵)。ですので、この赤い鬼瓦は、すくなくとも、200年以上前から今にいたるまでずっと存在してきたものであるようです。
現在の「赤い鬼瓦」を近くで見たことがあるのですが、どうやら、瓦でできているのではなく、木でつくられているようでした。ですので、現在の「赤い鬼瓦」は、正確には、「鬼瓦」というよりも、「巨大な木彫りの鬼のお面」のような形態のものになっています。
根本中堂の屋根には、北側の赤い鬼瓦と、南側の赤い鬼瓦の、2つの赤い鬼瓦があります。南側の鬼瓦は、二本角の赤鬼の顔をしていて、北側の鬼瓦は、一本角の赤鬼の顔をしています。
なぜ、根本中堂の鬼瓦が赤い鬼なのか、理由はわかりません。ですが、もしかすると、この赤い鬼瓦は、前述のような「根本中堂の本尊と酒呑童子とのつながり」を暗示しているのかもしれません。酒呑童子は、一般的に赤鬼だとされることが多いので、もしかすると、この赤い鬼瓦も、酒呑童子をかたどったものなのかもしれません。
下記の動画で、根本中堂の赤い鬼瓦の映像を見ることができます。
根本中堂の北側の赤い鬼瓦(一本角の赤鬼)の映像
(1:29~1:34 のあたり)
根本中堂の南側の赤い鬼瓦(二本角の赤鬼)の映像
(9:50~10:00 のあたり)
下の絵は、根本中堂とその周辺の伽藍を描いた絵です。この絵は、江戸時代後期に制作されたものです。(下の絵は、元の原画を模写したものです)。
この下の絵は、上の絵のなかの、根本中堂の部分を拡大したものです。下の絵の根本中堂の屋根の一番上の棟木(むなぎ)の左端のところに、赤い鬼瓦が描かれています。
この下の絵は、上の絵のなかの、屋根の左端にある赤い鬼瓦の部分を拡大したものです。これは、南北2つの赤い鬼瓦のうちの、南側の鬼瓦(二本角の赤鬼)です。
本稿の執筆時点(2022年)では、2016年から約10年後の完成を目指して、根本中堂の大規模な改修工事がおこなわれている最中です。そのため、その改修工事のあいだは、上記の2つの赤い鬼瓦は、根本中堂の屋根から取り外されています。ですが、その改修工事の様子を見学できる見学会が定期的に開催されており、その見学会のなかで、上記の赤い鬼瓦も見ることができます。(ぼくがその見学会に参加したときは、取り外された赤い鬼瓦を至近距離で見ることができました。おそらく、今後もその見学会のなかで、この赤い鬼瓦を見ることができるだろうとおもいます。)
下記のURLの動画には、改修工事のために、一時的に根本中堂の屋根から取りはずされている赤い鬼瓦が映っています。
見学会の様子をちらりと公開です😉そのイチ!現場に足を踏み入れるのはワクワクしますね!#根本中堂大改修 #延暦寺 #天台宗 pic.twitter.com/gxZWe4Bu4g
— 延暦寺【公式】 (@enryakuji_hiei) May 11, 2019
(※根本中堂の赤い鬼瓦については、下記のリンクの記事でくわしくお話しています。)
参考記事:酒呑童子の赤い鬼瓦(?): 比叡山延暦寺の根本中堂の屋根にある酒呑童子のような色をした赤い鬼瓦
夜叉塚
現在、根本中堂の前庭にある荒神塚(こうじんづか)は、かつて、夜叉塚(やしゃづか)と呼ばれていたようです。本稿の冒頭で引用した、馬場あき子さんによる「鬼の分類」のなかの、「仏教系の鬼」のカテゴリーには、夜叉や羅刹が含まれていました。これは、古代インドにおける神であったヤクシャ(夜叉)が、人を食らう悪鬼であるとされていたからです。夜叉は、捷疾鬼(しょうしつき)とも呼ばれ、足が速くてすばやい鬼だとされています。その一方で、夜叉は、仏教に取り入れられて、仏教の守護神である八部衆や五大明王の一つとして信仰されるようにもなりました。
室町時代後期(1495~1571年)に制作された、比叡山延暦寺の境内とその周辺を描いた、『比叡山絵図』(比叡山南渓蔵)という古地図があります。その古地図のなかで、根本中堂の前に描かれている塚のところに、「夜叉塚」という名称が書かれています(武, 2008, 口絵, p.85)。現在、根本中堂の廻廊に囲まれた前庭のなかにある、荒神塚と呼ばれている場所が、どうやら、かつて夜叉塚と呼ばれていた場所であるようです(武, 2008, p.196 ; 『山門名所旧跡記』, p.215 ; 『山門堂社由緒記』, p.249)。
彫刻家・仏師であった高村光雲さんが造仏した「三宝荒神立像(伝金剛夜叉明王)」と呼ばれている仏像があります。この名称からもわかるように、荒神と夜叉は、しばしば同一視されることがあるようです。ですので、おそらく、上記の夜叉塚と荒神塚も、おなじものを指しているのだろうとおもいます。
最澄は、夜叉(夜叉神)をふくむ仏教の守護神たちを篤く信仰していました(武, 2008, p.8)。比叡山でもっとも重要な場所である根本中堂のすぐそばに、夜叉神を祀る夜叉塚がつくられた背景には、そうした、最澄による夜叉神への信仰があったのかもしれません。
この下の根本中堂を描いた絵のなかの、廻廊に囲まれた部分が、根本中堂の前庭です。
下の図は、根本中堂の前庭のところを真上から見た状態の図です。前庭の右下のところに、「荒神塚」と書かれた塚があります。この荒神塚が、かつて、夜叉塚と呼ばれていた場所であるようです。
下の図は、荒神塚(夜叉塚)がある前庭や、それを囲む廻廊をふくむ、根本中堂の全体図です。
一眼一足
日吉大社では大宮の大比叡神と二宮の小比叡神が中心的な祭神であるが、大宮は後から勧請された神で、二宮が本来の祭神であり地主神であるとされる。同社には別に猿田彦命を祀る大行事権現があるが、これこそ山王権現の使者とされる猿の首領神である。そして猿はおそらく二宮よりも古い、最古の祭神であった。
―― 池上洵一「落魄の猿神」 [9]
比叡山には、一眼一足(いちがんいっそく)と呼ばれる、一つ目、一本足の妖怪の伝説があります。(一眼一足法師や、一つ目小僧などと呼ばれる場合もあります)。この一眼一足の伝承は、「比叡山七不思議」の1つにもかぞえられています。『大津の伝説』という本には、一眼一足(一つ目小僧)についての下記のような記述があります(大津市歴史博物館, 1991, p.54)。
〔一つ目小僧〕
東塔の総持坊という修行道場の玄関には、一つ目・一本足の幽霊の絵がかけられている。これは、元三大師の弟子の慈忍和尚の絵姿だという。慈忍は、良源のきびしい戒律の教えを身をもって実践し、他の修行僧にも指導していた。そして、死後も比叡山の戒律を守るため幽霊となり、夜中になると、この一つ目の恐ろしい姿で鉦をたたいて比叡山をまわり、里へ酒を買いに行こうなどとする不心得な僧たちを、こらしめたという。
(大津市歴史博物館「比叡山の七不思議」, 「坂本」, 『大津の伝説 (ふるさと大津歴史文庫 5)』) [10]
上記の「一つ目・一本足の幽霊の絵」というのは、下の写真に映っている絵のことです。下の写真は、総持坊の玄関に掲げられている一眼一足の絵です。
ちなみに、現在、総持坊の玄関にある「一眼一足の絵」よりも古い、別の一眼一足の絵も存在します。その古いほうの「一眼一足の絵」を撮影した写真は、『近江の伝説 (日本の伝説 19)』という本に掲載されています。おそらく、その本が書かれた1970年代ごろには、古いほうの「一眼一足の絵」が、総持坊の玄関に掲げられていたのだろうとおもいます。その新旧2つの「一眼一足の絵」の図像は、すこし異なる点があります。前述の『近江の伝説 (日本の伝説 19)』によると、古いほうの「一眼一足の絵」の図像は、つぎのようなものだったそうです(駒, 1977, pp.42-43)。
大黒堂前の広場から根本中堂の前を通って少し奥へ行くと、右手に七不思議一つ目小僧の総持坊がある。
話だけが伝えられているのかと思っていたら、玄関の庇の下にその一つ目小僧を描いた板額が懸かっていて、左側の柱に二メートルほどの朱塗の杖がしばりつけてあった。白っぽく晒された板に、一眼一足の僧形の姿が、右手に朱杖、左手に数珠を持ち、雲を踏んで立っている。元三大師良源のいわゆる「廻り大師」の姿だといわれ、またその弟子慈忍の変身の姿だともいわれているのだが、何とも怪異な図である。淡彩となった色が、板の中からにじみ出ているようで、眺めていると一種の味わいがある。
(駒敏郎「比叡山の七不思議」, 「近江伝説散歩」 , 『近江の伝説 (日本の伝説 ; 19)』) [11]
上記の記述にあるように、古いほうの「一眼一足の絵」は、「左手に数珠」を持っています。ですが、現在の「一眼一足の絵」は、左手に鉦(かね)を持っています。そのほかには、図像的な違いはあまりないようです。一つ目・一本足であることや、仏教僧侶の服装をしていること、先が二叉(ふたまた)になっている杖を右手に持っていること、雲に乗っていること、光背(こうはい)のかたちが二重円光であること、などは、新旧どちらの「一眼一足の絵」にも共通しています。なお、上記の引用文のなかにある「二メートルほどの朱塗の杖」については、古いほうの「一眼一足の絵」に代わって、現在の絵が掲げられるようになった後も、しばらくのあいだは、総持坊の玄関の横にその杖が置かれていたようです。ですが、現在、総持坊の玄関には、その「朱塗の杖」は置かれていません。
前述の『大津の伝説』からの引用文にもあったように、一般的には、一眼一足の正体は、慈忍和尚(じにんかしょう)であるとされています。その慈忍和尚の廟所が、飯室谷(いむろだに)にあります。『比叡山歴史の散歩道』という本の、飯室谷の項目のところでは、一眼一足と慈忍和尚の関係が、つぎのように説明されています(講談社, 1995, p.44)。(尋禅(じんぜん)というのは、慈忍和尚の名前です。)
山深い飯室の谷の本堂は、慈忍和尚尋禅が創建した不動堂である。和尚の霊は一眼一足の異形となって、修行を怠ける僧侶を懲らしめているという。
(「飯室谷」, 『比叡山歴史の散歩道 : 延暦寺から、日吉大社を歩く』) [12]
下の図の左下のところに、慈忍和尚廟という廟所があります。
下の図は、上の図の周辺までふくんだ、飯室谷地区の全体図です。下の図の左側に、慈忍和尚廟があります。下の図のまんなかのあたりにある大きな建物は、不動堂です。右のほうにあるのは、安楽律院の地区です。
下の写真に写っているのが、慈忍和尚廟です。
下の写真に写っているのは、慈忍和尚廟への参道の入り口です。慈忍和尚廟への参道には、巨大な木が生い茂っていて、鎮守の森と呼ばれているそうです(延暦寺執行局, 1974, pp.165-166)。慈忍和尚廟は、「比叡山四大魔所」や、「三大魔所」のひとつとされています(延暦寺執行局, 1974, pp.165-166 ; 北村, 1988, p.61 ; 奥田, 2010, p.97 ; 駒, 1977, p.47)。それも、この森が、独特の雰囲気をもっていることに由来するのかもしれません。ちなみに、「三大魔所」の残りの2つは、元三大師御廟と、天梯権現祠です。また、この3つに、狩籠岡をくわえて、「四大魔所」とも呼ばれます(延暦寺執行局, 1974, pp.165-166 ; 奥田, 2010, p.97)。
いまのところ、ぼくが知る限り、一眼一足が登場する話のなかでもっとも古い例は、1750年(江戸時代中期)に、烏有庵が書いた『万世百物語』という本のなかの、「一眼一足の化生」という話です(国書刊行会, 1914, pp.500-502)。その話に登場する一眼一足は、慈忍和尚や元三大師とはなんの関係もありません。その話は、一種の稚児物語のような悲恋の話です。このように、どうやら、一眼一足の伝承には、いろいろな種類があり、かならずしも、慈忍和尚や元三大師が登場するわけではないようです。(むしろ、一眼一足の正体を慈忍和尚や元三大師であるとする言説は、かなりあとになってから創作された話ではないかとおもいます)。
延暦寺には、「比叡山の七不思議」と呼ばれている7つの話があります。一眼一足の伝承も、その七不思議のひとつです。ですが、この七不思議は、ごく最近になってから創作された話である可能性があるようです。そのことについて、梶原学さんは『比叡山』という本で、つぎのように述べられておられます(梶原, 1986, p.99)。
七不思議というのは、かず多くある比叡山の伝説からベスト・セブンを選び、第一話から第七話まで設定したもので、四十六年に比叡山延暦寺が発行した『比叡山』という本によると、「一つ目小僧」「なすび婆々」「麗人の水ごり」「六道おどり」「一文字たぬき」「船坂にモヤ舟」「蛇が池の妖怪」となっている。古書にはないから“昭和の僧”の企画だと思うが、ほかにもっと意味深い伝説もあり、この七不思議にはいささか抵抗を感じるのである。
(梶原学「霧にけむる杣道 : 西塔」, 『比叡山』) [13]
たしかに、「比叡山の七不思議」と呼ばれている7つの話は、どれだけ調べてみても、その多くが、出典がまったくわからない話ばかりです。ですので、たしかに、ごく最近になってからつくられた「“昭和の僧”の企画」であるという見解にも、なっとくできるものがあります。
ぼくが実際に参照することができた範囲では、「比叡山の七不思議」が記載されているもっとも古い本は、延暦寺執行局が編集して1974年(昭和49年)に出版された『比叡山』という本です。ですが、滋賀県立図書館のレファレンスサービスの方に調べていただいたところ、どうやらその本の旧版で、1971年(昭和46年)に出版された『比叡山』という本があるそうです。(その本が、上記の引用文で梶原学さんが言及されている本であるようです)。ですので、どうやら、「比叡山の七不思議」が記載されているもっとも古い本は、1971年(昭和46年)に出版された『比叡山』という本であるようです。もしかすると、「比叡山の七不思議」や、そこにふくまれている7つの話は、そのころに延暦寺の僧侶によって創作されたものなのかもしれません。
余談ですが、ぼくは、この一眼一足という存在は、もともとは、日本天台宗が、比叡山に入ってくる以前に、ひえの山(日枝山、比叡山)で信仰されていた地主神(じぬしがみ)だったのではないかとおもいます。その神が、のちに天台宗によってその地位を追われて落魄した、なれの果ての姿が、一眼一足という妖怪なのではないかとおもいます。もしそうだとすれば、現在、総持坊の玄関に掲げられている絵に描かれている「一眼一足」の姿は、「太古の地主神のなれの果て」の姿だと言えるかもしれません。こうした「一つ目・一本足の山の神」(または、山の怪物)については、柳田国男さんが『一目小僧その他』で多数の事例を紹介しておられるとおりです(柳田, 1971, pp.11-70)。
もしかすると、ここまでお話してきた一眼一足の話のなかには、鬼の要素は感じられなかったかもしれません。ですが、本稿の冒頭で紹介した、馬場あき子さんによる「鬼の分類」のなかには、「神道系の鬼」として「祖霊や地霊」がふくまれていました。もし、一眼一足が地主神であるならば、「祖霊や地霊」のカテゴリーに分類されるべき存在であると言えるでしょう。実際、山の主である地主神や精霊のことをあらわす、「山鬼」(さんき)という言葉があります。この言葉にもあらわれているように、地主神は、一種の「鬼」でもあると言えるでしょう。
堀田吉雄さんは、『山の神信仰の研究』の本のなかで、「山の神的な妖怪のうち、もっとも代表的なものは所謂一目小僧である。時には一本足というのもある。両者を合せた隻眼隻脚の妖物もある」、「妖怪の世界では、鬼と山の神は近い親類である」と述べておられます(堀田, 1980, p.407, p.412)。
また、馬場あき子さんは、『鬼の研究』の本で、日本の文献に初めて「鬼」の漢字が登場したときに、その「鬼」の漢字があらわしていた対象が「一つ目の鬼」であったという事例(下記)を紹介しておられます(馬場, 1988, p.31)。
日本の文献に「鬼」字が登用されたはじめは、「出雲国風土記」で、大原郡阿用郷の名称起源を説いた文である。「昔或人、此処に山田を佃りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃る人の男を食ひき」とよまれている。しかし、この「鬼」を「おに」と読ませるべく登用したかどうかは分明でない。「目一つの鬼」と形態もはっきりしていて興味深い伝承であるが、「鬼」を「おに」とよませた古例はほとんど他に見ることができない。しかし、『風土記』の編纂が命ぜられたのは元明天皇和銅六年であり、それより数年後に撰上せられた『日本書紀』の「斉明紀」には、朝倉山の上から〈鬼〉が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事があるので、阿用の鬼もふくめておよそその頃(六〇〇年後半)から〈おに〉と〈鬼〉の一体化がすすみつつあったと見てよいと思う。
(馬場あき子「鬼と日本の〈おに〉」, 『鬼の研究』) [14]
上記の事例は、「一つ目」の姿をしている比叡山の一眼一足が、鬼であることの傍証となるのではないかとおもいます。こうしたさまざまな情報を考えあわせたうえで、「比叡山の鬼の伝承」のひとつとして、一眼一足の伝承を紹介させていただいた次第です。
一眼一足が、太古の比叡山の神であったのではないかと考える理由は複数あります。ですが、それらのすべてをここでお話するには頁が足りません。ですので、ここでは、それらの理由をすこしだけかいつまんで紹介したいとおもいます。
まず、一眼一足の「一つ目」は、「太陽」の象徴ではないかとおもいます。これについては、日吉大社のもともとの祭神が猿神であったという説があることや、その猿が太陽の象徴であったという説があることなどが、その理由のひとつです(南方, 1994, pp.122-123 ; 池上, 2008, p.64, p.263)。
また、一眼一足の「一本足」は、「山の神の依り代である杭」や「山の樹木」を意味しているのではないかとおもいます。これについては、『古事記』において、比叡山(日枝山(ひえのやま))の神であるとされている、大山咋神(おおやまくいのかみ)の神名が関係しています。この神の神名のなかの「咋」(くい)という言葉は、山の神の依代(よりしろ)として祀られる「杭」(くい)を意味している、という説があります(五来, 2021, p.392 ; 次田, 1977, p.145)。もし、大山咋神の「咋」(くい)が「杭」(くい)の意味だとすれば、その「杭」は、一眼一足の「一本足」につうじるものがあるのではないかとおもいます。山の神の依代としての「杭」を「一本足」に見立てたことで、山の神が「一本足」だとされたのかもしれません。また、貝塚茂樹さんは、『中国の神話 : 神々の誕生』の本で、古代の中国にも、一本足の山の神の事例があることを報告されています(貝塚, 1971, p.29, p.37)。
余談ですが、前述の、総持坊の「一眼一足の絵」で、一眼一足が右手に「先が二叉(ふたまた)になっている杖」を持ち、左手に鉦(かね)を持っていることも、興味深いことだとおもいます。この「二叉(ふたまた)の杖」は、いわゆる「鹿杖」(かせづえ)ではないかとおもいます。鹿杖には呪力があるとされています(網野, 1993, pp.71-77 ; 五来, 2021, p.342 ; 赤坂, 2002, pp.115-118 ; 坂江, 2016, p.91)。また、能の謡曲「大江山」で、酒呑童子が手にしている小道具の打杖(うちづえ)は、この鬼神が神通力をもっていることの象徴であるそうです。打杖は、撞木杖(しゅもくづえ)とも呼ばれます。そして、鹿杖は、別名、撞木杖とも呼ばれます。このように、酒呑童子が手にしている杖も、一種の鹿杖だと言えるかもしれません。また、清涼寺所蔵の『融通念仏縁起絵巻』のなかには、「鹿衣を着て鹿杖をもつ鉦叩き」が描かれています(網野, 1993, pp.72-73)。一眼一足も、鹿杖と鉦を手に持っています。こうしたことも、一眼一足にまつわるなにかを暗示しているのかもしれません。
狩籠岡
東北の方の高嶽〔比叡山〕に大勢力の悪鬼有り。時々障㝵を作し、是一の大難を為す也。而も、彼の嶽〔比叡山〕は、拘畄孫佛轉法輪之古跡也〔過去七仏の第四番目の仏である拘留孫仏が、かつて説法を行った場所である〕。法末之時に至て、悪鬼押領して住城を為し、佛法之大障碍を作す。應化の諸神之を奈ともせず。故を以て、此の地未だ王城と成らざる也。然りと雖も、吾れ〔聖徳太子〕無比の大願を發して、入滅一百七十餘年之後〔死後約170年後に〕、邊土に託生して、下賤の衆生を利益し、然る後に、彼の高嶽〔比叡山〕に於て、鎮護国家の大伽藍を建て、一乗圓宗〔天台宗〕の教法を崇て、悪魔を千里に拂ひ、皇基を万歳に守し、卜誓玉ければ、〔中略〕茅茨を改て、梵宇を作し、延暦寺と号す。師の諱は最澄。後に傳教大師と諡す。太子の記文に、東北の方の高嶽と曰は、今の比叡山也。傳教〔伝教大師最澄〕は太子〔聖徳太子〕の後身〔生まれ変わり〕也。
西塔地区の中心である釈迦堂から北東へすこし行ったところに、「魑魅魍魎の悪鬼を封じた」という伝承がある狩籠岡(かりごめのおか)(狩篭の丘)という場所があります。狩籠岡は、別名、大納艮岡(だいのううしとらおか)、または、大納艮岳(だいのうこんがく)とも呼ばれます。(「大納艮岡」と「大納艮岳」の読み仮名は、ぼくの推測です)。また、狩籠岡は、「比叡山四大魔所」の1つであると言われています。狩籠岡がある場所のおおよその緯度経度は、35.076756,135.835736 です。
下の図は、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪の古地図に描かれた、狩籠岡と大納艮岡です。下の図では、この2つが、別々の山として描かれています。ですが、この2つは、おなじ場所であるとする文献も多いです。(これについては、後述します)。
下の図は、上の図の周囲までふくめた図です。下の図のまんなかあたりに、狩籠岡と大納艮岡があります。下の図の右下の大きな四角形の建物は、西塔地区の中心である釈迦堂です。
比叡山延暦寺にまつわる伝承などをまとめた『渓嵐拾葉集』(けいらんしゅうようしゅう)という書物があります。そのなかの「浄刹結界章」という項目に、狩籠岡についての記述があったようです。ですが、本来、300巻あった『渓嵐拾葉集』はその多くが失われてしまい、現存しているのは、113巻だけしかないそうです。そのため、「浄刹結界章」の部分も、現在は失われてしまっているようです。ですが、「浄刹結界章」のなかにあった狩籠岡についての記述は、そのほかの文献に引用されるかたちで、断片的に残っています(『義源勘註』, p.202 ; 『山家要略記』華蔵院本, p.331 ; 『山門名所旧跡記』, p.228 ; 『山門堂社由緒記』, p.270 ; 『比叡山堂舎僧坊記』, p.196 ; 村山, 1975, p.411)。また、現存している『渓嵐拾葉集』のなかにも、狩籠岡についての記述がすこしだけ残されています(高楠, 1931, p.779)。
それらの文献に記されている狩籠岡についての伝承の内容は、どれもおおむねおなじです。それらの文献に記されている、狩籠岡についての伝承の内容をまとめると、おおよそ、つぎのような内容になります。
艮の方角(北東)の大納艮岡(別名:狩籠岡)に納めた。
上記の「魑魅魍魎の悪鬼」を狩って納めた人物を、最澄だとする文献もあります(『山門名所旧跡記』, p.228 ; 『山門堂社由緒記』, p.270 ; 『比叡山堂舎僧坊記』, p.196)。「納める」という言葉には、「死骸を葬る」という意味もあります。ですので、もしかすると、狩籠岡は、「魑魅魍魎の悪鬼を狩って、その死骸を狩籠岡に葬った」という場所である可能性もあるかもしれません。
ちなみに、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の「魑魅(ちみ)」という言葉には、「山や川に棲息している鬼や化け物」というような意味があります(『字通』, p.1080, p.1500 ; 『角川大字源』, p.1975, p.1977)。「魑魅」という言葉は、「魍魎」という言葉とつなげて、「魑魅魍魎」というひとつの言葉としてあつかわれることがしばしばあります。その「魍魎(もうりょう)」という言葉にも、「山や川に棲息している鬼や化け物」というような意味があります。なお、「魍魎」については、そうした意味にくわえて、「山のなかの水に棲む化け物」や、「水神(すいじん)」といった、水に関する特徴があるとされることもあるようです(『字通』, p.1519, p.1520, p.1623 ; 『角川大字源』, p.1977)。
「魑魅」と「魍魎」が、山や川や水の精霊のような存在であることについて、馬場あき子さんは、『鬼の研究』の本でつぎのように述べておられます(馬場, 1988, p.31)。
『倭名類聚鈔』は〈鬼〉につづいて、餓鬼・瘧鬼・邪鬼・窮鬼・魑魅・魍魎・醜女・天探女(あめのさぐめ)等を鬼として説明しているが、それぞれに和名を当てて、〔中略〕魑魅は「すだま」「こだま」、魍魎を「みづは」としている。「みづは」は水精であり、「こだま」「すだま」は老物の精、すなわち、木や石などの年を経たものは、おのずから精霊が宿ると考えられている
(馬場あき子「鬼と日本の〈おに〉」, 『鬼の研究』) [14]
また、「魍魎」は、「赤い目で赤黒い色をした幼児の姿をしている」とされることもあるようです(『字通』, p.1519, p.1520, p.1623 ; 『角川大字源』, p.1977)。そうした、「赤い」、「赤黒い」、「幼児の姿」、などの「魍魎」の特徴は、酒呑童子の体色が一般的に赤色だとされていることや、酒呑童子が「童子」と呼ばれていることなどと、なんらかのつながりがあるのかもしれません。
西塔地区の中心である釈迦堂のあたりから見ると、艮(北東)の方角には、狩籠岡があります。前述の狩籠岡についての伝承では、「巽(南東)の方角にいた魑魅魍魎の悪鬼を、艮(北東)の方角にある狩籠岡に封じ込めた」というようなことが語られています。釈迦堂のあたりから見ると、巽(南東)の方角には、前述の「根本中堂 薬師如来 御衣木旧跡」の石標が立っている仏母塚があります。
(ここで、すこし想像をたくましくしてみたいとおもいます)。前述のように、かつて「御衣木旧跡」の石標がある場所に立っていた「御衣木」の霊木は、香取本『大江山絵詞』のなかで酒呑童子(酒天童子)が変化した楠だったのかもしれません。もしそうだとすると、前述の狩籠岡の伝承は、つぎのような意味だととらえることもできるかもしれません。
このように考えるなら、狩籠岡は、酒呑童子の墓(塚)であると言えるかもしれません。
釈迦堂から見て、艮(北東)の方向にある狩籠岡と、巽(南東)の方向にある仏母塚の、それぞれの位置関係は、下の図で確認できます。(下の図は、上が北で、下が南になるように、図を回転させています)。下の図の左上のあたりにある大きな四角形の建物が、西塔地区の中心である釈迦堂です。下の図の釈迦堂から右上(艮:北東)の方向にすこし行ったところに、狩籠岡と大納艮岡があります。下の図の釈迦堂から右下(巽:南東)の方向に行ったところに、大きな字で「東塔」と書かれているところがあり、その「東」の字の上のところに、仏母塚があります。(下の図の右下の角(かど)のところにあって見切れているのが、東塔地区の中心である根本中堂です)。(下の図のなかの方角は、上側が北で、下側が南です)。
なお、狩籠岡の伝承が記されている文献の多くでは、大納艮岡というのは、狩籠岡の別名だとされています。ですので、どうやら、この2つは、おなじ場所のことであるようです。ですが、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪の古地図では、この2つは別々の山として描かれています。もしかすると、もともとは、別々の場所を指す言葉だったものが、しだいに同一視されるようになった可能性もあるかもしれません。もしくは、この古地図の制作者側の意図として、なんらかの理由から、「比叡山の名所旧跡の数を水増ししたい」という意図があったのかもしれません。または、(可能性は低いとおもいますが、)この古地図を描いた人が、その2つがおなじ場所であることを知らずに、別々の場所だとおもって描いたのかもしれません。
前述のように、狩籠岡は、「比叡山四大魔所」の1つであるとされています。この「魔所」という言葉は、もしかすると、「木が生い茂る森」のことを意味していたのかもしれません。「魔所」と森林について、中澤克昭さんは、「中世寺院の暴力」と題した文章のなかで、つぎのように述べておられます(中澤, 2007, pp.183-184)。
長承四年(一一三五)、行源という僧が、豊後国国東六郷満山の岩屋の開発について、つぎのように語っている。
〔中略〕
もとは大小の樹木が繁り、人跡の絶える所であったが、樹木を切り払い、石や木の根を掘りかえし、田畑を開発したという。やはり、樹木を切り払うことに関する葛藤は何も語られていないが、見逃せないのは未開発地を「大魔所」と称していることである。これは、樹木が繁茂する山地に付与された負のイメージと言えよう。中世に開発対象地を「黒山」と称したことが知られているが[黒田 一九八四]、「大魔所」は「黒山」よりも強い負のイメージではないだろうか。ヨーロッパのキリスト教ほど鮮烈ではないかもしれないが、日本中世の僧侶たちにも「大魔所」として山林に対する畏れやタブーを否定し、開発を推進しようとする思想があったと言えよう。
(中澤克昭「生かされる樹木と殺される樹木」, 「中世寺院の暴力」 『中世寺院暴力と景観 (考古学と中世史研究 ; 4)』) [17]
このように、中世の仏教僧侶のなかには、「切り拓かれるべき未開拓の森林」のことを、「魔所」と呼んでいた人たちがいたようです。ちなみに、狩籠岡は、かつては、樅(モミ)の大木が生い茂る場所だったそうです(北村, 1988, p.61)。ですが、それらの樅の木は伐採されてしまい、現在の狩籠岡は、奥比叡ドライブウェイの一部となって、車を停められる広場のような「拓けた」場所になっています。
ちなみに、狩籠岡以外の「比叡山四大魔所」の残りの3つは、元三大師御廟と、慈忍和尚廟と、天梯権現祠です(延暦寺執行局, 1974, pp.165-166 ; 奥田, 2010, p.97)。これら3つはどれも、堂舎僧坊が立ち並ぶ場所からすこし離れた、木々が生い茂る場所にあります。このことも、「魔所」が「樹木が繁茂する山地」のことであることを裏付けているのかもしれません。延暦寺執行局が編集した『比叡山』という本では、「比叡山四大魔所」のそれぞれが「樹木が繁茂する」場所であることが、つぎのように述べられています(延暦寺執行局, 1974, pp.165-166)。
遠く横川に迴ると元三慈恵大師の御廟が香芳峯の千古の老杉に囲まれて、昼なお寂漠とした天地に静まっている。〔中略〕飯室谷にある慈忍和尚の墓域は鎮守の森と呼ばれているが、ここには巨大な老杉が参道に整列して壮観を呈している。叡山には古来「魔所」といって恐れられているところが四ヵ所あり、そこには矗々たる老杉がそびえて、何となく物恐ろしい感じを起させるが、その二つは東塔の天梯権現祠と狩籠ケ丘とで、残りの二つがこの飯室の慈忍和尚廟と横川の元三大師の御廟とである。魔所には天狗が住んでおって不浄の輩や不信の徒輩はしばしば天狗のこらしめに遭うなどともいわれているが、旧路をたどり、昼なお暗い千古の老杉のもとにたたずんで、苔むした高僧の墓塔にぬかずくとき、いい知れぬ静けさが天地をおおうてそこにある想いがする。
(延暦寺執行局「比叡山への路」, 『比叡山』) [18]
余談ですが、前述の、中世の仏教僧侶による「森林を魔所ととらえる考え方」は、香取本『大江山絵詞』の物語のなかで、延暦寺の開祖である最澄が、「仏敵」である酒呑童子(酒天童子)が変化した楠を伐り倒す(調伏する)場面にもあらわれているのかもしれません。
盤坂鬼石
比叡山延暦寺の中央を流れる大宮川(おおみやがわ)の岸のちかくに、盤坂鬼石(つづらざかのおにいわ)、または、鬼石(おにいわ)と呼ばれる岩があるとされています(武, 2008, p.222)。『日吉社神道秘密記』には、盤坂鬼石についての記述として、「鬼石(おにいわ)有り。橋より少し上なり。昔、鬼神休むなり」と書かれています(神道大系編纂会, 1983, p.375 ; 続群書類従完成会, 1959, p.12)。また、「盤坂鬼石」という言葉が記されている文献としては、『渓嵐拾葉集』(けいらんしゅうようしゅう)(大正新脩大蔵経刊行会, 1968, p.868)や、千日回峰行の行者さんが巡拝ルートを記した「手文」(てぶみ)などがあります(村山, 1975, p.414)。
盤坂鬼石の場所は、はっきりとはわかりません。ですが、おそらく、下記の場所ではないかとおもいます。比叡山の東側のふもとには、日吉大社があります。その日吉大社の背後に、八王子山という山があります。その山頂ちかくから、西側の山の奥へとつづく道を行くと、神宮寺旧跡(奥惣社)という場所があります。その場所からさらに西側の奥へ行くと、大宮川が流れる大宮谷道(大宮谷林道)まで下りることができます。その下り道の途中にある大きな岩が、おそらく、盤坂鬼石ではないかとおもいます。
下の写真に写っているのは、神宮寺旧跡(奥惣社)です。この場所に設置されている解説板に、『日吉山王秘密社参次第記』という絵巻物のなかの古地図の絵が掲載されています。その古地図のなかに、盤坂鬼石が描かれています。
下の写真は、神宮寺旧跡(奥惣社)のそばに設置されている解説板に掲載されている古地図のなかの、盤坂鬼石が描かれている部分です。(この古地図は、『日吉山王秘密社参次第記』という絵巻物の一部です)。下の写真の右下のあたりに、「鬼石」という文字が書かれています。この「鬼石」が、盤坂鬼石(つづらざかのおにいわ)なのだろうとおもいます。下の写真の左下にある橋は、岩阿橋(いわくまばし)という橋であるようです。その橋の下を流れている川が、大宮川です。
下の写真は、上の写真の周辺もふくんだものです。下の写真の左側の中央のあたりに、「鬼石」(盤坂鬼石)と岩阿橋があります。下の写真の中央のあたりにある建物は、かつて、前述の神宮寺旧跡の場所にあった「神宮寺」です。
ちなみに、上の写真に写っている解説板には、『日吉山王秘密社参次第記』の絵巻物のなかの絵の一部分しか掲載されていません。この絵巻物のすべての絵と詞書(ことばがき)を撮影した写真は、『神社古図集 続編』という本に掲載されています(難波, 1990, 図版番号65, pp.53-58)。なお、その本では、『日吉山王秘密社参次第記』の絵巻物の名称が、『日吉山王秘密社参次第絵巻』という名称になっています。ですが、この『~次第記』と『~次第絵巻』は、おなじものです(黒田, 2006, pp.3-4)。『~次第絵巻』という名称は、おそらく、『日吉山王秘密社参次第記』が、絵巻物の形式をしていることから、名称に「絵巻」という言葉をつけたことによるものだろうとおもいます。
下の写真は、盤坂鬼石だとおもわれる岩です。この岩がある場所のおおよその緯度経度は、35.074131,135.853850 です。下の写真の左下に写っている看板に書かれているように、この場所は「コールポイント 比叡24」の場所です。
上の写真に写っている岩の左側には、下の写真のなかで、手前から奥に向かって伸びている上り坂があります。この坂道の先に、神宮寺旧跡(奥惣社)があります。この下の写真に写っている坂道が、盤坂なのではないかとおもいます。(もしくは、このちかくのどこかにある道が、盤坂の道なのだろうとおもいます)。
上の写真に写っている坂道を下りてきて、盤坂鬼石だとおもわれる岩を左手に見ながらすこし行くと、大宮川に架かる簡素な橋があります。下の写真に写っているのが、その橋です。この橋は、上掲の『日吉山王秘密社参次第記』の古地図に描かれている岩阿橋に当たるのではないかとおもいます。ただ、下の写真の橋が、『日吉山王秘密社参次第記』の古地図に描かれている、かつての岩阿橋とおなじ場所に架かっているのかどうかはわかりません。
下の写真では、左側に岩阿橋があり、中央の奥のほう(大宮川の対岸)に盤坂鬼石だとおもわれる岩があり、右側の道路(大宮谷林道)の奥のほうに悲田谷の入り口があります。悲田谷の入口のあたりから見て、大宮川をはさんだ対岸にある、おおきな岩の塊が、おそらく、盤坂鬼石ではないかとおもいます。
盤坂鬼石(つづらざかのおにいわ)という言葉の意味は、「盤坂」(つづらざか)という名称の坂道(山道)の途上にある「鬼石」(おにいわ)、というような意味だろうとおもいます。「盤坂」(つづらざか)という名称のなかの「つづら」という言葉は、この山道が、「葛藤(ツヅラフジ)の蔓(つる)のように、 くねくねとまがりくねっている」ということを意味しているのだろうとおもいます。何度も曲がりくねった坂道を意味する「つづら折り」という言葉がありますが、その「つづら」とおなじような意味であるようです。また、「盤坂」(つづらざか)の「盤」という漢字には、「曲がりくねる」という意味があります。そのことから、「盤」という漢字を、「つづら」と読ませるようになったのではないかとおもいます。
鬼腰掛岩
西塔北尾谷地区には、鬼腰掛岩(おにのこしかけいわ)という、八瀬童子にゆかりのある岩があったとされています。
平安時代のなかごろに、比叡山延暦寺の最高位である天台座主であった院源(いんげん)という人が、閻魔大王からの依頼をうけて地獄を訪れたことがありました。そのとき、院源(いんげん)が帰る際に、彼を比叡山へと送り届けるために、閻魔大王が二人の鬼を遣(つか)わした、という伝説があります。その二人の鬼は、比叡山の西側のふもとにある、洛北(京都市北部)の八瀬(やせ)の里に住む、八瀬童子(やせどうじ)の人びとの先祖の鬼だとされています。(『山門名所旧跡記』, p.228 ; 『西塔堂舎並各坊世譜』, pp.152-153 ; 『山門堂社由緖記』, p.272)。
鬼腰掛岩というのは、「その二人の鬼が腰掛けて休息をとった」という伝説がある岩です。鬼腰掛岩の正確な場所は不明であり、現存するのかどうかもわかりません。ですが、ぼくがその岩を探すための実地調査をおこなったときに、鬼腰掛岩ではないかとおもわれる岩を見つけました。下の写真は、鬼腰掛岩ではないかとおもわれる、その岩の写真です。
鬼腰掛岩を探すために参考にしたのは、前述の『山門三塔坂本惣絵図』の古地図と、武覚超(たけ かくちょう)さんの『比叡山諸堂史の研究』の本に収載されている「堂舎僧坊分布図」と「比叡山の古道および諸堂分布図」の地図です。そこから、鬼腰掛岩のおおよその位置を推測して、その場所へ行き、その周辺を探索してみたところ、鬼腰掛岩だとおもわれる岩を見つけました。鬼腰掛岩(推定)がある場所のおおよその緯度経度は、35.074995, 135.829416 です。
下の図は、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪に描かれている鬼腰掛岩(鬼ノ腰掛岩)の図です。
下の図は、上の図の周囲もふくんだ西塔北尾谷地区の図です。下の図の右上のあたりに、鬼腰掛岩があります。下の図の左下にある大きい四角形の建物は、西塔地区の本堂である釈迦堂です。
下の地図は、西塔地区から鬼腰掛岩までの道のりと、そこから八瀬の里への道のりを示したものです。
(参考:鬼腰掛岩については、つぎのURLでくわしくお話しています:https://wisdommingle.com/?p=27610 )。
この上の地図の道のりをたどっていく様子や、鬼腰掛岩とおもわれる岩などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。
また、この下の動画では、鬼腰掛岩から、八瀬天満宮への道のりも紹介しています。
動画 : 鬼腰掛岩への道のりと、そこから八瀬天満宮への道のりの映像
八瀬の鬼ヶ洞
比叡山の西側のふもとにある八瀬(やせ)の里の西側の山の中腹に、鬼ヶ洞(おにがほら)と呼ばれる洞窟があります。鬼ヶ洞には、かつて、酒呑童子や、鬼童丸(鬼同丸)や、八瀬童子(やせどうじ)の祖先である鬼が隠れ住んでいたという伝説があります。
かつて、八瀬の人びとは、毎年7月15日に、先祖の鬼をとむらうために、鬼ヶ洞の前で念仏供養の儀式をおこなっていたそうです。ですが、その儀式は、大正時代に廃絶してしまい、現在はおこなわれていないそうです。(池田, 1963, pp.15-32 ; 梅原, 2001, p.13)
江戸時代前期の儒学者である林羅山(はやしらざん)は、鬼ヶ洞の大きさを、「高さ約6メートル、深さ約9メートル」としています。ぼくの目測による推定値としては、(かなりおおざっぱな数値にはなりますが、)鬼ヶ洞を構成する巨大な岩全体の高さは12メートルぐらいで、洞窟の入口の高さは7~8メートルぐらい、洞窟の入口の横幅は2メートルぐらい、洞窟の奥行きは9~10メートルぐらいではないかと感じました。
下の地図は、八瀬の里から、鬼ヶ洞までの道のりを示したものです。鬼ヶ洞がある場所のおおよその緯度経度は、35.082993, 135.814054 です。鬼ヶ洞は、標高300メートルほどの場所にあります。
下記に列挙した文献は、八瀬の鬼ヶ洞についての記述がある、江戸時代に書かれた文献です。
- 「酒顚童子の洞に題す」(『林羅山詩集』(『羅山文集』)所収)
- 『本朝通鑑』
- 『雍州府志』
- 「北肉魚山行記」(『近畿歴覧記』所収)
- 『都名所図会』
- 『京師巡覧集』
- 『山城名勝志』
- 『出来斎京土産』
- 『山州名跡誌』
- 『菟藝泥赴』
- 『八瀬記』
(参考:八瀬の鬼ヶ洞については、つぎのURLでくわしくお話しています:https://wisdommingle.com/?p=27610 )。
この上の地図の道のりをたどっていく様子や、鬼ヶ洞の洞窟の様子や、その内部などを撮影した動画は、この下のYouTube動画でご覧いただけます。
動画 : 鬼ヶ洞への道のりと、鬼ヶ洞の映像
角大師
「比叡山の鬼」のなかでも、とくに有名なのは、おふだに描かれた「角大師」(つのだいし)と呼ばれる鬼の絵です。角大師というのは、平安時代中期に、比叡山延暦寺の最高位である天台座主をつとめた良源(りょうげん)という高僧が、鬼に変身した姿です。良源は、その命日が正月の一月三日だったことから、元三大師と呼ばれています。また、死後にその業績を讃えて「慈恵」という諡号をあたえられたことから、慈恵大師とも呼ばれます。
角大師のおふだの由来については、『近江の伝説』という本につぎのような記述があります(渡辺, 1974, p.182-183)。
比叡山横川の御廟(みみょう)は慈恵大師の墓である。慈恵大師は叡山中興の祖と仰がれる高僧で、元三大師ともいう。良源のことで、むかしから魔除(まよ)けの護符として、角大師・豆大師の像が民衆の家によくはられ、信仰されてきた。
角大師というのは鬼の姿である。良源は大変美しい僧で、都の貴族に招かれて祈祷をしたが、しばしば若い女官たちから誘惑された。それで鬼の姿をして魔道から逃れようとした。
また、あるとき慈恵大師が書斉で本を読んでいると疾病神がやってきて、「大僧正さまは丁度今厄に当たっておられるので、おそれながら体をかして欲しい」と言った。そこで慈恵大師は「ともかく汝のいう通りになろう」と言って、左手の小指を差し出すと、疾病神が乗り移り全身悪感に襲われて堪え難い苦しみを感じた。さすがの慈恵大師も困った。そこで念力と祈願をされたら、たちまち疾病神は去ってもとの体になった。この苦悩を多くの人が味わっているのは気の毒であるとし、祈祷をした護符をもって魔除けの霊験をあらわした。
また、豆大師の像も元三大師というがこれは農家の人々が豆を沢山収穫できるという信仰の護符である。
(渡辺守順「角大師」, 「信仰伝説」, 『近江の伝説』) [20]
また、『大津の伝説』という本には、つぎのような記述があります(大津市歴史博物館, 1991, p.57)
良源はいまさら説明するまでもなく、第一八代天台座主として当時荒廃していた延暦寺の堂舎の再建に全力を注ぐ一方で、山内の規制を厳しくして僧風の刷新をはかるなど、叡山中興の祖ともよべる人物である。このような彼の厳正な人格と大きな業績から、入寂後、彼を観音菩薩の生まれ変わりだとか、不動明王の化身だという信仰が生まれ、これがのち民間にも広がり諸々の厄災の護符としてその影像が盛んに用いられるようになっていった。これが「角大師・豆大師」といわれるもので、大師が人々を病魔から守るために自ら絵のような鬼の姿に変身したり、美男子であった大師が女性をさけるために豆粒程度の鬼畜に変身したという伝説から、二枚の護符がつくられるようになったのだと伝えられている。
(大津市歴史博物館「角大師と豆大師」, 『大津の伝説 (ふるさと大津歴史文庫 5)』) [21]
下の写真は、角大師のおふだの実物です。このおふだは、横川地区にある四季講堂の南側に隣接する僧坊の玄関に貼られていたものです。
四季講堂の門の前には、「元三大師と角大師の由来」と題した石碑があり、そこに角大師の絵が刻まれています。
ついでながら、横川地区には、元三大師(良源)を祀った、元三大師御廟という廟所があります。(元三大師の「御廟」を「みみょう」と読むのは、伝教大師最澄を祀る御廟(ごびょう)と区別するためだそうです)。元三大師御廟は、「比叡山三大魔所」や、「四大魔所」のひとつとされている場所です。
鎌倉時代末期につくられた『天狗草紙』という絵巻物では、延暦寺をふくむ当時の大寺院の傲慢さを非難・風刺して、それらの大寺院の僧侶たちは天狗であるとされています。その『天狗草紙』の「延暦寺巻」には、つぎのような記述があります(小松, 1983, p.117)。
なかにも御廟の先徳慈恵は、仏法擁護のために魔界の棟梁とし、地主二の宮権現は、天狗をもて使者とし給ふ。かるがゆへに、一切天狗みな我山の衆徒、御廟の伴党なるものをや。
(『天狗草紙』延暦寺巻) [22]
このように、『天狗草紙』には、「御廟(みみょう)に祀られている慈恵大師(元三大師)は、魔界の首領であり、天狗を部下として従えている」というような意味のことが書かれています。また、『天狗草紙』の「延暦寺巻」の絵の最後のところには、元三大師御廟の絵が描かれています(小松, 1983, p.133)。元三大師御廟が「魔所」とされている背景には、こうした思想も影響しているのかもしれません。
ここまでお話してきたように、元三大師は、鬼(角大師)でもあり、天狗のボスでもあったとされています。本稿の冒頭で紹介した、馬場あき子さんによる「鬼の分類」のなかには、「山伏系の鬼」として「天狗」もふくまれていました。そのように、ひろくとらえれば、天狗も鬼の一種だと言えるかもしれません。そう考えると、鬼でもあり、天狗でもあった元三大師は、二重の意味で鬼であると言えるかもしれません。
飢餓坂
西塔地区と横川地区をつなぐ山道は、峰道(みねみち)と呼ばれています。この峰道は、千日回峰行のルートのひとつです。その峰道の途中に、飢餓坂(きがざか)と呼ばれる場所があります。この場所については、『山門名所旧跡記』の「西塔北尾谷」の「修禅峯通」の「飢餓坂」の項目に、次のような記述があります(『山門名所旧跡記』, p.229)。(下記の文章を読みやすくするために、原文の漢文を、引用者が書き下し文にしました)。(下記の文章では、「飢餓坂」を「かつえざか」と読ませているようです)。
飢餓坂(かつえ坂)
諸(もろもろ)の餓鬼の集まる所なり。相応和尚(そうおうかしょう) 練行(れんぎょう)の時、飢餓(かつえ)し玉(たま)う。故(ゆえ)に飢餓坂(かつえ坂)と曰(い)う。
(「修禅峯通」, 「西塔分」, 『山門名所旧跡記』巻一) [23]
上記の文章のおおよその意味は、つぎのようなものです。
「この場所は、多くの餓鬼が集まるところである。相応和尚が苦行をしていた時に、この場所で空腹になられた。そのため、この場所を飢餓坂(かつえ坂)と呼ぶのである。」
上記の伝承は、おそらく、千日回峰行の行者さんたちが、回峰行の途上で、飢餓坂のあたりで空腹を感じることが多かったことからうまれた話ではないかとおもいます。
相応和尚というのは、平安時代前期の人で、比叡山の千日回峰行の始祖であり、天台修験(天台宗の修験道)の開祖であるとされている人です。相応和尚が朝廷に働きかけたことで、最澄と円仁に、それぞれ「伝教大師」と「慈覚大師」という大師号が与えられることになった、というのも有名な逸話のひとつです。そのほかにも、相応和尚にまつわる伝承はたくさん残っています。そのことからもわかるように、相応和尚は、比叡山延暦寺において、とくに重要な人物のひとりだと言えるでしょう。上記の飢餓坂の伝承に、相応和尚が登場している理由は、おそらく、回峰行者を比喩的に表現するための象徴的存在として登場しているのではないかとおもいます。
また、餓鬼というのは、生前の罪や貪欲さの報いとして、死後に餓鬼道(がきどう)と呼ばれる世界に転生した死者のことです。餓鬼は、いつも飢えと渇きに苦しんでいるとされています。おそらく、上記の飢餓坂についての伝承における「餓鬼」というのは、「空腹を感じることの比喩」ではないかとおもいます。比叡山の山中を巡礼する千日回峰行の行者さんは、一日で比叡山を一回りする長大なルートを巡拝しながら歩きます。そのように肉体を酷使する回峰行者さんたちは、その道のりの途上にある、飢餓坂のあたりで、空腹を感じることが多かったのではないかとおもいます。そこから、「この場所で空腹を感じることが多いのは、きっと、この場所に、常に飢えに苦しんでいるという餓鬼が現れることによる影響なのだろう」という連想がはたらいたのではないかとおもいます。そうして、「この場所は、餓鬼が集まる場所である」という話がうまれ、そこから、「常に飢えている餓鬼」にちなんだ飢餓坂(きがざか)という地名がうまれたのではないかとおもいます。
比叡山の古地図である『山門三塔坂本惣絵図』では、飢餓坂は、下記の2つの地点のあいだにあるとされています。
- 地点1:狩籠岡(かりごめのおか)(おおよその緯度経度:35.076756,135.835736)
- 地点2:峰道の途中にある、黒谷青龍寺へと下る道への三叉路(おおよその緯度経度:35.084072,135.839140)
また、『山門三塔坂本惣絵図』では、「地点1」から「地点2」へ行く道の途中で、山を2つ越えています。この2つの山のうち、2つ目(北側)の山の南側の斜面のところに、「飢餓坂」と書かれています。
下の図の右上のあたりにある三叉路が、上記の「地点2」です。下の図の下のほうにあって、「飢餓坂」と書かれている山が、上記の「2つ目(北側)の山」です。下の図の左下のすみっこにあって、見切れている山が、「地点1」から「地点2」へ行く道の途中にある2つの山のうちの、「1つ目(南側)の山」です。
下の図は、上の図の周辺もふくんだ図です。下の図の中央からやや右へいったところに、「飢餓坂」という文字が書かれています。下の図の下のほうにある大きな四角形の建物は、西塔地区の本堂である釈迦堂です。また、左上のほうにある、すこし大きめの四角形の建物は黒谷地区の青龍寺です。
現在の地図上で、現在の峰道のルートと、『山門三塔坂本惣絵図』の古地図に描かれた峰道のルートを照らし合わせながら、「地点1」と「地点2」のあいだの2つの山の場所を推測してみました。その推測結果は、下記のとおりです。
おそらく、1つ目(南側)の山の場所は、現在の峰道のルートの途中にある、標高717メートルほどの高さのところのあたりではないかとおもいます。(その場所のおおよその緯度経度は、35.078227,135.836538 です。)
また、2つ目(北側)の山の場所は、現在の峰道のルートの途中にある、標高728メートルの峰の頂上のところ(おおよその緯度経度:35.078991,135.838265)から、北北西に伸びる尾根と、現在の峰道のルートが交わる地点のあたり(おおよその緯度経度:35.080088,135.837804)ではないかとおもいます。
以上の推測から判断すると、「飢餓坂」のおおよその場所は、「緯度経度:35.079649,135.837772」のあたりではないかとおもいます。(その場所は、現在、峰道レストランがある峰道駐車場のすぐ西のあたりです。峰道駐車場から、奥叡山ドライブウェイの車道を挟んで、その西側のあたりです。)
餓鬼坂
比叡山の山上にある横川地区と、そこから山を下ったふもとにある飯室谷(いむろだに)をつなぐ、飯室坂(いむろざか)と呼ばれる山道があります。その山道の途中に、餓鬼坂(がきざか)と呼ばれている場所があります(北村, 1988, p.54)。その名のとおり、餓鬼にゆかりのある場所のようです。(飯室坂は、横川本坂や、中尾坂とも呼ばれます)。飯室坂は、飯室谷の恵光坊流の千日回峰行のルートのひとつです。
この場所については、「餓鬼坂」という名前以外のくわしいことはよくわかりません。ですが、その名前からして、おそらく、前述の、西塔地区にほどちかい峰道の途中にある「飢餓坂」(きがざか)とおなじような理由から、「餓鬼坂」という名前が付けられたのだろうとおもいます。具体的には、比叡山の山中を巡礼する千日回峰行の行者さんが、この場所のあたりで空腹を感じることが多かったことから、「飢え」を象徴する「餓鬼」という言葉が付けられたのではないかとおもいます。
餓鬼坂も、前述の「飢餓坂」とおなじように、千日回峰行のルートの一部です。正確には、餓鬼坂は、飯室回峰行のルートの一部です(梶原, 1994, p.229 ; 朝日新聞社, 1985, p.17)。かつて、比叡山の回峰行には、下記の3つの流派がありました。(現在は、無動寺回峰行と、飯室回峰行の流派だけが残っています)。
- 無動寺谷の玉泉坊流
- 飯室谷の恵光坊流
- 西塔北谷の正教坊の石泉坊流
飯室坂は、飯室谷を出発して、比叡山を一回りして帰ってきた行者さんが、最後に、横川地区から山道を下って飯室谷に帰ってくるときにとおる道です。つまり、飯室回峰行の最後にとおるのが、飯室坂だということです。比叡山山中の「行者道(ぎょうじゃみち)」と呼ばれる険しい山道を歩き回った行者さんは、飯室坂に来るころには、きっと疲労や空腹を感じていることでしょう。そのように、飯室坂のあたりで空腹を感じることが、「飢え」の象徴である餓鬼を連想させて、そのことが「餓鬼坂」という地名の由来になったのではないかとおもいます。
ちなみに、飯室坂は、無動寺回峰行のルートにはふくまれていません(楠, 2016, p.42 ; 梶原, 1994, p.120)。そのため、飯室坂をとおるのは、飯室回峰行の行者さんだけです。ですので、おそらく、餓鬼坂は、飯室回峰行の行者さんに由来する地名なのではないかとおもいます。
餓鬼坂の具体的な場所は、つぎのとおりです。飯室坂は、横川地区の中心である横川中堂(よかわちゅうどう)と、飯室谷地区の中心である不動堂をつなぐ道です。その途中に、日本生命慰霊宝塔があり、そのすぐちかくに、飯室谷へと下っていく山道の入り口があります。(下の写真の左側に写っているのが、その下りの山道の入り口です。その場所のおおよその緯度経度は、35.092829,135.852806 です。)
その下りの山道を下っていくと、その下り道のちょうど中間あたりに、和労堂(わろうどう)や宿(やどり)と呼ばれる休憩所があります(そこには、観音の石仏もあります)。(その和労堂がある場所の、おおよその緯度経度は、35.091258,135.858377 です)。飯室坂の道のりのなかの、その和労堂よりも上の部分の道のことを、餓鬼坂と呼ぶそうです(北村, 1988, p.54)。つまり、餓鬼坂とは、横川中堂と上記の和労堂のあいだの道のことであるようです。飯室坂を下りきると、飯室谷の入り口に、下の写真に写っている「横川 元三大師堂えの道」という石標があります。(元三大師堂というのは、四季講堂のことです)。
下の図の左下のあたりにある、小さな四角形が、飯室坂の和労堂です。その和労堂よりも上の部分の道が、餓鬼坂の道です。下の図の右上(北西)へ行くと横川の戒心谷地区があり、左下(南東)へ行くと飯室谷があります。
下の図は、上の図の周辺までふくんだ図です。下の図では、右上に横川地区があり、左下に飯室谷地区があります。
艮岳の鬼門柱
西塔地区には、「艮岳の鬼門柱」という俗称がある、相輪樘(相輪橖)という塔が立っています(吉田, 1969, p.653)。「艮岳」という言葉は、正式には、「こんがく」と読むようです(神宮司庁, 1913, p.804)。ですが、これを訓読みすると「うしとらだけ」になります。「艮岳の鬼門柱」というのも、なにやらおどろおどろしいかんじがして、興味を惹かれるものがあります。
ちなみに、「艮岳」(こんがく)という言葉は、本来は、比叡山地の最高峰である大比叡峰のことを指す言葉です。ですが、「艮岳の鬼門柱」という名称のなかでつかわれている「艮岳」という言葉は、広い意味での「比叡山」(比叡山地、比叡山延暦寺の境内)というような意味でつかわれているようです。
ぼくが、実際に、この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))を見たときには、その存在感や、形状や装飾デザインの秀麗さ、あたりの静謐な空気感、などの印象からなのか、かなりの迫力をかんじました。
この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))は、もともと、日本天台宗と比叡山の開祖である最澄が創建したものです(武, 2008, p.236)。つまり、この鬼門柱は、とても由緒ただしい名所旧跡でもあるのです。(ただ、この相輪樘(相輪橖)は、これまでに、廃絶、再建、改修などをへているので、現在のものは、最澄が生きていた時代のものそのものではありません。)この「鬼門柱」は、西塔地区の本堂である釈迦堂の裏(北側)の丘の上にあります。(おおよその緯度経度は、35.075571,135.834022 です)。
『昭和京都名所図会 3 洛北』という本では、この相輪樘(相輪橖)のことを、下記のように紹介しています(竹村, 1989, p.166)。
〔相輪橖〕(重文・貞観)は俗に「鬼門柱」ともよばれる。釈迦堂の後方山林中にある高さ約一〇メートル、青銅製の相輪で、塔内に法華経・大日経など二十三部五十八巻を納める。
この相輪は普通の三重・五重塔上の九輪とちがい、心柱上につけた形、いいかえれば塔の木造部分が柱状になった経幢の一種である。明治二十八年(一八九五)の改修によって旧観を一新した。
(竹村俊則『昭和京都名所図会 3 (洛北)』) [25]
下の図は、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪に描かれている相輪樘(相輪橖)です。
下の図は、上の図の相輪樘(相輪橖)の周囲もふくむ、西塔地区の北側のあたりの図です。下の図のなかの、左側の大きな四角形の建物は、西塔地区の本堂である釈迦堂です。また、下の図の右側の小さい四角形の建物は、「織田信長による比叡山焼き討ちの際に焼失しなかった唯一のお堂」として有名な瑠璃堂です。現在の相輪樘(相輪橖)と、釈迦堂と、瑠璃堂の位置関係も、下の図の位置関係とだいたいおなじです。
玉泉坊の青鬼
昔、比叡山に玉泉坊(玉泉房)という僧坊があり、そこに青鬼が出たという話が残っています。その話は、いろいろな文献に記されているのですが、おおまかなあらすじは、つぎのようなものです。
「昔、玉泉坊に住んでいた玉泉坊という名の僧侶が、妄執にとらわれて鬼となってしまったが、玉泉坊を訪れた僧侶が詠んだ和歌を聞いたことで、成仏することができた」
鎌倉時代末期~南北朝時代ごろに記された、曼殊院蔵 伝尊円『古今序注』のなかの「めに見えぬ鬼神をもと云う事」という項目には、この話がつぎのように記されています。(今野, 1987, pp.67-68)
露うち払ひて家に指入て見れば、玉をつらねかざりたる家なれば、ぬしはなけれども面白かりけり。此の僧思けるは、玉泉坊と名をゆひける事は、殊に泉殿を結構して有けるによてこそ云はれけれと思て、泉殿を入て見れば、八月中旬の事なれば、月くまなきことかぎりなし。泉殿にかげやどりたり。心をすまして一首の哥をよみける。
たまのいづみ もとのあるじは すまずして
うはの空なる 月ぞやどれると読たりければ、奥の方より青鬼おどり出でて、あら面白やといふ。この僧、道にはしりたうれて死にけり。鬼枕がみに寄て云く、我は昔し玉泉房なり、必ずして人を検ぜむと思ふ事はなけれども、我妄犱に寄てかゝる鬼神と成たり。今日より我他国へ行べし。此坊は汝にとらせんずるなりとて、失にけり。さてこの僧生帰りにけり。この坊の跡、今につたはりたり。
(「めに見えぬ鬼神をもと云う事」, 曼殊院蔵 伝尊円『古今序注』) [26]
残念なことに、この話に登場する玉泉坊という建物があった場所は、いまでは誰にもわからないようです。このことについて、仏教学者として天台宗の研究をされていた硲慈弘さんは、つぎのように述べておられます(硲, 1928, p.23-24)。
この物語は、三国伝記に記するところではあるが、しかし此の話の秘められた場所が東塔か西塔か、或はまた横川なのか全く知る由もない。勿論東塔南谷には所謂る玉泉房といふのがあつたさうではあるが、彼此同一なのか否やは今断言できない。
(硲慈弘「玉泉房の怪事」, 『伝説の比叡山』) [27]
この話に登場する玉泉坊があったとされる場所は、文献によって異なります。それらの情報をまとめると、どうやら、下記の2つの地区のどちらかにあったようです。
- 西塔東谷(西塔地区のなかの東谷地区)
- 東塔南谷(東塔地区のなかの南谷地区)
ですが、ぼくが調べたかぎりでは、西塔東谷に、「玉泉坊」(または、玉泉房、玉泉院)といった名前の建物があったと記している文献は見つけられませんでした。
ただ、西塔東谷には、かつて、「玉泉坊」と似たような名称の、「福泉坊」という建物がありました。もしかすると、「西塔東谷の玉泉坊」というのは、その「福泉坊」のことなのかもしれません。(残念ながら、福泉坊の跡地の正確な場所はわかりません。)
下の『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪の図のまんなかのやや左のところに、「福泉坊旧跡」と書かれています。
下の図は、上の図の周辺までふくんだ、西塔地区の図です。下の図の右下の大きな四角形は、西塔地区の中心である釈迦堂です。(下の図のなかの方角は、左側が北で、右側が南です。)
一方、東塔南谷については、そこに「玉泉坊」という建物があったと記している文献が、たしかにあります。ですが、その文献のほかに、それを裏付ける文献が見つけられませんでした。また、「東塔南谷の玉泉坊」があった場所も、わかりませんでした。こうしたことから、「東塔南谷に玉泉坊があった」という情報については、いまいち確信がもてませんでした。
ちなみに、東塔南谷のちかくにある無動寺谷地区には、かつて玉泉坊という建物がありました。ですので、もしかすると、「東塔南谷の玉泉坊」というのは、「無動寺谷の玉泉坊」のことを指している可能性もあるかもしれません。(ちなみに、無動寺谷の玉泉坊は、のちに名称が変わって、玉照院と呼ばれるようになりました。玉照院は、いまも無動寺谷に現存しています。)
下の図の下のほうに、「玉照院」と書かれています。
下の図は、上の図の周辺までふくんだ、無動寺谷地区の図です。玉照院(旧称:玉泉坊)は、下の図の左下のところにあります。(下の図のなかの方角は、左側が南で、右側が北です。)
また、東塔西谷にも、かつて、「玉泉坊」(または、玉泉院)と呼ばれていた建物がありました。ですので、もしかすると、上記の話に登場する「玉泉坊」というのは、「東塔西谷の玉泉坊」のことである可能性もあるかもしれません。(「東塔西谷の玉泉坊」の名称は、何度か変化していて、「勧学院」や「玉蔵坊」と呼ばれていたこともあります)。現在、「東塔西谷の玉泉坊」の跡地には、「玉泉院跡」と刻まれた石標が立っています。そのため、「東塔西谷の玉泉坊」があったおおよその場所はわかります。(東塔西谷の「玉泉院跡」の石標がある場所のおおよその緯度経度は、35.069622,135.839094 です)。
下の図のまんなかあたりに、「玉泉院」と書かれています。
下の図は、上の図の周辺までふくんだ、東塔西谷地区のあたりの図です。玉泉院は、下の図の右下のところにあります。下の図の右上にあるおおきな建物は、大講堂です。下の図の左上にあって見切れているおおきな建物は、根本中堂です。(下の図のなかの方角は、左側が北で、右側が南です。)
以上のことをまとめると、「玉泉坊の青鬼」の話に登場する「玉泉坊」という建物があった可能性がある場所は、つぎの4箇所だとおもいます。
- 西塔東谷(西塔地区のなかの東谷地区):玉泉坊(福泉坊のことか?)
- 東塔南谷(東塔地区のなかの南谷地区):玉泉坊(確証がもてませんでした)
- 無動寺谷(無動寺谷地区):玉照院(旧称:玉泉坊)
- 東塔西谷(東塔地区のなかの西谷地区):玉泉坊(玉泉院)
十羅刹女尾
小比叡峰(おびえみね)(横高山)から横川地区(よかわ地区)へ向かう峰道(みねみち)の南側に、十羅刹女尾(じゅうらせつにょのお)という、複数の谷が密集している場所があります。(十羅刹女尾の「尾」というのは、ここでは「谷」のことだろうとおもいます)。十羅刹女尾は、「もともとは鬼女だった10人の女神」にゆかりのある場所です。
下の絵は、『山門三塔坂本惣絵図』第2鋪に描かれた十羅刹女尾(十羅刹ノ尾)です。(下記の絵図では、左側が北で、右側が南です)。下の絵の左側にある鳥居は、不二門(ふにもん)と呼ばれていた鳥居です。その鳥居を通っている道が峰道と呼ばれる道です。この峰道を、南に行くと小比叡峰(横高山)があり、北へ行くと横川地区に至ります。
羅刹(らせつ)というのは、『ラーマーヤナ』などのインド神話に登場する、人肉を食らう悪鬼です。羅刹という言葉は、サンスクリット語のラークシャサを音写したものです。羅刹は、足が速いことから、速疾鬼(そくしつき)とも呼ばれます。
十八人の地獄の鬼がいるが、頭は羅刹、口は夜叉のようである。六十四の眼を持ち、鉄の塊をふきあげ、まき散らしている。鉤のように曲った牙は上に〔突き〕出し、長さは四由旬もあり、牙の先からは火が流れでて、阿鼻〔地獄〕の城に充満している。頭の上には牛の頭が八つついていて、それぞれの牛の頭に十八本の角が生え、それぞれ角の先からみな猛火を〔ふき〕出している。
(恵心僧都 源信「阿鼻地獄」『往生要集』) [29]
羅刹女(らせつにょ)というのは、女性の羅刹のことです。羅刹女という言葉は、サンスクリット語のラークシャサ(羅刹)の女性形であるラークシャシーという言葉を漢訳したものです。羅刹女は、美しい容貌をしていますが、羅刹とおなじように、人肉を食らう鬼女です。
羅刹と羅刹女は、もともとは、そのような恐ろしい存在でした。ですが、のちに仏教に取り入れられて、仏教の守護神となりました。具体的には、羅刹は、十二天(仏教を守護する12柱の神々)のなかの羅刹天となりました。
一方、羅刹女も、仏教に取り入れられて、『法華経』の「陀羅尼品」(だらにほん)に登場する、仏教を守護する10人の羅刹女(十羅刹女(じゅうらせつにょ))となりました。十羅刹女尾の「十羅刹女」とは、この10人の羅刹女のことです。このように、十羅刹女は、「悪鬼・鬼女としての羅刹女」ではなく、「仏教を守護する女神」です。
十羅刹女尾の名前の由来はわかりませんが、おそらく、その地形の形状から連想した地名ではないかとおもいます。下の地図は、十羅刹女尾のあたりの写真です(おおよその緯度経度:35.090944,135.840390 )。下のほうから、右上のほうに蛇行しながら伸びている線は、奥比叡ドライブウェイの車道です。下の写真のまんなかのあたりの、奥比叡ドライブウェイの車道に囲まれているところが、十羅刹女尾です。そのあたりは、複数の谷が密集している場所です。そのように、たくさんの谷があることをあらわすために、「10」という数字がついている「十羅刹女」という言葉が、地名として選ばれたのかもしれません。
ちなみに、十羅刹女尾のあたりや、そのすぐ西側にある小比叡峰(横高山)の東側の中腹あたりは、大宮川の水源地帯のひとつです。大宮川は、比叡山の中央をとおって、東麓の日吉大社や、坂本の里へ流れていく川で、太古から神聖な川とされています。小比叡峰から湧き出した水は、十羅刹女尾の谷々をとおって地主谷(じしゅだに)とよばれる谷にあつまり、その谷をとおって東に向かい、北の横川から流れてくる大宮川に流れ込みます(北村, 1988, p.59, p.70)。
インド神話では、羅刹や羅刹女は、水に住むとされています。ですので、もしかすると、十羅刹女尾のあたりが水源地帯であることも、この場所の地名に、水にゆかりのある「羅刹女」という言葉が冠された理由のひとつなのかもしれません。
釈迦堂の鬼瓦
釈迦堂は、比叡山延暦寺の西塔地区の本堂です。その釈迦堂の屋根のいちばん上の部分の両端には、下の写真のような鬼瓦が付いています(文化財保護委員会, 1968, p.471, p.477)。
横川中堂の鬼瓦
横川中堂は、比叡山延暦寺の横川地区の本堂です。その横川中堂の屋根のいちばん上の部分の両端には、下の写真のような鬼瓦が付いています。
鬼追い式
根本中堂は、比叡山延暦寺の中心である総本堂です。その根本中堂の前の広場では、毎年12月31日の大晦日に、鬼追い式という儀式が行われます。(この儀式は、お正月に天下平安などを祈願する修正会(しゅしょうえ)の儀式の一部としておこなわれるものです)。
鬼追い式は、錫杖をもった錫杖師(しゃくじょうし)という僧侶が、貪瞋痴(とんじんち)の三毒(さんどく)を象徴する4人の鬼を退治する(降伏(ごうぶく)する)、という儀式です。4人の鬼は、それぞれ下記のこころを象徴しています。
- 笑い鬼(黄鬼):貪欲(とんよく)(むさぼりのこころ)の象徴
- 怒り鬼(赤鬼):瞋恚(しんに)(怒りのこころ)の象徴
- 泣き鬼(青鬼)愚癡(ぐち)(不平不満のこころ)の象徴
- 無明鬼(むみょうのおに):貪瞋痴(とんじんち)の3つの心をすべてあわせもった最強最悪の鬼(人間の姿そのものの象徴)
鬼追い式がはじまる前には、儀式の場を清めるために、僧侶が「法水」という水をふりまいてまわります。
そのあと、鬼追い式をはじめる合図として、2つの大きな焚き火に点火されます。
そのあと、錫杖師が登場します。
錫杖師は、黄鬼、赤鬼、青鬼、無明鬼と、つぎつぎに登場する鬼たちを退治(降伏)していきます。
(偽)地獄石
鬼といえば、地獄の鬼をおもいうかべる人も多いでしょう。その地獄にゆかりのある地獄石と呼ばれる石が、かつて、比叡山のふもとの日吉大社にありました。『近江の伝説』という本では、その地獄石についてのつぎのような伝承が紹介されています(渡辺, 1974, p.83)。
大津市坂本本町の日吉神社の境内に地獄石がある。ある年の小春日和の暖かい日に、日吉神社に詣でた勝陽房真源が大宮の楼門に近付いたとき、三年前になくなった師匠と全くよく似た人に出会った。不思議なこともあるものだ、他人の空似というけれど、あまりによく似ているので近付いて声を掛けようとしたら「やあお前は真源ではないか、久しぶりだなあ、わしは師匠の巌算だが」と先に言われたのでびっくりした。「お前が驚くのも無理はない。これには深い訳がある」と言いながら、いったん死んだ巌算が舞いもどってきたいきさつを語りだした。日吉神社に一度でも参詣した者はすべて山王明神の悲願に救われて、仏教の修行にいそしんでいる。その証拠が見たければ日吉神社の裏山の八王子谷に来てみよといった。そこで真源がついて行くと無数の人がいて、経を読み、礼拝し、坐禅をしている姿を見たのである。
真源は死後の世界が日吉神社の裏山にあることを知った。いまも境内に地獄の入口に蓋をする地獄石があり、お盆の一六日に、その石に耳を当てると地獄の叫び声が聞こえるという。
(渡辺守順「地獄石」, 「石の伝説」, 『近江の伝説』) [34]
また、『歴史と伝説の坂本』という本には、地獄石についてのつぎのような記述があります(叡山学院学友会記念図書出版会, 1940, p.315)。
今でも日吉神社の神域に地獄石といふのがある。それは地獄の国に蓋をした石なので、盂蘭盆の十六日に、そこに耳を当てると地獄の叫び声が手にとるやうに聞えると伝へられ、明治維新頃まではこの石に耳をあてに来る人が多かったといふ。
(叡山学院学友会記念図書出版会「日吉神社の地獄石」, 「第五章 坂本の古蹟と伝説」, 『歴史と伝説の坂本』) [35]
このように、地獄石は地獄への通路の入口であったようです。もしかすると、お盆のときに、この地獄石から鬼の声が聞こえてくる、ということもあったかもしれません。
(以下は、この地獄石について、日吉大社の神職の方からお聞きした話です)。地獄石は、終戦後にどこかへ消失してしまったそうです。どのような経緯で消失したのかもわからないそうです。地獄石の正体は、おそらく、現在の恵比須社(えびすしゃ)の背後のあたりにあった、石づくりの宝塔の「塔身」の部分ではないか、とのことでした。その「石づくりの塔身」の姿が、まるで、「釜の蓋(ふた)」のように見えたことから、「地獄の釜の蓋」が連想されたことで、「地獄石」と名付けられるようになったのではないか、とのことでした。そのような経緯で「地獄石」になったとおもわれる宝塔は、『日吉山王権現知新記』という文献に記されている宝塔のことではないか、とのことでした(神道大系編纂会, 1983, p.452 ; 天台宗典刊行会, 1973, p.61)。
前述の『歴史と伝説の坂本』の本には、地獄石の写真が掲載されています(叡山学院学友会記念図書出版会, 1940, p.314)。この本は、戦前に出版された本なので、おそらく、この本に掲載されている地獄石の写真は、終戦後に消失してしまう前の、本物の地獄石の姿を写した写真なのだろうとおもいます。(後述するように、「ニセモノの地獄石」も存在します。そのため、「本物の地獄石」と「偽物の地獄石」を区別するために、ここでは「本物の」という言葉を付けています)。
『歴史と伝説の坂本』の本に掲載されている写真は不鮮明です。そのため、本物の地獄石がどのような姿をしていたのか、ということの詳細はよくわかりません。ですが、個人的には、その写真に写っている(本物の)地獄石は、石づくりの宝塔の「屋根」の部分である可能性もあるのではないかとおもいます。なんらかの理由で、石づくりの宝塔の塔身や基壇がうしなわれてしまい、「屋根」の部分だけが残されて、それが風化によって姿形が変わってしまったものが、地獄石と呼ばれていたのかもしれないとおもいます。その「石づくりの宝塔の屋根の部分」だけが地面に置かれている様子が、まるで、石づくりの「蓋(ふた)」が地面に置かれているように見えたのではないでしょうか。その「石の蓋」から、「地獄の釜の蓋」が連想されたことで、「地獄石」と名付けられるようになった、という可能性もあるのではないかとおもいます。
余談ですが、東塔北谷地区のなかの虚空蔵尾(こくぞうのお)という地区の北端のあたりに、北谷墓と呼ばれる墓地があります(武, 2008, p.292)。(その北谷墓の場所のおおよその緯度経度は、35.074307,135.842984 です)。その北谷墓に、下の写真のような、「石塔の屋根の部分」だけが地面に置かれている事例がありました。(本物の)地獄石も、この事例のように、「石づくりの宝塔の屋根の部分」だけが地面に置かれて、それが風化して姿形が変わってしまった様子が、「地獄の釜の蓋」のように見えたのかもしれません。
上記で紹介した「本物の地獄石」とは別に、「ニセモノの地獄石」とでも呼ぶべきものが存在します。下記の2つの本のなかには、「地獄石」と称する写真が掲載されています。
- 延暦寺執行局 [編集] (2001) 『比叡山 : その歴史と文化を訪ねて』, 比叡山延暦寺, p.86.
- 学習研究社 [著者] (1998) 『天台密教の本 : 王城の鬼門を護る星神の秘儀・秘伝』, 学習研究社, p.109.
ですが、どうやら、これらの本に掲載されている「地獄石」の写真に写っているのは、本当の地獄石ではない偽物であるようです。(日吉大社の神職の方も、かつての「本物の地獄石」のことを知る地元の方の体験談に照らして、上記の本に掲載されている「地獄石」は、本来の地獄石とは別物だとおもわれます、というような意味のことをおっしゃっていました)。つまり、上記の本の写真に写っているのは、いわば、「偽・地獄石」とでも呼ぶべきものであるようです。おそらく、上記の本に地獄石の話を掲載するにあたって、すでに消失していた地獄石の写真をなんとか掲載しようとして、かつて本物の「真・地獄石」があったあたりにある石を「これが地獄石だ」ということにして、その写真を「地獄石の写真」として上記の本に掲載した、というような経緯があったのではないかとおもいます。なお、上記の『天台密教の本』のなかの、地獄石について書かれているページでは、参考文献として、上記の『比叡山 : その歴史と文化を訪ねて』の本が紹介されています。ですので、「偽・地獄石」が、まるで本物の「真・地獄石」であるかのような、誤った情報がひろまってしまっている背景には、どうやら、『比叡山 : その歴史と文化を訪ねて』の本の影響があるようです。
上記の本に掲載されている写真に写っている「偽・地獄石」は、現在、日吉大社の恵毘須社と忍耐地蔵(しんぼうじぞう)の裏にある、細い小川のような水路のかたわらにあります。(偽・地獄石がある場所のおおよその緯度経度は、35.072419,135.863393 です)。
下の写真に写っているのは、恵毘須社です。そのお社の背後(写真の中央からやや右のあたりの奥のほう)に、偽・地獄石が小さく写っています。
下の写真の右端に木々に隠れて写っているのが恵毘須社です。そのすぐ左のところにある屋根が、忍耐地蔵の屋根です。下の写真の左側の石段は、白山宮へとつづく石段です。忍耐地蔵と恵毘須社の背後に、偽・地獄石があります。
下の写真の右端に写っている屋根は、忍耐地蔵の屋根です。下の写真の左側の石段の上には、白山宮が写っています。忍耐地蔵の奥のほうに、偽・地獄石が小さく写っています。
下の写真は、上の写真の石段から白山宮のある高台に登り、その高台から、偽・地獄石と恵毘須社と忍耐地蔵を写した写真です。下の写真の右端にある屋根が、忍耐地蔵の屋根です。そのすぐ左側に写っているのが、恵毘須社のお社の背後です。偽・地獄石は、下の写真の左下のあたりに写っています。
鬼怒伽羅
比叡山の山上にある横川地区の山中を水源として、北東のふもとの仰木地区を流れて、さらに東の衣川地区を経て琵琶湖へとそそぐ天神川という川があります。この天神川は、かつては、衣川(きぬがわ)と呼ばれていました(『近江輿地志略』, 1915, p.379)。この衣川の地名の由来として、『淡海温故録 巻之四』に、下記のような、鬼怒伽羅(きぬから)という鬼の話が記されています(『淡海温故録』巻之四, 1976, pp.92-93 ; 林屋, 1984, pp.264-265)。(読みやすくするために、引用者が原文のカタカナをひらがなに変えたり、読み仮名などを加えました)。
衣川(きぬがわ):絹川とも書く。此処(ここ)に昔、鬼怒伽羅(きぬから)と云(い)う鬼栖(すみ)て、人を取たりと云(い)う。其(そ)の鬼の名を略して、今、「きぬ川」と云(い)うと也(なり)。爰(ここ)に、山徒廿八家の士、全角坊住す。
このように、昔、鬼怒伽羅(きぬから)という鬼がいて、人を誘拐していたそうです。上記の説では、その鬼の名前をとって、衣川(きぬがわ)という地名がつけられたとされています。
衣川(きぬがわ)と呼ばれる地区は、下の地図の右側の琵琶湖の湖岸にほどちかいあたりの地区のことです。衣川の地区は、昔は、衣川村(きぬがわむら)と呼ばれていました(『近江輿地志略』, 1915, p.379)。衣川地区には、衣川廃寺跡(きぬがわはいじあと)や、「衣川城跡」の石碑など、かつての衣川の地区をしのばせる遺跡などが残されています。(衣川廃寺跡がある場所のおおよその緯度経度は、35.109991,135.906241 です。「衣川城跡」の石碑がある場所(西羅児童遊園地の敷地内)のおおよその緯度経度は、35.112807,135.906954 です)。
上の地図では、河川としての衣川(現在の天神川)を、左から右へと伸びる線として図示しています。衣川(天神川)の上流には、闇龗大神(闇龗神)という水神(龍神、山の神)を祀る滝壺神社があります。そこからすこし下流にある小椋神社は、857年~877年に、滝壺神社を人里近くに移したことでできた里宮としての神社です。ですので、現在の滝壺神社は、小椋神社の奥宮という位置づけになっています。(小栗栖, 1986, pp.325-326)。
(滝壺神社(祭神:闇龗大神)がある場所のおおよその緯度経度は、35.106077,135.853675 です)。
(小椋神社がある場所のおおよその緯度経度は、35.109007,135.875042 です)。
この闇龗大神は、衣川(天神川)の水源である比叡山の山の神だと言えるでしょう。また、衣川(天神川)の中流域にあたる仰木地区も、歴史的に天台宗の影響力がつよい地域でした。さらに、前述の『淡海温故録』の衣川についての文章のなかに、「全角坊」という天台宗の僧侶の名前が出てくることにもあらわれているように、衣川(天神川)の下流にある衣川地区も、天台宗の影響力がつよい地域だったのでしょう。そう考えると、鬼怒伽羅という鬼も、比叡山延暦寺となんらかの関係があったのかもしれません。
番外編
- 権現山の七ツ鬼神
- 皇城表鬼門 : 赤山禅院
権現山の七ツ鬼神
比良山地(南比良)の権現山の七ツ鬼神
参考: 「七ツ鬼神 : 比良山地の権現山のナナキ谷の地主神であった鬼」(「青き鬼の霊木と、比叡山の水神たる酒天童子」)
峯権現のお社の地図上の位置
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(おおよその緯度経度 : 35.192156,135.874912)
(南比良(比良山地の南部))
峯権現のお社の地図上の位置
(水分神社(里宮)(滋賀県大津市栗原)の奥宮のお社)
(権現山の山頂にほどちかい尾根道のかたわら)
(おおよその緯度経度 : 35.192156,135.874912)
(南比良(比良山地の南部))
皇城表鬼門 : 赤山禅院
参考: 麒麟無極と邪見極大の謎: 香取本『大江山絵詞』に記された酒天童子(酒呑童子)の側近たち
鬼殺しの父 源満仲ゆかりの地 仰木
比叡山延暦寺の北東のふもとには、仰木地区があります。
仰木地区は、かつて、平安時代中期の武将である源満仲(多田満仲(ただのまんぢゅう))の領地であったという伝承がある場所です。
源満仲は、鬼の王である酒呑童子を退治した源頼光の父親です。
仰木地区にある小椋神社の例祭では、源満仲にまつわる行事がおこなわれています。そのほかにも、仰木地区には、源満仲にゆかりのある名所旧跡が複数あります。
ちなみに、源満仲にまつわる伝説のひとつとして、現在の兵庫県川西市多田院にある多田神社(多田院)の地にあった沼に住んでいた九頭龍(九頭竜)を源満仲が弓矢で射殺したという伝説が残されています。
下記は、『川西の歴史散歩』に掲載されている、源満仲の九頭龍伝説についての記述です。
九頭龍
一千年あまり前のこと、源満仲が住吉神社にこもって祈りをつづけていましたが、満願の日「北に向って矢を射よ、その矢のおちる所を居城とせよ」という住吉明神のお告げがありました。満仲はお告げのとおり住吉神社から白羽の鏑矢を北西に向って放ちました。
家来を引きつれた満仲は、放った矢を追いながら市内萩原の山を越え、鼓ヶ滝付近まで来たとき、白髪の老人に教えられて矢の落ちた場所を知ることができました。
古くからこの付近の平ヶ沼に九つの頭をもった二匹の大蛇が住んでいました。満仲が射た矢は一匹の大蛇の目をつらぬいたので、池の水を真赤に染めて死んでいました。この大蛇は、今も東多田の地に「九頭大明神」として祭られ崇拝されています。
桧皮葺きのこの社は覆屋内にあって、ひのき・すぎ・さかき・もみじなどの古木の中に南に面して建てられており、安政三年(一八五六)に奉納された扇形の手洗い鉢が残っています。
他の一匹は下流に逃げて小戸付近で死んだと伝えられ、それを祭った祠が小戸神社境内にあります。この大蛇の骨と伝えられるものが頭痛や歯痛などに効能があるといわれ、西光寺(池田市)に保存されています。
一千年ばかり前に、この地に移り住んだ満仲は、家来やここに住む人たちに命じて耕作地をつくりました。農耕に欠かせない水を確保し、それを利用したことは勿論です。「九つの頭をもった大蛇」は九つの池をあらわし、二匹の大蛇にたとえられたのは、広い範囲に多くの池があったことを物語り、満仲がこれらを統治したのが説話のおこりでしょう。[ところ]九頭大明神の社は、能勢電鉄鼓滝駅前を約三百メートル東へ進み、住宅地へ入る三差路を左に折れた所にあります。
(山田裕久「九頭龍」, 「説話」, 『川西の歴史散歩』) [40]
おわりに
ここまで、比叡山延暦寺のなかの、鬼にまつわる伝承が残されている名所旧跡や、それに関連する場所を紹介してきました。もし、興味があれば、あなたもぜひ、これらの鬼スポットに足をはこんでみてください。そして、これらの「鬼魔所」で鬼との出会いを楽しんでみていただければとおもいます。
引用文献・参考文献
- 赤坂憲雄 (2002) 『境界の発生 (講談社学術文庫)』, 講談社.
- 朝日新聞社 [編] (1985) 『散歩みち 2 (朝日カルチャーVブックス)』, 大阪書籍.
- 網野善彦 (1993) 『異形の王権』, 平凡社.
- 池上洵一 (2008) 『池上洵一著作集 第3巻:今昔・三国伝記の世界』, 和泉書院.
- 池田昭 (1963) 「鬼の子孫の一解釈 : 宗教社会学的考察」, 日本仏教研究会, 『日本仏教』, 17.
- 梅原猛 (2001) 『京都発見 3 (洛北の夢)』, 新潮社.
- 叡山学院学友会記念図書出版会 [編] (1940) 『皇紀二千六百年 本院創立五十週年 記念 : 歴史と伝説の坂本』, 叡山学院学友会記念図書出版会.
- 延暦寺執行局 [編] (1974) 『比叡山』, 比叡山延暦寺.
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- 『山門堂社由緒記』, 天台宗典刊行会 [編], (1974), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房.
- 『山門名所旧跡記』, 天台宗典刊行会 [編], (1974), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房.
- 『天狗草紙』, 小松茂美 [編], (1993), 『続日本の絵巻 26 (土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞)』, 中央公論社.
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- 『日吉山王権現知新記』, 天台宗典刊行会 [編], (1973), 『天台宗全書 第12巻 (日吉山王権現知新記外12部)』, 第一書房.
- 『日吉山王権現知新記』, 神道大系編纂会 [編], (1983), 『神道大系 神社編 29 : 日吉』, 神道大系編纂会.
- 『日吉社神道秘密記』, 塙保己一 [編], 続群書類従完成会 [校正], (1959), 『群書類従 第2輯 : 神祇 (訂正3版)』, 続群書類従完成会.
- 『日吉社神道秘密記』, 神道大系編纂会 [編], (1983), 『神道大系 神社編 29 : 日吉』, 神道大系編纂会.
参考ウェブサイト
上記にあげさせていただいた本や論文以外にも、これまでにたくさんのウェブサイトの情報を拝見させていただき、参考にさせていただきました。それらのウェブサイトのなかでも、とくに、下記の3つのウェブサイトからは、比叡山延暦寺にまつわることについて、ほんとうにたくさんのことを学ばせていただきました。(そして、いまもひきつづき、たくさんのことを学ばせていただいています)。これらのウェブサイトから教えていただいた情報がなければ、本稿を書くことはできなかっただろうとおもいます。ですので、ここで感謝を申し上げたいとおもいます。ありがとうございました。
- 「TAKECHAN(タケちゃん)の比叡山系を歩く」のウェブサイト全体。
( https://hieisankei.net/ ) - 「かげまるくん行状集記」の「本朝寺塔記」のウェブサイト内の、「第二回 比叡山延暦寺東塔の旅」と、「第五回 比叡山延暦寺西塔の堂坊」の、それぞれのページに属する各ページ。
( http://www.kagemarukun.fromc.jp/page002.html ) - 「京都寺社案内(京都風光) "Kyotofukoh"」のウェブサイト内の、「京都寺社案内 地域別」のページ内の「大津市」の「寺院」の項目に属する各ページ。
( https://kyotofukoh.jp/sitemap2.html )
画像の出典
本稿に掲載している下記の画像は、国立国会図書館デジタルコレクションのウェブサイトで取得した画像です。(すべて著作権保護期間を満了しています)。
- 夜叉天(「諸天部」, 『仏像図彙 三』):https://dl.ndl.go.jp/pid/3442143/1/23, 国立国会図書館デジタルコレクション.
- 金剛夜叉明王(『諸尊図像鈔 8』):https://dl.ndl.go.jp/pid/2574862/1/26, 国立国会図書館デジタルコレクション.
- 『元三大師御籖絵鈔 増補』:https://dl.ndl.go.jp/pid/760123/1/2, 国立国会図書館デジタルコレクション.
- 《羅刹女》, (『新纂仏像図鑑 天之巻』):https://dl.ndl.go.jp/pid/1189759/1/105, 国立国会図書館デジタルコレクション.
本稿に掲載している下記の画像は、ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)のウェブサイトで取得した画像です。ColBaseの利用規約に従って使用しています。(加工・編集して使用しています)。
- 餓鬼草紙(東京国立博物館 所蔵):https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10476, ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム).
- 沙門地獄草紙(沸屎地獄)(奈良国立博物館 所蔵):https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1357-0, ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム).
- 十二天像 羅刹天(奈良国立博物館 所蔵):https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/512-4, ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム).
- 普賢十羅刹女像(奈良国立博物館 所蔵):https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/824-0, ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム).
本稿に掲載している下記の一連の画像は、倉田幸暢が Midjourney や Stable Diffusion などをつかって作成した画像です。
- 《霊木を守護する二人の青鬼》
- 《鬼王の首の鬼瓦》
- 《捷疾の鬼 : 夜叉》
- 《ひえのやまの古き神 : 一眼一足》
- 《狩籠岡に籠められし魑魅魍魎》
- 《鬼憩う 川辺の岩の 盤坂》
- 《八瀬童子の始祖たる冥府の二鬼と鬼腰掛岩》
- 《八瀬鬼ヶ洞の酒呑童子》
- 《角大師の呪符》
- 《飢餓坂をゆく行者と餓鬼》
- 《餓鬼坂で祷る行者と餓鬼》
- 《艮岳の鬼門柱》
- 《玉泉坊の青鬼》
- 《女神がつどう十羅刹女尾》
- 《地獄に蓋する地獄石》
- 《衣川のヌシ : 鬼怒伽羅》
- 《麒麟無極と、酒呑童子の霊木と、邪見極大》
- 《権現山の七ツ鬼神》
- 《源満仲の九頭龍伝説》
- 《龍の比叡山》
- 《天狗の比叡山》
地図画像の出典
地図1、地図2、地図3、地図4、地図5は、国土地理院「地理院地図」の、地理院タイル「全国最新写真(シームレス)」の画像を、加工・編集して使用しています。(地図1 : ズームレベル18, 地図2 : ズームレベル18, 地図3 : ズームレベル18, 地図4 : ズームレベル16, 地図5 : ズームレベル17)。地理院タイル一覧ページ: https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html .
シリーズ続編予告
「龍の比叡山 : 比叡山めぐり龍紀行」(仮題)
「龍の比叡山 : 比叡山めぐり龍紀行」(仮題)
(鋭意製作中)
「天狗の比叡山 : 比叡山めぐり天狗紀行」(仮題)
「天狗の比叡山 : 比叡山めぐり天狗紀行」(仮題)
(鋭意製作中)
- 参考文献: 福井康順 「伝教大師の遺誡「不打童子」考」 (1979年11月) 『天台学報』(通号 21) , 天台学会, 1-8ページ. [Back ↩][Back ↩]
- 参考文献: 最澄 [著者], 「根本大師臨終遺言」, 比叡山専修院附属叡山学院 [編集], (1927年), 『伝教大師全集 第一』, 比叡山図書刊行所, 299ページ. [Back ↩][Back ↩]
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- 注記: この漢文に付いている振り仮名は、筆者(倉田幸暢)が付けたものです。また、この現代語訳の文章は、筆者(倉田幸暢)が翻訳・意訳したものです。 [Back ↩]
- 出典:慈円 (慈鎮和尚) [歌番号:4800], 「第四冊」, 慈円 (原著), 石川一, 山本一, (2011年), 『拾玉集 下』, 和歌文学大系 ; 59, 明治書院, 121ページ. [Back ↩]
- 引用文のなかの振り仮名の一部を、引用者が変更しました。 [Back ↩]
- 出典: 土佐秀信 [画] (1900年) 「諸天部」〔コマ番号:23〕, 『仏像図彙 三』, 武田伝右衛門. [Back ↩]
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- この引用文のなかの、〔〕(亀甲括弧)内の言葉は、引用者による注記です。 [Back ↩]
- 出典: 中澤克昭 (2007年) 「(2) 生かされる樹木と殺される樹木」, 「四 樹木の生命 : あるいは暴力と景観」, 「中世寺院の暴力」, 小野正敏 [編集], 五味文彦 [編集], 萩原三雄 [編集], 『中世寺院暴力と景観 (考古学と中世史研究 ; 4)』, 高志書院, 183-184ページ. [Back ↩]
- 出典: 延暦寺執行局 [編集] (1974年) 「一 比叡山への路」, 「後編」, 『比叡山』, 比叡山延暦寺, 165-166ページ. [Back ↩]
- 出典: (1891年) 〔元三大師と角大師の護符〕〔コマ番号:2〕, 『元三大師御籖絵鈔 増補』, 東崖堂. [Back ↩]
- 出典: 渡辺守順 [編著] (1974年) 「角大師」, 「信仰伝説」, 『近江の伝説』, 第一法規出版, 182-183ページ. [Back ↩]
- 出典: 大津市歴史博物館 (大津市教育委員会博物館建設室) [企画編集] (1991年) 「角大師と豆大師」, 「坂本」, 『大津の伝説 (ふるさと大津歴史文庫 5)』, 大津市, 57ページ. [Back ↩]
- 出典: 『天狗草紙』延暦寺巻, 小松茂美 [編集], (1993年), 『続日本の絵巻 26 (土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞)』, 中央公論社, 117ページ. [Back ↩]
- 出典: 「修禅峯通」, 「西塔分」, 『山門名所旧跡記』巻一, 天台宗典刊行会 [編集], (1974年), 『天台宗全書 第24巻』, 第一書房, 229ページ. [Back ↩]
- 出典: 『餓鬼草紙』(東京国立博物館 所蔵), ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム). [Back ↩][Back ↩]
- 出典: 竹村俊則 (1989年) 「相輪橖」, 「西塔」, 「比叡山・延暦寺」, 『昭和京都名所図会 3 (洛北)』, 駸々堂出版, 166ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「一 めに見えぬ鬼神をもと云う事」, 「(1) 伝尊円『古今序注』」, 今野達, 「語園漫考(二) : ねんねん唄由来・浦島二則・玉泉坊の鬼」, 横浜国立大学国語・日本語教育学会 [編集], (1987年), 『横浜国大国語研究 第05号』, 横浜国立大学国語国文学会, 67ページ2段目~68ページ1段目. [Back ↩]
- 出典: 硲慈弘 (1928年) 「玉泉房の怪事」, 『伝説の比叡山』, 近江屋書店, 23-24ページ. [Back ↩]
- 出典: 『沙門地獄草紙(沸屎地獄)』(奈良国立博物館 所蔵), ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム). [Back ↩]
- 出典: 源信 [著者], 石田瑞麿 [翻訳] 「阿鼻地獄」, 『往生要集』, (1963年), 『往生要集1 : 日本浄土教の夜明け (東洋文庫)』, 平凡社, 30ページ. [Back ↩]
- 出典: 国訳秘密儀軌編纂局 [編集] (1930年) 「羅刹女」〔コマ番号:105〕, 『新纂仏像図鑑 天之巻』, 仏教珍籍刊行会. [Back ↩]
- 出典: 《十二天像 羅刹天》(奈良国立博物館 所蔵), ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム). [Back ↩]
- 出典: 《普賢十羅刹女像》(奈良国立博物館 所蔵), ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム). [Back ↩]
- 注記: この漢文に付いている振り仮名は、筆者(倉田幸暢)が付けたものです。 [Back ↩]
- 出典: 渡辺守順 [編著] (1974年) 「地獄石」, 「石の伝説」, 『近江の伝説』, 第一法規出版, 83ページ. [Back ↩]
- 出典: 叡山学院学友会記念図書出版会 [編集] (1940年) 「(13) 日吉神社の地獄石」, 「第五章 坂本の古蹟と伝説」, 『皇紀二千六百年 本院創立五十週年 記念 : 歴史と伝説の坂本』, 叡山学院学友会記念図書出版会, 315ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 『淡海温故録』巻之四, (1976年), 『近江史料シリーズ 2 本編 : 淡海温故録(稽古蔵本)』, 滋賀県地方史研究家連絡会, 92-93ページ. [Back ↩]
- 参考文献: 「衣川の地名由来」, 「伝承」, 小栗栖健治・小島成元 [著者], 立川洋 [著者], 「民俗(祭礼・行事、伝承)」, 「堅田」, 林屋辰三郎 [編集], 飛鳥井雅道 [編集], 森谷尅久 [編集], (1984年), 『新修大津市史 第7巻 (北部地域)』, 大津市, 264-265ページ. [Back ↩]
- 注記:《麒麟無極と、酒呑童子の霊木と、邪見極大》の画像は、2023年に倉田幸暢がMidjourneyなどをつかって作成した画像です。 [Back ↩]
- この写真は、2019年4月に筆者が撮影した写真です。 [Back ↩]
- 出典: 山田裕久 [執筆 / 編集] (1985年) 「九頭龍」, 「説話」, 『川西の歴史散歩』, 川西書店協同組合, 137~138ページ. [Back ↩]